2005/12/28 - 2006/01/04
381位(同エリア528件中)
瑞樹さん
元旦を死海で迎え、いよいよ黄金のドームのあるエルサレム旧市街へ向かいます。
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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1月2日。
どうも旅行に来ると生来の貧乏根性が働いて、色々食べたくなってしまう。このホテルには少しばかり日本食があったので、味噌汁だけ頂いてみました。 -
今日も快晴です。
昨日クムランからエルサレムへ移動し、リージェンシーホテルへ宿泊。
エルサレムは標高が800mあるので、ちょっと涼しい。気温12℃。
今朝は車で10分ほどのオリーブ山へ向かいました。 -
エルサレムの町は、白っぽいエルサレム石の建物が小高いいくつもの丘に密集してます。
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イスラエルで最も有名な風景といえるでしょう。
ここ、オリーブ山からは旧市街が一望でき、ご覧の通り神殿の丘に建つ黄金のドームが光り輝いています。 -
神殿の丘に立つ黄金のドーム(岩のドーム)は、その上で預言者ムハンマドが天使を従え天馬に乗って昇天したといわれている大きな聖岩モリヤを抱え込むように建っており、カアバ(メッカ)、預言者のモスク(サウジアラビア)に次ぐイスラム教の第3の聖地。
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モリヤの上部には、ムハンマドの足跡や大天使ガブリエルの手の跡と伝えられているものが残っているそうです。
岩の下の洞窟には、アブラハム、ダビデ、ソロモン、ムハンマドなどの聖人が祈りを捧げたといわれ、ムスリムは”魂の井戸”と呼び、最後の審判の日には全ての魂がここに集まると信じているらしい。 -
ウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリク(アラビア語を公用語とし、イスラム世界を統一、キリスト教を弾圧する)が685年から688年の間に建設。
イスラム最高の聖地メッカがアリー・イブン=アビー=ターリブ(預言者ムハンマドの従兄弟で、ムハンマドの娘ファーティマの夫。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり)を支持するイブン・アッ・ズバイルによって制圧されており、岩のドーム建設に着手したのでは、と云われています。 -
ドームに使われている金(メッキのアルミ板)は、隣国ヨルダンの先の国王が寄付したものだそう。
この地でヨルダン先主の父が暗殺され、いずれ支配下に置きたいと考えていたヨルダンは真っ先にイスラエルとの国交を開きましたが、90年代後半の中東和平の際、故アラファト氏の存在が大きく、現在に至っているようです。 -
ドーム内部の北の門正面にある緑の石に、ムハンマドが19の金の釘を打ち付けたとされ、やがて全ての釘がなくなったときに地球は元のカオス状態になるといわれているそうで、2001年現在その釘は3本残っているらしいです(今は何本なんだろう…)。
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ドームを支える柱は、ビザンツやローマ時代などのいくつもの神殿ものが利用されているため、色や厚さ、高さなどが一本一本違っているとか。
今も昔も、複雑な歴史の巣窟ですね。 -
ドームの建設に際して刻まれた総延長240mに及ぶ碑文には、イエスの神性を否定はするものの、預言者であることを認めていて、又このドーム周辺の地下数十メートルに、ユダヤ人の先祖アブラハムがこの岩の上で神の命令により、我が子のイサクを生け贄に捧げようとした聖地が埋まっているといわれています。
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異教徒に汚されている上に調査が終わっていないこともあって、この辺りを正統派のユダヤ教徒は近付かないそうです。(もし、まちがって聖地の上を歩いたら雷に打たれるといわれている、とも。)
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外部は大理石と1554年に張りなおされた美しい瑠璃色のトルコ製タイルによって装飾されていて、かつては樹木や草花、建物を画いたガラス・モザイクだったそうです。
燦燦たる太陽の下、きっと美しかったことでしょう。
現在のドーム部分は内部装飾も含めて11世紀に再建されたものですが、ほぼ創建当時のままのデザインで、現存する初期イスラーム時代の最も美しい建物の一つとされています。 -
オリーブ山では、他にも観光客が幾グループかちらほら。
猫もちらほら。
ここは場合によると安全ではないので、格安の絵葉書とポスターとしおりを添乗員のSさんが纏めて買ってくれました。
絵葉書(なんと30枚組み!)、ポスター、しおりが全て各1$! -
売っていた方々は目が不自由な方だそうで、うーん何だかこんなに安くてちょっと申し訳ない気がしますが。
私は絵葉書とポスターを買いました。
私が猫の写真を撮ろうとしたら、どこからかの観光客の女性がこちらに顔を向くようにしてくれました。
Thank you!! -
今度は万国民の教会へ。
オリーブ山の中腹にあるこの教会は、1925年、世界12ヵ国からの献金で再建されました。
別名・苦悶の教会。
この辺りには、380年にキリスト教を国教にしたことで後に大帝と呼ばれる、ローマ皇帝テオドシウス1世が、4世紀に教会を建てたのだそうです。
彼はコンスタンティヌス1世以来、はじめてコンスタンティノポリスに常住した皇帝。 -
12世紀には天使のモザイクのある教会があったそうで、13世紀には、ブルックハルトというドイツ人修道士がここで、キリストの顔、髪、両膝の跡がくっきりと刻まれているのを見たという話もあります。
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ゲッセマネの園を通り、中へ。
内部は、「万国民の教会」というより、やはり「苦悶の教会」という名のほうがしっくりくる雰囲気。
何故”苦悶”の教会なのか?
木曜日の夜、イエスと弟子達は、慣例に従ってエルサレム城内のある一室で、過越しの祭りの食事(いわゆる最後の晩餐)を済ませ、ベタニヤ村に帰ろうとしていました。
この行動は極秘でした。
もし食事の場所と、ベタニヤ村からのルートがサドカイ派に知れたら、捕まる事は確実でした。
夜中だった為、彼らを取り巻く支持者の群れもありませんでした。 -
しかしこの頃、弟子の1人であるイスカリオテのユダは、食事の場所近くにあるサドカイ派の大祭司、カイアファの屋敷で、裏切りの決意を固めていました。
イエスたち一行がオリーブ山麓にさしかかった時、イエスは危険な場所だと予測していた、ゲッセマネの園に入りました。
イエスは、この後に続く鞭打ちの拷問と十字架刑の運命を知っていました。
それが神の意志に適う事、救世主として耐えなければならないとわかってはいましたが、夜の闇の中、死の恐怖を待ちつづけるこの時間を、冷静に過ごす事は出来なかったようです。 -
少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
(マルコによる福音書・14章35〜36節 ) -
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。
(ルカによる福音書・22章42〜44節)
やがて闇の中から、ユダと大祭司の武装した配下の集団が現れました。
ユダは、イエスにすがって接吻しました。これはイエスを捕らえる合図だったそうです。
大祭司の配下が襲いかかった時、ペテロはその1人の右耳を切り落としました。
イエスはその耳に触れて癒しながら、弟子達に抵抗するな、と言いました。
その後、弟子達はイエスを見捨てて逃げました。
ここがイエスと弟子達の、別れの場所になりました。 -
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。
(ルカによる福音書・22章42〜44節)
やがて闇の中から、ユダと大祭司の武装した配下の集団が現れました。
ユダは、イエスにすがって接吻しました。これはイエスを捕らえる合図だったそうです。
大祭司の配下が襲いかかった時、ペテロはその1人の右耳を切り落としました。
イエスはその耳に触れて癒しながら、弟子達に抵抗するな、と言いました。
その後、弟子達はイエスを見捨てて逃げました。
ここがイエスと弟子達の、別れの場所になりました。
結局イエスは、自らが選んだこの場所で捕まり、エルサレム城内の大祭司の館に引き立てられて行きました。
祭壇の赤布の下が、2000年前のゲッセマネの園の地肌だそうです。
最後の晩餐の後、茨で囲まれたこの岩の上で、イエスは最後の祈りを捧げました。 -
万国民の教会は、またの名を「ゲッセマネの園の教会」といいます。
ここはオリーブ山の麓にあるイエス縁の庭園で、「ゲッセマネ」とは「油絞り」という意味。
オリーブ山の西側斜面からケデロンの谷と呼ばれる崖になっていて、谷の向こう側はエルサレムがあり、オリーブ山頂から都全体を展望することが出来るそうです。
当時、斜面一面に広がるオリーブ園ではオリーブの精製が盛んに行われており、人々の不信仰によって追い詰められたイエス・ キリストが人類の運命をかけて血の汗を流し、神の前に祈りを捧げたと言われるところです。 -
万国民の教会は、またの名を「ゲッセマネの園の教会」といいます。
ここはオリーブ山の麓にあるイエス縁の庭園で、「ゲッセマネ」とは「油絞り」という意味。
オリーブ山の西側斜面からケデロンの谷と呼ばれる崖になっていて、谷の向こう側はエルサレムがあり、オリーブ山頂から都全体を展望することが出来るそうです。
当時、斜面一面に広がるオリーブ園ではオリーブの精製が盛んに行われており、人々の不信仰によって追い詰められたイエス・ キリストが人類の運命をかけて血の汗を流し、神の前に祈りを捧げたと言われるところです。
『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、私と一緒に目をさましていなさい。』
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、
『わが父よ、もしできますならば、どうかこの杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし私の思いのままにではなく、御心のままになさって下さい。』(マタイ26/38-39)
十字架を選ぶか回避するか、最終的決定の場所がゲッセマネの園、イエス・キリストは、もし他の方法がありうるのなら、他の方法に変えて欲しかったのです。
イエスと弟子しかいないはずの場所に、誘惑を囁きかけたのはサタンです。
それは、十字架を回避させようとするものでした。
十字架なしには、全人類の罪の救いは提供されないからです。
しかし、イエス・キリストは最終的に十字架を選びます。 -
「彼は、おまえの頭を踏み砕き、お前は彼のかかとにかみつく」(創世記3:15)
祈りによって十字架を選ぶ決断をしたイエスは、蛇の頭(サタンの象徴)を踏み付けます。
サタンの誘惑は、弟子たちにも起こり、ユダはまんまとその罠に嵌りました。
彼は祭司長たちから与えられた銀貨三十枚で、イエスを売ったのです。
ゲッセマネの園へ祭司長たちを先導し、他の弟子と間違えないように、イエスにキスをします。
弟子たちは少しの抵抗をしますが、勝ち目がないことを知ると、イエスを見捨てて逃げてしまいます。 -
その後、ユダは自分の行為がもたらす恐ろしい結果に後悔し、銀貨三十枚を祭司たちに返して取引の解消を願い出ますが、時既に遅し、ユダの心はサタンに完全に翻弄され、アケルダマという荒れ地で首を吊ってしまいます。
ゲッセマネの園には現在往時を偲ばせる木が8本残されていて、年輪のないオリーブですが、2000年の時を過ごしたとされています。
朽ちてもまた蘇るエルサレムを、オリーブになぞらえて云う人もいるとか。
オリーブは、葉の裏が白く陽の光が当たると輝くことからも、永遠の象徴となっています。
2000年前、イエスや弟子たちもこの木々を眺めていたのでしょうか。 -
今度はいよいよエルサレム旧市街へ。
エルサレム旧市街は周囲がおよそ1キロ四方の城壁で囲まれており、現在の城壁は16世紀前半にオスマントルコ時代のスレイマン1世(在位1520〜1566)によって建設されたものです。 -
城壁には8つの門があり、ヤッファ門、新門、ダマスコ門、ヘロデ門、獅子の門(羊の門、ステパノ門)、黄金門(美しの門)、シオン門、そして黄金のドームに一番近いこのフン門。
カタカナで書くと一見判りませんが、漢字で書くと”糞門”。
その名の通り、人畜の排泄物を搬出したところだったそうです。
ま、今はそんなことはないので、ご覧の通り。 -
門の入り口のすぐ近くに、小さなミュージシャン。カメラ目線もバッチリ。
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エルサレムの東に位置する黄金門は、アラブ占領時代以来唯一閉じられたまま。
というのも、ユダヤ教では、終末の日にメシアがここからエルサレムへ入城すると云われているのですが、それを恐れたイスラム教徒が門を閉ざしてしまったそうです。
では、門をくぐります。 -
ここでは例の如く、空港のようにやや厳しいチェックを受けてから通ります。
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素敵なご一家が居たので、写真を撮らせて貰いました。
成人のお祝いをする家族も沢山居て、大きなケーキを持った人を見かけました。 -
セキュリティを通り少し歩くと、広場の様な広い場所へ出る。そして、右手に嘆きの壁が。
嘆きの壁は、実はヘロデ王が改修した神殿がローマのティトス将軍によって崩壊させられた時の、部分的に残った壁。
ユダヤ教の神殿が建っていたところから中心に見ると西のため「西の壁」とも呼ばれます。 -
壁の部分は柵で囲まれています。
男女別に入り口が分かれ、中もそのまま男女別に仕切られています。
向かって左が男性、右が女性用。
入るところにも、一応警備員が居ます。
男性は、観光客であっても頭に何か被らないと駄目だとのこと。
(持っていなければ、入り口で紙の帽子を貸してくれるそうです)
そしてノースリーブや短パンという格好で壁に近付いてはいけないそうです。 -
男性は一日に3回、女性は日に1〜2回お祈りをするようになっているそうですが、何故女性の方が少ないかというと、ガイドのAさん曰くそれは”男性は強制されないとなかなかお祈りをしない”とのことです。
女性は、強制されなくてもちゃんとやるってことですね(解かる解かる〜)。
女性の方が少し狭いのですが、それも女性は家でもちゃんとお祈りするから、ってことのようです。
とはいえ、金曜日ということもあってとても混んでいます、嘆きの壁。
この日は未だ午前中ですが、金曜日の日没からは安息日に入るので、写真撮影はおろか、メモも”生産”なので禁止されるそうです。
ここは24時間開いていますが、行かれる方は曜日にご注意。 -
何故ここが”嘆きの壁”と呼ばれるか?
それは、神殿崩壊の後、年に一度許可されていた来訪の度、帰郷の願いを抱きつつ(神殿の崩壊を嘆き)、ここで祈るようになり、人々がその悲願を記し壁の隙間に詰めました。
そして夜露が、壁に生えるヒソプという草を伝って落ちる様が、涙を流している彼らのようだ、ということからこう呼ばれるようになったとか。 -
にしても、下から7段目までは、第2神殿時代(紀元前!)の石、その上4段がローマ時代(凡そ2000年前)、さらにその上はマムルーク朝(スンニ派、1250年 - 1517年)の頃の石だそう。
夜露云々よりも、この壁は正にユダヤの人々の嘆きを、祈りを、見つめ続けてきたのでしょう。 -
さていよいよ嘆きの壁の前には来たものの、熱心に祈る方々が一杯でなかなか近付けない。
多くの人は旧約聖書を手に一心に祈っている。
中には、感極まって(?)泣き出す人さえ居る。
ユダヤ教徒でも何でもない私ですが、平和の祈りを籠めた紙片を私も持ってきました。
ちょっと無理して入り込んで、私もおでこをつけて祈ってきました。 -
「平和が訪れますように」
-
ところで、添乗員のSさんからユダヤ人と日本人の類似点・共通点を纏めた本のコピーを貰いましたが、その中に”日本の山伏が額につける兜巾はユダヤ人が旧約聖書の言葉を納めるヒクラティー(ヒラクティリー)に似ている”というのがありました。
そのユダヤ版兜巾がこちら。
……熱心にお祈りしているところを写真撮ってしまい申し訳ない
探してみると、ユダヤと日本、色々な点に繋がりがあって、面白いです。 -
山伏関連だと、”山伏の吹くほら貝の音は、ユダヤ人の祭りに使われる「ショーファー」という羊の角で作った吹奏器とそっくり”とか、
神社の鳥居は古代ユダヤ人の玄関口とそっくりで、ヘブライ語で「門」のことを「トリイ」と呼ぶとか、ユダヤ人も昔の日本人も13歳で成人(元服)を迎える、とか、
更には諏訪大社にイサク奉献伝承が古来ある、とか、イスラエルの契約の箱と神社の御神輿、イスラエルの祭司の服と神社の神主の服、神主のお祓いの仕草と古代イスラエルの風習、イスラエルの幕屋の構造と神社の構造など、数々の類似点があるそうで、、、
そんなことを思うと、ますますユダヤ人に親近感を持ってしまう私でした。 -
嘆きの壁で祈った後は、ヴィア・ドロローサへ。
エルサレムの旧市街を歩いて行きます。
トンネルのようなところもありますが、明るい陽も射し、しかし狭い道入り乱れ、さながら迷路のよう。
この辺りはアラブ人も多く住み、彼らの開く店も多く、またムスリムも沢山見かけます。
(当たり前ですが、アラブ人=ムスリムではありません。アラブ人のクリスチャンもいます。) -
中近東の伝統的な遊牧民は、ターバンではなく四角い布をかぶり黒い輪っか(名前が分からない…)で止めています。
イスラエルでは、赤か黒の千鳥格子のようなチェックの布をよく見かけました。
ドバイでもそういう形を身に付けている人が多かったですが、イエメンは黒い輪はなく、同じ模様の布を器用に巻いていました。 -
イスラムの長衣を着ている人は見かけなかったような気がします。
頭を布で覆っているだけで、下は普通のジャケットやパンツが多い。
手前の女性もイスラム教の方でしょうね。
どーでも良いけど、このパン美味しそう。
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