2009/05/12 - 2009/05/23
40199位(同エリア47408件中)
明石DSさん
12:20:48
線路の北側の道を代馬溝方面に向って歩く
この道を若槻挺身隊は歩いて行ったのかも?
戦闘概要図を見れば線路北側でも敵戦車5〜6輌が擱座してる
ならば、この道を向って来たに違いない
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■線路の北側沿いを歩く
この道へも、山の斜面へもソ連戦車が侵攻しそれに対して日本軍が肉攻攻撃をしている。満人部落にもソ連兵は突入して来ている。そして日本軍はこの辺り(駅の北側)でも5〜6輌の戦車を擱座させている。
線路は左にカーブし代馬溝へと向う。
「岸壁の母」の息子:長身で色白、ひときわ目立つエリート候補生であった端野新二候補生は、大隊本部近くに配属とあるので線路を挟んで北側の道路にいたのかも知れない。
途中線路を横切り南側に出る。そして、線路の南側に東西に繋がる道も両側に蛸壺を掘り候補生達がソ連軍戦車と死闘を演じ多数が戦死した道路であった。西に牡丹江へと続いている。
その日、その時は、地図もちゃんと見れず川の位置もはっきり地図との比較で確認出来ずに歩きながらも確証なく歩いていた。
21日に再度訪れ、“この道がそうだ”と自分ではそう思っている。
-
12:21:58
代馬溝へと線路は続く -
12:22:02
線路に降り、磨刀石駅方向を写す
線路右側の道も幾輌もの敵戦車が向った
そして日本軍の攻撃によって擱座している
この狭い範囲での戦闘は
敵戦車と生身の候補生の肉攻白兵戦だ -
12:23:16
線路の南側に来た。
この道も肉攻攻撃の道だ
この時は、まだ何の確信も持てず歩いていた・・・が
牡丹江方向を写す。右手がすぐ線路だ。 -
12:24:02
磨刀石を流れる川と道路の交差点も来ていた
戦闘概要図で確認できる地点だが
この時は、その認識なく写真を写していた
東方向、代馬溝方向を写す
川は北東方向に続いている -
12:28:46
代馬溝方面に背を向け磨刀石駅へと歩く
この道をソ連戦車は侵攻した
山の斜面と線路の僅かなスペースでの戦い
どう考えても、それは私の想像力の範疇ではないだろう
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■磨刀石駅前にて
12時半過ぎに駅前に戻り林○金と駅前の小吃店で昼食を食べた。林○金は何故か?私に一人で食べて来いと強情だった。そういう訳にも行かず私も強引に誘い店に入ったが、彼は私と同じラーメンを頼んだだけでその他は頼まなかった。
私は彼が“ちじみ”のような物を私に頼んでくれ、美味しかったので二枚食った。そして、清算の時には素早く彼が小姐に払った。そういうことだったのか・・・客に奢ってもらうのが嫌なのか?日本人が嫌なのか?何かこだわりがあるのか?
何か分からないが90kgの体重の体格の良い漢族の林○金は、少し変わっていた。その他の物腰は柔らかく丁寧であり仕事に徹する風があり体つきとは違う雰囲気だったが、この時の彼の態度に少し驚いた。
そんな林○金も最後に200元とチップ20元(昼食代二人で12元くらい)を渡したら笑顔で受け取った。彼のこだわりは良く分からん。
昼食後、駅の南側に行き、肉攻攻撃のメーンの道だったと思われる道を村はずれまで歩いて往復した。 -
12:32:20
右側は山裾、左下に線路が走る、ここも山麓斜面の一部
1945年、昭和20年8月13日、ここは戦場だった -
12:34:36
駅へとやや下り坂になっている
左が線路・無論ここも戦場だ
石光真清が来た頃、磨刀石の宿は賑わっていた
ロシアのカザック兵がこの辺りを仕切っていた
日露戦争開戦3年前の1902年、明治34年
実質的に清王朝の統治能力はなく
ロシアが占拠していたのだ -
12:36:22
磨刀石駅前広場。
昭和20年8月12日早朝、太田中隊は駅前に集合した
太田中隊長は
「これより、前線に出て敵戦車を撃滅する。各自爆薬を受領し、
小隊長の指揮に従え」との訓示を行った
今から64年前のことである。 -
12:36:32
駅前広場より北側を写す
猪股大隊戦闘概略図によれば
この地域は「満人部落」との記載あり
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「われは銃火にまだ死なず」南雅也(著)
難波少尉の話・・・・・・・・・以下、要約抜粋
師団経理部の難波少尉は、13日補給路選定の為に磨刀石に来ていた。そして道路両側にタコツボを掘って肉攻配置していた候補生たちを見た。聞けば、黄色爆薬一個というあまりにも命知らずの装備である。
即座に「お前たちの出る幕はない。命を粗末せず、砲兵の射撃を高見の見物でもすることだ」タコツボから振り仰ぐ候補生に、馬上から少尉はそう言った。だが数刻ならずして、この時の発言が懺悔の心でさいなまれることになる。
97頁
以下は難波の少尉の手記・要約抜粋
一段高い所で砲体鏡をのぞきこんでいた隊長が「おい!あれを見ろ」と言った。居並ぶ将兵は一斉にそちらを見た。早くも代馬溝を抜いた敵戦車はそこまで迫っていた。そしてそこには爆薬を抱え敵戦車に飛び込む肉攻手の散華する姿があった。
真昼の輝く太陽は緑一色の真夏の太陽の戦場を照らし、緑と岩と地肌との遥か右下方を照らしていた。一台の戦車が斜めになった。多分丘へ上がろうとした所だろう。バラバラと肉攻手がイナゴのように飛びかかった。
パッと上がる白煙、逆さに落ちる日本兵。動かなくなった戦車の砲塔だけがぐるりと廻って下を向いた。「やったァ」観測班から歓声が上がる。50メートルぐらい離れた所では敵戦車が小さな円を描いてグルグル廻っている。
キャタピラを破壊したのだ。肉攻手が次から次とから飛び出して行く。戦車の機関銃が火を吐いているのか小さな火がパッパッと見える。
私はハラハラしながらも眼鏡から目が離せない。脚はガクガクし顔は火照り、掌はじっとり汗ばんでくる。激しい感動に喉はカラカラだのに腰の水筒に手をやることも忘れた。何と言う壮烈な光景だろう。どこの部隊だろうか。
難波少尉たちは、この世とも思えぬ阿修羅の姿を見、直後、敵戦車群を真正面に据えて戦うことになる。その砲撃戦は弔い合戦の様相を呈し、狂気のように師団砲兵たちは射ちまくった。そしてカチューシャ砲の集中砲火を浴びながら砲煙と砂塵の中で戦車に狙いを集中し続けた。
辛うじて生き延びた難波少尉は、やがてあの時の肉攻手たちが石頭予備士官学校の候補生であることを知った。そして、偶然にもその後、あの陣地の生き残り候補生たちに出会うことになる。それは囚われの身となってからのことである。
「ある朝、私たちが高粱の粥をすすっている時、私たちの耳に信じられない声が聞こえて来た。それはおおぜいで軍人勅諭を奉誦する声だった。「おい何だあれは」「帝国陸軍いまだ健在か」などと傷兵たちは口々に言いながら、匙を運ぶ手をやめて数人が屋外へ出た。
私も大急ぎで外へ出て声のする方へ足の痛みも忘れて歩を運んだ。かって病馬廠の本部であった建物の裏手の広場に、数十名の兵たちが毅然と整列し東方に向って声高らかに軍人勅諭を奉誦しているではないか。
私は目を疑った。なんと勇敢な兵たちであろう。その声には敗戦による打撃など微塵も感じられない凛とした若々しい力がみなぎっている。柵にもたれて眺めていた傷兵や衛生兵たちも寂として声なく、つい先日まで兵舎において自分たちが過ごしてきた規則正しい毎日を想い浮かべているのであろうか。
やがて奉誦が終わり、彼等に指揮官の中尉が号令をかけた。彼らの襟に光る軍曹の階級章と座金を見て、甲種幹部候補生だとすぐ分かった。
それにしても彼らはどこから来たのか、食物も我々と変わりあるまい。空腹にさいなまされているはずだ。それにも拘らずキビキビした動作は、一体どこから来るのか。継ぎはぎでボロボロの軍服さえ彼らのためにあるかのように光って見えた。
それにしてもこの大胆な行動はどうであろう。一敗地にまみれ捕虜となり、望楼から機関銃で狙われている日本軍の将兵たちが、何ら臆する色なく堂々と「軍国主義」の訓練を誰はばることなく行っているのだ。どう見てもまさに天を恐れざる大胆不敵な行為と言わざるを得ない。
指揮官は果たして豪傑なのか、馬鹿なのか。そして崩れ行く階級制度の中で唯々諾々(いいだくだく)とこれに従っている甲幹たちは、純心なのか、杭する術を厳しい教育によって忘れたのか。このような行動の原動力は何なのか。
何かあるはずだ、この勇敢なる一団は何者なのだ・・・。
難波少尉は、心に快哉を叫びつつもこう自らに問い、ある懼れのような気持ちで聞き廻った。そして彼らが、平然とソ連軍の中で軍人勅諭を読むこの彼らが、あの磨刀石の勇士であることを知ったのである。
溢れる涙の底に、あの時の死闘がまざまざとよみがえり、今ボロボロの軍衣袴に身をやつす候補生たちの姿にあの鮮烈な映像が重なった。そうだったか、そうだったか、あたり憚らず号泣する難波少尉であった。
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猪俣大隊長:奥山候補生(談)
大隊本部付近の青かった山肌も赤茶けるほど一変した。本部の壕入口より僅か10メートルほど離れた至近距離に迫って来た一輌の敵戦車は、轟然と入口に砲撃を加えて来た。その中で猪俣大隊長は、上半身をぐっと張り昨日と全く変わらぬ姿勢で作戦命令を次々に下達している。
その大隊長の足許に、周りに候補生がうつぶせになっても大隊長はたじろろぐことなく、敵戦車を凝視し続けた。それはまさに鬼神も哭く勇姿であったと、奥山候補生は言う。
「本当の武人の姿、軍神の型を見た思いがする。大隊長に生死はなかった。生死はすべて没却し、唯使命のためにのみそこに立っていた。私は敵包囲網の中で大きな安堵感を抱いていた」と述懐している。
/////////////////////////以上、抜粋終わり -
13:07:06
磨刀石には今も荷馬車は似合う
いつまでもこの光景続けと願う
石光真清の時代に戻れる
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「われは銃火にまだ死なず」南雅也(著)
磨刀石での戦い ・・・・以下、要約抜粋
土本吉夫候補生(法政大学学徒出陣・談)
壕の付近
200メートルほどの山がいくつも重なり合い、子供の頃連れて行ってもらった古戦場・関ヶ原によく似ているなと思った。道路と鉄道は小高い山に挟まれ、敵戦車がここを直進して来れば要撃するにはかなり効果的だと判断した。
若槻区隊長を長として
三十名の挺身斬込隊、代馬溝に宿泊するソ連軍に夜間斬込を行う。区隊長は夜目にも白い歯を見せながら闇の中に消えて行った。これが陣地で若槻区隊長を見た最後になった。
8月13日
敵戦車群来る
午前10時頃である。戦車砲はほとんど水平射撃をもって砲撃を始めた。
火焔放射器とマンドリンをも恐れず、候補生は次々と飛び出して行く。迫り来る戦車をめがけ、爆雷を胸に抱きしめ突入の直前、ガクンと戦車が停止、そのため時間距離を狂わせられた候補生は縛着の手榴弾が炸裂して胸の中で爆薬が自爆、戦車の数メートル手前で首、胴、体、手足がバラバラになって吹き飛んだ。
銃撃で足を射抜かれながらも、死力を尽くして戦車に辿り着き、そのまま炸裂の中をキャタピラに全身を巻き上げられた候補生も多い。
タコツボを狙い、一つ一つ潰していったのは火焔放射機だけではない。あの巨大なスターリン戦車は、道路を踏み越し、両側のタコツボを発見すると、その上にまたがりぐるぐると回転しながら候補生のうずくまる壕を踏み潰していったのだ。
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13:11:30
肉攻攻撃の道
代馬溝方向を写す
左・磨刀石駅
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線路の南側に再度行く -
13:17:34
左の小高い山、その左やや奥がさっき登った頂上
この山からこの道まで線路を越えて山麓と言える
この道沿いに身体は砕け散り土と化しても
その魂は永遠に不滅であり
護国の鬼神となって見守り続けてくれている -
13:20:18
磨刀石鎮の線路南側、東地域。
列車がこの山沿いを走っている -
13:27:14
今は、この道だと思うが確証はない
地元民に聞いて言いない。
当時、戦場になった道がそのまま道として今もそのままあるのか?
脱出困難な湿地がこの道の左側(南)に広がっていたそうだ
牡丹江方向を写す -
13:28:12
この両側に蛸壺が点々と掘られ、候補生が飛び出して行った
我、その道を歩く
右側に線路、牡丹江方向を写す -
13:32:24
川を渡り公道へと向う
昔も今も川の流れは同じだろう -
13:32:34
左に曲がった所に磨刀石鎮の碑がある
右に曲がって牡丹江へと戻る
サラバ磨刀石よ -
14:02:02
房産公寓賓館前にて下車
真面目な林○金に、飯代のつもりで20元プラスして渡す
満面の笑顔で受け取ってくれた
気持ちが高揚し、充実の磨刀石への旅は終わった -
15:14:58
北山公園の西南西方向、文化街北側にある
今の、この林業学校建つ敷地が跡地のようだ
ここを関東軍兵士が闊歩していた
その勇姿を思い浮かべながらしばし佇む
軍国主義は民主主義に勝る
私は今も心底そう思っている
政治は武人が行ってこそ、国家は誇りを保ち得
人心は健やかで社会は安定する
大衆や商人、宗教家が政治に関与すれば、
国家は無残な姿を晒し
更に国家を疎んじ、個人主義が跋扈し、人心は乱れる
所詮人間は、身勝手で自由と権利を強調すれば個人主義に走る
それが結局、みんなが不幸になる所以だ
/////////////////////////////////////////
■牡丹江・日本軍司令部跡地へ
部屋で風呂に入り、一時間弱の休憩で602号室を出て行く。今度は北山公園の東方向、文化街にある林業学校の校内に権香玉の説明によれば、その建物があるようだ。
そこに向う。そこまでどうやって行ったのか?記憶に無い。でもデジカメ撮影時間によればタクシー(11元=165円)で来ているようだ。多分北山公園でタクシーを降り歩いて来たのだろう。歩いて探した記憶はあるから。
林業学校を入ろうとすると守衛に後ろから呼び止められた。「日本から来た。この校内に旧日本軍の建物が残っていると聞いて見に来た」と言うようなことを言うとOKを出してくれた。
「日本から来た」という一言しか通じなかったかも知れないが、それでOKになったのだろう。中に入って歩いてゆくとそれらしき建物が東側に建っていた。今も堂々として、校舎として使われている。
これなら司令部の風格はあるなあと思える建物だった。だが真偽の程は今の所全く分からない。帰国後、権香玉に写真をメールで送り、この建物がそうなのか否か?問い合わせているが、未だ返事なく分からない。
中央部分は4階建て左右が三階建ての建物で、まだ十分使えるのだろう。中に入って4階まで上がって行った。学生が出入していたが、その辺は中国のこと、こっちが知らぬ振りをしていたら誰も気に止めない。 -
15:19:20
この建物が日本軍司令部だった?
そうではなかった↑
帰国後写真を添付して権香玉に確認してもらった
2009年6月4日 11:24・以下↓の回答メールをもらった
現在の文化街の林業学校は日本軍司令部の後ですが、
建物はやはり戦後立て直したものです。
庭の中の林の中に古いトーチカがひとつ残っていますが、
ほかのものはほとんど昔のがないそうです。
古いトーチカは見ていない -
15:45:52
権香玉が地図にその範囲を囲んでくれたが・・・。
それらしき雰囲気も分からず
司令部があり小中学校、女学校もあった地域なので
当然の如く、日本と変わらない光景がこの一画にあっただろう
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■日本人が多く住んでいた場所へ
その後、権香玉から地図で教えてもらっていた日本人が沢山住んでいた場所に歩いて行った。西が興平路と東が天安路、北が西祥倫街と南が西新繁(XIXINRONG.栄:草冠)街の範囲を教えてもらった。
そこら辺を歩いたけど、新しい高層マンションとボロい家並みが混在し、日本人が住んでいた風の家は分からず、その雰囲気も感じず早々にあきらめた。4時前だったが路上左右に露店が開き賑やかな通りもあった。
http://www.youtube.com/watch?v=xsA24ka7IVE&feature=player_embedded -
15:57:32
新旧混在し何も分からない
只、この地にますます漢化が進む現状を無念と思う
満洲は、未来永劫、中共の一部ではなく満洲なり -
16:49:02
牡丹江大橋から江濱公園が河川敷公園として続いている。
この河川敷公園が市民の散歩道であり
憩いの場所になっているのだろう
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■牡丹江大橋から江濱公園を散歩する
そしてその辺からタクシー(10元)で牡丹江大橋に行く。この南西の牡丹江大橋から北東へ牛角湖までの河川敷が牡丹江の江濱公園として整備されている。その川べりには高層マンション群がある。きっと高級なのだろう川にそっての開けた眺望と公園があって環境も良いし。
北東に向って歩き八女投江紀念碑のある所まで来た。そして手漕ぎの貸しボートに乗る。「漕げるか?」と聞かれ「漕げる」と答えた。漕げない者なんているのだろうか?流れが速いとか、そんな川でもないし。
救命胴衣を着けて乗る。1時間20元(300円)。川はどぶ川の色をし淀んでいる。暑くなればきっと異臭も漂いそうだ。以前吉林に行き松花江の畔のホテルに泊まり川辺を散策した時、その匂いに閉口したことを思い出した。良くこんな臭い匂いの河川敷でベンチに坐ってデイト何てする気になるなあ・・・と。
5時を過ぎての牡丹江でのボート遊び。一体どんな川なのか?幸い匂いは無かった。そして一番驚いたのは中洲に近かったからだろうけどオールが川底を打つ。「な、な、なんやこりゃあ、こんな浅いんか?」であった。
それにボートで川中にいるのにどっちに流れているのかも分からんほどだった。漕がずにいれば止まっている。岸の方を見ていても動く気配がないほど。そりゃあこれでは川も汚れるだろうと。
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牡丹江:『ウィキペディア(Wikipedia)』より
牡丹江(ぼたんこう、Mudanjiang, ムータンチャン)はユーラシア大陸・中国東北部を流れる川で、松花江最大の支流である。吉林省の牡丹嶺に源を発し黒竜江省を北に流れ、牡丹江市を経てハルビン市の依蘭県付近で松花江に合流する。
牡丹江は満州語で「穆丹烏拉(ムーダンウラー、ムーダンは曲がりくねる、ウラーは川)」と呼ばれ、「牡丹江(ムーダンチャン)」と当て字された。
大きな船の航行が可能な国際河川で、流域の牡丹江市などに内航港湾がある。ここから、松花江・アムール川を通じハバロフスクやオホーツク海などに水運が通じている。
上流部、黒龍江省・牡丹江市の南部あたりで、火山噴火による細長いせき止め湖・鏡泊湖(長さ45km、幅は最大10kmほど)がある。
なるほど今(5/26:↑)始めて知った。松花江の支流だったのか。大きな船の航行が可能ならば水深も結構あるようだ。でもそんな船は目にはしていない。そして1時間のところ30分ほどで戻って、ボート屋のおっちゃんに聞いたら水量は減っているようだ。
北(駅を背に向って左)に流れていると教えてもらった。川でボートを漕いでもどっちに流れているの分からない大河?なんて、これも初めての体験だ。水深も聞いたけど忘れたし、メモってもいず。回答を聞き、やはりそんなもんかと思った記憶はあるが、いい加減なことは書けない。 -
16:50:40
牡丹江大橋から北東方向を写す
冬期はこの川も凍結して
どんな風景になるのだろう -
16:54:28
この辺りは高層マンションが建ち並ぶ
価格は一体幾らぐらい?
眺望良く、環境良く、さぞかし高級なり -
17:09:12
牡丹江でボートを漕ぐ
右側の青いボートに乗る
1時間の持ち時間だが、30分で戻って来た
川底の浅いのはビックリ
漕がずとも動かない
流れを感じず、池か? -
17:19:40
昔の牡丹江は如何に?牡丹江でボートを漕ぐ
今は匂いこそ感じなかったが、ヘドロの川と化す
夏になればきっと臭い匂いがするだろう
泳ぐなんてとんでもない、そんな水だった
http://www.youtube.com/watch?v=ZJvxaQ0JvNA&feature=player_embedded -
17:39:46
江濱公園
レンタル凧揚げで遊ぶ老人。
タコ紐が長いので凄く高く上がっている
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■江濱公園からホテルに戻る
公園広場はいつも賑やかだ。市民の憩いの場所なのだろう。一人っ子の中国ではどこでも見かける風景がここにもある。母と子と祖父母の組み合わせで、小さな子が主役。凧揚げレンタル業も店を開いている。面白い乗り物も見つけた。
6時になり太平路を北に歩きながら、途中、屋台のスイカの切り売り「一片:1元」や「焼きイカ:1元」などを食いながらボチボチ戻る。こんな時間なのに歩道敷設の工事をまだやっていた。中国人はそんな働くのか?
でも、タイル状のものを敷き詰めての歩道工事もそうだが、新設のはずが作った当初から杜撰すぎて日本人がちょっと見れば「なんじゃこれ」と思う代物になっている。遠目で見ればなるほど奇麗が、近くで見ればプロの仕事とはとても思えない。それにアチコチ欠けているし。
私の中国旅行でいつも泊まるホテルは三ッ星クラスの200元(3000円)前後。部屋は広いが、とにかく水回りが杜撰も杜撰、トイレ、洗面・風呂・シャワー類・などなど、見かけだけで、そのお粗末さは天下一品だ。
どうせ作るならもうちょっとちゃんとしたら?手間ひまはそんな違わんやろと思うけど、その感覚の違いには唖然とするしかない。それに便器の形や水の流れによるのか、水洗トイレも見た目はそれなりだが、ホンマそれだけでも中国旅行の面白さに出会える。
一応それなりに水が出て便器の中で渦を巻くが、水だけが流れ肝心の物が残ってしまう。「何やねんこれは・・・」そんな便器が多い。一押しで見事に紙を含めて“物”が奇麗に吸い込まれるように流れるのはマレだ。二回三回押す、それだけでもどれだけ水を無駄に使っているのか。
ホンマ日本の便器の優秀さが身に沁みる。まあ便器に“物”が残っていても気にしないのが中国人かも知れないけど・・・。私としてはつい確認してしまう。
この牡丹江近くには空軍基地があるのか、ジェット戦闘機が二機編隊くらいで轟音をあげながら飛んでいた。ロシアや日本への牽制やスクランブル発進があるのかも。部屋に戻ってからの夕方以降が特に音が頻繁に聞こえた。訓練も行っているのだろう。
太平路の東隣、房産賓館がある東一条路は歩行者天国で夕方から夜店が並び賑やかだ。7時前になり夕食はケンタッキーフライドチキンで食い(24元=360円)。その後、ワンバに行ってから部屋に戻った。
朝のハヨから夜の8時半まで動き回った一日が終了した。我、磨刀石に行った日。明日は東寧に行くぞ。 -
17:54:34
江濱公園で流行の遊具、歩いて引っ張る
日本ではまだみたことないけど
あるのかも -
18:15:12
海鮮焼き
辛味香辛料をつけて食う
辛いけど、食える -
18:20:20
歩道の改修工事
どう見ても仕上がりは雑
作りながら壊れてるっていうのか・・・。 -
18:35:14
中国空軍ジェット戦闘機を撮影
空軍基地近く、訓練飛行なのか?
轟音響かせて良く飛んでいた
燃料に不自由なしか? -
18:39:58
歩行者天国は夕方から毎日夜店が出る
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