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9:18:28 <br /><br />黒河から北に向ってひた走る <br /><br />途中、「あれは日本の物だ」と“項○○”が言う <br /><br />慌てて写真を撮ったが、帰りに寄ることにした。 <br /><br />//////////////////////////////////////////////////<br /><br />■法別拉(ほうべら)陣地に向う <br /><br />黒河省法別拉(ほうべら)陣地 <br />「遥かなる黒龍江」:小林静雄(著)より要約抜粋 <br />///////////////////////////////////////////////以下抜粋<br />黒河の街から約30kmのところに法別拉陣地がある。 <br /><br />法別拉陣地は、北正面国境守備隊の最北の拠点であり、関東軍がソ連領に対して攻勢を仕掛ける場合、ソ連軍陣地の北方翼から急襲する作戦支援基地として1940/昭和15年構築、第13国境守備隊が配置されていた。 <br /><br />1945年8月9日未明<br />ソ連の大軍が黒龍江を悠々と渡河、岸辺に上陸した機甲部隊が勢揃い、頻繁に敵機の来襲、守備隊の前線監視哨の兵士たちは、ただ固唾を飲んで塹壕に身を潜め、連隊本部からの指令を待ちながら、玉砕覚悟の決死の肉迫戦に備えた。 <br /><br />8月9日、法別拉屯にあった第三中隊:西村中尉は、法別拉監視哨、双東省分哨、北門分哨等をすべて集結させ、計150名をもって、9日夕刻法別拉屯を出発し、8月18日に嫩江(のんこう)に到着した。その行程は500kmであった。 <br /> <br />/////////////////////////////////////////以上抜粋終わり<br /><br /><br />法別拉陣地のことも事前には全くと言っていいほど分からなかった。上記の「遥かなる黒龍江」:小林静雄(著)に書かれている資料くらいで、「玉砕覚悟の決死の肉迫戦に備えた」とあるが、その後の戦いの様子は書かれていない。 <br /><br />黒河も法別拉も、孫呉の勝山陣地も生き残った方の戦いの記録が少ないのか、或いは書かれていないのか情報が少ない。やはり生き残った者が記録として後世に伝えることの重要さを思う。 <br /><br />法別拉に向ってひた走る。途中満洲時代の日本の建物があったが帰りに寄ることにして止まらず通過。 <br /><br />法別拉陣地の場所を“知っている”と言ってたけど、やはり陣地跡地までは分からず道中聞きながら運ちゃんは向ってくれた。 <br /><br />結局湖なのか?河なのか行く手を阻まれ、あの向こうが法別拉陣地といことで諦めた。 <br /><br />(注)<br />上記「遥かなる黒龍江」に“湖と見まがうほどに満々と水をたたえる法別拉のダム湖”との記載あり。 <br /><br />まあ走った距離からも、何度も地元の人たちに聞いてくれていたので納得し、遠くから“あの辺りが法別拉陣地だ”と言う方向の写真を撮っただけで引返す。 <br /><br />小林氏が案内役の人と行った時には『野戦陣地のようで、銃座や砲座は破壊されており、散兵壕も土砂で埋まっていた。雑木や夏草が茂り、陣地のある場所は分からなかった』とある。 <br /><br />法別拉からの帰り道、立ち寄った建物はレンガ造りの立派な物で正面に『森田酒蔵』と日本語で大きく書かれていた。森田酒蔵という名前は「赤い月」なかにし礼(著)の父親が牡丹江で開業していた小説の中の森田酒蔵と名前が同じだ。 <br /><br />もしや関連がと思ったが、建物に貼られていたプレートの説明書きには日本人の名前はなく、只、満洲時代の一時期、ここで日本酒を作っていたとある。創健者の名も中国人名だった。詳細は不明。 <br />

黒河・孫呉の戦跡を訪ねる10月21日(水)No2

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2009/10/20 - 2009/10/27

156位(同エリア199件中)

2

26

明石DS

明石DSさん

9:18:28

黒河から北に向ってひた走る

途中、「あれは日本の物だ」と“項○○”が言う

慌てて写真を撮ったが、帰りに寄ることにした。

//////////////////////////////////////////////////

■法別拉(ほうべら)陣地に向う

黒河省法別拉(ほうべら)陣地
「遥かなる黒龍江」:小林静雄(著)より要約抜粋
///////////////////////////////////////////////以下抜粋
黒河の街から約30kmのところに法別拉陣地がある。

法別拉陣地は、北正面国境守備隊の最北の拠点であり、関東軍がソ連領に対して攻勢を仕掛ける場合、ソ連軍陣地の北方翼から急襲する作戦支援基地として1940/昭和15年構築、第13国境守備隊が配置されていた。

1945年8月9日未明
ソ連の大軍が黒龍江を悠々と渡河、岸辺に上陸した機甲部隊が勢揃い、頻繁に敵機の来襲、守備隊の前線監視哨の兵士たちは、ただ固唾を飲んで塹壕に身を潜め、連隊本部からの指令を待ちながら、玉砕覚悟の決死の肉迫戦に備えた。

8月9日、法別拉屯にあった第三中隊:西村中尉は、法別拉監視哨、双東省分哨、北門分哨等をすべて集結させ、計150名をもって、9日夕刻法別拉屯を出発し、8月18日に嫩江(のんこう)に到着した。その行程は500kmであった。

/////////////////////////////////////////以上抜粋終わり


法別拉陣地のことも事前には全くと言っていいほど分からなかった。上記の「遥かなる黒龍江」:小林静雄(著)に書かれている資料くらいで、「玉砕覚悟の決死の肉迫戦に備えた」とあるが、その後の戦いの様子は書かれていない。

黒河も法別拉も、孫呉の勝山陣地も生き残った方の戦いの記録が少ないのか、或いは書かれていないのか情報が少ない。やはり生き残った者が記録として後世に伝えることの重要さを思う。

法別拉に向ってひた走る。途中満洲時代の日本の建物があったが帰りに寄ることにして止まらず通過。

法別拉陣地の場所を“知っている”と言ってたけど、やはり陣地跡地までは分からず道中聞きながら運ちゃんは向ってくれた。

結局湖なのか?河なのか行く手を阻まれ、あの向こうが法別拉陣地といことで諦めた。

(注)
上記「遥かなる黒龍江」に“湖と見まがうほどに満々と水をたたえる法別拉のダム湖”との記載あり。

まあ走った距離からも、何度も地元の人たちに聞いてくれていたので納得し、遠くから“あの辺りが法別拉陣地だ”と言う方向の写真を撮っただけで引返す。

小林氏が案内役の人と行った時には『野戦陣地のようで、銃座や砲座は破壊されており、散兵壕も土砂で埋まっていた。雑木や夏草が茂り、陣地のある場所は分からなかった』とある。

法別拉からの帰り道、立ち寄った建物はレンガ造りの立派な物で正面に『森田酒蔵』と日本語で大きく書かれていた。森田酒蔵という名前は「赤い月」なかにし礼(著)の父親が牡丹江で開業していた小説の中の森田酒蔵と名前が同じだ。

もしや関連がと思ったが、建物に貼られていたプレートの説明書きには日本人の名前はなく、只、満洲時代の一時期、ここで日本酒を作っていたとある。創健者の名も中国人名だった。詳細は不明。

  • 9:21:08 <br /><br />道路に検問所 <br /><br />国境に近いからなのか?それとも他に? <br /><br />国境近くではなくても、今までも何度かこういったことがあった <br /><br />ご苦労様 <br /><br />

    9:21:08

    道路に検問所

    国境に近いからなのか?それとも他に?

    国境近くではなくても、今までも何度かこういったことがあった

    ご苦労様

  • 9:40:58 <br /><br />展望開ける風景 <br /><br />満洲一帯に関東軍が布陣し、国境の守りを固めていた <br /><br />小さな島国日本が、良くぞここまで <br /><br />明治・大正・昭和と <br /><br />当時を生き抜いた日本人は気分良かったろう <br /><br />

    9:40:58

    展望開ける風景

    満洲一帯に関東軍が布陣し、国境の守りを固めていた

    小さな島国日本が、良くぞここまで

    明治・大正・昭和と

    当時を生き抜いた日本人は気分良かったろう

  • 9:43:22 <br /><br />「我、問、問」と地元の人に道を聞く“項○○” <br /><br />何となく走った時間から、30キロくらいは来ただろう <br /><br />この辺りには間違いないと思うけどなあ・・・。 <br /><br />

    9:43:22

    「我、問、問」と地元の人に道を聞く“項○○”

    何となく走った時間から、30キロくらいは来ただろう

    この辺りには間違いないと思うけどなあ・・・。

  • 9:47:36 <br /><br />幹線道路を外れ、いよいよ法別拉へと <br /><br />前方遠くの小高い山並のどこかが、きっとそうなのだろう <br /><br />

    9:47:36

    幹線道路を外れ、いよいよ法別拉へと

    前方遠くの小高い山並のどこかが、きっとそうなのだろう

  • 10:08:20 <br /><br />法別拉陣地を目前に <br /><br />法別拉湖(ダム湖?)に阻まれ万事休す <br /><br />この対岸が法別拉陣地のようだ <br /><br />「ようだ」と言うだけで何も分からず <br /><br />仕方がない <br /><br />

    10:08:20

    法別拉陣地を目前に

    法別拉湖(ダム湖?)に阻まれ万事休す

    この対岸が法別拉陣地のようだ

    「ようだ」と言うだけで何も分からず

    仕方がない

  • 10:10:14 <br /><br />法別拉陣地を背にこの道を幹線道路へと戻る <br /><br />この陣地はソ連との北方面国境を接する最北の陣地だ <br /><br />

    10:10:14

    法別拉陣地を背にこの道を幹線道路へと戻る

    この陣地はソ連との北方面国境を接する最北の陣地だ

  • 10:55:14 <br /><br />黒河〜法別拉の途中にある <br /><br />レンガ造りの立派な建物だ <br /><br />

    10:55:14

    黒河〜法別拉の途中にある

    レンガ造りの立派な建物だ

  • 10:55:36 <br /><br />建物の説明に日本人の名前はない <br /><br />日本酒を一時期作っていたようだが <br /><br />この説明書きも信頼できない・・・が <br /><br />真相は分からない。 <br /><br />http://www.youtube.com/watch?v=M8NTK0X-1dg

    10:55:36

    建物の説明に日本人の名前はない

    日本酒を一時期作っていたようだが

    この説明書きも信頼できない・・・が

    真相は分からない。

    http://www.youtube.com/watch?v=M8NTK0X-1dg

  • 11:09:48 <br /><br />森田酒蔵・・・か、中々存在感がある <br /><br />何でこんな辺境の北辺にこんな立派なものが <br /><br />

    11:09:48

    森田酒蔵・・・か、中々存在感がある

    何でこんな辺境の北辺にこんな立派なものが

  • 11:15:08 <br /><br />黒河市に入る <br /><br />

    11:15:08

    黒河市に入る

  • 10:55:36 <br /><br />一応「ロシア・レストラン」に入ったのですが <br /><br />“項○○”も遠慮して安い店を選んだようです <br /><br />

    10:55:36

    一応「ロシア・レストラン」に入ったのですが

    “項○○”も遠慮して安い店を選んだようです

  • 12:35:12 <br /><br />“項○○”が注文したのですが <br /><br />スープに肉にサラダです <br /><br />十分美味しかったです。 <br /><br />

    12:35:12

    “項○○”が注文したのですが

    スープに肉にサラダです

    十分美味しかったです。

  • 13:24:16 <br /><br />黒河から車で30分くらいで到着した <br /><br />真清が初めてこの地を訪れ、“お花”に出会ったのは <br /><br />1900/明治33年だった。 <br /><br />その時は四方を壁に囲まれていた <br /><br /><br /><br />■愛琿古城へ <br /><br />食事休憩後、愛琿古城へ、黒河から車で3,40分くらいだったように思う。 <br /><br />この愛琿は、清朝時代にここで愛琿条約をロシアとの間で結び、日本の領土の約三倍にあたる103万k?の領土を失った屈辱の地でもある。私に言わせればロシアも清も似た者同士だ。 <br /><br />この愛琿歴史陳列館は身分証明書、私はパスポートの提示を求められれたが無料であった。一人でも多くの人にこの理不尽な?条約の中味をしってもらいたいのか?意図は良く分からない。 <br /><br />そして聞かずに展示品を撮っていたけど、館員の人に撮影中に出くわしても何も言われなかった。 <br /><br />この愛琿古城は石光真清が1900年/明治33年ポポーフ大尉のお供をして初めてアムール河を渡って行った所だ。当時は四方を城壁で囲んだ愛琿古城であった。 <br /><br /><br /><br /><br />

    13:24:16

    黒河から車で30分くらいで到着した

    真清が初めてこの地を訪れ、“お花”に出会ったのは

    1900/明治33年だった。

    その時は四方を壁に囲まれていた



    ■愛琿古城へ

    食事休憩後、愛琿古城へ、黒河から車で3,40分くらいだったように思う。

    この愛琿は、清朝時代にここで愛琿条約をロシアとの間で結び、日本の領土の約三倍にあたる103万k?の領土を失った屈辱の地でもある。私に言わせればロシアも清も似た者同士だ。

    この愛琿歴史陳列館は身分証明書、私はパスポートの提示を求められれたが無料であった。一人でも多くの人にこの理不尽な?条約の中味をしってもらいたいのか?意図は良く分からない。

    そして聞かずに展示品を撮っていたけど、館員の人に撮影中に出くわしても何も言われなかった。

    この愛琿古城は石光真清が1900年/明治33年ポポーフ大尉のお供をして初めてアムール河を渡って行った所だ。当時は四方を城壁で囲んだ愛琿古城であった。




  • 13:30:20 <br /><br />黒河市愛琿歴史陳列館 <br /><br />清国にとって対ロシアとの間で結んだ <br /><br />屈辱の愛琿条約締結の紀念館 <br /><br />抗日・侵華・偽と、そんな紀念館ばかり <br /><br />やたらに作って何がおもろいのか? <br /><br />

    13:30:20

    黒河市愛琿歴史陳列館

    清国にとって対ロシアとの間で結んだ

    屈辱の愛琿条約締結の紀念館

    抗日・侵華・偽と、そんな紀念館ばかり

    やたらに作って何がおもろいのか?

  • 13:45:20 <br /><br />石光真清の記した愛琿の町の印象(明治33年) <br /><br />『人口3万程度の小都会で、城壁とも言えない貧弱な土壁をめぐらし、型の如く四方に門を設け、副都統府・鎮守使公署、その他の諸官署が街の中央にあり、副都統府の門前には、槍や旗が飾り立てられていた。その傍には、胸と背に都統府所属規兵と大きく赤字の布を縫い付けたダブダブの服の番兵が、槍を地に突いて立っていた。まことに悠長な風景である。市民の大部分は旗人(満洲人)で、南満洲とは風俗も違い、街路で人に会えば片膝を地につけるようにして礼を交わしていた』 <br /><br />

    13:45:20

    石光真清の記した愛琿の町の印象(明治33年)

    『人口3万程度の小都会で、城壁とも言えない貧弱な土壁をめぐらし、型の如く四方に門を設け、副都統府・鎮守使公署、その他の諸官署が街の中央にあり、副都統府の門前には、槍や旗が飾り立てられていた。その傍には、胸と背に都統府所属規兵と大きく赤字の布を縫い付けたダブダブの服の番兵が、槍を地に突いて立っていた。まことに悠長な風景である。市民の大部分は旗人(満洲人)で、南満洲とは風俗も違い、街路で人に会えば片膝を地につけるようにして礼を交わしていた』

  • 14:17:26 <br /><br />愛琿歴史陳列館を出てアムール河(黒龍江)方向に歩く <br /><br />晴天の空の下気持ちが良い <br /><br />真清よ“お花”の当時に思いを巡らせながら <br /><br />//////////////////////////////////////////<br /><br /><br />“お花” <br />石光真清”四部作”二巻「曠野の花」より要約抜粋 <br /><br />愛琿にて  1900/明治33年2月16日 <br /><br />このお花が真清にとって生涯忘れられない女性となる。この日が、そのお花との初対面の日だ <br /><br />水野花=お花 宋紀(馬賊の頭目)の女。雑貨屋・宿屋の主人を任せている。お花は、宋紀に世話になって4年・・・ということは、1986:明治二十九年からということになる。 <br /><br />増世策より宋紀の死を知らされる。ロシアに戦いを挑みブラゴヴェヒチェンスクの虐殺時に巻き込まれた可能性があるとのこと。 <br /><br />1900/明治33年10月半ば頃?<br />お花が真清を訪ねて哈爾濱まで来た。そして真清の下で男装の一郎として働くことになる。 <br /><br />1901/明治34年9月17日午後哈爾濱に到着 <br /><br />洗濯屋から約二町、寺院(ザボール)の西方、スタールイハルビン街路の左側、既に外観を完成していた。大看板には『フォトクライア・キクチ』と書かれていた。 <br /><br />9月20日開業式 <br /><br />在留の川上氏が洗濯屋の譲渡を申し込んで来た。1500円で譲る。こんな大金をとったのも、実はお花に対する感謝の念からだった。お花は郷里の父母の元に戻る決意をしていた。少しでも余計にお金を持たせて不幸をお詫びさせるつもりだったのである。 <br /><br />「貯金はいくら出来たね」<br />「お蔭様で二千五百ばかり出来ました」<br />「へえ〜、2千5百円、よく繁盛したものだね」 <br /><br />洗濯屋の譲渡金その他を合わせれば4500円になる。 <br /><br />1901/明治34年9月25日 <br /><br />お花と二人、船でハバロフスク経由ウラジオストックに向う。僅か四日でハバロフスク到着。同地に二日滞在して10月1日 ウラジオストック到着。静養一週間後 ウラジオストック発長崎行きの義勇艦隊汽船アムール号でお花を送った。 <br /><br />明治30年、ウラジオストックに連れられて来てから4年の間、辛い商売を続けて転々と流浪し、黒龍江省の大頭目宋紀に買われて血腥い生活をしたが、義和団事件のため身一つとなって私の許に転げ込んできた運命の女性である。 <br /><br />今はさらりと過去を清算して、懐中に4500円の大金を携えて、両親へ懺悔の帰国をするのである。私は甲板まで見送りに行った。14年後の大正4年の秋、ある人からの知らせによると、しっかした農家に家庭を作り堅気に暮らしているとのことであった。 <br /><br />お花を郷里に帰したにつけて残念に思うことは、私を拉林城の獄舎から救い出してくれた“お米”を老爺嶺の密林中で見失ってしまったことである。自決したのか、逃亡したのか、あるいは捕らえられたのか、その後もついに会うことはなかった。 <br /> <br />/////////////////////////以上抜粋終わり <br /><br /><br />■愛琿にて <br /><br />愛琿鎮の中をしばし散歩し、“お花”との出会い当時の想いに馳せる。アムール河岸には陳列館から徒歩5分くらいで辿り着く。 <br /><br />この「愛琿」という名前の愛琿陣地・愛琿河・愛琿橋、等々の名前が「黒河事件」にも登場するし、その他あちこちに出てきたが、どうにもその場所が分からず、黒河に来ても、この愛琿に来ても分からなかった。日本でネット検索しても陣地の全体の地図や位置などは見当たらない。 <br /><br />それが孫呉の勝山陣地にある陳列館の地図によってやっと分かった。愛琿古城と愛琿陣地は同じ場所ではない。愛琿陣地は昔、愛琿站があった場所で今の西崗子站附近だそうである。黒河→錦河→西崗子→孫呉と、黒河から二つ目孫呉からは次の駅になる。 <br /><br />中国のHPでは第6国境陣地西崗子陣地(愛琿陣地)と記されているものもある。 <br /><br />愛琿河は中国のネットで検索しても見当たらない。タクシーの運転手もその他数名に聞いたが「聞いたことない・知らない」との返事ばかりだった。西崗子河では検索しても出て来なかったが、西崗子橋は有った。 <br /><br />場所も二站〜黒河方向「西崗子橋」と書いており、2006年に大雨で橋が壊れて修理したようなことが書かれていた。 <br /><br />帰国後にネットで調べながら徐々に疑問が解けてきた。 <br /><br />

    14:17:26

    愛琿歴史陳列館を出てアムール河(黒龍江)方向に歩く

    晴天の空の下気持ちが良い

    真清よ“お花”の当時に思いを巡らせながら

    //////////////////////////////////////////


    “お花”
    石光真清”四部作”二巻「曠野の花」より要約抜粋

    愛琿にて  1900/明治33年2月16日

    このお花が真清にとって生涯忘れられない女性となる。この日が、そのお花との初対面の日だ

    水野花=お花 宋紀(馬賊の頭目)の女。雑貨屋・宿屋の主人を任せている。お花は、宋紀に世話になって4年・・・ということは、1986:明治二十九年からということになる。

    増世策より宋紀の死を知らされる。ロシアに戦いを挑みブラゴヴェヒチェンスクの虐殺時に巻き込まれた可能性があるとのこと。

    1900/明治33年10月半ば頃?
    お花が真清を訪ねて哈爾濱まで来た。そして真清の下で男装の一郎として働くことになる。

    1901/明治34年9月17日午後哈爾濱に到着

    洗濯屋から約二町、寺院(ザボール)の西方、スタールイハルビン街路の左側、既に外観を完成していた。大看板には『フォトクライア・キクチ』と書かれていた。

    9月20日開業式

    在留の川上氏が洗濯屋の譲渡を申し込んで来た。1500円で譲る。こんな大金をとったのも、実はお花に対する感謝の念からだった。お花は郷里の父母の元に戻る決意をしていた。少しでも余計にお金を持たせて不幸をお詫びさせるつもりだったのである。

    「貯金はいくら出来たね」
    「お蔭様で二千五百ばかり出来ました」
    「へえ〜、2千5百円、よく繁盛したものだね」

    洗濯屋の譲渡金その他を合わせれば4500円になる。

    1901/明治34年9月25日

    お花と二人、船でハバロフスク経由ウラジオストックに向う。僅か四日でハバロフスク到着。同地に二日滞在して10月1日 ウラジオストック到着。静養一週間後 ウラジオストック発長崎行きの義勇艦隊汽船アムール号でお花を送った。

    明治30年、ウラジオストックに連れられて来てから4年の間、辛い商売を続けて転々と流浪し、黒龍江省の大頭目宋紀に買われて血腥い生活をしたが、義和団事件のため身一つとなって私の許に転げ込んできた運命の女性である。

    今はさらりと過去を清算して、懐中に4500円の大金を携えて、両親へ懺悔の帰国をするのである。私は甲板まで見送りに行った。14年後の大正4年の秋、ある人からの知らせによると、しっかした農家に家庭を作り堅気に暮らしているとのことであった。

    お花を郷里に帰したにつけて残念に思うことは、私を拉林城の獄舎から救い出してくれた“お米”を老爺嶺の密林中で見失ってしまったことである。自決したのか、逃亡したのか、あるいは捕らえられたのか、その後もついに会うことはなかった。

    /////////////////////////以上抜粋終わり


    ■愛琿にて

    愛琿鎮の中をしばし散歩し、“お花”との出会い当時の想いに馳せる。アムール河岸には陳列館から徒歩5分くらいで辿り着く。

    この「愛琿」という名前の愛琿陣地・愛琿河・愛琿橋、等々の名前が「黒河事件」にも登場するし、その他あちこちに出てきたが、どうにもその場所が分からず、黒河に来ても、この愛琿に来ても分からなかった。日本でネット検索しても陣地の全体の地図や位置などは見当たらない。

    それが孫呉の勝山陣地にある陳列館の地図によってやっと分かった。愛琿古城と愛琿陣地は同じ場所ではない。愛琿陣地は昔、愛琿站があった場所で今の西崗子站附近だそうである。黒河→錦河→西崗子→孫呉と、黒河から二つ目孫呉からは次の駅になる。

    中国のHPでは第6国境陣地西崗子陣地(愛琿陣地)と記されているものもある。

    愛琿河は中国のネットで検索しても見当たらない。タクシーの運転手もその他数名に聞いたが「聞いたことない・知らない」との返事ばかりだった。西崗子河では検索しても出て来なかったが、西崗子橋は有った。

    場所も二站〜黒河方向「西崗子橋」と書いており、2006年に大雨で橋が壊れて修理したようなことが書かれていた。

    帰国後にネットで調べながら徐々に疑問が解けてきた。

  • 14:19:54 <br /><br />アムール河がすぐ傍にあり <br /><br />国境監視なのだろう。監視塔がある <br /><br />愛琿の中心部は、分からないままだったが <br /><br />もうちょっと街らしき場所があると思う <br /><br />

    14:19:54

    アムール河がすぐ傍にあり

    国境監視なのだろう。監視塔がある

    愛琿の中心部は、分からないままだったが

    もうちょっと街らしき場所があると思う

  • 14:37:18 <br /><br />アムール河の右方向を写す <br /><br />対岸はロシア:クラスノエ <br /><br />凍結すればすぐそこがロシア <br /><br />

    14:37:18

    アムール河の右方向を写す

    対岸はロシア:クラスノエ

    凍結すればすぐそこがロシア

  • 14:37:22 <br /><br />黒龍江の左方向を写す <br /><br />愛琿に来た <br /><br />http://www.youtube.com/watch?v=_DGNCJoHV2A<br /><br />http://www.youtube.com/watch?v=0RUiGt5dxXY<br /><br /><br />

    14:37:22

    黒龍江の左方向を写す

    愛琿に来た

    http://www.youtube.com/watch?v=_DGNCJoHV2A

    http://www.youtube.com/watch?v=0RUiGt5dxXY


  • 16:00:30 <br /><br />ロシア商品街 <br /><br />黒河はロシアとの交易で活気がある <br /><br />ブラゴヴェシチェンスクはどんな街なのか <br /><br />黒河を見て余計に対岸のロシアの街に行って見たくなった <br /><br />いつの日か、ブラゴヴェシチェンスクから黒河を見るぞ <br /><br />/////////////////////////////////////////////<br /><br /><br />■黒河に戻る <br /><br />午後の3時半ごろホテルに戻った。夜汽車を降りて朝の7時過ぎから“項○○”に世話になり包車8時間¥300元は高くない。 <br /><br />部屋に戻って小休止。すぐに又黒河市内散策に出る。真先に向うのは無論、黒龍江・アムール河だ。ホテルから歩いて10分くらいで河岸に出る。 <br /><br />目の前にアムール河、そして対岸にブラゴヴェシチェンスク。ここからの景色を見るのはその時が初めてだった。黒河に着いたその後、黒河要塞・法別拉・愛琿へ行き、動き回っていたから・・・。最初の一枚は4時3分、もうすっかり夕方の風景になっていた。 <br /><br />そこで1時間くらい河川敷を散歩しながら対岸のブラゴヴェシチェンスクと黒河の風景に見入っていろんな想いを巡らせていた。明治33年、この目の前でイカダのようにブラゴヴェシチェンスク在留清国人の女子供を含め虐殺された死体や生きたままの清国人が流されていた。 <br /><br />そして昭和21年6月21日八路軍によっての報復で200〜800人、それ以上かもと言われる日本人が惨殺された。このアムール河に生きたまま針金で手足縛られ放り込まれ殺された。数珠繋ぎで放り込まれたと書いている文章もある。黒河事件である。 <br /><br />その後、黒河のやはり電飾輝く歩行者天国を歩き小吃店に入り夕食を食べる。おもむろにポケットから持参のメニューを取り出し「これある?」と聞きながら“家常豆腐”とスープと小ご飯を頼み食う。メニュー持参で正解だった。 <br /><br />夕食後、外はすっかり暗くなっていた。黒河伊甸園賓館に戻り早々に寝る。明日は黒河を歩き回る予定。結局、日本人墓地も慰霊碑も収容所も無かった。有るのかも知れないが・・・。 <br /><br /><br /><br /><br />

    16:00:30

    ロシア商品街

    黒河はロシアとの交易で活気がある

    ブラゴヴェシチェンスクはどんな街なのか

    黒河を見て余計に対岸のロシアの街に行って見たくなった

    いつの日か、ブラゴヴェシチェンスクから黒河を見るぞ

    /////////////////////////////////////////////


    ■黒河に戻る

    午後の3時半ごろホテルに戻った。夜汽車を降りて朝の7時過ぎから“項○○”に世話になり包車8時間¥300元は高くない。

    部屋に戻って小休止。すぐに又黒河市内散策に出る。真先に向うのは無論、黒龍江・アムール河だ。ホテルから歩いて10分くらいで河岸に出る。

    目の前にアムール河、そして対岸にブラゴヴェシチェンスク。ここからの景色を見るのはその時が初めてだった。黒河に着いたその後、黒河要塞・法別拉・愛琿へ行き、動き回っていたから・・・。最初の一枚は4時3分、もうすっかり夕方の風景になっていた。

    そこで1時間くらい河川敷を散歩しながら対岸のブラゴヴェシチェンスクと黒河の風景に見入っていろんな想いを巡らせていた。明治33年、この目の前でイカダのようにブラゴヴェシチェンスク在留清国人の女子供を含め虐殺された死体や生きたままの清国人が流されていた。

    そして昭和21年6月21日八路軍によっての報復で200〜800人、それ以上かもと言われる日本人が惨殺された。このアムール河に生きたまま針金で手足縛られ放り込まれ殺された。数珠繋ぎで放り込まれたと書いている文章もある。黒河事件である。

    その後、黒河のやはり電飾輝く歩行者天国を歩き小吃店に入り夕食を食べる。おもむろにポケットから持参のメニューを取り出し「これある?」と聞きながら“家常豆腐”とスープと小ご飯を頼み食う。メニュー持参で正解だった。

    夕食後、外はすっかり暗くなっていた。黒河伊甸園賓館に戻り早々に寝る。明日は黒河を歩き回る予定。結局、日本人墓地も慰霊碑も収容所も無かった。有るのかも知れないが・・・。




  • 16:03:10 <br /><br />黒河にて、最初に写したアムール河の写真 <br /><br />目の前の建物が「黒河国際飯店」 <br /><br />そこに泊まれば良かったなあ・・・と <br /><br />悔やむことしきり <br /><br />あそこなら部屋の窓から外を眺めるだけで <br /><br />何時間でも感傷に耽ることが出来たのに <br /><br />

    16:03:10

    黒河にて、最初に写したアムール河の写真

    目の前の建物が「黒河国際飯店」

    そこに泊まれば良かったなあ・・・と

    悔やむことしきり

    あそこなら部屋の窓から外を眺めるだけで

    何時間でも感傷に耽ることが出来たのに

  • 16:03:20 <br /><br />ブラゴヴェシチェンスクを正面に見る <br /><br />黒河に来た。石光真清が今から110年前 <br /><br />1899年10月中旬、対岸の街に辿り着いた <br /><br />10月中旬と言えば今頃だ <br />

    16:03:20

    ブラゴヴェシチェンスクを正面に見る

    黒河に来た。石光真清が今から110年前

    1899年10月中旬、対岸の街に辿り着いた

    10月中旬と言えば今頃だ

  • 16:03:26 <br /><br />黒龍江の右方向を写す <br /><br />http://www.youtube.com/watch?v=GoWDFHlTH_k

    16:03:26

    黒龍江の右方向を写す

    http://www.youtube.com/watch?v=GoWDFHlTH_k

  • 17:42:48 <br /><br />午後5時42分:夜だ <br /><br />ここも電飾輝く街だった <br /><br />外は一見静かだが <br /><br />一歩、室内、百貨店に入れば賑わいがある <br /><br />室内は、寒さは全く関係ない <br /><br />

    17:42:48

    午後5時42分:夜だ

    ここも電飾輝く街だった

    外は一見静かだが

    一歩、室内、百貨店に入れば賑わいがある

    室内は、寒さは全く関係ない

  • 17:55:16 <br /><br />二酸化炭素の排出基準?? <br /><br />そんなもん関係ないのがこの国の文化 <br /><br />難儀な国が金を持つとホンマ世界の迷惑です <br /><br />http://www.youtube.com/watch?v=-RzpQkHYUx4

    17:55:16

    二酸化炭素の排出基準??

    そんなもん関係ないのがこの国の文化

    難儀な国が金を持つとホンマ世界の迷惑です

    http://www.youtube.com/watch?v=-RzpQkHYUx4

  • 18:17:16 <br /><br />“家常豆腐”とスープと小ご飯 <br /><br />ポケットから持参のメニューを取り出し <br /><br />注文した。まあまあ美味かった。 <br /><br />これからはメニューは必携です <br /><br /><br /><br /><br />

    18:17:16

    “家常豆腐”とスープと小ご飯

    ポケットから持参のメニューを取り出し

    注文した。まあまあ美味かった。

    これからはメニューは必携です




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この旅行記へのコメント (2)

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  • こまちゃんさん 2009/11/11 14:38:33
    手頃で便利な「家常豆腐」
    こまも、放浪中の食事は、結構「家常豆腐」で過ごします。
    豆腐にピーマン、肉少々。これ一つで、ある程度の食材が纏まって入っていますしね。

    画面から、現地のあの冷たい空間での息遣いが伝わってくるような気がします。

     こま

    明石DS

    明石DSさん からの返信 2009/11/11 17:36:54
    RE: 手頃で便利な「家常豆腐」
    こまちゃん

    今回初めて私の老師にメニューを書いてもらって日本から持参しました
    まだまだメニューと完成品が結びつきませんが

    これからは当分必携です。
    中国旅行ど素人のレベルからなかなか抜けられません
    食い物にもう少し関心を持たなければと思います

    これからも宜しくお願いします

    明石DS

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