2009/05/12 - 2009/05/23
36033位(同エリア47564件中)
明石DSさん
6:18:26
部屋の窓から写す
さあ、今日は牡丹江へ行くぞ
いよいよ旅は始まる、気合が入ってしまう
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2日目:哈爾濱〜牡丹江:磨刀石
5月13日(水)晴れ
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2009.平成21年5月13日(水)
■6時過ぎに起床
部屋の窓の外は青空が広がり天気は晴れのもよう。
6時過ぎに起き準備をはじめ7時からの朝食に行く。22日にも再度このホテルだったが帰国時で5時半出発だったので、ここでの朝食は最初で最後になった。
暖かい物もあり朝食はまあまあだった。それに豆乳もあった。有れば必ず二杯飲んでいる。小さい時に市場の豆腐屋で飲んだ味が今もって忘れられない。でも最近の中国での豆乳の味にも慣れたのか?それとも味が落ちたのか?今一だ。
日本人の姿は皆無。ロシア人もいなかった。キタイスカヤ付近の曼哈頓商務酒店ではロシア人が泊まっていた。8時のバスに乗るため食後すぐにリュックを担いで又22日にはここに戻って来ることを確認し押金(保証金)100元を受け取り、ホテルを後にした。
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7:03:06
餌に群がる人、人、人
記憶にないけど、まあまあの朝食だったようだなあ -
7:07:54
この写真を見れば
今回の旅の中でもこれならベストスリーは間違いない
それくらい朝食には恵まれず
やっぱり宿泊費が安いと朝食も不味い
これは世界の常識のようです -
7:29:56
華僑飯店前から早朝の紅軍街を写す
駅までは緩やかな下り坂
昔も今も、徒歩5分
この青空が旅の前途を象徴している -
7:31:30
朝から歩道で二度寝しているのではありません
これもれっきとした職業です
試行錯誤の実践経験によってのパフォーマンス
T・P・Oによって格好は選びます
収入の程は?フフフ -
7:35:12
朝のハルピン駅前
この駅の今の1番ホームで、伊藤博文は暗殺された
1909年:明治42年10月26日午前9時30分
伊藤博文、68歳の時である -
7:40:46
何せ、行き先も山ほど
バス移動が凄いです
日々民族大移動をやってます。
一度春節の時の光景を見てみたいです。
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■午前8時(発)、バスで牡丹江へ向う
紅軍街を駅に向って下る。一応哈爾濱のバスターミナルは空港の搭乗口のように行き先によって搭乗口が分けられており10分前くらいにしか検票をしない。「乗車日期2009−05−13、開車時間8:00、車次1140、座号10、検票口2」と切符に書いている。
今回の旅では大体が座号の通り坐った。以前は随便(スイビエン)と言って指定席もおかまいなく坐っていたのに・・・。場所が変わればなのか?今ではどこともそうなったのか?定かではない。
それに空港などで荷物の中味をエックス線で検査するような機械が置いてあり、その前に係りの者が坐っている。だが大体が坐っているだけ、一応制服来たオバさんが。そして時には、通せと言う時、場所もある。通すだけ、一体なんやねん?
オモロイのは最初の哈爾濱のような大きなバスターミナルでは、それなりに検票時間を守って乗車したりするのだが、一端この站を出ると何処でも乗れる、何処でも降りれる。そんな便利でええ加減なバスである。一体最初の検票は何のなの?って感じるのは日本人だからだ。
その為に車掌も乗っている。とにかく站がないから途中乗車の料金も携帯で会社に聞いたりしていた。デカイ大型バスがいきなり途中で停まる。そして荷物を抱えてやって来る客を待つこともある。無論乗客は大人しく待っている。
何でそんなにどのバスも満員になるんや?と思うけど、中国は人間が多いから満員になる。ちゃんと補助席も用意している。100ショップで売っているプラスチックの椅子のような物が、座席のどこかに隠されている。
それを乗って来た客が探す。みんな知らん顔。自分の座席の下を見ようともしない。車掌もその辺にあるやろと言う。動き難いし。その内見つかり一件落着。私は何故か?ホッとする。座号10番は窓際ではなかったので写真はあまり取れなかった。
道中では“横道河子”という地名を目にした。この地名もいろんなことで出て来る。満洲を知る日本人には見慣れ聞きなれた地名だろう。そこから牡丹江まで44kmとの標示があった。 -
7:41:26
搭乗口ならぬ検票口“?”
今回のバス移動では座席指定が概ね守られていました
いつから?
だから「慌てず」「騒がず」待てる -
10:17:02
座号10より、出発後2時間17分を写す
窓際の席でないので写真撮影は、やりにくい
寝たら写せます -
10:23:32
乗車時間から推察すれば
哈爾濱⇔牡丹江の中間点ぐらいだと思う
満洲東北部は
見渡す限り真っ平らというのは
私が移動中に見た限りでは無かったです -
12:12:38
牡丹江に到着、駅近くの終点
このバスに乗って4時間12分
まだ旅のはじめ、長距離移動も何ら苦にならず -
12:15:50
太平路より牡丹江駅を写す
64年前の8月11日
この駅前は避難する日本人でごった返していた
その内の何名が故国日本の土を踏めたのであろうか・・・。
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■牡丹江に到着
12時12分に着いた。初めての牡丹江。
この站周辺でも64年前、昭和20年8月にはいろんなことが起きた。ソ連軍の空襲によっての多くの人たちもこの駅周辺で犠牲になった。後に磨刀石でソ連戦車軍団に肉攻攻撃を仕掛けた石頭の甲種幹部候補生たちも、石頭から無蓋列車に立ったまま牡丹江の駅に着いた。
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「戦争に捧げた青春」白井信三(著)
http://www13.plala.or.jp/s_chiba/txt/text9.htm
↓抜粋
昭和20年8月11日:牡丹江駅
昭和20年(1945年)8月11日 午前5時頃猪股大隊全員石頭駅前に集合することができた。
汽笛一声も無く、汽車は静かに発車し間も無く北満の中心都市 牡丹江駅に着いた。牡丹江の駅は混乱の極に達していた。駅舎は猛烈な炎を上げて燃えている。駅横の石油タンクは黒煙を上げている。街の中はソ連機の爆撃で至る所で火災が発生している。
そして駅は、より安全な新京方面へ脱出しようという日本人があふれ、異様な状況であった。45才迄の男子は総て招集されたので、子供を背負ったり、手を引いたりした子連れの女性と、少しばかり男の老人達だった。 集まって居た人は何千人だろうか。いや、何万人だろうか。
ホームは勿論、線路の上にも人があふれて居た。牡丹江に住んでいた人。市の比較的近くの開拓団の人達であると思う。 その人達が声を揃えて、「兵隊さーん。お願いしますよー。」「お願いしますよー。」涙声の絶叫であった。この声を後にして、いよいよ汽車は死地へと向った。
昭和20年8月15日
牡丹江の市街地に近づくと、黒煙が数条すごい勢いで上がっているし、飛行機が飛び交い爆発音もする。 俺たちは、そんな市街地に入って行った。
駅前は全くひどい状態だった。駅前の建物は殆どが破壊され、数ヶ所で炎を上げている。 駅前の石炭置き場、少し離れた重油タンク両方共猛烈な勢いで黒煙を吹き上げている。 駅前の広場に目を移すと、爆撃による穴が多数あり、赤煉瓦が砕けて飛び散り、その飢えに死体が散乱しすでに腐臭を放っていた。 死体は、軍服を着た者が多かったが、一般市民と思われる死体も見られた。
俺達2人は、駅前で一番大きい建物へ入った。 食堂兼デパートという様な店らしかった。一階は広いが、テーブルや椅子は総て倒れ、ガラスの破片が一面に散乱し、壁は崩れて、足の踏み場も無い、ひどい状態だった。 欲しい物は、食い物、飲み物であるが何も無い。
螺旋階段を二階へ上がろうとしたら、階段の途中に壁にはめ込んだ、ショーウィンドーがあり、中に洋酒のビンが見えた。俺は、銃床でドカンとガラスを破って取り出した。しかし総て中は空だった。
「ちきしょう」
力いっぱい壁にぶつけて二へ上がった。 やはり、食い物は無い。時計売り場で沢山の柱時計が動いていた。 衣料品も沢山散らばっていた。倉庫で、サイダーとビールを見つけて飲んだ。 それから、三階を通って屋上へ出てみた。 重油タンクと石炭の山は、すごい黒煙を上げている。 西側の飛行場は、敵の爆撃機が数機で攻撃の最中で、黒煙が上がっている。
「完全に敗けたなー。」
全身から力が抜けていった。 屋上で、しばし茫然自失。ぼんやりと座っていた。横道河子迄行ってどうなるというのか、身体は疲労の極みに達し、思考力もおとろえてしまった。 その時、屋上から見下ろせる路地裏の道を、荷物を担いだ中国人らしい人がちらほらと見え隠れしていた。 この付近は、日本人街である。商店の看板は皆日本語で書いてある。日本人は皆逃げて、一人も居ない筈だ。 あっ、泥棒だ。すぐ「ピン」ときた。
「ちきしょう、泥棒めー。」
俺は、銃を構え、「ダーン」1発撃った。そしたら帆が、
「やめろー。今さらあいつ等殺して何になる。」
あー。そうだな。撃つ相手が違う。俺は一発売っただけで止めた。
その時、ソ連の双発爆撃機が唯一機低空で飛来した。 そして、2回旋回すると駅前より北へ向う路上の日本兵を目がけて、爆弾を2・3個投下した。 すごい爆発音が響き、建物をゆるがした。 われに帰った2人は急いで下に降り外に出た。
北に行く道路は爆撃されたので、多くの兵が西に行く道路へ集まって進んでいった。 指揮系統もすでに失われ、烏合の衆となった兵が三々五々、勝手気ままに西に進んで行った。
////////////////////////以上・抜粋終わり
昔があり今がある、今の平和は今だけの力ではない
苦は楽の種、苦があったからこその、楽な今に感謝しろ!
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12:15:56
太平路で駅を背に牡丹江(南東)方向を写す
左手前、ちゃんと写ってないが聳え立つ中国銀行
でっかいけど、客は少ない
行員は態度デカイし、デカイのはビルだけでええんじゃホンマ。 -
12:59:12
無事、権香玉と出会いチェックインする
13,14,21日と三泊したが評価は良
是非、牡丹江に行かれる時はご利用を
一泊200元:¥3000円、朝食付き
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■房産賓館に到着し権香玉(日本語ガイド)と出会う
ここでも哈爾濱同様歩いて行った。それはあらかじめ地図で確認出来たり、ここの房産賓館はグーグルアースでも写真が添付されていた。それで歩いて行けるのだ。太平路の一本東隣の東一条路(歩行者天国)にある。ホンマ世の中、どこまで変わって行くのだろう。良しか悪しか?使う者しだいなり。
権香玉のことはいろんなHPで写真入りで紹介されているし、私も前もってメールに写真を添付して送っていた。ホテルに入るとすぐお互いに分かった。房産賓館に来るのが遅かった理由を聞かれた。彼女はバスの到着時間も当然知っているので・・・。
牡丹江は彼女の地元で、「牡丹江中国国際旅行社有限責任公司」もこのすぐ近くだそうだ。今回の旅の全部の宿泊先の予約と、今日の半日ガイドを頼んでいる。
でも私も最初からガイドをしてもらう気はなく、牡丹江の情報もそうだが、今後の旅の疑問を聞いておくのがガイドを頼んだ趣旨だった。メールでは何も言わなかったが彼女もそう思っていたようだ。
とりあえずチェックインを済ませ部屋に入ったのが午後の1時。
食事をしていないので二人で近くのラーメン店(加州牛肉面大王)と言う店に入った。この店はいろんな所にあるチェーン店で去年も哈爾濱で何度か行った。まあ時間気にせずゆっくり坐っておれるということもあるのだろう。 -
13:06:22
ホテルの近く、東一条路
加州牛肉面大王でラーメン食べました
去年も二、三回食いました
彼女の勧めです -
13:17:12
こんなん食いました
普通に食えます -
14:22:30
しょっちゅう二つの携帯に電話が掛かってきていた
朝鮮族の権香玉は日中韓三ヶ国語を駆使して
旅行ガイドをこなします
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■半日ガイドの中味
ラーメンを食べ終わり私が持ってきた資料や写真を出して一つ一つ質問をし答えてもらった。 -
15:23:22
太平路の東隣の歩行者天国
権香玉と別れ、牡丹江を目指し南へ歩く
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以下↓質問事項
○牡丹江の日本の旧跡(牡丹江中学の場所など)
回答
日本軍司令部跡(文化街の林業学校内)
小学校は三つあった。
聖林小学校(新華路の西・第一医院の場所)・円明小学校(七星街、昔の円明街、西二条路の東側)・照慶小学校(牡丹公園の東四条路にある第二中学)
牡丹江中学校(北山公園近くの北山賓館の南側、西地明街の北側付近)
牡丹江女子中学校(牡丹江林区分公司:北山体育場の東地明街を隔てた向かい)
牡丹江神社(北山公園入口)
高岡百貨店(牡丹江百貨大楼)
なかにし礼の両親が経営していた酒造(太平路の工人文化宮の場所)
○昔の牡丹江銀座:満人商店街:円明街は今の何処?
回答
牡丹江銀座=解放路(名前からして直に地図で分かると思って確認しなかったが結局今の時点では分からない)
満人商店街=長安街
円明街=七星街
○磨刀石までの時間、磨刀石を戦場地図で確認
バスで往復は便利なのか?それともタクシーで行った方が良いのか?
回答
磨刀石の駅の場所は昔も今も変わっていない。バスも出ているが、私はタクシーをチャーターして行った(二回)。片道30分。
○牡丹江〜東寧のバス
駅前バス停から東寧まで直接行くのが一日何便か出ている。
駅前に行くとすぐに分かる。
○東寧の旧市街の広さ、車が必要か?勲山、勝鬨山への行き方
行ってみて分かった。東寧要塞・勝鬨山、大肚子方面へは車は必要。綏芬河の向こう側(北側)にある三角山・郭亮船口要塞の方には行っていない。あの辺の山々だろうと言うのは分かるが、どれがどこなのか確認は出来ていない。
○綏芬河から虎頭鎮へのバスの便について
駅前にあるバスターミナルから虎林行きのバス(一日1便だけ)に乗り、虎林で乗り換え。綏芬河から直接虎頭まで行くバスはない。虎林から虎頭行きのバスは結構多そう。(11元)
○虎頭鎮の広さ、大不大?歩けるのか否か?
要塞遺跡などには車でないと無理な感じ、詳しくなれば歩きも可能かも。
○虎頭鎮から密山までのバスの有無?
直接のバスはない。虎頭からは虎林までのバスしかないようだった。私は前日200元で貸し切ったタクシーで虎林まで100元で行った。バスなら11元。一日何便も出ている。真っ直ぐな道を1時間くらい掛かる。
○東海站、哈達河村散策。麻山地域の散策について。当地の人は西大阪と呼んでいる。
回答
西大阪ではなく西大坡(XIDAPO:シーダーポ)だそうだ。「坡」は坂で、西に傾斜した大きな斜面とか西にある坂とか、そんな意味があるようだ。確かに西大坡という地点はあったが確認できなかった。 -
15:44:12
太平路に戻り、牡丹江はもうすぐ
牡丹江のタクシーはほとんど紅色(赤色)、黄色が若干
地域によってタクシーの色分けがされているようです
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権香玉とは1時から3時半頃までラーメン店から場所を変えて、次は喫茶店で資料を広げて疑問点を訊ねた。その間、しょっちゅう彼女の携帯に電話が掛かって来ていた。
旅行社には日本語が出来るのは彼女一人だけで、日本人ガイドが主であるけど朝鮮族の彼女は朝鮮語も無論出来るので韓国人相手のガイドをしているそうだ。そのお客さんや関係者からの電話が多く、朝鮮語で話していた。
ご主人は教師、両親は共に朝鮮族で漢語はあまり流暢ではないらしい。どちらも70歳を越えて今は悠々自適で暮らしているとのこと。教師とガイド、収入はどっちが多いの?それは想像通りです。
11日間のホテル代
ハ2泊440元+牡3泊600元+東2泊400元+綏1泊200元+虎2泊340元+密1泊180元=2160元+手数料300元=2420元
今日の半日ガイド料金:¥200元
合計2640元(39,600円)を払った。領収書もちゃんと書いて持って来てくれていた。5時までOKということだが、もう聞きたいことはとりあえず全部聞けたので「後は自分で歩いて見て回るから」と言って分かれた。
土産として持って来た¥1,000円の文具セットも渡した。「分からないことがあればいつでも電話して下さい」とのことで、一人旅の私にとってその言葉が一番ありがたい。麻山で一度と牡丹江に戻ってから・・・と、二度彼女に電話で聞いた。
2時間半だけど私にとっては十分ガイド料に値するので大いに助かり、今後の自信になった。歩くのは一人が一番。
権香玉と分かれて、何をさておいても太平路を駅を背にしながら南へ牡丹江に向う。昔多くの日本人が闊歩してきた道を、今私も歩く。
太平路を牡丹江に向うと江濱公園にある大きな八女投江の紀念碑が見えてくる。 -
15:51:00
八女投江
ホォ〜、ケチつけたくはないが
物言えば、文字書けば、つい
兎にも角にも俺はハナカラ信じん
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八女投江の紀念碑
朝鮮族ネット↓一部抜粋
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/news1/050802-4.htm
1938年春、日本の関東軍は東北松花江下流で 《三江大討伐》を敢行した。8人の女戦士たちは、最後の弾が尽きるまで勇敢、 頑強に日本の侵略者たちと戦い、四面八方から進撃して来る敵方に屈服することなく、烏斯渾河の激流に飛び込んで尊い生命を捧げた。
彼女らの犠牲精神は無数の青年たちを抗日戦線へ呼び込み、また祖国の解放と建設活動においても鼓舞、激励、努力の動力になっていると称えた。
///////////以上
↑捏造とプロパガンダの中共に真実など存在しない。
逃げようとしたのか?そんな英雄なら子孫はどうした?
無論、どの民族にも英雄的行為をした者はいるだろう。
だが捏造が溢れれば、いや一つでもあれば、すべてが霧消する。 -
15:51:04
八女投江の紀念碑を背に太平路を写す
我、とうとう牡丹江に来たる
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■我、牡丹江に来る
満洲時代多くの日本人がこの川のほとりで遊び散歩し将来を語り、牡丹江にいる自分の運命の不思議を思ったに違いない。
1932年(昭和7年)〜1945年(昭和20年8月)までの13年間に日本人はこの満洲の地で大いに羽ばたき勇躍した。
その痕跡を訊ねれば、そのあまりに広大な地域に短期間で成し遂げた功績に圧倒される。今、満洲国あらば日本の友邦国として燦然と大陸の地で輝き、ロシア・中国に挟まれた要の地で、アジアそして世界の中で、その役割を十二分に果たしていることを確信する。
満洲は昔も今も漢民族の地に有らず。
川幅は広いが流れはよどみ水は汚い。駅を背にし左(北東)に流れている。 -
15:53:14
牡丹江
江濱公園から北東方向を眺める -
15:54:06
水量がどうにも少ないようで・・・。
『大きな船の航行が可能な国際河川』
ちょっとここだけ見てると↑信じられない -
16:35:34
太平路と西平安街の交わる南側に工人文化宮がある
この場所に“なかにし礼”の両親が経営した酒屋があった
関東軍ご用達業者として繁盛したそうだ
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■市内の探索
牡丹江でしばし佇み、次に権香玉に聞いた場所を地図を片手に探し、歩く。まず“なかにし礼”の両親が酒造業を営んでいた場所へ行く。太平路に面した西平安街の南にある工人文化宮の場所辺りだそうだ。
今で言えば「一等地」に工人文化宮はある。建物の前が公園のように広々とし、大きな建物だった。この場所から“なかにし家族”は駅まで行き(歩いて20分も掛からない)コネを使って軍人移動用の列車に紛れ込み哈爾濱へと逃れた。
次に、七星街、旧円明街を歩き円明小学校の有った辺りを歩いた。どこか場所は特定できない。ここに小学校が有ったということは、この付近に多くの日本人の住居があったのだろう。
次に、照慶小学校が有った場所に行った。ここは今、牡丹市第二中学校があるので場所は特定できた。牡丹公園の南西の端にある。中学校の裏にある公衆トイレ(料金どこでも:5毛、一元15円の半分=7円)のおばちゃんに「昔ここは日本の小学校だったのか?」と聞いたけど知らなかった。
http://www.youtube.com/watch?v=kiqrSo44WZA&feature=player_embedded -
16:35:52
工人文化宮前から太平路を駅に向って写す
突き当たりに駅が見える
なかにし家族も、その日
駅に向ってこの道を歩いたのだろう
そして、コネを使って彼等家族は軍用列車に乗り込んだ -
16:41:58
満洲時代:牡丹江高岡号百貨店
何故か気になって写真に撮っていた。帰国後に分かる。
太平路、駅に向って道路右側にある。工人文化宮より駅に近い
http://www.k3.dion.ne.jp/~bochu/botankotowatasi.html -
16:44:36
円明小学校跡を探す。七星街(旧円明街)
この街の峨眉賓館の辺りが円明小学校だったらしい
でもその辺りに峨眉賓館はなく
跡地は分からなかったが、小学校が有ったということは
この周辺に日本人は多く住んでいたのだろう -
17:11:22
満洲時代:照慶小学校・現在、牡丹江第二中学校
昔の校舎が残ってるのか否か?分からない。 -
17:12:06
照慶小学校跡地前より東四条路を北に向って写す
自転車仰山倒れてますが・・・。 -
17:29:28
取りあえずどこにでも“抗日なんたら”という碑がある
碑のデカさ加減は、一体何によるのか?
抗日が糧とはこれ如何に?
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■北山公園へ行く
次に、ここから北山公園(無料)にタクシーで行った。この運ちゃんに明日の磨刀石行きを交渉した。「9時〜午後3時までの貸し切りで、まず始めに代馬溝に行って、それから磨刀石に引返し、ゆっくり磨刀石付近を歩き回り2時に磨刀石を出発して牡丹江に戻る。」
そのコースで値段を聞けば、運ちゃんは「貴方は幾らなら良いのか?」と言うので、私は「ここの相場が分からないから先に金額を言ってくれ」と言った。運ちゃんは口ごもり中々言わない。
「幾らなら?」「先に言ってくれ」との遣り取りが何度かあった後、運ちゃんはやっと値段を言って来た。「200元、行不行?」と言うので私は握手の格好をすながら「行=シン、OK」と契約は成立した。そして明日の朝9時にホテルの前に迎えを頼んだ。
名前は林○金、44歳。携帯の電話番号も教えてくれた。
北山公園に着いた時には、すでに時間は5時半になっていた。一番の目的は高い所で市内全体を見渡したいからだ。知らない所に行けば、とにかく高い所から全体を把握したい。哈爾濱のように広い街は無理だけど、小さいところなら尚更・・・全体を見たい。
サルが高いところに上りたい気持ちが重々分かる。これは本能的なものだろう。
まだこの頃は腰痛をビビリながら歩いていた。北晴山(牡丹江で中一まで住んでおられた方から教えて頂いた)の坂を登るにも一歩一歩確実に踏みしめながら、ややO脚、低姿勢で歩く。毎日の日課なのか散歩する人たちがチラホラいる。
1945年までの北晴山はほとんどハゲ山状態で背の低い潅木があったぐらいのようである。急な階段は当時は無かったとのこと。
北晴山に登る
下から15分くらいで頂上?についた。そして峰を歩いて展望台に行き写真を撮る。ビルの乱立する中心部が大体分かる。私が泊まっている房産賓館から牡丹江付近が一番賑やかな場所だと思う。
そして降りる時は階段を下りた。登りもこの階段を使えば早いのだが、腰痛持ちの私は見てすぐあきらめた。これは元気な人でもこの階段を登るのは鍛練の部類に入る。
降りる途中、思わぬ物に出くわした。トーチカである。北山にどれほどの陣地が構築されていたのか?要塞になっているのか?知らないが、今も一基のトーチカが残っていた。果たしてこのトーチカから銃弾は火を噴いたのだろうか
階段を下り、北山公園(35分ほど)を後にして、牡丹江中学校の跡地へと歩く。 -
17:32:24
腰痛注意O脚にて腰を若干落とし
しっかり地面を踏みしめ一歩一歩
写真で見るより急坂だった -
17:45:24
こんな所に登りました
腰痛はありましたが、“歩き”で鍛えた効果なのか
歩く力は向上したと感じます -
17:50:30
牡丹江市街を望む
左手前の銀色屋根が体育館
道を隔てて、その右側辺りに旧牡丹江中学校があったのだと思います
http://www.youtube.com/watch?v=8E0_ykEjpqU&feature=player_embedded -
17:58:24
北山公園の日本軍トーチカ跡?
兵どもの夢の跡 -
18:00:52
下りはこの急階段を下りました
満洲時代からあったのでしょうか?
“しごき”にはもってこいの階段です
追記
これは戦後に作られた階段のようです。 -
18:05:58
牡丹江:北山神社跡地
この公園の入口付近に神社が建っていたそうです -
18:06:50
旧北山神社跡から南東方向を写す
右手方向に北山賓館、牡丹江中学・左・体育館
牡丹江の地図↓
http://china.alaworld.com/modules.php?name=City&op=map&aid=013p0 -
18:16:54
この西地明街沿いにある
この右の塀が牡丹江中学校の跡地
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■牡丹江中学校:跡地へ行く
牡丹江中学同窓会のホームページ↓
http://www.k3.dion.ne.jp/~bochu/top.html
上記のHPを帰国後に再度確認して、牡丹江中学校・牡丹江神社・高岡百貨店などが確認出来た。高岡百貨店は何故か?たまたま写していた写真の中にあった。
次に「聖林小学校があった場所」と権香玉から教えてもらった新華路の西にある第一医院に行く。地図の通りの川、どぶ川が流れる傍に病院はあった。 -
18:17:54
牡丹江中学校の跡地
建物は変わっている
多感な少年時代をこの満洲の地で過ごし
学び・悩み・そして激動の時代を生き抜きた人生
その原点がここにある -
18:18:18
牡丹江中学校跡地は
警察学校のようだったが、今は看板も外され
廃校の様相を呈していた -
18:36:08
聖林小学校跡へ
地図通り“どぶ川”の傍に病院があった -
18:36:30
左手に川、右手に聖林小学校(新華路の西・第一医院の場所)
一応、探し当てましたが・・・。 -
18:37:24
この場所が64年前、聖林小学校でした
今、牡丹江市第一人民医院
ここの在校生だった日本人は今いずこ?
元気に日本で暮らされていることを祈るのみ -
18:50:06
鉄路で分断された牡丹江の中心を南北に繋いだ陸橋
老若男女ここに暮らす人も、車も、自転車も、馬も
365日、行き来し、ここからの眺めを見ていた
この牡丹江になくてならない虹雲橋、私もとうとう歩いて渡るぞ!
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■虹雲橋を渡る
そして虹雲橋(HONG YUN QIAO ホンユンチャオ)へと歩く。この虹雲橋は鉄道を南北に跨ぐ陸橋で当時の橋を知らないので、その大きさを比べようもないが牡丹江中学校に牡丹江以外から列車で通っていた人たちにも、そして牡丹江で暮らしていた人たちにも思い出深きその名前であり橋なのだろう。
虹雲橋は日本語で「こううんばし」と読み、当時の日本人は通称「陸橋」と呼んでいたそうだ。中学一年で終戦を牡丹江で迎えた方によれば、小学校の低学年の時にこの陸橋が架けられたようで、それまでは踏み切りを渡っていた。今の虹雲橋も日本時代からの物のようだ。
今も鉄道を跨いで虹雲橋を人も車も盛んに往来している。私も北山公園を背にしながら南へと橋上をゆっくり歩いた。橋の欄干には電飾を施している。中国はどこでもそうだがやたらに電飾で飾る。ビルもこういった橋もそうだ。
面子の文化故なのか?ど派手を好む、他より目立ちたいのだろう。ビルの中味はどうでもイルミネーションを点ければ真の姿は隠れ、見た目は奇麗。どんなことでもことごとくそれに尽きる。ホンマ無駄なエネルギー消費で、温暖化対策とは逆光している。 -
18:52:30
虹雲橋の分岐点くらいで駅方向を写す
少ない列車に乗り遅れそうになり
息せき切って走ったこともあるだろう
そして・・・、この上空をソ連機が襲ってきたことも
ここは牡丹江・虹雲橋だ -
18:52:38
虹雲橋の最高峰
分岐点辺りから南方向を写す
今日も陽が暮れ家路を急ぐ?急がない?人、人
平穏なる日常こそ平和っていえるのか・・・。 -
18:52:48
この、ここから
遠くに見える山の稜線は昔も
私が見ている今も同じ格好に違いない
我、虹雲橋に立てリ -
18:53:14
虹雲橋・・・・か
地名もそうだが
名前は変えては駄目だ -
18:54:20
虹雲橋、南の三叉路
すべてを見てきた三叉路
そして今後もここにあり続ける三叉路
しかと眺めていろ!
人間どもがなすことを -
19:34:48
ここで餃子を食った
やっぱり皿に山盛りあった
我吃不了
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■夕飯を食い、今日の一日は終了す
夜の7時くらいまで歩き続け、夕食は房産賓館近くに戻って小吃店に入って5元(75円)の餃子を食べた。食べ切れなかった。
3時半頃に権香玉と分かれて7時までの3時間半歩き続けて部屋に戻ったのは7時40分過ぎ。
さあ、明日はいよいよ磨刀石へ行く。 -
19:38:14
歩き疲れ戻る
明日は磨刀石へ行くぞ!
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