2009/12/30 - 2009/12/31
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ≪ラストファイル≫
・西南の役最大の激戦地‘田原坂’
やっとこれで「湯布院〜九重〜柳川〜熊本旅行記」が完成で〜す。\(^0^)/BANZA-I!!
年末は広島在住のトラベラーさんの影響を受けて、想い出深い湯布院町狭霧台へ行ってきました。所用お仕事を済ませたあと「湯布院にでも行ってこようかなあ〜」と思い立ち、宿も予約せず寒波の中、広島市から大分県湯布院と福岡県柳川などへ季節外れの観光へ行ってきました。
■寂心さんの樟
熊本市の北端、植木町との境界近く、広々とした畠の中の公園に、この「寂心さんの樟」が1本だけ小森のように大きく優美な姿を見せています。
大樹の根元には鹿子木親員八道寂心の墓と伝えられる墓石が一基巻き込まれ、説明板には、「寂心は北部町の楠原城に居を構えていたが、のちに隈本城に本拠を移し天文18年(1549)に没するまで隈本城を中心に勢力を伸ばした。」と記されていました。
■田原坂
田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂。南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍が、明治10年(1877年)3月4日から17昼夜、一進一退の攻防を繰り返し1万人余の戦死者を出した、西南の役最大の激戦地です。
「雨は降る降る
人馬(じんば)は濡れる
越すに越されぬ 田原坂」
雨が降りしきる同月20日、官軍は総攻撃をかけ田原坂はついに陥落。薩軍は、熊本城の包囲を解き、その後九州山地を敗走して鹿児島に戻ります。
北西から南東に向って、一の坂、二の坂、三の坂となだらかに上がる田原坂。三の坂を登りきった頂上部には楠の大木が茂っています。
付近は田原坂公園として公園化され、戦死者の慰霊塔や征討総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の崇烈碑、田原坂資料館、弾痕の家などがあります。
【旅行記のルート】
・12/31
→福岡県柳川市 柳川水郷散策
→熊本県荒尾市 ウルトラマンランド
→熊本県熊本市松尾町 雲巌寺
→熊本県熊本市河内町 峠の茶屋公園
→熊本県熊本市北迫町 寂心さんの樟
→熊本県鹿本郡植木町 田原坂公園
→熊本県玉名郡和水町 肥後民家村
→九州自動車道 菊水インタON
→山陽自動車道 広島廿日市インタOFF
→帰宅
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
やっと(^=3^)フーーこれで「湯布院〜九重〜柳川〜熊本旅行記」が完成で〜す。\(^0^)/BANZA-I!!
■峠の茶屋 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■峠の茶屋
夏目漱石の小説「草枕」で「おい、と呼んだが、返事がない」と書かれた金峰山の峠の茶屋です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■峠の茶屋
藁葺きの建物や古い井戸、竹林のなかの細い山道が漱石が生きた頃の面影を残しています。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■峠の茶屋
周辺は公園として整備され、名物だご汁などの食事もできるようです。 -
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■峠の茶屋
この日は大晦日、お休みでした。 -
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■峠の茶屋
明治29年の暮れに夏目漱石は友人・山川信次郎とともに小天(おあま)温泉へと旅に出ます。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■峠の茶屋
この旅行の体験が「山路を登りながら、かう考えた」で始まる『草枕』となりますが、その途中で休んだのが峠の茶屋です。 -
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■峠の茶屋
鳥越峠と野出峠の両方に茶屋はあったが、現在復元されているのはこの鳥越峠の茶屋です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■峠の茶屋をあとにして
熊本市北迫町の「寂心さんの樟」へ向かいます。熊本市内が見えてきました。
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■寂心さんの樟
北迫町の集落の北側に寂心さんの樟はあります。 -
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■寂心さんの樟
幹囲13.5m、樹高約29m、枝張りは東西47m、南北49m、南西方向に伸びる枝が最も長く中心から29mもあるそうです。 -
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■寂心さんの樟
樹根はタコの足のように地上に這いまわり、樹勢も盛んなようです。 -
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■寂心さんの樟
樹の南側の幹に墓石らしいものが1基巻き込まれています。 -
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■寂心さんの樟
これが鹿子木寂心の墓と伝えられるもので、樹の呼称もこれに由来しています。 -
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■寂心さんの樟
鹿子木寂心は、名は親員、三河守と称し、入道して厳松軒寂心と号しました。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■寂心さんの樟 説明書き碑
旧北部町の楠原城に本拠をおき、飽田、託磨、山本、玉名郡内の560町を領したという…。後に隈本城(古城、現在の第一高校の場所)を築き、そこを本拠としたそうです。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■寂心さんの樟
クスノキの多い熊本県下でも最大級の巨木だそうです。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■寂心さんの樟
この一枚一枚の葉が光合成をしているんですね。 -
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■寂心さんの樟
これから西南の役最大の激戦地「田原坂」向かいます。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
熊本県鹿本郡植木町の田原坂は長さ1.5km、標高差60mのゆるやかな坂になっています。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍が、明治10年(1877年)3月4日から17昼夜、一進一退の攻防を繰り返し1万人余の戦死者を出した、西南の役最大の激戦地です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 弾痕の家
西南の役当時、田原坂の頂上(植木町大字豊岡字休居二二四四番地)にあった松下彦次郎家の土蔵が、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 弾痕の家
田原坂の戦い直後に、長崎の写真師上野彦馬氏撮影の写真と、明治十三年頃に、熊本の写真師富重利平氏撮影の写真が残されています。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 弾痕の家
植木町では昭和63年(1988年)に、富重氏の写真を参考にして、土蔵を復元しました。(現地案内板より) -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
資料館。大晦日、もちろんお休みです。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 薩摩塚
この塚はかつて旧植木町役場入口と国道三号線との交差点付近に建てられていて、戦国時代の島津との戦いにおける戦死者を葬っていたそうですが、西南の役における薩摩軍戦死者約二十名が、戦後地元住民の手で合葬されたそうです。昭和四十三年新道路建設のためこの地に移されました。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 西南の役戦没者慰霊之碑
明治10年(1877年)、西郷隆盛の率いる鹿児島士族が起こした反政府運動で、日本最後の内戦。
2月15日、13,000の薩軍が鹿児島を出発すると、九州各県の旧士族が部隊を編成して加わり、総勢は3万を越えた。熊本からも、熊本隊や人吉隊などが参加しました。 -
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■田原坂 西南の役戦没者慰霊之碑
8月17日、宮崎県長井村で大半が降伏、西郷隆盛らも9月24日鹿児島の城山で全滅し、我が国最後で最大の内乱となった西南の役は終結しました。しかし、両軍合わせて14000人もの戦死者が出たそうです。 -
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■田原坂 西南の役戦没者慰霊之碑
この慰霊碑は、明治10年(1877年)の西南の役で戦死された官軍6,923名、薩軍7,186名、殉難者29名の御霊の安らかならんことを願って建立したものです。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 西南の役戦没者慰霊之碑
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
「雨は降る降る
人馬(じんば)は濡れる
越すに越されぬ 田原坂」 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 美少年の像
雨は降る降る、人馬は濡れる・・・、雨が降りしきる同月20日、官軍は総攻撃をかけ田原坂はついに陥落。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 美少年の像
薩軍は、熊本城の包囲を解き、その後九州山地を敗走して鹿児島に戻ります。西郷隆盛以下薩軍幹部が、鹿児島・岩崎谷で自決したのは田原坂から半年後の9月24日のことでした。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 美少年の像
右手(めて)に血刀(ちがたな)
左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな 美少年 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
征討総督有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王の崇烈碑。
1877年、田原坂における西郷隆盛率いる薩摩軍と明治政府の官軍との間で行われた戦いは西南戦争の最大の激戦地です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 崇烈碑
薩摩軍は官軍の守る熊本城を包囲、北から熊本への唯一の補給陸路である城北防衛の要地田原坂に幾重にも陣を重ね、官軍の熊本入りを阻止しようとしました。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 崇烈碑
緒戦は薩摩軍が優勢に進めたが、警視庁抜刀斬込隊の活躍により次第に官軍の優勢になり、薩摩軍地・七本柿木台場を陥落させ、背後からの田原坂本道方面を守る薩摩軍を攻撃し敗走させました。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
西南の役の最大の古戦場であるこの付近は、3月4日から17昼夜に及ぶ激戦地で、当時は昼尚暗き森林の中の主要道路で、大砲や弾薬を運ぶにはほかに道はなく、麓から頂上に達する落差60mの切通した田原坂(一の坂、二の坂、三の坂)には、官軍、薩軍双方がとりでを築き、一進一退の大攻防戦が展開されました。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
結果は薩軍が敗退しましたが、この間7日間はみぞれまじりの雨また雨の連続であったと伝えられています。
田原坂の戦闘で消耗した小銃の弾薬は一日平均32万発にものぼったといわれています。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
北西から南東に向って、一の坂、二の坂、三の坂となだらかに上がる田原坂。三の坂を登りきった頂上部には楠の大木が茂っています。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂 美少年像
この美少年像は 西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である・・・案内板より -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■田原坂
電話ボックスの上にも美少年像が・・・。 -
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■肥後古代の森
ところ変わって、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)の肥後古代の森です。道の駅きくすいの傍にあります。 -
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■肥後古代の森 江田船山古墳
江田船山古墳は、国指定重要文化財です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 江田船山古墳
江田船山古墳は、熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 江田船山古墳
日本最古の本格的記録文書である75文字を銀象嵌(ぎんぞうがん)で記した大刀が出土したことで有名な前方後円墳です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 肥後民家村
菊水地区には、国指定史跡の江田船山古墳を含む「清原古墳群」、国指定重要文化財の旧境家住宅を含む「肥後民家村」、県内主要な石人、石馬の複製品を野外展示した「石人の丘」、縄文人の生活の様子を再現した「縄文のむら」などがあります。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 肥後民家村
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 虚空蔵塚古墳
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 縄文橋
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 縄文橋より -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 縄文橋より
向こうの橋は若園橋です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 縄文のむら -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 縄文のむら -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 縄文のむら
貝塚のはぎとり展示物。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 若園橋
縄文のむらから若園橋を渡り菊池川に沿って行くと「道の駅きくすい」とつながっています。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 若園橋
吹雪が強くなってきました。円形の建物が道の駅きくすいです。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 石人の丘
県内主要な石人、石馬の複製品を野外展示した「石人の丘」です。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 石人の丘
古墳の周りには「短甲]を着けた武人の石人が配置されています。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 石人の丘
このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳で最盛期を迎え、以後、消滅してしまいます。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 石人の丘
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 石人の丘
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 石人の丘
竹やぶの中にあった石造物群。なんでしょう。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 石人の丘
ワンちゃんこんにちは。お散歩中のお嬢さんが「こんにちわー」と元気よく声をかけてくれました。 -
■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森 吹雪だあーピュウ〜。。。
これで「寒波の中の九州ひとり旅」が終了です。
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■寒波の中の九州ひとり旅 その7 ラストファイル
■肥後古代の森
寒波襲来予報の中の九州ひとり旅でした。(注)普通の人は寒く冷たいのでしょうが、わたくしはけっこう寒さ暑さには鈍感な方で、全然大丈夫なのでしたー^。^)
THE END
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この旅行記へのコメント (2)
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- 一歩人さん 2010/01/22 13:14:48
- 熊本民謡でも有名ですよね
- Mecha Godzilla.T&Nさんへ
ふ、ふ、私は、この民謡得意ですねん。
雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原〜♪坂てね
坂本竜馬、西郷どん、高杉新作、もっと長生きして欲しかった。
失礼しま〜す。
- MechaGodzillaⅢ&703さん からの返信 2010/01/23 08:44:58
- RE: 熊本民謡でも有名ですよね
- 一歩人さん、おはようございます。
いつもありがとうございます。
> ふ、ふ、私は、この民謡得意ですねん。
> 雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原〜♪坂てね
熊本民謡にはおてもやん、あんたがたどこさ、五木の子守唄など全国的に有名な歌がありますよね。田原坂のこの名言は知っておりましたが、民謡のジャンルに入るとは、初めて知りました。
> 坂本竜馬、西郷どん、高杉新作、もっと長生きして欲しかった。
そうですね。激動の時代、日本はどうなっていたのでしょうか。
Mecha Godzilla.T&N
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