2010/03/17 - 2010/03/25
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miyabi-doさん
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本日も快晴。
見上げれば、雲ひとつ無いカリフォルニアの青い空が広がっていた。
例によって、モーテルの受け付けカウンターでカードキーを返却しつつ、無料のコーヒーをもらったら、本日も車旅のスタートである。
青というより紺色に近い空の下、80号線を少し西に戻り、50号線を捕まえて東へ。
昨日尋ねたサッター砦から40マイル(約84km)の所が、1848年に起こったゴールドラッシュの発端となった金発見場所である。
50号線をしばらく走って、49号線に右折すると、ハイウエイだった道は一変して片道1車線の田舎道になった。
道は舗装されているし、別荘&牧場地帯を多少のアップダウンを繰り返しながら、ハイウエイはあまり必要ない、ハンドルを切る動作を加えて、クルージングを楽しんだ。
最初に金が発見されたのは、1848年1月24日の朝である。
第一発見者は、ジョージ・マーシャル。
提携関係にあったサッター(昨日見学した砦の主)に、川で拾った燦めく石を見せ、詳しく調べたところ23カラット(純度96%)の金であることが判明した。
金発見を堅く口止めしたにもかかわらず、その噂はある男の策略(?)をきっかけに、燎原の火のように広がってしゆく。
その男は金発見の噂を耳にするが、商売のチャンスとばかり、すぐに口外するのを思い留まった。
その一方で、金探鉱物資に必要な道具を売る店を大急ぎで作り、商品を可能な限りかき集めた。
店が開店にこぎ着けた途端、金を入れた小瓶を掲げながら市内の通りを闊歩して、「金だ!金だ!アメリカンリバーから金が見つかった!」と叫ぶ一方で、そのニュースを自社の新聞にも掲載してのけた。
つまり、男は一度も金鉱夫にならず、ひとつも手を汚さず一粒の汗も掻かずに大儲けしたわけである。
男の名前は、サンフランシスコ在住の新聞社主にして商人のサミュエル・ブラナン。時に1848年3月の事である。
同じ年の8月19日には「ニューヨーク・ヘラルド」紙が、東海岸初のニュースとしてカリフォルニアのゴールドラッシュを伝えた。
その結果、アメリカ中どころかヨーロッパやオーストラリア、南米そしてアジアからも何万人もの人々をも惹きつけ、世界中から押し寄せた人々の数はおよそ30万人と言われる。
それまで人口500人(一説には1000人)ほどの寒村だったサンフランシスコは、押し寄せる人で溢れかえり、広大な湾内には帆船がひしめき、マストが林の如く林立した。
金が発見されたコロマ(Coloma)周辺は、元々山間の何もない峡谷だったが、毎月1万人近い人口が流入し、2年後には20万人に膨れあがり、ちょっとした町が誕生した。
その町には、清(中国)から流れ着いた人たちにより、“中華街”が誕生するほどで、この地がアジア以外で生まれた初のチャイナタウンになった。
その面影は、現地を尋ねれば遺跡として今も残っている。
1848年暮れまでにこの地に辿り着いた初期の金探鉱夫は、東海岸の労働者が稼ぐ日給の10倍から15倍に相当する金を1日で稼ぐ事ができ、この地で半年間働けば6年分の収入を得て故郷に帰ることができたという。
翌年大挙してやって来た金鉱堀りや、翌年産まれたカリフォルニア一世を、“フォーティーナイナーズ”(1849年生まれの意味=49ers)といい、サンフランシスコのフットボールチーム名として、今もその名が残っている。
アメリカ地質調査所による推計によると、最初の5年間に採掘された金の量は1,200万オンス(370t)。現代の価値で、約70億ドルに相当するそうだ。
人類史上初の世界レベルのゴールドラッシュとなったこの出来事は、その莫大な富と欲に吸い寄せられるように集まった人たちにより、大陸横断鉄道の建設に寄与(1863年着工、完成は6年後)しただけでなく、世界の経済にも少なからぬ刺激を与えた。
ハワイやチリをはじめ、オーストラリアの農夫たちは、この地に農産物の巨大な新市場を見付けた。
特にイギリスで生産される製品は評判が高く、中国からは陶磁器をはじめ、衣類やプレハブの家も運ばれた。
これ等の商品に対して、カリフォルニアの金が代金として支払われ、世界中で物価を上昇させ、雇用を創出するほどの影響を与えたという。
大航海時代の到来以来、地球規模で多方面からカリフォルニアに人と物資が流れ込んだわけである。
しかも、この時点では米墨戦争中で、カリフォルニアはアメリカ合衆国の領土ではなく、メキシコ領アルタ・カリフォルニアの一部だった。
金発見の直後の1848年2月2日に調印されたグアダルーペ・イダルゴ条約により米墨戦争が終結し、この地域とアルタ・カリフォルニアの残りはアメリカ合衆国に割譲された。
法体系と政府が創設され、カリフォルニアがアメリカ合衆国の31番目の州として迎え入れられたのは、1850年9月9日のことである。
アラスカを旧ソビエトから買収した直後に金が発見された時と同様に、アメリカ合衆国は建国200年足らずの間に、2度の幸運により国力を大幅にアップさせたと言うことが出来る。
金の第1発見者であるマーシャルが生まれたランバートビルの町には、彼が少年時代を暮らした家が保存され、ランバートビル歴史協会の本部になっていて、 マーシャルの関係品や町の歴史に関する物などが展示され、一般に公開されている。
気になるのは、彼のその後だが、とても意外な人生を送っている。
金発見者のマーシャルは、サッターに解雇され、土地を追い出されてしまう。
金鉱堀りにも加わらなかったのか、ゴールドラッシュが終わりかけた1857年、マーシャルはコロマに戻りブドウ園を始めたが、結局失敗に終わってしまう。
その後、今さらながら金を探し始めたものの、何も見つからず破産。
1872年になって、カリフォルニア州政府は、歴史上に果たしたマーシャルの重要な役割を認めて、彼に2年間(1874年&1876年)に年金を交付したが、翌年には打ち切られてしまう。
不遇のマーシャルは、1885年8月10日カリフォルニア州ケルシーで死去。
遺体はコロマに運ばれ、彼がブドウ園を所有していた場所に葬られた。アメリカンリバーの支流を見晴らすことができる丘に墓がある。
1890年5月に記念碑が建てられ、記念碑の上に金の発見場所を指し示すマーシャルの像が立っている。
1927年、カリフォルニア政府は、マーシャルのブドウ園があった1エーカーの区画を「Marshall Gold Discovery State Historic Park(マーシャル金発見州立歴史公園)」と命名して、後世に伝える事にした。
土地の所有者だったサッターにしても、金を独り占めするどころか、彼にも災いが待っていた。
雇っていた労働者達は、金探鉱の欲に駆られて逃げ出してしまい、間もなく金の亡者と化した不法侵入者が大量にやって来て、彼の穀物や牛を盗みだし、コロマはもはや手のつけられない無法地帯なってしまったため、彼が計画してい事業も破滅に追いやられてしまう。
今その場所にやって来て、金の発見場所を指し示すマーシャルの像を見上げている。
結果的に、世界経済を動かすきっかけを作った・・と言っても過言ではない男は、銅像になって残り満足しているのだろうか・・。 それとも、果たせぬ夢と無念を抱いたまま、今も悶々としているのだろうか・・。
アメリカンリバーを向こう岸に渡り、水辺まで降りてみた。3月半ばでも水は刺すように冷たく、素足では30秒も浸かっていられない。
金の熱に浮かされた金鉱夫は、厳冬期でもこの冷たい水をものともせず作業をしていたと思うと、滝に打たれる荒行や寒中水泳よりきつい労働条件下で、長時間働いていた事になる。
エルドラド(黄金郷)郡に所属するコロマは、カリフォルニアに莫大な資金をもたらした地として、この160年の間にブームタウンからゴーストタウンへと衰退したが、歴史公園として見事に復活を遂げた。
この郡名に、かつてのゴールドラッシュの面影を伺うことが出来る。
ゴールドラッシュにまつわる狂想曲(?)を、もう少し・・。
ゴールドラッシュの噂は、当初緩やかに広がった。
金鉱発見の報せを耳にして、最初に浮き足立ったのはカリフォルニアにやって来た開拓者たちで、農業を始めていた家族たちである。
家族会議の結果、金を探す事を決断し、カリフォルニアでは初めての坑夫になり、コロマへ向かった。
金発見の年の暮れ(48年12月5日)、ジェームズ・ポーク大統領が議会演説で金の発見を肯定した。
その結果、1849年初めにはゴールドラッシュの噂が世界中に広まり、圧倒的な数の金探求者と商人たちが、全ての大陸から到着し始めた。
後に“フォーティナイナーズ”と呼ばれることになる移民が、世界中から砂糖に群がる蟻のように、金鉱原のコロマ目指して押し寄せたわけである。
船でメキシコやチリやサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)から来た人たちは、まだましだった。
合衆国東海岸から目指す場合、現在でも船の難所とされる南米最南端のマゼラン海峡を通過しなければならない。
日数にすると、5ないし6ヶ月を要した。
総延長は18,000海里(33,000km)の船旅で、遥々ヨーロッパから来るとなると、さらに長く辛い航海を強いられた。
マゼラン海峡通過を避けて、一刻も早く金鉱原に辿り着きたかった人たちは、パナマ地峡で一度船を下り、ジャングル地帯をカヌーやロバで突き進むこと1週間、運良く太平洋に出たらサンフランシスコ行きの蒸気連絡船を待ってそれに乗る事もあった。
いずれの経路にしても、船の難破をはじめ、腸チフスやコレラ、マラリアや黄熱病まで恐ろしい病気や災難が待ち受けていた。
陸地を伝って来た者は、標高3000m級山々が連なるロッキー山脈やシェラネバダ山脈を、幌馬車で越えなければならなかった。
途中、インディアンに襲撃される危険を覚悟しつつ、バッファローや鹿など野生動物捕獲して食料にし、燃料にする薪も自前で手に入れなければならない、ある意味サバイバル生活の連続でコロマに向かう必要があった。
黄金郷コロマを目指す航海や陸路の途中で、遭難したり、難破したり、病死したり、飢え死にしたり、凍死したり、無念の内に死に絶えた人の数は明らかにされてないが、軽く1000人を超えていると推察されている。
ゴールドラッシュに沸き立つサンフランシスコには、押し寄せる人たちの衣・食・住の需要を賄うため、世界中から物資を満載した船もひしめき合うほど来港した。
到着して荷を降ろすと、乗組員が脱走して金鉱原に向かうという現象が後を絶たず、船長1人では船を操船出来ないため、桟橋やドックには数百の船が放棄されたままとなった。
放棄された船舶は、倉庫や店舗、酒場やホテル、果ては監獄にまで転用された。
これ等の船の多くはやがて破壊され、ブームタウンとなって人がひしめくコロマに運ばれ、建物を建てたり、土地造成の埋め立て材に使われた。
人々はテント、掘っ立て小屋、放棄された船舶から外した船室に住んだ。
金が発見された所はどこでも、何百もの坑夫が共同してキャンプを作り上げ、その権利を主張しあい、喧嘩や決闘は日常茶飯事。
つまり現地まで無事辿り着いたとしても、そこは荒くれ者の集まる無法地帯だったため、喧嘩や略奪、殺人により命を落とした人も数知れない。
元々この辺りに暮らしていたネイティブアメリカンは、金鉱夫たちに追い出されたただけでなく、ひとつの種族が壊滅的に滅んでしまった例さえある。
そう言う意味でコロマは、アメリカ版“兵どもの夢の跡”なのである。
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- レンタカー
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