2008/05/02 - 2008/05/07
5617位(同エリア7866件中)
山菜迷人さん
5月5日(月)
朝、K下さんとホテルの向かいの路上にテーブルを出しただけの店でフォーを食べようと下に降りたら、ちょうど葬儀の行列に出くわした。こっちの葬式はこんな早くにやるのかと驚いた。まだ、7時前だ。それに、ミニブラスバンドのような楽団が後ろについてにぎやかに演奏している。先頭に白装束の若者、その後ろに同じく白装束の女性が二人いて、その後ろは紫色のズボンに灰色の上着を着た老女が立っている。どうやら、亡くなったのは一家の主で、長男が先頭に立っているようだ。先頭の若者の手には、白地にピンクの花模様の壺、そして、その壺には50センチはありそうな蝋燭が立てられている。日本の霊柩車と違い、2tトラックの荷台に赤い支柱が立てられ、その上に赤い屋根がしつらえてあり、赤と金などの派手な色の装飾品で飾られているという実に派手なトラックである。そこに、金と赤を基調とした棺が運ばれてきて乗せられる。トラックがゆっくりと走り、その後ろを葬儀に参列した親族と思われる人たちが歩いてついていき、さらにその後ろをブラスバンドが音楽を演奏しながら進んで行った。
葬列が行き過ぎてから、フォーを頼み、歩道の上のにわか屋台で食べる。フォーの出汁は牛骨から取ったものと思われるが、コリアンダーなどの香辛料が入り、ミントの葉などをのせるので、牛骨の臭いは感じない。肉と、玉ねぎ、刻みネギ、ワケギの白いところがのせてある。テーブルの上にミントの葉やモヤシなどが置いてあり、好みでのせて食べるようになっている。味もテーブルの上の酢やチリソース(?)、ニョクマムなどで調節して食べるのである。
僕はチリオイルのようなものをたらしていただいた。ピリリとした辛さのパンチがきいてうまい。
今日は、今回の平和ツアーのメインテーマである戦争証拠博物館とTuDu病院訪問が予定されており、8時にホテルのロビーに集合。女性陣の要望で、朝飯にフォー食べようということになっており、S籐さんの案内で、ベンタン市場の西側にある、クリントン米大統領が立ち寄ったというフォーの店に行き、おもいおもいに注文した。僕は朝早くフォーを食べているので、チキンスープカレーとフランスパンを頼んだ。K下さんは、クリントン大統領が食べたのと同じフォーを食べている。
スープカレーにフランスパンを浸して食べる。香辛料の利いたカレーで、日本のカレーとよく似ている。あっ、違うか、日本がカレーという食文化を輸入しているんだもんね。こっちの方が先祖だ。チキンの骨付き肉とジャガイモ、人参が入っている。具材だってほとんどかわらない。好みの味のカレーがパリパリのフランスパンの皮を柔らかくし、パンのうま味とカレーのうま味が合わさってとても旨い。大いに気に入った。
ここから、戦争証拠博物館まで歩く。北に向かって大きな通りを3つほど越えると両側が公園になる。背の高い並木が両側に植えられ、そこだけ、空気がきれいな気がする。公園の花壇に鶏頭や向日葵といった花が咲いている。日本でいえば夏の花が今まさに真っ盛りなのだ。その公園を抜け、さらに大きな通り越え2本目を右折(東に入る)してしばらく行くとめざす戦争証拠博物館に到着。入館料15,000ドンを支払い、一時間ほど館内を見学する。
一ノ瀬泰三、沢田教一、石川文洋など日本人の従軍カメラマンの写真がたくさん展示してあり、一ノ瀬泰三が使っていたNikonFのパネルが展示してあった。NikonFのファインダー側なんだけれど、レンズ側から銃弾が入りファインダー側に抜け、穴があいている。一ノ瀬がカメラを構えているときだとしたら、間違いなく即死だな。一ノ瀬は、1972年カンボジア入国以後、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡への一番乗りを目指しており、1973年11月、「地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ」と友人に言い残し、単身アンコールワットへ潜入した。そして、そのまま消息を絶つ。10年たった1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れた、アンコールワット北東部に位置するプラダック村にて遺体が発見され、両親によってその死亡が確認されたのだ。その後、ポル・ポト派により捕らえられ、わずか26歳で処刑されていたことが判明。壮絶な人生だな。
沢田教一の『自由への逃避』を使ったポスターが掲示してあった。実物はなかったが、彼は、この写真でピュリッツァー賞を受賞し、一流従軍カメラマンの仲間入りを果たした。しかし、その沢田も『自由への逃避』の5年後、カンボジア戦線を取材中に死亡した。石川文洋は戦後も生きて、現在もフリーカメラマンとして活躍している。
彼らをベトナムへと向かわせたものは何だったのか。沢田教一は青森生まれ、石川文洋は沢田の2歳年下で沖縄生まれ、一ノ瀬は石川の生まれた9年後佐賀県に生まれた。いずれも辺境の地に生まれたという共通項を持つ。もちろん、ベトナム戦争に対する様々な思い、平和を願ったり、民族独立運動だとか、ジャーナリスティックな精神の発露が大前提だとして、辺境の地に生まれたという中央に対する劣等感、一旗あげてやろうという野心、そんなハングリー精神が底流に流れていたのではないか。そうでなければ死者にカメラを向けることなどできないのではないか。僕にはそのように思われた。
枯れ葉剤を浴びた女性から奇形児が多く生まれている。無脳症、結合双生児、そんな生きることができなかった命が、ホルマリン漬けされている写真。中村悟郎の『母は枯葉剤を浴びた―ダイオキシンの傷あと』で見たことがあるが、それが、半切、全紙サイズで展示されている。僕には正視できない。心が痛い。
また、コンダオ監獄のタイガーケージが再現されていたが、なぜ、人はこんなに残酷になることができるのか、僕には理解ができなかった。展示物を見ているだけで疲れ果て、中庭の売店でコーラを買って飲みながらボーっとしていたら、K下さんがやってきた。
「見ているだけで疲れてしまいますね。僕は、こういうのは苦手です。」
「そうやな、かなり衝撃的だからな・・・。」
日本の博物館でもそうだけれど、土産物売り場があって、若い女の子が一人で店番をしていた。その売店に女の子を冷やかしに行こうと、店先に回り込む。彼女の写真を撮ったり、K下さんに一緒に写真を撮ってもらったりした。そして、
「メールで送ってあげるから、アドレスを教えて。」
「●●●@●●●.●●●」
僕は、日本語のわからない彼女とお互いに片言の英語で
「安くして」
「それは無理」
というようなやり取りを楽しみ、結局、1,000ドン値引きしてもらって、赤いい帽子を買った。
10時から博物館の中で、副館長のバンさんと、コンダオ監獄の生き残りの小柄な初老の方と懇談する機会を得た。通訳が上手くないので、細かいところはわからなかったけれど、
「私が今日を生きることが、アメリカの戦争に反対しベトナムの平和を実現する意思表示になるという信念が、私の監獄生活を支える全てだった。」
と語られたことに大きな感動を覚えた。コンクリートのベッドに足枷をされ、まっすぐに延びることもできない拘束された状態で、拷問の恐怖、外界との遮断、精神的にも肉体的にも拘束された不自由な生活。食料も満足に与えられず、解放されたときは一人で立つこともできなかったという。心が折れたときに、人の尊厳のある生は終わる。そんな監獄の生活を心が折れることもなく生き抜いた強さ、僕は素直に心を打たれ、大きな感動を覚えた。
ある種の心地よさを感じながら博物館を後にし、いったんホテルに戻り、ホテルの近くのベトナム料理の店にそろって昼飯を食べに行く。僕は野菜などが入った卵焼きと茄子の煮物を頼んで2階の指定された席に着く。混雑した店内で、それぞれが指定した料理を間違いなくテーブルに運んでくる。当たり前といえば当たり前だが、その手際の良さには脱帽だ。S藤さんが、
「ビールのいる方?」
僕は驚いて、
「これからTu Du病院に行くんですけど大丈夫なんですか?」
「酔っぱらわなければ大丈夫です。顔が赤くなったり、酔わない方は大丈夫ですから・・・手を挙げてください。」
僕とK下さんを入れて6人が手を挙げた。333ビールが出てくる。ベトナム料理を食べながらビールを飲む昼下がりのひと時、こういう時間が幸せだね。ビールを2本飲んで、いったんホテルに戻り、タクシーに分乗してTu Du病院へ向かう。
Tu Du病院は、南ベトナムの産婦人科のセンター病院で、ベッド数は1,000床、外来患者数は1日3,000人にのぼる。しかも、ベトナムでは患者さんに家族が付き添ってくるのが一般的で、2〜3人は付いてくるのだそうだ。ということは、仮に患者さん一人に平均二人付いてくるとすると、入院外来併せて4,000人の患者数だから8,000人の付き添いがいるっていう勘定になる!患者さんとその家族で1万人を超えるやないか。ここだけで一つの町やな。どうりでやけに人が多いと思った。
正門をくぐると、中央が広場になっており、周りに10余りの建物が建ってい、木陰には多くの人たちが涼んでいる。通路にそって右方向に歩いていくと、左手に売店があり、店頭には色とりどりの果物が並び、ジュースを売っているし、その向かいの建物の一階は大衆食堂のようになっている。壁はなくオープンテラスのようになってい、天井に大きな扇風機の羽が回っている。20〜30ほどのテーブルがあり、セルフ・サービスのようで、厨房カウンターで料理を頼み、お金を払い自分でテーブルまで運んで食べている。その食堂の隣が、障害児学級のある特殊病棟の建物だ。その入口で通訳と待ち合わせており、しばし休息。
そこにドクさん降りてきて、
「S藤さん、こっちです。」
と声をかけてきた。
「通訳の方と待ち合わせているので、来たら一緒に上がります。」
とS藤さん。日本の真夏のようなジリジリと降り注ぐ陽射しと闘いながら待つことしばし、通訳の青年がやってきたので一緒に階段を上がる。3階の冷房の利いた会議室に通され、タン先生と懇談。枯れ葉剤の影響で子孫の代まで大きな影響が出ていること、枯れ葉剤が如何に非人間的な兵器であったのかなどの話を聞いた。懇談には、ドクさんも一緒に参加していた。結合双生児として生まれ分離手術をし、ベトさんは残念ながらお亡くなりになってしまったが、ドクさんが元気にこの病院で働いていることが嬉しかった。
ここから少しお勉強の時間。和歌山大学教育学部教育実践総合センター紀要 No.14(2004)をひも解いてみる。「ベトナムの障害児教育における現状と課題」と題する、江田 裕介、森澤 允清、井上 真友子の3人の署名のある論文が掲載されている。この中から少し引用する。
「ベトナム戦争の間にアメリカは、ベトナムの小さな国土の上に 785 万トンの爆弾を落とした。この爆弾の量は、第2次世界大戦中にアメリカが全世界の戦場で使用した爆弾 205 万トンの 3.8 倍に相当する。またアメリカは、7200 万リットルの枯葉剤を南ベトナムの森林や農村へ散布した。散布面積は 170 万ヘクタールで、南ベトナムのジャングルの 20%、マングローブ森の 36%に及ぶ。枯葉剤を散布した目的は、第一にベトナム解放軍の隠れているジャングルを消滅させること、第二に農作物を汚染し食料として役立たないものにすることであった。この枯葉作戦は『ランチハンド(草刈り人)』と呼ばれた。アメリカが用いた枯葉剤は、ジクロロフェニキシ酸(2,4-D)と、トリクロロフェノキシ酢酸(2,4,5-T)という2種類の農薬の混合物で、『エージェント・オレンジ(オレンジ色の使者)』というコード名で呼ばれていた。これらの農薬は、もともとアメリカ国内でも除草剤や殺虫剤、木質植物の成長調整剤などに使われていたものである。日本でも除草剤として用いられていた。アメリカは、その他にも「ホワイト」「ブルー」「パープル」「ピンク」「グリーン」といったコード名で呼ばれた多種の枯葉剤をベトナムへ散布した。
この枯葉剤にダイオキシンが含まれていた。一般に誤解があるようだが、枯葉剤はダイオキシンそのものではない。ダイオキシンは、枯葉剤の化学合成の製法上に混入する不純物質である。ダイオキシンの正式な名称は「ポリ塩化ダイベンゾダイオキシン」といい、理論的には 75 種類が存在する。毒性は塩素の結合の仕方で異なり、ホルモン系に作用して生殖機能や免疫機能を冒すことや、催奇形性、皮膚障害、内臓障害、発ガン性など多様である。そのなかでも 2,3,7,8- ダイオキシンの毒性が最も強いといわれる。エージェント・オレンジのダイオキシン濃度は、米空軍の資料によると 1.98ppm であったとされる。1958 年、ウサギが極微量のダイオキシンで死んだことがドイツで報告された。50kg の人間におけるダイオキシンの致死量は 0.1mg で、青酸カリの 1,000 倍、サリンの 10 倍の強さである。また、サリンは空気中の水蒸気にさらされると無害になるが、ダイオキシンは 1,300 度の高温でしか高速分解しない。極めて安定した物質で、水に溶けにくい性質をもち、最近では環境ホルモンとしての側面も知られるようになった。消化器、皮膚、肺から吸収され、血流によって人体の各組織に運ばれた後、主として肝臓と脂肪に蓄積される。人間では脂肪により多く蓄積され、代謝されにくい。ダイオキシンの排泄は、人間では遅く、2,3,7,8-TCDD の半減期は、実験動物であるネズミの 100 倍以上長いといわれている。
通常の 10 倍以上の濃度で 7200 万リットルもの枯葉剤が散布されたベトナムでは、広範囲で森林や耕作地が壊滅し、79 万人が中毒になり、多量の家畜も死んだ。しかし、枯葉剤の被害は環境や生態系の破壊だけでなく、その後も長期に渡って人体に影響を与え、南ベトナム住民だけではなく、戦争の終結後に北部へ帰還した兵士や、ジャングルへ派兵され被曝したアメリカ兵士、韓国兵士などにも、今日なお生命や健康への被害が続く。
ダイオキシンの影響と考えられる最も深刻なものは、両親の被曝による胎児への影響で、死産、流産、精神神経異常、結合双生児や無能症などの先天性障害の原因となることである。」
ダイオキシンなどの環境ホルモンの影響は、日本やアメリカなど高度に発達した工業国においても同じ問題が潜在しているし、ベトナムにおいても、急速な産業構造の転換と、公害問題を引き起こした日本の高度経済成長期のような、経済の発展を第一義的に考える状況があり、過去の被害とは異なる形で再びダイオキシンの問題が忍び寄っている様に思えて仕方がない。
1時間ほどの懇談ののち、障害児学級と標本室を見学させてもらった。障害児学級の方は、障害を持って生まれてきた多くの子供たちが生活しており、彼らの陽気さに助けられたが、標本室は、なぜこんなことが・・・語る言葉もない。O保さんやK下さんが写真を写されていたが、僕にはカメラを向けることもできなかった。母親のおなかの中で生を得ながら生を否定された存在、非人間的な兵器、それらのことを語るだけで大部の本が書けそうだ。2時間近い時をこの病院で過ごし、人間についていろいろなことを考えさせられた。僕の人生にとって、この時間は、僕の人生に深みを与える時間だったことだけは間違いない。
再びタクシーで移動。今日は、お世話になったS藤さん一家と食事会をすることになっており、サイゴン川に面したオープンレストランに移動した。S藤さんがタツノオトシゴの入った焼酎、バナナの焼酎を持ってきており、飲ませていただいた。どちらもひね香がして、お酒を仕込むということがベトナムでは難しいのだろうなと思わせた。おそらく気温が高すぎるのだと思われる。そのため、発酵がどんどん進んでしまう。ようするに、あまり旨い焼酎ではなかった。
「タツノオトシゴ焼酎は、その名の通り、男性の夜の・・・と言われています。飲みすぎると夜困るかもしれません。」
などという。S籐さんも飲んでいるので、
「では、今晩S藤家に二人めの子供さんが仕込まれるかもしれませんね。」
とみんなに言われていた。S藤さんの奥さんのMさん、一人娘のHANAちゃんとの楽しい交流の時間はあっという間に過ぎた。
帰りににカフェによってアイスコーヒーを飲む。タクシーに分乗してホテルに戻り、爆睡。
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