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表題は、少々調べ、また現地のガイドさんの話を聞いて、私なりに組み立てたものですので、軽く聞き流して頂きたいのですが。 <br />エルトゥールル号遭難についての詳細は、ウキペディア等で、いろいろん記述があります。「それにしても随分とおおぜいの乗組員が乗っていたなぁ…」、がまず感じました。<br />また、たくさんの犠牲者(串本遭難時587名・生存者69名)を、心から悼んでの私の心境でもあります。<br />当時の常識として、この軍艦(2344トン)では、何人程度が適正かは推測もできませんが、約660名近くの乗組員が乗っていて、東京で明治天皇に拝謁等の後、帰路和歌山・串本の岩礁に乗り上げ遭難したわけです。 (1890年9月16日) <br /><br />今回トルコへ行って見て、地元のガイドさんは、エルトゥールル号について下記のような説明をしていました。<br />1887年、日本の天皇の名代として小松宮彰仁親王が、イスタンブールに行き、オスマン・トルコの皇帝に拝謁。<br />また、、皇帝も訪問に感謝、その答礼訪問を検討、関係各国に皇帝特使派遣の意向を、打診した。<br />当時のトルコを取りまく地政学上の強国は、イギリス・フランス・帝政ロシアだった。<br />特に、最強のイギリスは、帝政ロシアに対抗するための連携にしても、オスマン・トルコが日本と手を組む等でオスマン・トルコが、再び力を持ち始めることへの警戒感が強かった。<br /><br />トルコの艦船の外洋への航行には拒否反応。<br />(イギリスは、スエズ運河、ジブラルタルを押さえていたので、イギリスの影響力は大。また、スエズ運河の自由航行に関する条約はあったが、やはりイギリスの承諾なければ当時のトルコとしては、艦船を出せなかったのでしょう)<br /> <br />再三にわたる折衝の結果、士官学校生の訓練航海であるとするなら外洋航行は認めるとなったようです。<br />1889年、スエズ、アデン、ボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、最終の日本へ出航。<br />ただ、超遠洋航海には、それ相応のベテラン乗組員が不可欠だったのでしょうが、イギリスとの折衝の結果として、海軍士官学校の生徒中心に乗組員が組まれ、「生徒の訓練航海」で、東南アジア・日本への訓練航海として出航したようです。<br /><br />超遠洋航海、25年前に造られた木帆船の軍艦、士官候補生主体の訓練航海、途中コレラ罹患死者も出す大変な航海、その最終結果は、乗組員の9割を失う。<br />また、その大半が、将来を期待されていた士官学校生。おおぜいの遺族の嘆き・悲しみ、いかに当時のオスマン・トルコの人々にとって、大変な悲劇的な出来事だったか想像できます。<br /> <br />悲劇の陰にイギリス、フランス等の不当な干渉がなければ、この事件は起こらなかったとの怨む感情もあったように感じました。<br /> <br />トルコ人のガイドさんは、遭難事件での日本人の対応に大変な感謝を示しつつ、当時のオスマントルコの苦しい立場世界の覇権舞台から没落して行った祖国について寂しげに説明していました。<br /> <br />遭難事件については、ロシア・イギリス・フランス等への強い反発があったことから、なお一層、当時の日本政府の手厚い対応、また、山田寅次郎氏等一部民間人の大いなる貢献に、トルコの人々は、大変感銘を受けたとも考えられます。<br /><br />資料 ウキペディア、ニコライ皇太子遭難事件<br />

4.日本へのエルトゥールル号派遣までの、背景

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2010/05/08 - 2010/05/19

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pedometer-ken

pedometer-kenさん

表題は、少々調べ、また現地のガイドさんの話を聞いて、私なりに組み立てたものですので、軽く聞き流して頂きたいのですが。
エルトゥールル号遭難についての詳細は、ウキペディア等で、いろいろん記述があります。「それにしても随分とおおぜいの乗組員が乗っていたなぁ…」、がまず感じました。
また、たくさんの犠牲者(串本遭難時587名・生存者69名)を、心から悼んでの私の心境でもあります。
当時の常識として、この軍艦(2344トン)では、何人程度が適正かは推測もできませんが、約660名近くの乗組員が乗っていて、東京で明治天皇に拝謁等の後、帰路和歌山・串本の岩礁に乗り上げ遭難したわけです。 (1890年9月16日)

今回トルコへ行って見て、地元のガイドさんは、エルトゥールル号について下記のような説明をしていました。
1887年、日本の天皇の名代として小松宮彰仁親王が、イスタンブールに行き、オスマン・トルコの皇帝に拝謁。
また、、皇帝も訪問に感謝、その答礼訪問を検討、関係各国に皇帝特使派遣の意向を、打診した。
当時のトルコを取りまく地政学上の強国は、イギリス・フランス・帝政ロシアだった。
特に、最強のイギリスは、帝政ロシアに対抗するための連携にしても、オスマン・トルコが日本と手を組む等でオスマン・トルコが、再び力を持ち始めることへの警戒感が強かった。

トルコの艦船の外洋への航行には拒否反応。
(イギリスは、スエズ運河、ジブラルタルを押さえていたので、イギリスの影響力は大。また、スエズ運河の自由航行に関する条約はあったが、やはりイギリスの承諾なければ当時のトルコとしては、艦船を出せなかったのでしょう)

再三にわたる折衝の結果、士官学校生の訓練航海であるとするなら外洋航行は認めるとなったようです。
1889年、スエズ、アデン、ボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、最終の日本へ出航。
ただ、超遠洋航海には、それ相応のベテラン乗組員が不可欠だったのでしょうが、イギリスとの折衝の結果として、海軍士官学校の生徒中心に乗組員が組まれ、「生徒の訓練航海」で、東南アジア・日本への訓練航海として出航したようです。

超遠洋航海、25年前に造られた木帆船の軍艦、士官候補生主体の訓練航海、途中コレラ罹患死者も出す大変な航海、その最終結果は、乗組員の9割を失う。
また、その大半が、将来を期待されていた士官学校生。おおぜいの遺族の嘆き・悲しみ、いかに当時のオスマン・トルコの人々にとって、大変な悲劇的な出来事だったか想像できます。

悲劇の陰にイギリス、フランス等の不当な干渉がなければ、この事件は起こらなかったとの怨む感情もあったように感じました。

トルコ人のガイドさんは、遭難事件での日本人の対応に大変な感謝を示しつつ、当時のオスマントルコの苦しい立場世界の覇権舞台から没落して行った祖国について寂しげに説明していました。

遭難事件については、ロシア・イギリス・フランス等への強い反発があったことから、なお一層、当時の日本政府の手厚い対応、また、山田寅次郎氏等一部民間人の大いなる貢献に、トルコの人々は、大変感銘を受けたとも考えられます。

資料 ウキペディア、ニコライ皇太子遭難事件

同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
25万円 - 30万円
交通手段
鉄道 観光バス
航空会社
ターキッシュ エアラインズ
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • トルコ海軍士官学校・改装中<br />建国の父・アタチェルク氏もここの卒業生。<br />エルトゥールル号遭難者の大半は、ここの最上級生とのことでした。

    トルコ海軍士官学校・改装中
    建国の父・アタチェルク氏もここの卒業生。
    エルトゥールル号遭難者の大半は、ここの最上級生とのことでした。

  • ボスポラス海峡、第一大橋<br />日本の大成建設が造ったもの。<br />現在、海底トンネルを、赤字ながら、大成建設が受注・建設中。

    ボスポラス海峡、第一大橋
    日本の大成建設が造ったもの。
    現在、海底トンネルを、赤字ながら、大成建設が受注・建設中。

  • 世界遺産・ヒエラポリス遺跡<br />良く見ると、てっぺんにコウノトリが巣作りをしている。

    世界遺産・ヒエラポリス遺跡
    良く見ると、てっぺんにコウノトリが巣作りをしている。

  • 世界遺産、パナッカム・石灰棚

    世界遺産、パナッカム・石灰棚

  • 世界遺産・カッパドキア、ギョレメ野外博物館

    世界遺産・カッパドキア、ギョレメ野外博物館

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