2009/10/20 - 2009/10/27
148位(同エリア161件中)
明石DSさん
6:42:32
7時前の朝
黒河と比べて段違いに静かで賑やかさも違う
孫呉でロシア人を見かけた記憶もなく
左側の交差点を右に曲がって解放路を真っ直ぐ歩くと10分で孫呉駅
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2009.平成21年10月24日(土)
■孫呉北苑賓館での朝食
大きな食堂に私一人だった。開業してまだ三ヶ月の新しいホテルだが一階の食堂の天井から水漏れがしているようだった。床にバケツを置きホテルの二人の男が天井を見上げて修繕の相談をしていた。中国のホテルの水まわりのお粗末さには、いつもながらあきれる。
私の泊まった305号室も新しく奇麗だが、トイレ・シャワー・洗面所はタイルの目地も杜撰で素人同然の仕上げであった。良くこれでOKを出すなあ・・・と、思うが、実際は施行業者も散々値切られてお互い様なのだろう。
ガランとした食堂で美味くない朝飯を食い終わった頃に数人の宿泊客が入ってきた。まだ新しいから集客力もないのだろう。服務員の態度はさすがオープンしたてのホテルだけあって、態度の良さはひしひしと感じる。みんな挨拶をし、ニコニコ愛想も良い。他との違いを感じる。
朝食のあと朝の散歩に出かけホテル周辺を歩いた。市内中心部の風景と市民の住宅地とは趣が完全に異なる。昔ながらの平屋で、庭があり各家庭にトイレが完備されていないところも多いようで、所々にトイレがある。
今回の旅を通じても、公衆トイレはほとんどが仕切りもない、あっても低い仕切りだけで全部が見渡せるトイレばかりだった。最近上海などの大都会に行っていないので分からないが、ここ満洲では中国式トイレ?がどこでも完備?されている。
この様が当たり前で気にならない文化というのが、世界の先進国の道徳とは隔絶した何でもありの中国文化で、この様が変わらない限り世界中で中国人が嫌がられる存在から抜け出せないだろう。“貧しい”と、トイレの形、汚さは、決してイコールではないはずだ。でも、だからこそ中国の旅の面白さがある。
自分の国が何でもありは絶対嫌だが、旅先の国はそれだからこそオモロイ。何でもありの“気持ちよさ”何でもありと言うのはホンマ気楽だ。道にツバを吐こうが、立ち小便をしようが、誰かに率直に言いたいことを言っても、言わなくても、気兼ねしてもしなくても、何でも構わない。都是随便。
とにかく私にとって上手く表現できないが、開放感がある。でも「万里の長城の域内」の国であり続けてくれることを切に願う。
周辺の地道には昨日の夜にでも降ったのか残雪があちこちに残っていた。そして日本では“雪やこんこん”のメロディーとともにタンクローリー車が灯油を売りに来るが、ここでは三輪トラックに石炭を積んで売りに来ていた。
そして高層の団地の屋上に温水ソーラーがずらっと並んでいる風景が多かった。我が家も20年前くらいに屋根の上に朝日ソーラーを付けていた時期があった。確かに熱くなりガス代は節約できたが数年でとり外した。最近日本ではあまり見かけなくなった。こっちではテレビのコマーシャルでも太陽熱温水器の宣伝を時々見た。
新築高層マンション?の屋上に並ぶ温水ソーラーは見た目も悪い。
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7:16:30
私一人の大食堂
饅頭も冷えていた。昨日の?
唯一良かったのは豆乳があったこと -
7:23:36
三ヶ月前にオープンしたホテル
一階大食堂にて天井から水漏れ
これが中国か、何が起っても不思議はない -
7:30:20
この解放路と東風大街
背中が北苑賓館です
今、気が付いたけど信号あったようです(H21.11/5) -
7:41:48
こんなところに教会が
回教寺院は時々見ますが、教会は珍しい -
7:45:32
「雪やコンコン」の灯油売りではなく
こっちは暖房の主流は石炭のようですね
何か呼びかけをしていたような・・・。 -
7:46:32
右端の方に写っているのは公衆便所
この辺りの家はトイレがないのかも
朝なので?よく人の出入りがありました。 -
7:46:40
市の中心部を外れると地道に平屋建ての住居が多い
昨日の夜、少し雪が降ったのかアチコチ残雪が
家の見かけは貧弱ですが中は暖かいと思います -
7:52:28
我が家も一昔前まで屋根の上に「朝日ソーラー」を付けてました
こっちは温水器ブームのようです
マンションの屋上に居並ぶ温水ソーラー
見た目良くないです。まとめて出来ないのか? -
8:20:34
勝山陣地は孫呉から東北方向30kmとある
8時半より少し早く出発
そこはどんな所なのか・・・。
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■勝山陣地に出発
8時半に迎えに来てくれるので、8時過ぎに部屋に戻って準備をしようとホテルに戻って来たら、ちょうどそこに“肖○○”がやって来た。部屋に戻って準備し、8時15分くらいに出発する。孫呉から東北東方向に勝山陣地はある。
「勝山要塞:国家森林公園」なる大きな碑が立っている場所に着いたのが8時58分。45分くらいで分岐点の入口に着いた。そして勝山方向に向って走ったが、途中、小さな河の橋が舗装工事中で車はそれ以上進めなかった。万事休すかと思ったが、“肖○○”はすぐに「仕方ない、ここから歩いて行こう」と言った。
歩いて行ける距離なら私も歩きたいのでこんなアクシデントも大歓迎だった。山に向って黙々と二人で歩き出した。“肖○○”が歩く歩幅が案外広いのと歩く速度も速いので、歩き慣れているのかと思ったのは最初だけで、すぐに彼はへばって来た。
“ハァ〜、ハァ〜”と言いながら私より遅れてきた。去年8月20日から一念発起し、減量と体力増進の為に日々歩いていた私は、ここで体力向上をしっかり実感出来た。「俺の方が元気やん、10歳以上も俺より若いくせに・・・」と“肖○○”に向って言うと、彼も“フゥ〜、フゥ〜”言いながら認めざるを得ないようだった。
いつもことながら私の旅は歩き回る。今回は更に増して歩いたような気がする。以前との比較で体力向上がはっきり実感出来た旅でもあった。そして、実感出来たからこそ又これからも歩きを続ける意識が高まった。「苦は楽の種」は真理である。その逆も・・・無論。
歩き出して20分後には、陣地入口に到着。「侵華日軍東北要塞:孫呉勝山要塞遺址」と認めた碑が立っていた。入口附近に陣地の全体図があったが、この山全体が要塞化され、陣地になっていた様子がそれを見て良く分かった。
そして門を入ってすぐの場所にソ連軍の錆びた「T−34型戦車」の実物が置かれていた。「そうか、この戦車がこの勝山・勝武屯で日本軍を苦しめ、磨刀石で幹部候補生を蹂躙した戦車だったのか・・・」と、その大きさと今の戦車とあまり変わらぬ姿に、当時の日本戦車と比較しての関東軍苦戦を実感した。 -
8:46:18
途中の景色
この前方右手に勝山陣地はある
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http://www.youtube.com/watch?v=tx4iUYHnUrI&feature=player_embedded
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http://www.youtube.com/watch?v=bx-H8klMolQ&feature=player_embedded
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8:59:34
“藤○”が紹介してくれた運転手の“肖○○”
ここを右折し勝山陣地へ入っていく
勝山要塞:国家森林公園の碑が建つ -
9:03:14
幹線から少し走ると工事中に付き万事休す
ここから徒歩で勝山陣地に向う
歩いて行ける距離で良かった -
9:14:58
体力の向上を実感する
私より10歳以上若い“肖○○”が
“ハァ〜、ハァ〜”“フゥ〜、フゥ〜”
横目で見ながら、ハハハ、と余裕
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http://www.youtube.com/watch?v=5BSjMFFpPSU&feature=player_embedded -
9:18:16
勝山陣地近くに湿地体が広がっていた
もうこのすぐそこが陣地入口になる -
9:20:06
入口に到着
早足で20分くらいの散歩だった
そうか、こんな風になってるのか・・・と -
9:20:30
「侵華日軍東北要塞:孫呉勝山要塞遺址」
侵華か、ならば侵新疆・侵チベット・侵内蒙古人民解放軍
なる標識も今後数年内には用意しておかなくてなるまい -
9:22:08
陣地の案内及び公園としての案内図 -
9:22:34
これがソ連軍「T−34型」戦車の実物
この戦車に向って肉攻攻撃があちこちで行われ擱座させた -
9:23:18
戦車の前に立てば
これを一人の人間の手で破壊することは私の想像を超える
爆弾を抱えてとはいえその壮絶さには言葉も出ない
それが出来た当時の日本人の凄さを改めて感じる
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「満洲国の終焉」 岡崎溪子(著)抜粋
http://www.alphapolis.co.jp/mailmaga/maga_each.php?maga_id=1000060&maga_no=8654&back=1&back_time=1161311940
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愛琿・孫呉の陣地図
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■勝山陣地での攻防について
ここの職員らしい青年が降りて来て、“肖○○”と何かを話していたが、一緒に歩いて行った。着いた先は愛国主義教育基地と看板を掲げた管理事務所でもあり、中に「勝山要塞日軍侵華罪証陳列館」があった。
まずこの事務所で入場券を買わされる。40元也。“肖○○”と二人分¥80元。タクシーの運転手や旅行社のガイドは普通必要ない所も多いのだが、ここでは有無を言わせぬ態度であり、“肖○○”も当然のような顔して二人分と言う。昨日の“藤○”ならこんな場合どうだったろうと思った。
80元を払い、先ず陳列館に入る。
最初に写真撮影は駄目だと言われた。しかし、ここで私が探し求めていたこの辺りの陣地の概要図が展示されていた。それに釘付けになり、写真撮影の許可を頼んだ。それ一枚だけならと許可が出て写したが、その向こうにも、もっと広い範囲の陣地の場所が記された図が展示されていた。
「これも」と頼んだが、「駄目」と言われて諦めてしまったが、今思うにもっとひつこく粘って写させてもらっていればと残念だ。その場で簡単にメモ用紙に概略図を書いたが、それでもそれではもの足らず残念無念。二站・愛琿・勝武屯・勝山・花見山・霍爾莫津・朝水・黒河・法別拉、等など一体何処にあるのか?ハッキリしなかったから。
でもここで二つの展示図を見て、おおよそは分かった。図に全ての陣地が明記されていた。
愛琿陣地は満洲時代「愛琿」という駅があったようだが、今は黒河から二つ目、孫呉から黒河へ向って次の「西崗子」という駅になっているようだ。その駅の場所は同じではないとのことだが、その附近に愛琿陣地はあった。そして二站は愛琿陣地の(愛琿南西40km・Web頁参照)くらいのところにある。
勝武屯陣地は勝山要塞の西正面、道を隔てた山のなか。『勝山陣地より歩いて1時間ほどの山中』とある本には書かれていた。ここに来て対面する山が勝武屯陣地だと教えてもらった。ソ連(アムール河)に向って、勝山陣地の左手方向に勝武屯陣地が布陣する。
霍爾莫津というのは第五国境守備隊の所在地であり、その中に勝山・勝武屯、その他周辺の陣地が含まれる。国境守備隊の所在地で第五が霍爾莫津であり、第六が愛琿、第七が黒河となっている。そして法別拉は第十三国境守備隊の所在地だ。
ここの陣地・要塞の名称と所在地の名称が混在していろんな所に書かれているので、私には旅先でも、何が何だか分からなかったが帰国後に徐々に分かってきた。そして自分の頭の中でやっと整理が出来た。
この勝山を見てからアムール河、河岸の村に行ったが、そこのオバチャンが村の名前ではないようだがここも“霍爾莫津:ホルモジ”だと言っていた。しかし勝山陣地のことを霍爾莫津要塞と書いている中国語のWeb頁もある。
私が今回の旅で実際に行ったのは、結局、黒河陣地と勝山陣地の二つである。法別拉陣地は近くまで行き、場所は事前の知識と同じで大体分かった。
二站・愛琿・勝武屯・花見山・朝水などの陣地には行っていない。
そしてこれらの陣地・要塞で、一番の対ソ激戦は、愛琿陣地の戦いのようである。その戦いの様子は以下のWeb頁に詳しい。 -
9:56:38
勝山陣地の遺跡を巡る
前を行くのは“肖○○”とガイド
ガイドが鍵と懐中電灯を持って案内してくれる
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独立混成第百三五旅団(不朽)戦記:抜粋
http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu41.htm
旅団の死者は約400名。これに対してソ連軍の死者は800名以上と見積もられており、末期の日本陸軍のなかでは、奮戦した部類に入るのではないでしょうか。
この後、大隊は停戦交渉によって孫呉に終結し、作業大隊として再編され、過酷なシベリアでの労働に従事することになりました。また、病のために途中で引き返したものたちも、黒河事件(国府軍と中共軍の交戦に巻き込まれ、その結果、日本人による収容所からの脱走が図られ失敗した事件)によって、多くの死者を出す運命にあったのです。
なお、愛琿陣地に収容された民間人は旅団長の執拗な要請の結果、ソ連軍の警護の下、無事ハルビンに到着し、その後は個々の行動に任せられました。その多くは無事に祖国の土を踏むことに成功します。その意味で独立混成第135旅団は、軍司令部の命令を無視することによって、その任務を全うしたと言えるでしょう。
/////////////////////////////以上 抜粋終わり
■「刻みつけられた足跡」溜口麻一(著)
また実際135旅団に所属し黒河事件に巻き込まれ「刻みつけられた足跡」を戦後出版した溜口麻一は、以下のように記している。
/////////////////////////////////
「刻みつけられた足跡」溜口麻一(著):抜粋
20日昼頃、ソ連軍の軍曹につきそわれた日本軍の将校が軍使として白旗を掲げてやってきた。ソ連軍の軍曹は彼を見届け引返した。日本人将校は司令塔へと歩哨に案内された。
軍使と言うのに軍刀をさげていない。この丸腰将校は、最初敵のスパイではないかと歩哨から疑われた。そして殺してしまえということになったが、この将校と士官学校同期生の将校が愛琿陣地にいたので殺されずにすんだ。
軍使として任務をおびて、後方陣地の二占陣地にきたこの将校は、陣地の歩哨に「軍刀をさげずに丸腰で、それでも日本軍の軍使か」とののしられ、陣地の中へは入れられなかった。
この将校は陣地の中にはいれず、自己の任務を果たす事ができなかった。その将校は、「まったく俺は馬鹿だった。前線ではこれほどまでに信じて戦っているのに、そんな所へのこのこきた俺は恥ずかしい」といって歩哨から手榴弾を一発もらって、林の中で自決してしまった。
この時戦争はすでに終わっていた。それなのにこの若い将校は自ら生命を断ってしまったのである。
軍使が第四軍司令部より持って来た、降伏文書をめぐって、その夜は全中隊長以上を集めて徹夜の会議が司令塔の中で開かれた。われわれ兵器班の三名は塹壕の発電機を運転して徹夜の送電となった。
この徹夜の会議によって、いよいよ降伏することが決定された。会議の中で部隊長はこの陣地で自決するといったが、会議に参加していた将校がこれを止めたという。
明けて8月21日
中隊長が全員集合をかけた。そこで日本が無条件降服したことを知らされた。そして天皇の詔勅が読み上げられ、読み終わった長坂中尉(中隊長)は男泣きに泣いていた。自分はそれを聞いていたが、何故だか泣く気にはなれなかった。
//////////////////////////////以上 抜粋終わり
この溜口という元兵士は、昭和28年に帰国し、1984年:昭和59年にこの本を出版している。戦後34年も経過し正しい情報は十分得る機会があったはずなのに、その時点でさえ朝鮮戦争を以下のように記している。そして出版社が「日中出版」であることからも、彼がどのような思想の持ち主なのか分かる。
以下:「刻みつけられた足跡」溜口麻一(著)抜粋
『朝鮮戦争をアメリカ帝国主義が国連軍まで動員して、その持てる力を全部集中して、あの小さな朝鮮半島のしかも北半分の攻撃であった。
(中略)
われわれ日本人労働者も多く志願軍として、朝鮮に行って戦うことを望んで、抗米援朝のために志願書を出したが、当時の国際情勢からわれわれの志願は受け入れられなかった。』
彼のような元兵士である日本人が、自らを被害者の立場に置き、戦友や当時の日本を貶め、戦後の日本と日本人に百害をもたらした元凶だと私は思っている。
■勝山陣地
2007年くらいに改修が終わったようだが、中国の史跡保存・遺跡保存というのは信用できない。2005/平成17年に丹東に行き、鴨緑江のほとりに「虎山長城」という中共政府によれば「万里の長城の東の端だと確認された」という代物に行った。
真偽は知らないが私は信用していない。『ウィキペディア(Wikipedia)』には『実際には、明の時代の建造物ではなく高句麗が築いた「泊灼城」の遺構といわれている(中略)古来より中国の不可分の領土であることを誇示宣伝するための工作との見方もある。』とも書かれている。私は、それが正しいと思っている。
その時、全くこの「虎山長城」を知らず予備知識なく行ったが、見てすぐに直感的に感じた。新品であり「さも万里の長城風に仕立て上げ領土にしやがって」・・・と。「何で先っぽだけがこんなに立派に残っているんや、ふざけるな」、であった。
だから満洲の要塞遺跡も、補修はして欲しくないが仕方がない。瓦礫になっていたり廃墟のままなら頷けるが、新品になっていると当時はどうだったのだろうと思わずにはいられない。
40元と入場料は高いが、ガイドが鍵と懐中電灯を携帯して案内してくれる。そして鍵を外してそれぞれの要塞跡に入る。この山全体に施設が点在(100k?)していて、帰国後写真を見なければ何処を見たのか覚えていない。神社の跡地も残っていた。今は参道の階段だけしか残っていないが。
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http://www.youtube.com/watch?v=dTLK8YVb6_0&feature=player_embedded -
9:57:30
標識が各所に設けられ遺跡公園として整備されている -
10:05:10
こんな場所に写真で良く見ていた警備中隊の兵舎跡があった
来る前に日本で写真を見て想像していた所に来た時
それが戦跡を訪ねる感動での瞬間でもある -
10:07:00
兵舎の内部
兵舎といっても要塞化しているのか
頑丈そうだった -
10:07:22
窓から外を写す
前が広くなっていて、ここで整列したり
運動したり・・と、兵士の日々の軍隊生活があったのだろう
コンクリートの厚さに要塞を感じる -
10:07:48
64年前この勝山陣地には数百名の布陣しかなかったようだ
ソ連侵攻の、その時
この広い勝山陣地のどこで兵士たちは迎え撃ったのだろう -
10:08:56
この景色、日本でホント良く見ていた兵舎の写真
それを自分のデジカメで撮ったのがこの写真だ -
10:12:24
勝山陣地:神社跡
本殿に通じる参道の階段なのだろう
階段だけが残っていた
最上部に上がり、二礼二拍手一礼をする
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http://www.youtube.com/watch?v=W4fPnbaSe64&feature=player_embedded -
10:16:40
地下兵舎跡 -
10:17:28
鉄の扉が作られて鍵が掛かっている
ガイドに開けてもらって中に入る
コンクリートの厚さが目に入る -
10:17:42
内部は奇麗に修復されているようだ
何もない空間が広がっていた
こんな閉ざされた中で共に過ごせば誰しも
互いの人間性はすべて、さらけ出されるだろう
それが戦友であり、通常の親友とも次元が違う -
10:21:30
地下倉庫入口
あっちにもこっちにも戦跡あり
何を見たのか?帰国後写真を確認して
ああ、こんなとこに行ったのか・・・と -
10:23:04
地下倉庫の内部
海拉爾・東寧・虎頭などなど少しは要塞を巡ったが
その地域・規模を思う時、戦に望む国家の凄さを感じる
これだけのことを良くぞ成した
陣地要塞を考え作ること自体並大抵の力では出来ない
それを実現維持させ、尚且つ国民の普段の生活がある
それらを含めて当時の国家国民の力を思う -
10:27:54
山頂の下が
司令部、観測所になっていたのか。
//////////////////////////////////////////
■司令部:観測所
兵舎跡の写真は勝山要塞を紹介するWeb頁に大概掲載されているので、「ああ、これがそうかこんな所にこんな風にあったのか・・・」との思いで見たが、この観測所は知らなかった。この上が勝山の頂上らしい。
大きな破壊跡だが、この中に懐中電灯持参ではいり観測塔に登れる。頂上から360度の方向が観測できるように三つの観測塔があるが、登ったのはその内の一つであり、他の二つは登れるか否か分からない。
垂直の錆びた鉄梯子を登る。上に上がっても開口部が開いたままなので気持ち悪い。外に向ってのぞき窓があるが足場が悪いので、見やすい体勢がとりにくい。当時はどのようになっていたのか?蓋があり椅子があり、双眼鏡が備えられていたのだろう。
昭和20年8月11日、ソ連軍がアムール河対岸のコンスタンチノフスカ(コンスタンチノフスキー)から渡河して来るのを、この窓からどんな思いで兵士は見ていたのだろう。14日に制圧されたそうだが、この陣地でソ連戦車を迎え撃ち肉攻攻撃を加えて敵に打撃を与え亡くなった兵士が今もこの地の何処かに眠っているのは事実だ。ご冥福を祈る。
また鉄梯子を慎重におり、山頂に立った。残念ながら今日は天気が悪く、アムール河は見えなかった。天気が良ければはっきり見えるそうだ。この陣地からアムール河まで8公里(km)とのことだった。
全部とは程遠いと思うが、一応見て周り車までまた歩いて戻った。9時〜11時40分、2時間40分もここにいた。それくらいざっと見るだけで時間が掛かったのか・・・。歩いた時間が片道20分くらいだから、勝山陣地内は2時間か、それでもここの見学は結構時間が必要だ。 -
10:28:56
半分抉り取られたような感じになっている
中の要塞は修復されているようだ
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http://www.youtube.com/watch?v=GFtuJ9x72G8&feature=player_embedded -
10:30:56
こんな風に鉄扉が設けられ施錠している
ここを入って行けば
山頂への観測展望台下へと続き
垂直の鉄梯子で観測所に登れる -
10:32:08
奇麗に修復されているが
ここでの戦いの様子は分からない -
10:32:42
この垂直梯子を上って展望所に上る
落ちないように気をつけて -
10:33:22
こうやって山頂からこの一帯が眺められたのだろう
今は山に木が生い茂り展望は悪い -
10:33:48
当時はここに蓋があったのだろう
出ないと動き難い
2007年頃に改修が終わったようだが
当時はどのようだったのか?
修復中の2005年にここを訪れ現場を見た方の印象は
『修復と言うより新設に近い』とある
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http://www.youtube.com/watch?v=tva-7jnfTko&feature=player_embedded -
10:37:50
三ヶ所に設けられた観測所
ここからアムール河まで8km
ソ連軍の動きが、どんな風に見えたのだろう -
10:38:34
アムール河方向を写す
天気が良ければアムール河は見えるそうだが
今日は残念ながら遠くは何も見えない
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http://www.youtube.com/watch?v=uwLdGNbY-J4&feature=player_embedded -
10:46:58
無論火は点けず
般若心経を詠む -
10:58:46
砲台に模型を置いている
地下に通路があり縦横に結んでいるようだ -
11:00:24
高射砲陣地
とにかく全山戦跡ありで、全体が掴めず
ああ、こんなとこに行ったのか・・・と
今、これを見ながら彼の地を思う -
11:20:48
入口に戻って来た
入口にT−34型戦車があり、建物が管理事務所と陳列館
この要塞遺跡をゆっくり見ようと思えば
丸一日掛かるかも
少なくとも半日費やすつもりでないと見れない
私も2時間くらいこの陣地内に滞在したが
100余平方kmの敷地面積だそうだ -
11:42:12
工事はまだ当分終わりそうにない
橋の向こう側に“肖○○”のタクシーが停まっている
正面の山が勝武屯陣地 -
11:45:44
正面の山が勝武屯陣地だとガイドが教えてくれた
勝山陣地と正対している
アムール河は共に北東方向だ
勝山の西北西方向に勝武屯陣地がある
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http://www.youtube.com/watch?v=SzYD3jSJtuY&feature=player_embedded
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