2010/08/14 - 2010/08/20
1851位(同エリア6981件中)
きっちーさん
準備中
おおよそ『宗教』と名のつくものに、アタマから懐疑的な性分ですが、世界には何かしらの信仰をもっている人がたくさんいます。
多様性が重要なら、彼/彼女の思想・信条・良心の一部を成す、宗教観も尊重すべき。
とはいうものの、どーしても理解できないのが宗教という、やっかいなピラミッド――――
-
今日も朝からクロワッサンがうまい♪
宿泊中の『インペロホテル(Impero Hotel)』のスウィートな朝ゴハンを、手堅く頂きます。
イヤ、ほんと甘いのが多いんですよ。
文字通り、スウィーツな朝食!
チェックイン時に「朝食会場は7時から開いている」と案内されましたが、せっかちなので(笑)。
10分前くらいに来て、もぐもぐ口に入れています。
ほかの宿泊客で混むころには、消えているのだ。
だって今日は、ヴァチカン博物館へ行くだもん♪
さーて!
今日も歩き倒しまっせ☆ -
この旅行記を開いて、「アレ?変だな・・」と思った方、正しいっ。
えーと、あの、その・・。
写真が、300枚以上貼ってあります。
パソコン動作が、重いです。
あらかじめお断りしておきます。
「ご迷惑をおかけしております〜」
編集する、オイラのパソもMAXです。
ガンバレ!パソコン!! -
じゃあ、お断りを入れたトコで、早速その原因となった場所へ参りましょうか。
いざ!
ヴァチカン市国!! -
最寄りの地下鉄レプッブリカ駅から、ヴァチカンそばのオッタヴィアーノ駅で下車。
いかにもな観光客の皆さんにくっ付いて行くと・・・。
出ました。
ヴァチカン。
ミュージアムの入口はひとつですが、なぜか入口を挟んで左右に別の列が伸びています。
「ど、どっちに並べばいいの??」
8:30の入場予約/決済済みのバウチャーを持っているのですが、「一応、並んだ方がいいかも知れない」と思い、列を見くらべます。
入口に向って右手は、あきらかに団体ツアーの人たちで、左手に並ぶのは個人観光客・・。
左手の列につきましたが、やっぱり心配なので(笑)、行き来しているIDをぶらさげた男性に、「アイハブ、バウチャー。ウェアリズ、ウェイ?」と支離滅裂な質問を致します。
「あっちですよ」
なぜか通じて、グループツアーがならぶ列の方を指さされます。
「グラッツェ」
間違えてた。
あっちらしいぞ。 -
よく見ると、団体さんの方の列には看板が出ており、『Reservation』って書いてありましたー。
よく読めよ、オレ。
正しい列に並んだので、ホッとひと息ついているとアジア系のお姉さんが、ウロウロ行ったり来たりしています。
どうやら、先ほどまでのオイラと同じ状況のもよう。
ワタクシは、根性がないのでさっさと係員さんをつかまえましたが、彼女は入口で立っている、警備員さんに尋ねようとしているみたい・・・。
ところが先客がおりまして。
警備員さんは欧米系のおばさん達に囲まれており、その輪に割って入ることが出来ずに困っています。
彼女は、しばらく待っていましたが、やがて諦めてこちらの方へ歩いてきます。
「あの〜!」
声をかけると不思議そうにこちらを見るので、どうやら日本語圏の方ではナイな。
手招きして、「ドゥユーハブ、ア、バウチャー?」
尋ねますが、なんか通じてない(汗)。
「これこれ」
現物を見せると、彼女もおなじバウチャーを持っていました。
「ディス、ウェイ。ディス、ウェイ」
もはやジェスチャーです。
「ディス、ライン?」
あ、英語だ。
彼女が手にしているパスポートは、香港のもの。
香港の人かー。
じゃあ、英語はオイラのなんかより、よほど本場だ。
どうやら了解して頂けたようで、お礼を言って彼女は列の後ろの方へ歩いて行きます。
「一日一善!」
悦に入っていると、とんでもないコトが起こります。 -
予約の8:30が近づくと、ふたつの列とは別に、第3の列が出来上がったのです!
団体さんたちはその場を動きませんが、個人旅行で入場予約時間が近いと思われる人たちが、次々と右手の列を離脱して、真ん中の3列目に合流していきます。
ボルゲーゼ美術館のように、係りの人が「●●時の予約の方は、並んでくださーい」と正規に呼びかけたものではなく、「そろそろ時間なのに・・」と不安になった人たちが、勝手に入り口に詰めかけ、自然発生的に出来上がった行列。
ワ、ワタクシも〜っ!
さり気なく並んでいた列からパースリへ移動しますが、先ほどの香港お姉さんが気になります。
彼女の入場時間が何時だったのか確認しませんでしたが、団体客の混ざった行列はさらに膨らんでいますし、後ろの方へ行っちゃっていたら、この新たな状況が見えません。
しばらく後方に彼女の姿を探しましたが、見つけられませんでした。
「かえって余計なことしちゃったなあ〜・・」
中途半端な親切で申し訳ない。
ダメ人間です。 -
ついにオープンしたらしく、3列目が動き始めます。
入り口を固める係員さんにバウチャーを示し、QRコードを読み取ってもらい、セキュリティーチェックが終われば、あっという間に館内です。
ヴァチカン博物館へは2度目ですが、相変わらずの壮麗さに目眩がします。
朝イチなうえ、つめかけた観光客の入場に手間取り、館内はまだガラガラ。
ほとんどの人が奥へ奥へと進み、スルーしてしまいそうな通路の左右には、古代彫刻がこれでもかと並んでいます。 -
うーん。
解説もなーんも出ていないけど、スゴイ。 -
こんな廊下で立ち止まっているのは、オイラぐらいのようで。
あとから来た人たちは、次々と奥へ進んでいってしまいます。 -
無造作にひと括りで置いてあるから、だれも気に留めないようですが、単品展示にして間接照明当てようものなら、かるく展示会になりそうなほど、状態の悪くない彫刻です。
ヴァチカンには、なんでも修復専門のチームがあるそうですが。
こういった彫刻も、修復師による成果なんでしょうか。
瑕とか全然ないもんな〜。 -
「もったいねえな。けっこう観れるものが多いのに・・」
時間がなくて、とりあえず有名作品だけ押さえようって人もいるだろうし。
彫刻や絵画よりも、建築に興味を持っている人もいるかも知れないし・・。
そこは好き好きなので、行っちゃうのもしょうがないですけど。
なんか取り残されてるワタクシがさびしいじゃん(笑)。 -
あっちこっちで立ち止まるのが、クセみたいなもんだしネ。
←こーゆう、細かいところが好きです(笑)。 -
ホントいうと、もっとねちっこく何枚も撮ってきたんですが、さすがに恥ずかしいので、アップせずに削ってあります。
これでも! -
中国は洛陽で観た《アドニス》像(http://4travel.jp/traveler/need/album/10415565/)のような、一度観たら頭に染みつくような作品に出会いたいものです。
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残念ながら、強く入れ込めるような手仕事は見当たりませんが、気のせいでしょうか。
バッカス(ディオニュソス)が、やたら多くない?? -
ギリシア神話は楽しみ程度でしか読んでいないから、似たように表現される神像があったら、見分けがつきませんが・・。
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しまいにはバッカスばかりを集めたエリアまでありました。
-
これって、歴代教皇のなかにバッカス好きがいたとか???
ワインを「キリストの血」にたとえる宗教ですから、ワインの神であるバッカスに抵抗が薄かったんでしょうか。
どうもつまらない事ばかりに気がいってしまいますが〜。
せっかく世界宗教の総本山へ来ているんですから。
「そもそも『キリスト教』って何?」ってトコから、思い切ってわき道へそれてみます!←正道を行きなしゃい -
イエス・キリスト。
語呂がいいので、まんまフルネームのように思えてしまいますが、正確には教祖サンの名前は、『イエス』のみ。
マリア・キリストさんとヨセフ・キリストさんの息子さん、ではありません。
『キリスト』はファミリーネームでもなんでもなくて、「油を注がれた者」というヘブライ語『メシア』の、ギリシア語訳。
これは、ダヴィデ王朝即位式での頭に油を注ぐ(塗る)儀式に由来します。
メシアは、よく知られる『救世主』が語源ではなく、祭司やダヴィデ王朝に連なる「神に選ばれた、ユダヤの王」という意味を持ちます。
『マタイによる福音書』では、イエスの父ヨセフの家系(処女懐胎だと正確には赤の他人ですが!)は、ダヴィデ王まで遡ります。
ユダヤ教のこうした実在的な王を想起させるメシア像からは対極な、罪人として刑場の露と消えたイエスを、「救世主、いやさ神である」としたキリスト教が、どのような経緯で派生したのでしょうか? -
イエスの生まれは紀元前4年ごろ、パレスチナのナザレ出身。
彼自身はユダヤ教徒でした。
この時点では、キリスト教確立の前段階。
つまりイエスたんがご存命しておった当時、キリスト教は存在しておりませんので、イエスが口にする神の概念は、あくまでユダヤ教の神であったり、ユダヤ教の教えの枠内で語られているのです。
新約聖書におさめられた福音書を読めば、なんとなくイエスはスタート時からキリスト教集団の立ち上げるために、死ぬまで(死んでも?)頑張っていたような錯覚を覚えますが。
時代背景を考慮すれば、イエスの半生はキリスト教の布教活動ではなく、ユダヤ教の宗教的社会運動として位置付けるのが正しいと思います。
ちなみに、イエスの誕生日(西暦紀元)が定められたのは、4世紀半ば。
イエスの死後、3世紀以上経ってからです。
イエスの誕生日とされる12月25日は、ローマ帝国で信仰をあつめた太陽神ミトラスの誕生日(冬至)を祝う、ナタリス・インウィクティ祭典がルーツ。
福音書では語られない、制定以前のイエスの誕生は、5月や1月とも伝えられています。 -
『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』の4つの福音書。
なかでも、最も古い『マルコによる福音書』(6 1-6)によると、ユダヤ教の教師として活動をスタートさせたイエスの前身は、大工さんでした。
どのような経緯があったのか。
福音書では、イエスが活動を始めた動機については、明らかにされません。
しかしイエスは洗礼を受けたのち、弟子を集め、やがてヘブライ聖書(旧約聖書)の《ダニエル書》が示唆する、『人の子』という神から遣わされた審判者によって、まもなく地上からの悪の追放が始まるという、黙示的な律法解釈を説き始めるのです。
イエスはユダヤ教義をよく学んでいたようで、福音書の問答を読むと、律法に基づき機転を利かせた、小気味良い切り返しが目立ちます。
まったくイチからのスタートだったとは考えにくく、ヨルダン川で洗礼を授けていたバプテスマのヨハネからの思想的影響を指摘している本もありました。
ようするに、分家みたいな? -
福音書をざっと斜め読みしても、イエスさん本人が「自分は神デス」と、カルトっぽい主張している箇所は見当たらず。(『ヨハネによる福音書』をのぞく)
新約聖書から垣間見える彼のやり方は、現場主義ってゆーか。
自分を中心に据えた新たな宗教の立ち上げが目的ではなし、かといって荒野で浮世離れな修行を積む、ついて行ける人が少なそうなヨハネさん的方法論でもない。
もっと世俗に寄り添った、ユダヤ教の教義に立脚した社会福祉の実践にトライしているように見えます。
地道な医療活動や、社会的弱者への積極的なコミットを通じて、当時の宗教指導者がおろそかにしていた、ユダヤ教義に内在する人道主義の実現を目指している。
そんな好感触な姿が印象に残ります。 -
最近まで知らなかったんですが、新約聖書の原書はギリシア語表記だったんですね。
旧約聖書=ユダヤ経典=ヘブライ語、これはなんとなく分かっていましたが・・。
あ、そう。
ラテン語とかじゃなくて?
ギリシア語?
むかしのヨーロッパ国際共通語はラテン語、などと思い込みがありましたが、どっこい。
ギリシア語の守備範囲はスゴイんですよ。
新約聖書がギリシア語で書かれたことが、ある意味キリスト教の発展に寄与したともいえるのですが・・・。
まあ、順を追っていきましょう。 -
じゃあ、イエスの言語は何だったんだろう?
ギリシア語で書かれているという、聖書の原典はどこにあって、いつごろ記された書物なんでしょう?
知っているようで知らない、こまごまとした疑問。
ネットで手軽に調べられる範囲は、やはり非常に狭いので、『ミケ×プロ』じゃないですけど、ふたたび本屋に入り浸りまする(笑)。
いや、ホント。
宗教コーナーって、あんま立ち読みとかも、したくないというか・・。
ヘンに長居すると、「貴方のために祈らせてクダサイ」的な、勧誘する人が背後に立っちゃいそうな?
ソレ的な恐怖感があって、ぶっちゃけ近づきたくないんですけど。 -
ただ、ちゃんと調べたいなら読書に勝るものナシ!
そんなわけで、キリスト教エリアを物色~。
くそ忙しい時間をやり繰りして読むのですから、きびし~い基準がございます☆
①学問とみせかけて、じつは熱烈宗教勧誘する本は、×。
②逆にバッシング目的の、ワイドショー的スキャンダラスな憶測本も、ノーサンキュー。
③できれば宗教権威に目を眩ませず、実証主義的な研究書。なおかつ、初心者でも目を通しやすい書籍?
④大好きな大月書店や吉川弘文館、岩波書店のように、わりと信頼できる版元が手がけているような・・・
そんな本、あんのか? -
ありました。
ま、書名は参考文献を最後にくっつけましたのでチェック頂くとして。
前述の疑問に、フォーカスしていきヤス!
まずはじめに、『イエスは何語を話していたの?』という、先ほどの疑問の答え。 -
新約聖書がギリシア語だからって、ギリシア語をしゃべっていたワケではないです。ハイ。
イエスと彼の直接の弟子たちは、今日までの研究でセム語系言語の西方アラム語を、ネイティヴ・ランゲージ(母語)にしていたと考えられています。
アラム語なんていわれても、完全にピンときませんが。
残念ながら、もうほとんどしゃべれる共同体が無くなりかけているようです。
シリアのわずかな地域で現代的な言葉に変化して使われているだけで、当時のままの言語は、使われなくなっているとか。
さて、アラム語で話していたイエスの半生が、いかにしてギリシア語で執筆され、『聖書』として成立したのでしょう?
新約聖書に収められているのは、27の文書。
それぞれの文書の原本がギリシア語執筆されたのは、およそ紀元1〜2世紀前半と考えられています。
『教会が定める正典(=新約聖書)』として、現在までに至る27文書が確定するのは、イエスたんの誕生日と同じく時間がかかっておりまして。
4世紀半ばあたりから。 -
紀元後30年頃と推定されているイエス十字架事件以降、ネロ帝(在位54年 - 68年)のキリスト教徒迫害や、帝政ローマ期66年〜73年までのローマ帝国vsローマのユダヤ属州ユダヤ人との『ユダヤ戦争』などによって、それまでユダヤ教の一部であった『初期キリスト教(ユダヤ教ナザレ派)』は、徐々にユダヤ教から分裂します。
草の根的なキリスト教が、広がりを見せると同時に、当初信者のあいだで使用されていたユダヤ教正典とは別に、次々とキリスト教独自の文書が生み出されていきます。
しかしながら、ローマ帝国内のキリスト教は容認されず、教徒は引き続き弾圧の対象にされていました。
転機となったのは、313年。
ミラノ勅令よってローマ帝国内の、キリスト教を含む全宗教が公認されます。
洗礼の時期は定かでないものの、キリスト教に改宗したローマ帝国コンスタンティヌス帝は、325年キリスト教諸宗派をまとめあげるため音頭をとり、帝国全土の司教に召集をかけたニカイア会議を開催します。
この議場で、のちに新約聖書となる21の文書群と、ニカイア信条(信経)が採択されます。
そして367年春、アレクサンドリア司教アタナシウスの、復活祭書簡で通達された文書目録によって、新約聖書へ収録される27文書が決定します。
こうして、紀元後30年頃と推定されているイエス十字架事件以降、じつに300年ちかく経過してから『新約聖書』は完成しました。 -
簡単に、新約聖書の「原本」と書いてきましたが、現時点ではオリジナルは見つかっておらず。
残されているのは、すべて書き写された「写本」です。
現在の新約聖書の文書ほぼすべてが収められた、最古の写本。
もっとも有名な2冊は、《コデックス・ヴァチカヌス》と《コデックス・シナイティキュス》です。
コデックスは、『綴じ本』の意。
その前段でメジャーだった、巻物形式の書物と区別した呼称だそう。
写本の名前に、「もしや・・」と思われた方もいらっしゃるかと。
そう!
ヴァチカン図書館で発見されたから、《ヴァチカヌス》なんだそう。
見てもわかんないだろーけど、見てみたいなあ〜。
ちなみに、《シナイティキュス》は大英博物館にごじゃりまする☆
成立後の聖書にはない、『バルナバの手紙』ヘルマスの『牧者』が収録されてるでおじゃる。
↑
どげな文書か、さっぱり分かりませんが!
ワタクシが初めて聖書に触れたのは、実家の本棚。
旧約も新約も、クリスチャンでもない家に、なんであるんだか分からない状態で、常日頃読まれもせずに放置プレイされております。
たぶん今も?
べつに信仰者じゃなくても、読み物としての新約聖書に目を通された方は、たぶん同じ感想をもたれるような気がします。
ズバリ!
福音書って、同じ話が重複記載されてくない?? -
「何これ、さっきと中身おなしじゃん?」
初めて、新約聖書に目を通したときの感想です。
新約聖書の前半、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書は、どれもイエスの伝記形式の物語。
書き手は違えども、「イエスの生涯」。
若干の差異はあれど、同じエピソードがくり返されているように思えます。
「4話を1本化したら、新約聖書ってうすっぺら〜い本になっちゃうだろーなァ・・」と、よけいな方向へいって、お終い。
そのときは「分厚くみせても、なかみは同じ。なんだそんなもんか」くらいに、深く考えませんでした。
ところが!
正典ならば一貫していてもよさそうな、神や、イエスの教え、生誕死亡までが矛盾し、誤記載まである。
代表的な箇所をあげてみましょう。
*宗教画モティーフで人気な処女懐胎や、イエス誕生がベツレヘムだったと書かれているのは、『マタイ』と『ルカ』のみ。(『マルコ』と『ヨハネ』は無し)
*赤ん坊イエスを拝みに来たのは?(『マタイ』では賢者、『ルカ』は羊飼い)
*イエスと父ヨセフ、どちらが大工?(『マルコ』では大工、『マタイ』は大工の息子)
*処女懐妊でイエスの父親が精霊(もしくは神)ならば、血縁関係のないヨセフの系図が『マタイ』と『ルカ』に長々と記載されている理由は?(イエスの血縁者は母親マリアですが、彼女の家系記載はなし)
*父ヨセフと遺伝上無関係なイエスに対して、アブラハムやダヴィデにつらなる華々しい血統は、『マルコ』で具体的にあげられている、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンのおよびナザレに住む姉妹、といったイエスの兄弟姉妹のものとなる(『マタイ』ではヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダと姉妹になっている)
*イエスに洗礼を与えたのは誰か?(『マルコ』『マタイ』では洗礼者ヨハネ、『ルカ』ではイエスの洗礼前にヨハネは投獄されており不在、『ヨハネ』では洗礼場面なし)
*エルサレム入り時、イエスが乗ったロバは何頭?(『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』は1頭だが、『マタイ』は2頭に跨る)
*最後の晩餐、イエス記憶再生障害発生か!(『ヨハネ』では晩餐の席、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」13章36節と尋ね、つづいてトマスも14章5節「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と再度イエスに尋ねたにもかかわらず、「あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」と弟子たちにキレる16章5節)
*イエスのいまわの際のせりふ。(『マルコ』『マタイ』:「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、『ルカ』:「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、『ヨハネ』:「成し遂げられた」)
*『マルコ』と『ヨハネ』では、イエスの死亡日時が異なる。(『マルコ』は過越祭当日、午前9時。『ヨハネ』は過越祭準備の日、正午)
*イエスの死後3日目に、女性たちが墓所で遭遇した者は?(『マルコ』は若い男、『ルカ』は2人の男、『マタイ』は1人の天使)
*『エレミア書』と『ゼカリア書』の、引用まちがい。(『マタイ』はユダの死について、27章9−10「預言者エレミアを通して言われたことが実現した」と指摘した預言は、『エレミア書』にはなく『ゼカリア書』11章13節)
福音書だけに、とどまりません。
新約聖書の《パウロの書簡》には、少なくとも3つの偽造書簡が含まれるとされます。
矛盾する正典―――。
そこにこそ、神学論争の原点があります。
各文書がどのように対立しているのかは後述するとして。
まずは、イエスの生涯が書かれた福音書についていってみましょう☆
白熱コーギー?? -
ヨハネ福音書をのぞく3つの福音書は、とくに全体的な内容が類似しています。
そのため、3つの福音書を平行対照させた18世紀末の書籍タイトルにちなみ、『共観福音書』と呼ばれます。
細かい部分は、のちほど参考文献を挙げますので端折りますが、『共観福音書』の比較研究によって、以下のようなコトがわかってきておりマス。
①共観福音書のうち、1番古いのはマルコ福音書
②マタイとルカは、両者ともにマルコ福音書を参考にしているが、マタイとルカは互いを知らずに執筆している
③マルコ福音書には無い「イエスの言葉」が、マタイとルカで異なった文脈の中で共通して登場する
④このことから、マタイとルカの福音書執筆時には、手本とされたマルコ福音書のほかに、『Q資料』(ドイツ語の「資料=Quelle」の頭文字)と呼ばれる、イエスの言語集が存在した可能性が指摘されている
19世紀の共観福音書テキスト研究によって、存在した可能性が大きいと考えられている、仮説上の文書『Q資料』ですが、現在のところオリジナルも写本も発見されていません。
イエスの言語集として、1冊にまとめられていたのか、それとも断片的なバラバラなものであったのか、研究者によって意見が異なるようです。
マルコ福音書とイエス言語集によって、マタイとルカの福音書が書かれたとする研究を、『二資料説』と呼ぶそう。
もし『Q資料』が発見されたらスゴイですね! -
聖書成立に関する研究があるなんて、まったく知りませんでしたが、読みだすと聖書以上にハマります(笑)。
新約聖書に収められた27のテキストは、あらかじめひとつの本になることを意図して書かれてはいませんので、それぞれの著者の時代背景も異なります。
イエスと直接接触のあった弟子たちや、弟子らの伝道によって感化された人々―――。
いわば「第一世代キリスト教徒」が生きた時代にあっても、「キリスト教徒」という概念はまだなく、彼/彼女らは「ユダヤ教ナザレ派」であり、『新約聖書』という新しい文書集もまた存在していません。
「イエスがこういった、ああいった」という、口承伝承に権威がおかれていたと、考えられています。
面白いことに、キリスト教の母体であるユダヤ教の正典においても、事情はよく似ています。 -
キリスト教側にとっては、ユダヤ教の正典は、イエスによってもたらされた新しい契約以前、つまり神との古い契約(の書)=『旧約聖書』、という位置づけですが、ユダヤ教側からしてみれば、バリバリ現役契約!
当然、呼び方も異なります。
ユダヤ教の正式な正典名称は、『律法と預言者と諸書』。
最後を端折って『律法と預言者』と呼ばれたりもします。
『律法と預言者』というユダヤ教正典の呼ばれ方は、新約聖書の中でも登場しているのですが、正典タイトルだと知らないと、文脈次第で「預言者のこと?」と言葉通りに誤解してしまいそう。
このユダヤ教の正典『律法と預言者と諸書』に収められた、39の文書が確定したのは、紀元後80~90年代。
『律法と預言者と諸書』の内容はタイトルのまんま、
①律法(トーラー)
②預言者(ネビイーム)
③その他の文書(ケトゥビーム)
上記の3部構成。
①『律法』は古く、少なくとも紀元前4世紀初頭には、ユダヤ教徒の信仰と生活の規範とされていましたし、②『預言者』についても文書は確定済みでした。
問題は③。
『諸書(その他の文書)』に何を含むのか含まないのか。
公式決定はなく、地方や時代によって、まちまちだったのです。
ユダヤ教側の正典確定については、ヤムレアの学者たちによる紀元後80~90年代の、公式決定まで状況は変わりませんでしたので、イエスの十字架事件がおこる紀元後30年前後には、新約どころか旧約聖書にあたるユダヤ教の正典すらも、最終形態に至っていなかったことになります。 -
では、ユダヤ教の正典『律法と預言者と諸書』に収録された39文書が、まんま『旧約聖書』へスライドかといーますと、違うのです!
カトリックでは、旧約聖書は46文書から成り、しかも第1正典と第2正典に分かれ、東方教会にいたっては、いまだ公式文書が未確定という。
おなじキリスト教でも、プロテスタントは、ユダヤ教が定めた「39文書が旧約聖書である」との合意があるのですが・・・。
思っていたより、かなり複雑。
それぞれ立場や思惑で、流動的な様相をみせる聖典。
世界史を下敷きにしたり、相互関係を考えていかないと分からないのが、逆に面白いです。 -
「イエスが生きた時代から、活動の場だったユダヤ属州を超えて、宗主国であるローマ帝国の深部まで食い込んだんだから、おっかねえよなあ・・」
コンニチ目にする新約聖書は、残された古いギリシア語写本の研究成果を、日本語やフランス語やスペイン語や英語などといった、ご当地の言語に翻訳したもの、です。
日本語訳ひとつとっても、たとえば元のテキストにはないニュアンスが加わったり(イエスに対する敬語表現など)、尊敬をこめた善意にせよ必ずしも正確でない表現になっていたりします。
また、同じテキストの翻訳でも、一言一句が同じではありません。
本屋に並ぶ聖書を読みくらべれば、かなりハッキリします。
そうかといって、専門家でもないのに古代ギリシア語で書いてある写本原本を、簡単に読みこなせるわけもないですし。
ややこしいことに、古い写本は『連続書法』(スクリプトゥオ・コンティヌア)と呼ばれる、すべてアルファベットの「大文字」で、単語と単語の区切り・スペースが無い書き方のため、単語をどうまとめるかによって意味がまったく異なります。
古代ギリシア語が理解できる、エライ学者さんのあいだでさえ、訳し方で文脈が180度ちがった結果を生むと知ると、聖書の見方がガラリと変わります。
懐疑主義というのではなくて、神聖視する必要がなくなるというか。 -
よく、宗教上の原典を絶対視する主張・態度をとる人を、「原理主義者」と呼んだりしますが。
キリスト教原理主義を実践するのは、なかなかに骨の折れることのようです。
たとえば、原理主義者が新約聖書の原本に忠実であろうとする場合、ご当地言語に沿わせた翻訳本ではなく、古代ギリシア語で書かれたテキストと、執筆された当時の時代背景も考慮しつつテキストの内容を解せないと、規範となる正典を「一言一句たがわずに尊重する」ことが出来ないコトになります。
また、古くても現存する聖書がすべて「写本」である以上、誰かが原本を書き写しているわけですから、写し間違いや、故意による改ざん、後年の加筆など、ひょっとしたらオリジナルと著しく異なる可能性の余地を残すという、なんとも痛ましい状況に陥るわけです。
ガンバレ、原理主義!
聖書の原本を発見できれば、原理主義に筋が1本通る日が来る!!(かも知れない) -
まあ・・。
そんなつれづれを、ムニャムニャ考えられるのは、時間が経過して落ち着いたからであって、見学の最中はもうただただ夢中です!!
この空恐ろしくなるようなゴージャスな空間は、あきらかに人を威圧すると同時に惹きつけ、そしてシンプルな疑問を想起させずにはおきません。
「喜捨の必要があるのか?」
年末年始や折々の信者さん達の募金活動は、それなりに説得力があります。
困っている人達へ向けられた物資援助、人権運動や、災害支援など・・。
別に信仰に根ざさずとも人道的に共感できる、多くの事柄が草の根で動く信仰者たちのチャリティーには、存在します。
なのに、そんな人達の信仰のトップに立つこの場所に漂う、空虚な喪失感はどうでしょう。
刺青のように、フレスコ画が散りばめられ、黄金で満たされた部屋を次々と歩きながら、
「果たして、これがエルサレムのユダヤ神殿の腐敗を、大批判して亡くなった人物を、『継ぐ者』を自認する末裔の末路?」
そう、質したくなるのは部外者感情からなのか。 -
そもそも、ここは今は聖堂でもなく。
『博物館』なんでしょうし。
しかし、なんのための豪華な建築物なのか。
一部を置き換えると、この場所にピタリと当てはまるスピーチがあります。
(つか、いろいろ使えそう?)
ある神学者さんの学会挨拶。
少し長いですが、引用します。
『私は今日、重い気持ちでワシントンに参りました。
というのも、政府の高官にソドミーを行っている人がいるという確信があるからです。
上下両院にも多くのソドミーを行う人がいます。
大統領顧問団は、ソドミーを行う人で一杯です。
さらに悲しいことに、大統領自身も頻繁にソドミーを実践しているようです。
さて、ここでみなさんに「ソドミー」とは何かを説明したいと思います。
聖書の中でこの罪をもっとも明確に定義しているのは、「創世記」の物語ではなく、預言者エゼキエルの書です。
「お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった」(エゼキエル16・49)。
みなさん、これがソドミーです。
ソドミーとは、社会的不正義であり、寄る辺なき者を冷遇することです』
聖書は露骨に女性差別を表明している!
・・・という反感は、ひとまず置くとして。
同性愛嫌悪問題、経済的正義のあり方、そして聖書解釈の注意点など、含蓄の深い内容を鋭く批判してみせた、痛快なスピーチです。
どうでしょう。
少し単語を変えるだけで、当てはまる気がしませんか? -
信仰対象の神と直接関連性のある、聖堂でもないこれらに、ちまたの庶民から集金したあまたの善意が、必要とされている所へ分配されず、こういったものに結晶しちゃっているのであれば、教義うんぬんの前に決定的なズレを感じます。
宗教の枠組みだと、とかく権力が中央機関やトップに集中しやすいかとは思いますが。
一極に集中しちゃうのは、どう考えても上手くないように思えてきます。
「宗教の発案者というか、発起人の志しがどうであれ、組織化されちゃうと組織都合の解釈がまかり通るのかもね〜・・」
ってな、気分ですが。
では、宗教から切り離した実在のイエスは、どんな人物だったのでしょう? -
教会が解釈/決定するイエスでない―――つまり信仰や教義から切り離した、史実としてのイエスを捉えようとする模索が、19世紀半ばからスタートします。
結論から言うと、現在までの『史的イエス研究』は、イエスの実在は認めるものの、細部における実像解明には至っていません。
新資料の発見があれば面白そうですが、百年以上にわたる史的イエス研究の帰結は、下記の4点。
①当時イエスという、ユダヤ人が存在した
②イエスは、ユダヤ教の社会宗教的運動をおこなった
③その黙示思想は地方において、少なからず影響力をおよぼす
④紀元後30年前後、彼は十字架にかけられ処刑された
なんだか、えらく心細い情報量に戸惑ってしまいますが~。
確実性を上まわる伝承が、あまねく取り巻いている証左とも思えます。
しかし、研究自体は無駄ではなかった。
史的イエス研究によって、歴史批評的方法が前進します。
聖書に集められたテキストを、執筆された当時の歴史的・具体的状況の中に据えて理解しようというアプローチです。
これにより、前述の4つの福音書成立の背景、二次資料説など、実証主義的な研究による成果があらわれます。
信仰がなくても、聖書というテキストを学問的に楽しめる素地ともいえます。 -
ひとつの研究ジャンルとしての、宗教への考察は興味深い。
たとえば宗教的な立場は、必ずしも実社会において、無垢で中立な発話の位置を保証すものではない、と考えられます。
中絶をめぐる議論、「家族」のあり方、女性への言説など。
教団の理想を実現するために、政界に具体的な足場を築こうとする動きが、世界各地で多かれ少なかれ見られます。
宗教権威者から発せられた方向性が、組織化された人々によって支持され、グループ外にも同じ様式を踏襲することを求めるようになれば、立派に政治的主張といえるのではないでしょうか。
写真は、ヴァチカン博物館内の一室で見つけた、天井画です。
とても象徴的に感じたので、思わずため息が出ました。 -
ピントがなかなか合わなくて、見づらくて申し訳ありません〜。
頭上の大画面いっぱいに、十字架の前に粉々に砕かれた、古典彫刻が無残に横たわっています。
多神を奉ずる象徴的な芸術が、無残に散らばる天井を見上げながら、考えます。
人知の及ばない存在が、つねに自分の人生を支配し、世界を創造し、あらゆる出来事の根幹を司っている、のでしょうか?
私自身は感じませんが、信仰の出発点はそのような存在を疑わず、受け入れるところから始まります。 -
よしんば神がいなかったとしても、信仰も宗教活動も可能であると思います。
存在そのものを前提としている以上、神の実在を追求/証明するのが宗教の目的ではありません。
「いる」ってコトをベースにして、成立してるんですから。
信仰も同じです。
疑う余地を残してしまえば、もはや信仰たり得ませんから、疑うことなく「神サマが要求している」と想像される行動を、とればいいわけです。
日々くり返される、宗教団体が神との関係において必要としている、数々の宗教儀礼の場で、神の有無は(核心ではありますが)とりあえず必要ありません。
イベントごとに、いちいち本物の神サマが出現するなら、その宗教はひとり勝ちでしょう。
なので、オイラなんかは現実世界で神サマがいようといまいと、実際にはまったく問題ないと思えてしまいますが、「いる」と信じている人たちの理屈はどういったものがあるのでしょうか?
存在が前提となっている宗教や信仰なかで、神がどう位置付けられているかを知るのは、無神論者にとっても大切だと思います。
居ないと信じているからといって、存在を確信する相手の主張を無視したり知ろうとしないのは、チョットどうかと思うし。 -
神サマには、ふた種類あります。
ひとつは、特定集団だけの神――。
人種・血縁・共同体・国など、どんな集団かはいろいろあるかと思いますが、とにかく特定集団だけの神サマ。
たとえば、ご先祖とか、土着の部族的な神。
山とか滝とか木や岩といった自然崇拝なんかも、そうでしょう。
影響力に範囲があり、効用も限定的な、神。
もうひとつは、普遍的な神―――。
全世界のありとあらゆる人々&動植物に作用し、とにかく全部カヴァーしているとされる神。
すべての始まり、創世記的な神ですよね。
フツー、「神サマ」っていう時、想像するのはこのタイプだと思います。 -
限定的な神は、特定の集団にしか作用しない設定ですので、言いかえれば「信じる人だけ信じてればいい」神サマです。
たとえば、山を神とする自然信仰は、いわば局地的な信仰です。
「富士山はご神体!」と崇める人が、ブエノスアイレスやフィレンツェに居なくてもかまいません。
他の地域に信者がいなくても、信者である彼/彼女と神サマのあいだには、信仰上まったく問題ナシ。
富士山周辺在住の皆さんが、日も明けやらぬ早朝にフジヤマに向かい、「今日も良いコトありますように〜」と拍手打っていれば、世界的に信者が居なくても立派に成立する宗教なのです。
ところが、ふたつめの普遍的な神サマは、くせ者!
この神を信じている集団は、「信じる人だけ信じてればいい」とは考えません。
全人類(および動植物)の神ですから、崇めない人が部分的にでもいると、不都合が生じます。
つまり、信じている人からすると、信じない人の存在によって神が罰を下すかもしれない。
人類全体が悪い方向へ行ってしまうかも知れない。
神への対峙にリスク=連帯責任が生じてしまうのです。
「信じない人がいてもいい」では、まずい。
自分たちと同じく「神を敬う立場」へ変更させる、強力な動機づけが発生するわけです。 -
←あ。
これ、ミッキー(注:ミケランジェロ)がモデルだという、ヘラクレイトス!
ラファエロ・サンティ《アテネの学堂》です。
むふふっ。
天下のラファエロが描いてんだから、きっと似てるんだろうなー。 -
話がそれましたが〜。
えーと、神はふたつに区別できるってトコまででした!
この神にまつわる、ふた通りパターンってのが認識できると、勧誘に熱心な宗教の姿勢が理解できます。
こちらは興味もないのに、情熱的に入信を勧められると、
「余計なお世話だ」
「やめろとは言わないんだから、こっちのコトだって放って置けばいいじゃないか」
と、逆に薄気味悪く感じてしまいます。
けれど、普遍的な神を信じる人にとっては、すべての人にとっての神サマですから、すべての人が包括的対象者であり、「部外者」がどこにも存在しない事になります。
全員が関係者ですので、「不信心者」がいれば、連帯責任! -
信じない人にとっては、普遍的な神にまつわるこういった宗教観は、いささかはた迷惑ではあります。
ですが、動機付けが理解できると、ただ「気持ち悪い」「コワイ」「よく分からない」という拒否感が先行する状態から、少し抜け出せます。
立場が違くても、相手の考えを知るのは、コミュニケーションの第一歩☆
では、どうしたら全人類対象型宗教者と、うまくやって行けるのでしょうか? -
普遍的な神を信じる宗教者と、非宗教者に、うまい着地点はあるのか?
不勉強だし、手に余る問題のようにも思えますが、興味があるのでやってみたいと思います。
まず宗教に属さない立場、にはどんなものがあるでしょう?
①神の存在は信じるが、宗教または宗教の解釈を信じない
②神はいない
まだあるかな?
でもたぶん、この2点でいいと思います。 -
②の「神はいない」と言いきってしまうと、コリャもうどこにも着地点はありません。
「いる」と「いない」じゃ、大前提が違いますから。
「いない」って言う人の前に、神サマを出現させられる宗教があるのなら別ですが。
フツーに無理だと思います。
では、間接的な神の存在証明はできるでしょうか?
たとえば『聖痕』など、個々の信者に起こる「奇跡的な出来事」についても厳密にいえば、それが「神が存在する」または「神の仕業である」という間接的な証拠にはなりません。
イエスと同じ箇所に傷が出来たなら、横滑りに神の仕業である、神は存在する、とするのは明らかに論理の飛躍があります。
「奇跡」は神の存在証明にはなりません。
もっとも根源的な問題は、奇跡的な逸話をいくら並べても、根源とされる神そのものを引っ張ってこられる宗教は、無いってコトです。
個人的には、この「だからいないのヨ系」に加わりたいトコではあります、が!
しかし、「神はいない」とやってしまうと、「いる」という信者とは永遠の平行線。
折り合う余地は、どこにも無くなってしまいます。 -
というわけで!
信仰がある人との妥協点は、ただひとつ!
「居るかも知れないけど~、宗教は信じない」
①路線?
これっきゃない。 -
ダメですかねー?
とりあえずグレーゾーンにしとけば、「いないって証拠もないし、そのうち出てきたら信じないコトもないゾ」みたいな?
神を否定するわけではないけど、宗教にからむ権威と矛盾は却下できるし。
まあ、神がいるっつー証明とナシ証明は、コインの裏表のように思えるんですよね。
どちらも、証明がつかない水かけ論のスパイラルみたいな。
あ。でも、いない証明とかって、ひょっとしたら頭の良い数学者なら、できるのかも? -
おっとっと!
あやうく、スルーしてしまいそうでしたが!
←ラファエロ作《聖ペテロの解放》。
2コ上の写真を確認して頂けるとよいのですが、このルネッタはガンガン日が差し込む窓の上部にあるので、逆光で肉眼ではほとんど見えませんでした(泣)。 -
やっぱり、神のいる/いないではなく、結局なにが厳しいって宗教のロジックに納得しきれないのが、一番なのじゃないかと★
神の前の平等を建前とする宗教における、もっとも深刻な矛盾は、神と人の個々の結びつきよりも、神の代理人を介した神とのつながりが、メインとならざる得ない部分。
人が人を支配する構図から、一歩も足を踏み出せないシステムにつきると思います。
宗教指導者が、信者を導く。
神サマが直接、信者とつながるのではなく。
人を介している。 -
あくまで、神の意を汲んだ『人間』が、信者さんズに「あーするだ。こーするのが、より正しい」と規定するのです。
ほかの者より宗教集団において「神に近い」と権威づけられた人間の決定が、その他大勢の意見の上位に立ちます。
「世俗的」ピラミッドは変わりません。 -
信じる個々人が、神と結びつく多様な信仰のツールを一本化し、トップダウンのフレームにおさめるのが、宗教の基本構造?
そんなふうに、見えます。
もちろん、宗教は一枚岩ではありません。
ローマ・カトリックにおいても、現教皇ベネディクト16世が避妊・人工妊娠中絶・同性愛・聖職者への女性の登用に否定的なのは周知ですが、人権運動にコミットするカトリック信者さんや聖職者が、必ずしもおなじ思想・政治的立場をとっているわけではないからです。
同じ宗教の信者であっても、個々の立場や考え方に違いは、ある。
しかし、どういった考え方であっても、それを多数決という民主主義的なやり方で、最終決定や運営を行なうのではない。
教皇は選挙(多数決)によって、枢機卿の中から選出されますが、枢機卿をはじめとする聖職者の任命権は信者にはないし、聖職者の役職を持たない信者から、多数決によって教皇が選出されることはありません。
また、教皇が選ばれる枢機卿グループから、女性は女性である限り完全に排除されます。
こうした組織のトップに立つ『教皇』の裁可が、宗教に属するあらゆる人々の考え方の上位に位置づけられる。
上記のようなピラミッド構造が、『神の前の普遍的平等』と激しく矛盾しているように感じます。 -
とくにキリスト教に絞ったわけではありませんが、普遍的宗教が持ち出す「神の万能性」について、以前旅行記で書いたことがあります。
世の中のあらゆる出来事は「神の計画」の一部であり、どんなことにも神の意志が働いている。
すべてが神と繋がり、神の意志のもとにあるという考え方を、どう捉えるか。
仮に神が存在しないならば、神の存在を前提として確立する「万能性」や「救済」といった、議論の根幹は崩れます。
また、存在はしていても、神がすべてにおいて万能ではなかったなら、祈られても迷惑だろうし、逆に万能なら、神とはきっと気が合わないであろうと。
救済プランのなかに、必要悪や犠牲を内在させる「万能者」なら、やはり批判し議論する必要があるように思う。
大筋、そのような内容でした。 -
その時は、あまり意識せずに使かった『犠牲』という問題―――。
そして、多くの宗教で否定的に表現される、『売春婦』について考えてみたいと思います。 -
『イエスの犠牲』は、よく玄関先で聖書を抱えた人から聞く言葉ではないでしょうか。
主張の中身としては、
①イエスが十字架刑で死んだ
②罪のないイエスは、死ぬことで人々の罪を肩代わりした
③イエスの苦痛をともなう『犠牲』により、人々の罪があがなわれ、神との和解が成立した
まあ、大筋こんな感じでしょうか?
しょっぱなから、イエスと人々との関連性が不明だし、イエスの死によって贖罪プラス神との和解に、どうやったら繋がるのか?
細かい説明を聞かないと、これだけではザックリしすぎていて納得できませんが。
最も気になる部分、『犠牲』について考えました。 -
『犠牲』とは、本来《生贄》を意味します。
犠も牲も、それぞれ一字で犠牲をあらわす字。
犠は、宗教的な祭祀の際に、生贄にされる羊の意。
羊の足をのこぎりで切って、足がぶらりと垂れた状態を表す漢字、なんだそうです。
見たところ、そんなエグイ連想はできませんが。
現在の漢字じゃなくて、象形文字でみると、なるほどヤバイ感じです。
牲は、祭祀に用いられる「完全なる牛」を意味するそうで。
選ばれた牛さんは、「行っていいよ」と野に放たれるわけでは、もちろんなく〜。
殺して神に捧げられる生贄、です。
つまり『犠牲』という漢字には、羊と牛の違いはありますが、両者とも「殺して神に捧げられるもの」という意味が、ダブルで使われているのです。
ううん〜。
こういうのをもそっと数集めれば、『怖い絵』ならぬ『怖い漢字』を、そのうち書店に平積みにできるかも〜v -
二番煎じは、ともかく☆
聖書には、犠牲にまつわる有名エピソードがあります。
イエスの十字架事件をめぐり、「イエスは死によって、私たちの罪をあがなった」系は、解釈としてよく出されますが、そちらは後述するとして。
まずは、「創世記」の《イサクの奉献》から、『犠牲』という言葉の側面を考えたいと思います。 -
宗教が説く、犠牲にまつわるきな臭さに思いを馳せているときに、ちょうど高橋哲哉さんの『国家と犠牲』、それから山口隆さん『他者の特攻―朝鮮人特攻兵の記憶・言説・実像』の書籍が、す〜んごくっ!!面白かったので影響されまくりました。
とくに『他者の特攻―朝鮮人特攻兵の記憶・言説・実像』は、宗教へのアプローチではまったく無いのですが、ものの見方を再考させられる、今年読んだ中でダントツな一冊。
機会がありましたら、ぜひ☆
さて、《イサクの奉献》。
アブラハムによるイサクの犠牲の物語です。
登場人物アブラハムは、ユダヤ教のルーツ「イスラエル人の始祖」であり、ユダヤ教から派生したキリスト教においても、『信仰の父』という重要人物。
イサクは、子どもができないまま年老いたアブラハムに、ようやく生まれた息子です。
大筋は以下のとおり―――。
信心深いアブラハムを、神が試します。
「あなたの息子、愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地へ行きなさい。わたしが命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くす献げ物となさい」 -
『焼き尽くす献げ物』、犠牲です。
旧約聖書のヘブライ語表記でolah(オラー)、新約聖書のギリシア語ではhorocaust(ホロコースト)と訳されます。
ナチスの絶滅収容所をさす、『ホロコースト』という言葉は、ここに由来します。
ユダヤ教でおこなわれた子羊を殺して神に捧げる行為、もしくは生贄の動物そのものを意味する―――つまり『犠牲』(ホロコースト)です。
神から、「ひとり息子を生贄としてささげよ」と命じられたアブラハムは、早朝にロバに鞍を置き、薪を用意し、ふたりの若者とイサクを伴い、モリヤの地へ向かいます。
三日目。
アブラハムの目に、神が示したその場所が映ります。
「礼拝をしてくるから、ここで待つように」
アブラハムは、若者たちとロバをその場へ残し、火と刃物を手にします。
息子イサクに、焼き尽くす献げ物用の薪を背負わせると、親子は歩き出します。 -
「お父さん」
イサクが呼びかけます。
「火と薪はあります。献げ物の子羊は、どこにいるのですか?」
アブラハムは答えます。
「わが子よ、焼き尽くす献げ物の子羊は、神が用意してくださる」
神が命じた場所に達すると、そこへ祭壇を築き、薪を重ねます。
さいごに、アブラハムは息子イサクを縛りあげ、祭壇へ乗せたのです。
アブラハムの手に握られた刃物が、祭壇の上のイサクに振り下ろされる瞬間――!! -
アブラハムの刃が、イサクの命を奪おうとした、まさにその時―――天使が、アブラハムの名を呼びます。
「アブラハム、その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、いま証明されたから。あなたは、自分のひとり息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」
アブラハムが辺りを見まわすと、背後の茂みに角をとられた雄羊がいます。
アブラハムは、その雄羊を捕らえると、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としました。
以上が、《イサクの奉献》のあらすじです。
学者さんによって、「神は供儀を動物に限っており、人身供儀を禁じた物語」という解釈もあるようですが〜・・。
そのまんま読むと、身勝手な大人の行動!児童虐待!
おとっつあんは神サマに認められて、そりゃあ誇らしくイイ気分かも知れませんがな。
けど、息子たんは親父に殺されかけるなんて、一生心の傷じゃろう。
子どもの人生は、子どものものです。
親のじゃない。 -
女性の中絶の権利は固く信じてるけど、いちど世界へ生まれ出たら、子ども自身に人生を決定する権利がある、と思います。
親はあらかじめ、子どもの生む/生まないを決定できても、子どもは親を選ぶことはできないのだから。
アブラハムのやり方は、アブラハム側からみたら筋が通った、神とのドラマチックな交流物語のようでも、イサクの視点が完全に欠落している。
神から「イサクに話さずにいなさい」とは言われていないんだし、腹を割ってイサクと話し合う余地はあったはずなのに。
黙ってつれて来て、不意打ちで生贄にしようとしたんだから、かなり卑怯なんじゃないだろうか。
こんな要求をする神はロクでもないが、おやっさんもどうかしてる。
自分自身の信念とは『異なる意見』を持つかもしれない家族を、ただ従わせようとした。
ああ!
アブラハム親父&その神、さりげなくムカつく〜っ。
い、いかん。
腹立たしくて、本筋からそれてしまいそう・・。
『犠牲』が聖別化される。
犠牲にまつわる胡散臭さの核心が、こういった部分だと思うのです。 -
『犠牲』という言葉における最大の問題は、犠牲を聖なる、または尊いものと定義して、思考停止させるため、行為の本質が問われなかったり、すり替えられてしまう。
隠蔽効果があるのです。
さらに、前述の犠牲解釈のひとつ。
『イエスは自ら十字架刑にのぞみ、人々の罪を贖い、最後の犠牲となった』にも、この傾向があらわれます。
4つの福音書によれば、イエスの十字架事件は彼が否定した神殿側勢力側によって仕組まれ、ユダの内通で急転直下します。
ゲツセマネで逮捕されたイエスは、大祭司の屋敷の中庭で裁判にかけられ、死刑を言い渡されます。
首謀者たちの仕組んだ偽証は上手くいきませんでしたが、最終的に大祭司の問い「お前は神の子、メシアなのか?」に対する、イエスの答えが神を冒涜する根拠とされ、死刑ありきの結論と共に、ピラト総督へ送られます。
(マタイ26・57-68、マルコ14・53-65、ルカ22・54-55 63-71、ヨハネ18・13-14 19-24) -
逮捕直前、自らを取り巻く危機的な状況を、薄々察していたと思われる言動が、神秘性を高めるための後付けかも知れませんが、イエスの口からくり返されます。
そして、法廷に立たされた彼の言動は、福音書ごとに若干ニュアンスは異なるものの、一連の裁判で大祭司らの主張する罪状を、イエスが認めた記載はありません。
死刑の最終裁可をくだした総督ピラトも、投獄されていたバラバという囚人に比べ、極刑適用は根拠に欠ける判断があったようですが、押し切られるかたちで判決は確定します。
今日からすれば、フツーに冤罪事件です。 -
冤罪事件を考えるとき、事件の正確な全体像と、それを引き起こした背景、責任の所在を問い、被害回復と再度公正な成果を求めるのが、本来のあり方。
そうあっていいと思うのですが。
『イエスの尊い犠牲』の概念は、これらすべてを曖昧にしてしまうのです。 -
イエスはすべてを分かっていて、自ら進んで死を選んだのだ。
みなのために犠牲となる、神聖で、尊いおこないであった。
ひとつの解釈です。
宗教的には、スッキリとおさまりがつく説明なのでしょう。
しかし百歩譲って、上記の主張が正しくイエスの信念と合致していた場合でも、『冤罪による死を肯定する』は、相当アクロバティックな議論をしたってできません。
異なる立場をとる人を、死に追いやる。
金銭で人を売り渡す。
おかしいと承知で、保身から状況を放置する。 -
神殿側、内通者、弟子たち、総統。
弱かったり、邪悪な面も持つのが人間ですが、回避するチャンスはありました。
そして、イエスの死後、一連の出来事を真摯に振り返り、公正なジャッジを模索する選択肢も、また。 -
尊い『犠牲』とは、相手をリスペクトしているように見せて、思考停止させる行為。
多岐にわたる問題追求や、本質的な課題へ至る可能性を、放棄する道なのではないかと感じます。
全体や大切な人のために、嫌なこと辛いこと、時には死でさえ、引き受ける行為は難しいから評価もされるし、心情的には共感できる部分もあります。
(あくまで部分)
けれど、往々にして「犠牲は尊い」評価する側が、その行為の原因に加担もしくは起因していたりするので、発話の位置は要注意ですが。
けれど、誰かがつらい目に遭うこと。
ましてや死なせるのを『不正義』『不公正』と捉えず、『尊い見本』と思考停止してしまうのは、疑問です。
『犠牲』の中身を掘り下げず、むしろポジティヴに肯定し温存/継承してしまう思考回路には、戦慄を覚えます。
いまは自分ではない他の誰かの『犠牲』であっても、やがては自分にも起こりうる両刃ような、危険性がそこに見えるからです。
宗教的な犠牲概念は、いまや軍隊と国家の関係で引き合いに出される時代ですが、ここでは置くとして。
犠牲を声高に貴ぶロジックには、いったん立ち止まって再考する必要があるのではないでしょうか。 -
以上、宗教に登場しやすい『犠牲』への、素朴なあれこれ(?)でした。
『犠牲』という言葉を否定する、『言葉狩り』をしたいのではなく。
ただ納得しちゃうんじゃなくて、背景を問う向き合い方が、必要なんじゃないかな、と。 -
ここから、さらに気になる部分を追求。
元来ねちっこいから、だはっ♪←ホントにな
4つの福音書からは、イエスの言動に女性観をめぐる記述は、あまり見えてきません。
問答のなかに、「やもめ」や「姦淫」といった、婚姻制度の揺らぎが垣間見えるくらいでしょうか。
とはいえ、イエスも時代に縛られる存在。
すべての差別的感情を超越したとは思えない、「取税人」「異邦人」に対してバイアスを感じる発言が、福音書にあります。(マタイ5・46-48)
では、ほかの文書からは?
聖書を「一言一句をたがえず」とするには、あまりに強烈な女性蔑視の代表的な記載が、《テモテへの手紙一》2・9〜15、《ヨハネの黙示録》17・1〜18、18・1〜8だと思います。
旧約聖書のほうは、全部ちゃんと読んでいないので、新約聖書に限りますが。
―――婦人が教えたり男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ静かにしているべきです。(中略)アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて罪を犯しました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子どもを生むことによって救われます―――
女性が教えるのを許さない?静かに、貞淑にしていろ?
子どもを生むことが救い?
時代錯誤なハードコア家父長主義か、男尊女卑カルトな印象を受けますが。
上記の文章が世界宗教の正典に、間違いなく収められているのです。
これほど露骨な女性蔑視を含むベストセラーのあとがきに、『一部に不適切な記載があります』と注釈が入らないのが、不思議です。
そこで、2番目のキーワードは、『売春婦』。 -
たまに耳にすると、なにか反発や違和感を覚えても、それがなぜのか判断できないようなコトってありませんか?
私にとって、それが『尊い犠牲』と同様、この『売春婦』という言葉でした。 -
旅を通じてのライフワークである、皇軍の戦争犯罪。
戦跡を歩くのはもちろんですが、時間が合えば被害の掘り起こしの最新情報が聞ける、大学校舎や公民館などで開催される、公開学習会に参加しています。
そこで耳にした、日本軍性奴隷制(「慰安婦」制度)を告発した女性たちへ向けた、二次暴力の実態。
いわゆる「彼女たちは性被害者なんかじゃない。売春婦だ」という暴言に、
「なんでそんな酷いことが言えるんだろう。年端も行かない子ども時代を、めちゃくちゃにされて、その後の人生をも苦悩と困難を抱えて歩んできた。それでも尊厳を回復しようと、声をあげたお年寄りに、売春婦なんてよく言える・・」
そう思った直後、「売春婦なんて」と感じた自分の正義感に、強い疑問が湧いたのです。 -
違和感は、「売春婦」を否定的に評価した点で、自分は軽蔑した人たちと同じ土俵なのではないか。
そう思い至り、心底ショックを受けました。
戦時性暴力の実態に怒りを感じながら、性的搾取という共通要素に、まったく無頓着で聞いていた。
耳を塞ぎたくなるような性被害の痛みに共感したつもりでも、それはまがいものになっていやしないか?
それが、キッカケでした。 -
売春をどう捉えるのか?
学生時代のバイトさきで、海外での買春経験をもつ男性と話をしたことがあります。
彼は一貫して、「売春は、ビジネス。自分も相手も、ギブアンドテイクの取引だ」と主張していました。
そのとき感じたのは、
「この人は、本当は罪悪感があって、だから女性である私に、自分の買春行為を肯定してほしいんだろうか?」
というものでした。 -
ここで、素朴な疑問が浮かびます。
①売春がビジネスだというなら、なぜほかのあらゆる仕事に携わる人達と同等に『職業人』として彼/彼女たちを尊重せず、卑しめ蔑むのか?
②また、ビジネスは関係なく、道徳的に性の売買が許されないなら、最も重い責任を負うべきは個人なのか?社会なのか?
③性のあり方は、社会規範や信仰によった考え方もあるだろうけど、突き詰めれば、個人の選択または両性の合意(同性の合意)といった、基本的人権ではないのか? -
①の「売買春はビジネス?」というのは、個人的な体験から生じた疑問です。
世の勤め人は、事務職でも技術職でも専門職でも、時間を売って賃金を稼ぎます。
主婦(主夫)がおこなう日々の家事も、賃金化されていないだけで、同じ内容を外注で頼めば安くないでしょう。
家であろうと、外であろうと、働くことの大変さは、仕事を持つ人なら理解できると思います。
「ビジネス」と言いながら女性を蔑称した相手の言動に、割り切れないものを感じました。
性を売る彼女(彼でも)が、なぜ「汚い人間」として表現されるのか?
彼女を「汚く」する行為に、あなた自身が関わったのではないのか? -
売春を生業とする相手を見下しながら、「ビジネスだ」と買春を正当化する論理には、納得いきません。
ビジネスとして正当化したいなら、相手も正当化すべきだし、見下すのなら自身をも卑下しなければ、フェアじゃありません。 -
性に「清らかさ」を求める主張は、宗教ではめずらしくありません。
童貞や処女性が、性的奔放さとは対極に、尊い位置に置かれます。
聖書では、性道徳のダブルスタンダードがめだちます。
モーセの一夫多妻制や、ダヴィデの人妻への態度と、女性一般への制限には明らかに不均衡を感じます。
女性は財産とみなされ、父であり夫である男性によって、自己決定が顧みられないエピソードが、たびたび登場します。
女性の奔放さが罪悪とされる主題は、現代の感覚からすると道徳の見本とするには、問題外に思えます。
女性が奔放なら唾棄すべき「淫乱」で、男性なら見習うべき「ダンディー」? -
②の「性売買の非道徳性」を盾に、『売春婦』を「汚いもの、悪いもの」と、即否定的にカテゴライズする宗教には、警戒のアンテナが立ちます。
身体を売るほど困窮した人をつかまえて、「道徳的に間違っている」と説教する側に、はたして道徳はあるのでしょうか?
①でみてきたように、売春する側にすべて押しつける考えは、買春する側の責任を見えにくくします。
もっと極端に、「経済的に困っている連中を助けてやっている」と買春を正統化する人もいます。
けれど、困っている相手を経済的に援助するのに、セックスは必要でしょうか?
喜捨や募金をする人たちは、お金と引き換えに性行為を求めたりはしません。
買春せずに、「経済的に助ける」ことは出来るのです。
「助けてやっている」に象徴されるように、買春する側は相手が経済的に弱い立場であることを理解しています。
たとえば、彼/彼女の売り物がセックスではなく、「楽しいおしゃべりの時間」だったとしましょう。
買春者たちは「相手を助ける」ために、その時間を買うでしょうか?
商取引は常に対等なものとは限りませんが、『売買春』はビジネスではなく、買い手市場の世界です。
売り手が何を差し出しても、セックス以外は受け取らない。
これは、公正な取引でもなんでもありません。
経済格差に付け込んだ強者による、貧者または弱者への搾取、および人身売買なのだと思います。 -
ほかに経済活動の手段のない、女性や男性、子どもに対して、「あいつらはそれで食っている」という『買春』側の主張や行為こそ、くりかえし責任追及されなければおかしい。
「売春するのは汚らわしい。性を汚している」と、責任の所在を『売春』側に置くことでしか測ろうとしない――。
そういった教義を内在させている宗教は、同意できません。 -
買春者には不問の姿勢で、売春者にはえらく厳しいジャッジをくだす教義であったとしても、方向性を変えればプラスに働くかも知れません。
「じつは教師になりたい。本当は、性の売買はしたくない」という人がでたら、売春を強力に否定する宗教者は、これを無視できないと思います。
教義が否定する部分を、「改善」できるわけですから。
これはもう、手を貸さない訳にいかないんじゃないかな、と。
ただし、その際には相手が何教徒/無神論者であろうと、改宗させるのはルール違反な気がします。
自分が奉じる宗教を、相手に認めさせる手段として力を貸すなら、それは(それこそ)ビジネスになってしまうでしょう。 -
③の疑問は、異性のパートナーと結婚して子どもを持つことだけが、性のあり方として道徳的にも正しいのか、という事。
親と子が仲むつまじく暮らす、それ自体は素晴らしいと思います。
ただ、たったそれだけが価値のあるチョイスで、ほかの選択肢は価値が低く認められないのでしょうか。 -
子どもを持てない(持たない)夫婦は、そうでない夫婦より劣っている?
聖職者以外の独身主義は、許されない?
婚姻関係を結ばずに一緒にいても、生涯の伴侶ではない?
片親家庭の子どもは、いずれも不幸?
異性愛は正常で、同性愛は不純?
血のつながりのない親子は、関係が希薄?
モーセの時代に当然だった一夫多妻制を採用するコミュニティーは、もはや少数かも知れませんが、性や家族の多様性を無視して、ひとつのモデルだけが「正しい」とするのも、また少数派であると思います。
『売春婦』にまつわるこれらの問いかけは、聖書の中に登場する価値観に、大きく関係してそうなので、ちょっと長かったですが考えてみました。 -
信者が信仰の拠り所として、正典や教義を大事にする気持ちは分ります。
たとえば、今までの見方をぐるりと変えてしまう本や、ひとの意見を聞くのは、すごく興奮します。
設問に答えを出そうとするとき、本でも意見でも、なるべく複数視点から多角的に捉えれば、より理解が膨らみます。
世界的ベストセラー、聖書はどうでしょう?
冒頭で、聖書の福音書をめぐるテキスト比較や、史的イエスの研究について少し触れましたが、神についてはどんな解釈がされているのでしょう?
聖書が定義する神とは、どんな存在なのか。
ローマ・カトリックの総本山ど真ん中で、神学的に神はどんな存在とされているのかを、ちょっくら調べてみます。 -
自分は、神の存在に懐疑的ですが、存在を仮定すると神には反発を感じます。
なぜ、反発を感じるのか?
なにに、引っ掛かりがあるのでしょう。
ひとつは、宗教が主張する、神に付加された生死与奪権について。
おおかたの宗教には、良いことも悪いこともすべて神による『救済プランの一部』であり、神にはすべての事象、人の生死(または運命)をつかさどる力がある、という見解があります。
ですが、相手が神ならすべて当然視し、無批判に同意するのは正しいのでしょうか?
生はともかく、神に殺傷能力を行使する権利は、あるのか?
たとえば私が包丁持ったとしても、人を刺したりはしない。
ツールを持っているのと、実行できることを、すぐさまイコールで結ぶのは、どうでしょう。
選択肢はほかにもある。
使いようです。
人の生も死も、神の手にゆだねられており、神のすることは人知が及ばない。
然るに、神のすることは基本的に正しい――。
そう説明する宗教に出会うと、ついつい聞き返したくなります。
本当にそうなのか?
判断基準の分からない存在に、貴方にも私にもたったひとつしかない生命を委ねて、それでいいのか?
そもそも、やることに人知が及ばないのであれば、なにを基準に生死の判断をしているのかさえあやふやで、宗教の解釈が必ずしも正しいとは限らないことになります。
宗教が権威とする神の代弁には、限界があるのでは?
これが、神を信じる/受け入れることに対する、疑問であり、無視できない核心です。 -
大いなる謎を秘めた存在に心惹かれるタイプなら、「わからない部分も魅力的」と、それはそれで結構なのでしょうが、私は納得できません。
たとえば、
「これこれこいう理由で、貴方はこういう一生。貴方は、生まれてすぐですが、残念ながらここでおしまいです」
という、理由が神から示されたとします。
なにかしら公けに出来る主張があるなら、根拠を問うたり、整合性を求めたりすることは可能です。
納得できないにしても、相手の論立てに耳を傾け、その論拠に従えるのか分析したっていい。
ただし、どういう理由づけをされても我慢できない、理不尽な出来事に触れると、やはり宗教の言説で語られる神とは、仲良くやれそうもありません。 -
最近、『ルポ 在日外国人』(高賛侑 著 集英社新書)という本を読みました。
「わたしたちみな日本人」という意識のなかで、可視化されない社会的マイノリティーへの抑圧的な制度や、永住外国人教育現場での葛藤、難民への棄民的扱い・・。
読んでいて、自分の人権意識の薄さに頭に血がのぼりました。
在日コリアンや華僑、地方自治体の取り組みに、共感と希望を感じる部分が救いではあるのですが。
この本の中で、とりわけ印象的だったのが、『ボートピープル』。
やまれぬ事情を抱えて他国へ亡命する人たち――それくらいの認識しかなかったのですが、現実は想像以上に恐ろしい。
船を使った亡命は、あらかじめ亡命先を定めて漕ぎ出すのかと考えていましが、そうではないのです。
追い詰められた人間の行動は、留まる以上に過酷で、言葉も出ません。
『夜中にあてもなく海へ乗り出し、一刻も早く公海上へ辿り着くだけ。その後は漂流しながら外国船が救助してくれるのを待つ・・』
ゾッとしました。
いったい何人が命を落としているのか。
台風に巻き込まれ、食料も尽き、遠くに見えた外国船も、見て見ぬふりで過ぎ行く――。 -
彼/彼女たちの壮絶な死は、海に消えてしまい、誰にも知られないわけです。
旅のあいまに戦跡を巡ると、理不尽な体験や死に出会い、それこそ立ちすくんでしまうほどショックを受けましたが、『知られない死』もまた、言葉に出来ない衝撃があります。 -
この痛みを正当化できる言説は、神にも宗教にも見出せるとは思えません。
神が存在していようといまいと、不条理な状況を変えていくのは、ひとりひとりの行動だと思うのです。
事の是非を、宗教権威者や神に図るのでなく、自分の良心に照らしてどうなのか。
誰かの判断に頼るのは楽だし、すべてに理由があると思えば、理不尽な出来事にも一定の癒しが得られるのかも知れない。
けれど、その癒しによって見えなくなるものはないのかと、いつも思います。 -
古代ヘブライ語もギリシア語も読めない(つまり写本をあたれない)レベルで、日本語に翻訳された聖書を検討するのでは、誤読の可能性が常にあります。
実際、翻訳新約聖書は、原本(写本)に敬語ニュアンスが使われていない箇所を、敬語で書いていたりします。
また、イエスが弟子をスカウトする際の会話も、聖書によって異なる言動になっています!
本屋で買う聖書が「文面は統一されており、どれも同じ」という先入観は、捨てたほうがよさそうです。
そもそも、聖書のオリジナル自体が、現時点では発見されていません。
本屋に置いてある翻訳聖書は、古い写本を翻訳したものです。
では、ギリシア語が読める神学者の聖書解釈とは、どんなものなのでしょうか?
個人で読んだだけでは理解できないような、哲学的な奥行きがある?
冒頭で紹介したような、福音書のバックグラウンドの研究が進んでいるのなら、上記の理不尽な出来事に対する『神の関わり方』への、神学的な共通認識というか、解釈が存在するのでは? -
探せば見つかるもので。
(つか、ふだん本屋で真っ先に行くのはコミックコーナー?)
旧約・新約聖書における、苦しみへの回答を学問的に扱った本がありました。
それが、バート・D・アーマン著、『捏造された聖書』『破綻した神キリスト』『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』の3冊。
タイトルだけ読むと、三流ゴシップ誌のようですが(笑)。
内容はいたって真面目で、哲学的な本です。
この3部作は、これまで読んだ中でもかなり説得力のある本でした。 -
とくに、『破綻した神キリスト』は、聖書がどのように神を定義しているのか(いないのか)を、門外漢の私にも非常に理解しやすい本でした。
信者サンが書く本というのは、根本で神を疑わず否定せず、理論的なようでいても、最後は信仰に還ってしまうものだという先入観がありました。
敬虔なキリスト教信者であった著者は、信仰から聖書の研究はじめて、文書にみられる矛盾や対立を掘り下げ、いまは神の存在を「わからない」とする立場です。
率直に驚いたのは、上記のような神への数々の疑問を、信仰者であった筆者は信仰ゆえに、聖書が抱える矛盾へ真摯に取り組んだこと。
信じても、信じなくても。
出発地点はちがっても、筋道だてて考えれば、おなじような疑問や結論に到達するんだなあ、と。
もちろん、学者さんの考察の方が、素人の解釈や考えよか深いですけど〜(汗)。
オイラは2種類しか判別できなかったけど、ヤツは聖書の神サマ7つに分けたぜ、すげえ・・。
ともあれ、バート・D・アーマンの本を下敷きに、キリスト教の聖書が「神をどう定義しているか」をみていきましょう! -
キリスト教における神のプロファイルは、つぎの通り。
①全知全能タイプ・・・・オールマイティー創造主
②勧善懲悪タイプ・・・・善を行う者を祝福し、罪を犯す者を罰する
③自由意志タイプ・・・・介入は部分的
④結果オーライタイプ・・悪いことも計画の一部、最後ハッピーエンド
⑤力こそ正義タイプ・・・疑問を差し挟むのを許さず、逆らうもの不可
⑥理解できないタイプ・・全能かどうかは分からないし、理解もできない
⑦黙示的真打タイプ・・・現在は悪魔の勢力下、もうすぐ変革が訪れる -
おおよそ、唯一神を示しているとは眉唾なレパートリー。
これが同一人物(神物・・)?ちょっと~????
けれど、古代ヘブライ語×ギリシア語聖書には、①~⑦のような神がすんなり登場します。
①の全知全能タイプは、わかりやすい。
創造主であり、あらゆる事象の根源である。
いかにもスッキリ、神サマらしいタイプですが、問題があります!! -
すべてをつかさどるなら、飢餓で死んでいく子どもたちを、どう考えたらいいでしょう?
老人の孤独死は?
年間3万人の自殺者も?
これすべて神の思し召し、とするには都合が悪かったのでしょう。
『神が原因で苦しめられている』では、Mっ気のある信者でなければ拝んでくれません。
そこで登場するのが、②勧善懲悪タイプの神サマ。
すなわち、凶事が起こるのは、その人(もしくはグループ)の態度が悪く、神が罰しているという、認識。
神を信じて、そのルールに従えば、たとえ誰に知られなくとも神は見守り、幸運がおとずれるでしょう、というもの。
①と違って②タイプは、善には幸福を罪に対して罰。
これなら、フェアでしょうか?
しかし、これも少し考えると、どこかヘン。 -
つねに善人は報われ、悪人が懲らしめられている?
脱税と違法献金で常連、収監されないのは親の七光り!なジュニア政治家より、ひとりで育児と仕事をこなしながらも、犯罪と関連なく働いて、税金を払うシングルマザー(またはファザー)では、後者がいつも報われている?
まあ、長い目で見れば可能性はあります。
だれもがJ・K・ローリング(『ハリー・ポッター』シリーズの作者)なれるとは限りませんが・・。
けれど、罪に対して罰があるなら、やはり疑問は残ります。
難病で苦しむ子どもや、失業してホームレスとなった人は、仕事を持ち、健康で衣食住に困らない人より、罪深いのでしょうか?
冤罪で、長い刑務所生活を強いられ人生を壊された人は、事件そのものに対しては無罪であっても、なにか別の事で罪深いから、それによる罰を受けたのだと、言えるでしょうか?
悲惨な出来事に苦しむ人を前にして、「それは、あなた自身の罪が重いから、見合った罰を受けている」と主張できるでしょうか? -
勧善懲悪タイプも、突っ込みどころが満載です。
では、③自由意志タイプはどうでしょう?
どんな神サマ?
人間をつくった神は、人間を思いどおりのロボットではなく、自由意思を持たせた。
悪いコトとは、神が人間に起こしているのではなく、人間が人間に対して起こすもの。
これが、自由意志タイプの神サマ。
なるほど。
これなら人災による不条理への説明が、部分的につきます。
しかし、天災は?
地震、洪水、旱魃、疫病など、自然災害を「人が人に対して」と断言できません。
また、被害者に咎が無いのであれば、加害を行ったのが人であっても、『神が被害を防げない』説明がつきません。
神が部分的にしか、介入できない。
人が人に対する行為は、管轄外?
これはマズイ、と思った人もいたのでしょう。
神プロファイルは、新しい答えを出します。
それが、④結果オーライタイプ -
④の結果オーライタイプ。
簡単に言うと、最後に正義は勝つ!
世の中のありとあらゆる悪いことは、最後にはすべて解決するように、はじめから織り込み済み。すべて神の計画通りである、と。
苦しみにもポジティヴな面があり、苦難は救済をもたらす。
これが、結果オーライタイプの神サマ。
どうでしょう?
結果オーライタイプは、皆が納得の完全なる神でしょうか?
海上で人知れず死んでいくボートピープルに、救いがあった?
冤罪で投獄された人の苦しみに見合う結果って?
その国で生まれたというだけで、空爆や地雷で傷を負う人たちを、すべて説得できる『神の計画』は、本当ありえるでしょうか?
誰かが苦しむことで何かが良くなる、という見方には同意できません。
犠牲と加害を生み出すプランを、「いずれ良い結果になる」と肯定する姿勢は、問題を他人任せにし現状放置なだけのように思えます。
この神を答えにしたくはありません。 -
⑤の力こそ正義タイプは、すべての疑問を粉砕する神サマ。
天地万物の創造主は、人間の理屈など通用しない。
そもそも存在自体が、まったく比べものにならないのだから。
神は、すべて凌駕する。
人間ふぜいが、神のおこないに疑問を差し挟む余地など、ありえない。
すべてに勝る神の前では、同等の議論など成り立たないのだ。
天災も人災も、全能の神の力で行われており、それを人間がとやかく言うことはできない――――力こそ、世界すべての根源なのだ。
この問答無用「力こそ正義」という神の位置づけは、個人的にもっとも苦手な考え方です。
力がある者の行為を無条件に免罪し、何をしても責任は取らなくてよい、とするのと同義ではないでしょうか。
力で勝る以上のルールはない、といっているに等しいわけですから。 -
一番強い者が、あらゆる者の上位に立つのが唯一、「神のルール」であるなら、すべての者がすべての相手に対して、戦闘態勢でいる世界を肯定しかねません。
勝った者優位の世界。
それと、正義はイコールでしょうか?
少し考えれば、より強い者によるアップダウンの命令があるだけで、『正義』などどこにも存在しないように思えます。
強者の意向によって、万人の論議をねじ伏せるわけですから、不正があったとしても「弱者は黙って受け入れろ」と主張しているにすぎないのです。
この神タイプを受け入れてしまえば、どんな不条理な出来事もすべて受け入れ、諦めてやっていくしかありません。
不正と感じる現状を変えるのではなく、自分を果てしなくあわせ、変えていく。
それは、自己破壊ではないでしょうか?
こんな神サマはゴメンです。 -
⑥の理解できないタイプは、参考文献にしたバート・D・アーマンのお気に入りみたいです。
⑤タイプの神サマ。
どんな神サマかというと、いたってシンプルです。
基本、神のやることは理解出来ない。
人知が及ばないゆえに、全能であるとか万能であるとかも、定かではない。
「神はいない」とまではいわないが、その存在は人知が及ばない。
「あーせい、こーせい」と神の意志を汲みとれている前提で、『神の代理』を自認する宗教のタテマエでは、この理解できない神サマだと論理破たんしてしまいます。
理解が及ばないなら、解釈や代理は成立しません。
あてにしても、神サマ理解できないから、どうなるかは分からないよ~と、いう感じでしょうか。
でも、だからこそ、楽しみも苦しみも起きる世界で、ひとりひとりが自ら精一杯生きるのだ、という結論に至る方向性を持ちます。
なるほど、このタイプなら許容範囲かな。 -
ラスト⑦。
神イメージ的に、なじみ深いです。
こちらは神の対抗軸として『サタン』も登場します。
曰く、この世はいま悪の勢力下にある。(なので神がいるのに善人が苦しむ事態が起こり得る)
けれど、最後には真打ち神登場によって、人類に救済がもたらされる。
神の全面的な介入で、すべてが審判にかけられ、正しき者も悪しき者もその裁可のもとに立つことになる。
今こそ悔い改め襟を正さねばならない。
その時は、間近に迫っているのだから――――。
どこかで、聞いたような主張ではないでしょうか?
そう。
黙示的真打タイプの神を声高に主張したのが、バプテスマのヨハネとイエス。
ヨハネ「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3 1-2)
イエス「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1 14-15) -
ヨハネとイエスたんイチオシ☆
⑦『黙示的真打タイプ』は、④の結果オーライタイプ(悪いことも計画の一部、最後にハッピーエンド)とよく似ています。
ですが。
大きく違うのは、人間に影響を及ぼす悪の勢力を定義しているトコ。
人災も天災も、苦しみから救済をもたらす『神の計画』(神が原因)ではなく、悪の勢力がやっているんだと。
しかし、すでに神は悪を一掃しようとしており、その時は目前であると。
この理屈では、この世で起きる数々の悲惨な出来事から、神の責任を免罪し、最後は神が逆転勝利するという、神の全知全能パワーを担保します。
しかし反面、
「じゃあ、悪の勢力をアタマっから防げないの?悪自体をつくりだしたのは誰なの?神じゃないの?」
という、③自由意志タイプが内包する『すべての被害を防げてない』と同じ、そもそも論にぶつかるのが弱点。 -
突っ込んで言えば、黙示的真打タイプは『狼少年』の感を免れません。
「くるぞー、くるぞー。この世の終末、大逆転の審判がくるぞー」と煽りますが、結局、なにも起こらない。
1999年7の月、天から恐ろしき大王が・・で懐かしい、ノストラダムスの大予言や、グランドクロスと同じです。
イエスもかなり具体的に、彼の生きた時代の終焉を語っています。
『人の子』という審判者が天使をしたがえ雲に乗って現れ、地上の人々を裁く。(マルコ24 29-31、25 31-46)
そして、イエスと同時代の人々は生きているうちに、これら神の国を見るだろう、と。(マルコ 9 1)
イエスの言葉を、じか聞きした人たちが、生きているうちに、神の国が来る?
ノストラダムスもイエスたんも、そのほかありとあらゆるまことしやかな預言の数々―――。
結果は?
言うまでもありません。 -
黙示的な語りは、つらく苦しい現状に対して「いまにきっと良くなる」という癒しの側面がたしかにあります。
一時的な救いになるかも知れない。
預言の期限切れまで。
他方、かならずしも良くなる保証はないリアルを直視したり、立ち向かうことから、遠ざけてしまいます。
変えられる可能性を持つ世界から逃避させる、そういった力が強く働いているように思えます。
なんにせよ、誰かにナントカしてもらって、困難な現状を変えようとするのは、ムシが良すぎるっつーか。
個人でもグループでも癒しはともかく、できることがモットあんじゃなかろーか、と。
不満は残ります。 -
以上、バート・D・アーマンの著作を下敷きに、神プロファイルをしてみまちた~。
①~⑦まで、それぞれの『神の理不尽』の理由付けは、ボートピープルや戦争被害の痛みに対する回答として、100%納得いきません。 -
ですが、アップするうち徐々に自分は、完全な神より不完全な人間を信じたいんだな、ということに気づきました。
ヴァティカン美術館を歩いていると、美術品とは思えないような、ごくフツーの人々の胸像を目にします。
表現された彼/彼女たちの姿は、完全な美しさとは程遠い。
けれど、実際に目の前にいるような、力強い生気を放っています。 -
霞をつかむような理想の美しさより、服を着せたらそこらへん歩ってそな胸像のが存在感をもつのは、生きた人間の内面からくる矛盾したパワーなのかもしれません。
完全な造形を追いながらも、それを凌ぐ世俗的なパワーに圧倒されます。 -
理想の世界は、どこまでも美しい。
けれど、そこに至るのは、人間自身が吐き出す途方もない行動力なんじゃないかな、と。
歴史を振り返ると、人間は想像を超えて、残酷で排他的で、おっかなくて。
地球上のすべてと共存していくなんて、不可能なんじゃないかとさえ思えてきます。
ですが、同じ生き物がまったく異なる方向性を発揮し、少数派を排除せず、四方が丸く収まるように、粘り強く交渉をしているのも、また、歴史のそこかしこで容易く目にすることが出来ます。
良くも悪くも一貫性が無い事こそ、純粋化された神と違う、雑多な原動力なのかも。 -
「神が全能で慈愛に満ちた存在なら、まっとうな人が苦しむ状況が、なぜ起こりうるのか?」
『神義論』のベースとなる設問らしいです。
膨大な哲学者たちが、このクエスチョンに挑戦しましたが、いまもなお誰もが納得できる理論を構築できた人はいないそうです。 -
神という完璧なものを構築しようとすると、さいごは矛盾に突き当らざる得ない、というのは面白いもんだなあと感じます。
設問に答えがでないというのは、どこかで論理破たんしているのだと、単純に思えてしまいますけども。
それとも。
それとも、いつか答えが見つかるのでしょうか? -
ヴァチカンのポートレートのように並ぶ、胸像を眺めていると、多少は美化しているにせよ(笑)精彩に満ちた人々の息吹に、足が止まります。
-
いや、これなんかもう・・。
-
濃ゆくて、濃ゆくて、濃いぃ〜わ・・。
あぶらっこ・・。 -
「テカってる・・石像なのに・・・」
美術の授業で模写するような、神話や英雄譚に登場するようなキャラじゃないトコロが興味深い。
お世辞にも『至高の美しいもの』ではないのですけど、生き生きとした感じが伝わってきて、目が離せなくなりました。
授業で模写したのが、もしこの像だったら?
古代ローマや神話の世界も、もう少しイメージが違っていたかも。 -
いまはもう、存在しないであろう過去に生きた人の片鱗を感じるのは、ふしぎな感覚です。
この旅行記をアップしている最中に、3.11東日本大震災が起こりました。
まるでリアリティーの無い出来事が、現実として次々に畳み掛けてくるなか、私が感じていたのは純粋な怒りでした。
自然災害は地球上に生きている限りは、避けられないリスクだと思いますが、目の前で起きていることは、明らかに人災が含まれています。
一生にいっぺんだってあるか無いかの、大地震に巨大津波。
大事な人を亡くしたり、安否不明で心配するのだって辛いのに、すぐそばに原発の蓋が開いている。
なんとか生き延びた人も、そうして助かった人たちへ力を貸そうとしている人たちの命までが、見えない危険にさらされている。
なにかおかしいんじゃないのか? -
キレイな語り口で、亡くなった人たちへ哀悼と敬意をしめす一方で、生きている人たちの命を軽視するような状況が平然とつくりだされ、それがメディアで流れなければ、気にしなくて当たり前の日常になってはいけないと、焦燥感でいっぱいになりました。
-
すぐそばでキツイ生活をおくっている人がいるのに、衣食住に問題の無い環境で腹を立てているのは偽善的かも知れないけれど。
それでもこの怒りを厳粛ムードで誤魔化されるのもまた、違うんじゃないかと思います。 -
おそらく、私が社会に出て初めて体験した今回のような震災で、あらためて神や仏や宗教が、自分のなかに根付いていないことを確信しました。
-
これが、神の計画の一部だとか、天罰だとか、悪いものの力だとか、誰かしら酷い目にあうのが試練なのだとか、苦しみや死によって得難い教訓が育まれる、とか・・。
そんな理屈は、やられた側を侮辱していて頭にくるし、とうてい信じられません。 -
自分の感じていたシンプルな怒りも、突き詰めれば、超常現象や自然現象に対するものでなく、人間が人間に対してやっている事に尽きます。
なにかできる事があるのにやれてない。
ヤバイと知っていたのに、否定し続けた。
ものごとにはすべて、筋の通る隠された理由がある――というのは、信じません。
原因と結果はある、と思いますけど。
自分がいまの時代を生きているのも、両親がそうだったのも、たまたま偶然。
もっともらしい理由付けや解釈は、いくらでもできるでしょう。
けれど、まったくの偶然でしかない場合だってあります。
あらかじめ定められてた的な運命論ぽい解釈は、被害者側に非があるような錯覚(天罰・報いといった解釈)を与えたり、当事者責任を隠蔽する余地(神の計画・運命なので自分ではどうしようもない)がありありと窺えます。 -
自分ひとりにだって、責任を持つのはとても難しいけど。
どんなにちっぽけでも、赤の他人の生命や生活に。
神サマじゃなくて、人間が。
責任を引き受けることは、可能なんじゃないかと思います。
命が軽視される時、無性に腹が立つのは、ひとの力を信じる気持ちがあるからです。
もっともっと、自分も人も。
自らの立ち位置で、できることがあると思う。
人を傷つけずに、みんなの生活を向上させる提案はあって、おなじに大変な道なら、自分の代わりに誰かが痛めつけられるような方向は、取らない選択ができるはずだと。
祈りや、神や、権力のある誰かの判断に、安易に下駄を預けるよか、できることは人の数だけあると信じます。 -
良くも悪くも選択次第なら、なるたけ良い方向に進みたい。
震災後の福島のニュースを逐一追いながら、「これだけのことがあっても、日本のあっちゃこっちゃにある原発はとまらないんじゃないか」と、不安に感じていました。
それでも、東京電力の株主さんたちが脱原発廃止の提案をはじめたり、中部電力が浜岡原発停止を受け入れたりといった動きがあると、「まだ希望はあるのかな」と少し浮上したり。
けど原発事故によって、土壌汚染で家があっても帰れない人達や、生計をボロボロにされた人たちにとっては、いまこの時に必要なのは、さきの希望よりも息の長い生活保障なんだろうな、と思いをめぐらせます。
気持ちがわかる、なんて言えないし。
一緒にがんばろう、なんてリアルで頑張ってる人たちに、忍耐を更に押し付ける強引さがあって、なんだか怖い。
誰に心を寄せるかで、励ましの表現は異なるし。
斉藤和義さんの歌や、山本太郎さんのデモだって全然フツーで、アリだと思う。
力になりたいってゴールが同じなら、非合法でない歌やデモが排除される方が、いかれてる。 -
こうして、ひとり旅を続けていると、逆に人間ってひとりじゃなくて、いろんな人に手ェかされて生活してんだな、とかなり具体的に実感できます。
-
食事をしたり、移動したり、眠る場所でさえ。
私ではない、だれかの思いも及ばないようなお仕事があって、可能な選択肢が、無数に増えている。
言葉が通じて、慣れきった繰り返しを続けていると、うっかり忘れてしまいそうな。
かなりバクチで、会話もひと苦労な旅では身にしみます。
それでもなんとかなっちゃう。
それは、存在も定かではない神サマじゃなくて、ごくまっとーに社会の一部を支える人たちのおかげです。 -
農業・漁業・林業・畜産業―――。
東日本大震災でも、知らない場所と自分の生活の場との、思いがけない距離の近さに、驚きます。
被災地と原発被害地域のいろんな人たちのお仕事や、生活。
距離があっても自分とつながっているのが、旅で感じたのと同じように、実感できました。 -
それは、「神とのつながり」のような、曖昧なスピリチュアリティでなく。
確かに、そこにあるとわかるもの。 -
人間相手だから、被災者や被害者のつらい気持ちは、本当にはわからなくたって、共感したい。
真剣になれるし、踏ん張れんのかなーと思います。
ちっちゃくたってイイから、できることをコソコソやる日々です。 -
さて、旅の途中でした。
-
どう転んでも世界宗教の最高峰地帯で、「神はいない(かも知れない)」と熱心に考えるのは、なんだか不遜で面白い状況ではあります。
宗教関連でまっとうな書籍を探すと、ともすれば脳内ハードが容量オーバー気味なので、ここらでもそっと簡単に楽しめるヤツをご紹介〜v
てか、ハマリものだろ。 -
最近、仕事がハードで休みもないし、たまの半休も出かける気力もなく、そのうちチェックしようと放っておいたDVDを観はじめたら、止まんなくなってます(汗)。
そう。
『スーパーナチュラル』から出てこられませんっ。
パケ裏のあらすじ読むと、荒唐無稽でゼッタイ途中でヤメちゃうだろうな、と高をくくっていたら・・・やられた・・。
腐女子のスイッチ押しまくりだね・・。
S2後半〜S3あたりから、もう深みで。
S4〜S5で、どツボす。
ディーンが笑顔で痛みを隠すたびに、ホロホロもらい泣きしてます。
ああ、バカだ〜っっ!!
腐っていくのは梅雨のせいじゃない。
はやくタイムマシンが発明されて、9月7日にならないものだろうか!!←S6発売日 -
スーパーナチュラルでは、あつかうテーマの関係から宗教の矛盾や盲信さがストーリーの端々で、いろんな立場から語られるのですけど。
面白かったのは、この旅行記を書くにあたって読んだ本にも触れられた神義論が、さらりと登場する部分――――。
ディーン「神なんかいるか。いないなら分かる。善人が苦しむ。
理由もなく邪悪な連中が暴れても理解できる。だが神がいるなら何してる?善人が苦しむ間どこにいる?なぜ手を差し伸べない?」 -
ディーン「神がいるなら何をまってる?大虐殺?怪物の襲撃?世の終わり?いつになったら、哀れな人間を助けるんだ?
“考えがある”なんてヌカすなよ」
ちょっ・・兄ちゃん、マジわかりやすいんですけど〜。
小難しく本に書いてあったことを、アッサリまとめちゃうウィンチェスター兄、カッコイイのは顔だけじゃない。
星降る夜空よか、見上げるD兄の目ヂカラに翻弄されるのは、うすらデカイ弟くんにとどまらない(笑)。
常々「占いは遊び。信じない」とかゆってるくせに、毎日『スーパーナチュラル占い』(http://bluesnap.net/character/m9l1yc.htm)をやって、「ちっ!やたらボビー度が高くてジョン成分ありありなのに、外見っきゃサム&ディーンにかすりもしないんて、コレちょっとおかしいんじゃないの〜(見た目なんざ、コスれば誰だってできんじゃん)!」などど大暴れしているのは・・・きっと翻弄されているせい。 -
ちなみに、この変な占いサイトには、『遅刻の言い訳メーカー』というのがあって、トラベラー名を入れたら、
上司(?)「なぜ遅刻したのかね」
きっちー「見解の相違ですね」
「新宿駅で迷子になったので」
「脳内通勤してました」
オイ、どれも使えないよ・・。 -
またそれて来てますけど(汗)。
スーパーナチュラル(トップでお兄ちゃん)のことを語りだすと、愛で長くなるんで、ブレイク☆
ヴァチカンで宗教論☆でした。
神義論は、宗教が主張する内在する神の存在矛盾を、とてもクリアについていて面白かったですけど、こんにちメジャーなキリスト教には、もうひとつ『異端』と排除された考えがありました。
それが、2〜4世紀の神学論争で排除されていった、グノーシス派が主張した「知識」を重んじる宗教思想です。 -
グノーシス主義の大きな特徴は、人は神に祈ったり善行によって救われたりせず、イエスの死と復活によって人類の罪があがなわれることもなく、『秘密の知識』を知ることによってのみ救われる、という考えをベースにしていることです。
ここでいう「知識」トハ〜。
いま生きているこの世界の真実、あらゆる神を超える存在、人間のやどす神性、どこから来てどこへ行くのか、というやたら哲学的な認識をいいます。
まあ、それっくらいならアンチ宗教な自分には、異端とまで言えないようにも思うのですが、グノーシスなみなさんの主張は、こっからが面白い! -
スタンダードなキリスト教の考え方では、この世は絶対唯一の神が創造した世界、となっています。
しかし、グノーシス主義にとっては違います。
客観的にみて不完全なこの世界―――病・貧困・自然災害などがはびこる邪悪な物質世界は、全知全能の唯一神の作品ではなく、下級の無知な神よって創造されたのだ、と。 -
「異端」とされたグノーシス主義の考え方は、
①最高神は完全な霊性、『神』と表現すら超越する存在で、物質世界とはまったく違う『不滅の王国バルベーロー』で、アイオーンという子孫をたくさん生んだ
②ところが宇宙に大惨事が起こり、アイオーンのひとつが不滅の王国バルベーローから落ち、下級の神々の創造につながる
③これら下級の神々が、物質世界をつくった
④不完全な神のこしらえた不完全な世界であるがゆえに、物質世界は災厄に満ちている
⑤けれど物質世界の人間の中には、完全なる不滅の王国バルベーローから落ちた神性(不死の魂)を、その肉体の奥に宿す者がごく一部存在している
⑥限られた神性を持つ人間は、いわば自覚の無いまま物質世界の肉体に囚われ続ける神なので、あるべき世界、不滅の王国バルベーローへ帰る秘密の知識を学ばなければならない
⑦この真実を明らかにするため不滅の王国バルベーローから遣わされたのが、イエス・キリストという存在であり、神性を宿す者のなかでも彼の教えを理解した人間だけが、肉体の死と共に不滅の王国バルベーローへもどっていく
以上が、多少宗派によって細かな違いはあるそうなんですけど、大筋こんな感じです。 -
グノーシス主義の捉え方なら、「なぜ全知全能の神がいるのに、善人が苦しむのか?」の説明がつきます。
そもそもこの世界は、全知全能の神が創造したものではないと、主張しているのですから。
(個人的には②の、宇宙大惨事とアイオーンの落下を止められなかった全知全能の神って、どうかと思いますが~) -
こんにちのキリスト教の教義とは、えらくかけ離れた内容ですが、初期のキリスト教には多様性があり、福音書もまた、それぞれの主張に沿ったものが存在しました。
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グノーシス主義の主張に沿った福音書で、近年最も有名なのは、『ユダの福音書』ではないでしょうか。
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ユダとは、あのイスカリオテのユダ。
イエスを裏切り、ローマ帝国の役人に売り渡したとされる、13人目の使徒です。 -
1970年代にエジプトの砂漠から発見され、2001年に研究者らが入手・解読した『チャコス写本』と呼ばれるこの本は、コプト語で書かれており、以下の4つの書で構成されています。
①ピリポに送ったペテロの手紙
②ヤコブ
③ユダの福音書
④アロゲネスの書(暫定名称)
この③ユダの福音書が話題となり、日本でもさかんに紹介されました。
では、グノーシス主義の教えが色濃く表現された、裏切り者のユダの福音書とは、どんな内容であったのでしょうか? -
ダメージが大きかったチャコス写本の解読書を読むと、こんにち聖書におさめられたイエスの伝記物語、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書と、『ユダの福音書』は冒頭から異なります。
しばしば子どもの姿で現れるという(!)イエス登場。
12人の弟子達との対話でスタートします。 -
ある日、弟子と共にユダヤにいたイエスは、パンに感謝の祈りをささげる弟子達を笑います。
弟子達は「なぜ笑われるのか。感謝の祈りをささげることは正しいことなのに」と困惑します。
イエスの答えは、
「あなたがたを笑っているのではない。あなたがたは自分たちの意志でそうしているのではなく、そうすることによって、あなたがたの神が賛美される(だろう)からそうしているのだ」
弟子達は、「先生、あなたは(・・破損・・)われわれの神の子です」
イエスは答えて、「あなたがたにどうして私がわかるのか。本当に(私は)あなたがたに言う。あなたがたの内にある人々のどの世代にも、私がわからないだろう」
いきなり途中から、始まっちゃてるみたいな?
対話自体はどっかで読んだような!
でも、全然ちがうような!
そんな、ちんぷんかんぷんな問答です。 -
この会話のあと、怒り出した弟子達へイエスは自分の前に立つよう言いますが、勇気を持って彼の前に立つ事のできた弟子はユダひとりでした。
ユダはイエスに対して、彼がどこから来たのか知っており、それは「不死の王国バルベーロー」であると指摘します。
こうしてイエスと弟子達とユダの対話は続きますが、結論から言うとイエスの難解な言動を理解できるのは、弟子の中でもユダだけになってきます。
つか、読んでるほうも理解できんよー。 -
やがて、イエスはユダの問いに答えて秘密の知識を授けますが、おおよそ次のような中身になります。
①人間は、肉体は死ぬが魂は死なず、天へと引き上げられる
②ただし、死を免れないものは、そこへ入るに値しない
③ユダは13番目となり非難の的となるが、彼らの上に君臨し、聖なるもとへ引き上げられる
④天使も見た事のない、理解も及ばず、いかなる名前でも呼ばれたことがない場所に、『輝く雲』が現れ『自ら生まれた者』によって、天使とアイオーン、そして不滅のセツの世代が創造された
⑤アイオーンと共にいるものたちは、宇宙を破滅と呼び、知識の雲と天使があるアイオーンのエルが現れる
⑥冥府と混沌の支配者があらわれ、サクラス(アラム語で「愚かな」)は天使に命じてアダムと妻エバを造り上げた
―――って、ぜんぜん聖書の話とちがーうッ!!!
しかも、意味不明~!
パニくるような内容です。 -
そして、さらにとどめ!
ずいぶん欠けちゃっているものの、イエスがユダに対して摩訶不思議な知識を授けたのちです。
ユダの福音書ラストは、これまたいささか奇妙で唐突です。
『部屋で祈りをささげるイエス。
そこへやってきたユダが、金銭と引き換えにイエスを官吏に引き渡して、物語はジ・エンド』。 -
でええ〜〜〜?!
なにソレ、まったく意味わかんない。
もう、異端でよくね?
原文翻訳を読んだときは、「時間を返せ」と本を投げたくなりましたが(笑)。
だって、十字架担いで街を練り歩くとか、死の瞬間に「神よ、なぜ見捨てるのですか」的なコト言っちゃたりだとか、墓からふっかーつ!して、ほよよんと、舞い上がりの昇天エピは・・・完全スルー?
へんに部分的な一致があるため、余計に異質に感じます。
まさに「こんな福音書が・・」と衝撃を受けました。 -
しかし!
面白いのは、これからでした。
一読して混乱するユダの福音書は、グノーシス主義の考え方に沿えば、まったく正解なのです。
解説書をもとに、この異端とされたグノーシス主義の福音書の中身を、ご説明しましょう。
(参考文献は旅行記の最後にまとめて記載してありマース) -
前述したグノーシス主義の考え方を、まず思い出してください。
グノーシス主義では、
①わたしたちの生きる物質世界は、下級の神々がつくった不完全な世界
②肉体の死と共に神を超越する至高の存在がくらす、完全なる世界(不滅の王国バルベーロー)を目指さなくてはならない
という考えが、ベースです。
ユダの福音書冒頭で、イエスが感謝の祈りをささげる弟子達を笑う理由は、①に起因します。
弟子達は、「われわれにパンをくださった神様アリガトー」と祈っているわけですが、イエスにとってその行為は、不完全な世界をつくった下級の神々への祈り。
本来あがめるべき完全なる世界(不滅の王国バルベーロー)の『至高の存在』へむけたものではないからです。
弟子達が口々に「われわれの神の子です」という時の『神』は、イエスにとっての『至高の存在』と異なります。
「下級の神々の子である」と言われるのと同義なのです。
そう考えればイエスの、
「あなたがたにどうして私がわかるのか。本当に(私は)あなたがたに言う。あなたがたの内にある人々のどの世代にも、私がわからないだろう」
という、謎めいた返答が理解できます。 -
ところで、一連のイエスの隠された思想を、うすうす察している弟子がいます。
それが、イスカリオテのユダ。
イエスの言動に怒り出した弟子達の中で、ユダだけが彼の真意を汲み、イエスを指して「不死の王国バルベーローからきた」と看破してみせます。 -
あ、話の途中ですが。
←前後のエラそ気な男性彫刻の、色彩再現イラストですv
なんか、いま見るのと全然印象がちがってケバケバ☆ -
戻ります(笑)。
イエスは、正しく理解をしている弟子のユダだけに、下級の神々の世界創造の過程や、選ばれた魂の還る本来あるべき完全なる世界、そしてユダが非難の的になった末に、しかし『13番目』としてその場所へ引き上げられる、といった預言めいた「秘密の知識」を明かしていくわけです。
じゃあ、ラストは?
あの唐突であっけない物語の終わりには、何か理由があるのでしょうか?
結論からいうと、大アリです。
むしろ、あそこで終わらなきゃいけないのが、グノーシス流! -
もう一度、思い出してください。
グノーシス主義の考えによれば、イエスのように肉体に神性を宿す『選ばれた人間』は、死ぬと下級の神々がつくった不完全な世界を離れ、魂は不死の王国バルベーローへ戻っていくわけです。
ユダの福音書のクライマックスは、まさにここ!
不死の王国バルベーローへ還ろうとするイエスを、ユダだけが理解し、望みどおり官吏に引き渡すことで不完全な世界からのイエスの離脱を手助けする、感動のラストシーンなのです。
では、その後の磔刑ストーリーがなぜ不要なのでしょうか? -
苦しみに満ちた物質世界から、選ばれし神性を宿す者へ「秘密の知識」を伝達(=救済)し終え、不死の王国へ戻るのがイエスの本懐ですから、
①「主よ、なぜ見捨てるのですか?」といった肉体の死を嘆く言葉
②一度死んだのち、ふたたび生前の姿でこの世にあらわれる
といった、イエスの不完全な世界への執着や、イエスの復活が救済であるなどは、グノーシス主義からするとまったくナンセンス。
問題外エピソードになります。
そう、下級の神々がつくった惨めで離れたい世界で、イエスが「まだ生きたい」と望むのは矛盾しますし、ましてや脱却すべき肉体の牢獄に「また生き返って戻ってきちゃいました」は、グノーシス的にまったく論外エピです。 -
ちょっと、ひと息。
←この彫刻は、「イナバンに似てる〜vv」(B'z稲葉浩志 )と大はしゃぎで撮ってきたもの♪ -
通路の端っこで、あんま目立ってなかったようですが、個人的にすごくお気に入りでした。
-
なので、今回のヴァチカン旅行記の表紙写真は、この胸像☆
-
名づけて、『ヴァチカン・ハンサム』!
ヴァチカンへおこしの際は、ぜひぜひ探してみてくだたいv -
脱線終了。
話を戻します。
『ユダの福音書』でくり返される、『ユダだけがイエスの本当の教えを理解した、真実の弟子であった』という視点。
こういった読み方は、現在のキリスト教の正典である、4福音書をたたき台にしてもできます。
ユダに「なすべきことをなせ」と指示ったのはイエスですし、ユダが官吏に引き渡さなければ人類の罪をあがなうと位置づけられた、イエスの死と復活がなくなってしまいます。
ユダは、救済実現のキーパーソン。
そうなれば、ユダを単なる「裏切り者」としてよいのかという議論は、必ずしも的外れではないように思えます。
ユダの行為に対する肯定的な解釈は、小説や映画の題材としても時々あるし、さして珍しくもない。
ではなぜ、グノーシス主義が時代と共に、キリスト教内部で異端として退けられたのか、その理由を探っていきましょう。 -
カトリック(普遍的)を謳う教会。
くりかえしますが、ローマ・カトリック教会の教えは、最初からキリスト教の主流だったわけではありません。
キリスト教確立の前段階。
黎明期においては、いろいろな宗派がそれぞれの角度から主張をし、『トマス福音書』『ピリポ福音書』など多彩な福音書が存在しました。
グノーシス主義の『ユダの福音書』もまた、そのなかの1冊です。
けっきょく最後まで支持され残って、わたしたちも知っているキリスト教のルーツとなった派閥を、仮に『原始正統派』と呼ぶとしましょう。
原始正統派にとってグノーシス主義の教えは、ユダがヒーローであるかどうかは問題にならないほど、重大な爆弾を抱えていました。
思い返してください。
グノーシス主義の世界観を。 -
原始正統派にとって、この世界は絶対唯一の神が創造したもの、です。
ご存知、7日間でうんちゃらかんちゃらの世界です。
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画ワールドです☆
ところがグノーシス主義は、不完全なこの世界(病・貧困・自然災害などがはびこる邪悪な物質世界)は下級の無知な神々の創造である、と毅然と主張します。
創造神を凌駕する、『至高の存在』があると。
グノーシス・メンバーご愛用のユダの福音書では、イエスは糧を与える神に感謝の祈りをささげる弟子達を、「あなた方は理解していない」と笑います。
そう原始正統派にとって最重要人物イエスが、原始正統派の唯一神を「自分の神ではなし、むしろヤツは邪悪で複数形だから。そこんとこヨロシク」と言うのです。
深い慈愛と共に原罪をあがなう象徴、イエスの死と復活に至っては、完全スル〜。
これは、痛い。
イタ福音書。 -
さらに原始正統派の頭痛の種は、自分らの正典で「悪者」とされる人物達が、グノーシス主義にかかれば「下級の無知な神々に立ち向かう真実の神につかえる者」あつかい。
アダムとイブの最初の子ども、弟殺しのカインをはじめ、ソドムとゴモラの人々、イスカリオテのユダなど神に反した人物らこそが、じつは正しく真実を見抜き、救済の秘密に至っているというのです。
下級の無知な神々に逆らって、正しい行いをしているのだと。 -
グノーシス・メンバーは、あなどれません。
原始正統派がいかに
「んなわけあるかーっ」
と口に沫しても、
「うんにゃ、それはあなた方が秘密の知識を知らないだけっショ」
一刀両断です。
第三者的には、
「じゃあさ、双方とも今この場でお互いの神サマ連れてきてさ、証明してみせればいいじゃない」
とやりたいトコですが。
あいにく前述の通り、ホンモノの神さまをすぐにその場で、出現させることが可能な宗教は存在しません。 -
歴史上『ユダの福音書』に最初に言及したのは、リヨンの司祭エイレナイオスです。
「正統派」を自負する彼は、紀元180年ごろの著書『偽りの知識の暴露と反駁』(異端反駁)で「グノーシス派」について論じ、その補遺では蛇を崇拝するグノーシス派グループや、その他の小さなグループについて触れました。
『異端反駁』の原典はギリシア語で書かれていますが、現存する全文は4世紀頃につくられたラテン語訳になります。 -
エイレナイオスの記述によると、「異端」であるグノーシス派は、
①ユダヤ教と正統派キリスト教が主張する救済の概念の『見直し』を主張しており
②カイン、エサウ、コラ、ソドムの住人など、正統派キリスト教が不道徳で、神に逆らう反逆者とみなす旧約聖書の人々を、『至高にして絶対的な力』のしもべとし
③その『至高にして絶対的な力』は、人格化した「知識(ソフィア)」で体現されており
④『至高にして絶対的な力』は、ユダヤ教およびキリスト教の『創造主』とは、別ものとして考えられ
⑤ユダが、知識(ソフィア)に通じる唯一の使徒であり、ユダは裏切りという神秘を完遂することよって、地上と天上の万物がひとつに混じり合う
⑥その教えのよりどころとして、『ユダの福音書』と題される文章を捏造している
んだそうでゴザイマス。 -
「正統派」エイレナイオスからみた「異端」のグノーシス主義観ですから、『異端反駁』の主張をそのまま受け止めるのは注意が必要。
批判的検証は欠かせないかと思いますけれども。
それでも、発見されたチャコス写本の『ユダの福音書』の内容と、たしかにかぶる部分があります。 -
紀元後30年頃と推定されているイエス十字架事件ののち、新約聖書の原本がギリシア語執筆されたのが、およそ1世紀初頭〜2世紀前半(イエス死後〜200年以内)と考えられています。
そしてエイレナイオスが、「グノーシス派は『ユダの福音書』という文章を捏造した」と叩いたのが、紀元180年ごろ。
つまり、キリスト教のかなり初期段階から、グノーシス主義の教えに基づいた『ユダの福音書』は成立し(おそらくギリシア語原典が存在し)、対抗派閥にも知られていたことになります。 -
こんにちのキリスト教を聞きかじった現代人からすると、かなり斬新かつ奇抜なグノーシス主義の教え。
イエスはいちおう福音書の主人公ではあるけど、ユダはハン・ソロ(『スター・ウォーズ』)扱いだし、神サマに至ってはもはや別もの。
ユダヤ・キリスト教の唯一神は、フェイク!
「これってキリスト教?」と首を傾げそうな、キリスト教グノーシス主義ですが。
そのルーツは古く、イエスの死後にはじまったキリスト教黎明期、さまざまなグループを擁しながら存在した、「伝統と格式ある」キリスト教一派であったわけです。
このような初期キリスト教にまつわる、古文書が見つかる可能性のある主要な教会や書庫は、現時点で調べつくされたといわれます。
それでも、ナグ・ハマディ文書のサプライズ例もあります。
2〜4世紀の神学論争で排除されていった、イエスや神に関するユニークな主義主張を持つ古文書が、長い時を超えて、考古学の発掘現場から突如あらわれる日が、ふたたび来るかも知れません。 -
福音書だけではありません。
聖書に未掲載の『黙示録』もポコポコ見つかっています。
宗教的な色合いを考慮しつつも、古文書の裏に横たわる昔の人たちの研究が、もっともっと進むのは楽しいし面白い! -
また、書店の聖書学のコーナーでなかなか良い本が見つけられず、あまり触れることが出来ませんでしたが!
真筆の『パウロ書簡』(パウロ書簡集)は、紀元後1世紀の50年代〜60年代前半に書かれたと考えられており、紀元後30年頃と推定されるイエス十字架事件に、最も時代が近接した文書集といえます。 -
パウロ書簡集とは、新約聖書のなかにおさめられた「〜への手紙」というタイトルの13のテキストで、教会や個人に宛てたパウロのお手紙になります。
パウロ書簡集はトータル13通で構成されていますが、後年の研究でパウロ本人の真筆であるとされたのは、そのうち7つのテキスト。
《パウロ書簡集のなかで真筆と考えられているもの》
ローマの信徒への手紙
コリントの信徒への手紙一
コリントの信徒への手紙二
ガラテヤの信徒への手紙
フィリピの信徒への手紙
テサロニケの信徒への手紙一
フィレモンへの手紙
《偽パウロ書簡とされるもの》
テモテへの手紙一
テモテへの手紙二
テトスへの手紙
《真偽が定かでないもの》
エフェソの信徒への手紙
コロサイの信徒への手紙
テサロニケの信徒への手紙二 -
書かれている主張に同意できるかはともかくとして。
パウロ書簡集は時代モノとして、かなり興味深い文書です!
だって、最も時代が古いとされるマルコ福音書でさえ、書かれたのはパウロ書簡集のややあとくらいの年代。
年代順に並べますと〜、↓こんなん。
パウロ書簡、50年代〜60年代前半。
マルコ福音書、68年〜70年頃。
マタイ福音書、80年〜90年頃。
ルカ福音書(ルカ福音書+使徒行伝)、80年〜90年頃。
ヨハネ福音書、90年〜100年頃もしくは2世紀初め。
ユダの福音書、180年以前。
つまり、残りの3つのマタイ・ルカ・ヨハネ福音書や、ユダの福音書などは、パウロ書簡集より新しい時代に書かれているということです。
それぞれの文書の成立年代は推定できるものの、新約聖書の目玉たる福音書でさえ、その存在を確認できる史料は140年以前には無いそうです。
確実にいえるのは、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4福音書の権威が教会で認められ、尚且つ、前述エイレナイオスらによって強化されたのが、2世紀半ば以降であるということ。
パウロ書簡と最新(?)の福音書では、成立に100年近いひらきがあります。 -
新約聖書の中で、時代背景が分からないで読むと、パウロの説教じみた書簡集よか、伝記形式でストーリー性があるぶん、お手軽で読みやすい4福音書のほうがガチですけど〜。
つか、パウロ書簡はどうも全体的に上から目線なので、読んでてヤな感じ・・(汗)。
ただ当時を生きていた人の考え方は、マルコ福音書をのぞけばパウロ書簡集のが空気がより近いんじゃないかな、と。
時代考証も含めた、素人でも分かりやすい研究書が出ていたら、そのうち読んでみたいです。 -
まあ、そんな感じで。
パウロ書簡集はさておき。
ユダの福音書であらわされたグノーシス主義観をはじめとする、数ある異端の福音書は、『新約聖書』の27文書が確定する4世紀半ば以前、正典が確立に至る道筋が、決してひとつではなかった事を教えてくれます。
そして、議論のすえ確定した正典は4つの福音書のけっこう大事そうな記述さえ、必ずしも一貫しておらず、決定的な矛盾やちぐはぐさを内在させながら存在しているのです。
異端とされたグノーシス文書の研究によって、ちぐはぐながら同居する新約聖書の福音書にも、新たな光が当てられました。
その福音書とは、『ヨハネによる福音書』―――。
新約聖書の4福音書のうち、もっとも霊的(スピリチュアル)と評され、冒頭から印象深い表現がちりばめられたヨハネ福音書は、イエスが何者かという部分においても、3つの福音書とは『異質』な立場をとります。
マタイ・マルコ・ルカ福音書記が、イエスという存在を、神から選ばれた人として、神の子であるとか、超人的な能力を宿すとしても、あくまで人間であり『神とは同格ではない』と最後まで位置づけるのに対し、ヨハネだけが最終的には、『神とイエスを同格』とするのです。 -
そして、かな~り上に前述しました通り(笑)、マタイ・マルコ・ルカ福音書が『共観福音書』と呼ばれ、共通エピソードが多いのに対し、
①ヨハネ福音書はマタイ・マルコ・ルカでの、イエスにまつわる有名エピが抜け落ちている
②共観福音書と同様エピが、若干書かれてあっても、時系列はおもきし異なる
③「聖書といえばコレ!」的な、しかし実はヨハネ福音書にしかない超有名エピ満載☆
具体的に行きましょう。
①のヨハネ福音書で抜け落ちる『イエスにまつわる有名エピ』では、共観福音書に数多く登場する、とりわけ『病気の癒し』がエライ勢いで削除されています。
重い皮膚病を患う人・ペトロのしゅうとめ・悪霊につかれたガダラ人・中風の人・イエスの服に触れる女・片手の萎えた人・てんかんの子・エリコの2人の盲人・・etc。
まあ、ようはイエスの『奇跡譚』的な社会奉仕部分なんですけど。
ヨハネ福音書では仕分け、もとい!ざっくりカット~ォ!!
さらに、『最後の晩餐』で弟子たちにパンと杯を与え、自分の肉や契約の血とする部分も削除されます。
ほかにもマタイ・マルコ・ルカのうち、ふたつの福音書に書かれていても、ヨハネに登場しないエピがあります。(汚れた霊につかれた男・百人隊長の僕・4000人に食べ物を与える・イチジクの木を枯らす) -
②の『同様エピでも時系列が異なる』は、もっと違いが鮮明です。
代表格は、なんといってもエルサレムの神殿から商人を追い出すくだり。
~イエスは神殿の境内に入ると、そこで売り買いしていた人々を追い出し始めます。
両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したあと、「あなたたちは祈りの家を、強盗の巣にしてしまった」と厳しい批判をおこない・・~
福音書の物語をうっすら知っている方なら、神殿という公の場でイエスが起こした神殿事件が、祭司長や律法学者の多大なる怒りを買い、直後イエスは逮捕・処刑につながったと記憶されていると思います。
エルサレム神殿事件→祭司長や律法学者の謀議→死を予感させる最後の晩餐→イエス逮捕。
この物語の流れはマタイ・マルコ・ルカ共通です。
しかし!
驚くなかれ、ヨハネ福音書はちがいます。
なんと、クライマックス直前の神殿事件が、しょっぱなにあるのです。
ヨハネ福音書では、冒頭、洗礼者ヨハネがイエスと出会い(ヨハネにより洗礼を受けたエピは無い)、イエスが弟子をあつめ始めた直後に、もういきなり神殿から商人を追い出しちゃってます。
早っ、そして逮捕のキッカケじゃない!
では、ヨハネ福音書のイエス逮捕に至るクライマックスはどこか?
それが、『ラザロの復活』。
「ラザロよ、出なさい」で有名な、死者の復活です。
ドラマチックで、あまりに有名な死者復活のシーンで、すべての福音書に共通していると錯覚してしまいそうですが。
じつは、マタイ・マルコ・ルカ福音書に、『ラザロの復活』は記されていません。
逆に共観福音書の共通エピ、『ヤイロの娘』死からの生還は、ヨハネ福音書から消えています。
ヨハネ福音書のイエス十字架事件は、手足を布に巻かれ、顔は覆いで包まれたまま墓窟から蘇る『ラザロの復活』を契機に、祭司長とファリサイ派よって動き始めるのです。
ここでは、イエスだけでなく蘇った死者ラザロに対しても、矛先が向けられます。
ラザロ復活→祭司長・ファリサイ派の謀議→死を予感させる最後の晩餐→イエス逮捕。
③、『ヨハネ福音書にしかないエピ』をみていきましょう。 -
③の『ヨハネ福音書にしかないエピ』。
さきほど、『ラザロの復活』を取り上げましたが、同じくらい有名なシーン。
4つの福音書すべてに載っているのでは?と錯覚してしまうのが、『弟子たちの足を洗う』です。
ところがこれは、ほかの3つの福音書には無い、『ヨハネ』オリジナル・エピなのです。
ヨハネ版『最後の晩餐』では、削除された『パンと杯はイエスの肉と契約の血』とするエピのかわりに、この印象深いエピが挿入されています。
ここまで食い違う『ヨハネによる福音書』をみてくると、「なぜ、この福音書を正典としたのか?」という、ひとつの疑問が生まれます。
同じ出来事を異なった視点で描くというのであれば、それはそれで意義があるし、表現は違えども矛盾は感じにくい。
時系列も違えば、有名な部分での内容も記載されない、もしくは突如として新しいエピソードが登場する福音書では、明らかに違和感があります。
しかも、『ヨハネによる福音書』は時代的に3つの福音書のあとに書かれているわけですから、イエスの伝記的な体裁を保つのであれば、すでに普及していた先達の福音書を参考にできたはずです。
あえて齟齬をきたす『ヨハネ』が、3つの共観福音書と共に正典に収録されたのでしょうか? -
じつは、新約聖書27文書が決定する以前、「これぞ教会の名において第1番目の福音書にふさわしい」と、『ヨハネ』を猛烈プッシュした人物がいました。
すでにご紹介した、歴史上『ユダの福音書』に最初に言及し、紀元180年ごろの著書『偽りの知識の暴露と反駁』(異端反駁)でグノーシス派をこき下ろした、リヨンの司祭エイレナイオスです!
改宗を拒んだキリスト教徒が、闘技場で見世物として焼かれたり、生きたまま猛獣に引き裂かれていた時代。
弾圧のさなか、エイレナイオスが『偽りの知識の暴露と反駁』を書いたのは、キリスト教内部にあって「どんな考えが正統か」という熾烈な綱引きが行われていたためです。
各地に広がった教会では、『マタイ』『マルコ』『ルカ』『ヨハネ』以外にいくつもの福音書、『マリア』『フィリポ』『ユダ』『トマス』といった福音書が存在し、おなじ福音書を使っていてもそれぞれの集団により、異なった解釈や読まれ方をしていました。
教団がまさしく冬の時代、エイレナイオスの危惧は、こういった彼から見て「正しく」福音書を理解しない輩が、教会においてそれなりの高位につき、信者の尊敬も支持もあつめていた事実でした。
エイレナイオスにすれば、創造神を「本当の神では無い」としたグノーシス派はもとより、『マタイによる福音書』しか奉じないエビオン派、『ルカによる福音書』しか奉じないマルキオン派など、どいつもこいつも、教会内部に亀裂をもたらすものでした。
エイレナイオスは、「宇宙には4つの領域があり、4つの風がある」。
ゆえに教会も「4本の柱のみ」が必要、として預言者エゼキエルが神の玉座を支える4つの生き物(獅子・雄牛・鷲・人間)を見たように、神の言葉も『4書から成る福音書』によって支えられる、と主張します。
さらに、『マタイ』と『ヨハネ』の福音書記は、物語に登場するイエスの弟子たちであり、『マルコ』と『ルカ』はペテロとパウロの弟子で、使徒自身から直接聞いて書いていると。 -
もちろん、現在の新約学者でエイレナイオスの唱えた、福音書記は「12使徒メンバー&その弟子」説に賛同する人は殆どいません。
発見されているほかの福音書同様、テキストに信憑性があるようにイエスの周辺人物の個人名が冠されていても、ホントの書き手が誰か、或いはひとりではなく複数であったのかさえ、全くわかっていません。
ともあれ、エイレナイオスは憂慮すべき教会を分裂させる内容を含む福音書や、それらを使って勢力拡大する「教会内の異端」を防ぐため、指定(?)福音書化にいそしみます。
具体的な中身をみていくと、エイレナイオスが提唱した4柱の福音書のうち、『マタイ』『マルコ』『ルカ』は特別に神の力を授かってはいるものの、イエスはあくまで人間という位置づけです。
3つの福音書に共通するのは、イエス自身が神だとかどうこうではなく、
①これまでの時代が終焉間近であること
②到来しつつある神の王国での審判に、どのように備えるか
そういった部分に、主眼が置かれています。 -
しかし、実際の歴史はご存知の通り。
イエスが「はっきり言っておく~」と断言した、少なくとも弟子達の存命中に訪れるはずの黙示的終末は、イエスの死後も結局訪れませんでした。(『マタイ』16・28『マルコ』9・1『ルカ』9・27)
こうした先達の福音書とは、一線を画して『ヨハネ』の福音書記は、これまでに無い特色を取り入れました。
すなわち、「イエスの正体」です。
新約学者さんらが「アイ・アム言説」と指摘する『ヨハネによる福音書』は、バージョンを変えてしちゅっこ~く「イエスは○○だ」という内容をくり返します。
道、真理、光、命の水、ぶどうの木といった、イエスは○○例え話によって、
①イエスとつながらなければ、神には至らない(ヨハネ14・6)
②イエスは神と同格の存在(ヨハネ16・15)
③外部やユダヤ教との断絶(ヨハネ8・31-59)
てな、ファイナルアンサーへ読者を導きます。
先行する3つの福音書には無かった主張。
それどころか、『マタイ』『マルコ』『ルカ』では、イエス自身が弟子に「イエスは○○だ」と話さないようにと、むしろ戒めています。
(『マタイ』16・13-20『マルコ』8・27-30『ルカ』9・18-21) -
「イエスは神だ」
そうイエスの正体をほのめかすと同時に☆
『ヨハネ』は他の福音書の弱点を克服します!
3つの福音書では、最重要人物イエスによって「来るぞ、もぉー来るぞ!近いっ」とされたにも関わらず、まったく来なかった黙示的終末。
『ヨハネ』はそれを、終末は間近ではなく『いまやその時である(ヨハネ5・25)』とイエスのセリフを差し替えたのです。
つまり。
神と同格であるイエスの手で、死者ラザロの復活がおこなわれた。
終末の審判は、イエスの登場によって既にここにあるのだ、と。
ローマ帝国に弾圧を受けながらも、キリスト教徒運動を統合・連帯させようとしていたエイレナイオスが、『ヨハネによる福音書』を猛烈プッシュした理由は、まさに『ヨハネ』の描いたこのイエス像でした。
①イエスは、神と同格だ
②イエスを介さず神に近づくことは出来ず、イエスを信じ従うことだけが神につながる唯一の道
③本来ユダヤ教のものであった唯一神と、イエスを同一視することによって、もはやキリスト教徒のみが神と結びつく
④『マタイ』『マルコ』『ルカ』で語られる、イエスの終末預言は間違っていたのではなく、起きているのに認識されていないだけ -
エイレナイオスは、初期の福音書を補完し、ユダヤ教から神を奪取し、尚且つキリスト教徒であっても勝手に個人で神とアクセスできない状況――教会を通じたイエスのみが神に至る、多数の信徒の掌握を『ヨハネによる福音書』で成立させます。
エイレナイオスの時代から、150年後の未来。
ニカイア公会議の場で、『ヨハネ』にみられるイエス神格化は、ニカイア信条「(イエスは)神よりの神、光よりの光、真なる神よりの真なる神、造らずして生まれ、父と本質を同一」の文言で、頂点に至ります。
一読するとエラく特殊すぎる『ヨハネによる福音書』は、その特殊性ゆえにグノーシス派の福音書や他の福音書を抜いて正典の一部に収まり、ローマ・カトリック教会の土台にさえなっていきます。
ま、そんな感じでv
ちょっぴり『ヨハネによる福音書』をロックオンしてみまちたー! -
ふひ〜。
ちょっと、ひと休み☆
長かった、ヴァチカン編もいよいよラストへ近づいて参りました〜。
思えば、イタリアへ行く前から浮かれきって『白熱コーギー&ミケランジェロ×プロファイル 稼動終了★』(http://4travel.jp/traveler/need/album/10451853/)なんつって、ミケランジェロ特集なんぞやってましたがv
そろそろ、ミケランジェロが大作を手がけた時代に、関係してきそうな雰囲気が展示にもちらほらし始めます。
←どうすか!
こーいう彫刻は、なかなか紹介されていないんじゃないかな?
人体模型ならぬ、人体解剖彫刻(汗)。 -
ミッキー(注:ミケランジェロ)は、その生涯に最低2回。
レオ様(注:レオナルド・ダ・ヴィンチ)は、約30体の人体解剖をおこなったとされています。
レオ様は1515年、教皇レオ10世の不興をかったため、サント・スピリト病院での人体解剖の権利を剥奪されています。
ミッキーは、サント・スピリト教会の僧院長の許可により、教会付属病院で死亡したハンセン病患者や浮浪者の遺体を秘密裏に解剖するため、教会の一室を提供されました。 -
ルネサンス全盛期、死体解剖には教会による許可、もしくは黙可が優先されていました。
ミッキーやレオ様の時代より古いのか新しいのか、なんも解説がなかったんでワカリマセンけれども。 -
こういった、実在の人体を使った解剖彫刻や骨格彫刻。
現代で言えば本人や遺族の承諾のない「故人の尊厳を犯す違法行為」。
もし、ルネサンスくらい古いものであるなら、当時の価値観で言えば「創造主たる神への反逆行為」の確たる証拠が、ひっそりと展示されている様は、否定した異教の神々を大量に保管展示しているのと、どこか共通した感触をおぼえます。 -
ようは、人にダメっちゅーてるモンを、自分らカネと権力にあかせてせっせとかき集めてるみたいな?
不条理と違和感を刺激する物もありますが。
そんなのばかりってわけでもなく。
←こんな彫刻も。 -
←シニアなカップル、ほっこり彫刻☆
あー。
でも、アレか。
奥たんにくらべて、夫が年いき過ぎてるか。
権力者と若妻か(笑)。 -
学生時代にヴァチカンを見学したときには、それほど気にも留めませんでしたが・・。
-
奥へ行けば行くほど、「キリスト教!」っていうモティーフよりも、ギリシア・ローマ時代の神々の彫刻が、なんと多いことか。
-
ポセイドンをはじめとする、オリュンポスの神々が見下ろす廊下は、これが教会美術館であることが不思議にさえ思えます。
-
たとえば、仏教やイスラム教の付属美術館で、あっちゃこっちゃにキリストやマリア像が並べたてられていたら、「ええっ?」とならないカナ。
-
ヴァチカン博物館では、最終ゴール地点にミッキー(注:ミケランジェロ)のシスティーナ礼拝堂を用意しておるのですが、その途中にあるのが・・・。
←コレ!! -
←コレ!!
-
正面にまわって〜。
←コレ!! -
ななめから!
-
横から!
-
あ、しつこい?
-
えーと。
←こやつが、システィーナ礼拝堂祭壇画で描かれた、『最後の審判』でイエスのモデルっつー『ベルヴェデーレのトルソ(胴体)』だそうな。
展示室の中央に置かれており、みんな一周してます! -
片手を挙げてる絵だよね。
似てるっちゃ、そうかもなー。
たしかに、このムッキー具合はミッキー好みやね。 -
トルソの周囲には、さまざまな女神。
-
キレイどころ?
-
若干、ハーレムっぽいが・・。
-
どの女神様もきりりとしてて、トルソを囲むようすは『女王様(たち)と下僕』って感じ(笑)。
-
そういえば照明器具も見当たらないのに、やけに明るいのー、と頭上に目を向ければ、美しいドーム型天井。
中心に明り取りの窓があって、日差しさえあれば電気とか必要なさそう。
現代の重層建築だと、一番上の階しか使えないテクかも知れませんが、昔の建物にはそれなりに見習うべきところがあるよなーと思いまシタ。 -
「さてと!そろそろシスティーナを目指すか」
トルソでようやくミッキー(注:ミケランジェロ)に近づいてきた感じなので、せっせと順路を進んでいきます。
彫刻コーナーは過ぎたようで、このあたりからは壁画や絵画中心のお部屋。
室内にこれといった展示物はなく、ちっこいキューブ型の部屋のあっちゃこっちゃに、素人には「なんかのお話なんだろーなー」程度にしか理解できない壁画や絵画でみっしり飾られています。 -
うーん。
これは、なんでしょうね?
近づいてみると、どうやら壁の向こうの燃え盛る町から避難してきた人々・・。 -
それと、窓からエラそうにしてるのは教皇かな?
教皇が描かれているなら聖書の物語じゃなくて、歴史を題材にした壁画かも知れません。 -
古典的な画家さんの作品から離れて、ここからは近代的な画風の作品が並びます。
-
ご多分に漏れず膨大な量なので、気になったヤツだけ撮ってきました。
初めてヴァチカンへ来た時、ここを巡回していた制服姿のイアタリアンお爺ちゃんに、パーソナルスペースを超えてベタベタされましたが(笑)、今回は誰もいなかったのでゆっくり見物! -
む!
なんか見覚えあるよ! -
こ、こりも・・・っ!
-
やっぱりゴーギャン☆
-
そして!ゴッホ☆☆
-
有名ドコロは押さえてるって感じですか。
でも、古典絵画に比べて近代作品は圧倒的に少ないところが、芸術が一部の特権から自由になっていった過程を見るようで、正直チョット気分がいいぞ(笑)。 -
これも、なかなか良さげな作品v
ぐずってるお子ちゃまに、ママンがちゅーしてるっぽい?
様式美な聖母子像よりも、リアルで好きかも。 -
えと、作者はMedardo Rosso(メダルド・ロッソ )さん、というらしい。
ネットで検索すると、トリノ出身でミラノの美術学校を、放校。(おい)
神話や英雄にかわって貧しい人々を題材とし、パリ万国博への出品を機にロダンと知り合い影響を与え合った。
1900年パリに移り、以後フランスで活躍し、ミラノで没。
ふーん。
ロダンのマッチョなイメージとは、だいぶかけ離れた印象だけどなあ?
ロダンよりは好きだぞ、ロッソさん。 -
お。
現代のカラてぃんv(注:カラヴァッジオ)的画風。 -
Aroldo Bonzagni氏。
この人もイタリア出身の画家さんのようなんですが・・・経歴がウェブで見つかりませんでした〜。ちっ。
ウィキの翻訳では、ミラノでインフルエンザによって死亡したそう。
ミラノで亡くなる作家が好きなのか、オレ! -
この作品も良かった!
抽象的なんだけど、穏やかにしてくれる、不思議な絵画。 -
あまりに気に入ったので、ミクシィにも飾ってあるvv
絵画って、ホントかっこいいよな! -
ちなみに、やっぱり聞いたことが無い画家さん、ペドロ・カノ?
どうも、スペイン出身で同姓同名の有名画家さんがおるそうで、その人の作品かなー?
つう、とこまでしかワカリマセンでした!
に、日本語訳表記をぺルファヴォーレ・・っ。 -
「に、日本語訳表記をぺルファヴォーレ・・っ!せずとも、すばらしい作品でヨシ!!!」
問答無用な鑑賞に終始する、こせまい近代コーナーを抜けると!
ついにでました!!!
システィーナ礼拝堂×ミッキー×フィレンツエ・ルネサンスグループ〜っ☆☆☆
ミッキー(注:ミケランジェロ)の天井画と祭壇画のほかに、大好きなボッティチェルリの壁画もあるので大興奮ですvv -
「写真ダメ」とかゆってるわりには、周囲の人たち(団体ツアーの方)が撮影会並みに撮っていたので、さりげなくまじっていたら(←おい)フツーにおいちゃんに腕とられて連れ出されました。
「マジくそう・・」(←じゃないでしょ)
しかし、追ん出されても近くに礼拝堂へ戻るルートがあるので、すぐに舞い戻っているオレ。ちゃっかりv
今度は、カメラは出さずに大人しゅう見物。
あいかわらず、今までの流れで写真を撮っている人は多いのですが。
スゴイこと気がついちゃいました!!
「ハーイ、ここは撮影禁止ですよ。シャッター切った人は出てってください」
と、チェック係りの人が2〜3人いるのですが、男性には近寄らないで女性ばかり連れ出してんですよ!
男女がふたり並んで写真撮っていても、男性の方はおかまいなし。
が!
ヒドクね?!
あれか。
女性嫌悪か。
それとも、たくましい男性相手じゃ、やり返されるのがコワいのか?
ちょっと納得いきませんが、まあヴァチカンだしね。
聖書を額面どおりに読むと、女性の従属を謳ってますからね。
にしても、チミたち露骨すぎじゃないの? -
ところで、前に来たときも感じたのですけど。
システィーナ礼拝堂は、ダイナミックな壁画がぞろりと並び、見学者で混雑しているせいか、視覚的にせまい空間に思えます。
映画や、絵画修復ドキュメンタリーを観ると、アリーナクラスの広さを想像するのですが。
実物は、こじんまりした印象。
「ここがコンクラーヴェの会場なんだ〜」
と、ちょっとキョロキョロ。
教皇がポックリいったあと次期教皇の座をめぐり、有力な枢機卿らが火花を散らす場だと思うと、清閑な礼拝堂とは思えない生々しさを覚えます。
密室モノの、緊迫感のある駆け引きはクリエーターの想像力を刺激するようで、ミッキーのお仕事以外でも映画とか小説など、いろんな創作の材料にされる場所でもあります。
それよりなにより、事前学習した場に立っていることが、すでにウットリなんですけど(笑)。
残念ながら、立ち見だと長時間鑑賞するのはしんどいものがあります。
「く、首がイテ・・」 -
出来ればゆっくり座って、祭壇画や天井画を眺めたいところですが、数少ない礼拝堂のベンチは壮絶な椅子取りゲーム状態でして。
座っている人はなかなか動かないし、空いてもすぐ埋まってしまう(涙)。
突っ立ったまま、天井を見ているのはそーとう努力が必要なので、ミッキーの大作に押され影が薄くなっている、ボッティチェルリのどこか牧歌的な壁画などを見逃さないようにガンバリマ〜ス!
おっと☆
忘れちゃならないのが、事前学習で読んだ「ミケランジェロの天井画が立体的に見られる位置」に立つこと。 -
見学者の皆さんが上を向いているときに、床下を確認しながらそそくさと本に書かれてあった位置に両足をそろえます。
期待をこめて天井を見上げると――――!!!! -
まったく、なんの変哲もありませんでした・・。
うそつき!
なんだ、あの本はッ!!!!
「少しでもポイントが違うと見えないのかな?」
数歩ずらして立ち位置を変えても、天井画が立体的に見えるなんて事はありませんでした。
まったく。
確かめればすぐバレるような事を、まことしやかに本にするしょうもないゴシップ書きの著者っているもんなんですね〜。
これも、ミッキーの有名税みたいなもんなのかな。
筋が突っ張った首をまわしながら、礼拝堂をあとにします。 -
いささか唐突ですが。
ここで、ヴァチカンで非常にハマった絵描きさんを、ご紹介いたします〜v
システィーナ礼拝堂をクリアすると、大物ぞろいの絵画部屋が続くのです。
すかっし!
知らない画家さんもおるわけでして。
そんな、おひとり様をご紹介っ。 -
←コチラ、もとはサンティ・アポストリ教会にあった、天使像シリーズ☆
-
メロッツォ・ダ・フォルリという画家さんが、描いてるらしいよ!
-
ウィキでも紹介されてるんですが、色合いが全然チガウ・・。
ウィキ→(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%AA) -
ピントは甘いけど、ノーフラで撮ったワタクシの写真の方が、肉眼で観たのに近いと思うよ!
ウィキ・・なんであんな汚い写真なんだ・・?? -
あま〜くて、ほんわかした画風です。
-
日本では、画集も出てなさそうな画家さんですが、すっごくイイ雰囲気で、おすすめ!
-
フランスのオルセー美術館で出会ったピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌのように、ここヴァチカンでも「存在も知らなかったが好きだー!」的な絵描きさんを見つけられてウレシイv
-
そんなわけで、メロッツォのフレスコ画をがんばって1枚1枚写真におさめる。
-
本屋さんで見かけないご当地作品は、こうして自力で撮ってくるしかない!
-
まあ、なんつーか。
現地展示が重要という立場ですので、教会になったフレスコ画を引っぺがしてきちゃったのはどうかと思いますが。
薄暗い教会で、たとえば天井近くにあるフレスコ画なんかだと、よほどうまい採光がされとらんと、よう見えんかんね。
間近でキレイな作品を拝めるっつーのは、有り難いことではありマス。 -
んん〜。
でも、チョットまずい気はしちゃうけどねー。 -
あたりを見回すと、若干おなじような引っぺがし容疑が高いような作品もチラホラ。
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とても雰囲気があって目に付く作品なのに、描かれているのが画布じゃなかったり、額装されていないのは、けっこうアヤシイ(笑)。
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どうも、このひっぺがし部屋には、ヴァチカンおすすめの絵画が展示されているらしく、「どっかで見たよなー」的な作品が多数取り揃えられております。
-
コレなんか絶対ボッティ(注:ボッティチェルリ)でしょー。
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図録でしかお目にかかれない作品の現物を眺めるのは、やはり興奮します。
-
さらに、貴重な絵画コーナーに差しかかると、先ほどまで明るかった照明も、ぐんと落とされます。
大勢の人が、暗室のような展示室で足を止めます。 -
よく考えると、これらは制作当初は設置教会の権威と雰囲気作りにつかわれていたわけだし、それって絵画が主役とは言いがたい。
こうして、ピンで大勢の人に鑑賞されるようになったのって、描いた画家さん的にはシアワセなことなのかなー? -
お。
レオ様、発見v
『聖ヒエロニムス』ですな。
薄暗い中でも、ツギハギ部分がかなり目立っていて、もったいない感が強い。
レオ様の一連の失われた作品群に比べれば、運が良い方なのかも知れないけど。
それにしても、満身創痍の絵でございました。 -
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だだっ広いサン・ピエトロ大聖堂では、ミッキーのピエタに観光客のほとんど持ってかれていますが、それでも見渡せばこじゃれた彫刻がちらほらしております。
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柱の根元を飾る、天使のレリーフがかわゆいなーと思っていたら・・。
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本人が気に入ったのか、親がテンションあがっちゃったのか分かりませんけども。
可愛い女の子が、レリーフの前で写真を撮り始めます。
む。
可愛いなー。
絵になるなあ〜。 -
自分の中では、少しでも見目良い欧米系ガイジンさんイコール老若男女問わずモデルさん、みたいなイメージがあるもので。なんとなく(汗)。
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世界のあっちゃこっちゃに住む、さまざまなバックグラウンドを持つ人々を強く惹きつけている宗教なら、少しくらい理解しがたい部分はあれど専門家の解説書をじっくり読めば目からウロコ!
(ちなみに、『目からウロコ』も新約聖書由来☆〜「使徒言行録」9章18節『目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった』〜)
正しく理解し、理論体系に納得できれば、神サマの存在への確信に多少なりとも共感できたり、エラそげな教会の主張もち〜っとは支持できるかナ?
そう、思いきや・・・。
キリスト教の正典ひとつとっても、書き手によって主張が異なり、数々の解決不能な矛盾が発生してしまいマス。
読み方も、抜き出し読みでは全体の主張と齟齬をきたすし。
想像以上に、やっかいな読み物であるのは間違いないでしょう。
どんなにおかしくても、最終的には教会の指針を是とすることで、折り合っているようです。
うぐっ!
無理。
「教会が言ったから」で済まして、自分自身で確証を無いものを、どうして容認できるんだ・・!
信仰を持たない自分には、そもそも身近に信者サンの存在がないため、信仰者の気持ちのありようが、どこか遠く。
外部にいると、「ああそう、やっぱり理解できんわ。ごくろうさん」で片付きますし、信仰による現実社会との矛盾が無いぶん、楽チンではあります。
けれど、小さい頃から宗教を取り入れた生活があって当たりまえの環境で育ち、生きていく上で信仰を指針として切り離せない人にとっては、聖書の教えも教会の判断も非常に重要。
私には大したことではない「聖書もしくは教会で認められない」というのが、信仰を持つ彼/彼女たちにとってみずからの根幹を揺るがす、深刻な問題であるようです。
信仰と分かちがたく生きている人にとって、信じる宗教の権威から否定されたとき、それに反論するロジックと実践がどれほど困難で勇気のいることなのかを、知りませんでした。
まして、教会の主流とは異なる考えを持つ、マイノリティーに属す人たちへの内部での軋轢がどれほど過酷なものであるか、思いが及びませんでした。
とても理解が足りなかったと反省しています。 -
なので、それを気づかせてくれた本!
ローマ・カトリックの総本山、ヴァチカン旅行記の最後に1冊だけ、ご紹介したいと思います。
『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』(ジェフリー・S.サイカー 編 森本あんり 監訳 日本キリスト教団出版局)
この本は同性愛への考え方をめぐって、キリスト教が伝統と教義によって一枚岩のようにまとまっているのではなく、教派、教会内においても非常に多種多様な考えと、ぶつかりあい、そして宗教の枠にとどまらない物の見方―――人間社会における文字通り「普遍的(カトリック)」な思考への模索を、見せてくれます。
『ミケ×プロ』でも触れましたが、人格者として評判の良かった前教皇ヨハネ・パウロ2世は、教義上は超保守な立場。
現教皇ベネディクト16世も、前教皇の方針を完全に踏襲しています。
彼は2007年の3月の勧告のなかで、「男女の結婚を基礎とする家族の価値は譲り得ない」とまで、発言しています。
教皇を頂点とするヴァチカンは、婚姻と家庭の尊さを重視するとして、避妊やコンドームの使用、人工授精や中絶、聖職者の独身制の廃止、女性司祭の登用といった、ごくまっとうな主張に、ことごとくうしろ向きな姿勢です。 -
トップがこの調子ですから、教皇庁教理省の公式見解や同性愛に否定的なキリスト者の言説も、眉をひそめるような中身でいっぱいです。
曰く、
①同性愛は罪であると、聖書にはっきり書かれている(以下、*はその例)
*「創世記」1章26-28節、神は自身と似姿の男女を形作り、その直後「産めよ、増えよ」と祝福されている。
このことから、自然の秩序として異性愛こそが、人間の性モデルである。
ゲイ/レズビアンの性行為は、子孫を残せない「本質的に非生殖的」であるため、祝福されない。
*やはり「創世記」19章1節~25節、ソドムの男たちはロトの男性客(天使)へ、性的集団暴行を加えようとして滅ぼされた。
「ソドミー」は忌まわしい、という聖書の道徳的判断がなされている。
*「レビ記」18章22節、20章13節、「選ばれた民」に属する必要条件に、『女と寝るように男と寝る』ことが禁止されている
*パウロ書簡「コリントの信徒への手紙一」6章9節、パウロは教理について述べ、やはり同性愛行為を行うものは神の国へ入れないとしている
*パウロ書簡「ローマの信徒への手紙」1章18節~32節、パウロは人類を覆いつくす暗闇の一例として、同性愛行為をあげている
*パウロ書簡「テモテへの手紙一」1章10節、同性愛行為を行う人々を罪人と名指ししている
②アルコール依存症と同じで、同性愛の傾向性(性志向)と同性愛行為(実践)とは、区別されなければならない
つまり、「同性に惹かれる」という同性愛者の傾向性、それ自体は罪ではないが、同性愛行為は性行為の本質的かつ不可欠な生殖目的を欠き、内在的秩序に反するので、どのような場合にも認められない
③同性愛の男女は、異性愛へと性指向を変えるか、さもなくば肉欲を遠ざけ貞潔な道(禁欲と独身主義)を選ぶべき。
そのことによって、イエスが十字架を受け入れた事と同様に、自己放棄という犠牲を払うことで、破壊的な生き方から逃れられるし、赦され、救いと恵みを受ける。
④同性愛指向は罪ではないが、内在的悪へと向かう強い障害であり、また同性愛行為は罪であるため、ゲイであると公表した男女に対して、按手礼(信徒を牧師や司祭など、聖職に就く者を聖別し任命する際に行われる)は拒否できる。
⑤同性愛を認めろという人々は、教会に深刻な亀裂を与え分断へ導いている。 -
ううむ~・・。
言われる箇所だけをなぞれば、たしかに聖書は同性愛を禁じているように読めます。
アルコール依存うんぬんは不適当だし、聖職拒否は露骨に性差別っぽいし、反対意見を黙らせるような高圧的な表現に、大反発を感じるものの!
確かに書いてあるのはあるので、「それでも信者として居たいなら、所属しつづける限り従わざるえない部分があるのでは・・?」とウッカリ、うなづいてしまいそうな主張。
これに対して、「うんにゃ、そこだけ読んじょってもわからんのヨ!」と反対の立場をとる聖書学者サンたちがいます。
反論を見ていきましょう。
①聖書には、複数の性「道徳」があり、同性愛に限らず特定の性行動について聖書から直接の指針を得ることは難しい。
旧約聖書は、男性の性的所有物としての女性・子ども、一夫多妻制、死亡した夫の兄弟と結婚するレビレート婚の容認をしているし、新約聖書には独身主義の奨励、離婚の禁止、さらにイエスの「愛する弟子」が存在する
(以下、*は引用部分への反証)
*「創世記」1章に書かれているのは、自然と人類全般のことで、ヘブライ語の「アダム」は正確に訳すと『人間』で、男女を含めた人類全体を指す。
したがって、ここでの「男」と「女」に社会的意味合いはなく、典型的な人間像を述べているだけ。
異性愛が大多数のあり方としても、それが性の唯一のあり方という事にはならない。独身主義や性的不能や同性愛について、何も語られてはいない。
これは、生き物にはなぜ種類があるか、なぜ安息日がそれ以外の日と区別されるのかを語った「原因譚」物語であって、「人間が何をすべきか」を指示するものではない。
神に「似せて」創造されたという宣言は、神にとって人間が他の創造物より特別であることの強調であるが、人間の性別と生殖能力が「神に似ている」と解釈するのは誤りだ。
イスラエルの神は、性別を持たない。
*「創世記」19章1節~25節ソドムの物語は、よそ者への冷遇という不正義を非難しているのであり、同性愛行為の道徳判断ではない。
あるいは、「エゼキエル書」16章49節によれば、『お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった』としており、貧欲と貧しい人への無関心こそ、ソドムの罪と定義する。
「マタイによる福音書」(10章12-15節)「ルカによる福音書」(10章10-12節)の平行記事によれば、『客人冷遇』がソドムの罪とされる。
*「レビ記」18章22節、20章13節『女と寝るように男と寝る』の禁令は明快ではあるが、取捨選択の問題がある。
ほかに禁止事項として、もみあげをそり落とすこと、入れ墨をすること、ひげの両端を剃ること、ひとつの畑に二種の種を蒔くこと、二種の糸で織った衣服を身に着けること、家畜を異種交配させること、といった章句もあげられているが、そちらは「現代では通用しない」と不問にするのは矛盾している。
*パウロ書簡「コリントの信徒への手紙一」、パウロは同性愛行動とる男性を指す言葉としてギリシア語で、「マラコイmalakoi」(軟弱な者、転じて年長男性に売春をする若者)「アルセノコイタイarsenokoitai」(「男性」と「寝床」の単語を組み合わせたもの)を使っているが、パウロが非としているのが、男娼とその客を念頭においているのか、それとも一般的な男性の「同性愛」行動を言っているのか定かではない。
ゲイ/レズビアンの人々が異性愛の人々と同じように、同意の上で一対一の持続的関係を求めているならば、パウロは7章でパートナーの相互性・相恵性を称揚している。
*パウロ書簡「ローマの信徒への手紙」
パウロは、同性間の搾取的性行為(成人男性と少年)や男性売春を、神を拒み偶像を崇拝することの一表現として、断罪している。
このような搾取的な形態と、今日の同意に基づく成人同性間の性表現を、同列に語ることは出来ない。
また、11章14節~15節では、女性は髪を長く男性は短くすべきである、とされているがそういった内容は議論されない。
*おなじく「テモテへの手紙一」2章には、従属を女性のあるべき姿と教え、女性は「子どもを産むことによって救われる」とされているが、このことを現代に当てはめる人はいない。
②同性愛が「病気でない」ことは、1973年米国精神医学会理事会の決定で、同性愛が精神疾患リストから削除がされたことにより決着している。
ゲイ/レズビアンであることを、精神的疾患および身体的疾患の伴い、進行すれば命の危険に至る薬物依存症の一種のアルコール依存症と、同列に論じるのは間違いである。
③ゲイ/レズビアンは、能動的に異性愛の代わりに同性への愛を選び取ったのではなく、性的成熟期を迎えるにつれ自然に自覚するのである。
他者へ沸き起こる愛情が自らコントロールできるものでない以上、同性愛という指向は与えられた本性のひとつで、神の人間に対する意図の歪曲とはいえない。
④聖書を根拠に、性指向で按手を拒否することは、他の「罪」が按手拒否の基準とされていない以上、あきらかに不当である。
また、この問題は司祭と信徒を隔てる。
司牧活動では独身を通すことが神の特別な賜物とされ、司祭たちがみずから独身生活を選び取るのに対し、同性愛信徒には独身という選択肢しかない。
性の実現は、異性愛者だけに許される権利なのか?
⑤神から与えられた真理として、教会の権威的な確信とともに善悪の基準が主張され、話し合いすら許されないのなら、そうした基準とは道徳的衣をまとった、社会関係における強者の権益表明にすぎない。
はあ~。
なるほどー! -
①聖書の主旨が、同性愛非難と誤って解釈されている
②同性愛行為が否定的に書かれてある部分では、それと同列な「罪」はあっさり無視されるダブルスタンダード
③否定されているのが搾取的な同性愛行為であることから、成人間の合意に基づく関係までは言及されていない可能性
『同性愛は罪』という、聖書解釈に対する否定意見は、非常に説得力があります。
聖書の文書はそれぞれ、書き手も違えば、成立時期も違います。
聖書に登場する具体的な律法や規定や道徳の教えは、どれも多かれ少なかれ当時の社会背景、多数意見、地域の特徴といった、制約があることは否めません。
ですから、古代社会で使われた人間の性と性関係の枠組みや解釈法を、コンニチも無批判に採用し、現代社会に当てはめて良いのでしょうか?
とはいえ、教会が聖書を規範的文書と位置づけている以上、聖書を無視した解釈では着地点がありません。
こうした聖書をめぐる徹底した議論は、先に述べられたような分裂や亀裂をもたらすものではなく、文書集の解釈という点ではむしろ認識をあらため、理解をより深める方向へ進んでいるように感じます。
さて。
「教会の教えは、聖書的視点と教会自身の絶えざる伝統と、有機的な継続性の中に置かれている」として、異性愛間の家庭生活を擁護し促進すると明言した教理省ですが(1986年ローマ)、伝統的には異性間の結婚より、長きにわたって禁欲主義(独身)が尊ばれていました。
くわえて、近年の調査研究から、これら教会の「伝統」を覆す発見がなされています。
教会は同性愛に対しても、常に一貫して厳しい態度を取ってきたわけではなかった。
なんと、灯台下暗し。
ヴァチカン図書館が所有する4世紀のギリシア語典礼文書には、同性間の結婚記録がある!
この事実を明らかにしたのは、イェール大学の中世史研究家ジョン・ボズウェルです。
彼は、著書『古代中世ヨーロッパにおける同性結婚』で、教会が異性間の結婚を聖典礼に定めた1215年より9世紀も古い時代、同性間契約儀式の存在があったことを指摘します。
記録によると、同性愛者の契約儀式では「信仰と愛の模範」として殉教した一組の男性たち(セルギウスとバッカス)が讃えられ、ふたりが「揺るがぬ信仰と偽りなき愛」を与えられるようにとの祈りと共に、彼らの祝祭日がもうけられていました。(教会暦10月7日) -
「神の意図・自然の摂理に反している」という言葉に象徴される、「生殖の可能性が無い」ゲイ/レズビアンの結婚・性行為への、頭ごなしの反対意見には、以下の疑問がぬぐえません。
また、生殖の可能性が最重要であるなら、同性カップルに限らず異性カップル同士にも「生殖の可能性が無い」結婚や性行為はありえます。
生殖が身体的に難しい、不妊カップルが結ばれるのは罪なのか?
出産の可能性の無い高齢カップルは、子どもをほしがらない夫婦は祝福されない?
ふつーに考えれば、結婚の目的は愛や親密さや相互性であり、生殖の有無は結婚の第1目的ではないし、性規範でもない。 -
準備中
-
同性愛者であることを否定せず、ありのままの人として教会で受け入れるよう支持する人々(同性愛者/異性愛者/両性愛者のいずれにしても)の言葉は、その宗派に属さない門外漢にも伝わる説得力と根拠とを持ちます。
同時に、愛情を持つことを否定される彼/彼女たちが、否応なく向き合う痛みに、共感を持って応えていく事を教えてくれます。
それは、「受け入れられないから」と、自らの一部を成す信仰という神と他者とのつながりを放棄せず、教会の内部と同時に外部の人々へ働きかけ、語り合う途方もないチャレンジは、言葉は無いけど多くを語りかけてくれます。 -
おおよそ『宗教』と名のつくものに、アタマから懐疑的な性分ですが、世界には何かしらの信仰をもっている人がたくさんいます。
多様性が重要なら、彼/彼女の思想・信条・良心の一部を成す、宗教観も尊重すべき。
とはいうものの、どーしても理解できないのが宗教という、やっかいなピラミッド――――。
ぶっちゃけ、世の不条理に対して「御心は計り知れない」と開き直るずうずうしさを含め、言うまでもなく宗教は魅力的です。
神の存在を探るミステリアスな云々や、語り継がれた奇跡譚、時代ごとの力強い美術品の数々、目を覆う悲惨な事実をあたかも美しいことのように塗り替えてしまう心理操作。
宗教が纏うキラキラしい部分も、外部や内部への陰湿で熾烈な圧力よりも、そうしたネットワークにかかわる大勢の人間の生き方に、もっとも魅了されます。 -
《参考文献》
『バチカン――ローマ法王庁は、いま』(郷富佐子 著 岩波新書)
『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(加藤隆 著 大修館書店)
『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』(加藤隆 著 講談社現代新書)
『福音書=四つの物語』(加藤隆 著 講談社選書メチエ)
『信じない人のための〈宗教〉講義』(中村圭志 著 みすず書房)
『ルポ 在日外国人』(高賛侑 著 集英社新書)
『バチカン株式会社 金融市場を動かす神の汚れた手』(ジャンルイージ・ヌッツィ 著 竹下・ルッジュリ・アンナ 監訳 花本知子、鈴木真由美 訳 柏書房)
映画『第9地区』原題:District 9(ニール・ブロムガンプ 監督・脚本)
『国家と犠牲』(高橋哲哉 著 NHKブックス)
『他者の特攻―朝鮮人特攻兵の記憶・言説・実像』(山口隆 著 社会評論社)
『捏造された聖書』(バート・D・アーマン 著 松田和也 訳 柏書房)
『新約聖書 新共同訳』(日本聖書協会)
『破綻した神キリスト』(バート・D・アーマン 著 松田和也 訳 柏書房)
『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』(バート・D・アーマン 著 津守京子 訳 柏書房)
『原典 ユダの福音書』(ロドルフ・カッセル マービン・マイヤー グレゴール・ウルスト バート・D・アーマン 編著者 日経ナショナルジオグラフィック社)
『解剖学者がみたミケランジェロ』(篠原治道 著 金沢医科大学出版局)
『禁じられた福音書 ナグ・ハマディ文書の解明』(エレーヌ・ペイゲルス 著 松田和也 訳 青土社)
『娼婦と近世社会』(曽根ひろみ 著 吉川弘文館)
『キリスト教は同性愛を受け入れられるか』(ジェフリー・S.サイカー 編 森本あんり 監訳 日本キリスト教団出版局)
映画『フード・インク』(ロバート・ケナー 監督)
『カナダ合同教会の挑戦 性の多様性の中で』(アリソン・C・ハンドリー著 ロバート・ウィットマー、道北クリスチャンセンター共訳 新出版社)
映画『ベルベット・ゴールドマイン』(トッド・ヘインズ 監督)
『世界屠畜紀行』(内澤旬子 著 解放出版社)
『』
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この旅行記へのコメント (12)
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- 唐辛子婆さん 2011/06/19 09:50:05
- 300枚!
- きっちー姫、おひさ〜♪
おひさしぶりなのにのっけから文句いうのもなんですけど
さあ一緒にバチカンを歩き倒そう!!と意気込んだ矢先に300枚!!
と聞いてもう元気をなくしちゃいました。
じっくり読めないぢゃないかぁ!
PCの前に2時間以上座り続けると痔になるって聞いたぞ。
お願い、分けてちょおだいませ。
唐辛子婆
- きっちーさん からの返信 2011/06/20 17:06:05
- 歯の検査に行ったらモロ虫歯が発覚した姫旅行記へようこそ、ペッパー女王
- むし歯な上に、痔はやだなあ〜(笑)。
唐辛子女王様、ごきげんうるわしゅう。
300枚になってるとは、現地で撮ってた時やアップしてた時には気がつかなかったんですけれども。
「コレも撮らなきゃ!あれもスゴイよっ」って、脳内ハッスルしているうちに1箇所で300枚越えしまちた・・。ホントはアップしてない写真がまだあります。
まあ、いいじゃないですか。
話を脱線脱線させつつ、ゴールに向かう旅行記ってコトでv
はまってるアメドラの話まで入ってきて、ちゃんとお題に戻れるか心配です。
もう、書くのでいっぱいいっぱいでござる・・分ける気力が無い〜(笑)。
すみません。
一緒に痔になってください。
- 唐辛子婆さん からの返信 2011/06/21 01:45:32
- RE: 歯の検査に行ったらモロ虫歯が発覚した姫旅行記へようこそ、ペッパー女王
- > まあ、いいじゃないですか。
> 話を脱線脱線させつつ、ゴールに向かう旅行記ってコトでv
> はまってるアメドラの話まで入ってきて、ちゃんとお題に戻れるか心配です。
> もう、書くのでいっぱいいっぱいでござる・・分ける気力が無い〜(笑)。
そうね、その気持ちは十分にわかる。
> 一緒に痔になってください。
しかたないか。ってやだあ。
それよか虫歯をなおしなさいっ!!
きっちー姫の母上と一緒になって怒る唐辛子婆
- きっちーさん からの返信 2011/06/22 18:44:23
- チョコは控えて、キシリシュ噛むか・・。
- すぐ治してくれるんかと思いきや、歯医者って小分けに治療するからあなどれません。
麻酔打たれて奥歯のどっかを削られましたが、痛みよりも麻酔のせいで唇がしびれて、変な感じ・・。
脳梗塞とかで、感覚なくなっちゃうのとかって、こんな感じなのかなーと思いつつ、歯を磨いてます。
麻酔打つと味覚も苦いだけになっちゃって、つらいです。
しくしく・・。
やっぱ、歯磨きはサボらずこまめにですね〜。
- 唐辛子婆さん からの返信 2011/06/22 23:18:35
- RE: チョコは控えて、キシリシュ噛むか・・。
- > 麻酔打つと味覚も苦いだけになっちゃって、つらいです。
> しくしく・・。
お〜お〜かわいそ。
ステビア育てて葉っぱむしって食べれば?
あまいよ〜〜。
> やっぱ、歯磨きはサボらずこまめにですね〜。
唐辛子婆は近所にと〜ってもいい予防歯科があるので
毎月歯石チェックに通っています。
こまめに磨けば入れ歯にならずに一生を終えることが
出来るのよ。
唐辛子婆
- きっちーさん からの返信 2011/06/23 21:05:32
- ですよねー
- ステビアって甘いんですか!
育ててみようかな・・。←さぼてんも半分壊滅させたやつがいうか・・?
ちびっ子時代に、道路の花壇のツツジの花を後ろからチュッて蜜を吸ってましたけど。
大人になると、除草剤とか害虫よけの薬品が付着してそうで、怖くて道端の植物には手が出せません。
歯石取りは虫歯予防に欠かせないことが、このたびよ〜く身にしみました。
キュイーンってやられるより、まだゴリゴリと重低音な歯石取りのほうが、心が軽い!
今日も歯磨きがんばります。←ちゃんと磨けていれば、がんばるもんでもない
-
- ジェームズ・ボンドさん 2010/09/26 23:23:02
- 宗教は麻薬だ
- キリスト教とユダヤ教について本を読んだことがありますが、歴史的に不思議なのは異端的で新興ローカル宗教に過ぎなかったキリスト教が現在、これほどの隆盛を誇っている事です。
イエスが名前でキリストが救世主なのは「餃子の王将」のネーミングと同じ構成ですね。
「神もホトケも有るものか」という感覚のワタクシが申すもなんですが「宗教は麻薬」と言うには色々な意味が有ります。
心の平穏から単なるガス抜きまで、使用目的は様々。
しかし「神は存在するか」という命題の回答は、ただ一つ「存在する、それぞれの心の中に」です。
NHKの白熱教室を見てますが、文化面環境面の人格形成に重要な部分の違う人々が議論し合うこと自体ムリな気もしてきましたよ。
議論する事自体に意義があるとセンセはおっしゃってますが。
- きっちーさん からの返信 2010/09/26 23:50:38
- 白熱教室v
- オイラも生で観てまちた!
面白かったv
抽選がハズレてがっくりでしたが、1部登場の英語ペラペラ・ピーポーを観てたら、すっかり萎縮しました(汗)。
いやー。
こんだけ旅行してんのに、自分てばなんもしゃべれない・・。
世代が違うと、もっと考え方がドライもしくは保守的かと思いましたが、意外だったし、すっごくスカッとしましたね。
とくに2部では、「今も続く現実がある限り、自分たちの問題」とか「被害者の視点でみなければ」という意見、あと憲法議論まで出てきたときには、ちょっと感動しました。
サンデル教授も、憲法まではノーマークだったろうし、まとめるのが大変そうでしたが、「オバマ大統領にどんな謝罪を要求するのか?」という質問には、考えたことなくてびっくりしました。
なんか、まだそれ以前な感覚ですが。
被爆者は中国にも朝鮮半島にもいるわけだし、その人たちもひっくるめた謝罪じゃないと、どうなのかな・・と、モヤモヤしているうちに、スパッと言われちゃって。
リベートは頭の回転も早くないと、難しいものだと〜(笑)。
ハーバード版とはまた違ってヨカッタと思いますv
-
- 権天使さん 2010/09/18 17:42:59
- 写真全307枚?
- そんなにある?
表示間違え?
- きっちーさん からの返信 2010/09/18 19:18:22
- おっしゃ、自己ベスト!
- 自分じゃ数えとらんので確かな事はわかりましぇぬが、らしいっすよん??
-
- ジェームズ・ボンドさん 2010/09/03 23:25:12
- 写真だらけ
- 一度に沢山の写真をアップロードするのはタイヘンなのに、たいしたもんです。
こっちは20枚もアップしたらグチャグチャになるというのに。
デジカメだと、ほぼ無制限に撮影できるけどフィルムカメラの頃の貧乏臭さが残ってるのでデジカメでもガンガン撮影できないのだ。
エラいなー。
- きっちーさん からの返信 2010/09/04 10:27:15
- 挑戦的?
- ほほほっ。
開いちゃった人に対する、軽い嫌がらせですね(笑)。
これでも削った方ですけど・・。
SDカードには、自分以外の人にはなんで撮ってるんだか理解できないのが、まだまだ残ってます〜。
フィレンツェ写真、順番間違えて変更したいんですけど、編集機能が変わってしまって使いづらいです(泣)。
いっかい削除して、アップしなおさないとダメかなあー。
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