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2009年5月16日、10:08:50<br /><br />東寧・勝鬨山要塞、昭和20年8月26日<br />関東軍河野参謀の来訪を受け、投降勧告を受諾す<br /><br /><br />戦跡巡りへの想い<br /><br />日露戦争に従軍した祖父の行軍軌跡を訪ねて満洲を旅して以来、戦跡に興味を持ちだした。そして、戦跡を調べても調べても次々と新たな戦跡の発見につながり、その都度、あまりに無知であったことに愕然とする。 <br /><br />戦後、米国の占領下で作成された憲法を、訳文によって日本国憲法とし、昭和26年の主権回復後も何の因果か廃棄も出来ず、ひたすら護持している姿は愚かとしか言いようが無い。 <br /><br />そして戦後に出版される戦記本の多くは自虐史観こそが善であるかのような世相を背景に、書き手である戦後の歴史家・作家はもとより、元兵士でさえも戦友の霊を弔うと言いつつ自らは戦争と一線を画し、先の戦争を非難し軍部中枢の責任を糾弾する。其の姿はあまりに卑怯で見苦しい。 <br /><br />当時は覇権主義全盛の時代であり、欧米列強により世界の後進国家は次々と植民地化されていった。アジア諸国も例外ではなく、そのほとんどが列強の足下に牛耳られた。 <br /><br />我が先人たちは、日本の独立を保ち、且つ、列強に伍する“一等国”の仲間に入る為に国家国民一丸となり国力の向上を目指した。そんな時代背景の中での資源無き日本の当然とも言える海外進出であり、台湾・朝鮮半島の併合、満州国の建国であった。 <br /><br />関東軍主導による日本の満州国建国も、当時の世界情勢の中では何ら非難されることではないと思っている。それは強国に進出をされた側にも同じである。 <br /><br />「満洲は今も満洲だ」 <br /><br />当時は先進覇権国家が途上国を植民地化し、そこで強国は益々覇権を拡大し更なる強国を目指す。そして例え、今となっては方便でしかなくとも先進国家による植民地化によって後進国の生活レベルの向上に寄与するという大義名分がまかり通っていた。 <br /><br />只、そんな状況の当時と言えど、やはり領土の拡張、植民地の収奪は互いの覇権国家間の利害が絡み、非難、牽制されるのは止む終えない。それだけのことであり、それ以上の是非はない。それが当時の世界の紛れの無い現実である。 <br /><br />そして、そんな経過を経て、日本が大東亜戦争に突き進んで行く。その要因を、私は白人種の深層心理にある消すことの出来ない人種偏見だと思っている。 <br /><br />白人列強国家のみが世界を牛耳って来た時代に、明治維新以来突如として現れた有色人種である日本の急激な台頭に白人列強国家は、暗黙の了解であるかのように日本をジリジリ追い詰めて行った。同盟国、ドイツ、イタリア人といえど深層心理は同様だと思う。 <br /><br />その筆頭がルーズベルト米国大統領だ。「黄禍論」に根ざす日本への嫌悪感と米国の中国大陸進出の野望が重なり、自分たちの血塗られた侵略の歴史を棚に上げ、満洲建国への非難、そして日本への経済封鎖となり、最後には日本の独立国家としての存在と誇りと名誉に掛けても受け入れることの出来ない“ハル・ノート”を日本に突きつけた。 <br /><br />今尚、大東亜戦争の開戦に非を唱える日本人に問う。 <br /><br />それでは、あの時、日本はどうすれば良かったのか? <br /><br />開戦に踏み切る以外にベターな選択があったというなら教えてくれ。 <br /><br />どうすれば当時日本の独立を守ることが出来たのか? <br /><br />そして、そのことで今より良い世界が開けたと思うのか? <br /><br />その明確なる信念・根拠があってこそ先の開戦の非を唱える資格がある。ただ感情的に戦争を悪として開戦に踏み切った先人の行為を批判非難することは、散華された英霊の御霊(みたま)に対しても許されることではない。 <br /><br />特に生き残った元日本軍兵士及び戦後メディア、知識人?文化人?なる日本人の奇麗事には虫唾が走る。戦争の中を生きた立派な日本人の多くは戦死した。或いは責任をとり見事に自決した。 <br /><br />戦跡を訪ねる旅をしだして戦記本を読む機会が増えた。 <br /><br />しかしながら戦記や戦争物と言われる本は、欺瞞と自虐の精神で先人を辱め自らの立場を戦後の風潮に媚、守ることに汲々とした卑怯者たちが書く読むに耐えない物がほとんどだ。 <br /><br />中には自分の射撃の下手なことをあげて「そのお蔭で敵を殺すことが出来なかった・・・」と、それを「自らの善行」と言わんばかりに自慢げに書く元兵士の手記(Web上で公表)もある。 <br /><br />「敵を殺すことが出来なかった」ということは「戦友を自らの手で殺した」と同義であることさえ認識できない。その元兵士は今もって想像力も欠如し、更に最大の不幸は“恥知らず”であることだ。 <br /><br />こんな内容の本が戦後の日本に出版され、評価を得てきた事が今の腐った日本を象徴している。 <br /><br />「自分の国は自分で守る」 <br /><br />国家として、国民として、自国の安全保障を米国に委ね、人間として、いや動物としての最低の責任さえ放棄し、経済的豊かさだけに価値を求めてきた戦後の日本国と日本人。 <br /><br />その腐り切った“恥知らず”を、認めたくないばかりに戦争を悪とし、先人の英雄的奮戦を覆い隠す。或いは言葉巧みに過小評価する。 <br /><br />私は腐った国家の紛れも無い国民の一人であり、その腐らせた責任は等分にある。しかし、先人達の英雄的奮戦には万感の敬意を表し、我が民族の永久(とわ)の誇りとする。 <br /><br />我、満洲の戦跡を訪れ、佇み、感謝とお詫びをし、ご冥福を祈る。 <br /><br /><br />皇紀2669年/平成21年6月11日(木).Age58(記)  <br /><br /><br /><br /><br /><br />

磨刀石・東寧・虎頭の戦跡を訪ねる。旅立ち前

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2009/05/12 - 2009/05/23

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明石DS

明石DSさん

2009年5月16日、10:08:50

東寧・勝鬨山要塞、昭和20年8月26日
関東軍河野参謀の来訪を受け、投降勧告を受諾す


戦跡巡りへの想い

日露戦争に従軍した祖父の行軍軌跡を訪ねて満洲を旅して以来、戦跡に興味を持ちだした。そして、戦跡を調べても調べても次々と新たな戦跡の発見につながり、その都度、あまりに無知であったことに愕然とする。

戦後、米国の占領下で作成された憲法を、訳文によって日本国憲法とし、昭和26年の主権回復後も何の因果か廃棄も出来ず、ひたすら護持している姿は愚かとしか言いようが無い。

そして戦後に出版される戦記本の多くは自虐史観こそが善であるかのような世相を背景に、書き手である戦後の歴史家・作家はもとより、元兵士でさえも戦友の霊を弔うと言いつつ自らは戦争と一線を画し、先の戦争を非難し軍部中枢の責任を糾弾する。其の姿はあまりに卑怯で見苦しい。

当時は覇権主義全盛の時代であり、欧米列強により世界の後進国家は次々と植民地化されていった。アジア諸国も例外ではなく、そのほとんどが列強の足下に牛耳られた。

我が先人たちは、日本の独立を保ち、且つ、列強に伍する“一等国”の仲間に入る為に国家国民一丸となり国力の向上を目指した。そんな時代背景の中での資源無き日本の当然とも言える海外進出であり、台湾・朝鮮半島の併合、満州国の建国であった。

関東軍主導による日本の満州国建国も、当時の世界情勢の中では何ら非難されることではないと思っている。それは強国に進出をされた側にも同じである。

「満洲は今も満洲だ」

当時は先進覇権国家が途上国を植民地化し、そこで強国は益々覇権を拡大し更なる強国を目指す。そして例え、今となっては方便でしかなくとも先進国家による植民地化によって後進国の生活レベルの向上に寄与するという大義名分がまかり通っていた。

只、そんな状況の当時と言えど、やはり領土の拡張、植民地の収奪は互いの覇権国家間の利害が絡み、非難、牽制されるのは止む終えない。それだけのことであり、それ以上の是非はない。それが当時の世界の紛れの無い現実である。

そして、そんな経過を経て、日本が大東亜戦争に突き進んで行く。その要因を、私は白人種の深層心理にある消すことの出来ない人種偏見だと思っている。

白人列強国家のみが世界を牛耳って来た時代に、明治維新以来突如として現れた有色人種である日本の急激な台頭に白人列強国家は、暗黙の了解であるかのように日本をジリジリ追い詰めて行った。同盟国、ドイツ、イタリア人といえど深層心理は同様だと思う。

その筆頭がルーズベルト米国大統領だ。「黄禍論」に根ざす日本への嫌悪感と米国の中国大陸進出の野望が重なり、自分たちの血塗られた侵略の歴史を棚に上げ、満洲建国への非難、そして日本への経済封鎖となり、最後には日本の独立国家としての存在と誇りと名誉に掛けても受け入れることの出来ない“ハル・ノート”を日本に突きつけた。

今尚、大東亜戦争の開戦に非を唱える日本人に問う。

それでは、あの時、日本はどうすれば良かったのか?

開戦に踏み切る以外にベターな選択があったというなら教えてくれ。

どうすれば当時日本の独立を守ることが出来たのか?

そして、そのことで今より良い世界が開けたと思うのか?

その明確なる信念・根拠があってこそ先の開戦の非を唱える資格がある。ただ感情的に戦争を悪として開戦に踏み切った先人の行為を批判非難することは、散華された英霊の御霊(みたま)に対しても許されることではない。

特に生き残った元日本軍兵士及び戦後メディア、知識人?文化人?なる日本人の奇麗事には虫唾が走る。戦争の中を生きた立派な日本人の多くは戦死した。或いは責任をとり見事に自決した。

戦跡を訪ねる旅をしだして戦記本を読む機会が増えた。

しかしながら戦記や戦争物と言われる本は、欺瞞と自虐の精神で先人を辱め自らの立場を戦後の風潮に媚、守ることに汲々とした卑怯者たちが書く読むに耐えない物がほとんどだ。

中には自分の射撃の下手なことをあげて「そのお蔭で敵を殺すことが出来なかった・・・」と、それを「自らの善行」と言わんばかりに自慢げに書く元兵士の手記(Web上で公表)もある。

「敵を殺すことが出来なかった」ということは「戦友を自らの手で殺した」と同義であることさえ認識できない。その元兵士は今もって想像力も欠如し、更に最大の不幸は“恥知らず”であることだ。

こんな内容の本が戦後の日本に出版され、評価を得てきた事が今の腐った日本を象徴している。

「自分の国は自分で守る」

国家として、国民として、自国の安全保障を米国に委ね、人間として、いや動物としての最低の責任さえ放棄し、経済的豊かさだけに価値を求めてきた戦後の日本国と日本人。

その腐り切った“恥知らず”を、認めたくないばかりに戦争を悪とし、先人の英雄的奮戦を覆い隠す。或いは言葉巧みに過小評価する。

私は腐った国家の紛れも無い国民の一人であり、その腐らせた責任は等分にある。しかし、先人達の英雄的奮戦には万感の敬意を表し、我が民族の永久(とわ)の誇りとする。

我、満洲の戦跡を訪れ、佇み、感謝とお詫びをし、ご冥福を祈る。


皇紀2669年/平成21年6月11日(木).Age58(記)





  • 2009年5月12日、17:53:32<br /><br />ハルピン駅<br /><br />/////////////////////////////////////////<br /><br />2009.平成21年2月24日(火)<br /><br />■虎頭要塞へ行こう<br /><br /><br />我、大東亜戦争最後の激戦の地に行こうと思う。 <br /><br />関東軍は在留邦人を置き去りにして逃げた?それが戦後の日本では、定説のようにまかり通り、私も最近までその実状を知らないまま過ごして来たが、徐々にその当時のことを知るようになった。 <br /><br />昨年行った海拉爾もそうだ。関東軍は突如侵攻してきたソ連軍に対して現地将兵は最後までよく戦った。すでに大東亜戦争の大局は決し、関東軍精鋭はとっくに南方の戦地に移動した状況での守備隊の戦である。 <br /><br />勿論、あの時点でのソ連軍の侵攻を未然に予想出来なかった関東軍首脳部の責任は少なからずあるだろうが、その過ちを差し引いても余りある最前線の将兵たちの奮闘には敬意を表し感謝の念を禁じ得ない。 <br /><br />戦後平和ボケに安住し、米国の属国に甘んじる我々今の日本人は、当時の関東軍を非難することの前に、まず少しでも多くの事実を知り、今の日本国の有様を省み、自らの人生を省みろと言いたい。 <br /><br />昨年、長兄が虎頭に旅をし、続いて私も行きたくなった。<br />兄から借りた本が手元に二冊ある。 <br /><br />「ソ連が満洲に侵攻した夏」:半藤一利(著)<br />「麻山事件」:中村雪子(著) <br /><br />まだ読みかけで中々進まない。それは旅の準備をしようと思っていた矢先に、我が家の家系図を作ることになり、そっちの方により面白さが募り虎頭への準備は一端休止になってしまった。それに、はたまた「石光真清の手記」四巻を紹介してもらい、それが面白くて・・・。 <br /><br />今、やっとその四巻も読み終わり、家系図の件は二年がかりで作るつもりなので、これから並行して虎頭のことを計画しなければ、予定に間に合わず準備不足も否めず、今日やっと旅たち前のこの頁を作ることになった。 <br /><br />しかし「石光真清の手記」は日清・日露・そしてロシア革命(大正七年)当時までの満洲が舞台であり、大いに参考になり知らなかった多くのことが分かった。本としても最高に面白かった。 <br /><br />虎頭への旅:乞うご期待だが・・・今、私の仕事も世界同時大不況?の影響を受け絶不調也。旅の資金が大いに不安で、どうなることかと案じながらの計画である。 <br /><br />今現在の大雑把な計画では・・・。 <br /><br />大連から丹東、そして鴨緑江沿い、北朝鮮国境沿いに集安、長白、図們と行き、図們から牡丹江。そして虎頭へと行く。帰りは虎頭から牡丹江、そして大連に戻る。計12泊13日の旅を漠然と考えている。 <br /><br />さて・・・どうなることか? <br /><br /><br />//////////////////////////////////<br /><br />虎頭要塞・「第二次世界大戦:最後の激戦の地」 <br />フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』↓抜粋 <br /><br />虎頭要塞(ことうようさい)は、満州国(現在の中国黒龍江省虎林市虎頭鎮)に存在した要塞で、関東軍の対ソビエト連邦防衛の拠点の一つであった。要塞はウスリー河対岸のソ連領イマン(現在のダリネレチェンスク)を見渡せる高地を抱えており、長大な満ソ国境において唯一シベリア鉄道を視認できる戦略拠点であったといわれる。 <br /><br />1934年(S9)に建設が始まり、1939年(S14)に完成した。第5軍に属する第4国境守備隊が配置されており、ソ連軍の侵攻阻止と、シベリア鉄道・スターリン街道遮断を任務とした。そのため、九〇式二十四糎列車加農や試製四一糎榴弾砲など、大口径長射程の重砲を備えていた。太平洋戦争が始まってからも、対ソ戦を警戒していた陸軍によって軍備が増強されている。 <br /><br />帝国陸軍の要塞建設を察知したソ連は要塞の火砲の射程圏内にあると思われたウスリー河対岸のシベリア鉄道イマン鉄橋を国境より15キロ迂回させた。(イマン迂回鉄橋)シベリア鉄道が迂回されたことを危惧した帝国陸軍は陸軍最大の試製四一糎榴弾砲の配備を決定し、その搬入は秘匿のため夜間に行われた。 <br /><br />1943年(S18)後半以降、南方に守備兵力を引き抜かれ、1945年(S20)3月に第4国境守備隊も解体となる。その後、一時は臨時国境守備隊のみの状態となるが、7月に約1400名の第15国境守備隊が再配置される。 <br /><br />1945年8月9日のソ連対日宣戦布告により、守備隊とソ連陸軍の間で戦闘が勃発。守備隊長西脇武大佐は第5軍司令部に出張中で帰隊が不可能なため、砲兵隊指揮官大木正大尉が守備隊長代理として指揮を執る。周辺地域から、多数の在留民間邦人も虎頭要塞に避難した。 <br /><br />列車砲は通化への移動のため分解されており砲撃を行うことができなかったが、試製四一糎榴弾砲はシベリア鉄道イマン迂回線の鉄橋を砲撃し、さらに砲身が射耗するまでソ連軍に砲撃を続けた。 <br /><br />守備隊は絶望的な状況の中、8月15日に玉音放送を聞いたが謀略とみなす。17日、捕虜となっていた日本人5人が、ソ連軍の軍使として日本政府の無条件降伏を伝え、武装解除に応じるようにの停戦交渉を行うが謀略として拒否、将校の一人が軍使の一人であった在郷軍人会分会長を惨殺する。その後8月26日に陥落した。 <br /><br />死者約1800人(避難民含む、生存者は50名ほど)を10倍以上の戦力で攻勢をかけたソ連軍を相手に2週間以上戦闘を行った虎頭要塞の戦いは第二次世界大戦最後の激戦とされている。 <br /> <br />////////////////////////////以上<br /> <br />

    2009年5月12日、17:53:32

    ハルピン駅

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    2009.平成21年2月24日(火)

    ■虎頭要塞へ行こう


    我、大東亜戦争最後の激戦の地に行こうと思う。

    関東軍は在留邦人を置き去りにして逃げた?それが戦後の日本では、定説のようにまかり通り、私も最近までその実状を知らないまま過ごして来たが、徐々にその当時のことを知るようになった。

    昨年行った海拉爾もそうだ。関東軍は突如侵攻してきたソ連軍に対して現地将兵は最後までよく戦った。すでに大東亜戦争の大局は決し、関東軍精鋭はとっくに南方の戦地に移動した状況での守備隊の戦である。

    勿論、あの時点でのソ連軍の侵攻を未然に予想出来なかった関東軍首脳部の責任は少なからずあるだろうが、その過ちを差し引いても余りある最前線の将兵たちの奮闘には敬意を表し感謝の念を禁じ得ない。

    戦後平和ボケに安住し、米国の属国に甘んじる我々今の日本人は、当時の関東軍を非難することの前に、まず少しでも多くの事実を知り、今の日本国の有様を省み、自らの人生を省みろと言いたい。

    昨年、長兄が虎頭に旅をし、続いて私も行きたくなった。
    兄から借りた本が手元に二冊ある。

    「ソ連が満洲に侵攻した夏」:半藤一利(著)
    「麻山事件」:中村雪子(著)

    まだ読みかけで中々進まない。それは旅の準備をしようと思っていた矢先に、我が家の家系図を作ることになり、そっちの方により面白さが募り虎頭への準備は一端休止になってしまった。それに、はたまた「石光真清の手記」四巻を紹介してもらい、それが面白くて・・・。

    今、やっとその四巻も読み終わり、家系図の件は二年がかりで作るつもりなので、これから並行して虎頭のことを計画しなければ、予定に間に合わず準備不足も否めず、今日やっと旅たち前のこの頁を作ることになった。

    しかし「石光真清の手記」は日清・日露・そしてロシア革命(大正七年)当時までの満洲が舞台であり、大いに参考になり知らなかった多くのことが分かった。本としても最高に面白かった。

    虎頭への旅:乞うご期待だが・・・今、私の仕事も世界同時大不況?の影響を受け絶不調也。旅の資金が大いに不安で、どうなることかと案じながらの計画である。

    今現在の大雑把な計画では・・・。

    大連から丹東、そして鴨緑江沿い、北朝鮮国境沿いに集安、長白、図們と行き、図們から牡丹江。そして虎頭へと行く。帰りは虎頭から牡丹江、そして大連に戻る。計12泊13日の旅を漠然と考えている。

    さて・・・どうなることか?


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    虎頭要塞・「第二次世界大戦:最後の激戦の地」
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』↓抜粋

    虎頭要塞(ことうようさい)は、満州国(現在の中国黒龍江省虎林市虎頭鎮)に存在した要塞で、関東軍の対ソビエト連邦防衛の拠点の一つであった。要塞はウスリー河対岸のソ連領イマン(現在のダリネレチェンスク)を見渡せる高地を抱えており、長大な満ソ国境において唯一シベリア鉄道を視認できる戦略拠点であったといわれる。

    1934年(S9)に建設が始まり、1939年(S14)に完成した。第5軍に属する第4国境守備隊が配置されており、ソ連軍の侵攻阻止と、シベリア鉄道・スターリン街道遮断を任務とした。そのため、九〇式二十四糎列車加農や試製四一糎榴弾砲など、大口径長射程の重砲を備えていた。太平洋戦争が始まってからも、対ソ戦を警戒していた陸軍によって軍備が増強されている。

    帝国陸軍の要塞建設を察知したソ連は要塞の火砲の射程圏内にあると思われたウスリー河対岸のシベリア鉄道イマン鉄橋を国境より15キロ迂回させた。(イマン迂回鉄橋)シベリア鉄道が迂回されたことを危惧した帝国陸軍は陸軍最大の試製四一糎榴弾砲の配備を決定し、その搬入は秘匿のため夜間に行われた。

    1943年(S18)後半以降、南方に守備兵力を引き抜かれ、1945年(S20)3月に第4国境守備隊も解体となる。その後、一時は臨時国境守備隊のみの状態となるが、7月に約1400名の第15国境守備隊が再配置される。

    1945年8月9日のソ連対日宣戦布告により、守備隊とソ連陸軍の間で戦闘が勃発。守備隊長西脇武大佐は第5軍司令部に出張中で帰隊が不可能なため、砲兵隊指揮官大木正大尉が守備隊長代理として指揮を執る。周辺地域から、多数の在留民間邦人も虎頭要塞に避難した。

    列車砲は通化への移動のため分解されており砲撃を行うことができなかったが、試製四一糎榴弾砲はシベリア鉄道イマン迂回線の鉄橋を砲撃し、さらに砲身が射耗するまでソ連軍に砲撃を続けた。

    守備隊は絶望的な状況の中、8月15日に玉音放送を聞いたが謀略とみなす。17日、捕虜となっていた日本人5人が、ソ連軍の軍使として日本政府の無条件降伏を伝え、武装解除に応じるようにの停戦交渉を行うが謀略として拒否、将校の一人が軍使の一人であった在郷軍人会分会長を惨殺する。その後8月26日に陥落した。

    死者約1800人(避難民含む、生存者は50名ほど)を10倍以上の戦力で攻勢をかけたソ連軍を相手に2週間以上戦闘を行った虎頭要塞の戦いは第二次世界大戦最後の激戦とされている。

    ////////////////////////////以上

  • 2009年5月13日、12:14:42<br /><br />牡丹江駅<br /><br />///////////////////////////////////////<br /><br />2009.平成21年2月27日(金)<br /><br />■「ソ連が満洲に侵攻した夏」:半藤一利(著)を読む <br /><br />大東亜戦争、第二次世界大戦にとって最後の激戦と言われる虎頭の戦い。 <br /><br />昭和20年8月9日に満洲各地に侵攻したソ連軍に対して虎頭要塞に立て籠もった日本軍は8月15日の終戦後も戦い続け、8月26日にその戦いは要塞の陥落をもって終結した。 <br /><br />Web参照↓ <br /><br />『戦死者約1,800名死者(避難民含む、生存者は50名ほど)10倍以上の戦力で攻勢をかけたソ連軍を相手に2週間以上戦い抜いた。』 <br /><br />以上 <br /><br />その事を知る為にこの本を読んだ。この著者である半藤一利なる男を私は嫌悪する。「ノモンハンの夏」も読んだが、事実を知らしめるという客観性をひけらかし、反戦反軍の世相が覆う戦後社会に擦り寄る卑怯な偽善者でしかない。 <br /><br />ようするに今様の安っぽい似非平和主義者・進歩的知識人の類だというのが私の評価だ。日本が普通の国家になった暁には、今とは百八十度異なる評価で断罪される一人でしかない。 <br /><br />確かにこの本によって敗戦真近、敗戦後の関東軍の様子。そして戦争終結へ向けての日本の大本営中枢の様子をそれなりに窺い知ることは出来る。 <br /><br />しかしこの本の帯に書かれているのが「かくして百万邦人が見捨てられた」である。この言葉をもってしても関東軍及び日本軍の非道さを責めた内容であることが読まずして分かる。 <br /><br />半藤は1930年生まれとあるから敗戦の時は15歳か。どんな少年だったか知らないが、こんな輩たちが戦後の日本人を自虐史観に落とし込み、日本人としての誇りや自信を喪失させている。遠くない将来、彼の名声も?地に落ち恥をかくに違いない。そうでなければ命を賭して戦って来た先人が報われない。 <br /><br />何故?私がそこまで私が関東軍を庇い日本軍を庇うのか? <br /><br />私は詳しく調査した訳でもないし、資料なく、何も無い。あるのは先人に対しての感謝の念だけだ。その感謝の気持ちは、只感情的に「暗部を見ず」に「聞かずに知ろうとせず」に持っているのでは決してない。 <br /><br />半藤と比較すれば「月とスッポン」だろうが、それでも私の出来る範囲で本を読み、事実を知ろうとし知れば知るほど、ますます先人たち(日本軍)への畏敬の念は増す一方だ。 <br /><br />その根拠を一口で言えば、この関東軍の局地での戦いもそうだが、どんな小部隊と言えども最前線の兵士は最後まで立派に戦っている。 <br /><br />もし日本軍が、そして関東軍が半藤の言うように無様で卑怯な輩が牛耳っていた組織なら、最前線で敵と対峙する将官・一兵卒の心境はどうであろう。覚悟はどうであろう?それも、本隊と通信も途絶された中でも・・・誰が見ていなくても <br /><br />もし中枢に腐った人間が居座っていたなら、末端兵士は誰しも戦う意欲なく、ましてあそこまで果敢に最後まで戦うことは人間として考えられない。その一事をもってしても、日本軍及び関東軍首脳の愚かさばかりを問うのは的を得ていないと信じる。 <br /><br />歴史を振り返り「起承転結」を知った上での評価は、誰しも一見的を得た批判も非難も容易いものだ。 <br /><br />しかし人間は感情の動物である。例え命令に不備があっても戦略ミスがあっても、互いに信じる者たちは共に戦い抜ける。逆に結果的に落ち度のない命令でも信頼感がなければ誰しも命を懸けて戦えない。 <br /><br />それが人間だ。例えば私はこの半藤一利なる人物を嫌悪する。だからこの半藤がいくら正論とおぼしきことを言っても聞く耳は持たない。彼が上官なら軍部中枢の高級参謀なら命令を遵守する気持ちも湧かない。それが歴史を振り返って事象を判断する一番の目安になると私は思っている。 <br /><br />無論、だからと言って戦略ミスは許されるものではない。しかし、未曾有な大戦争の末期。情報も錯綜し全体も見えず、そんな状況の中ではどんなに立派な人物でも、如何なることが出来るのか?想像に余りある。 <br /><br />戦争の歴史を振り返り、冷静に客観的に戦術ミス、戦略ミスを研究し、次に生かすのは後に残った者の当然の責務であり、どんなに細かく分析してもし過ぎることはない。しかし先人の血を流した労苦に子孫がどう向き合うのか?その心持ちこそが全てだ。 <br /><br />日本軍が腐ったのは、そして日本という国や日本人が真に腐ったのは、終戦後だ。 <br /><br />醜く腐った。 <br /><br />GHQから手配された同胞である戦犯?を戦後の官憲が探し回った時に腐りはじめた。そして自虐史観がこの日本を覆いだした時からドンドン坂道を転げ落ちるように腐っていった。 <br /><br />それは、敗戦のその日まであれだけ気高く勇敢であったはずの元日本軍兵士たちも同様である。今や何も語れない散華した戦友や日本軍を自らの命を賭してトコトン庇うこともせず、その非を探しあげつらうほど醜い性根は無い。 <br /><br />戦争は犯罪ではない。 <br /><br />結果的に勝者と敗者が存在するが、私の心の中では、いつの時代も戦った両者に『真の敗者』は存在しない。 <br /><br />『真の敗者』とは <br /><br />国土を保全し、国民の生命と安全を守り、誇りと名誉と独立を保つ為に、戦うべき時に戦わない者だけが『真の敗者』である。 <br /><br />その上、元兵士や戦争を知らぬ日本人が、当時の敵国民に対し、まるで日本国、日本軍を代表するかのような態度で謝罪する言動は、過去現在未来の全ての日本国民及び日本軍兵士を犯罪者扱いする行為だ。恥を知れ、その罪万死に値する。 <br /><br />敗戦を境に日本国も日本人も醜く変わってしまった。 <br /><br />同胞が国家ともいえぬ国に拉致されながら放置している今こそ <br /><br />日本人は『真の敗者』になった。 <br /><br /><br />■大連→丹東経由ではなく <br /><br />三日前までは鴨緑江沿いにと思っていたが、あまりに距離があり過ぎ、去年のノモンハン行きと同じく哈爾濱からの出発とする。 <br /><br />そして牡丹江→綏芬河→東寧要塞→虎頭要塞→佳木斯→哈爾濱 <br /><br />今日の時点ではこんな経路になった。虎頭だけではなく東寧要塞でも激戦があったということを今日知ったから。そして、今日の夕方資料として図書館で「赤い月」なかにし礼(著)上下を借りて来た。 <br /><br />中西も似非平和主義者であり、反戦反軍思想の人間と思っているので本の内容も面白くないだろうという先入観を持って読む。それも又楽しみでもあるが・・・。 <br /><br />-------------------------------------------<br />2009.平成21年3月6日(金)<br /><br />■旅行の前に本を読む <br /><br />「赤い月」なかにし礼(著)・・・図書館で借りる <br /><br />(上)を読み掛けて途中で止めようと思ったが、これも参考の為に一応「上下」とも読んだ。 <br /><br />中西の今もっての反戦反軍思想を髣髴とさせる内容だ。そんな性分どおり当時の国家への非難が屁理屈と共にねちっこく書かれている。しかし読みながら分かった。この執拗なる関東軍非難、国家への責任追及の原因が。 <br /><br />それは彼の家庭の波乱万丈なることであり、戦後まで続く家族崩壊とも言える状況を中西自身は意識してか否かは知らず、全てを戦争のせいにし、満洲のせいにし、関東軍のせいにし、時代のせいにしている。 <br /><br />読んで私はそう感じた。ただ見苦しい奴だと。中西は7歳で牡丹江からの逃避行を体験している。両親が牡丹江で酒造会社を創立し、関東軍に引き立てられ大繁盛をした。母親は派手で子供たちへの愛情は深かったようだが、主人を裏切り、娘も一時は嫌悪していたようだ。 <br /><br />長男である中西の兄も戦後、特攻隊生き残りとして無事復員するが、博打と女で作詞家として名声と富を得ていた弟の中西に借金の肩代わりをさせ続けていたようだ。 <br /><br />周囲の反対も聞かず中西はそんな兄の借金を返済していた。それには敬意を表す、しかし最後には中西も兄弟の縁を切ったようだ。 <br /><br />中西の心の内には、それらのことがみんな満洲に込められ戦争にその責を負わせているのだろう。ふざけるな! <br /><br />「赤い月」にも書いているように・・・。 <br /><br />満洲は昭和20年8月になっても、米軍の飛行機が爆弾を落とすわけでもなく、ソ連の侵攻があるわけでもなく、不安を感じながらも「満洲だけは別」「満洲はすでに独立した国家」 <br /><br />満州には危機感と共に、そんな祈りにも似た気持ちがどこかにあったように思うと。 <br /><br />あってはならないが戦力を大幅に失っている関東軍それ自体も、そんな感情に嵌り込み、在留邦人もいささかの不安に目を瞑って何も起こらないままの日々がどこまでも過ぎることを願っていたのだろう。 <br /><br />中西一家は牡丹江で酒造会社で大儲けをし、終戦で牡丹江から苦難の引き揚げをする。しかし、ここでも口汚く関東軍を非難しながら自分たち一家も、その軍用列車に一般避難民とは別にコネで乗り込み脱出している。 <br /><br />哈爾濱では桃山小学校(現在:兆麟小学校)に一時避難していたようだ。 <br /><br /><br />■「麻山事件」中村雪子(著) <br /><br />昭和20年8月12日、満洲の東部、牡丹江の北東に位置する麻山で哈達河開拓団の婦女子四百数十名が自決した事件を書いた本だ。 <br /><br />1923年生まれの著者自身も哈爾濱からの引揚者で、戦後13年の歳月を掛け、関係者に緻密に取材して書かれている。それだけに詳細であり、何ら言葉を弄さずとも「事実」の重みがヒシヒシと伝わる内容だ。 <br /><br />その中に以下の文章がある↓以下・抜粋<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />戦後 元大本営作戦課長 天野正一少将の談 <br /><br />「開戦(日ソ)に先立ち132万余の居留民を内地に還送することは船腹その他の関係上不可能であり、朝鮮に下げることについても、いずれ米ソ軍の上陸によって戦場化することが必至であると見られていたほか、第一それに必要な食糧に対する目途がつかなかった」 <br /><br />国境戦より開拓団を動かすことは内外に大きな動揺を与え、ソビエトの対日開戦の導火線ともなりかねない状況だった。また開拓総局にも開拓団を後退させる意向はなく、中央の拓務省でもそのような意見は出ていなかった。 <br /><br />昭和20年に入るころから関東軍はソ連軍の侵攻を必至と考え、ひそかに最終的作戦計画を立て、撤退を開始していた。「敵の前進阻止遅滞のため特に一部の玉砕的敢闘を予期」し、その間に主力は後退して「適宜連京線以東、京図線以南の山地に集約し敵の侵攻を誘致破砕し」、長期持久戦をもって戦況を有利にする、という論理である。(関東軍対露作戦計画)<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上 <br /><br />↑、これが全てだと思う。 <br /><br />連京線以東、京図線以南・・・「連京図ライン」の範囲は、大連・新京(長春)・図們・中朝国境で囲まれた三角地帯で、朝鮮国境でソ連軍を防御するという戦略だ。 <br /><br />この作戦計画によって関東軍は動き、作戦通り各地で兵士は敢闘した。 <br /><br />在留邦人は結果的に関東軍からも日本政府からも見放されたのかもしれない。しかし、これが戦いに敗れるということなのだ。「じゃあ、あの時点でどうすれば、良かった。」・・・今の私にはそれしか思い浮かばない。 <br /><br />そして私の気持ちは、それでも「大東亜戦争、良くぞ戦えり」である。そして戦う以上、絶対に負けてはならないと改めて思う。 <br /><br /><br />■「麻山事件」中村雪子(著)No2 <br /><br />沖縄の集団自決を著しく捻じ曲げた大江健三郎の「沖縄ノート」とは違い、この本は「真実をどこまでも突き詰めようとする記録」という感じで説得力がある。 <br /><br />戦後の思考停止の反軍自虐史観の覆う日本社会で、戦前戦中の出来事が意図的に感情的に歪められ、亡くなった者、そして関係者の多くの遺族も苦しめられている。 <br /><br />そんな中でこの本を、良くぞ残してくれたと著者に感謝したい。この一冊のお蔭で、この麻山事件は今後も誰の手による捏造も許さず、誤った風聞にも晒されることなく歴史にこのことを刻むことが出来る。 <br /><br />以下、219頁:著者の言葉の抜粋する↓<br />・・・・・・・・・・・・・・・・ <br /><br />中央集団において、死出の旅を先導すると言い、おのれを範とせよと従容として先頭をきって自決した貝沼団長に対して、「団長は大集合の長として、人々の最期を見とった後に死すべきであった」とする人々がいる。 <br /><br />それも一つの理(ことわり)かと思う。 <br /><br />しかし敵を間近に控えて、さまざまの思いを持つ中央集団4百余名が(多少の狂気、混乱のあったことは当然としても)一つの意志のもとに整然とその死をまっとうし得たことは、団長の人柄にも加えて、笛田道雄が米子の死を評価したように「リーダーとしての自覚」が強くあったからではないか。多少でも「麻山」を知ることのできた筆者は、貝沼団長のとった行動を納得したい。 <br /><br />戦後百八十度転回した視点をもって当時の日本人の死生観を云々するならば、それはまた別の問題であろう。 <br /><br />・・・・・・・以上 <br /><br />当時の様子を体感できず、戦後に生まれ育った我々には想像にも及ばない状況に置かれた人たちのことを、安易に非難することは愚かであり、冥福を祈るのみである。 <br /><br />そして又将来において自分たちがそのような境遇に立ち至った時に、どのように対処できるのか?其れもまたその場に立ってみないと分からない。 <br /><br />以下は、↓177頁:自決現場に立ち会った及川瀬冶の記録<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ <br /><br />中央集団にいた及川瀬冶が貝沼団長の言葉を記録している。 <br /><br />「前方にはソ連機械化部隊が砲門を開き、後方にはまたソ連戦車が迫っている。日本軍さえ敗走するこの状態の中で、脱出する道は殆ど断たれたといってよい。若し脱出するにしても全員が行動を共にすることは先ず不可能であると思う。 <br /><br />この際自分には二つの方法しか考えられぬ。その一つは、入植以来一家のように親しんできた人達がつらいことだとは思うがばらばらになって脱出することである。もう一つの道は生きるも死ぬも最後まで行動を共にすることである。何れを取ったら良いか意見があったら聞かせてほしい」(『麻山の夕日に心あらば』) <br /><br />重苦しい沈黙が人々の間を流れた。やがて嗚咽と慟哭が津波のように広がって、その中から、「私たちを殺して下さい」と、まず女たちが声ををあげた。 <br /><br />同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。<br />「自決しよう」<br />「日本人らしく死のう」<br />「沖縄の例にならえ」<br />「死んで護国の鬼となるんだ」 <br /><br />そんな言葉が次々と発せられた。<br />・・・・・・・・・・・・・・・以上 <br /><br />すでに沖縄の集団自決のことは哈達河(ハタホ)開拓団のみんなも知っていたことが分かる。そして、その当時の日本人の気持ちが上記の言葉に表れている。 <br /><br />その切羽詰った状況の中で、彼らが決断した「日本人らしい死」に対して私は最大限の敬意を払い、同じ日本人として誇りに思う。 <br /><br /><br />■石光真清の手記(四部作) <br /><br />「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」 <br /><br />この四部作を辿る旅をしているホームページを見つけた。ここに記す。 <br /><br />「曠野の花」 <br />http://bugugangsi.seesaa.net/archives/20060319-1.html<br /><br />明治元年生まれの石光真清の上記四部作の手記を読んだ。メチャ面白かった。黒河とブラゴヴェヒチェンスク、黒龍江を挟んで支那とロシア、そこを中心に哈爾濱をはじめ満洲・ロシアで諜報活動をしていた男の手記。 <br /><br />来年は黒河に行きたい。出来ればブラゴヴェヒチェンスクにも・・・。 <br /><br />しかし石光の行動範囲は満洲全土に及び哈爾濱、磨刀石、綏芬河、等々至る所にある。今回の旅でも可能な限り訪ねて見たい。 <br /><br /><br />■旅程が度々変わる <br /><br />出発:5月12日(火)〜5月23日(土)の11泊12日とする。これは関空⇔哈爾濱の直行便が中国南方航空で、毎週(火)(土)の2便しか就航していない。昨年のノモンハン5月13日(火)出発と一日違うだけ。 <br /><br />航空券は長男が南方航空のマイルがあるので、それを割安で譲ってもらう。 <br /><br />現在時の旅程 <br /><br />哈爾濱→牡丹江→磨刀石→綏芬河→東寧要塞→虎林→虎頭要塞→哈達河→麻山→哈爾濱 <br /><br />何処に泊まって、どう行くのか?行けるのか?今のところ白紙。哈爾濱のホテルは去年の曼哈頓商務酒店に泊まりたい・・・が。 <br /><br />「戦跡を訪ねて」という目的があるので、本をよく読む。これも私にとって旅であり旅の効果だ。 <br /><br />「われは銃火にまだ死なず(磨刀石)」<br />「ソ満国境 虎頭要塞―第二次大戦「最後」の激戦地」<br />アマゾンで購入、まだ未着。 <br /><br />「関東軍東寧戦記」という本は「ホームページ自費出版図書館」 から借りることになった。東寧要塞のことはWeb頁にも殆ど見当たらず、この一冊が見つかった。貸出料金一冊¥480円+送料。 <br /><br />それにWeb頁にも凄い沢山の読み物や資料がある。 <br /><br />岡崎溪子さんの以下のブログも内容も素晴らしく参考になる <br /><br />http://archive.mag2.com/0000139973/20040921031000000.html<br /><br />第98話 満洲国の終焉  その1 関東軍かく戦えり     <br /><br />

    2009年5月13日、12:14:42

    牡丹江駅

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    2009.平成21年2月27日(金)

    ■「ソ連が満洲に侵攻した夏」:半藤一利(著)を読む

    大東亜戦争、第二次世界大戦にとって最後の激戦と言われる虎頭の戦い。

    昭和20年8月9日に満洲各地に侵攻したソ連軍に対して虎頭要塞に立て籠もった日本軍は8月15日の終戦後も戦い続け、8月26日にその戦いは要塞の陥落をもって終結した。

    Web参照↓

    『戦死者約1,800名死者(避難民含む、生存者は50名ほど)10倍以上の戦力で攻勢をかけたソ連軍を相手に2週間以上戦い抜いた。』

    以上

    その事を知る為にこの本を読んだ。この著者である半藤一利なる男を私は嫌悪する。「ノモンハンの夏」も読んだが、事実を知らしめるという客観性をひけらかし、反戦反軍の世相が覆う戦後社会に擦り寄る卑怯な偽善者でしかない。

    ようするに今様の安っぽい似非平和主義者・進歩的知識人の類だというのが私の評価だ。日本が普通の国家になった暁には、今とは百八十度異なる評価で断罪される一人でしかない。

    確かにこの本によって敗戦真近、敗戦後の関東軍の様子。そして戦争終結へ向けての日本の大本営中枢の様子をそれなりに窺い知ることは出来る。

    しかしこの本の帯に書かれているのが「かくして百万邦人が見捨てられた」である。この言葉をもってしても関東軍及び日本軍の非道さを責めた内容であることが読まずして分かる。

    半藤は1930年生まれとあるから敗戦の時は15歳か。どんな少年だったか知らないが、こんな輩たちが戦後の日本人を自虐史観に落とし込み、日本人としての誇りや自信を喪失させている。遠くない将来、彼の名声も?地に落ち恥をかくに違いない。そうでなければ命を賭して戦って来た先人が報われない。

    何故?私がそこまで私が関東軍を庇い日本軍を庇うのか?

    私は詳しく調査した訳でもないし、資料なく、何も無い。あるのは先人に対しての感謝の念だけだ。その感謝の気持ちは、只感情的に「暗部を見ず」に「聞かずに知ろうとせず」に持っているのでは決してない。

    半藤と比較すれば「月とスッポン」だろうが、それでも私の出来る範囲で本を読み、事実を知ろうとし知れば知るほど、ますます先人たち(日本軍)への畏敬の念は増す一方だ。

    その根拠を一口で言えば、この関東軍の局地での戦いもそうだが、どんな小部隊と言えども最前線の兵士は最後まで立派に戦っている。

    もし日本軍が、そして関東軍が半藤の言うように無様で卑怯な輩が牛耳っていた組織なら、最前線で敵と対峙する将官・一兵卒の心境はどうであろう。覚悟はどうであろう?それも、本隊と通信も途絶された中でも・・・誰が見ていなくても

    もし中枢に腐った人間が居座っていたなら、末端兵士は誰しも戦う意欲なく、ましてあそこまで果敢に最後まで戦うことは人間として考えられない。その一事をもってしても、日本軍及び関東軍首脳の愚かさばかりを問うのは的を得ていないと信じる。

    歴史を振り返り「起承転結」を知った上での評価は、誰しも一見的を得た批判も非難も容易いものだ。

    しかし人間は感情の動物である。例え命令に不備があっても戦略ミスがあっても、互いに信じる者たちは共に戦い抜ける。逆に結果的に落ち度のない命令でも信頼感がなければ誰しも命を懸けて戦えない。

    それが人間だ。例えば私はこの半藤一利なる人物を嫌悪する。だからこの半藤がいくら正論とおぼしきことを言っても聞く耳は持たない。彼が上官なら軍部中枢の高級参謀なら命令を遵守する気持ちも湧かない。それが歴史を振り返って事象を判断する一番の目安になると私は思っている。

    無論、だからと言って戦略ミスは許されるものではない。しかし、未曾有な大戦争の末期。情報も錯綜し全体も見えず、そんな状況の中ではどんなに立派な人物でも、如何なることが出来るのか?想像に余りある。

    戦争の歴史を振り返り、冷静に客観的に戦術ミス、戦略ミスを研究し、次に生かすのは後に残った者の当然の責務であり、どんなに細かく分析してもし過ぎることはない。しかし先人の血を流した労苦に子孫がどう向き合うのか?その心持ちこそが全てだ。

    日本軍が腐ったのは、そして日本という国や日本人が真に腐ったのは、終戦後だ。

    醜く腐った。

    GHQから手配された同胞である戦犯?を戦後の官憲が探し回った時に腐りはじめた。そして自虐史観がこの日本を覆いだした時からドンドン坂道を転げ落ちるように腐っていった。

    それは、敗戦のその日まであれだけ気高く勇敢であったはずの元日本軍兵士たちも同様である。今や何も語れない散華した戦友や日本軍を自らの命を賭してトコトン庇うこともせず、その非を探しあげつらうほど醜い性根は無い。

    戦争は犯罪ではない。

    結果的に勝者と敗者が存在するが、私の心の中では、いつの時代も戦った両者に『真の敗者』は存在しない。

    『真の敗者』とは

    国土を保全し、国民の生命と安全を守り、誇りと名誉と独立を保つ為に、戦うべき時に戦わない者だけが『真の敗者』である。

    その上、元兵士や戦争を知らぬ日本人が、当時の敵国民に対し、まるで日本国、日本軍を代表するかのような態度で謝罪する言動は、過去現在未来の全ての日本国民及び日本軍兵士を犯罪者扱いする行為だ。恥を知れ、その罪万死に値する。

    敗戦を境に日本国も日本人も醜く変わってしまった。

    同胞が国家ともいえぬ国に拉致されながら放置している今こそ

    日本人は『真の敗者』になった。


    ■大連→丹東経由ではなく

    三日前までは鴨緑江沿いにと思っていたが、あまりに距離があり過ぎ、去年のノモンハン行きと同じく哈爾濱からの出発とする。

    そして牡丹江→綏芬河→東寧要塞→虎頭要塞→佳木斯→哈爾濱

    今日の時点ではこんな経路になった。虎頭だけではなく東寧要塞でも激戦があったということを今日知ったから。そして、今日の夕方資料として図書館で「赤い月」なかにし礼(著)上下を借りて来た。

    中西も似非平和主義者であり、反戦反軍思想の人間と思っているので本の内容も面白くないだろうという先入観を持って読む。それも又楽しみでもあるが・・・。

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    2009.平成21年3月6日(金)

    ■旅行の前に本を読む

    「赤い月」なかにし礼(著)・・・図書館で借りる

    (上)を読み掛けて途中で止めようと思ったが、これも参考の為に一応「上下」とも読んだ。

    中西の今もっての反戦反軍思想を髣髴とさせる内容だ。そんな性分どおり当時の国家への非難が屁理屈と共にねちっこく書かれている。しかし読みながら分かった。この執拗なる関東軍非難、国家への責任追及の原因が。

    それは彼の家庭の波乱万丈なることであり、戦後まで続く家族崩壊とも言える状況を中西自身は意識してか否かは知らず、全てを戦争のせいにし、満洲のせいにし、関東軍のせいにし、時代のせいにしている。

    読んで私はそう感じた。ただ見苦しい奴だと。中西は7歳で牡丹江からの逃避行を体験している。両親が牡丹江で酒造会社を創立し、関東軍に引き立てられ大繁盛をした。母親は派手で子供たちへの愛情は深かったようだが、主人を裏切り、娘も一時は嫌悪していたようだ。

    長男である中西の兄も戦後、特攻隊生き残りとして無事復員するが、博打と女で作詞家として名声と富を得ていた弟の中西に借金の肩代わりをさせ続けていたようだ。

    周囲の反対も聞かず中西はそんな兄の借金を返済していた。それには敬意を表す、しかし最後には中西も兄弟の縁を切ったようだ。

    中西の心の内には、それらのことがみんな満洲に込められ戦争にその責を負わせているのだろう。ふざけるな!

    「赤い月」にも書いているように・・・。

    満洲は昭和20年8月になっても、米軍の飛行機が爆弾を落とすわけでもなく、ソ連の侵攻があるわけでもなく、不安を感じながらも「満洲だけは別」「満洲はすでに独立した国家」

    満州には危機感と共に、そんな祈りにも似た気持ちがどこかにあったように思うと。

    あってはならないが戦力を大幅に失っている関東軍それ自体も、そんな感情に嵌り込み、在留邦人もいささかの不安に目を瞑って何も起こらないままの日々がどこまでも過ぎることを願っていたのだろう。

    中西一家は牡丹江で酒造会社で大儲けをし、終戦で牡丹江から苦難の引き揚げをする。しかし、ここでも口汚く関東軍を非難しながら自分たち一家も、その軍用列車に一般避難民とは別にコネで乗り込み脱出している。

    哈爾濱では桃山小学校(現在:兆麟小学校)に一時避難していたようだ。


    ■「麻山事件」中村雪子(著)

    昭和20年8月12日、満洲の東部、牡丹江の北東に位置する麻山で哈達河開拓団の婦女子四百数十名が自決した事件を書いた本だ。

    1923年生まれの著者自身も哈爾濱からの引揚者で、戦後13年の歳月を掛け、関係者に緻密に取材して書かれている。それだけに詳細であり、何ら言葉を弄さずとも「事実」の重みがヒシヒシと伝わる内容だ。

    その中に以下の文章がある↓以下・抜粋
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    戦後 元大本営作戦課長 天野正一少将の談

    「開戦(日ソ)に先立ち132万余の居留民を内地に還送することは船腹その他の関係上不可能であり、朝鮮に下げることについても、いずれ米ソ軍の上陸によって戦場化することが必至であると見られていたほか、第一それに必要な食糧に対する目途がつかなかった」

    国境戦より開拓団を動かすことは内外に大きな動揺を与え、ソビエトの対日開戦の導火線ともなりかねない状況だった。また開拓総局にも開拓団を後退させる意向はなく、中央の拓務省でもそのような意見は出ていなかった。

    昭和20年に入るころから関東軍はソ連軍の侵攻を必至と考え、ひそかに最終的作戦計画を立て、撤退を開始していた。「敵の前進阻止遅滞のため特に一部の玉砕的敢闘を予期」し、その間に主力は後退して「適宜連京線以東、京図線以南の山地に集約し敵の侵攻を誘致破砕し」、長期持久戦をもって戦況を有利にする、という論理である。(関東軍対露作戦計画)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上

    ↑、これが全てだと思う。

    連京線以東、京図線以南・・・「連京図ライン」の範囲は、大連・新京(長春)・図們・中朝国境で囲まれた三角地帯で、朝鮮国境でソ連軍を防御するという戦略だ。

    この作戦計画によって関東軍は動き、作戦通り各地で兵士は敢闘した。

    在留邦人は結果的に関東軍からも日本政府からも見放されたのかもしれない。しかし、これが戦いに敗れるということなのだ。「じゃあ、あの時点でどうすれば、良かった。」・・・今の私にはそれしか思い浮かばない。

    そして私の気持ちは、それでも「大東亜戦争、良くぞ戦えり」である。そして戦う以上、絶対に負けてはならないと改めて思う。


    ■「麻山事件」中村雪子(著)No2

    沖縄の集団自決を著しく捻じ曲げた大江健三郎の「沖縄ノート」とは違い、この本は「真実をどこまでも突き詰めようとする記録」という感じで説得力がある。

    戦後の思考停止の反軍自虐史観の覆う日本社会で、戦前戦中の出来事が意図的に感情的に歪められ、亡くなった者、そして関係者の多くの遺族も苦しめられている。

    そんな中でこの本を、良くぞ残してくれたと著者に感謝したい。この一冊のお蔭で、この麻山事件は今後も誰の手による捏造も許さず、誤った風聞にも晒されることなく歴史にこのことを刻むことが出来る。

    以下、219頁:著者の言葉の抜粋する↓
    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    中央集団において、死出の旅を先導すると言い、おのれを範とせよと従容として先頭をきって自決した貝沼団長に対して、「団長は大集合の長として、人々の最期を見とった後に死すべきであった」とする人々がいる。

    それも一つの理(ことわり)かと思う。

    しかし敵を間近に控えて、さまざまの思いを持つ中央集団4百余名が(多少の狂気、混乱のあったことは当然としても)一つの意志のもとに整然とその死をまっとうし得たことは、団長の人柄にも加えて、笛田道雄が米子の死を評価したように「リーダーとしての自覚」が強くあったからではないか。多少でも「麻山」を知ることのできた筆者は、貝沼団長のとった行動を納得したい。

    戦後百八十度転回した視点をもって当時の日本人の死生観を云々するならば、それはまた別の問題であろう。

    ・・・・・・・以上

    当時の様子を体感できず、戦後に生まれ育った我々には想像にも及ばない状況に置かれた人たちのことを、安易に非難することは愚かであり、冥福を祈るのみである。

    そして又将来において自分たちがそのような境遇に立ち至った時に、どのように対処できるのか?其れもまたその場に立ってみないと分からない。

    以下は、↓177頁:自決現場に立ち会った及川瀬冶の記録
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    中央集団にいた及川瀬冶が貝沼団長の言葉を記録している。

    「前方にはソ連機械化部隊が砲門を開き、後方にはまたソ連戦車が迫っている。日本軍さえ敗走するこの状態の中で、脱出する道は殆ど断たれたといってよい。若し脱出するにしても全員が行動を共にすることは先ず不可能であると思う。

    この際自分には二つの方法しか考えられぬ。その一つは、入植以来一家のように親しんできた人達がつらいことだとは思うがばらばらになって脱出することである。もう一つの道は生きるも死ぬも最後まで行動を共にすることである。何れを取ったら良いか意見があったら聞かせてほしい」(『麻山の夕日に心あらば』)

    重苦しい沈黙が人々の間を流れた。やがて嗚咽と慟哭が津波のように広がって、その中から、「私たちを殺して下さい」と、まず女たちが声ををあげた。

    同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。
    「自決しよう」
    「日本人らしく死のう」
    「沖縄の例にならえ」
    「死んで護国の鬼となるんだ」

    そんな言葉が次々と発せられた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・以上

    すでに沖縄の集団自決のことは哈達河(ハタホ)開拓団のみんなも知っていたことが分かる。そして、その当時の日本人の気持ちが上記の言葉に表れている。

    その切羽詰った状況の中で、彼らが決断した「日本人らしい死」に対して私は最大限の敬意を払い、同じ日本人として誇りに思う。


    ■石光真清の手記(四部作)

    「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」

    この四部作を辿る旅をしているホームページを見つけた。ここに記す。

    「曠野の花」
    http://bugugangsi.seesaa.net/archives/20060319-1.html

    明治元年生まれの石光真清の上記四部作の手記を読んだ。メチャ面白かった。黒河とブラゴヴェヒチェンスク、黒龍江を挟んで支那とロシア、そこを中心に哈爾濱をはじめ満洲・ロシアで諜報活動をしていた男の手記。

    来年は黒河に行きたい。出来ればブラゴヴェヒチェンスクにも・・・。

    しかし石光の行動範囲は満洲全土に及び哈爾濱、磨刀石、綏芬河、等々至る所にある。今回の旅でも可能な限り訪ねて見たい。


    ■旅程が度々変わる

    出発:5月12日(火)〜5月23日(土)の11泊12日とする。これは関空⇔哈爾濱の直行便が中国南方航空で、毎週(火)(土)の2便しか就航していない。昨年のノモンハン5月13日(火)出発と一日違うだけ。

    航空券は長男が南方航空のマイルがあるので、それを割安で譲ってもらう。

    現在時の旅程

    哈爾濱→牡丹江→磨刀石→綏芬河→東寧要塞→虎林→虎頭要塞→哈達河→麻山→哈爾濱

    何処に泊まって、どう行くのか?行けるのか?今のところ白紙。哈爾濱のホテルは去年の曼哈頓商務酒店に泊まりたい・・・が。

    「戦跡を訪ねて」という目的があるので、本をよく読む。これも私にとって旅であり旅の効果だ。

    「われは銃火にまだ死なず(磨刀石)」
    「ソ満国境 虎頭要塞―第二次大戦「最後」の激戦地」
    アマゾンで購入、まだ未着。

    「関東軍東寧戦記」という本は「ホームページ自費出版図書館」 から借りることになった。東寧要塞のことはWeb頁にも殆ど見当たらず、この一冊が見つかった。貸出料金一冊¥480円+送料。

    それにWeb頁にも凄い沢山の読み物や資料がある。

    岡崎溪子さんの以下のブログも内容も素晴らしく参考になる

    http://archive.mag2.com/0000139973/20040921031000000.html

    第98話 満洲国の終焉  その1 関東軍かく戦えり    

  • 2009年5月13日、15:51:04<br /><br />牡丹江から太平路を写す<br />////////////////////////////////////////<br /><br />2009.平成21年3月18日(木)<br /><br />■次々と知る <br /><br />大東亜戦争最後の激戦地「虎頭要塞」への旅を調べ始めてから、東寧要塞も最後の激戦地であることが分かり、磨刀石での幹部候補生たちの死闘も知った。 <br /><br />それに麻山事件、東安駅(密山駅)の爆破事件も知ることになる。 <br /><br />///////////////////////////<br /><br />以下Web↓抜粋<br /><br />東安駅爆発事件(密山駅) <br />東安駅に着いた避難列車は、開戦初日の9日午後3時ごろ虎林周辺の避難民800余人を乗せて牡丹江に向けて虎林駅を出発した。列車は何度も止まって東安駅に着いたのは夜の10時頃。駅舎に最も近い一番線ホームに停車したが、他のホームの列車は次々と発車していくのに、なぜかこの避難列車は止まったままで夜が明けた。 <br /><br />その内駅員が駅舎に火を放ち、その余熱で一番線ホームの列車にはいられなくなる。避難民たちは中央のホームの東安周辺の避難民や最後に脱出する駅員たちのために仕立てられた避難列車に乗り移った。約30両のほとんどが無蓋貨車だった。すぐ発車するはずだったのが、長い連結の上に避難民を満載していたためかなかなか発車できない。 <br /><br />爆発が起きたのは午前7時頃。一番外側の13番線ホームに野積みにされていた約30トンの爆薬に、撤退する軍が火をつけたのだ。混乱の中で、避難列車はすでに発車したと勘違いしたらしい。次々と誘爆を起こし、その爆風が避難列車を襲った。 <br /><br />虎林近くに入植していた石川県出身者が中心の黒咀子(こくそこ)開拓団員だけでも死者行方不明158人を出しており、死傷者数百人というだけで正確な犠牲者数は今に至るまで不明のままである。 <br /><br /><br />上官の命令で点火!元関東軍兵士の証言  <br />東安駅爆破事件<br />http://kojima.boy.jp/page007_1_mituzan_syougen.html <br /> <br />//////////////////////////////////////抜粋終わり<br /><br />--------------------------<br />2009.平成21年3月26日(木)<br /><br />■牡丹江中国国際旅行社 <br /><br />5月12日の関空⇒哈爾濱の直行便の航空券の予約が出来、旅程も決まったので牡丹江中国国際旅行社へ電話を掛ける <br /><br />昨日ホーム頁を見れば「日韓部」という部署があり、そこにEメールアドレスがあったのでホテルの予約を頼むメールを送信したが届かなかった。 <br /><br />今日、そこに電話をして「我是日本人」と言うと、すぐに傍にいるのか日本語ガイドの権香玉さんが代わって出てくれた。権香玉さんは満洲の戦跡を訪ねる日本人のガイド沢山しているようで、いろんなホーム頁で紹介されている。 <br /><br />そんなことで、この旅行社に今回は連絡してみた。権香玉さんにメールが届かないことを言い、アドレスを確認したら、やはり旅行社のHPのアドレスが間違っていた。 <br /><br />×「quanxiangyu@hotmai.com」⇒ ○「quanxiangyu@hotmail.co.jp」 <br /><br />ホテルの予約を頼んだ。そして旅程も決まった。 <br /><br />5月12日(火)哈爾濱<br />5月13日(水)牡丹江<br />5月14日(木)牡丹江・磨刀石<br />5月15日(金)東寧<br />5月16日(土)東寧<br />5月17日(日)綏芬河<br />5月18日(月)虎頭<br />5月19日(火)虎頭<br />5月20日(水)密山<br />5月21日(木)麻山・牡丹江<br />5月22日(金)哈爾濱<br />5月23日(土)哈爾濱〜関空 <br /><br />////////////////////////////// <br /><br />権香玉さんからの返事<br /><br />2009年3月26日 16:14 <br /><br />こんにちは。<br />私は牡丹江中国国際旅行社 日本部の権香玉です。メールが届きました。ありがとうございます。内容はすべて了解いたしました。 <br /><br />すみませんが、14日は私はもう日程が入っていまので、案内はできません。もし、ほかのガイドでもほしい場合はおっしゃってください。中国語がそれぐらいの水準でしたら、多分問題ないと思います。 <br /><br />私は明後日から出張で大体一週間ぐらいかかりますが、ホテルの予約は帰ってから確認いたします。時間的にまだ大丈夫です。申し訳ございませんが、しばらくお待ちしていただけませんでしょうか?ありがとうございます。 <br /><br />********************************** <br /><br />牡丹江中国国際旅行社有限責任公司 <br /><br />日本部  権香玉  H.P: 138-4534-8266 <br /><br />TEL:0453-6911924 FAX:0453-6950064 <br /><br />〒157000 黒龍江省牡丹江市景福街34番 <br /><br />http://www.citsmdj.com.cn/index1.asp<br />********************************** <br /><br />

    2009年5月13日、15:51:04

    牡丹江から太平路を写す
    ////////////////////////////////////////

    2009.平成21年3月18日(木)

    ■次々と知る

    大東亜戦争最後の激戦地「虎頭要塞」への旅を調べ始めてから、東寧要塞も最後の激戦地であることが分かり、磨刀石での幹部候補生たちの死闘も知った。

    それに麻山事件、東安駅(密山駅)の爆破事件も知ることになる。

    ///////////////////////////

    以下Web↓抜粋

    東安駅爆発事件(密山駅)
    東安駅に着いた避難列車は、開戦初日の9日午後3時ごろ虎林周辺の避難民800余人を乗せて牡丹江に向けて虎林駅を出発した。列車は何度も止まって東安駅に着いたのは夜の10時頃。駅舎に最も近い一番線ホームに停車したが、他のホームの列車は次々と発車していくのに、なぜかこの避難列車は止まったままで夜が明けた。

    その内駅員が駅舎に火を放ち、その余熱で一番線ホームの列車にはいられなくなる。避難民たちは中央のホームの東安周辺の避難民や最後に脱出する駅員たちのために仕立てられた避難列車に乗り移った。約30両のほとんどが無蓋貨車だった。すぐ発車するはずだったのが、長い連結の上に避難民を満載していたためかなかなか発車できない。

    爆発が起きたのは午前7時頃。一番外側の13番線ホームに野積みにされていた約30トンの爆薬に、撤退する軍が火をつけたのだ。混乱の中で、避難列車はすでに発車したと勘違いしたらしい。次々と誘爆を起こし、その爆風が避難列車を襲った。

    虎林近くに入植していた石川県出身者が中心の黒咀子(こくそこ)開拓団員だけでも死者行方不明158人を出しており、死傷者数百人というだけで正確な犠牲者数は今に至るまで不明のままである。


    上官の命令で点火!元関東軍兵士の証言 
    東安駅爆破事件
    http://kojima.boy.jp/page007_1_mituzan_syougen.html

    //////////////////////////////////////抜粋終わり

    --------------------------
    2009.平成21年3月26日(木)

    ■牡丹江中国国際旅行社

    5月12日の関空⇒哈爾濱の直行便の航空券の予約が出来、旅程も決まったので牡丹江中国国際旅行社へ電話を掛ける

    昨日ホーム頁を見れば「日韓部」という部署があり、そこにEメールアドレスがあったのでホテルの予約を頼むメールを送信したが届かなかった。

    今日、そこに電話をして「我是日本人」と言うと、すぐに傍にいるのか日本語ガイドの権香玉さんが代わって出てくれた。権香玉さんは満洲の戦跡を訪ねる日本人のガイド沢山しているようで、いろんなホーム頁で紹介されている。

    そんなことで、この旅行社に今回は連絡してみた。権香玉さんにメールが届かないことを言い、アドレスを確認したら、やはり旅行社のHPのアドレスが間違っていた。

    ×「quanxiangyu@hotmai.com」⇒ ○「quanxiangyu@hotmail.co.jp」

    ホテルの予約を頼んだ。そして旅程も決まった。

    5月12日(火)哈爾濱
    5月13日(水)牡丹江
    5月14日(木)牡丹江・磨刀石
    5月15日(金)東寧
    5月16日(土)東寧
    5月17日(日)綏芬河
    5月18日(月)虎頭
    5月19日(火)虎頭
    5月20日(水)密山
    5月21日(木)麻山・牡丹江
    5月22日(金)哈爾濱
    5月23日(土)哈爾濱〜関空

    //////////////////////////////

    権香玉さんからの返事

    2009年3月26日 16:14

    こんにちは。
    私は牡丹江中国国際旅行社 日本部の権香玉です。メールが届きました。ありがとうございます。内容はすべて了解いたしました。

    すみませんが、14日は私はもう日程が入っていまので、案内はできません。もし、ほかのガイドでもほしい場合はおっしゃってください。中国語がそれぐらいの水準でしたら、多分問題ないと思います。

    私は明後日から出張で大体一週間ぐらいかかりますが、ホテルの予約は帰ってから確認いたします。時間的にまだ大丈夫です。申し訳ございませんが、しばらくお待ちしていただけませんでしょうか?ありがとうございます。

    **********************************

    牡丹江中国国際旅行社有限責任公司

    日本部  権香玉  H.P: 138-4534-8266

    TEL:0453-6911924 FAX:0453-6950064

    〒157000 黒龍江省牡丹江市景福街34番

    http://www.citsmdj.com.cn/index1.asp
    **********************************

  • 2009年5月13日、17:46:04<br /><br />牡丹江・北山公園から市街を望む<br />///////////////////////////////////////<br /><br />2009.平成21年4月1日(水)<br /><br />■関空⇔哈爾濱:航空券 <br /><br />中国南方航空 <br /><br />5月12日(火) CZ696 関西−ハルピン 13:10−15:10<br />5月23日(土) CZ695 ハルピン−関西 08:10−12:10 <br /><br />無料航空券(マイレージ):20000マイル引落し<br />関空使用料:¥2,650−<br />国際線燃油料:¥1,000−<br />空港税:¥1,280−<br />航空保険料:¥800−<br />合計:¥5,730− <br /><br />長男のマイレージを譲ってもらい上記の諸費用を振り込み航空券の手配も完了した。あとはホテルの手配と資料の準備・・・。その他 <br /><br />燃油料が¥1,000円とは安くなったものだ。 <br /><br />///////////////////////////////////////////<br /><br />---------------------------<br />2009.平成21年4月18日(土)<br /><br />■ホテルの予約 <br /><br />3月26日に電話をし、その後メールで遣り取りが出来るようになって、まだ先のことだからと中々返事が来ないので4月17日(金)に痺れを切らし以下の催促のメールを送った。 <br /><br />//////////////////////////////////<br /><br />私からのメール <br />2009年4月17日 19:20 <br /><br />以前お願いした<br />5月12日〜22日のホテルの予約どうなっているのでしょうか? <br /><br />返事がないので心配しています。予約が可能なのか?無理なのか?<br />いずれにせよ、早急にお返事ください。 <br /><br />宜しくお願いします <br /> <br />///////////////////////////////////////<br /><br />そしたら次の日に予約が出来ているとの返信があり、とりあえずホッとした。 <br /><br />/////////////////////////////////////<br /><br />権香玉さんからの返事<br /><br />2009年4月18日 16:49 <br /><br />こんにちは。<br />お返事が遅くなってしまいまして、まずお詫び申し上げます。 <br /><br />実は昨日全部まとめてお返事するつもりでしたが、急に取り急ぎのことありまして、メールができませんでした。御心配をお掛け本当に申し訳ございません。一つ一つ確認をもらうため、少し時間がかかりました。 <br /><br />5月12日から22日までのホテルの予約は以下の通りです。<br />ハルピンはご希望のホテル--曼哈頓商務酒店  200元<br />牡丹江は三つ星の房産公寓(市内の中心)  200元<br />東寧は税苑賓館   200元  準三つ星<br />綏芬河は澳普尓酒店 200元  三つ星<br />虎頭は虎頭賓館  170元<br />密山は興亜酒店  180元 <br /><br />全部の手数料が300元 <br /><br />東寧、綏芬河、虎頭、密山は町が小さいです。ホテルも何箇所しかないところです。ホテルから町の中心に行っても何分かで着く所です。上のホテルは地元ではいいホテルです。東寧と綏芬河のホテルは多分問題ないと思います、虎頭と密山のはレベルがちょっと落ちると思います。 <br /><br />こっちは田舎ですから、ホテルの水準は大都会とは比べものになりませんが、こっちに来られる外国人が全部使っているホテルですから問題ないと思います。 <br /><br />もし何か不妥当なところございましたら、ほかにまたご希望ご要求がございましたら、御遠慮なくおっしゃってください。謝謝! <br /><br />////////////////////////////////<br /> <br />私からのメール <br />2009年4月18日 22:53 <br /><br />ホテルの予約ありがとうございます。<br />下記のホテルと料金でOKです。 <br /><br />13日の午前にバスで哈爾濱から牡丹江に行くつもりです。<br />13日の牡丹江到着後、午後から半日だけですが、可能であれば権さんに日本語ガイドさん頼みたいです。 <br /><br />可不可以?請告訴我。如果可以的話要多少銭?<br />如果権香玉没有時間的話我誰也都可以。 <br /><br />あと、支払い方法<br />ホテルの住所・TELを教えてください <br />///////////////////////////////////////<br /> <br />------------------------------<br />2009.平成21年4月20日(月)<br /><br />■ホテルの予約 <br /><br />2009年4月20日 16:12 <br /><br />早速お返事ありがとうございます。 <br /><br />13日の牡丹江到着後、午後から半日ガイドのこと問題ありません。ガイド料は200元ですが、よろしいですか? <br /><br />ハルピン曼哈頓商務酒店 電話:0451-83179000 住所:ハルビン市兆麟街71番 <br /><br />牡丹江房産公寓  電話:0453-6923100 住所:七星街75番  <br /><br />東寧税苑賓館   電話:0453-3620810 住所:東寧県中華路国税局北側 <br /><br />綏芬河澳普尓酒店 電話:0453-3951111 住所:綏芬河市新華街41番 <br /><br />虎頭賓館 電話:0467-5939954 <br />        住所:虎林市虎頭鎮(小さい町で詳しい番号がありません) <br /><br />密山興亜酒店(興亜時代広場とも言う)電話:0467-5240001 住所:密山市安定街168番 <br /><br />料金:ハ2泊400元+牡3泊600元+東2泊400元+綏1泊200元+虎2泊340元+密1泊180元=2120元+手数料300元=2420元 <br /><br />お支払は中国元でもいいし、日本円でも結構です。御便利のほうにしてください。以上ですが、ほかに何かご疑問ございましたらご連絡ください。 <br /><br />/////////////////////////////////////<br /><br />私からのメール <br />2009年4月20日 18:23 <br /><br />イ尓好! <br /><br />房間費2420+導游費200=合計2620元<br />我都知道,都明白了,非常感謝! <br /><br />我打算13号早上坐長途汽車去牡丹江,到房産公寓之前給イ尓打電話。<br />イ尓的電話号碼請告訴我,我的手機可以用在中国国内,我的手機的電話号碼是・・・・。 <br /><br />費用,什幺時候,在ロ那里可以支付? 13号在房産公寓賓館給イ尓付ロ馬?<br />12号曼哈頓商務酒店,住費可以怎幺様?<br />我等イ尓的回信。<br />再見! <br />/////////////////////////////////<br /><br />2009.平成21年4月21日(火)<br /><br />■権香玉さんからのメール <br /><br />2009年4月20日 19:09 <br /><br />早速メールありがとうございます。 <br /><br />13日牡丹江房産公寓に到着前一回お電話くださればありがたいです。私の携帯電話は○○です。私の携帯は24時間ですから、いつでも大丈夫です。 <br /><br />ハルピンの曼哈頓商務酒店はお名前でチェックインできます。ホテルで保証金なんか要求しますが、ホテル代は旅行社からお支払いになりますから、お支払しないでください。 <br /><br />13日半日ガイドの時私が行きますので、料金はその時まとめてお支払してください。では、13日房産公寓のロビーで会うことにしましょう。<br /><br />/////////////////////////////////////// <br /><br />私の返事 <br />2009年4月20日 20:57 <br /><br />了解しました。 <br /><br />13日、房産公寓賓館到着前に必ず電話します。その日を楽しみにしています。 <br /><br />5月13日見!<br />/////////////////////////////////<br /><br />権香玉さんからのメール <br />2009年4月21日 10:22 <br /><br />牡丹江は昨日から雨が降りましたが、今日は雪になってしまいました。最近の気候はおかしくなって暖かくなったり寒くなったりしています。5月になったら暖かくなりますから、大丈夫だと思います。 <br /><br />では、お目にかかれる日を楽しみにしております。何か変更とかある場合は前もってご連絡ください。<br /><br />//////////////////////////////////////// <br /><br />私の返事 <br />2009年4月21日 15:08 <br /><br />こっちの気候もおかしいですよ。 <br /><br />もし変更があれば必ず連絡します。出発の前日にメールします <br /><br />それでは宜しくお願いします。5月13日房産公寓賓館見!身体健康!<br /><br />///////////////////////////////<br />

    2009年5月13日、17:46:04

    牡丹江・北山公園から市街を望む
    ///////////////////////////////////////

    2009.平成21年4月1日(水)

    ■関空⇔哈爾濱:航空券

    中国南方航空

    5月12日(火) CZ696 関西−ハルピン 13:10−15:10
    5月23日(土) CZ695 ハルピン−関西 08:10−12:10

    無料航空券(マイレージ):20000マイル引落し
    関空使用料:¥2,650−
    国際線燃油料:¥1,000−
    空港税:¥1,280−
    航空保険料:¥800−
    合計:¥5,730−

    長男のマイレージを譲ってもらい上記の諸費用を振り込み航空券の手配も完了した。あとはホテルの手配と資料の準備・・・。その他

    燃油料が¥1,000円とは安くなったものだ。

    ///////////////////////////////////////////

    ---------------------------
    2009.平成21年4月18日(土)

    ■ホテルの予約

    3月26日に電話をし、その後メールで遣り取りが出来るようになって、まだ先のことだからと中々返事が来ないので4月17日(金)に痺れを切らし以下の催促のメールを送った。

    //////////////////////////////////

    私からのメール
    2009年4月17日 19:20

    以前お願いした
    5月12日〜22日のホテルの予約どうなっているのでしょうか?

    返事がないので心配しています。予約が可能なのか?無理なのか?
    いずれにせよ、早急にお返事ください。

    宜しくお願いします

    ///////////////////////////////////////

    そしたら次の日に予約が出来ているとの返信があり、とりあえずホッとした。

    /////////////////////////////////////

    権香玉さんからの返事

    2009年4月18日 16:49

    こんにちは。
    お返事が遅くなってしまいまして、まずお詫び申し上げます。

    実は昨日全部まとめてお返事するつもりでしたが、急に取り急ぎのことありまして、メールができませんでした。御心配をお掛け本当に申し訳ございません。一つ一つ確認をもらうため、少し時間がかかりました。

    5月12日から22日までのホテルの予約は以下の通りです。
    ハルピンはご希望のホテル--曼哈頓商務酒店  200元
    牡丹江は三つ星の房産公寓(市内の中心)  200元
    東寧は税苑賓館   200元  準三つ星
    綏芬河は澳普尓酒店 200元  三つ星
    虎頭は虎頭賓館  170元
    密山は興亜酒店  180元

    全部の手数料が300元

    東寧、綏芬河、虎頭、密山は町が小さいです。ホテルも何箇所しかないところです。ホテルから町の中心に行っても何分かで着く所です。上のホテルは地元ではいいホテルです。東寧と綏芬河のホテルは多分問題ないと思います、虎頭と密山のはレベルがちょっと落ちると思います。

    こっちは田舎ですから、ホテルの水準は大都会とは比べものになりませんが、こっちに来られる外国人が全部使っているホテルですから問題ないと思います。

    もし何か不妥当なところございましたら、ほかにまたご希望ご要求がございましたら、御遠慮なくおっしゃってください。謝謝!

    ////////////////////////////////

    私からのメール
    2009年4月18日 22:53

    ホテルの予約ありがとうございます。
    下記のホテルと料金でOKです。

    13日の午前にバスで哈爾濱から牡丹江に行くつもりです。
    13日の牡丹江到着後、午後から半日だけですが、可能であれば権さんに日本語ガイドさん頼みたいです。

    可不可以?請告訴我。如果可以的話要多少銭?
    如果権香玉没有時間的話我誰也都可以。

    あと、支払い方法
    ホテルの住所・TELを教えてください
    ///////////////////////////////////////

    ------------------------------
    2009.平成21年4月20日(月)

    ■ホテルの予約

    2009年4月20日 16:12

    早速お返事ありがとうございます。

    13日の牡丹江到着後、午後から半日ガイドのこと問題ありません。ガイド料は200元ですが、よろしいですか?

    ハルピン曼哈頓商務酒店 電話:0451-83179000 住所:ハルビン市兆麟街71番

    牡丹江房産公寓  電話:0453-6923100 住所:七星街75番 

    東寧税苑賓館   電話:0453-3620810 住所:東寧県中華路国税局北側

    綏芬河澳普尓酒店 電話:0453-3951111 住所:綏芬河市新華街41番

    虎頭賓館 電話:0467-5939954 
            住所:虎林市虎頭鎮(小さい町で詳しい番号がありません)

    密山興亜酒店(興亜時代広場とも言う)電話:0467-5240001 住所:密山市安定街168番

    料金:ハ2泊400元+牡3泊600元+東2泊400元+綏1泊200元+虎2泊340元+密1泊180元=2120元+手数料300元=2420元

    お支払は中国元でもいいし、日本円でも結構です。御便利のほうにしてください。以上ですが、ほかに何かご疑問ございましたらご連絡ください。

    /////////////////////////////////////

    私からのメール
    2009年4月20日 18:23

    イ尓好!

    房間費2420+導游費200=合計2620元
    我都知道,都明白了,非常感謝!

    我打算13号早上坐長途汽車去牡丹江,到房産公寓之前給イ尓打電話。
    イ尓的電話号碼請告訴我,我的手機可以用在中国国内,我的手機的電話号碼是・・・・。

    費用,什幺時候,在ロ那里可以支付? 13号在房産公寓賓館給イ尓付ロ馬?
    12号曼哈頓商務酒店,住費可以怎幺様?
    我等イ尓的回信。
    再見!
    /////////////////////////////////

    2009.平成21年4月21日(火)

    ■権香玉さんからのメール

    2009年4月20日 19:09

    早速メールありがとうございます。

    13日牡丹江房産公寓に到着前一回お電話くださればありがたいです。私の携帯電話は○○です。私の携帯は24時間ですから、いつでも大丈夫です。

    ハルピンの曼哈頓商務酒店はお名前でチェックインできます。ホテルで保証金なんか要求しますが、ホテル代は旅行社からお支払いになりますから、お支払しないでください。

    13日半日ガイドの時私が行きますので、料金はその時まとめてお支払してください。では、13日房産公寓のロビーで会うことにしましょう。

    ///////////////////////////////////////

    私の返事
    2009年4月20日 20:57

    了解しました。

    13日、房産公寓賓館到着前に必ず電話します。その日を楽しみにしています。

    5月13日見!
    /////////////////////////////////

    権香玉さんからのメール
    2009年4月21日 10:22

    牡丹江は昨日から雨が降りましたが、今日は雪になってしまいました。最近の気候はおかしくなって暖かくなったり寒くなったりしています。5月になったら暖かくなりますから、大丈夫だと思います。

    では、お目にかかれる日を楽しみにしております。何か変更とかある場合は前もってご連絡ください。

    ////////////////////////////////////////

    私の返事
    2009年4月21日 15:08

    こっちの気候もおかしいですよ。

    もし変更があれば必ず連絡します。出発の前日にメールします

    それでは宜しくお願いします。5月13日房産公寓賓館見!身体健康!

    ///////////////////////////////

  • 2009年5月14日、9:27:14<br /><br />磨刀石鎮<br /><br />///////////////////////////////////<br /><br />■宿泊先が決まり日程も決まった。 <br /><br />あとは移動方法だけど、バスで移動する。牡丹江から直接、東寧に行くバスがあるのか?綏芬河から直接、虎頭鎮に行けるのか? <br /><br />そして密山からタクシーを貸し切って哈達河村から麻山を経て牡丹江まで行くことが出来るのか? <br /><br />不安は一杯あるけど、欲を出さずに行ける範囲で行くことにしよう。それでなくても道中はテンションが上がり無理を重ねやすい。特に私は・・・。 <br /><br />今、4月8日(水)に腰痛に襲われ、治りかけていたのに又無理して歩いて腰痛がぶり返している。去年の8月20日を機に健康管理を趣味にして減量とトレーニングをしてきたのに、そのショックは大きい。 <br /><br />昨年から、歩き歩き歩きまくって、今回の旅こそ歩き回るぞと思っていた。その旅を目前にして無念なり。今は後、20日ほどに迫った出発までに何とか腰痛を克服せねばと思っている。 <br /><br />腰痛克服こそが旅に向けての最大課題になった。出発のその日は如何に??? <br /><br /><br />■旅を前に読んだ本 <br /><br />読むに価値ある本 <br /><br />「われは銃火にまだ死なず(磨刀石)」:南雅也(著)<br />「新・秘めたる戦記:第二巻」:伊藤桂一(著)<br />「戦跡に祈る」:牧野弘道(著)<br />「関東軍東寧戦記」<br />「麻山事件」:中村雪子(著)<br />「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」 <br />石光真清の手記(四部作) <br /><br />されどわが「満洲」:文藝春秋編 <br /><br />・・・・・・・ <br /><br />↓以下は読むに価値無き本、資料として使う。 <br /><br />「ソ連が満洲に侵攻した夏」:半藤一利(著)<br />「赤い月」:なかにし礼(著)<br />「遥かなる黒龍江」:小林静雄(著)<br />「虎頭要塞」:日中学術平和調査団(編) <br /><br />//////////////////////////////////////<br />---------------------------------------<br />2009.平成21年5月5日(火)<br /><br />■一週間後には出発 <br /><br />4月21日にホテルの予約が出来、旅の日程は決まった。その後、二週間この旅行のことから離れてしまった。 <br /><br />あと一週間ということで、今日からまた準備をしよう。しかし腰痛未だ治らず今回の旅は一体どうなるのか?不安を抱えての旅立ちになりそうだ。 <br /><br />それに豚インフルエンザなるものが発生した。中国で只の一人も感染者が出てないのが逆に世界の不思議だと世界の人たちは思っているだろう。 <br /><br />まあなるようにしかならないのが人生であり、その運命に身を任せ生きて故国日本の土を踏むことを目標に出発しよう。一番の不安は強烈なる痛みを伴うギックリ腰の発症である。 <br /><br />振り返って見れば、そんなこともあったなあと笑える程度であることを祈る。今回はプリンターでA4紙に印刷した資料は重量を感じるほどの束になっている。有効にこれが活用出来るのか?否か? <br /><br />乞うご期待。 <br /><br />それにこの間Uチューブを知ってしまい。過去の旅で写した動画を旅行記に挿入している。こんなのを知ってしまった今、今度の旅行はどうなることやら・・・。Uチューブ動画だらけになるのか? <br /><br /><br />-------------------------------------------<br />2009.平成21年5月8日(金)<br /><br />■ボチボチ気合が・・・。 <br /><br />腰痛は大分楽になったが、完治しないまま旅たちを覚悟している。痛み止めをお守りとして持っていかねば。 <br /><br />そして、ここに来て又一ヶ所訪れたい場所が出来た。それは阿什河(アシェハ)という所である。石光真清の手記にはハバロフスクから哈爾濱までの道中で立ち寄ったのが阿什河だ。 <br /><br />Web頁「曠野の花」によれば・・・。<br />http://bugugangsi.seesaa.net/category/1351714-1.html <br /><br />『阿什河停車場(現、阿城駅)。阿什河の街の建物や風景は変わったが、真清が訪れたころと同じく、駅と街は離れており、街は駅の南西に位置しており、およそ1.5キロほど離れている。その位置関係は変わっていない。』 <br /><br />以上抜粋 <br /><br />この頃、真清は馬賊の頭目:増世策の配下として行動し、やはり増世策の配下の若者“趙”趙は15歳の時に親と一緒に日本に渡り6年間を過ごし日本語は達者である。そんな趙を子分として従えながらの旅である。 <br /><br />当時、清国は義和団の乱が起り満洲一帯も清朝統治は瓦解し、そこにロシア軍の進出で都市は騒乱の中でどこに行くのも危険な状況であった。 <br /><br />哈爾濱までの道中で石光真清はいろいろな騒動に巻き込まれる。 <br /><br />阿什河は哈爾濱から車で30分くらい東に行った所で、↓以下のような物語がある所だ。 <br /><br />2009.平成21年2月17日(火) <br />■曠野の花・石光真清の手記(ニ) <br /><br />以下、156頁、本文要約抜粋 <br /><br />・・・・・・・・・・・・・・ <br /><br />日露戦争前の話:ロシアで諜報活動中の石光が阿什河の町で、日本人だと分かり占領していたロシア軍の守備隊に連行された。 <br /><br />連行理由は、ロシアが占領した時、監獄を調べたら囚人76人のうちに一人だけ不思議な男がいた。年は30歳を過ぎの日本人のようであるが、一切口を利かず栄養失調で、髪は伸びるに任せ、両脚に鉄の輪をはめられた所は化膿している。 <br /><br />獄吏の記憶では日本人で6年前の日清戦争当時斥候として派遣されたが道を誤り捕らえられた。其の後、講和条約が成立し、その男の存在は忘れられたまま放置されたようだ。 <br /><br />その日本人に面会させるために日本人である石光が連行された。石光は誠意を込めて話しかけたが、その男は終始無言を通した。 <br /><br />「君は日本人でしょう。ロシア軍は君を日本軍人として待遇している。この名誉ある待遇に対して君も礼儀を尽くすべきだろう。日清戦争当時、君は何軍に属していたのですか?」 <br /><br />「僕は決して君の名誉を傷つけに来たのではありません。今日までの君の苦節を無にするようなことはしません。ただ一言、ただ一言でよい、日本人であることを言明してくれ給え」 <br /><br />囚人は死人のように黙したまま再び眼を開こうともしなかった。 <br /><br />「君!通訳の韓国人も帰った。日本語の判る者は誰も居ない。遠慮なく言ってくれ給え。君は日本の軍人で唖者を装っているに違いない。その気持ちは同じ軍人である私には良く分かる。君、話してくれ給え」 <br /><br />と私は彼の足をさすり頭を撫でて彼の返答を促した。 <br /><br />「君の精神は立派だ。故郷では君は戦死したものと思っているだろう。君の魂はもう靖国神社に祭られている。ただ一言、一言でよい。話してくれ給え」 <br /><br />囚人は静かに、死人のように静かに瞑目したままだったが、閉じた両眼から大粒の涙がとめどもなく流れ落ちた。私の胸は躍った。そして] 私の両眼も涙で曇った。 <br /><br />「おお判ってくれた、君!ありがとう、ありがとう。君の病気は重態で、最後も近づいているということだ。ここに僕がめぐり逢ったのも何かの因縁だろう。言葉を止めてから、もう六年になるということだから、ものを言うのがいやだったら笑ってくれ給え。 <br /><br />君の気持ちを判ってくれた日本人がいるということを知って、笑って死んでくれ給え。お蔭で日本は大勝利だった。日本は安泰だ。安心してくれ給え」 <br /><br />・・・・・・・・・以上・抜粋終わり <br /><br />今では考えられない行動が当然の如くにあった時代のようだ。そんな時代の日本人を敬服する。この阿什河で亡くなった日本人のことは、それが誰かは分からねども「石光真清の手記」によって永遠に忘れ去られることなく日本人に誇りと勇気を与え続ける。 <br /><br />この日本人は石光真清が去ったあと容態が急変し、直の午前七時に亡くなったとカザック兵が知らせに来た。真清は食事を中断して病院に行き遺書でもないかと調べたが何も無かった。 <br /><br />『悲壮なる日本男子よ、君の苦節六年の精神は必ず日本の同胞に伝えよう。私は病院長の許しを得て死体を引き取り、北門外の墓地に葬って心から念仏を唱えた』 <br /><br />・・と、真清は書いている。 <br /><br />この地、「阿什河」、今の“阿城”に行きたく思う。行ければ行こう。 <br /><br /><br />///////////////////////////////////////<br />■哈爾濱の変更 <br /><br />権香玉さんからのメール <br />2009年5月8日 19:21 <br /><br />こんにちは。<br />急に変更しなければならないことあります。ハルピンのホテルですが、ハルピンから5月4日、私に電話が入ってお知らせがありましたが、私が出張中でメールができませんでした。今日会社に出てメールいたしますが、遅くなってしまい、まずお詫び申し上げます。 <br /><br />ハルピンの予約した曼哈頓商務酒店がこれから改造する計画で、使われなくなりました。こんな場合は実はホテルから予約を受けないはずですが、急にこんな知らせはお客さんに本当に困まると思います。中国はたまにはこんなことありますから、しかたありません。ご理解お願いいたします。 <br /><br />それで、私がもう一つの三つ星のホテル「華僑飯店」というホテルを予約しました。時間があんまりないですから、打ち合わせしなくて、まず予約してお知らせして、本当に申し訳ございませんが、もし、このホテルが気に入らない場合はおっしゃってください。変えても結構です。 <br /><br />このホテルは駅と近いし、市内の中心ですが、曼哈頓商務酒店より設備もいいそうです。それで、ホテル代も元のより一泊が20元高いです。住所:ハルピン市紅軍街72番 電話:0451-82571888です。 <br /><br />これで、いいでしょうか?わがままに決めてすみません。ご意見お願いいたします。 <br /> <br />/////////////////////////////////<br /><br />私の返事 <br />2009年5月8日 21:13 <br /><br />連絡ありがとうございます。ホテルの変更了解しました。OKです。 <br /><br />13日朝、バスで牡丹江に行くつもりですがバス停の場所と、朝、何時のバスに乗れば牡丹江に昼頃着けるのか?分かれば教えて下さい。 <br /><br />それと牡丹江の市街地図を買っておいて下さい。<br />お願いします。 <br /> <br />///////////////////////////////<br />--------------------------------<br />2009.平成21年5月11日(月)<br /><br />■いよいよ明日出発。 <br /><br />今日はジョンの命日。去年の今日だ。 <br /><br />そして、その二日後の13日、ノモンハンに向って出発した。ジョンの遺髪をノモンハンの草原に撒くために持って行った。当時の心境が蘇る。 <br /><br />そしてあれから一年、今年も明日、満洲に向けて発つ。同じ日程で、同じ飛行機便で、まず哈爾濱に到着だ。今回は訪ねるメーンの戦跡が三ヶ所あり、資料も多くなった。 <br /><br />磨刀石・東寧要塞・虎頭要塞については、ここに書ききれずそれぞれ別に頁を作った。その他、麻山・密山・そして、石光真清の辿った阿什河(阿城)・磨刀石もある。 <br /><br />先人たちが大いなる夢を抱いた大地、満洲。そして日本の独立を確固たるものとし、更には強国の仲間入りを夢見て先人が命を賭して戦い守ろうとした大地。 <br /><br />それだけに郷愁を誘う。磨刀石は若干二十歳そこそこの甲種幹部候補生たちが、昭和二十年八月十三日、初陣で920名が、牡丹江目指して迫り来るソ連戦車軍団を阻止すべく肉攻攻撃で、その大部分である800名くらいが散華した場所である。 <br /><br />そして、その地、磨刀石は、石光真清が日露開戦3年前の1901年・明治34年2月末、ロシアの満洲占拠・東亜征服計画に対しての情報蒐集(しゅうしゅう)の為に哈爾濱を拠点とし、本格的な商売を起業するために道中立ち寄り、同行の二人がカザック兵に連行されたところである。 <br /><br />同行者四名<br />石光真清・武藤信義大尉・阿倍野利恭(現地商売人)・秋山運次郎(柔道師範・ロシア語巧者)の四人が軍の密命を受け、哈爾濱で写真屋を開業しべくウラジオストックを出立した。その途中に立ち寄り宿泊したのが磨刀石である。 <br /><br />・・・・・・・・↓243頁より、抜粋<br /><br />着いた頃は午後の四時、日没後であった。勝って知った客桟、と言っても木賃宿ではあるが、そこへ四人が入って行くと薄暗いランプが一つ、部屋の中央に吊り下げられているだけで四隅は良く見えなかった。 <br /><br />とにかく大入り満員の盛況で、清国人の外に韓国人とロシア人が混じって四十名ばかり、雑然とあぐらをかいたり寝転がっていた。四人はオンドルの一隅に漸(ようや)く空席を得てささやかな夕食を済ませ・・・。<br />・・・・・・・・・・以上 <br /><br />勝って知ったる客桟ということは、何度か来ていたのだろうか。 <br /><br />検問のカザック兵に柳行李から転がり出た拳銃を見付けられ、武藤の身代わりになった阿倍野にロシア語巧者の秋山が同行し連行されたが、明け方近く釈放され宿に戻って来た。 <br /><br />釈放されたのも取調べの将校が義和団事件での日本軍の協力を誉め、日露相助けて行くべきと言っての釈放だったようである。当時の雰囲気を感じる。 <br /><br />/////////////////////////////////////<br /><br />権香玉さんからのメール <br />2009年5月11日 11:10 <br /><br />こんにちは。<br />牡丹江行きのバス停はハルピン駅の前です。<br />駅の広場の前に龍運賓館というホテルがありますが、ちょうどその隣です。 <br /><br />やはり龍運グループで経営しているバスです。普通のバスと高速バスが二種類ですが、高速バスのほうがいいと思いますが、1時間に一回あります。待合室の二階で切符売り場があります。「豪華バス」と書いてある窓口で買えるのが高速バスです。そうではなければ普通のバスです。 <br /><br />高速バスは牡丹江まで4時間、トイレ付で途中でとまりません。切符は多分86元ぐらいです。普通のバスでしたら5時間あまりかかり、トイレ付ではなく、途中でとまったりします。切符は多分60何元です。 <br /><br />ひとつ言っておくこと、駅の前で人たちが牡丹江行きのバスに乗りませんかと聞きながら案内することがありますが、その人たちを相手にしないでください。騙されることあります。 <br /><br />牡丹江の市街地図を買うこと問題ありません。 <br /><br />以上をご参考ください。何かある場合は私の携帯をご利用ください。 <br /> <br />////////////////////////////////////////<br /><br />私の返事 <br />2009年5月11日 11:42 <br /><br />ご案内ありがとう、了解しました。 <br /><br />それでは13日の午後、牡丹江房産公寓で会えるのを楽しみにしています。また到着前に電話をします。 <br /><br />23号下午見! <br /> <br />//////////////////////////////////<br /><br />■午後11時11分<br /><br />用意は何とか出来た。やっぱりリュック一杯になった。 <br /><br />腰痛未だ治らず。ご先祖様どうかお守りください! <br /><br />さあ、明日の朝出発だ。家内は仕事で出て行ってから、一人での旅たちになる。行こう! <br /><br />出発予定は昨年と同じ、午前9時前だ。 <br /><br />//////////////////////////////////////<br /><br /><br />

    2009年5月14日、9:27:14

    磨刀石鎮

    ///////////////////////////////////

    ■宿泊先が決まり日程も決まった。

    あとは移動方法だけど、バスで移動する。牡丹江から直接、東寧に行くバスがあるのか?綏芬河から直接、虎頭鎮に行けるのか?

    そして密山からタクシーを貸し切って哈達河村から麻山を経て牡丹江まで行くことが出来るのか?

    不安は一杯あるけど、欲を出さずに行ける範囲で行くことにしよう。それでなくても道中はテンションが上がり無理を重ねやすい。特に私は・・・。

    今、4月8日(水)に腰痛に襲われ、治りかけていたのに又無理して歩いて腰痛がぶり返している。去年の8月20日を機に健康管理を趣味にして減量とトレーニングをしてきたのに、そのショックは大きい。

    昨年から、歩き歩き歩きまくって、今回の旅こそ歩き回るぞと思っていた。その旅を目前にして無念なり。今は後、20日ほどに迫った出発までに何とか腰痛を克服せねばと思っている。

    腰痛克服こそが旅に向けての最大課題になった。出発のその日は如何に???


    ■旅を前に読んだ本

    読むに価値ある本

    「われは銃火にまだ死なず(磨刀石)」:南雅也(著)
    「新・秘めたる戦記:第二巻」:伊藤桂一(著)
    「戦跡に祈る」:牧野弘道(著)
    「関東軍東寧戦記」
    「麻山事件」:中村雪子(著)
    「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」
    石光真清の手記(四部作)

    されどわが「満洲」:文藝春秋編

    ・・・・・・・

    ↓以下は読むに価値無き本、資料として使う。

    「ソ連が満洲に侵攻した夏」:半藤一利(著)
    「赤い月」:なかにし礼(著)
    「遥かなる黒龍江」:小林静雄(著)
    「虎頭要塞」:日中学術平和調査団(編)

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    2009.平成21年5月5日(火)

    ■一週間後には出発

    4月21日にホテルの予約が出来、旅の日程は決まった。その後、二週間この旅行のことから離れてしまった。

    あと一週間ということで、今日からまた準備をしよう。しかし腰痛未だ治らず今回の旅は一体どうなるのか?不安を抱えての旅立ちになりそうだ。

    それに豚インフルエンザなるものが発生した。中国で只の一人も感染者が出てないのが逆に世界の不思議だと世界の人たちは思っているだろう。

    まあなるようにしかならないのが人生であり、その運命に身を任せ生きて故国日本の土を踏むことを目標に出発しよう。一番の不安は強烈なる痛みを伴うギックリ腰の発症である。

    振り返って見れば、そんなこともあったなあと笑える程度であることを祈る。今回はプリンターでA4紙に印刷した資料は重量を感じるほどの束になっている。有効にこれが活用出来るのか?否か?

    乞うご期待。

    それにこの間Uチューブを知ってしまい。過去の旅で写した動画を旅行記に挿入している。こんなのを知ってしまった今、今度の旅行はどうなることやら・・・。Uチューブ動画だらけになるのか?


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    2009.平成21年5月8日(金)

    ■ボチボチ気合が・・・。

    腰痛は大分楽になったが、完治しないまま旅たちを覚悟している。痛み止めをお守りとして持っていかねば。

    そして、ここに来て又一ヶ所訪れたい場所が出来た。それは阿什河(アシェハ)という所である。石光真清の手記にはハバロフスクから哈爾濱までの道中で立ち寄ったのが阿什河だ。

    Web頁「曠野の花」によれば・・・。
    http://bugugangsi.seesaa.net/category/1351714-1.html

    『阿什河停車場(現、阿城駅)。阿什河の街の建物や風景は変わったが、真清が訪れたころと同じく、駅と街は離れており、街は駅の南西に位置しており、およそ1.5キロほど離れている。その位置関係は変わっていない。』

    以上抜粋

    この頃、真清は馬賊の頭目:増世策の配下として行動し、やはり増世策の配下の若者“趙”趙は15歳の時に親と一緒に日本に渡り6年間を過ごし日本語は達者である。そんな趙を子分として従えながらの旅である。

    当時、清国は義和団の乱が起り満洲一帯も清朝統治は瓦解し、そこにロシア軍の進出で都市は騒乱の中でどこに行くのも危険な状況であった。

    哈爾濱までの道中で石光真清はいろいろな騒動に巻き込まれる。

    阿什河は哈爾濱から車で30分くらい東に行った所で、↓以下のような物語がある所だ。

    2009.平成21年2月17日(火)
    ■曠野の花・石光真清の手記(ニ)

    以下、156頁、本文要約抜粋

    ・・・・・・・・・・・・・・

    日露戦争前の話:ロシアで諜報活動中の石光が阿什河の町で、日本人だと分かり占領していたロシア軍の守備隊に連行された。

    連行理由は、ロシアが占領した時、監獄を調べたら囚人76人のうちに一人だけ不思議な男がいた。年は30歳を過ぎの日本人のようであるが、一切口を利かず栄養失調で、髪は伸びるに任せ、両脚に鉄の輪をはめられた所は化膿している。

    獄吏の記憶では日本人で6年前の日清戦争当時斥候として派遣されたが道を誤り捕らえられた。其の後、講和条約が成立し、その男の存在は忘れられたまま放置されたようだ。

    その日本人に面会させるために日本人である石光が連行された。石光は誠意を込めて話しかけたが、その男は終始無言を通した。

    「君は日本人でしょう。ロシア軍は君を日本軍人として待遇している。この名誉ある待遇に対して君も礼儀を尽くすべきだろう。日清戦争当時、君は何軍に属していたのですか?」

    「僕は決して君の名誉を傷つけに来たのではありません。今日までの君の苦節を無にするようなことはしません。ただ一言、ただ一言でよい、日本人であることを言明してくれ給え」

    囚人は死人のように黙したまま再び眼を開こうともしなかった。

    「君!通訳の韓国人も帰った。日本語の判る者は誰も居ない。遠慮なく言ってくれ給え。君は日本の軍人で唖者を装っているに違いない。その気持ちは同じ軍人である私には良く分かる。君、話してくれ給え」

    と私は彼の足をさすり頭を撫でて彼の返答を促した。

    「君の精神は立派だ。故郷では君は戦死したものと思っているだろう。君の魂はもう靖国神社に祭られている。ただ一言、一言でよい。話してくれ給え」

    囚人は静かに、死人のように静かに瞑目したままだったが、閉じた両眼から大粒の涙がとめどもなく流れ落ちた。私の胸は躍った。そして] 私の両眼も涙で曇った。

    「おお判ってくれた、君!ありがとう、ありがとう。君の病気は重態で、最後も近づいているということだ。ここに僕がめぐり逢ったのも何かの因縁だろう。言葉を止めてから、もう六年になるということだから、ものを言うのがいやだったら笑ってくれ給え。

    君の気持ちを判ってくれた日本人がいるということを知って、笑って死んでくれ給え。お蔭で日本は大勝利だった。日本は安泰だ。安心してくれ給え」

    ・・・・・・・・・以上・抜粋終わり

    今では考えられない行動が当然の如くにあった時代のようだ。そんな時代の日本人を敬服する。この阿什河で亡くなった日本人のことは、それが誰かは分からねども「石光真清の手記」によって永遠に忘れ去られることなく日本人に誇りと勇気を与え続ける。

    この日本人は石光真清が去ったあと容態が急変し、直の午前七時に亡くなったとカザック兵が知らせに来た。真清は食事を中断して病院に行き遺書でもないかと調べたが何も無かった。

    『悲壮なる日本男子よ、君の苦節六年の精神は必ず日本の同胞に伝えよう。私は病院長の許しを得て死体を引き取り、北門外の墓地に葬って心から念仏を唱えた』

    ・・と、真清は書いている。

    この地、「阿什河」、今の“阿城”に行きたく思う。行ければ行こう。


    ///////////////////////////////////////
    ■哈爾濱の変更

    権香玉さんからのメール
    2009年5月8日 19:21

    こんにちは。
    急に変更しなければならないことあります。ハルピンのホテルですが、ハルピンから5月4日、私に電話が入ってお知らせがありましたが、私が出張中でメールができませんでした。今日会社に出てメールいたしますが、遅くなってしまい、まずお詫び申し上げます。

    ハルピンの予約した曼哈頓商務酒店がこれから改造する計画で、使われなくなりました。こんな場合は実はホテルから予約を受けないはずですが、急にこんな知らせはお客さんに本当に困まると思います。中国はたまにはこんなことありますから、しかたありません。ご理解お願いいたします。

    それで、私がもう一つの三つ星のホテル「華僑飯店」というホテルを予約しました。時間があんまりないですから、打ち合わせしなくて、まず予約してお知らせして、本当に申し訳ございませんが、もし、このホテルが気に入らない場合はおっしゃってください。変えても結構です。

    このホテルは駅と近いし、市内の中心ですが、曼哈頓商務酒店より設備もいいそうです。それで、ホテル代も元のより一泊が20元高いです。住所:ハルピン市紅軍街72番 電話:0451-82571888です。

    これで、いいでしょうか?わがままに決めてすみません。ご意見お願いいたします。

    /////////////////////////////////

    私の返事
    2009年5月8日 21:13

    連絡ありがとうございます。ホテルの変更了解しました。OKです。

    13日朝、バスで牡丹江に行くつもりですがバス停の場所と、朝、何時のバスに乗れば牡丹江に昼頃着けるのか?分かれば教えて下さい。

    それと牡丹江の市街地図を買っておいて下さい。
    お願いします。

    ///////////////////////////////
    --------------------------------
    2009.平成21年5月11日(月)

    ■いよいよ明日出発。

    今日はジョンの命日。去年の今日だ。

    そして、その二日後の13日、ノモンハンに向って出発した。ジョンの遺髪をノモンハンの草原に撒くために持って行った。当時の心境が蘇る。

    そしてあれから一年、今年も明日、満洲に向けて発つ。同じ日程で、同じ飛行機便で、まず哈爾濱に到着だ。今回は訪ねるメーンの戦跡が三ヶ所あり、資料も多くなった。

    磨刀石・東寧要塞・虎頭要塞については、ここに書ききれずそれぞれ別に頁を作った。その他、麻山・密山・そして、石光真清の辿った阿什河(阿城)・磨刀石もある。

    先人たちが大いなる夢を抱いた大地、満洲。そして日本の独立を確固たるものとし、更には強国の仲間入りを夢見て先人が命を賭して戦い守ろうとした大地。

    それだけに郷愁を誘う。磨刀石は若干二十歳そこそこの甲種幹部候補生たちが、昭和二十年八月十三日、初陣で920名が、牡丹江目指して迫り来るソ連戦車軍団を阻止すべく肉攻攻撃で、その大部分である800名くらいが散華した場所である。

    そして、その地、磨刀石は、石光真清が日露開戦3年前の1901年・明治34年2月末、ロシアの満洲占拠・東亜征服計画に対しての情報蒐集(しゅうしゅう)の為に哈爾濱を拠点とし、本格的な商売を起業するために道中立ち寄り、同行の二人がカザック兵に連行されたところである。

    同行者四名
    石光真清・武藤信義大尉・阿倍野利恭(現地商売人)・秋山運次郎(柔道師範・ロシア語巧者)の四人が軍の密命を受け、哈爾濱で写真屋を開業しべくウラジオストックを出立した。その途中に立ち寄り宿泊したのが磨刀石である。

    ・・・・・・・・↓243頁より、抜粋

    着いた頃は午後の四時、日没後であった。勝って知った客桟、と言っても木賃宿ではあるが、そこへ四人が入って行くと薄暗いランプが一つ、部屋の中央に吊り下げられているだけで四隅は良く見えなかった。

    とにかく大入り満員の盛況で、清国人の外に韓国人とロシア人が混じって四十名ばかり、雑然とあぐらをかいたり寝転がっていた。四人はオンドルの一隅に漸(ようや)く空席を得てささやかな夕食を済ませ・・・。
    ・・・・・・・・・・以上

    勝って知ったる客桟ということは、何度か来ていたのだろうか。

    検問のカザック兵に柳行李から転がり出た拳銃を見付けられ、武藤の身代わりになった阿倍野にロシア語巧者の秋山が同行し連行されたが、明け方近く釈放され宿に戻って来た。

    釈放されたのも取調べの将校が義和団事件での日本軍の協力を誉め、日露相助けて行くべきと言っての釈放だったようである。当時の雰囲気を感じる。

    /////////////////////////////////////

    権香玉さんからのメール
    2009年5月11日 11:10

    こんにちは。
    牡丹江行きのバス停はハルピン駅の前です。
    駅の広場の前に龍運賓館というホテルがありますが、ちょうどその隣です。

    やはり龍運グループで経営しているバスです。普通のバスと高速バスが二種類ですが、高速バスのほうがいいと思いますが、1時間に一回あります。待合室の二階で切符売り場があります。「豪華バス」と書いてある窓口で買えるのが高速バスです。そうではなければ普通のバスです。

    高速バスは牡丹江まで4時間、トイレ付で途中でとまりません。切符は多分86元ぐらいです。普通のバスでしたら5時間あまりかかり、トイレ付ではなく、途中でとまったりします。切符は多分60何元です。

    ひとつ言っておくこと、駅の前で人たちが牡丹江行きのバスに乗りませんかと聞きながら案内することがありますが、その人たちを相手にしないでください。騙されることあります。

    牡丹江の市街地図を買うこと問題ありません。

    以上をご参考ください。何かある場合は私の携帯をご利用ください。

    ////////////////////////////////////////

    私の返事
    2009年5月11日 11:42

    ご案内ありがとう、了解しました。

    それでは13日の午後、牡丹江房産公寓で会えるのを楽しみにしています。また到着前に電話をします。

    23号下午見!

    //////////////////////////////////

    ■午後11時11分

    用意は何とか出来た。やっぱりリュック一杯になった。

    腰痛未だ治らず。ご先祖様どうかお守りください!

    さあ、明日の朝出発だ。家内は仕事で出て行ってから、一人での旅たちになる。行こう!

    出発予定は昨年と同じ、午前9時前だ。

    //////////////////////////////////////


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