2009/05/12 - 2009/05/23
32112位(同エリア47414件中)
明石DSさん
12:16:16
みんな美味かった。特に冷麺は最高に。
旧東寧駅から中心部まで車ですぐだった
十分歩いても行けると感じた
後で張学雲に地図に印をしてもらったが、近かった
古い地図に東寧駅の記載があるので、
その場所が特定できれば随分助かる
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■昼食を食う
張学雲の案内で昼飯(36元:540円)を食う。あんまり外食はしないそうで、入った店も初めてだそうだがやはり美味いものは知っている。彼女に任せたけど全部美味かった。そして残ったのは彼女が持って帰った。
-
満鉄線路跡
12:39:18
これが鉄道跡、今は道として使われているようだ。
この川に架かる鉄橋も日本時代の物だと教えてくれた
すぐ向こうに旧寧駅があった。写真正面、煙突の場所。
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■東寧周遊へと向う
大肚子、石門子などの地名は東寧地域に暮らしていた日本人が書く1945年までの地図には必ず出て来る地名であり、地域だ。
それがどんな範囲なのか?さっぱり分からないまま取りあえず周って見たかった。
まずその一つ大肚子に向う
途中、旧鉄路があり写真を撮る。川にかかる橋“鉄橋”は日本時代の物。そして、その向こうに高い煙突の聳えるさっきの東寧駅があった。
さっきの鉄路から10分ほど走ると、これも写真で良く見ていた光景が前方に広がって来た。その一番は大肚富士が目についた。その道からの景色では大肚富士を正面に左側に大肚子川が流れている。
そして、まず「御成橋」に到着。次に、→「大肚子橋」→「大肚子神洞トーチカ」→「大肚子鎮」→「石門子」→「狼洞溝」→「東綏」→ 「三芬口」→「烏蛇溝河」と巡った。
関東軍が部隊を置き様々な軍関係の施設や建物があった。東綏には司令部があった。この周辺は満人部落もあったが、当時は日本そのものと言っても過言ではない地域になり、そんな暮らしが日々営まれていたのだと思う。
今は、その名残りは遺跡くらいで、満人も少なくなり漢族が多数住む地域になっているようだ。 -
12:53:40
大肚富士
この風景は日本人なら誰が見ても
あの山が大肚富士だと思うに違いない
私もこの風景が目の前に現れてすぐ分かった
文句ある奴出て来い -
12:56:44
御成橋
大肚子鎮には当時、陸軍病院や部隊の駐屯もあり
8月9日、ソ連侵攻までは
多くの日本人が日々の暮らしを営んでいたのだろう -
12:57:42
御成橋の上から大肚富士を写す
静かなリ -
13:01:00
こんな川の中に日本時代の遺跡が
大肚川に架かっていた鉄橋の橋脚だそうです
今は無残な姿を晒していますが -
13:01:10
御成橋
橋の欄干一部欠落
何も問題ありません
これが問題だと思う私がおかしいだけです
ハイ -
大肚川橋
13:12:30
大肚川橋を渡って大肚子鎮へ
この橋は「1980年8月竣工」と銘記されてました
新しくしたのでしょう・・・か? -
13:13:46
この橋も欄干一部欠落
これはひょっとしたら欄干のデザインなのかも?
それとも
日頃から危険に対応する訓練の一貫かも?
日本は何事にも甘過ぎます -
13:19:16
大肚鎮の風景
街の格好は似ていても
満洲時代とはきっと全く違う雰囲気だと思う
ここもすっかり漢化された村になったのだろう
朝鮮族はチラホラいるようだが、満族は少ないようだ
漢族に席巻される満州を憂う -
大肚川神洞の日本軍トーチカ跡
13:34:28
こんな所にあったのか -
13:37:18
今はこの家の倉庫として使われているようだ
昭和20年8月9日、このトーチカには
兵士がいたのだろうか? -
13:50:30
神洞から少し引返し大肚川鎮に入って行った
そして石門子に向う -
14:14:58
30分くらい走って石門子に着いた
ここも日本人が暮らしていたという痕跡は
私には分からない
静かな村だった -
14:15:26
石門子鎮 -
14:24:40
石門子の村はずれの風景 -
14:38:46
狼洞溝を経て東綏へと向う -
15:07:18
私の注文は
綏芬河と烏蛇溝河が合流する場所を見たい
そこに向ってくれた
三芬口から東寧口岸に突き当たり左折して
烏蛇溝河沿いに北に進む
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■烏蛇溝河を見る
最後に烏蛇溝河を見に行った。東寧要塞・勝鬨山の頂上に上っても、そして道に迷って烏蛇溝河沿いを歩いた時も川は見えなかった。大河だと思っていたのに実は地元の人も名前すら知らない人もいる国境の川、そんな烏蛇溝河は小川のような川だった。
それでも張学雲曰く「今日は水量が多い」だった。
一応中国側に柵は張り巡らせれていたが、何処からでもくぐり抜けれるような代物で、その気になれば行き来は自由な国境だった。「百聞は一見に如かず」とはこのことなり。それに私は烏蛇溝河をウスリー川と、つい最近まで勘違いしていた。
朝の9時から午後3時40分くらいまでの東寧一回りの旅はひとまず終了。彼女の今日の包車の請求は¥300元だった。高くはない。張学雲に二日間の感謝を言いホテルの前で別れた。
昨日の出会いの時は、私が資料や旧地図を見せながら行きたい所を示しても、そのほとんどに反応の無かった彼女が、一夜明けたら、なんとその全ての場所を何も言わずとも順番に連れて行ってくれた。私の注文に無かった場所にまで・・・。
それには正直驚いた。明日、綏芬河までと、又市内を巡りを含めて包車(貸し切り)すれば幾ら?と、聞いたら「バスで行くほうが安いから・・・」と言って、その話には乗って来なかった。そんな彼女にチップを渡すことを忘れたことを後悔した。 -
15:13:14
右側が烏蛇溝河
このまま綏芬河まで行くしか道がないようで
道が悪いし、こんな小さな川だというのが分かったので
この辺りでOKと言った
ウスリー川と勘違いしていた
烏蛇溝河は小さな川だった -
15:26:32
烏蛇溝河
川向こうはロシア
ふ〜ん、こんな小さな川が国境か・・・。
その気になれば誰でも越えれる
冬期は凍結すれば、歩いても渡れる
どこでも陸続きの国境を守るのは大変だ -
15:26:52
今日は私にとって、ロシアに一番近づいた日かも
http://www.youtube.com/watch?v=3K1E2LB3vSE&feature=player_embedded -
15:27:16
一応川に沿って鉄条網を張った柵がありますが
ご覧のようにアチコチ潰れているところもあり
出入り概ね自由です
不法に越境する者はいるのでしょうか?
どっちが多い? -
17:51:48
満洲時代は東春橋
今は?残念ながら名前はなかった
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■3時53分:戻る
部屋で、ちょっと休憩してまた出て行く。ホンマに旅先では自分でも何でそんなにジッと出来ないのか?と、不思議に思う。幸い腰痛もひどくならず、歩けるからだが・・・。
行き先はまず今朝も行った昔の日本人街。今も中心と言っても良いと思う。その辺りをぐるっと歩いた。 -
ロータリーで北側向って
時計回りで四方を写す -
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18:16:42
中華路を綏芬河へ向う
荷馬車が帰っていく
夕方には尚更似合いの風景だ
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次に、綏芬河方面に向った。
この東寧には綏芬河の北側にも郭亮船口・勾玉・三角山などの陣地が構築され、侵攻してきたソ連軍と死闘を演じた。
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東寧、北翼地区の戦い
「遥かなる黒龍江」小林静雄(著)より↓
以下、120頁一部抜粋
10日早朝東方より郭亮にソ連軍大部隊が侵入した。第786大隊(駒井庄五郎少佐)主力のほか、旅団砲兵隊第三中隊の一個小隊(迫撃砲)、同挺身大隊の一個小隊、東寧重砲兵連隊第六中隊(30cm榴弾砲ニ門)など合計660名が布陣していた。
このソ連の大部隊により10日夕刻には決定的な破局を迎えた。特に軍人軍属の妻子、開拓団東寧訓練所の本部家族、入院患者等の一部はこの郭亮陣地に入り、ソ連軍の包囲を受けて80余名ほぼ全員爆薬をもって自決した。
残存兵は勾玉陣地に移動した。勾玉陣地は郭亮よりもっと堅固なコンクリート地下施設があった。勾玉陣地は8月12日より本格的な攻撃を受けた。その後勾玉陣地は、ソ連軍の猛攻によく耐え、駒井少佐は18日頃歩行できる者は脱出して旅団主力に合流するよう命じ、19日脱出を開始したが、大多数は脱出直後にソ連軍の攻撃を受けて戦死、不明者を多数出した。駒井少佐以下約39名は9月3日東寧付近でソ連軍に武装解除を受けた。
脱出できなかった負傷者第三中隊長・中尾中尉以下40〜50名は地下陣地で自決したと見られ、第三中隊・東寧重砲第六中隊等は全滅に近い損害を出している。
///////////////////////////////以上
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18:18:34
東寧で夕陽を写す
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■綏芬河へ行く
勲山の東寧要塞と、勝鬨山陣地方面には行ったが、綏芬河の北東にある陣地は行けなかった。そして、それが何処なのかも確認出来ていない。ロータリーの場所から綏芬河に向って歩いていたら、ちょうど夕陽が川向こうの丘陵に沈みつつあった。時に6時20分頃である。
綏芬河は国境の川、烏蛇溝河よりも大きくゆったりと流れている。その川の北側に三角山・勾玉山・郭亮船口などの陣が並んでいたのだ。残念ながら、どれがどれか教えてもらえる人もなく、何ら特定するに足る写真もない。
昨日の15日に東寧要塞陳列館内に三角山陣地全景という写真が一枚あったが、確かに頂上が三角形だが、綏芬河北側に並ぶ山々のどれもが三角形のように見えて特定は出来ない。
でも地図と見比べば私の視野の中に、私が写した写真に、それらの陣地の全てが入っていると思う。今から64年前の8月、火事場泥棒等しく攻め込んできたソ連軍と、この地で戦い亡くなった日本人が居ることを忘れてはならない。今もその方々の遺骨は故郷日本に戻ることなくこの地に眠っているのだろう。
20分ほど川辺を散策し、夕方の東寧をホテル方向へと歩いた。 -
18:22:42
綏芬河の向こう(北側)には
三角山・郭亮・勾玉(まがたま)などの陣地があった
あの山々の方向だと思う
綏芬河を越えては何処も行けずだった -
18:31:26
陣地の方角を望む
http://www.youtube.com/watch?v=bB7CrwpYF2A&feature=player_embedded -
18:41:58
綏芬河に架かる橋
中華路、橋の向こうは中華北路 -
18:43:32
橋のそば、中華路の南方向を写す -
19:04:20
今日の夕食も不味かった
食い物の選択は何とかしなければと思う
これじゃあ、アカン
しみじみと思う
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■夕食を食う
晩飯はホテル近くの小吃店で食った(計16元:240円)。メニューの漢字を見ても分からない。勉強不足も極まれり、ようするに食い物に執着がないのか?興味がさほど湧かないのか?10年間くらい毎年中国に来ているのに、未だにちゃんと注文が出来ない。
麺を頼んだ。望みは日本のスープのあるラーメンだったが、出て来たのはスープがない“ぶっかけうどん”のような物だった。ぶっかけるルーの味が今一、麺の味も今一。これが美味いとは???味覚の違いは一体何故?マーボー豆腐は、日本に比べて激辛だがそれなりに食える。
食ってワンバ(2元)に行って、8時半自室の402号室に戻る
それにしても東寧は、満洲時代これほど日本人の街だったのかと改めて知る。その東寧を今の日本人は全くと言って良いほど知らない。
東寧についての書き物も見当たらないし、この戦場から帰還した兵士も多いのに・・・。
そんな東寧を明日の朝、出発し綏芬河に向う -
20:27:32
税苑賓館の近くに戻る
面子の文化・このビルの電飾に表れている
これは満洲にあらざり
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