2009/05/12 - 2009/05/23
35880位(同エリア47408件中)
明石DSさん
7:57:02
房産公寓賓館:602号室
窓の外
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4日目:牡丹江〜東寧要塞へ
5月15日(金)晴れ
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2009.平成21年5月15日(金)
■東寧に向う朝
朝6時半に起き7時から朝飯食って準備する。今日も天気はうす曇りなれどまあまあの天気。8時前に、いつもように「これが日本人の退房じゃ」と整理整頓し、ホテルを出て駅に向った。駅前左側にバスターミナルがあり、行き先を書いた沢山のバスが並んでいる。
牡丹江のバスターミナルは切符を販売したり時刻表が提示していたりの建物はない。もしかしたらそれらしき物はあるのかも知れないが。行き先のバスに直接行って車掌から切符を買う。41元(615円)だった。東寧行きのバスは小さなマイクロバス。
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8:13:40
駅左側のバスターミナル
朝から各地に向って大移動
そのエネルギーには感心する -
8:14:08
東寧に行く人は少ないのか?
バスがちっこい
まあ直行便があるのが救い -
8:18:40
出発時刻は不明?動き出した時間が出発時間
座席指定もなく座った順、一番奥の左端に座る
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東寧へ
9時前に乗客も一杯になり出発した。再見!21日に戻って来る・・・ぞ、と心でつぶやきながら。東寧は一体どんな街なのだろう、ガイドブックにも東寧はなく、情報が少なくほとんど予備知識がない。行って見ないと分からないというのが実態だった。
ただ助かったのは牡丹江から乗換えなしで直行便があることだった。そして3時間足らずで着くことが分かりホッとした。今日中に一度、東寧要塞に行っておきたい。そうでないとそれぞれに分かれた要塞の全体像も掴めないし、その他、行きたいところが点々とあるので東寧を少しでも知っておきたかった。
課題山積のまま東寧に向う。一体、今後の展開は如何なるのか?どの程度自分が納得できるような旅になるのか?集中力はあるが、いつも効を焦る気持ちが慌てに繋がり、結果的には反省が多い。これじゃ戦場で指揮官として部下の命を預かることは出来ない。一匹狼として動くなら、時には、はずみで好結果をもたらす働きも出来るかもだが・・・。
自分でも先に先にと焦ってばかり、まあそんな自分を客観視できることを良しとしよう。満洲東北部は大平原ではなく、「ゆるやかな丘陵地帯が広がっていた」というのが私の印象だ。真平らな大地が360度の風景は記憶にない。
ある程度高い山々もあったし峠越えも多かった。そして木は多いところもあったが、全体には少なく畑地として開墾されている。出発して1時間ちょっと穆稜(ムーリン)地域の手前の所でトイレ休憩。いつも休憩は「10分間」と言っていた。今回の旅は鉄道が一回だけで、その他は全部バス利用だった。
そして日本人はいつも私一人、今回の旅を通じて日本人に出会った事は空港以外には皆無だった。一言「多少銭?いくら」と発すればバレてしまう。「何者や?山東省か」と問われれば、誤魔化すのは何となく癪だし、つい「日本人や」と答えてしまう。その瞬間に周囲の人間の半分位はこっちを見てニヤッとしたり、あとの半分くらいは無視だ。その反応を見るのもオモロイ。
中国では毎日、抗日戦争の番組をやっている。中国人役者が下手な日本語を使って演技しているのもある。ホンマこんなテレビ番組日々垂れ流していれば反日人間に育つのも当然だろう。
そして「リーベンレン」が最後まで付きまとう。車掌が途中で代わるような時も、申し送りで「コイツは日本人、中国語が出来る」と言って降りて行く。何せ、中国語が一言通じれば、「お前は中国語が上手だ」になってしまうのが中国だ。
でも私のように幼稚な中国語しか出来なくても地方の中国人と言えば疑われない。多民族、方言だらけの中国だから分からない。それも癪だから日本人と言ってしまう。危険を感じれば誤魔化すのにも抵抗はないが。
そりゃあやつらが驚くのも無理はない、一人日本人のおっさんがマイクロバスに小汚い風体、すまし顔でバスにちょこんと坐っていれば。中国人にとっては観光地でもなんでもない辺境の地に行こうとしているのだから -
8:48:12
8時48分動き出す
再見!牡丹江 -
9:25:12
出発後、磨刀石への道とは違ったが
どこかで昨日の道に合流し磨刀石へと出て来た -
10:14:30
出発後、1時間半ぐらいでトイレ休憩
場所は不明
休憩時間は大概10分間 -
11:10:14
この三叉路を右折が東寧、真っ直ぐが綏芬河へ -
11:21:02
もうすぐ東寧
車窓の景色
三叉路から結構山が多かった -
11:43:32
綏芬河を渡る
東寧へ到着
まだこの時は、何が何かさっぱり分かりませ〜ん
これはロシア方向を写しています -
11:51:18
いつものことだけど初めての場所は
バスの終点が何処なのかもさっぱり分からない
今日のホテルがすぐ傍なのか?遠いのか?
輪タク(3元)があったので乗る
歩いても5分くらいのすぐそこだった
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■東寧・到着
11時10分、綏芬河との分岐点を右へ曲がり東寧へと向った。そして東寧の街の手前を流れる綏芬河を渡り中華路に入って客運站(バスターミナル)に到着した。到着時刻は11時45分頃、バスの運転手がメチャ飛ばすので乗り心地は最悪。2時間45分ほどのバスの旅だった。
東寧のホテル「税苑賓館」の大体の場所を権香玉から聞いていたが、初めて来る場所は全く方角分からず近くに輪タクがいたので、「税苑賓館知ってるか?幾らだ」と聞くと「3元」と言うので乗った。やはり歩いても5分ほどのすぐ傍だった。乗車時間3分足らず。
予約はどことも完璧にされており、大したトラブルは無かった。一度だけ料金を請求された。権香玉の携帯番号を教えて連絡をしてもらい旅行社への支払済みを確認できた。そして部屋に入ったのが12頃で、すぐに準備をして出て行った。
まずは昼食をと近くの小吃店に入りメニューを見るが、写真がないので分からない。無難に揚州焼飯(5元)と豚の串焼き二本(1元×2)を頼む。味は?何とか食える。 -
11:54:18
東寧税苑賓館に到着
いつものことだが、宿に着けば
ひとまずホッとする -
11:58:50
この部屋に二泊する
まあこんなもんでしょう
宿泊代一泊200元、朝食付き
日本人なら
日本円¥3000円でこの部屋で文句は言えない
文句言ったら罰が当たります -
11:59:00
部屋から外を写す(北東方向)
三角山陣地方面、この時は何も分かってませんが -
12:27:56
猪肉串刺し2本・2元と焼飯5元
日本円¥105円の昼食、味もその値段 -
13:00:40
タクシー運転手・張学雲と出会い
まず新華書店で地図を買い
私もさっぱり訳が分からんままタクシーでここに来ました
この時点では、ここに来る意味は全く分かっていません
何が何だか???ここは一体何処やねん?何やねん状態
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■ドラマの始まりは、一期一会の出会いから
食い終わってタクシーを求めて歩きながら、大袈裟だが旅の運命の出会いの一瞬がある。ガイドもなくタクシーを借り切っての旅は、その運転手が成否を決めることになり兼ねない。まあ運転手だけではなくガイドも同じだが、こっちが何も知らない場所なので相手次第になってしまう。
その一瞬が又博打のようで何とも言えない面白さがある。こっちの駆け引きもあるし、それにこんなことこそ経験が物を言う。歩きながら女性ドライバーを見つけたので声を掛けた「ウェイ!」って。電話で「もしもし」が「ウェイ」である。
最近は女性ドライバーにこだわらない。タクシードライバーをやってる女性はそれなりに“したたか”だし、つまらん女性ドライバーの方が男より倍オモロクナイから。でも、今回は女性と分かって声を掛けた。
張学雲(42歳:漢族)主人は工人、高校2年生の娘が一人。収入は主人より多いが二人合わせて一ヶ月3千多元(4〜5万円)。まずは突然の日本人客に誰しも驚く。張学雲もこの仕事を10年くらい前からやりだして、初めての日本人客だった。
そして「東寧要塞に行きたい、その他、こことここと」と地図や資料を出して説明し、包車(貸し切り)の商談だ。「今から5時まで幾ら?」と聞いたら、張学雲は「貴方は幾らくらいならOK?」と聞いてくる。「ここの相場は分からないし、そっちが先に言ってくれ」と、いつものように切り返す。
しばらく時間が掛かってやっと値段を彼女が言った。「150元:2250円」。4時間150元なら高くはない。すぐに「行:シン、OK」と返事をして交渉成立。しかし、東寧要塞以外の場所は彼女もさっぱり分からないようで、ここから東寧でのドラマが始まった。
まず書店に行って東寧の地図(4元)を購入した。彼女は携帯でどこかに電話を掛けて聞いていた。そして私に代われと言う。その電話の相手は日本語を話す、残留日本人の身内でK君27歳だった。
8年前(2001年)に両親、姉と共に日本に行き、半年前まで長野県に暮らしていたそうだ。この不況で仕事がなくなり一旦家族で東寧に戻りリフレッシュをしていたとのこと。
そして明日の夜には又日本へ向って出発と言うことだった。張学雲はそのK家に向った。市内の中心部から外れた家並みの一角に彼らの家があり、誰なのかさっぱり分からないが何人もの人達が私を出迎えてくれた。
さっき電話で話をした時はK君は半年間日本語を使っていず、いきなりの日本語での電話だったので話し難かったそうだ。私も相手がどこの誰かもさっぱり分からず全然互いに通じなかった。
K君も東寧で日本人に会うのは初めてのようで、とにかく私が日本から要塞を見に一人で訪れたことに対して当初意味が分からず「凄い!」「凄い!信じられない」の連発だった。両親も一緒にいたが8年間日本に住みながら、二人ともほとんど日本語は出来ない。それが私には「信じられない」だったが・・・。
日本で親父さんも働いていたそうだが職場でも言葉は必要としなく日本語が上達しなかったそうだ。親父は私より4歳下の55歳。K君家族の苗字は日本人名で、結婚しているお姉さんもおり、姪もいるがその子の名前も日本人名だった。中国名もあるのだろうが。今は亡き祖父が残留日本人孤児だったようだ。
そして明日の夕方には日本に行くK君が、気ぜわしい時にも係わらず通訳として付き合ってくれることになった。まずは三人で東寧要塞に向う。K君は一度行ったことがあるらしい。車で20分程走り到着した。 -
13:14:08
左端:運転手の張学雲とK君とご両親
この時は、事情が分かってます
でも、何で?ですが・・・。 -
13:30:36
先ずは東寧要塞(勲山)に向う
こんな風景の東寧市外街を走り -
13:34:24
南山村の標識あり
でも、南山村というのは知らない -
13:47:52
「私達中華民族は国の恥辱を忘れない!」ってか
どこでも、ここでもそんな文言ばかりで
これこそ中華の“恥晒し”ってもんじゃ
ホンマ“恥”を自慢とばかり豪語するな
恥と言うものを知れ!と言っても無理か
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■我、東寧要塞に来る
東寧要塞として観光客に解放しているのは勲山陣地。1時44分くらいに着いた。ボチボチと中国人やロシア人観光客の姿も見られた。日本人らしき者とは会わなかった。
階段を登って行く、結構きつい急勾配の階段で腰痛の身には不安のはずが、それより興奮状態のほうが勝り、二人には、「ここで待っていてくれ」と言って一人でガムシャラに上がって行った。
途中の展望台で、「戦跡に祈る」牧野弘道(著)の中に掲載されていた写真と同じ風景が広がった。前方左に勝鬨山陣地、そして右に栄山陣地が見えた。勝鬨山は頂上に二本の鉄塔が立っているので遠くからでも確認しやすい。望楼も見える。
そんな瞬間が旅の醍醐味だ。昭和20年8月26日まであの要塞を死守し戦っていた日本人たちがいた。今その場所にやって来た。そんな感傷に耽りながらも一気に勲山頂上まで登った。 -
13:52:32
勲山中間点より写す
急階段もなんのその腰痛も吹っ飛び早足で登る
左端・勝鬨山(二本の鉄塔)その右・栄山陣地
下には博物館となにやら産業廃棄物が置いているのが視認できる -
13:54:12
デジカメズームで勝鬨山を写す
左・勝鬨山陣地(二本の鉄塔):右・栄山陣地
勲山から南方向、左手方向(東)がソ連領 -
13:54:26
同じ場所からズームを拡大し勝鬨山山頂を写す
二本の鉄塔と国境監視塔が見える
鉄塔の奥に監視塔は立っている
http://www.youtube.com/watch?v=AKgMTqxJ62E&feature=player_embedded
手前の鉄塔の右2〜30m下った場所に
穹窖の入口と空き地があり、投降地点の碑がある
無論、この時は何も分からず
只勝鬨山と栄山が我が目前にあり感動す -
13:58:44
枯れ葉が積もり、そして写真では分かり難いが
交通壕などはまだまだ立派にその姿を留めていた
タバコに火は点けれないが壕の中に置いた
///////////////////////Web抜粋↓
東寧陣地
関東軍誕生:大正8年4月12日
ソ連極東軍 昭和7年8月頃からソ満国境にトーチカを築城し始める
それに対応して
東寧要塞は昭和9年6月から築城を始める。完成は昭和13年4月
南北(正面巾)約16キロ、東西(縦深)約8キロ。
東寧における日本軍の守備陣地は、北方の郭亮陣地、南方の勝鬨陣地を格別に堅固な要害陣地とし、周辺に勾玉、三角山、穆稜(ムーリン)、安山ほかの陣地を整備した。
勝鬨山・狼洞溝(ろうとうこう)・三芬口・郭亮船口を拠点に築城され、拠点間には野戦陣地が配せられた。
司令部は東綏に置いた。
//////////////////////////////////////以上
■勲山頂上へ
デジカメ時間では10分ちょっとで頂上到達。その頂上に着いて又ビックリす。
交通壕や塹壕が至るところに残っており、機関銃陣地跡や砲台の破壊跡、要塞の破壊跡なのか分厚いコンクリートの塊があちこちに生々しくむき出しに残っていた。とにかく山全体が要塞陣地として構築されていたのが実感できる。表面は山だが、この山の内部は天然の岩盤やコンクリートで補強された一大要塞なのだろう。
しかしながら武器弾薬兵士のことごとくが、南方戦場に引き抜かれ、この堅固な要塞も、残念無念ながらその持てる力を発揮することは出来なかった。それでも残存守備兵と「根こそぎ動員」で応召された兵士が敢闘した。
この勲山要塞は地下道の総延長が3,000m。ソ連侵攻時一個小隊(30人程)しか配備できず、いつ陥落したのかどのような戦いだったのか?今も私には分かっていない。
頂上をうろつき中腹に戻るとK君と張学雲がそこまで登って来ていた。そして、そこに要塞入口があった。私はそこに入らず一気に山頂に行ったのでK君から言われて初めて気付いた。入口は砲口の一つだそうで、撃てば敵の反撃から砲を守る為に要塞内部に取り込む仕掛けになっている。
内部にはレールも敷設され、階段がありビルの中のようであった。壁全体がセメントで塗り固めて奇麗になっているのは観光用として補修しているからだと思う。まだ手付かずのところはそうではなかった。この要塞見学は広くて階層に分かれているし、そのくせ順路の案内が不備で、迷ってしまう。
私も迷ってしまい、中国人に教えてもらう羽目になった。勝鬨山は地下道総延長が6,000mと、勲山要塞の倍の長さがあり、その巨大さが想像出来る。勲山から勝鬨山方向を向いて右手には出丸陣地がある。この出丸陣地は8月13日、ソ連軍の攻撃に遂に陥落し、山頂にソ連軍が砲を並べ日本側陣地に攻撃を仕掛けてきた。 -
14:00:02
一体このコンクリートの破壊跡は何のか?
頂上にあった建造物なのか?
山中の要塞が爆撃や砲弾で破壊され地上に姿を現したのか?
抉られた跡と共にアチコチに無残に残っていた -
14:05:38
頂上にも穹窖の出入口のようなものがある
勲山を勝鬨山から眺めれば頂上といっても
台地のように平らで広い
そんな広い頂上全体を縦横に壕が掘られており、
アチコチにコンクリートの破壊片がむき出しになっている
この山全体が要塞になっているという感じが頂上にいても分かる -
14:12:52
頂上付近の穹窖
入口周囲の巨大な岩石に驚く
この山自体が岩山なのか?
それとも運んできたのか?
石組み跡が分かるんで、運んで来たのだろう -
14:13:12
この穹窖入口内部の様相に驚く
岩山をくり抜く?コンクリートの厚さ?
この岩石とコンクリートの組み合わせに絶句しかない
何がどうなっているのやら・・・。
国の命運が掛かり
自らの命を守り、敵に勝つにための大仕事とは
こういうことを言うのだろう -
14:13:30
穹窖内部より出口を写す
二層になっているのは何で?
この穹窖も大砲の砲口だったのかも?
ど素人の想像では如何ともし難し
この勲山陣地はソ連侵攻時、一個小隊の布陣しかなかったようだ
もったいない限りなり -
14:13:46
この穹窖内部の碁盤の目模様
これがもともとの原型なのか?
虎頭要塞でも整備されていない要塞内部はこんな感じだった -
14:16:18
この写真には朝日山・軍艦山も入っているだろうが
私には確証なく
私が確証出来たのは
この勲山・勝鬨山・栄山の三つだけだった
出丸陣地もあれがそうだろうと思うだけだ -
14:18:10
こんな急な階段を一気に上って来ました
精神力って凄いですね
その気にさえなれば何でも出来ます
腰痛なんて糞食らえです
神経性の腰痛なのか?
内部は重層構造で迷うくらい大きく広く
私も実際迷ってしまいました
この要塞に一個小隊(30〜60人)の配備しかなかったとは -
14:20:48
観光用:勲山要塞内部に入る
この勲山要塞内部も圧巻でした
広さと、その設備、中は迷路のようでしたが
永久要塞と言う名前も伊達ではなく
只その実力を発揮することが出来ず残念至極ですが -
14:25:00
こういう広い空間もあります
出来た時の状態はどんなのだろう
ここでの住み心地は?
良いとは思えませんが
戦時にはこれほど心強い物はないでしょうね
それくらい強固に感じます -
14:33:40
「侵華日軍罪証」:中国を侵略した日本軍の罪の証
どのプレートにもこういったことを書き記す性根こそ
軽蔑に値する -
14:33:48
シャワーだけではなく、ちゃんと浴槽がある
一流ホテル並みの住み心地なら最高だけど
この要塞に、必要兵員と武器弾薬が充足していれば
ソ連も侵攻など考えもしなかったろう
軍事力の圧倒的優位こそ、自らの平和を保ち得る
それだけが唯一の抑止力となる
軍事力の強化を怠ることは、リーダーの不作為の罪だ
そんなリーダーを国民が選ぶなら、国民こそが愚かでしかない -
14:40:46
大砲の格納の為か?砲弾を運ぶのか?
ちゃんとレールが敷設されている -
14:41:26
大砲の出し入れ口
勲山の戦いのことはいろんな資料を探しても分からず
きっとここの大砲も南方に移送されていたのだろう -
14:41:58
ここが東寧要塞への入口
デジカメ時間によれば21分の滞在
中で迷ったし -
14:49:00
ソ連軍を讃える像はいつまで立っているのか?
見物です
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■要塞歴史陳列館に入る
2時40分に要塞を出て要塞歴史陳列館に入る。その前にはソ連軍のデッカイ慰霊碑が建っている。中国がソ連に解放されたとはお笑い種だ。瀕死の日本の足下を見て卑怯にも侵攻したソ連だ。
その後、満州の全てを好き放題に略奪していった奴等を讃え、良くぞこんな物をやたらに建てられるものだと、その神経を疑う。
陳列館内でフラッシュを止め写真を写す。別段注意された訳でもないのにブレ捲っている。小心者のなせることだ。興味深い写真も結構多く展示してあった。20分ほど観覧し外に出る。
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[社会] 東寧要塞ソ連紅軍陳列館が開館
黒龍江新聞 キム・ドンパ記者
2005年10月21日 以下抜粋↓
18日午前 9時、東寧県政府の主催で、東寧要塞で荘厳なソ連紅軍陳列館開館式が開かれた。
今度の開館式に東寧県政府と黒龍江省政治協商会の具ヤンウム主席、黒龍江省商務庁庁長を含む中国側の役員 4000人余り及びロシア駐中大使、ロシア浜海新区ドゥマ主席、ソ連老紅軍戦士を含むロシア代表団 1000人余りが参加した。
まず両国の荘厳な国歌に続き、両国代表団の発表式が挙行された。東寧県・陳殿運書記は "世界反ファッショ戦争 60周年を記念して開かれた今度の開館式は、いかにも深い意義がある。 東寧要塞は中国で最大の要塞軍であり、またアジアの戦場の最後の基地だ。 特に東寧要塞戦闘でソ連紅軍 1500人が戦死した。
中国は抗日戦争でソ連紅軍の支援で世界反ファッショ戦争の最終敵な勝利をおさめることが出来た"と述べ、ロシアの代表側に深い謝意を表示、今後も過去を忘れることなく両国間の親善関係をさらに厚くすることを願った。
ロシア大統領浜海新区全権代表は、世界反ファッショ最後の戦場である東寧要塞ソ連紅軍記念館を設置したことに対して、東寧県政府に深い感謝を示し、反ファッショ戦争で戦死した中露両国の烈士たちに深いな黙祷を捧げた。
彼は反ファッショ戦争勝利 60周年を記念して、今後の両国間の友情をさらに増強し、また今度の記念館設置をきっかけに、今後の東寧とロシア浜海新区間の未来の経済合作の構図を広げることを期待した。
発表式に続き、中露両国の関係者がソ連紅軍記念碑に献花した後、東寧要塞ソ連紅軍陳列館を参観した。 ソ連紅軍陳列館にはソ連紅軍が使った大砲,、銃そして戦死した英雄たちの業績が紹介され、中国側陳列館には李スダンを含む 5人の朝鮮族慰安婦と 10人余りの朝鮮族烈士たちの史蹟が書かれていた。
////////////////////////////////////以上
-
15:03:38
勲山全景
その正面くらいから急階段を登って頂上へ
頂上といっても台地が広がっているという感じですね -
15:09:04
ソ連軍慰霊碑
ロシア人も見かけました
近いと言えば、そりゃあすぐ隣ですから -
15:09:30
まだ新しい花輪が二つ置かれていた
この東寧の日ソの戦いは
「戦跡に祈る」42頁によれば↓
日本軍守備隊戦死者82人に対して
ソ連軍の戦死者は500人を超える
日本軍の勝ち戦だった
・・・と、ある。
人数は、他にもイロイロあるが
戦死者の数で勝敗をつけるなら
日本軍の勝ち戦だったことは間違いない -
勝鬨山に登る
15:15:38
今、勝鬨山は炭鉱があるのか?
この石炭の集積場所を通って登り道がある
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「戦跡に祈る」牧野弘道(著)より
以下、要約抜粋
「関特演」の時
在満師団:12個師団・・・そのうち対ソ東正面に7個師団。
牡丹江に司令部を置く・第三軍
?綏陽に第八師団(弘前)
?牡丹江・第9師団(金沢)
?東寧・第12師団(久留米)
東安(密山)に司令部。第5軍
?佳木斯・第10師団(姫路)
?虎林・第11師団(善通寺)
?東安・第24師団(熊本)
?林口・第25師団(大阪)
以上・計7師団
関東軍は18年をピークに戦力は低下 最終的には173個師団
一貫してソ連軍を刺激しない「静謐保持」が関東軍の戦略
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東寧の町へ行く
密山から東寧まで300キロ。鶏西市を通過する。鶏西は満洲時代は寒村だったが戦後の炭鉱開発で大きく膨れ上がり牡丹江以東では最大の都市に発展した。下城子(かじょうし)という町で東に曲がり高速道路に入った。
中露国境の町、綏芬河の手前、かって弘前の第八師団が駐屯していた綏陽で南に曲がり、いよいよ東寧は近い。午後1時前には到着した。密山:午前8時半⇒東寧:午後1時=5時間半。
幅員50メートルを超える大通りが東西に走り、両側に高層アパートが林立している。何もかもが新しい町。かと思うと東寧要塞に向う道は一転してデコボコ道になった。日本軍兵舎群はすべて取り壊されトウモロコシ畑に変わっていた。
東寧要塞は勲山入口にある。入口は砲口の一つ。砲身を出した野砲が撃つだけ撃つと、敵の反撃から守るため砲を中へ引き上げる仕掛け。
地下道総延長3,000メートルという内部はきれいに整備されて、兵員室だったと思われる広い一角は要塞内部から収集された品々を陳列する地下展示室になっていた。
一番奥の勝鬨山が地下道総延長6,000メートルあって最大のはずだし、ソ連侵攻時、兵力不足でわずか一個小隊しか配備できなかった勲山より、主力が立て籠もって最後まで戦った勝鬨山のほうが歴史的価値も上のはずである。それを一番手前の勲山から手っ取り早く整備して一般の見学に供するあたりは虎頭要塞と同じである。
東寧市街から東へ10キロちょっと行くと烏蛇溝河(うだこうがわ)丘陵地帯を東西に分けるように流れており、これが現在も中露国境になっている。
南北の丘陵の切れ目に三芬口(さんふんこう)という村落があり、東寧の街道はここを抜けてロシアにへ入るのだが、現在の交易はもっぱらすぐ北の綏芬河経由のようで、道はデコボコだし車の往来はほとんど見られなかった。
かっては旅団規模の兵力があったが東寧の第一国境守備隊は改編され旅団と名は付いても砲兵一個中隊が付いた独立歩兵大隊だけで兵力は半数以下である。そのうち一個大隊ずつで街道北の勾玉(まがたま)山、三角山一帯と、南の勝鬨山を主陣地とする一帯を守っていた。
勾玉山の独立歩兵大隊主力700余人は猛砲撃と司令部壕を爆破されたことで、13日朝までに玉砕した。
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勲山陣地に登る
正面に二本の鉄塔がたったなだらかな丘陵・・・勝鬨山陣地 勲山から真東ではなく南の方向
勲山と勝鬨山との中間にあるのが朝日山陣地 勝鬨山の先にあるのが栄山陣地
勝鬨山の標高は278メートル・タクシーで登る。周囲の平地との高低差はせいぜい100メートル。
頂上に着くと、林さんが「裏(西)側へ30メートルほど下ると陣地の入口と、その前に碑があります」と教わり行く。中は未整備で危険。頂上に戦後中国軍が建てた監視塔があり登る。
1969年、虎頭北方100キロのウスリー江上で起きた珍宝島(ダマンスキー島)事件で中露関係が悪化した時に建てた。今は見捨てられ荒れ放題。登るとロシア領が初めて良く見えた。
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栄山陣地の圧勝
ソ連軍は国境正面からの攻撃を避け、越境して深く入り込んだ東寧方向の裏側から要塞群を包囲するように攻め上がって来た。一番入口の出丸陣地こそ11日失ったものの、その奥の勲山、朝日山、主陣地の勝鬨山、その後方の栄山陣地は猛砲撃を受けながらビクともしない。
翌12日朝、ソ連軍一個大隊以上千人を超える兵が栄山のなだらかな斜面を南から攻め上がってきた。ソ連兵は砲撃で日本軍兵士が死に絶えたのかと思ったのか、銃を肩にかついで立ったままのろのろと歩いてくる。
その隊列が栄山陣地の前方700〜800メートルまで近づいたとき、味方の迫撃砲、擲弾筒(てきだんとう)がいっせいに火を噴いた。あっという間にソ連軍は約500の遺棄死体を残して退却した。
信じられない勝利だったが、このソ連軍、訓練不足でかなり質の落ちる部隊だったようである。このような部隊を消耗品のように最前線に立て、精鋭部隊はその後ろから進むのがソ連軍の常套手段だったという人もあるくらいだ。
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虎頭と東寧の本家争い
両方とも8月26日まで戦う。「第二次世界大戦終結の地」を売り文句にしている。博物館があり遅浩田・元国防省の筆になる巨大な記念碑が立つ虎頭のほうが優勢に見えるが、東寧の方も同じ文句の大きな横断幕を張って頑張っている。
同じ黒龍江省の中で本家争いをしている。一日見ただけでは分からないが、見学者は東寧のほうが遥かに多かった。交通の便がいいからだろう。
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綏芬河
牡丹江へ向う途中、中露国境の綏芬河へ寄った。ロシアからの国際線と国内線の二つの駅が並んで立っている。日本が本格的に満洲進出を始めた大正3年(1914)年に建てられた日本領事館がそのままの姿で残っていた。
ロシア人が毎日大勢やって来るという。この極東の地では、どう見てもロシアより中国の方が豊かなようである。
(以上:戦跡に祈るより抜粋)
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15:16:28
張学雲は車が壊れるのが気になるのか無理しない
すぐこの先で、「戻れなくなると困るから」と停めてしまう
私は「歩いて登るのも良し」と、二人を待たずにさっさと先に登る
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■さあ次はいよいよ勝鬨山(標高278メートル)に登る。
K君も地元ながら勝鬨山に登れないと言う。タクシー運転手の張学雲も道がないと言う。しかし牧野弘道氏の著書にはタクシーで頂上までピストン往復したと書いているし、勲山の頂上から見たらちゃんと頂上付近にも道があった。
3時過ぎに勲山から勝鬨山に向った。二人がなんて言おうが「とにかく私はあの勝鬨山に一番行きたい」と強調して何度も言った。そして、「勲山から見たら石炭山のところから道があったから・・・」と私が言っていた通り、そこまで行くと登って行く道があった。
そして途中まで車で行ったが、張学雲が「戻れなくなると駄目だからここから歩いて行こう」と停めてしまった。
まあ仕方がないと思い私は即座に降りて二人に構わず先に歩いて行った。3時22分のことである。一体腰痛はどうなったの?という感じでホンマ救われた。K君も27歳と若いが私の歩くペースには付いて来れない。意気込みの差とはこんなものかと思う。
一気にハイペースで歩き車を停めた所から17分くらいで頂上(3時39分)に着いた。ひたすら頂上に続く道を脇目も振らず一目散と言うペースで・・・。そして今の勝鬨山は頂上付近まで開墾され畑として使われている。要塞の上の畑だ。
勝鬨山は東寧では「SHENG・HONG・SHAN:シェンホンシャン」呼ばれている。勝鬨と意味は同じだ。頂上には二本の鉄塔が立ち、まず、勝鬨山要塞陣地の碑があった。車を降りてデジカメ時間を確かめれば17分で山頂到着。実際には随分歩いたような気がするが。
そして国境監視塔が建っている。これは中国がソ連と緊張関係になっていた時、国境警備で立てたようだが今は使われていなく門も閉まっている。牧野氏が平成16年夏に来た時も無人だったが登れたようで、上に登ればロシア側が良く見えたそうだ。今は残念ながら門が閉じられ鉄条網があり入って行けそうも無かった。
そして最後の投降地点である場所は、権香玉からも頂上の右側30メートルくらいのところと聞いたし、牧野氏の著書にも西に30メートルと書いてあり資料として持って行ったのに・・・。鉄塔を正面にして右手と勘違いし道が続く方向(南)へと降りて行った。
そこには確かに要塞の破壊あとが瓦礫状になっていた。コンクリートの要塞瓦礫は熱で軽石状になって裏表色が全く変わっていた。今見てもすぐ分かる。それくらい激しい爆発があり高熱の戦場だったのだ。
そいて紀念碑も何もないのに勝手に「ここかも」と思ってしまった。そして写真を何枚も写し半信半疑ながらもここまで来れたことに納得してしまった。それは第一に勝鬨山の頂上に東寧に着いたその日に来れたという満足感である。
それもK君と張学雲の二人が登れないと言うのを強引に来て、実際にここまで来れたから。
栄山がすぐ横に確認できた。これなら14日の栄山での圧勝戦闘も手に取るように見えたのが納得だ。
勝鬨山山頂から磁石で方向を確認したら、栄山陣地は西南西方向すぐ横隣。勲山陣地は北西方向。出丸陣地は北北西。朝日山はどれなのか?良く分からなかった。
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