2008/01/01 - 2008/01/03
46位(同エリア86件中)
松村博司さん
天草・島原の乱。
島原南部、そして天草諸島のほとんどの農民が参加したと言われる一揆。
三ヶ月の篭城の末、12万人以上の幕府軍による総攻撃で3万7千人いた一揆軍は女子供を問わず、皆殺しにされました。
結果として二つの地域では乱後、住民がいなくなり廃墟になったそうです。
その最後の戦いの場となった原城。
今なお、発掘調査では犠牲となった多くの人々の遺骨が大量に出てくるそうです。
この旅ブログを初めて2年。
今までいろんな史跡、名所を巡ってきました。
しかし、ここは明らかに異質。
目を背けたくなるような現実が、今なおここには残っていました。
挫折禁止(松村博司の貧乏旅日記)
「有明の周辺で明けおめを叫ぶ旅」
http://bonkuraii.blog56.fc2.com/blog-category-48.html
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 自家用車
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本来なら広いアクセス道路のある原城ですが、今更ながら毎度おなじみのサイバーナビご乱心。
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どう考えても地元民しか通らないだろう住宅地の極細道路を抜けやっと原城が見えて来ました。
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そして到着、原城駐車場です。
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富岡城からここまでの道のりです。
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今回の旅、最大の目的地である原城です。
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この旅、この原城に行こうから計画が始まったわけで、念願達成といったところです。
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こちら、空堀です。
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乱の篭城時に防衛のために作った堀とのこと。
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ホネカミ地蔵です。
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この地蔵が建てられたのは明治3年。
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その時に戦乱で無くなった人々の骨を敵味方関係なく拾い集め、ここに集めて供養のために建てた地蔵です。
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私が初めてこのホネカミ地蔵の事を知ったときに、明治の時代にこの城址の至る所に戦乱で無くなった人々の骨がそのまま放置されていたことに、衝撃を受けました。
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発掘調査中もものすごい数の人骨が発見されたそうです。
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発掘調査で発見された万人坑では、石垣で坑を埋めて生き埋めにしていたそうで、そういった当時の生々しい攻防戦や殺戮のすさまじさがそのまま、ここに残っていたそうです。
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ここは言わずと知れた天草・島原の乱の最終決戦地です。
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天草軍と島原軍が合流、島原城を攻撃するも落城に至らず撤退したのが当時すでに廃城になっていた、この原城というわけです。
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篭城した一揆軍側は3万7千人。
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幕府側が討伐軍として差し向けた兵数は12万5800人。
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その中には宮本武蔵や高田吉次の名もありました。
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篭城期間は3ヶ月。
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一揆軍は内通者、山田右衛門以外は全員が死亡。
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幕府側も一万人以上の死傷者がでたそうです。
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ちなみに猫です。
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非常に人慣れした猫ですが・・・
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いろいろ餌をもらいまくっているのでしょうか?
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まるまると太っていましたw
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本丸近くまで道案内をしてくれた非常にお利口なお猫さんです・・・がw
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餌がもらえないとわかったとたん、態度を変えるのはやめてほしいw
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とまあ、少し和んだところで再び話を戻しましょう。
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この一揆。
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キリシタン弾圧に端を発した宗教戦争のイメージが強くあったのですが、実際にはそれだけが原因ではなかったようです。
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キリシタン大名有馬晴信の元、島原の地は多くのキリシタンを保護していましたが、岡本大八事件により、死罪となりました。
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その後、入封したのが松倉重政です。
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このお方、この地の石高ではあり得ないほどの巨城、島原城を築城したお方です。
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実際よりも多くの石高を算出し、領民に過酷な年貢を取り立てていました。
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年貢を納められない物は頭からミノをかぶせて火を放つ、ミノ踊りと呼ばれる拷問や妻や娘を人質に取り数々の拷問を加えたりしていたとの記録が残っているそうです。
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また、キリシタン弾圧にも以上とも思える残虐な方法で拷問を加え、有名なところですと雲仙地獄に突き落としたり硫黄をかけられたりしたそうです。
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さて、本丸の天草四郎の墓碑までやってきました。
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まずは黙祷後、写真を一枚。
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まだまだつづく原城探索。
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広々とした本丸を歩いていきます。
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転封されてきた松倉重政により、過酷な重税と激しいキリシタン弾圧が行われていたと言うところまでが先ほどまでのお話。
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その重政が急死後、次代の勝家はさらなる過重な取り立てを行い、厳しいキリシタン弾圧を行います
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乱の起こるまでの何年かは凶作、台風や干ばつなど飢饉がつづいた上に、さらに厳しくなる年貢の取り立てに対して藩民の不満は限界に達していたようです。
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乱のきっかけは、宗教儀式に集まった農民たちとそれを解散させようとした代官のいざこざからでした。
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この時、代官の行動に農民たちが怒ってその代官を殺害してしまいました。
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この事件をきっかけに農民たちが暴徒化、島原北部は組織化する前に沈静化しますが、南部では一気に大きくなっていき、本格的な一揆となっていきました。
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数日後、天草にもこの一揆の情報は入り騒ぎになるもいったんは沈静化しました。
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しかし武装化を恐れた藩は鎮圧軍を組織。
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これが逆に、農民たちの反感を買いこちらも暴徒化したというの一連の流れでした。
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この一揆軍の中には、そもそも反乱への参加に消極的な人も多かったそうです。
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しかし、人質を取られるなどして無理矢理参加させられていた人も多かったそうです。
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そうやって島原南部、そして天草諸島の農民はことごとくかり出され、乱鎮圧後の村々は廃墟と化したそうです。
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幕府はこの未曾有の戦乱の責任を取らせる形として、大名としては異例の斬首を松倉勝家に処しました。
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そしてこれを機に、日本は完全な鎖国体制へと移行していきます。
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徹底的なキリシタン排除を行いました。
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そしてご存じの通り、この鎖国は幕末のペリー来航までつづくことになります。
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この事件、宗教戦争としての一面が主に取り上げられていますが、実際には悪政による農民たちの不満の爆発。
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これにキリシタン弾圧が便乗して行ったというのが本当のところだそうです。
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一説によると松倉勝家が自分の悪政をごまかすために宗教一揆と報告したこと、それを受けた幕府が鎖国とキリシタン排除を目的として、この乱を口実に取り締まりを強化していったとも言われています。
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とはいえ、松倉勝家は流罪のうえ、取り調べ後に斬首されています。
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そしてこの原城。
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一国一城令で廃城になった城ですが、この乱の後に徹底的に破壊されています。
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こうやって実際に見ていくと、コーナーや上部が破壊することによって再利用出来ないようにしているとのことですが、なるほどって感じですね。
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で、この一国一城令で廃城になった城が再利用できないように破壊されるようになったのも、この乱がきっかけだったようで、天草・島原の乱後、各地に残っている城址を再利用されないように破壊するよう指示をだしていたようです。
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原城はこれにて終了です。
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てか、また雨が降り出してあわてて脱出^^;
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天草四郎時貞率いる一揆軍。
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若干16歳の少年が奇跡を起こし続け、悪政に苦しむ農民たちを率いて戦いを挑む。
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その奇跡は最後まで続かなかったということでしょうか。
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私には、ある思惑を持った一部の浪人に御輿として担ぎ出された哀れな少年。
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そう見えたのですが。
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それでも、天草四郎本人から農民たちに向かって発せられた言葉の数々は紛れもなく本物で、その言葉に心を打たれた人々が多くいたのもまた事実なのでしょうね。
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私は「その時歴史が動いた」を見ていないのですが、視聴者アンケートのもう一度聞きたい言葉の20位に選ばれた、
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「いま篭城している者たちは来世まで友になる」
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この言葉には、胸を打つ者がありました。
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さあ、時間は4時過ぎ。
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本日最後の訪問地は目前です!
つづく〜
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