![1356年に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が築城し、11代城主最上義光が大規模な城郭を築いた「山形城」。<br />その広さは全国有数のもので、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂城の戦い」の折、城郭が霞で隠れたことから「霞ヶ城」(かすみがじょう)とも呼ばれています。<br /><br />もともと天守閣はなく、戦後は公園として利用されていますが、史跡整備事業が進められていて、現在では復元された二の丸東大手門に往時を偲ぶことができます。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/10/35/15/650x_10351598.jpg?updated_at=1246437041)
2009/06/27 - 2009/06/29
931位(同エリア1041件中)
korotamaさん
- korotamaさんTOP
- 旅行記674冊
- クチコミ75件
- Q&A回答8件
- 891,353アクセス
- フォロワー17人
1356年に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が築城し、11代城主最上義光が大規模な城郭を築いた「山形城」。
その広さは全国有数のもので、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂城の戦い」の折、城郭が霞で隠れたことから「霞ヶ城」(かすみがじょう)とも呼ばれています。
もともと天守閣はなく、戦後は公園として利用されていますが、史跡整備事業が進められていて、現在では復元された二の丸東大手門に往時を偲ぶことができます。
- 交通手段
- レンタカー JALグループ
PR
-
山形城跡は、二の丸跡に県立博物館や運動施設などが設けられた「霞城公園」(かじょうこうえん)として市民の憩いの場となっています
-
立派な石垣は「二の丸南大手門跡」
どっしりとしています。 -
内堀沿いは散策路として整備されています。
夕方になっても強い日差しが差していましたが、木立の中は涼しかった! -
山形城は南北朝時代に斯波兼頼により築城されました。
その後、戦国から江戸初期にかけての最上義光の時代に57万石の大名となり、現代に残されている規模の城が造られました。
日本国内では5番目、奥羽地方では最大の規模でした。
山に囲まれた平城です。
天守閣を造ったところで、近くの山から見下ろされることに変わりはないため、山形城には天守閣が造られませんでした。
現在、霞城公園では長期にわたる「山形城復元」事業が行われていて、その第一弾が、こちら「二の丸東大手門」の復元です。 -
その中を見学できます!
閉館間際に滑り込みました。 -
「二の丸東大手門」は幕末の平面図と明治初年の写真を元に1991年(平成3年)に復元完了しました。
最上義光の功労により57万石もの大大名になった最上家ですが、跡目相続のごちゃごちゃで改易。
その後この地は大名たちの左遷先となり、石高もどんどんと減らされていきました。
めまぐるしく人が入れ替わる歴代城主の年表に、korotama、びっくり。
展示資料を見ていたら、スタッフの方が詳しく説明してくださいました。
閉館時間を過ぎても、korotamaたちの質問にも丁寧に答えてくださり、とても勉強になりました。
ありがとうございました! -
霞城公園整備の未来予想ジオラマかな。
現在は体育館や球場などがありますが、それらは撤去される予定。
国の重要文化財に指定されている「旧済生館本館」はそのまま残りますね。
本丸の建物も復元されたら面白いだろうなぁ、と期待が膨らみますが、資料が殆どないために実現は厳しい模様です。
整備完成はあと20年後くらいだったかな。
その頃また訪れたいな。 -
最上義光 騎馬像
この方、伊達正宗のおじさんでもあるそうです。
また、関ヶ原の戦いの折、東軍についた最上家は長谷堂城の戦いでは直江兼続とも戦ったそうな。
この長谷堂城の戦いの功績が認められて、57万石になったそうです。 -
明治時代に入って取り壊された山形城の跡地に、山形歩兵第32連隊が設置されました。
山形歩兵第32連隊最後の戦地は沖縄でした。 -
本丸跡
現在、整備中です。 -
本丸大手門(通称:一文字門)石垣復元工事進行中です。
本丸に渡る大手橋は完成していました。 -
本丸大手門完成予想図
本丸の石垣、土塁、堀は明治時代に取り壊され埋め立てられてしまったために、発掘調査、史実調査をしながらの復元工事です。
江戸城と同じ、桝形門なんだぁ。
って、もしかして城門ってどこもこうなのかな? -
本丸御殿広場完成予想図
現在、御殿の間取り図は見つかっているものの、建物の形を確認する立面図などの資料は見つかっていないため、御殿そのものの復元は困難な状況だとか。。。
残念です。 -
出羽国最上山形城絵図 と 霞城公園整備計画鳥瞰図
看板でも訴えていました。
「さがしています!
本丸御殿や本丸一文字門櫓の写真や城の古絵図等の史料を探しています」
お心当たりの方は、是非、山形市都市開発部公園緑地課までご連絡ください!!! -
1969年(昭和44年)に三の丸七日町から二の丸内に解体復原移築された「旧済生館本館」
-
「二の丸西不明門跡」
二の丸内からの眺めですが、桝形になっています。 -
「二の丸西門(西不明門)跡」を外側から眺めました。
今は石垣しかないけれど、この上に櫓があったと思うと、かなりの迫力だっただろうなぁ。 -
大きな大きな桜の木。
夫婦桜? かと思ったら、これは2本ではなく1本の桜でした。
「霞城のサクラ」
エドヒガンザラで、樹齢は600年を超え、城が築かれた当初から生きているのだそうです。
主幹は朽ち果ててしまいましたが、脇から出た枝が立派に跡を継いでいます。 -
「二の丸北不明門跡」にやってきました。
これもどっしりとした石垣です。
この門は公園に入る車の出入り口となっています。 -
北不明門をくぐると、防御策 桝形です。
-
お堀に緑がくっきり
-
外側から眺める「二の丸北不明門跡」
-
これも長生きの桜かなー? と思ったら、違いました。
「サイカチ」というマメ科の木だそうです。
詳しい説明書きはありませんでしたが、これも相当なお年なのではないかなぁ。 -
二の丸内を一周しました。
夕陽を受ける「二の丸東大手門」 -
東大手門をくぐって町へ出ます。
-
櫓門から桝形、高麗門を眺めます。
最上義光さんが、邪魔をしてくれました・・・(^_^;) -
高麗門もなかなかに迫力です。
-
暮れなずむ 二の丸東大手門
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
korotamaさんの関連旅行記
山形市(山形) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
28