2009/05/12 - 2009/05/23
32194位(同エリア47505件中)
明石DSさん
7:00:30
山々は綏芬河の向こう
三角山・郭亮船口・勾玉陣地方向(北東)
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5日目:東寧での一日
5月16日(土)うす曇り
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2009.平成21年5月16日(土)
■東寧の一日
昨日は50度の酒を少し飲んだだけで頭くらくら、でも今朝はその後遺症もなく気合を入れ直して東寧を散策する。朝食を食べに下に降りたら今日はロシアとの電化製品の展示会のような催しが行われており、「朝食はありません」とフロントで言われる。
ちゃんと朝食券を二枚部屋に置いておきながら・・・、何の連絡もなく。朝から爆竹を鳴らし車も一杯止まっていた。何があるのだろうと思っていたが。
朝飯なしで外に出た。
まずは明日の綏芬河行きのバスを確認しておくために客運站に行く。さすが隣町、1時間に2〜3本出ている。ロシアとの国境に近い町、ここ東寧にも国際候車庁という国際バス乗り場がある。ロシア人が何人か待合室に坐っていた。
関東軍東寧戦記の136頁に1945年以前の東寧街の中心地図がある。ロータリーを中心に放射状に5本の道が延びている。それが今の東寧にもあるのか?と、思って今の地図と見比べたらそれと思われる場所があった。今の地図で見ても街の中心と言える。
税苑賓館から歩いてすぐのところにそのロータリーがある。その場所に向う。そして、そこにいた二人の老人に「1945年当時の昔からこのロータリーはあるのですか?」と聞いた。「ある、昔からこのままだ」という返事だった。
今は住む人こそ違え、昔の日本人街がそのままの道路区画で残っていた。日本時代、中央銀行だった場所には「中国工商銀行」がある。竹内洋服店だった所は「新華書店」である。
また、この辺りには後ほどゆっくり来よう。張学雲との約束の時間の9時が近づいたのでボチボチとホテルへと戻って行った。
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7:47:58
朝から何やねん?このホテルは?
何かの催し開催の為朝食なしとは
ええ加減にせえよ。ホンマ -
7:48:22
旗には中俄(中・露:ロシア)の展示会のようで
ロシア人を招待?なのか
ロシア人が沢山この税苑賓館に来てました -
8:06:36
東寧の朝の市街
タクシーは地域によって色が決まっているようです
東寧はこんなツートンカラー
タクシーは
個人・会社・レンタルタクシー・いろいろのようでよう分かりません -
8:09:38
牡丹江からバスで来て降りたのは道路でしたが
こんな立派なバスターミナル(客運站)があったとは
右側は国際バス乗り場(ロシア行き)です
ロシア人が座っていました -
8:18:56
今、ここは満洲時代の東寧「東春橋」の上から西方向を写す
この橋を渡ると、すぐロータリーがあります -
8:25:00
ロータリーの中心部から綏芬河方向を写す
左に昔:中央銀行、現在、中国商工銀行
右に昔:竹中洋服点、現在、新華書店
この正面の道が今は中華路、税苑賓館があります
この路を向こうから東春橋を渡って歩いてきました -
8:25:20
右は昔の「公会堂・街公所・筑紫館」:左は昔「生活必需品会社」
この右斜め方向に満洲時代の東寧駅がある
http://www.youtube.com/watch?v=NEDh-dpvokM&feature=player_embedded -
9:24:46
市の中心部を抜け三芬口から東に走る
着いたのは東寧口岸・ロシアとの国境だ
張学雲はガイドになったかのように案内してくれた
昨日私がK君宅から帰ったあと
今日のルートや場所を調べてくれたのだと思う
何も言わずとも全部案内してくれた、ビックリした。
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■東寧探索の一日
9時前に張学雲は来た。それに乗り込んで「さあ、出発」今日も課題が多い。そして、もう一度勝鬨山の頂上に行きたいことを伝えた。
やはり一番行きたい場所であり、見つけたかったのは河野参謀が来訪し、その説得に応じた投降場所。そこには要塞の入口と碑があるはずだから。
後は昨日地図や資料を見せて行きたい場所を伝えていたのだが、勝鬨山で迷子になり、その後、酒を飲んで何の話も出来ず今日を迎えたので、どうなるのか?分からなかった。
それが驚いた。旧東寧駅や砲台、それに大肚子の御成橋や大肚橋等々。昨日、私がホテルに引揚げた後、みんなで調べてくれたのか?次々と私が知らなかったところまで案内してくれた。それには感謝感激とビックリであった。昨日は彼女もK君も分からなかったのに・・・。
今日の張学雲はタクシーの運転手ではあるけれど東寧ガイドでもあった。まず三芬口を西に突き当たり「東寧口岸」に連れて行ってくれた。ロシアとの貿易拠点で口岸とは港のことだ。そしてここは国境でもある。ゲートがあり軍人が警備していた。 -
9:29:06
ここがロシアとの交流拠点なのだろう
でも新しく奇麗なだけでさっぱり人も少なく
ほとんどの店が開店休業状態だった
今後どうなるのか?5年後くらいに見て見たいけど -
9:30:22
ようこんなんでやってるなあって感じです
中国には倒産ってもんがないのか?
何でもやればええってもんではなかろうに -
9:50:04
昨日の場所にやってきた
昨日よりは上まで行ってくれた。
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■次に、早速勝鬨山を目指した。
今日は勲山には行かず、直接勝鬨山を目指した。石炭山を通って昨日よりは大分上の方まで車で上がってくれた。
「もう迷わないから車の中で待っていてくれ」と言っても付いて来た。そして、頂上に着き一本目の鉄塔のすぐ向こうに道らしきものがあったので右(西)に曲がり、そして左の方向に進んだら目的の「最後関東軍投降地」との写真で見たと同じ碑があり要塞の入口があった。
思わず“やった”とガッツポーズである。
前が少し開けた広場のようになっており、碑の文章のようにここが投降の地なのだろう。早速、要塞入口に入って行った。冷気が瞬時に体に伝わってくる。奥まで行けば闇だった。突き当たりに左右に通路が延びている。突き当りの通路を踏み越えれば小さな部屋になっている。
でも真っ暗で何も見えない。帰国後にデジカメでフラッシュで写した写真をパソコン画面で大きくして初めて通路の様子が分った。手前はレンガが積まれているが、これは当時はどうだったのだろう。奥のほうは結構破壊されていて分かり難いが、岩肌が露出している。虎頭の要塞も通路両側の壁は岩肌が四角い網の目状の碁盤模様のような感じだった。
観光用に整備された要塞は、元もとの要塞とは大分違うようだ。観光用として解放している要塞はコンクリートで塗り固め、あまりにも奇麗過ぎる。海拉爾要塞も、やはり奇麗だった。
一番奥の小さな部屋に入り線香に火をつけ森永のビスケットとキャラメル、そしてタバコに火を付け般若心経を詠む。要塞の中は懐中電灯を持って来なければ一歩も進めない闇だ。
そして出口の方に向おうとした時、線香の箱があるのに気付いた。線香の箱はまだ新しかった。時折日本人が慰霊に訪れるのだろう。虎頭要塞に行こうと思い立ち、いろいろ調べだしてから東寧の事を知った私だ。この地のことも、ここの壮絶な戦いを知ったのもつい最近のことである。
この東寧の戦場でも150人以上の方々が侵攻するソ連軍の盾となって奮闘勇ましく亡くなっている。大東亜戦争は、あまりにも広い戦争地域、そしてあまりも多い英雄的な戦いの事実がある。そんな先祖を有する子孫は幸せに過ぎる。自らの今を省みて亡き先人に感謝し、少しでも先人達の戦いを知り、その死に様を知らねばならない。
それこそが亡き英霊に対しての供養でもあり、後に続く者の責務として次世代に伝えて行かねばならない。
2002年にここを訪れた「遥かなる黒龍江」の著者は、その時にこの要塞入口付近に遺骨が散らばっていたと書いている。しかし、7年後に訪れた私には遺骨は分からなかった。じっくり探すことをしなかったこともあるのかも知れないが・・・。
中国によって立てられた碑の後ろに書かれた説明には、8月30日と日付が間違って書かれている。8月26日だった。ここから901名の方々が出て行ったとも書いている。そして第二次世界大戦、最後の一つの戦いは終わった・・・と。
日本軍、関東軍兵士かく戦えり
我、勝鬨山を去る。 -
9:52:46
ここら辺りで車を停め頂上へと歩く
車で一気に行くより
周囲の風景を見ながら歩く方が気分も高揚し
よほど有意義だ -
9:56:58
勲山を見る
建物は「要塞歴史陳列館」
あの建物の右上くらいに登った
こうやってこっちから見ると頂上はほぼ平らで広い
ほとんど歩いていないが確かに頂上?は広かった -
9:57:42
勝鬨山から北西方向を写す
写真左端の小高い山が出丸陣地なのか?
地図から見れば出丸陣地と思うけど
夕陽ヶ丘もこっち方面のはずだし
はっきりと私には言い切れない
夕陽ヶ丘も出丸陣地も11,12日はソ連軍に占領され
http://www.youtube.com/watch?v=SUVPnTDDxAA&feature=player_embedded -
10:06:54
栄山陣地
勝鬨山から西南西、すぐ隣
8月14日には何を思ったのか
敵一個大隊(1000人ほど)が不用意に栄山陣地に登ってきた
それを守備部隊歩兵第三中隊挺身一個小隊(30人ほど)が
敵を目一杯引き寄せ激戦三時間
ソ連軍は120の遺棄死体を残して撤収
日本軍の圧勝だった
勝鬨山陣地から手に取るように見えたとあるが、すぐ傍だ -
10:07:54
一本目の鉄塔の南端の右(西)に道らしきものがあった
そこを右に少し降り左(西南西)の方へ歩くと
こんな平らな部分がある、
昔は木がなく広場のようになっていただろう
このすぐ傍に碑があり穹窖の入口がある -
10:06:54
「最後関東軍投降地」の碑
この前が空き地のような広さがあり
「関東軍東寧戦記」によれば↓
午後二時、中山少尉(進級)全員を陣地前の広場に集め、
「戦いは終わった。大命に従う」との訓示後東方遥拝を行う。
小銃七丁、銃剣三十五丁、残余のものは丸腰である。
「君が代」を韻々と吹奏する。皆の頬に涙が光る。
↑それが此処だったのだろう
http://www.youtube.com/watch?v=S9BH2PwwD_w&feature=player_embedded -
10:10:32
中は真っ暗、ヒヤッと冷気に身構える
帰国後、写真で見て様子が分かるが
現場ではあまり記憶がなく暗かった
そして枯れ葉が積もっているという印象だった -
10:10:50
これが左右に分かれる通路で、通路を隔てて狭い部屋があった
この通路を跨いでその突き当りの小部屋に入る
通路左右は真っ暗闇の世界が奥に続いている
懐中電灯を持参していればと思ったがあとの祭り
闇の世界で一歩も進めない
重層構造の要塞なので危険だ -
10:10:56
通路右側方向(多分?)を写す
フラッシュの一瞬の光では何も分からず
帰国後、写真で見て様子が分かるが
こんなんだったのか・・・。
レンガ積み壁の向こうは崩れているようだ -
10:11:00
通路左側方向を写す
レンガが焦げているのか?
内部はやはり焼け跡のようだ -
10:14:56
突き当たりの小部屋に入り
日本から持って来たビスケットにキャラメル
タバコに火を付け、般若心経を唱える
般若心経を自宅で毎日朝晩唱えているから
少しは様になってきたかと自己満足してる私です -
10:17:12
気がついたら通路の所に線香が
まだ新しい箱のようで最近のことだと思います
誰かが来たことが分かりホッとします
この場所を多くの日本人が知り、訪れるようになった時
日本も少しはまともな国に、そして日本人になっていると思います
と言うことは、私は少しはまともな日本人だと自負してます
反日日本人・自虐史観・似非平和主義者・左翼などは嫌悪してます -
10:24:22
「最後関東軍投降地」の碑を後ろから写す
前が広場のようになっているのが少し分かります
写真の難しさを痛感してます。何度旅をしても
撮るべき写真を撮れず、良いアングルでの写真を撮れず
やはり行く前から脚本と絵コンテが必要です
きっとそれでも「あ〜、あの方向で、あの場所で」
と、後になって思うことは分かっていますが
この碑は、投降の日を8月30日と書いています
一番肝心な日付を間違えて平気なのがお笑いです
嘘と捏造の世界に真実は不要なのか
と言うより“無い”と言ったほうが正解だろう
次に行く方も確認お願いします
こそっと直しているかも
2009.H21.5.16.には8月30日となってます -
「八月三十日に901名の守備隊がソ連軍に投降した」と書かれている
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10:25:56
頂上のこの場所から栄山がもっとはっきり見える
http://www.youtube.com/watch?v=NFVBjuM21LA&feature=player_embedded -
10:41:14
この手前の鉄塔、赤いレンガ塀の一番向こうの端
そこらあたりの地点をこの道の右側に下りる道らしきものがある
その道を進んで行けば穹窖の入口がある
http://www.youtube.com/watch?v=ZqawSP1WlHY&feature=player_embedded
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「新・秘めたる戦記」伊藤桂一(著)より
以下、↓要約抜粋。
116頁
勝鬨陣地が8月26日まで抗戦を続け得たのは、守備兵がすべて一体となって敢闘したからである。それに陣地そのものも、岩盤をくり抜いて造った、いわゆる坑道陣地だったためもあり、加えて、陣地内に弾薬、糧食、給水、換気、発電なども備えてあったからである。
防戦陣地としては完璧だった。この坑道陣地は、昭和20年になってから本田工兵隊が、不眠不休で堀り上げ、完成させたものである。この勝鬨陣地は、北方の郭亮陣地にくらべると、ずっと有利な地形上の位置を占めていた。
勝鬨陣地は
北に朝日山(第四中隊)、勲山(第四中隊の一部)、出丸(第四中隊の一部)
中央に東勝鬨(大隊本部と第二中隊)、西勝鬨(第一中隊)
南に栄山(第三中隊)
が、布陣していた。
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武田情報主任(手記より)
これらの陣地構築には40名ほどの満人を使った。開戦時に、満人たちはまだ陣地にいたが、武田情報主任は、満人たちに報酬といくばくかの土産を渡し釈放した。満人たちは武田情報主任たちに三拝九拝して引き取って行った。
8月16日:ガス中毒について
開戦と同時に兵寮従事員は陣地に収容され、医務室勤務となり、負傷兵の手当てにかなりの働きをした。しかしガス弾以後は彼女らもガスにやられ、働きも大分鈍くなったのは止むを得ない。ただ光安中尉の夫人はガス中毒による頭痛にも負けず、かいがいしく立ち働いて、さすが軍人の妻だと思った。
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光安中尉夫人(手記)
宿舎に一人残ったが、8月9日午前3時半ベルが鳴り主人から「ソ連と戦闘状態に入った。すぐ移動せよ」とただそれだけで、電話はプッツリ切れた。誘導に来た兵隊さんたちに守られて、炎天下石門子に向った。石門子近くで、諏訪准尉が馬をとばし来られ「もう石門子は玉砕、直ちにバックしましょう」といわれてまた官舎に戻り、部隊長命令で直ちに陣地に入ることになった。平素女は入れない陣地に入れて貰い、一安心しました。
これが北のラバウルと誇った勝鬨陣地、山をくり抜きベトンで固めた陣地、自家発電装置もあり、立派な陣地でした。女だてらに恰度騎兵少尉の軍服があり、それがぴったり身体に合い、いっぱしの女将校になりました。主に包帯所で働きました。
8月16日爆風とともに一酸化炭素が陣地に流れ込み、頭が痛いと思いながらも頑張れ頑張れといつもの癖が出て、患者食に梅干を配りつけている最中に倒れてしまいました。美しい花園の中で嬉々と遊び戯れ、黒い影が暗い方から「おいで、おいで」と手招きすると、こちらでは母が「行ってはダメ、ダメ」と一生懸命に呼び止めており、行きつ戻りつしていた。
すると盛んに名前を呼ぶ声にハッと我に返り、心配そうな皆の顔が沢山覗き込んでいる。生死の境をさまよっていたのでしょう。軍医さんを始め、衛生兵の方々に大変御世話になり、やっと現世に返って来ました。神様が、現世に生きてまだまだ世の為、人のために尽くすよう返されたのでしょう。
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郭亮・勾玉陣地(第6中隊)
8月9日未明
非常呼集、ソ軍侵入殷々たる砲声を聞く。この時、ソ軍は勝鬨、勾玉両陣地の中間、興安村の分哨を突破、満領に深く侵入両陣地を包囲。直ちに各部署に戦闘配置す。
8月10日
未だ敵影見えず、一貫山対し射撃開始す(第二小隊勾玉)。この為敵に発火点が判明、報復射撃を受けるも被害なし。
8月11日
状況不利となり郭亮陣地を撤収、火砲兵器を破壊、勾玉頂上の本隊、第一小隊に合流集結。火砲のない砲兵の惨烈極まりない歩兵戦闘が19日まで続き、この間11名を残し、中隊長をはじめほとんど戦死。
8月20日
勾玉陣地を脱出、鏡ヶ丘(第六中隊兵舎付近)に移動の命令を受け直ちに行動開始したが、明るくなっていたので戦死者多数を出す。
8月27日
鏡ヶ丘を脱出、山中を夜のみ行動し、9月3日早朝、曖泉子溝近くの満人に、歩兵の生き残りと共々40名が助けられた。この地区の重砲兵聯隊第六中隊の生還者は三名のみである。
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河野参謀手記(勝鬨陣地に停戦勧告に向う)
229頁
8月24日の朝早く、間島の収容所へソ連の自動車がやって来た。河野中佐はいるかという加藤通訳の伝言だ。第三軍司令官村上啓作中将の命令を伝えに来たと言う。ソ連の将校が日本軍司令官の命令を伝達するのはちょっと不思議に思ったが・・・。
渡された命令、勝鬨陣地において今なお交戦中の斉藤大隊に停戦命令を下達し、戦闘行動を中止せしむべしというものであり、停戦に関する詔勅と、関東軍司令官の第三軍に対する停戦命令及び第三軍司令官の停戦命令があった。
私は第12師団に職を奉じ、再三勝鬨陣地も視察したことがあり、東寧地区の地形にも慣れているため、特に指名されたものだと思う。私を迎えに来た男はトォールピンという大尉で、極東司令部付きだといっていたが、大人しい男だった。9時頃、間島の飛行場に行ったが、飛行機の都合が悪く中止となった。
翌25日、再度ト大尉は自動車で迎えに来た。間島飛行場にはY2型機待機していたが、Y2型は同乗者一名という小型機で軍刀は胴の後方に入れなければ乗れない代物で、ト大尉と二機で10時頃離陸した。12時頃にノーボー飛行場に着陸、将校の飛んで出迎えに来た。
ト大尉と何だか盛んに話をしていた。東寧方面国境付近から盛んに砲声が聞こえてくる。私はやっているなと思いながら携行してきた、スリーキャッスルを二箱出した。少佐は珍品だと大いに喜んでいた。
小憩の後でノーボー街のレストランに案内された。5,6人の兵士がいたが、すぐに外に出てしまった。昼食はソ軍としてはこの田舎町の、しかも戦場直後のレストランで、これだけの御馳走を作るには相当努力したようだった。いろいろ気を使っている様子が十分判る。
私はウォッカのお蔭でレストランの別室のベッドでグッスリと眠ってしまった。ノックの音で眼をさました。ト大尉が河野中佐殿(ガスポンジ・ポトポルコープニック、これからは私に敬称を忘れなかった)、「では第一線の後方へ行ってくれぬか」とおずおずしたような態度である。17時頃、車でノーボーを出発した。
砲撃は依然継続して交叉していた。綏芬河を渡り西へ進む。ノーボーの住民は戦争に勝った安堵はあるが、近くの国境で戦闘が続行され、砲撃を耳にしては落ち着かぬ姿で右往左往していた。戦線からは絶えず負傷者が後送されて来ていた。
ト大尉は負傷者を見る毎に私に早く停戦してくれ、おくれれば負傷者が多くなる、なぜ斉藤大尉は皇帝の命令を聞かぬのか、それを繰り返していた。綏芬河を渡り西向こうの台上に上った時は、幾回となくのぼった郭亮船口(センコウ)の陣地が眼前に屹立(きりつ)している。敵側から見る我が軍の陣地、感無量だった。
<手記のこのあたりの部分からは、陣地の将兵が、いかに旺盛な戦闘意欲をもって戦っているかが、実によく窺いとれる。河野参謀の心情の充実感も察しとれるのである>
サンチャゴ谷の入口から約2キロほど来た所で、一台の乗用車が戦線から下がって来た。勝鬨攻撃師団の師団長(少将)だった。彼はいきなり私に、何故カピタン斉藤はミカドの命令を聞かぬのか?軍使を出したが白旗を取り上げた上にこれを追い返した。プンプン怒っている。(支那語の通訳がついて来ていた。これは朝鮮人だ)
私は天皇の命令及び関東軍司令官の停戦命令を彼に伝えるためには陣地の通信手段が破壊されていて直接伝えるしか方法がないのだ。それで私が来たのではないか。しかし、現在のように両軍砲戦をしていては停戦はできぬ。師団長は速やかにソ軍に対して砲撃中止の命令を出してくれ、これが実行できぬ場合は明日の停戦は保証できぬ。ちょっと勿体をつけてやった。早速砲撃中止の命令をするから日本軍も中止させろという。
しかし日本軍に対しては通信手段がない。そのために明日私が行くのではないか。これには師団長も大きく両手を外側に向けて、外人特有のジェスチャーでチェボーと言ってあきらめたようだ。
師団長が陣地の中に消えてしばらくして、ソ軍の砲撃は中止されたが、日本軍は依然として600高地に対して砲撃しているようだった。ちょっと小気味よいようでもあり、くすぐったいような、ペテンにかけたような気がせぬでもなかった。しかし、ソ軍が砲撃を中止することによって、日本軍の心を冷静にして、停戦勧告の効果を挙げると信じたからである。
師団長の後に残った、師団から来た中尉と支那語の通訳が、サンチャゴ谷の突き当たり付近、ちょうど勝鬨陣地の正面に当たる所に二十坪位の一軒屋がある。そこへ我々を誘導した。これは潜入諜者の工作小屋である。通信線が多数取り込んである。外見は全くのあばら屋だが、内部は中流家庭の住宅の構えと変わりは無い。我々はそこの一室に落ち着いた。すでに陽は西に傾き、空は黄色に染まっていた。付近一帯の夏草も今日の一日の戦火にたたかれ、灼熱の太陽にあえぎ、今ようやく夜の憩いに入らんとしている。
サンチャゴ集落から夕食が運ばれた。随分気を使っているのが判る。私は食事中、日本軍の行動について、随行してきた中尉に質問した。日本軍は毎晩、暗夜を利して奇襲に出て来る。昼間は陣地内に潜入し顔を出さぬ。接近すると銃眼から射撃するので近寄れぬ。毎夜、人員器材の損害がある。敵の陣地は極めて堅固である。当初、栄山で迫撃砲により一大隊」が全滅したと正直に話していた。
それでは今晩も日本軍がこの小屋を襲撃し、手榴弾でも投げられては、私は明日の任務が達成できぬ。警備を厳にして、日本軍の奇襲を受けぬよう要求した。中尉はさっそく司令部に電話したのか、その夜は1ヶ中隊程度で警備をしたようだ。私は安心して眠れると思ったが、南京虫の襲撃に会い一睡もできなかった。
<こうした手記を読んでいると、どちらが勝っているのかわからなくなる。同時に、停戦の使節さえいのちがけにならざるを得ない、緊迫感がヒシヒシと伝わってくる>
東満国境の夏の夜は4時頃には明け始めた。南京虫が夜明けと共に退却したので、それから眠りに付いたようだった。ノックの音に目を覚ました。7時だった。朝食の際、日本酒の一升ビンに牛乳を入れて出された。外に出てみると深い霧だ。10メートル先は見えないほどだった。ト大尉及び中尉は早く行こうという。しかしこの霧では夜間と同じで、日本軍の狙撃に会う。霧が晴れたら行ってやる。私はあくまで慎重だった。
9時頃になって晴れ始めた。まずペルオヤマへ向い出発した。ペルオヤマ警備隊長(中尉)と面接して、当面の状況を聞いた。昨夜も日本軍の奇襲を受け通信線が撤去せられ、兵も損害を受けたといって、私を怒るような、頼むような様子で、早く停戦をしてくれと、コーヒーをすすめた。私は一応口先では遺憾の意を表しながら、心の中では、勝鬨のわが戦友の勇敢なる行動に対し万歳を唱えていた。
ペルオヤマを出て勝鬨に向う路上には、成る程、昨夜の被害を目撃した。破壊された通信機、切断された線、壕の中には兵の死体が見受けられた。いよいよ満領へ入り、石門子に通じる三叉路へ来た時、正面に饅頭のような勝鬨陣地の全貌が現れた。自動車は停車した。これから我々は同行することは出来ない。河野中佐殿一人で行ってくれと言う。彼らは随分勝鬨の勇士が恐ろしいらしい。師団長が後ろの車から降りて来て、次のようなことを示した。
一、陣地の中央に12時に白旗を掲げること。
二、出来るだけ速やかに五列縦隊で陣地の外に出る。順序は、彼我の負傷者、ソ軍捕虜、非戦闘員、将校、下士官、兵、軍属。
三、陣地を出たら地区隊の北門道路上に停止。
四、北門付近に武器を集積しソ軍に引き渡す。
五、陣地内の設備は一切変更せず、そのまま残置すること。
以上師団長と簡単に打ち合わせして、私は日の丸を肩に、守備隊に通じる道路を北上した。停戦勧告を大隊長以下がさっそく受諾するか、あるいは時間を費やし、あと約二時間で12時に白旗を掲げることができるか、私は心の中で随分心配した。
地区隊の南門を入り、兵舎の間を通り抜けた。寂として声なし。仰げば陣地は人なきが如く、全く眠っているようだ。中腹の勝鬨神社に合掌、無事に任務遂行を祈る。陣地のあちこちには敵の三十センチ砲の不発弾が転がっていて不気味だ。誰か早く私の存在を発見してくれぬかと気が気でない。
神社を過ぎ、左へ山道をしばらく登っても、誰も誰何(すいか)する者もない。左へ曲がろうとした時、突然右上の谷間から誰何された。水源地の歩哨だ。捧銃の礼を受けた。やっと安心した。私の身分と任務を述べて陣地の咽喉部を聞いた。
すぐだった。咽喉部の歩哨に身分と任務を述べて大隊長に面会を求めたが、その歩哨は、朝鮮人の謀略だ、停戦の詔勅もあれもソ軍の謀略だ、大隊長はソ軍に朝鮮人がたくさんいるから油断するな、と言っておられると頑として取り継がない。
そうしていると、陣地から顎鬚を生やした下士官が出て来た。私の問答を聞いて大いに闘志を燃やし、朝鮮人だと言って私の軍刀を取り上げた。そこで私は一応大隊長にこのことを連絡するよう要求した。
大隊長からの返事は同様であった。一歩も陣地に入れてはならぬという。斉藤大尉は第九患者輸送隊長から一国に転属された私の先輩の方で、私は兵站業務の関係で十分知っていたが、いまだ一度も面接したことはなかった。私は全く途方に暮れた。
こうなっては任務達成の為には自決してでもこの書類を渡し、身が朝鮮人でないことを証明するしか手段はないと考えた。正直なところ、今日まで大命とは言え生き恥をさらした身を、味方説得のために献(ささ)げねばならぬ。それもまたよかろう、というあきらめにも似た気持ちになった。
なんとかしてあれこれ思いなやんでいたその時、陣地の中から開戦直前、第三軍から当守備隊に転属した柳田祐主計見習士官が出て来て、「やあ河野参謀殿」と言ってくれた。これで万事OK、百万言の弁明に勝るものだった。その旨大隊長に再度伝達された。
大隊長が陣地の入口まで来た。大隊長の発電命令で陣地は照明された。全く大都市の地下街の道路のような坑道である。関東軍最強の陣地がこれである、と私はひそかに嬉しかった。
戦闘指揮所に入り、隊長、副官、書記一名のほかは人払いをした。停戦の詔勅、関東軍司令官命令、第三軍司令官の命令を下達した。命令を聞き終えるや大隊長以下声をあげてその場に泣き崩れた。当然であろう。
僅か一ヶ大隊の兵力をもって、敵の一ヶ師団を国境に釘付けにし、しかもその三分の一を撃滅し武勲赫々(かくかく)、今尚武器、弾薬、食糧等も半年の貯えあり、戦力益々充実、士気軒こうたる大隊にとっては、大命とはいえ実に残念至極のことだったと思う。大隊長以下の心中察するに余りあり、私も共に涙を分け合い、しばらく無言でおった。
しかし、事ここに至っては軍紀厳正に処置せねばならないので、私は気を取り直し、ソ軍師団長との打ち合わせ事項を指示すると共に、そのほか、次の件を指示した。機密書類の処分、戦死者の処置、遺骨、負傷者の手当て後送、全員髭剃り。被服は一装着用、肩章を付す(陣地内では胸に氏名の白布を付してあり)、食糧は一ヵ月分、背負い袋、手袋、靴下等全部分配携行。携帯品兵器は整列時陣外に持ち出す。その他兵器弾薬は残置。
大隊長は各中隊に命令を下達し、極めて迅速にことを運ばれ、十二時には一昨日、敵軍使より取り上げた白旗を掲げた。この間、司令所において茶菓子が出された(羊羹だったと思う)。大隊長はびっくりして下士官にまだ「こんなものがあったのか」と聞いていた。
「まだまだこれぐらいの戦況では羊羹を出すほどではありません。半年ぐらい貯えがあります」と答えていた。私はさすがにこの心構えがあればこそ、この立派な戦績が残されたのだと感服した。私は陣地の出口で部隊の整列を見ていた。どの顔も晴れ晴れとして、敗れたというような顔は一つも見られなかった。
<軍使の命令伝達によって、初めて停戦に応じた、といういいがたい満足感は、守備隊員だれもの胸にある。敗けたのではなく、停戦に応じたのである。河野参謀の記述にも、行間にあふれる感動が読み取れる>
敵師団長が、12時過ぎに陣地の入口にやって来た。陣地に入ろうとしたが、私は止めた。陣地内ではそれぞれ重要な処置がいまだ残っているのを知っていたからである。師団長が陣内に入ることにより生じるトラブルは私の責任ではないと言ってやったら、すごすご地区隊の方へ降りて行った。日本軍が全部陣地を出るまで、ソ軍兵は一兵も陣地には入れなかった。
昨夜挺身奇襲に出た堤中隊の数名が未帰還であるのが心配になったが、規制された時間が来たので陣地を後に山を下った。独歩不可能の患者は、ソ軍の患者輸送車でノーボー野戦病院に護送された。大隊の先頭が地区隊の門に到着した時、師団長はソ軍の捕虜がいるはずだと強く訊問したが「なし」と答えた。集結が終わり、武装解除が終わった頃、心配していた堤中隊の数名が帰還したことを聞いて安心した。
ソ軍師団長は地図を出して金蒼に赤丸を入れて、本夜ここに行けと命令した。私は金蒼までは40キロ以上ある。今夜は石門子のわが兵舎に一泊して、明日より20キロ行程で金蒼に行くように警備隊長に指示を要求した。なお行軍途中、日本軍将兵の名誉と人格を尊重するようにコンボーイ長以下に指示するように要求した。師団長は警戒兵を集め命令したようだった。
それから数日して私が間島に帰ってから、到着した勝鬨の戦友に聞いたところでは、行軍途中、実にソ軍の取り扱いは丁重であったとのこと、私は嬉しかった。
夕闇迫る19時頃、斉藤大隊は石門子に向かい出発した。私はこれを見送り、再び敵の戦闘指揮所に向った。日はとっぷりと暮れ、冷気を覚えるほどだった。戦闘指揮所は極めて巧妙に偽装せられ、堅固に構築されているのに驚いた。師団長は私を招じ入れ、極めて満足し安心した様子で、日本軍は強いし、しかも停戦に関する皇帝の命令が下されると、軍紀粛清非常に立派だと感心していた。
盛んに牛乳をすすめた。さすがに酒はつつしんでいた様子だ。酒好きの彼等も、力で攻め陥した戦捷の喜びとはちょっと異なった感覚を持っていたのだろう。敗戦国の将校である私に対しても、多少ひけ目を感じているように思えた。
勝鬨守備隊勇士の偉大なる功績と赫々たる武勲の前に、関東軍最後の生き残れる大隊の不屈の魂に、敵の師団長も面恥ずかしい思いがしたことであろう。私は薄暗い敵の戦闘指揮所の中で、戦捷にも似た軽い喜びを覚えるような錯覚に陥っていた。
<戦いは、勝敗のことよりも、いかに善戦敢闘したかによって評価される。と、河野参謀の手記は語っている。東寧重砲兵聯隊の潔く、しかも壮烈きわまる軍人精神と、勝鬨各陣地の限りない勇戦の記録とは、今次大戦中の特筆すべき事象として、語り継がれていかなければならない。河野参謀の手記は、その終わりを、下記の如く意味深く結んでいる>
私はノーボーの赤兵の家に三泊し、8月31日に飛行機で間島に帰った。同行したト大尉は最後に私に時計を一個くれと無心した。やはりロ助は下等な人類だ。
////////////////////////////////////以上 -
10:47:42
昨日迷ったのが分かった
右方向にどんどん進み遠くに向って下りた
遠かったと勝手に思い込み
左サイドから直接下に降りて行けば迷わずにすんだ
「新・秘めたる戦記」伊藤桂一(著)より
葛西春雄兵長手記
河野参謀来陣
8月26日、監視長勤務に着く。午前10時半頃、白旗を持った軍使が近付いて来た。誰何したが返事がない。「何しに来たか?」と聞くと「俺は関東軍の河野参謀だ。重大な命令を持って来た」と云う。
「今目隠しをするから待ってくれ」と指示し、中山准尉に指示を仰いだ。「よし」との命令が出たので、司令所へ案内する手筈を始めた。その間、集まってきた兵たちは、「斬ってしまえ」と息巻く者も出て、ゴタゴタがあったが、無事司令所に行かれた。
その時、「命令ですから目隠しさせて頂きます」と云うと参謀は、私が負傷した顔を包帯でグルグル巻きにしているのや、周りの他の者も負傷した姿を見て、目隠しに応じてくれたのだと感動する。
また、私は今日まで砲手として、兵として尽くすべきことは全て尽くして来たと思っている。また、我が24榴の射撃については、当然射つべきだと思っていた。そして悔いは残らなかった。
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第二代中隊長:谷大尉手記
精鋭の第一中隊を思う
以下抜粋↓
勝鬨陣地は、元第一国境守備隊の一部であった元第一地区隊の独立歩兵第七八三大隊、配属された東寧重砲連隊第一中隊(二十四糎榴弾砲二門)などの部隊であった。これを囲んだのは極東ソ連第二五軍の約一個師団であるから、その差は約10倍である。その攻撃が一向に進展せず、ソ連軍は第三軍から河野参謀の差出を要請し、これを勝鬨陣地まで連れて行って関東軍命令を伝達させて降伏させたのである。
ソ軍は厖大な余力を蔵しつつ、なぜ猫の額の勝鬨部隊を一挙に押し潰そうとしなかったのか?
ところで私の重砲兵将校としての勤務の第一歩も、勝鬨の陣地であった。観測、通信部門の小隊長、これを指揮小隊長と呼んだが、同時にその教官でもあった。精確な射撃の諸元を出し、迅速精確にそれを伝達するのが、その小隊の任務であった。
初発から命中弾を出せることを目標に訓練を積んだが、その技量の程は、昭和16年10月15日、第二代連隊長の竹内善次大佐になってから、急速に進展をした。
竹内連隊長は、長く重砲学校の教官をやった射撃理論の権威で、参謀本部の通信課長から初代の連隊長に転じて来た中野良次大佐の連隊設立の時代に相応しい「環境整備の時代」から。「猛訓練の時代」となったのである。
観測・通信、砲手のそれぞれに具体的な達成目標をつけての、いわば目標管理による訓練で、全中隊競争の検閲があり、全課目集計で最高点を収めた中隊が、「武技競技優勝中隊」として表彰せられ、その標柱が中隊舎前に立てられた。
竹内連隊長は、昭和18年2月15日に津軽要塞司令官に転ぜられるまで、この訓練に専念され、精鋭連隊の育成に大いに貢献されたが、その訓練の方法は次の連隊長時代にも踏襲せられ、第一中隊は遂に最後の検閲まで「武技競技優勝中隊」を続けたのであった。
///////////////////////////////////以上 -
10:53:12
此処まで車で上がって来ていた
昨日、私はこの先に写っている所まで行ってしまった
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東寧陣地
勝鬨陣地の三田金作:曹長の手記
東寧要塞の戦いの終焉
八月二十六日の午前10時頃
日本軍・第三司令部の河野参謀が大きな白旗を掲げて、勝鬨陣地に向って来た。
勝鬨神社裏の三叉路まで来ると停止して、白旗を大きく振り、大声で叫びだした。
「私は第三軍司令部の河野参謀だ。重大な使命で、関東軍の命令を持ってきたのだ」
全く臆することなく、二、三回怒鳴り、陣地に近いづいて来る。第三軍司令部の河野参謀といっても、私はもちろん、顔をしった者はいない。西勝鬨陣地の将兵は息を殺して事態を見つめている。今にも引鉄をひかんばかりの気配である。
その時である。将兵をかき分けて、経理将校柳田見習士官が「あっ、河野参謀だ、間違いない」と叫んだ。
河野参謀は静かに口を開いた。
「戦争は終わりました。15日には天皇陛下が、大日本帝国始まって以来初めてのラジオ放送をされ、終戦の勅諭を詔勅を下されました。6日には広島、9日には長崎へ新型爆弾が落とされ、陛下は日本臣民の滅亡をおそれられ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで降伏するとの大御心でありました。
大日本帝国は米ソ英支の連合国に対してポツダム宣言を受諾したのです。関東軍も戦闘を終結しました。ソ軍のいうには、関東軍でいまだに戦闘している部隊がある。それはこの勝鬨陣地だということがわかり、地理に詳しい将校を勝鬨に派遣、速やかに戦闘を止めさせるよう厳命があり、勝鬨陣地を知っている私が選ばれ、ソ連の飛行機と軍用自動車でここまで参りました」
河野参謀は更に言葉を続けた。
「開戦以来よく戦ってくれました。感謝に堪えません。しかし、戦争は既に終わったのです。今更勝鬨陣地だけが頑張って、戦ったところでどうにもなりません。諸君も涙をのんで、一刻も早く停戦して下さい。他の部隊は武装解除も終わり、後方に集結しております」
流れ落ちる涙を拭わず、関東軍からの命令書を部隊長の前に差し出したのである。
私は一瞬、頭から冷水をかけられたような気持ちであった。なんといおうか、私の拙い筆では到底表現出来ない複雑な感情が交錯した。誰もが無言で、ただうつむいているだけである。
参謀はいったん差し出した命令書を手にすると、静かに読み始めた。読んで行くうちに、次第にしだいに声がかすれ、声が喉につまり、涙にむせび、嗚咽するばかりであった。私は夢ではないかと思った。
しかし、それは現実であった。ズズ・・・と咽喉の奥の方がひきつり、鼻が、涙がドーッとこみ上げてきた。こらえようとしたがこらえきれず、みんなが声を出して泣いた。
・・・・・・・・・
6時過ぎ、太陽が軍艦山にかからんとする頃、ソ連兵の自動小銃とダワイダワイの声に追い立てられ、本部を先頭に石門子分哨を出発したのである。この一歩こそ、私たち勝鬨陣地の将兵が、陣地を残して踏み出した第一歩であった。
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第三中隊:堤中隊長手記
以下抜粋↓
独歩七八三大隊有志編集による体験記に於いて
「陣地進入時に酒を持たせたことが出陣を祝う為に大いに役立ち、微笑すら浮かべて暗闇に出て行った。関東軍最後の兵士は勇敢であったことを特に報告したい」と述べている。
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栄山陣地での戦い
第三中隊第5小隊 萩原正春 (見習士官)
8月10日早朝から栄山陣地の状況把握に努める。ソ軍の砲撃は主に勝鬨陣地に指向されており連日連夜凄いもので、栄山陣地からは眼鏡を通して、ソ連砲兵部隊の弾丸運びや砲の位置がよく確認できたが、こちらには反撃する重砲、野砲一門すら無かった。すべて抽出されていた。
////////////////////////////////以上 -
11:31:08
この地域が何処なのか?分からない。
まだ結構残っているようだ
いつも思うが
もう少し奇麗に使えないものなのか?
古さは関係ない、周囲が汚なすぎる -
11:38:06
満洲時代の東寧駅
今、新駅の駅舎は出来てるが開通は何時の事か?
決まってないとのこと、場所はこの辺りと全然違う場所だったと思う
その時、車で前を通り行くか?と聞かれたけど「いいわ」と断った
ここは、さっきの日本家屋が多かった地域からすぐだった
やはり駅の周辺に日本人も住居を構えていたのだろう
写真で見た旧東寧駅が、突如目の前に現れ感激した
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■旧東寧駅
そして次は、昨日は知らないと言っていた旧東寧駅にスンナリと案内してくれた。ここも私が是非、行きたい所だった。昔の満洲時代のどの地図にもだいたい銘記されているので、ここが分かれば全体の位置が分かりやすくなるから。
写真で何度も見ていたのと同じ建物がそこにあった。今はレンガ工場とのこと。地元の者でも若い者はここが東寧駅だったことを大概知らない。工場の人が出て来て張学雲と話していた。「ここが旧東寧駅で日本人の私を連れてきた」というような説明をしていた。
南側が土手で高くなっているので、私はみんなから離れ早速そこに登って行った。登れば駅全体、工場全体を見渡し、東寧の市街もある程度見通せた。今の中心部からもそんなに遠くない。税苑賓館からでも歩いて行けるし、ロータリーからも近い。これで町全体の感じがある程度掴めた。
旅に行っても自分が地球の何処あたりにいるのか?街のどの辺にいるのか?それが分からなければ落ち着かないし面白くない。街の全体像を掴むと何となく安心感も出てくる。 -
11:40:58
一段高くなっている所に上り駅舎を含めて風景を写す
右手斜め前方が市内中心部だと思う
そんなに遠くない。ホテルまで歩いて行けるはずだ -
11:43:48
旧東寧駅・駅舎全体を写す
どこかの説明にはレンガ工場(タイル)って書いていたようだが
今の地図には陶器の陶って言う字が書かれている
レンガやタイルを作っているののだと思う
http://www.youtube.com/watch?v=71W6jWRDMLg&feature=player_embedded -
11:47:28
あの一段高い場所に駆け上りました
腰は絶好調のようです -
1945年以前の東寧街中心地図
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この旅行記へのコメント (2)
-
- flierさん 2009/07/07 22:03:51
- 東寧要塞に行ってきました
- 先月東寧に寄ってきました。要塞の中も入らせてもらいました。
ベトナムのような土の穴ではなく、岩盤を削ったトンネルでした。これを作るのは凄まじい労力が必要でしょう。洞穴の中の兵舎にはいつ書かれたものだか分かりませんが、日本人の名前が石炭のようなもので大書きされていました。
- 明石DSさん からの返信 2009/07/08 08:24:21
- RE: 東寧要塞に行ってきました
- flierさん
・・・・・・・・・・・・・・・
>これを作るのは凄まじい労力が必要でしょう。
・・・・・・・・・・・・・・
戦争と言うのは人間同士が殺し合い
互いの国家国民の存亡を掛けての戦いですから
我々の想像を絶するものだと思います。
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