2009/10/20 - 2009/10/27
156位(同エリア199件中)
明石DSさん
2009年10月21日、6:24:40
もうすぐ黒河到着 夜行列車の車窓の景色
はじめに
これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。
思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。
公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。
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2009年10月21日、8:13:30
黒河駅
目 次
(0) 旅たち前:黒河・孫呉の戦跡を訪ねて
(1) 10月20日(火)関空〜哈爾濱へ到着
(2) 10月21日(水)黒河・法別拉・愛琿
(3) 10月22日(木)黒河市内散策
(4) 10月23日(金)黒河〜孫呉へ、周辺散策
(5) 10月24日(土)孫呉、勝山要塞へ
(6) 10月25日(日)孫呉〜哈爾濱へ・汽車の旅
(7) 10月26日(月)阿城へ・午後哈爾濱、散策
(8) 10月27日(火)哈爾濱〜瀋陽〜関空 -
2009年10月21日、8:43:38
黒河陣地 縦横に残る交通壕?戦車壕?
満洲への旅で思うこと
満洲への旅を重ねるごとに資料を探し読み、少しづつであるが知識が増え、それにより満洲についてより深く考えるようになった。そして自分なりの見解や意見も、以前に比べはっきりとして来た。以下は、そんな今現在の私が思う満洲と日本についてである。
在留邦人の満洲引揚げに関し様々な体験談が、書物或いはインターネットで見ることが出来る。敗戦による在留邦人の地獄絵図とも言える避難行は、戦争の実態、敗戦後に起きる事実を後世の人に伝えるために大切なことだ。
しかし、私が目にする引揚げ者の体験談のほとんどは、自分が体験した悲惨な一局面を持って、先の戦争全てを否定し、愚かな侵略戦争だったかのような論調が付け加えられている。
満洲からの引揚者は幼児から大人まで年齢は様々だが、今、本やWeb頁で溢れている引揚げ者の関東軍・時の日本政府への非難は読むに堪えない。
戦後歳月の経過と最近になってのインターネットの普及によって当然なのだろうが、ネット上では当時幼児だった方々や、小中学校くらいの年齢の方が、満洲時代を同窓会で思い出話しを語りあうかのように語っている。
そんな彼等は生きて日本の土を踏み、戦後の日本で安定した生活を送っている人たちだ。そして、そんな彼等が里帰りをするかのような懐かしさを抱いて今の中国東北部に旅する。
その気持ちと行動には何の異存も無い。しかしそこで現地の中国人に、日本国或いは日本人を代表するかのように満州建国を謝罪し許しを乞う。そんな日本人を私は同じ同胞として許す事が出来ない。
当時の世界は白人列強国が揃って覇権を争い、アジアだけではなく世界の有色人種国家の大部分は植民地化されていた。そんな時代背景の真っ只中で、日本は明治維新を成し遂げ、その後も独立を保つ為に日清日露を戦い、有色人種国家で唯一列強に伍し対等なる国家足らんとしていた。
「侵略、侵略」と、二言目には、戦後の日本人は過去の日本を悪の国家であったかのように言うが、国際的にその定義が定まったのは1974年:昭和49年、戦後29年目の国連総会でのことである。それさえも多種の意見があり統一されていない。
そして戦争という言葉の前に「自衛」「侵略」と付ければ?侵略戦争というだけで、戦後思考停止に陥った多くの日本人は「悪」と規定するのだろう・・・。
ならば言葉を変えて、家族の命を狙う悪漢から家族を守る為に、どう守るのか?悪漢を自分の家に侵入させて守るのか?誰しもそんなことは考えないはずだ。
その時点で家族の誰かが命を落とし傷付く可能性がある。そんな戦術は戦術とは言えない。愚か極まりなく家族を守る以前の問題だ。
侵略と言う言葉を使うのは、進攻された側の人間が、相手国に使う言葉だ。中国人が日本に対して使うのは仕方ないが、祖国を守る為に遠い異国に戦いの場を求め散って行った先人たちは断じて侵略者ではない。決して安易に同胞が使うべき言葉ではない。
満洲建国前の当時の彼の地は、張作霖が一応支配していた。
張作霖は関東軍の画策によって爆殺(1928年:昭和3年)されたとされている(真相は不明、コミンテルン説もある)が、その首謀者とされた関東軍、河本大佐は、その後、どんな人生を送ったのか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E4%BD%9C
河本大佐の事件後の様子を調べるだけでも、当時の満州の現実を知ることが出来る。張作霖の満州統治は、善政とはほど遠く、その能力もなく満州は混乱の中にあった。そんな満州であったからこそ日本は満州国建国へと進んで行った。
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当時の白人列強国家の意識↓
「国際派日本人養成講座」より要約抜粋
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog053.html
『第一次大戦後の1919年:大正8年、パリの講和会議の席上、日本代表団は当時の白人国家のあからさまな人種差別に反発し是正を促す為に「人種平等条項提案」を出した。
しかし人種平等への反発の激しさに直面した日本は、場所を移した国際連盟で「人種」という言葉を省き、「国家平等の原則と国民の公正な処遇」という修正案を作成し、採択に持ち込んだ。
そして採択の結果は、16票中11票が日本案に対して賛成票を投じたにも係わらず、議長であるウィルソン米国大統領が、前例を無視して全会一致を盾にし、採択しないと宣言した。』
以上:抜粋終わり
当時世界人口の中で6割を越す有色人種の代表として、日本が白人国家からどのように思われ、その後の経過を辿ることになったのか、歴史の必然を感じる。今も人間の深層心理は同じだろうが、現実の世界は表面上だけは随分変わった。
その牽引役を先人達は国家の命運を掛け自分の命を賭けて、白人たちの人種差別・横暴と戦って来たのだ。それが先の戦争であり、その結果が今なのだ。
「先進文明国が非文明国を植民地化し、それによって非文明国の生活の向上を計る」という、今では「侵略」と言われることが世界の強国の間では常識として通用し実践していた時代だ。
そんな時代、台頭して来た有色人種国家の日本が、彼らの目障りになったのは当然だろう。そんな中、先人達はあくまでも日本の独立を保ち白人列強国と対等の立場を得んが為に、がむしゃらに頑張った。その為にも富国強兵は必然であり、台湾統治、朝鮮併合を経て満洲建国へと繋がっていく。
それらは今で言う「侵略」ではない。資源無き日本が列強に伍して独立を守る。すなわち自存自衛の為に必要であった。そして日本の統治政策は、白人列強とは異なる。差別意識は、当然のようにあっただろうが、その統治内容は白人覇権国家と比較にならないほど良心的だ。
今も昔を知る台湾人は親日であり、日本が統治していたパラオも親日派が多い。そして、一番日本統治時代を懐かしく良き時代だったと思っているのは、今の北朝鮮の高齢者ではなかろうか・・・。
そんな時代に命を賭けて日本を守り通そうとし、その為に最善を尽くした先人たち。想像力を精一杯駆使して、“今とは違うかもしれない” と思いながら、当時の現実を考えて欲しい。 -
2009年10月21日、8:46:38
黒河地下要塞の入口
満洲建国は侵略ではない。
確かに今の満州は漢族が大多数を占めている。しかし私は中共政府に満洲崩壊後の統治の正当性があるとは思えない。歴史に“もしも”はないのだろうが満洲と言う国が今も存在していれば、当然又違った世界がある。それは今よりも、良き東アジアであり世界であるだろう。
今の満洲が中国だと思うのは漢族が多数を占めた、その一点だけだ。それこそが毛沢東が建国した中共政府の戦略であり、内蒙古は無論、新疆ウィグル・チベットも同じように漢族を大量移住させ、それらの地域で多数を占めんがため現在進行形で侵略、人口侵略が進行している。
13億、いや14億とも言われる現在、漢族は世界多地域に、日本へも同様の遣り方で侵蝕しようとしている。そんな漢族・中国人に、安易に謝罪することの愚かさを考えたことはあるのか?
自分の責任で成したことではなく、先人達の成したことを自分の主観で謝罪する。それは先人の行為を“悪”と規定し、過去現在未来の日本人全体を辱めることだ。
満州引揚者が過去を非難し謝罪することが、悲劇を体験した自分の成すべき事であり、それが良識ある日本人の証でもあるかのような言動は、天に唾することであり、生ある内に改めるべき所は改めてもらいたい。
ソ連軍と死闘を演じ辺境の地で亡くなった関東軍兵士のことも少しは思って欲しい。自分は地獄の悲惨を体験したと言えど、生きて故国の土を踏み、戦後の日本の豊かさを謳歌しているのだ。
そして引揚者が良く口にする「国に捨てられた」「関東軍に置き去りにされた」「棄民」とかの言葉を使い非難するのであれば、今の拉致被害者を戦ってでも取り戻せ!と、声を大にして引揚者たちは何故叫ばない?
四半世紀もの長い間、その実数も掴めず放置された拉致被害者こそ「棄民」であるはずだ?
あなた達は、「国に捨てられた!」と叫びながら、やむにやまれぬ当時の状況と違い、今の日本は国家国民一丸となって奪還の気概さえ持てば、どんな事でも可能だ。そんな今なのに、目を瞑っているのも同じだ。
そのことをあなた達はどう考える。私から見ればそんな人たちは偽善者でしかない。 -
2009年10月21日、8:47:34
黒河要塞内部
戦後に生き延びた元兵士に思う
満洲引揚げ者だけでなく戦前戦中を経験し、且つ戦争を生き延びた人たちの戦後の生き様には大いに疑問を感じ、憤りを持っている。特に元兵士が語る軍への非難・時の政府への非難は怒りを感じる。まるで自分を被害者の立場に置き反戦反軍を得々と語る。
確かに実体験に基づいて語ってはいるのだろうが、そこには当時、共に大儀を掲げ、国家の存亡を掛け国民一丸となって戦いに突入し、戦場で散った上官・戦友・同胞を庇う気持ちは更々なく、戦後の風潮にこび、被害者面で戦争・軍への非難を声高に語っている卑怯者だ。
本当に立派だった日本人は戦場で戦死し、或いは自決し、或いは戦後に生き延びても、戦場で散って行った戦友たちに報いることが出来なかった敗戦という結果の無念さを噛み締め、亡き戦友の冥福を祈っている。
そして戦争の大儀に今も誇りを持ち、故国を遠く離れて亡くなった戦友の名誉と誇りを聊(いささ)かでも傷つけてはならずと、戦後一転しての反戦自虐史観とは一線を画し、生きて来られたと私はそう確信している。 -
2009年10月21日、8:48:02
黒河要塞内部
昭和20年8月9日以後の満洲に思う
戦後生まれの私が敗戦後64年を経た今、全ての起承転結を知った上でも当時の満洲に関しての日本軍・関東軍の判断とその戦略に基づいての行動は、知れば知るほど、あの時点でのベターな判断だったと思う。
それは「対ソ静謐確保」が全てであり、又、あの時点でそれしか無かった。関東軍は南方に戦力を引き抜かれ、兵なく武器なく、しかしながら満洲は昭和20年8月9日まで、見た目の平和があった。
そして、その時点では関東軍幹部の誰もが心中いかに思っていても、公には「最後に日本本土で決戦を行い、硫黄島・沖縄で示したように敵に大打撃をもたらし、それによって少しでも有利な条件で終戦に導き、あらん限りの力を振り絞って国体を護持する」というのが大方の思いであったと思う。
ならばソ連進攻時に関東軍が、大連・新京・図們に最終防禦戦を構え、通化に司令部を置くというのは誰が考えても妥当な戦略だったとしか思えない。
その為の事前準備は出来なかった。関東軍は張子の虎であり「対ソ静謐確保」が最重要な戦略だったからだ。他に何が出来ただろう。それくらい儚い夢に頼るしかない状況に日本軍が追い込まれていた。それを無責任と言わば言え、起承転結を知った私でも他に妙案は浮ばない。
そして避難列車を民・官・軍の優先順位の元に仕立てたが、平和そのものだった満洲で、全てを投げ捨て今すぐ避難の決断行動が出来た民はなく、それが出来るのは軍だけだった。
無論情報の有無もあっただろう。そして、その現場で実際に起きることは、軍は事前に十分予想していたはずだ。建前だけの民・官・軍になり、実際は軍・官・民になることくらいは・・・。
だから、その局面に置いて、まさに軍は、すぐに集まらない邦人を無視し、先に軍関係者が列車に乗った。その現場の醜さは十分に私でも想像できる。その場に私が邦人としての立場でいたなら、憎むべき関東軍であり、日頃威張っていた軍人たちの醜態に裏切られたと恨む。
しかし転進した関東軍兵士もその家族も、その時点、すなわち自分たちが“民”より先にその列車に乗ったことで生き延びたとは思ってはいなかっただろう。まして数日後に敗戦になることは予想出来なかったに違いない。
そして、もし「張子の虎」でしかなかった関東軍が、その戦力で邦人を守る為に各所で踏み止まりソ連軍と戦っていたら、多くの都市が更に悲惨な戦場になり、邦人、満人を含めて計り知れない犠牲者が出たであろうことは容易に推察できる。
その時、国境周辺の関東軍は死に物狂いで数倍のソ連軍と、どことも死闘を戦っていた。それは関東軍の当初からの戦略に基づき、本隊の通化への移動が速やかに出来るように、そして少しでもソ連の進攻を食い止め、在留邦人たちの避難行の手助けになる為に、国境周辺の関東軍兵士たちが戦い亡くなっている。
満洲の地、その他、世界の各地で今も尚日本に帰ることなく眠る英霊の方々のご冥福を心をから祈ります。
心からの感謝とお詫びの気持ちを持って・・・。
皇紀2669年/平成21年11月2日(月).Age59(記) -
2009年10月21日、8:48:20
黒河要塞内部
2009.平成21年9月1日(火)
■黒河に行く
昨年春ハルビンから満洲里、ノモンハン、海拉爾(ハイラル)と巡り、今年の春にもハルピンから東寧・虎頭要塞に行った。そして又この秋にハルピンから黒河に行くと決めた。
一年二回の海外旅行が目標で、平成21年の今年も何とか今のところその目標を叶えようとしている。体調万全とは言い難いが、それなりに健康だからこそ行ける。
黒河を流れる黒龍江(アムール川)の対岸はロシアのブラゴヴェヒチェンスク。
明治32年10月から石光真清がロシア語研修を兼ねて諜報活動を始めた拠点でもある。日露戦争勃発の5年前のことだ。
留学の翌年、明治33年7月16日。石光真清がロシア騎兵隊ポポーフ大尉の家に寄宿している時に、ロシア軍及びロシア人によるブラゴヴェヒチェンスク居留清国人に対しての虐殺事件が起こった。
清国軍が対岸からブラゴヴェヒチェンスクに砲撃したことに対しての復讐劇である。一ヶ所に集め女子供みさかいなく殺戮しアムール川に投げ込んだ。その数3千人。その後も、この機に乗じて満洲進攻を進めロシア軍によって容赦のない清国人虐殺は続いた。
ブラゴヴェヒチェンスク居留清国人虐殺の際、石光真清が寄宿していた大尉の奥さんは家で働いていた清国少年を庇うことなく、石光の目の前で主人の部下に手渡したそうだ。
その時のことを石光は以下のように記している。
『泣き叫ぶボーイを気にもとめぬ風で冷然としている夫人に対して私は心よからぬものを感じて自分の部屋に入り腕を組んだまま動けなかった。』
36頁:そして・・・
その時ブラゴヴェヒチェンスクの日本人居留民たちは・・・。
『日本人は決して清国人に悪意は持たなかった。清国人の狩出しが始まるや否や、日本人は申し合わせたように自分の清国人の使用人を、天井裏や床下や穴倉の奥に隠匿して、保護に努めた。そのため日本人の使用清国人は、ただの一人として生命を奪われた者がなかったのである』
そう石光は記している。申し合わせもない突発的なことであったが、まるで申し合わせたかのように全員が庇った。これぞ日本人の真骨頂とも言うべきことだ。
ホント日本人は昔も今も相手が誰であっても同じ人間として接する。私も好き嫌いは大いにあるが、どんな種族でも民族でも同じ人間としてしか見れない。自分でも正直他の人間を奴隷や家畜のように扱うことは出来ない、幾ら大嫌いでも。する気は起きない。
日本軍人もそうだったと信じている。二男が東チモールにPKOで行った時、自衛隊に対して現地人は、「ポルトガルの軍人は私たちと一緒に食事などしない。しかし日本の自衛隊員は我々と一緒に食事もする」
↑こんなこと日本人なら何の違和感もない。自衛隊員がそれを特別な気持ちでしている訳でもない。だからこそ現地の人たちにとっては素直な驚きであり、好感を持ってくれるのだろう。イラクでもそうだったはずだ。
当時ロシアのブラゴヴェヒチェンスクにも在留邦人はいた。女郎屋の主人や洗濯屋・ペンキ職人など10数名の男と、20名ほどの日本人女郎。
日本から大陸各地、いや世界各地と言ってもいいくらい辺鄙なところにも日本人女郎は居た。そして日本の女郎の、評判はいい。例えば石光真清と明治33年ウラジロストックからポグラニーチナヤ(綏芬河)へ行く途中、馬車で同乗したロシア青年二人の日本人女郎の批評。
第一にあきらめが良く淡白だ
第二に金銭をむさぼらぬ
第三に盗心がない
第四に親切だ
此処にも立派な“大和なでし子”は堂々と存在していた。
黒河の河を隔てて対岸がブラゴヴェヒチェンスクだが、何故か?外国人はロシア査証を持っていても出入国できないと旅行記に書いてあるので今回は諦めた。行けばその辺の事情も分かるかも知れない。
その他、この辺の地でも大東亜戦争で関東軍かく戦った戦跡がある。そこも訪ねたい。愛琿・孫呉・勝武屯・北安、そして前回いけなかった阿城にも行こう。
ここにも石光真清「四部作」に即しての紹介があった。↓
http://www1.ocn.ne.jp/~knippon/ijin/ijin5.html -
2009年10月21日、8:49:00
黒河要塞内部
2009.平成21年9月28日(月)
■未だはかどらず
黒河行きも一ヶ月を切ったが、石光真清の時代は、四部作を読み、ある程度予備知識は持てたが、大東亜戦争末期のこの地域の様子は未だ把握出来ず気持ちは焦っている。
今日、『刻みつけられた足跡?黒河事件・八路軍の報復』:溜口 麻一(著)をアマゾンで中古書を購入した。 ¥ 1,500
Web頁:岡崎溪子女史の「満州国の終焉」:Web頁「独立混成第百三五旅団(不朽)戦記」などを参考にしている。その時、彼の地で突如進攻して来たソ連軍との間で、どんな戦いがあり、関東軍兵士の方々がどのようにして散華されたのか、知りたい知らねばならないと思う。
■「独立混成第百三五旅団(不朽)戦記」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~surplus/tokushu41.htm
「満洲国の終焉」 岡崎溪子(文責)
http://archive.mag2.com/0000139973/20061020110157000.html
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2009年10月21日、8:49:30
黒河要塞内部
2009.平成21年10月7日(水)
■未だ何も決まらず
出発まで2週間を切ったが“権○○”からまだ何も連絡も来ず。石光真清の方は大体整理が終わった
■石光真清と当時の世界
真清の妹の真津の孫が、橋本龍太郎・大二郎なのか・・・。ということを知り、何やあの二人の親戚かと面白くもなく。
以下は「誰のために」を読み↓自分なりに少しまとめる。
黒河と真清の係わりは、1899年:明治32年31歳にして黒河の対岸のロシアの街:ブラゴヴェシチェンスクに語学留学し、翌年、愛琿に渡って“お花”と出会う。
そして、次に黒河に行くのは18年後の1918年:大正7年1月15日にブラゴヴェシチェンスクに諜報活動の任を受けて行き、その後、ブラゴヴェシチェンスクと黒河で活動しながら1919年:大正8年2月11日黒河を去る。
ということは(1899〜1900)(1918〜1919)と1+1=計約2年間だった。最初はブラゴヴェシチェンスクでロシア軍による在留清国人の虐殺を目の当たりにし、ロシアの満洲進出、それに対抗しての日露戦争へと続く。
次は、第一次世界大戦最中に起こったロシア革命後のシベリア赤化の渦中で奔走し・・・。ブラゴヴェシチェンスクの革命派vs反革命派の抗争に巻き込まれ苦労する。そして日本のシベリア出兵を見届け、真清は帰国する。
因みにシベリア出兵(1918年8月−1922年10月)は日本の戦略性のなさと目的意識の欠如に散々な結果を持って撤兵に至る。シベリア出兵の中味は良く分からないが、「誰のために」第四部では、何ら評価されていない。
//////////////////////当時のシベリアの状況↓
でも、ぼんやりとこの時代の満洲・ロシア、そして革命以降のシベリアと白系ロシア人の亡命のことが分かった。そして当時のヨーロッパも複雑怪奇なり・・・と。
第一次世界大戦:(1914年:大正3年7月28日-1918年:大正7年11月11日)
連合国: イギリス・ フランス・ ロシア帝国・ イタリア王国・ アメリカ合衆国・ セルビア・ 日本など
vs
中央同盟国: ドイツ帝国・ オーストリア・ハンガリー・ オスマン帝国・ ブルガリア
その最中(1917年大正6年3月)にロシアでレーニンのボルシェビキの革命が起こり、西部戦線で連合国が痛手を被った。その後、1918年大正7年5月14日、連合国側だった革命後のロシアは敵国のドイツとの友好関係を宣言する。
そしてシベリアでもロシアの敵国だった、ドイツ・オーストリアの捕虜たちが赤軍に参加して主力にもなる。ところによっては、赤軍の半数以上がドイツ・オーストリアの俘虜軍であり、ドイツ軍将校による国際軍が編成され赤軍に協力していた。
またボヘミア王国が壊滅して、チェコ民族とスロバク民族がオーストリアとハンガリーに分割統治されてから、1918年当時には三百年経っていた。オーストリアの迫害を逃れたチェコ民族は、すでに永い間ロシアに移住し、祖国の再建を夢見ていた。
そして、この動乱(第一次世界大戦 and ロシア革命)を機にロシアに亡命していたチェコ民族はチェコの独立を達成する時が来たのである。
1916年・大正5年
ロシア領内でチェコの独立軍が出来る。そして、その年の10月には師団に拡大されていた。またオーストリアで編成されて対露戦線に駆り出されたチェコ軍は、戦わずにロシア領に入りチェコ師団に合流し、ドイツ・オーストリアに銃を構える者4万、その勢力は無視出来ないまでに成長した。
ところが、このロシアに革命が起こり、ロシアに移住していたチェコ民族の祖国再建は中断されてしまった。そのため、チェコ独立の父・マサリック博士(初代大統領になる)の指導によって、レーニン政府の承認を得てシベリアを横断し、ウラジオストックから船で太平洋を渡り、アメリカを通過、さらに大西洋を渡ってフランスに上陸し、西部戦線で独墺軍と戦い祖国再建に身を尽くす決意を固めた。
こうして世界史上稀に見る大進軍が開始された。ジンギスカンの大遠征もこれに優るものではなかった。
この大進軍の途上、チェリアンビスク駅構内で、赤軍に協力している独墺俘虜軍と衝突した。赤軍に協力している独墺俘虜軍にとって、チェコ軍は祖国と戦う為に進軍する敵であった。
この衝突を機に、ボルシェビキもチェコ軍を反革命分子として討伐を始めたので、以来チェコ軍の東征は血と汗と涙にまみれた悲壮なものになった。
赤軍・独墺俘虜軍vsチェコスロバキア軍・セミヨウノフ軍などが混沌として広大なシベリアに割拠し動き始めた頃、英仏両国の日本に対するシベリア出兵の要請はいよいよ強くなった。その頃、ブラゴヴェヒチェンスク・ムーヒンのアムール政権は、経済的破綻に近づいていた。
こんな混乱の中の革命派vs反革命派のとの対決は一進一退。
1918年:大正7年3月12日
革命派がブラゴヴェシチェンスクの権力を握る。以後市内には赤旗が乱立する。
1918年:大正7年9月17日
革命派(ムーヒン)は半年間で破綻し、政庁から去る。
1918年:大正7年9月20日
前市長アレキセーフスキーがアムール州の州長になり、反革命派が再度奪還する。
1918年:大正7年12月には、アムール州の反革命派政権もあっけなく崩壊が近づきアレキセーフスキーも亡命を覚悟する。
翌年1919年:大正8年2月11日
石光真清とアレキセーフスキーは一緒に黒河を去りウラジオストックへ、ウラジオストックの埠頭からフランスに亡命するアレキセーフスキーを真清は見送った。真清はブラゴヴェシチェンスクの革命派の首領ムーヒンとも、反革命派代表のアレキセーフスキーとも友人であった。
1918年:大正7年
3月〜革命派〜9月〜反革命派〜12月〜革命派
///////////////////////////
成る程、第一次世界大戦とロシア革命、そしてヨーロッパの状況、その中で日本は、満州は・・・。と言うのがどうなっていたのか、少し分かった。
シベリアが共産化されずに、共産主義ソ連とは一線を画した独立国として存在し得た可能性は大いにあったような気がする。 -
2009年10月21日、8:50:08
黒河要塞内部
2009.平成21年10月14日(水)
■手配完了のメールが来る
昨日13日、待っていたメールが来た。一時はメールが来なくても催促はせず、今回は行き当たりばったりの旅をしようと覚悟したが、その覚悟の翌日に“権○○”からのメールが届き拍子抜けだが、ホッともした。
宿泊も当日夜の黒河行きの汽車の切符も定かでなければ、どうしてもそのことに時間も気も割かなければならなくなってしまう。その分、旅の目的に集中できない。 -
2009年10月21日、8:51:10
黒河要塞内部
2009.平成21年10月18日(日)
■出発二日前
20日出発、当日午後4時半頃哈爾濱に着き、その夜の午後9時10分発の:K7033、軟臥下で黒河に行く。
今我が家で黒河の21日(水)の天気予報を見れば最低気温マイナス6度・最高6度となっている。明石の厳寒時にもない気温だがそんなに心配はしていない。建物の中は暖かいから。
下調べもそれなりにしたが、1899年:明治32年の石光真清が対岸のブラゴヴェシチェンスク留学から1946年:昭和21年、黒河事件まで、日本に関するドラマと戦いの歴史が多すぎて、整理は未だならず。
今年の5月に哈爾濱から東寧・虎頭と周っているので、準備も何となく出来ている。今回は8日間、宿泊も黒河・孫呉・哈爾濱と三都市に二泊づつなので不安もあまりない。
明後日の今頃、哈爾濱站で改札を待っているのか。私にとっては、いつもの緊張の旅がもうすぐ始まる。 -
2009年10月21日、8:51:26
黒河要塞内部
2009.平成21年10月19日(月)
■明日の今頃
哈爾濱から黒河
現在時午後9時32分、明日の今頃はハルピン駅の待合室で、もうすぐ改札の行われるのを待っているはずだ。
明日の午後6時、日本時間午後7時、ハルピン駅前の客運站(バスターミナル)の二階エスカレーターの上がった所で、李という35歳の男から汽車の切符を受け取り、ホテル代も含めて支払いをする。
メガネをかけてるらしい。携帯番号も聞いている。もし彼が来なかったら・・・そんな心配はしていない。でもその“もしも”が起こっても、それも今回の旅のドラマになる。
黒河・孫呉・哈爾濱・阿城か、デジカメ動画にナレーションを入れて映画にする。数十秒から数分の超短編映画だ。フフフ。やたら口ごもってしまうだろうがUチューブなるもので公開できるし。
21日の黒河の気温は、最低マイナス6度、最高5度か。まあそれも現地で体感しないと分からない。アムール河(黒龍江)を挟んでロシアのブラゴヴェシチェンスクの街がすぐそこに見えるはずだ。
明治中期から敗戦後まで、今とは百八十度違う日本の輝かしい時代。逞しい日本人のいろんなドラマがあった所へ行く。 -
2009年10月21日、8:51:52
黒河要塞内部
出発までの“権○○”とのメールの遣り取り
私からの依頼
2009年9月1日 18:14
こんにちは、○○です。
今年の5月に哈爾濱→牡丹江、東寧、虎頭の旅でお世話になりました。
////////////////////////////////////////////////
10月20日(火)〜27日(火)まで哈爾濱、黒河、孫呉、北安、哈爾濱と一人で旅行します。
10月20日、哈爾濱駅 21:10分発 寝台車の切符
K7033 空調快速 哈爾濱21:10 黒河06:57
10月20日(火)関空→哈爾濱→汽車(泊)
10月21日(水)ー22日(木) 黒河 (泊:二天)
10月23日(金) 孫呉 (泊)
10月24日(土) 北安 (泊)
10月25日(日)−26日(月) 哈爾濱(泊:二天)
10月27日(火)哈爾濱→関空
黒河・孫呉・北安・哈爾濱のホテル、一泊、200元左右
10月20日 21:10分発(K7033、軟臥下) 火車票
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以上手配して頂く事は可能でしょうか?
哈爾濱で10月20日、お支払いと切符の受け取りが出来るのか?否か?
能不能、請告訴我。
我等イ尓的回答。
再見!
それでは宜しくお願いします。関空⇔哈爾濱の航空券は購入済みです。
中国南方航空
CZ696 10月20日 関空‐ハルビン 13:10発 15:10着
CZ695 10月27日 ハルビン‐関空 08:10発 12:10着
10月25,26日の哈爾濱のホテルは
我希望 華僑飯店or 哈頓商務酒店
哈爾濱駅到着午後6時前後なので
哈爾濱駅前の客運站(長途汽車站)の二階(添付写真の場所)で
10月20日午後6時頃
火車票の受け渡しと、料金の支払いができればと思います。
請多多関照!
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“権○○”の返事
2009年9月6日 13:17
こんにちは!ご連絡ありがとうございます。私は最近出張を続けていましたので、お返事も遅くなってしまいましたが、本当に申し訳ございません。
日程のこと了解いたしました。手配は問題ありません。細かいことはまたメールを入れますので、しばらくお待ちくださいませんか?また時間ありますから、問題ないと思います。
今日はまず簡単に失礼いたします。
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私の返事
2009年9月6日 15:09
それでは宜しくお願いします。関空⇔哈爾濱の航空券は購入済みです。
中国南方航空
CZ696 10月20日 関空‐ハルビン 13:10発 15:10着
CZ695 10月27日 ハルビン‐関空 08:10発 12:10着
10月25,26日の哈爾濱のホテルは
我希望 華僑飯店or 哈頓商務酒店
哈爾濱駅到着午後6時前後なので
哈爾濱駅前の客運站(長途汽車站)の二階(添付写真の場所)で
10月20日午後6時頃
火車票の受け渡しと、料金の支払いができればと思います。
請多多関照!
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“権○○”のメール
2009年9月14日 15:33
了解いたしました。すべで問題ありません。
ホテルの予約はほとんど出来ましたが、詳しいことは後でまたメールいたします。私は最近出張を続けていましたので、すぐ確認ができませんでしたので申し訳ございません。
ホテルの詳しい情報に対しては、はっきり確認してからお知らせしようと思いますのでしばらくお待ちくださいませんか。
火車票の受け渡しと、料金のお支払いは哈爾濱駅前の客運站(長途汽車站)の二階(添付写真の場所)で10月20日午後6時頃で結構だと思います。では、また。
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私の返事
2009年9月14日 18:07
我都明白了。今後、請多多関照。
再見!
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“権○○”のメール
2009年10月13日 11:52
こんにちは!お返事が大分遅くなってしまい、大変心配をおかけ、本当に申し訳ございません。今まで会社はすごく忙しかったので、メールを送ろうと思いながら、今日になってしまいました。まず、お詫び申し上げます。
さて、日程の予定は変更ないでしょう?こっちのホテルと切符の予約は済んで、全部OKです。以下は詳しい情報でが、ご参考ください。
黒河伊甸園賓館 電話:0456-6768899 住所:黒河市中央街406番
孫呉北苑賓館 電話:0456-8449999 住所:解放路東風大街
北安緑洲商務酒店 電話:0456-6503333 住所:北安市慶華区東直街と慶西路の交差点
ハルピン華僑飯店 電話:0451-82571365 住所:ハルビン市紅軍街72番
見積もり
黒河伊甸園賓館 :2泊180元/360元(朝食付き)
孫呉北苑賓館 :1泊168元(朝食付き)
北安緑洲商務酒店 :1泊168元(朝食なし)
ハルピン華僑飯店:2泊220元/440元(朝食付き)
手数料:200元
切符:245元+手数料50元/295元
送る費用:100元
注 * 孫呉:1泊168元(朝食付き)、北安:1泊168元(朝食なし)この二つのホテルは○○様が直接料金をホテルにお支払いください。
* 北安緑洲商務酒店は団体は朝食予約したら食べられますが、個人は予約がちょっと無理だと言われ、朝食はご自分で適当に解決ください。
* 孫呉北苑賓館はオープンして一か月ぐらいしかならないホテルで、特に安くしてくれるというホテルです。
では、私にお支払いの料金は黒河360元+ハルピン440元+200元手数料+切符295元+送る費用100元
合計:1395元 お支払は日本円でも結構です。
火車票の受け渡しと、料金のお支払いは
10月20日午後6時、哈爾濱駅前の客運站 (ここを龍運豪華客運站ともいう)(長途汽車站)の二階、添付写真の場所はたぶん問題ないと思いますが、エスカレータの上がった所でどうですか?
哈爾濱駅前の客運站で会う人は、私の会社から派遣した○○さん(携帯)男(35歳)メガネをかけた人です。私の携帯も24時間大丈夫ですから、何かありましたらご利用ください。
以上ご参考して、ほかに何かご疑問とかご要求がございましたらご連絡ください。
**********************************
牡丹江中国国際旅行社有限責任公司
日本部 H.P: 138-4534-8266
TEL:0453-6911924 FAX:0453-6950064
〒157000 黒龍江省牡丹江市景福街34番
**********************************
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私の返事
2009年10月13日 14:36
連絡待っていました。ちょっと心配でしたが、ホッとしています。ホテルと切符の手配ありがとうございます。予定の変更はありません。10月20日哈爾濱に到着します。
・・・・・・・・・・・・
では、私にお支払いの料金は黒河360元+ハルピン440元+200元手数料+切符295元+送る費用100元
合計:1395元
・・・・・・・・・・・・
↑以上了解しました。当日、中国元でお支払い致します。
・・・・・・・・・・・・
火車票の受け渡しと、料金のお支払いは10月20日午後6時、哈爾濱駅前の客運站 (ここを龍運豪華客運站ともいう)(長途汽車站)の二階、添付写真の場所はたぶん問題ないと思いますが、エスカレータの上がった所でどうですか?
・・・・・・・・・・・・
↑了解しました。10月20日午後6時:2階、エスカレーターの上がった所でOKです。写真添付します。↓ 哈爾濱駅前の客運站 (ここを龍運豪華客運站ともいう)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今後とも宜しくお願いします。手配ありがとうございました。非常感謝!
宿泊予定変更のお願い。
24日(土)北安(北安緑洲商務酒店)を取り消して ↓ 孫呉北苑賓館
10月23日(金)、24日(土)の二泊でお願いします。
10月25日(日)午前9:50分発の以下の切符(孫呉→哈尓濱・軟座)の手配が可能ならお願いします。
4032 普快 黒河 孫呉 09:50 哈尓濱 20:02 哈尓濱東 10時間12分 36 63 79
ハルビン華僑飯店(着)は25日午後8時半ころになります。無理を言って申しわけありませんが以上変更と手配宜しくお願いします。
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“権○○”のメール
2009年10月14日 12:34
すべで了解いたしました。24日北安(北安緑洲商務酒店)を取り消して孫呉北苑賓館に変更しました。23日と24日の二泊にします。
10月25日(日)午前9:50分発の4032番の列車の切符(孫呉→哈尓濱・軟座)は多分問題ないと思います。黒河のほうに頼みましたが、はっきり確認ができましたら、もう一回メールを送ります。
では、また。
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私の返事
2009年10月14日 14:55
ありがとうございます。突然の変更をお願いして申しわけありませんでした。孫呉→ハルビンの切符が取れるようでしたら「窓側の席」を、お願いします。もし無理でしたら自分で何とか買えると思います。
宜しくお願いします
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“権○○”のメール
2009年10月14日 17:51
孫呉→ハルビンの切符が取れでも「窓側の席」かはわからないそうです。とりあえず、明日か明後日もう一回確認いたします。では、また。
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私の返事
2009年10月14日 19:05
了解しました。宜しくお願いします。
10月21日(水)
黒河で日本に関係する戦跡を巡りたいと思っています。もし、黒河で詳しいガイドさんがいたら紹介お願いします。21日、午前9時から一日だけで良いです。
10月24日(土)
孫呉でも24日、朝9時頃から一日だけお願いします。上記と同じく日本軍の戦跡巡りです。
宜しくお願いします。
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“権○○”のメール
2009年10月15日 17:50
黒河と孫呉には、日本人のお客さんが少ないので日本語のガイドがないです。普通はハルピンのガイドが直接行くのです。
孫呉→ハルビンの切符はとれるのは問題ありません。ただ、窓側かははっきりわかりません。ほかにまた何かご質問ございましたら、おっしゃってください。
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私の返事
2009年10月15日 18:08
ガイドの件、了解しました。一人でボチボチ回ります。
座席のことも窓側でなくても仕方ないです。選べるのであれば窓側をお願いします。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- こまちゃんさん 2009/11/11 14:35:20
- やっと見つけた第一話!
- 10月末に出られたんですね。
寒そうです。今年の気温は、過去3年になく下がっているようで、北京でも11月2日から、
もう3回ほど市内で降雪だったそうです。
戻ってきている自分が口惜しい〜!雪景色の市内を撮るのも狙っていますので…。
おまけ:
新着通知が23日分でしたので、開いた旅行記頁から幾つか遡ると、頁が別の旅行へと
飛んでしまいました。プロフィールに出る順番と実際の頁で並ぶ順番は、システム上
異なるそうです。(四虎に聞きました)
なので、同じタイトルの「スグ後」に、半角文字で「01」や「001」としなければ、
同日分の旅行記に関しては、プロフ一覧で自分の思惑通りに順番に並んでも、
閲覧頁で順送りする時はバラバラになっちゃうんですね。(無料サイトなので仕方ないかも)
訪問日付をデイリーにするか、連番数字を半角にするかしないと、順番に並ばないそうです。
大文字の「1」や丸で囲んだ「?」は、マシン語でしか判別しないブラウザなので、
「2桁文字の情報」となり、人が思って居る順番を表す数字ではないようです。
こま
- 明石DSさん からの返信 2009/11/11 17:33:14
- RE: やっと見つけた第一話!
- こまちゃん
お久しぶりです
このところ満洲ばかり行ってます。
北京とか上海は随分長い間行っていないような気がします。
一度変わりようを見てみたいですが
順番のつけ方ご教授ありがとうございます。
アップだけして、ほったらかし状態なので・・。
今まで全然気付きませんでした
また順番通り並ぶように挑戦してみます。
鬼婆シリーズ手に汗握ってました。
大変なことも多いでしょうが、これからもご活躍下さい。
- こまちゃんさん からの返信 2009/11/11 17:41:15
- RE: RE: やっと見つけた第一話!
- > 鬼婆シリーズ手に汗握ってました。
>
思わず吹き出してしまいました・・・(^^;
確かに「鬼婆シリーズ」になっていましたね。
もっとリアルに書く事が、「記録」として必要だったのですけど、
基本的には夫婦げんかなので、相手が100%とも言えないと考えると、
そう言う訳にもいかないかと考えて、あんな感じになりました。
つくづく判りましたが、芸術家のお守りは大変ですね。。。
もう鬼婆は居ませんので、北京経由で入られる時にお時間が有れば
ご一報下さいね。(次の渡航は、2010年の春節からです)
こま
- 明石DSさん からの返信 2009/11/11 18:21:03
- RE: やっと見つけた第一話!
- こまちゃん
こまちゃんのブログには登場人物多種多様で
まさに現代中国のドラマがありますね
そこに「変な日本人?」が、絡んでいるのは、小説より奇なりです。
いつの日か
中国版寅さんシリーズ、映画にして欲しいですね。
これからも人生楽しんで下さい!
ブログを楽しみにしています。
明石DS
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