2009/10/20 - 2009/10/27
186位(同エリア199件中)
明石DSさん
7:08:02
7階12号室:部屋の窓に朝食券を貼り付けて
今日は雪もなく
さあ、朝飯食って退房だ
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哈爾濱〜黒河〜愛琿〜孫呉〜阿城〜哈爾濱
2009:平成21年10月20日(火)〜10月27日(火)7泊8日
4日目:黒河〜孫呉へ(金)晴れ
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2009.平成21年10月23日(金)
■サラバ黒河
6時過ぎに起き外を見たら薄曇だったが、すぐにいい天気になった。
朝食を食べに行ったら今朝もロシア人が占拠状態だった。バイキング形式だしテーブルは随時だが、ロシア人はロシア人同士、私や他の中国人が一人で座っていても他にテーブルがあれば必ずそっちに行く。ロシア人も多民族でアジア系も多いのだろうがこのホテルのロシア人はスラブ系が多いように見えた。
まだ8時前だったが退房(チェックアウト)し、外に出て行った。そしてやはりアムール河方向へと向う。その途中の朝市で露店が居並ぶ中を、キョロキョロ物珍しく見るのが楽しい。黒龍江で獲れた魚を売っている。鶏も生きたまま足を括られ商品だ。かごの中に押し込めれているのもある。みんな今は生き物だが食い物だ。
豚饅を2個1元(28円)で買った。旨い、ホテルの朝食より、大概こっちの方が旨い。そして、厚手のパッチを並べてる露店があったので、「幾ら?」と聞くと「34元」と言うので「30元で買う」と言ったら、すんなり商談成立。やはりこの辺りの寒さにはこのくらいの厚手のパッチでないと役に立たないのだろう。
河に向いながら、早速物陰でパッチを穿いた。今までズボンの上にウィンドブレーカーのズボンを穿いて、ズボン二枚だったが、それよりこっちの方が暖かいし動きやすい。これは哈爾濱のホテルに戻るまで穿き続けた。日本に持って帰ったが、穿く機会があるのか?
哈爾濱に行けば松花江、牡丹江なら牡丹江へと、川や山や海が傍にあればそこに行きたくなるのは何故なのか・・・。そこには悠久の歴史を遡って同じ風景に出会えるという思いがあるからだろうと私はそう感じている。
昔昔の人も見て佇み想い感じた場所に足が向く。そして未来の人もここで同じ風景を見るだろうと思う。旅先ではそんな場所、風景こそが、私には魅力ある場所だ。
30分ほど散策し、站に向う。客運站(バス)は火車站(鉄道)のすぐ近くにある。
-
7:14:36
今朝もロシア人でごった返す
ロシア人専用ホテルです -
7:16:12
左:コーヒーに牛乳を混ぜて
右:おかゆ
豆乳はありません
ロシア人の三分の一以下の食欲? -
7:56:12
いつもの道を通ってアムール河へ向う
川魚な美味いのでしょうか?
どうも食べる気がしません -
7:58:40
路上販売鶏二羽
足を紐で結んで
残り二羽、値段は?聞けば良かった -
8:02:56
小ぶりの豚饅
ホテルの朝食より美味いです -
8:05:52
そこに置いている厚手のパッチを購入
「34元」「30元で買う」「持ってけ」
商談成立
これがないと黒河では過ごせません
http://www.youtube.com/watch?v=9bgKv9Ueg1E&feature=player_embedded -
8:20:18
見納めのブラゴヴェシチェンスク
次回はブラゴヴェシチェンスクから黒河を見よう -
8:31:54
黒河駅のすぐ傍に客運站があります
いよいよ黒河を離れます
どこでも国境の街は雰囲気があって良いですね
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■バスで孫呉へ
駅前の客運站で8時50分(発)のバスに乗り孫呉へ出発。料金は20元(280円)くらいだったと思う。
途中、“潮水”という標識が道路沿いに立っていた。黒河と孫呉の間に西崗子の愛琿要塞・朝水陣地と言うのがあり、この辺りなのかもしれない。 -
8:37:18
待合室の風景
屋根高く広いです
人も多くはないですね -
8:38:26
このバスで孫呉へ
8割くらいの客を乗せて出発
降りるのはどこでも随意のようです -
8:52:26
黒河站を右手に見ながら
サラバ黒河、又来る日?まで -
8:56:50
もう満洲の平原の風景は見慣れました
普通に景色を見てるだけで、思うことも少なし
でも見ないと、すぐ又見たくなります -
9:22:42
こんなんが建ってました
交通警察の詰め所? -
9:41:18
潮水
朝水陣地というのがあるのですが・・・。
愛琿陣地・朝水陣地
潮水と朝水、違うのでしょうか?
位置的には黒河と孫呉の間にあってこの辺りでもよし -
10:24:08
正面が孫呉駅
黒河からバスで1時間半ほどで到着
軍都孫呉にやって来ました -
10:49:52
孫呉北苑賓館の部屋
今年8月オープンのホテル
街外れかと思ったけど街は小さいから
中心部も歩いて5分
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■満洲時代の軍都:孫呉に来た
陣地の布陣のはっきりした地図がなく、旅の前、そして最初から最後まで位置関係が分からなかった。今も私の頭の中では大体しか分かっていない。
孫呉には1時間半後の10時20分頃に到着した。取りあえず北苑賓館(Bei Yuan Bin Guan)に行く為にミゼットのような三輪タクシーに声を掛ける。3元¥42円。
そして孫呉の地図を買いたいから先に新華書店に行ってくれというと、「二ヶ所で6元・そこに地図が有るか無いか知らん」という。“くそっボッタくりやがって”と思うけど、何せ、6元¥84円程なんで邪魔臭いからOKして書店に行った。地図は無かった、そう言えば黒河でも新華書店には売ってなくて、別の場所で買った。“項○○”が連れて行ってくれたので何処で買ったのか分からないが・・・。
地図は諦めて北苑賓館に行ったら景色は完全に街外れだった。“権○○”紹介では「最近出来たばかりのホテルで、特に今は料金を安くしている」と言うことだったが、こんな街外れなら街中に出て行くのが不便だから嫌だなあと言うのが最初の印象だった。
確かに街外れだが、街がこんなに小さいとは思わなかった。中心部まで5分、站まで真っ直ぐで歩いて10分。不便ではない。このホテルは現地払いだったのでチェックインの手続きの時に払った。予約はちゃんと出来ていた。一泊¥168元(¥2,352)ツインベッドで部屋も広く朝食付きでこの値段だ。押金(Ya jin:保証金)と合計¥800元を払う。
さあ、孫呉を周らねばと意気込んで外に出てタクシーを探した。そこにちょうど女性運転手のタクシーが北苑賓館に客を乗せて来て停まった。いつもの旅の一期一会の出会いの瞬間だ。今まで、何度もこうやって包車してきたが、幸いにも嫌な思いはほとんど記憶にない。
全く無いとは言えないが、記憶にしっかり残るほどの嫌な思いや騙されたということはほとんどない。今回もそんな一瞬が私の旅の醍醐味でもある。そんな女性ドライバーは42歳の“藤○”だった。助手席に乗り込み、私が「商量、商量:Shang Liang:相談」と言う。
そして、資料を広げて
花見山陣地・勝武屯陣地・霍爾莫津・勝山陣地・孫呉侵華罪証陳列館・軍人会館・孫呉賓館・孫呉大橋・発電所跡・日本の官舎跡・水門遺址・孫呉神社遺址・孫呉第三小学校
「上記の場所に行きたい。その為に包車したい、知っているか?」と聞いたら、“藤○”は「私の仕事は午前中だけだから、娘に昼ごはんを食べさすので、もうすぐ家に帰らなければ・・・」と言いながら困った様子だった。
その時、ホテルの前にカメラマンを連れた地元のテレビ局の二人が何かを取材していて、それを見つけた“藤○”が「あの人たちテレビ局の人だから、知っていると思う」と早速車から降りて、私の資料を手に持ち、テレビ局の人に聞いてくれた。
「日本人がこんな所に行きたいと言っているが、この場所を知ってるか?」と言いながら、私も傍で遣り取りを聞いていた。その間もカメラマンは私の方を撮影していた。そして簡単な質問、旅行か?一人でか?とか質問をされた。“藤○”はある程度場所を分かったようだったが・・・。
そして、“藤○”は「男の司機(SiJi:運転手)を紹介する」と、車を走らせながら周囲を探してくれた。市内をしばらく走って探しながら、知ってる二、三の運転手に声を掛けたが、声が届かず行き過ぎたりで見つからず。その内気が変わったのか、昼からこの近辺だけなら行けると言った。
私もそれで十分だった。とにかく何処に何が有るのかさっぱり分からないまま当地に辿り着き、資料で名前の出てきた場所を全部提示して、取りあえず行ける所から行こうと思っていたので・・・。料金は「1時から5時まで¥100元」と“藤○”が言うので、頼んだ。その時の時間は午前11時半。
“藤○”と1時にホテルまで迎え来てくれる約束して車を降りた。
そして街中を散策しだしてすぐに孫呉の街が小さいのに気付いた。站まですぐだし、孫呉賓館も有った。この孫呉賓館は孫呉に生まれ育った(6年間)方のWeb頁によれば、元独立守備隊跡で20年前には孫呉招待所と言っていたそうだ。現在は「孫呉県文体局」「孫呉県労働和社会保障局」という看板が掛かっていた。
そして道路を隔てた対面に旧大和ホテルが建っていたそうだ。孫呉駅からすぐのところにある。当時、孫呉は関東軍の軍事都市で、多くの日本の軍人、日本人がこの町を堂々と闊歩していたのだろう。満洲がそのまま存在していれば立派な日本の“友邦国”として独立し、この東アジアには今より何倍もの安定と繁栄があったと信じる。 -
11:25:40
孫呉の女性タクシー運転手:“藤○”
明るく元気・パワー溢れる
一期一会の出会いの瞬間
“藤○”との出会いで孫呉の旅が百倍充実しました
非常感謝! -
11:38:22
北苑賓館の前の道「解放路」
正面突き当りが孫呉の駅です
歩いて10分ほど -
11:39:20
孫呉賓館、元独立守備隊跡のようです。
すぐ駅の南、解放路、駅を背にして左にあります
今は「孫呉県文体局」「孫呉県労働和社会保障局」
こんな看板が掛かっていました
解放路を隔てて向いが旧大和ホテルがあった場所だそうです -
11:46:10
孫呉の昼食はここで食べました
個室ばかりの店
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■昼食を食べる
小奇麗な店に入り個室に案内される。そこの店は個室ばかりの店だった。持参の菜単(CaiDan:メニュー)を出し広げて、この店にある物を聞いて頼んだ。紅焼豆腐とあと一つ、それに小ご飯。美味しかった。
これからも中国旅行は菜単持参で来なければと思う。メニューに写真がないので幾ら漢字を見ても出来上がりの料理がどんな物なのかさっぱり分からない。 -
9:22:42
美味かったです。
美味しかったのに何故か?
この一回だけしか行かなかったです
何故?もっと美味い所はないかと探してしまう私です
欲深く失敗多しされど繰り返す我が業なりや -
12:39:28
北苑賓館
8月にオープンした新しいホテルです・・・が
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■孫呉の戦跡を巡る
12時40分頃に部屋に戻り、小休止をして下に降りたが、まだ“藤○”は来ていなかった。そして1時になったのにと思って見たら、さっきから停まっていた黒色のタクシーがそうだった。彼女も私が遅いので私の携帯に電話を掛けたが“打不了”掛からなかったそうだ。私の携帯から彼女の携帯には掛かるが。
いざ出発。どこに行くのか?私は彼女に任せたままであり、とにかく何処に何があるのか全く土地勘もなく、グーグルアースで孫呉大橋の方向は分かっていたが・・・。まず最初に行ったのは、遜比拉河に架かる孫呉大橋方向に向う。あっけなく大橋を通り過ぎ、「帰りに停まるから」と北東方向に走る。
道路傍に停まりこれも日本の遺跡だと言われて写真を撮ったが、今もってそれが何か分からない。次に行ったのは水門、2005年9月11日にこの地を訪れた方のWeb頁に水門の碑が前日建てられたと書いてあるが、2009年10月23日の今日は、その碑も何時からなのか?無残にひっくり返っていた。
4年持たず・・・か。横倒し状態は何時まで?この孫呉の近辺で最近、日本軍の遺棄兵器なのか化学兵器なのか良く分からないが、それで若者(男女不明)二人が亡くなり日本から賠償金を貰ったと。藤○は話してくれたようだが・・・何分私の中国語聞き取り能力では、そんな感じに聞き取れた。
この碑のコンクリートの基礎を見れば、自然にひっくりかえる代物とは思えず人為的な力が加わったとしか思えない。“藤○”に「この辺りの中国人は日本人は嫌いか?」と聞くと、即座に「不喜歓:嫌い」と大きな声で言った。毎日、テレビで抗日番組が放映され日本軍人が悪役で出ている。そして、この辺では関東軍の遺棄化学兵器の問題がある。
しかしこの問題も敗戦時に関東軍がソ連と中国側に全ての武器弾薬を引き渡し、それ以外の物品までも詳細に書かれた引継書なども山形県の「シベリア資料館」で見つかったりしてる。無論あちこちの陣地で都合の悪い物は遺棄したのだろうが、今言われているようなことが全てのは事実ではないはずだ。
この問題も中国側の一方的な要求に屈した日本政府のその場しのぎ、無責任・無自覚な対中国政策によって、莫大な日本の税金が今後も中国に注ぎ込まれる。
それよりも何よりも事実を探求しない姿勢こそが先人たちの誇りと名誉を無意味に傷つけ、現在の両国民だけではなく、互いの国にとって将来に渡っての禍根を残すことになる。
42歳“藤○”は超明るく元気だ。今までの中国旅行で目の前で「日本人は嫌いだ」と言われたのは、今回で二回目だ。だが、私を含め日本人、いや、アジア・世界の人の多くも「中国や中国人が好き」という人はどれほどいるのだろうか。
これは差別ではなく好き嫌いであり、しょうがない。生理的・感情的・本能的なものだ。
でも私は中国語を学び続け、これからも中国を旅するだろう。
私は“藤○”のように中国人を前にして「中国人は嫌いだ」とは言ったことがないし、どうも面と向って言えない。
これだけ毎日、反日ドラマを放映していれば、日本憎しという感情が刷り込まれるだろうと感じる。国内の不満を逸らすには、基本的に常に日本を敵としながら、反日感情をコントロールしているのが今の中共政府だと思っている。
いつでも中共政府の匙加減一つで、一気に反日の感情は高められる。共産党独裁政権にとってそんな都合の良いのが中国の朝貢国家にも成り下がった今の日本だ。情けないの一語に尽きる。
「中国好マ?中国好不好?中国は好きか?良いか?」というようなニュアンスで旅行中に何度も聞かれる。そんな時、即座に「大○○いだ」と言いたいけど言えないから。いつも「中国共産党は嫌いだが、中国旅行は好きだ」くらいの返事になる。
自己の都合に適う捏造誇大は好き勝手放題で、客観的な事実を無視或いは全否定する中朝韓の認識には、幾ら互いに「相手の立場に立って」と言われても誰がそんなことを受け入れることが出来るのか。
彼らのそんな浅ましい文化には辟易するだけで、幾ら対抗といっても彼らの真似は絶対出来ない。確かに老百姓(普通の庶民)の現実に、同情の余地があるのだろうが、好きにはなれない。
しかし互いの関係を戦後そんな風にしてしまった責任の第一は、彼らにあるのではなく、戦後の日本国と日本人にあると私は思っている。白人列強に屈せずアジアの雄として、又有色人種期待の日本であったのが、敗戦後、米国の属国になり下がり、敗戦までの日本の気高き精神を捨て、金儲けだけの日本国に成り下がったからだ。
その上に卑屈な自虐史観を恥ずかしくもなく前面に出し、勇敢で誇り高かった先人を庇う事もしない日本人に彼等は失望と愛想が付き、そんな卑怯な日本人に一時的にも牛耳られた自分達が更に惨めになったのだろう。その反動が日本憎し、日本人を馬鹿にしないと気がすまない彼らにした。それこそ相手の立場にたって考えればそう思う。
戦後も日本人が敗戦の結果を堂々と受け入れ、欧米列強と大東亜共栄圏の大儀を掲げて戦った先人を誇りにし、是々非々で世界の中で渡り合って行こうとしたなら、近隣三ヶ国もこれほど日本を舐めるような言動はしなかったと私は思っている。
全ては自ら撒いた種であり、責任は戦後生き延びた卑怯な日本人にある。そして私もその卑怯者の一人であることから逃れられない。
その水門の近くに日本の建物だという廃墟があった。これが「芙蓉荘」のようだ。中はがらんどうで外側だけの廃墟だが、何であるのかWeb頁に「飲み屋?」と書いているのもある。
入口のところに「小日本」とペンキの殴り書きがあった。その色から見て最近書いたものだろう。確かにこの辺の連中は、江沢民からの一貫しての反日教育と、この遺棄兵器問題の経緯も事実も何も知らされず、全て日本悪しの報道によって反日感情が強いのだろう。
やっかいこの上ない。本来付き合わぬが花なのだ・・・が。ハワイ辺り、いやハワイの向こうまで日本列島を島々含めて引越ししたい。
でも旅を通じての反日感情と言う点で、数年前日本人と言うことで若い女性から嫌な態度を示されたことがあるが、その一回くらいしか思いつかない。その時は嫌な気持ちがした。 -
12:46:04
305号室の窓から解放路方向を写す
“藤○”とは1時に待ち合わせ
あと10分ほどで出発です -
13:12:22
東方向に向かい最初に“藤○”が教えてくれた遺跡
日本時代の物だということ以外不明 -
13:12:42
一体何の遺跡なのか?
ご存知の方あらば、教えて下さい。 -
13:18:08
日本が作った水門、見るからに頑丈そうだ
半ば廃墟になりつつも美しい -
13:19:16
64年前水門として立派にその役割を果たしていたのだろう
戦争での破壊なのか
その後不要になっての放置なのか?
残骸なれど堂々たる水門だ -
13:19:26
まだまだ奇麗なままだ
奇麗なのは水ではなく、水門です
破壊が無ければ十分使用可能だろう
何でも歴史に評価されてこそ本物だ
物づくり日本の真骨頂ここにも存在する -
13:12:42
2005年9月10日、この地に建立された碑
2009年10月23日にこの様だ
一体いつから?こんな基礎があるのに
人為的仕業としか思えず -
13:21:00
水門から見た芙蓉荘 -
13:23:00
何故?廃墟のまま管理せず放置するのか?
遺跡としてのこすのか、それとも壊すのか
いまだここに建つ。不憫なり -
13:23:26
芙蓉荘内部
まったくのがらんどうだ -
13:23:54
芙蓉荘の中から水門を写す
64年前この辺りはどんな様子だったのか? -
13:24:56
まだ新しいペンキの落書き
小日本・・・か
確かに面積は小さいが、日本比中国好多了。 -
13:27:10
門柱も残る
サラバ芙蓉荘 -
13:37:00
“藤○”の知り合いの家のようで
中に入って遺跡の場所を聞いてくれた
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■第123師団:北沢貞治郎中将・住居遺跡
“藤○”は、孫呉は小さい街だがタクシーは300〜400台あると言っていた。その内100台くらいは黒車(無認可)のようだ。誰彼となく聞きながら遺跡を探してくれた。
そばで見ていると、とにかく、みんなが知り合いのような雰囲気なので、友達なのか?今日初めて言葉を交わす知らない人なのか?全く分からない。私のことは「日本朋友=日本の友達」と皆に紹介する。
“藤○”に言われるまま向った。そこに何が有るのか分からないまま、そして関係ない横の“コンクリートの基礎”を「えらい新しいなあ、一体何やこれ?」と思って写真を撮りながら、その一角に目を転じた時、その碑が目に入った。
それが師団長の住居跡を示す碑だった。
今では周囲が農家と畑ばかりなので当時の風景を知らない私は想像も出来ないが、この辺りに陸軍病院をはじめいろんな軍施設があったのだろう。ソ連の進攻までは、寒いがホンマのんびりした雄大な景色の下での日々があったはずだ。
その近くにも「あれが日本の遺跡だ」と言われて写真を撮りに行った。物が何であるか私には分からない。師団長住居跡の近くだ。 -
13:47:14
第123師団:北沢貞治郎中将・住居跡
師団長の邸宅がここにあり
近くには陸軍病院もあり、軍人会館もある
多くの軍事施設もこの周囲にあったのだろう
今は、農家と畑地が広がる -
13:49:16
正面が邸宅跡
碑が建っているのが見える -
13:49:24
123師団:師団長邸宅跡
少し離れて撮る
当時を知る人は周囲の光景が目蓋に浮ぶのだろうけど
私はさっぱり。 -
13:52:10
師団長邸宅からホンノ二、三分、
ここも日本の遺跡だと言われたが
何の跡で有るのか不明 -
13:53:00
知る人ぞ知る
我は分からず
これらの写真を撮る
陸軍病院の一角かも
下記の撮影時刻を見れば、ほぼ同じ場所だ
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