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漫遊くまもと・夢紀行③!(熊本城・本丸御殿)<br /><br />1877年の西南戦争で焼失し、130年ぶりによみがえった本丸御殿。熊本の新名所の全貌が明らかに!<br /><br />熊本県のシンボルである熊本城が落成したのは1607年のこと。名将・加藤清正によって築かれたこの城は、1877年の西南戦争の折に天守閣や本丸御殿など多くの部分を焼失した。その後、天守閣の外観は1960年に復元されたが、『本丸御殿』の再現には至らなかった。しかし、2008年の春、ついにその『本丸御殿』が復元された。築城から400年を経た熊本城は、ようやく本来の姿を取り戻したといえるだろう。<br /><br />熊本城を築いた加藤清正は、豊臣秀吉の血縁にあたる。9歳の時に秀吉の小姓となり、数々の功績をあげた後、27歳の時に肥後の国に入国。文禄・慶長の役では秀吉軍の中心として活躍したが、関ヶ原の戦いでは石田三成らとの確執もあり東軍についた。華やかな武勲の傍ら、清正は国の治水、農地の開発などに力を注ぎ、民に慕われた名藩主でもあった。その清正が、築城の際に天守閣と並んで心血を注いだのが本丸御殿である。<br /><br /><br />http://www.k3.dion.ne.jp/~k-found/jyokaku/higo/kumamotojyo2.htm

漫遊くまもと・夢紀行③!(熊本城・本丸御殿)

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2010/06/11 - 2010/06/13

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風遊

風遊さん

漫遊くまもと・夢紀行③!(熊本城・本丸御殿)

1877年の西南戦争で焼失し、130年ぶりによみがえった本丸御殿。熊本の新名所の全貌が明らかに!

熊本県のシンボルである熊本城が落成したのは1607年のこと。名将・加藤清正によって築かれたこの城は、1877年の西南戦争の折に天守閣や本丸御殿など多くの部分を焼失した。その後、天守閣の外観は1960年に復元されたが、『本丸御殿』の再現には至らなかった。しかし、2008年の春、ついにその『本丸御殿』が復元された。築城から400年を経た熊本城は、ようやく本来の姿を取り戻したといえるだろう。

熊本城を築いた加藤清正は、豊臣秀吉の血縁にあたる。9歳の時に秀吉の小姓となり、数々の功績をあげた後、27歳の時に肥後の国に入国。文禄・慶長の役では秀吉軍の中心として活躍したが、関ヶ原の戦いでは石田三成らとの確執もあり東軍についた。華やかな武勲の傍ら、清正は国の治水、農地の開発などに力を注ぎ、民に慕われた名藩主でもあった。その清正が、築城の際に天守閣と並んで心血を注いだのが本丸御殿である。


http://www.k3.dion.ne.jp/~k-found/jyokaku/higo/kumamotojyo2.htm

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  • 本丸御殿平面図

    本丸御殿平面図

  • 「大御台所」は2つの大きな囲炉裏(いろり)があり、土間には竃(かまど)などもありました。<br />囲炉裏の復元には直下から発掘された石を一部使用しています。<br />

    「大御台所」は2つの大きな囲炉裏(いろり)があり、土間には竃(かまど)などもありました。
    囲炉裏の復元には直下から発掘された石を一部使用しています。

  • 火をおこす部屋であるため、小屋裏は煙出しのある吹抜けとなっており、巨大な丸太を使った小屋組みです。

    火をおこす部屋であるため、小屋裏は煙出しのある吹抜けとなっており、巨大な丸太を使った小屋組みです。

  • 大広間<br /> <br />今回復元された中で最大の部屋である「鶴之間」(60畳)から奥に向かって「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続きます。それぞれの部屋境は襖で仕切られ、左手には縁側が配置されています。<br /> <br />

    大広間

    今回復元された中で最大の部屋である「鶴之間」(60畳)から奥に向かって「梅之間」「櫻之間」「桐之間」「若松之間」と続きます。それぞれの部屋境は襖で仕切られ、左手には縁側が配置されています。

  • 大広間の南側に配置された縁側は「広縁」「落ち縁」「濡れ縁」の3段で構成され、その幅は約6mあります。<br />すべて檜板を使用し、「濡れ縁」の板厚は9cmあります。<br /> <br />

    大広間の南側に配置された縁側は「広縁」「落ち縁」「濡れ縁」の3段で構成され、その幅は約6mあります。
    すべて檜板を使用し、「濡れ縁」の板厚は9cmあります。

  • 昭君の間<br /> <br />本丸御殿の中でも一番格式の高い部屋で、藩主の居間であり、対面所(接客の場)としても使用されたと考えられています。<br />室内は床の間や違い棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。<br />壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれています。<br /> <br />

    昭君の間

    本丸御殿の中でも一番格式の高い部屋で、藩主の居間であり、対面所(接客の場)としても使用されたと考えられています。
    室内は床の間や違い棚、付書院などを持つ書院造りとなっています。
    壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれています。

  • 格天井に描かれた繊細な植物画

    格天井に描かれた繊細な植物画

  •  部屋の名前が表すように、正面には古代中国の四大美女の一人、「王昭君」が描かれています。絵師に賄賂を渡さなかった為、醜い絵を描かれ、その絵を見た皇帝により外交のために匈奴の王へ嫁がされたという女性です。また、「昭君之間」は「将軍之間」の隠語で、豊臣秀吉の子「秀頼」を迎える為に作られたという説もあるようです。床壁、襖、格天井に描かれた金碧障壁や細工はどれをとっても本当に豪華で見事でした。<br /> その後「家老之間」やお茶室である「数寄屋」などを見てまわり、これで「本丸御殿」のコースは終了です。明治10年の西南の役で焼失するまで、歴代の藩主が過ごした「本丸御殿」。大名文化の粋を集めた艶やかな姿を見に、是非、足をお運びください。<br />

     部屋の名前が表すように、正面には古代中国の四大美女の一人、「王昭君」が描かれています。絵師に賄賂を渡さなかった為、醜い絵を描かれ、その絵を見た皇帝により外交のために匈奴の王へ嫁がされたという女性です。また、「昭君之間」は「将軍之間」の隠語で、豊臣秀吉の子「秀頼」を迎える為に作られたという説もあるようです。床壁、襖、格天井に描かれた金碧障壁や細工はどれをとっても本当に豪華で見事でした。
     その後「家老之間」やお茶室である「数寄屋」などを見てまわり、これで「本丸御殿」のコースは終了です。明治10年の西南の役で焼失するまで、歴代の藩主が過ごした「本丸御殿」。大名文化の粋を集めた艶やかな姿を見に、是非、足をお運びください。

  • 茶室<br />本丸御殿には大広間や台所のほかに茶室があったことも絵図などによって分かっています。この茶室の広さは6畳台目で、文献や類似資料などにより、千利休の弟子である古田織部好みの茶室として復元しています。

    茶室
    本丸御殿には大広間や台所のほかに茶室があったことも絵図などによって分かっています。この茶室の広さは6畳台目で、文献や類似資料などにより、千利休の弟子である古田織部好みの茶室として復元しています。

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