2024/08/28 - 2025/10/20
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砂布巾さん
1944年8月1日~10月2日 ソ連が見捨てたワルシャワ蜂起(ポーランド)
(このページを訪問してくださった方へ)
ご訪問有難うございます。 もし読者の方が根本的間違い、編集の際に発生したと思われる不整合、文法上の誤りなどを発見されたり、何か目新しい情報をお持ちの方、ご意見がおありの場合は、ご遠慮なく掲示板でもメールでも、ご一報くだされば幸いです。
心からの感謝を込めて 砂布巾
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*Warsaw uprising 80 years Memorial Exhibition at former Nippon Bank Hiroshima Branch. 旧日本銀行広島支店(被爆建物 Bombed Building)
*この項目は2001年訪問時の写真に加えて2024年の展示会から多くの写真が混在する構成となっています ご了承ください旧日本銀行広島支店 名所・史跡
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ポーランドでもドイツは徐々に敗退し、ソ連軍がワルシャワ郊外に迫ってきた。7月30日のモスクワ放送がポーランド語で叫んだ。「ポーランド人たちよ! 解放の時が目前に迫っている! 武器を取れ、ポーランド人たちよ!…一刻の猶予も許されないのだ」。これは解放を待ち望むポーランド人の心をかきたてた。翌日、放送に懐疑的だったポーランド国内軍の作戦会議が開かれた。即時蜂起派と慎重派との間で激論となったが、8月1日17時に一斉蜂起開始が決まった。東部では国内軍とソ連軍との間で協力関係を確立することが出来ず、国内軍幹部が逮捕されるという事態を招いていたが、即時蜂起派の思惑としては、数日間持ちこたえればソ連軍がワルシャワに入城するだろう、という希望的観測もあった。また巨大な魔力のような力が、一つの方向に向けさせようとしていた。
ワルシャワ蜂起記念碑 モニュメント・記念碑
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蜂起が始まるとソ連軍は進撃を停止して事態を傍観し、63日間に及んだ蜂起は20万人の犠牲者を出して終わった。ヒトラーは激怒して、ワルシャワの徹底的破壊を命じ、実行された。国内軍兵士がポーランド国歌「ポーランド未だ滅びず」を歌いながら堂々と投降地点に向かう姿には、ドイツ兵も敬意を表したという。そして「ソ連軍は『首都の解放者』としてではなく、(翌年1月に)『破壊された街で死者を葬るための墓掘人』としてワルシャワに入城した」。
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進撃を停止した謎を説くには、当時の政治情勢に留意しなければならない。ポーランド降伏後、政府はルーマニア、パリ、最終的にはロンドンに落ち着いた。国内軍はロンドン亡命政府の軍隊だった。国内軍の基本方針は「軍事的にはドイツと、政治的にはソ連と戦う」だった。直前には亡命政府大統領が蜂起時の支援を求めてイギリス外相と会談した。国内軍を支援することによって、ソ連との協力関係悪化を恐れる外相は冷淡だった。
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独ソ戦開始後の1941年7月30日、国境問題を棚上げして外交関係を回復していた亡命政府とソ連だが、ソ連はカチンの森事件の調査要求を逆手に、1943年4月に国交を断絶した。スターリンは無論国内軍の反ソ性を知っていた。急遽傀儡的共産党組織を国内に作り上げ、直前の7月21日にルブリンでポーランド民族解放委員会を旗揚げしていた。
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*1944年8月15日 ルブリンにてパレードを観覧するPKWN(ポーランド民族解放委員会)代表とソ連軍将校
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国内軍は軍事的にソ連と協力関係を築かず、イギリスとの協力関係も不十分なまま、蜂起に踏み切ったことになる。反ソ派である亡命政府の国内軍の蜂起が失敗し、ソ連の傀儡ルブリン派が温存されたことが、戦後のポーランド史を決定づける。蜂起の公式な追悼行事が行われるのは、共産党政権崩壊後の1989年のことだった。
旧国内軍関係者が戦後共産政権から受けた仕打ちに関しては、小林公二著「アウシュビッツを志願した男」(講談社)でビトルト・ピレツキについて書かれている。 -
フランスが多大な犠牲を払いながらも解放を勝ち取っていくのに対して、戦後にまで続いたポーランドの悲劇には、大きな同情を禁じ得ない。
本項目の主要参考文献である梅本浩志著「ワルシャワ蜂起」(社会評論社)には、ナチスのポーランド支配、強化されたサボタージュ作戦が想定されていた「嵐(ブージャ)」作戦が蜂起へと変質した背景などが紹介されている。
アンジェイ・ワイダ監督の映画「地下水道」(1957年 ポーランド)は、蜂起の際の一部隊の末路が迫力あるモノクロ映像で描かれている。
ワルシャワ蜂起博物館訪問記は「ぱんスキュ」さんのページにて
http://4travel.jp/travelogue/10953748 -
ワルシャワには1990年にクラクフからと、グダニスク(旧ダンツィヒ)までの夜行列車の合間、半日滞在していた。地図も持たず、スターリンからの贈り物文化科学宮殿(評判は悪かった)など市内を大まかに歩いただけだった。印象的だったのは物価の安さ。最初に下車したヴロツワフで一括購入(係員には溜め息をつかれた)したポーランド全行程のチケットが111,660ズロチ、日本円換算では僅か¥1,800。
文化科学宮殿 建造物
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ここ1年来、蜂起やポーランド問題に一層興味を持つようになり、また例年蜂起開始前日に蜂起記念碑で慰霊祭が行われていることを知り、2001年夏に再訪した。
「ワルシャワ・ゲットー蜂起」記念碑やショパンの心臓が納められている聖十字架教会(次章で述べるシコルスキのお墓もあった)再訪、
*1990年ポーランド旅行記(ブロツワフ~アウシュビッツ~クラクフ~ワルシャワ~グダニスク) http://4travel.jp/travelogue/10218276
*1999年ポーランド旅行記 (オーデル・ナイセ国境探訪)
http://4travel.jp/travelogue/10196861聖十字架教会 (ワルシャワ) 寺院・教会
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*砂布巾注 戦間期にポーランド首相を務めたピウスツキの銅像 左側は泊まったホテルの入り口
*聖十字架教会訪問記は、「旅人のくまさん」さんのページへ
http://4travel.jp/travelogue/10843995 -
無名戦士の墓、旧市街スタレミアスト、
無名戦士の墓 モニュメント・記念碑
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*こちらのプレートにもポーランド人が処刑されたことを記している
本間精一氏が「ポーランド未だ滅びず」(東洋出版)で紹介している場所も訪問した。 -
慰霊祭は元国内軍兵士、現役兵士、ボーイ・ガールスカウト、犠牲者の遺族などが参加して予定の19時を大幅に過ぎて始まった。1時間以上に及んだ式典は華やかですらあった。
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*中央はポーランドの守り神シレナ
報復として徹底的に破壊されたこの町だが、戦後町並みは見事に復興した。特にスタレミアストは壁のひび1本にいたるまで忠実に復元されたという。心からの敬意を表したい。ポーランドは大戦で600万人もの犠牲者を出した。絶対数では2千万人以上とされるソ連より少ないが、割合では人口の20%以上に及ぶ。 (2001年7月31日訪問)人魚像 (旧市街広場) モニュメント・記念碑
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もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693
関連項目
「開戦」 http://4travel.jp/travelogue/10731954
「ポーランドの『領土』と『政権』」http://4travel.jp/travelogue/11230238旧市街広場 旧市街・古い町並み
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*泊まったHotel Europejski
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カチンの森事件(ポーランド)
ポーランドのソ連占領地区では多くの将校が行方不明になったが、1943年4月ドイツの宣伝機関がスモレンスク近郊カチンの森で数千のポーランド人将校の遺体を発見した、と発表した。米英はソ連に遠慮して黙殺した。長いことドイツの犯行であることを主張していたソ連が犯行を認め謝罪したのは、ゴルバチョフ時代になった1990年4月のことだった。ポーランド映画界の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の実父も犠牲になっている。 -
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*蜂起記念碑からもほど近い場所にあるキュリー夫人生家(中は見学せず)に掲げてあるプレート ナチスによって処刑された人の名前が記されいる
加害者としてのポーランド人(ポーランド)
600万人の犠牲者の内、半分はユダヤ人と言われる。2001年5月28日付読売新聞などにポーランド人によるユダヤ人への加害問題に関する記事が載った。
ポーランド東北部ソ連占領地区にあるイェドワブネ村で独ソ戦開始直後の7月10日、村に住むユダヤ人千六百人が殺され財産が略奪された。在米ポーランド人の社会学者ヤン・グロス氏が著書で事件がポーランド人によるものであることを明らかにした。
事件から60年目に当たる年、クワシニエフスキ大統領も出席して慰霊式典が行われた。しかし住民側は全ての村民が関与したとされることについて反発し、一方ユダヤ人側も「大戦中にソ連に協力したユダヤ人の謝罪も期待する」とのポーランド・カトリック教会のグレンプ首座大主教の発言に反発している。 -
*ホテルの部屋の中はこんな感じ
この問題は2002年9月にNHK特集で取り上げられた。父親の過去を知ろうとするヤン・スクロツキ氏を軸に進められる。村人の口は固い。真相は事件から60年目の前日、国民記憶院によって明らかにされた。反応は「政府は何を考えているんだ」、「ほかでもやっているのになぜ我々だけ責められるんだ」、「ユダヤ人が仕返しに来るぞ」。関係者は仕返しや補償を求めているのではなく、一言「実は犯人は自分たちの祖先だった。申し訳ない」が欲しいのだと思う。ただ現住民が直接の当事者でない今、親や祖父母の代のことを子孫が謝罪すべきかは難しい問題だ。また反ユダヤ感情が根強いことも背景にあるだろう。「蜂起」の項目で紹介したピレツキ氏の本の中にそれを示す記述もある。
アウシュビッツ収容所解放75周年に関する日本経済新聞の記事で、2018年の保守政権成立以後、ポーランドがホロコーストに加担した主張が事実上できなくなっている記事が紹介された。(ソ連軍は占領者か解放者かとの立場でロシアと対立旨の内容も) -
シベリア孤児救済と震災孤児の招待(ポーランド)
「ポーランド孤児・『桜咲く国』がつないだ765人の命」(現代書館)を参考に日本とポーランドとの友情物語をご紹介する。
長いことポーランドを支配していたロシアは、シベリアに多くのポーランド人を追放していた。彼らの生活は悲惨だった。シベリア出兵の最中1920(大正9)年に子どもたちだけでも救おうと最後に頼ったのが日本だった。当時まだ国交がなかったにもかかわらず、僅か17日で受け入れを決定。子どもたちは日本で大歓迎を受ける。献身的に子どもに尽くした看護師松沢フミはチフスに罹り殉職した。765人全員が無事祖国へ送り届けられた。 -
*再び無名戦士の墓
阪神(1995)、東日本大震災(2011)が起こった後、今度は震災孤児が招かれた。その際、ポーランド婦人が語ったエピソードを。1人の男の子が小さなリュックサックを背負ったままで、一時も離さないのを見て、預かってあげようと言ったのに、応じようとしない。この子は震災の時に両親、兄弟を亡くし、家も焼けてしまった。リュックには焼け跡から見つけた家族の形見や遺品が入っている。この子が不憫で涙が止まらなかった。無名戦士の墓 モニュメント・記念碑
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*衛兵交代
2002年夏、両陛下がポーランドを訪問した際、招待された元孤児アントニーナ・リロさん(2006年7月死去)は「滞在は思いやりに満ちたものだった」と皇后陛下に語った。 -
遡るが1928年に元孤児イエジ・ストゥシャウコフスキ氏を中心に結成された極東青年会と日本大使館は密接な関係を持ち、青年会が隠れ蓑として使っていた孤児院をナチスが急襲した際、急遽駆け付けた大使館員との連携で孤児たちに「君が代」を歌わせて退去させたという一幕もあった。ビエラニではコルチャック先生と働いていた。大戦中はワルシャワ北部カンピノスの森に司令部を置いてイエジキ部隊(最大時1万5千人)を結成しレジスタンス活動を展開。ワルシャワ蜂起にも参加した。
戦後イエジ氏は戦災孤児の教育に尽力し、「千人の子どもたちの父親」と呼ばれるようになった。1983年念願の再訪日を果たした。
2018年11月20日ワルシャワ郊外Stara Wiesにある小学校は、「シベリア孤児記念小学校」(Siberian Orphans Memorial Primary School)と改名し、児童たちは小学校1年生から日本語や日本文化も学び、校章には日の丸も入っている。両国の友情は永遠だ。 I will go next2026 spring!
https://www.youtube.com/watch?v=jhd3qs0NjYU
ポーランド孤児救済から百年
https://www.youtube.com/watch?v=q_yY3epUhI8
ポーランド シベリア孤児記念小学校
https://www.youtube.com/watch?v=w0UpRXl6_r0
なぜポーランドの子供達は「君が代」を歌うのか? -
*王宮
王宮広場 広場・公園
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*バルバカン
バルバカン 史跡・遺跡
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*大統領官邸のラジディウ宮殿
大統領官邸 (ラジヴィウ宮殿) 城・宮殿
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*新市街(ノヴェミアスト)と結んでいるフレタ通り
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*蜂起開始当日のクラクフの町並み。ポーランド国旗が掲げられている
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*首都の破壊
1944年10月初めに蜂起兵が防衛していたのはもはやワルシャワ市内中心地区だけでした 結果として1万8千人を超える兵士と13万から15万にのぼる民間人という膨大な犠牲を被りました 連合国から一切の支援が得られず、食料は不足し、民間人の犠牲が続いている中で、これ以上の戦闘はまったく意味を持ちませんでした 蜂起兵は捕虜とみなされ、隊列を組んで市を退去することを許可されました ドイツ軍は、すべての民間人の即時避難を要求していました
ヒトラーは、首都壊滅計画の実行を決断しました 10月11日、ヒトラーは首都の徹底的破壊して、それを前線の要塞、すなわち「ワルシャワ要塞」に変える命令を下しました 全市民を追放した後の数週間、ドイツ軍は組織的に略奪し、家屋を次々に焼き払い、爆破していきました 彼らは建物の30%を廃墟に変え、蜂起中を上回る損害をもたらしました 容赦なく、すべてが破壊されたのですー発電所も給水施設もガス工場も、路面電車網さえも 大邸宅、教会、記念建造物は順番に爆破され、戦争中にワルシャワ左岸の建物の85%が失われました -
*1944年10月は初め、ワルシャワ市民はドイツ軍に護送され、強制的に首都から追放されました 集合場所である聖ヴォイチェフ教会の途上、市中心地区からの市民は、蜂起中に憲兵隊兵士が500人以上を処刑したミルフ市場を通りました
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*街の復興はままならないのに文化科学宮殿が聳え立つ異様さ
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*スタレミアスト(旧市街)の様子と思われる
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*CGでカラー化されたものと思われる 分かりにくいけど徹底的に破壊された街並
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*1945年春、ソ連内務人民委員部(NKVD)は協議を開始するという口実でポーランド亡命政府指導者16人を逮捕しました 16人はモスクワの法廷で長期服役を宣告されました ポーランド共和国国内代表ヤン・スタニスワフ・ヤンコフスキはソ連の監獄で死亡しました
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*反共国内軍兵士 1945年1月国内軍は解散 兵士へ最後の命令には、独立は未だ達成されておらず、戦い続ける必要があると記されていました。共産主義者がポーランドの抵抗運動に対して厳しいテロ行為を引き起こしていたため、多くのポーランド兵士は武器を捨てませんでした。パルチザン部隊は、ポーランド全土でソ連内務人民委員部(NKVD)およびポーランド人民共和国秘密警察を相手に、勝ち目のない闘いを強いられました。彼らは捕虜を解放して、市民を守りました。戦後すぐに反共地下運動兵に対して、ファシストであり「不道徳な反動主義者」であるとの不名誉なレッテルを張りました。最後の反共地下運動兵が非業の死を遂げたのは、1963年の強制調査の渦中でした。
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*ワルシャワ蜂起の記憶は非公式の記念式典によって生き続けました 蜂起開始の「Wの時間」から1周年を記念する行事は、国家による式典とは別に催されました 1980年代になると、蜂起兵の墓地前での8月集会は、人々が「連帯」運動への支援を表明する格好の機会になりました
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*共産主義ポーランドでは国内軍兵士は政治警察に絶えず監視されていました。ワルシャワ蜂起追悼記念日に、国内軍兵士はともに闘った戦没兵士の墓を訪れましたが、国家保安機関の警官は秘密裏に彼らの写真を撮影しています。
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*禁じられた記憶
ポーランド人民共和国は、ワルシャワ蜂起についての虚偽の上に誕生しました 公式のプロパガンダは、蜂起兵の英雄的行為は尊敬に値するが、ワルシャワの破壊とその市民の死は指揮官たち在ロンドン政府の責任であると公言していました それでもなおポーランド人はワルシャワ蜂起の記憶を守り抜きました 毎年ワルシャワ市民は、戦没蜂起兵の墓地に集まりました 彼らは記念碑や博物館がワルシャワ市内に建立されるよう呼びかけました 1979年教皇ヨハネ・パウロ2世は教皇として初のポーランド訪問時、ワルシャワとポーランドの歴史において蜂起の重要性について語りました -
※ワルシャワ蜂起40周年記念行事において最後のポーランド政府国内代表であったステファン・コルボンスキは、ロナルド・レーガン大統領(当時)に国内軍十字架賞を授与しました 当時レーガン元大統領は、彼の国はヨーロッパを勢力圏に分割することを決して容認しない、と述べました
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「自由への情熱を共有する我々は、誰もがワルシャワの英雄たち、そしてポーランドのすべての勇敢な人々に、深い恩義がある」ロナルド・レーガン
All of us who share their passion for freedom owe the heroic people of Warsaw and all of the valiant people pf Poland a profound debt by Ronald Reagan
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旅行記グループ 砂布巾のLW「進化し続ける自叙伝的旅行記…」 第8章 解放の兆し(解放と悲劇)
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