2006/10/18 - 2006/10/25
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明石DSさん
夜食、ああ、こんな物か
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2006.平成18年10月25(水)
■関空へ
関空行きの飛行機、3列掛けの後部座席が全席空席にて
私は後ろに座り、そのまま独占できた、横にもなれた。ラッキーだったが
席を取るのに右往左往は恥ずべきことだから・・・
バタバタするなである。ゆっくりと間をおいてハイ
ミャンマーから教員の一団が大阪に向っていた。お揃いの上下制服に、胸には国旗のバッジを付けて、女性がほとんどだったが男性も少しいたようである。
総勢15名くらいだったろうか。
ヤンゴン国際空港からバンコク経由と同じ飛行機で・・・。
ちょっと話をした。彼ら彼女らの健闘を祈る。彼らの眼に日本はどのように映るのだろうか?
- 同行者
- 一人旅
- 航空会社
- タイ国際航空
-
東の空が朱に染まる
もう直ぐ夜明けか
■日本の夜明け、今、7時40分、もう直ぐ関空に着陸 -
雲海から日の出を拝む。
-
さあ、もう直ぐ到着か、朝食が出て食ったが、結構腹一杯になった。
-
フフフ、日本に戻って来たぜ・・・。
■今、7時40分、もう直ぐ関空に着陸
7時47分、着陸完了、駐機場に停まる。
リムジンバスの中から、家内と息子達にメールを送信する。これが私の時間潰しでもある。
充実感のあった旅を終え、清潔な日本の街をバスはひた走る。舗装も完璧で乗り心地は最高だ。何の文句があるという・・・。
日本人として日本に生まれた。そのことに感謝である。
私の能力たるや?ミャンマーに生まれたならば、何ぼのものだろう・・・か。一体全体どんな人生を送る人間だろう。
いつも海外に旅に行くと自分の真価とは?と、言う素朴な疑問を抱く。
それに何の意味があるのか否か?と問われても何故か、その事を思う
今9時17分、三ノ宮に着きJRに向っている。
日本は思ったより寒くなく、半袖でも良かった。帰国時には10月の後半だからきっと半袖では寒いだろうと、薄いウィンドブレーカーを着て飛行機から降りたのに・・・。
無事に我が家に到着。 -
■ミャンマーの旅:総括
1000チャット100円に勘狂う。
車の警笛は余り鳴らさない、日本と同じくらい。
暑かった。ハンカチをいつも手にしながら歩いた。
男女ともロンジィーをはいている。
男性(バッソー)女性(タメイン)とも言うらしい。
ガイドさんに聞いたところによると・・・。
一番行きたい外国は
?日本、?米国、?韓国のようである。
?は今、日本と同じく韓流ブームとやらのようだ。
外務省HPによれば
「ミャンマー」
ミャンマーの首都は、ネーピードーに移転された。でも正式に発表はされていないらしい。
為替は:1ドル=5.77チャット(公定レート)(2006年5月平均)とはお笑いである。
実勢レートは1ドル=1200〜1300チャットなのに、この違いは果たして何を意味するの?
1ドル、6チャット(公定)と1200チャット(実勢)一体、この差は何のか? -
数は少ないが・・・ミャンマーの人と接し感じたのは
軍事独裁政権は、やはり相当な圧迫があるように思う。
ミャンマーと言えば、民主化の旗手であったアウンサン・スーチー女史が有名だが、自宅軟禁されているはずの場所(自宅)に行きたいと言っても誰も案内してくれない。
私は、何時、誰と?は言えないが
自宅?前だといわれるところをタクシーで通り警戒の雰囲気は見た。
今は昼間は普通に車も通行しているが夜間は今でも通行止めだそうだ。
警戒地区の両側には、直ぐにも通行止めが出来るように踏み切りのような遮断機のある“関所”が設けられ軍人が警備していた。
車の中からその様子を見て、あの奥が自宅だと聞いたが何も見えない。道沿いの家はオンボロ家があるだけだった。無論、奥の軟禁場所にも居るのか?居ないのか?分らない。
政治、思想などの話題は家庭内なら出来るが、職場や街中では、今のところ禁句のようである。 -
日本との関係も、さすが日本というべきなのか、
対ミャンマーへのODAの額は日本が世界一らしい。
だが、やはり軍事政権ということで世界の自由主義体制側から非難されており、その一角であり米国に追従する日本としては一定の距離を置くしかないのだろう。
韓国は日本に先駆け航空機も直行便を運行させ交流を拡大している方向のようだ。
タイと比べても一見して大きな経済格差のある国に見えた。
何もかもが、遅れている。
・・・と言うことはあらゆる面で発展する要素があり、チャンスは無尽蔵だと思う。
特に車は、鉄道も貧弱であり、ミャンマー人の最も手に入れたい物の一つだろう。
日本の中古車が全盛だが、最近日本からの中古車輸入が禁止されたそうだ。理由は分らない。
話によれば軍幹部や一部の特権階級には裏のルートがあり手に入るようだが。国産車保護と言っても国産は無きに等しく、そうは思えない。何が理由なのか?
私の危惧は軍事政権というより、世界で孤立することから国を守る為に隣国中共との関係を深め、ミャンマーが中共化することである。
中国系の住民も多く、覇権主義中共に取り込まれつつあるのではないのかという危惧を持つ。
その道を選択するなら、ミャンマー国民が幾ら日本に親近感を抱き、親日であっても経済を含め交流を深めて行くのは難しい。
ミャンマーは今後、軍事政権から如何に上手く脱却し、自由民主義陣営に復帰するのか?
それとも中共と関係を深め、貧しさの中に国家を埋没させ、中共の属国の道を選択するのか?
その二つの選択しかないように思う。
仏教国であり、古き良き時代の風景があり、人心も穏やかで旅行者としては楽しい旅の出来る場所である。
もっと日本からの旅行者が増大してもおかしくないだろうが、今の軍事政権が壁を高くしているのは紛れもない。
直行便もなく・・・。日本の大手の旅行社の旅ツアーも少ない。
そんなミャンマーの今後を見守って行きたい。
覇権国家、愚かな共産中共に取り込まれる道を選択するな!!と、私は声を大にして叫びたい。 -
↓2006.11.4.記す
・・・・・・・・・・・
父祖探しも帰国後のメールでは、彼女はトーンダウンしたようだ・・・が
気長に、やって行こうと思う。私が、「メディアに事情を説明し協力の依頼を順次して行こうと思う」という問い掛けに「待って・・・」という返事が来た。
そして、彼女が手紙をすぐに私に送ると言う。メールではなく・・・その手紙は未だ着いていない。
そして、その後メールでの連絡もない
ミャンマーに於いて、日本人の父祖を探す。自分が日系であることの証明は至難のことなのだろう。
フィリピンもインドネシアも、ようするに日本軍が進出した地域では、何処とも起こり得る問題であり、今も時折ニュースにはなるが、国家のプロジェクトとして日本が積極的に関与することはないのかも知れない。するならもっと早くしていたはずだし。
中国残留の孤児問題一つとってみても、人間の問題と言うのは、大問題に発展し永続して続く。
だから、外務省の対応もその国策に沿ってということになるのだ。でも、誰しもが自分のルーツを知りたいと言う気持ちは強く、その為に最善を尽くすのは個々人としては当然だ。
これからどうなるのか?分らないが、なる様にしかならないし、父娘の気持ちがどれほど強いのか?によって変わる。出来る事を手伝って行きたいと思っている。乞うご期待だ。
私が、ミャンマーの地を再度踏むことはあるのだろうか?
楽しかった旅である。充実した旅でもあった。皆さんに感謝です。
チェーズティンバーデー(ありがとうございます)
トヮバーオウメンー(さようなら) -
追記
上記、旅行記を書き終わり、直ぐに「ビルマの竪琴」1956年の三国連太郎、安井昌二、出演の映画を昨日USVで借りてきたので見た。
「死んで残る兵士をこのまま置いて帰れない」・・と、水島上等兵は、隊長以下の戦友と共に日本に帰国する事を断念し、ビルマに僧侶として残る。
戦友たちが日本に帰国した後も、その傍には、隊長が飼っていたインコがいる。
インコは隊長に教わった
「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポン 二 カエロウ」
と時々言う。
ビルマで19万人の日本人が今も遺骨となって眠る。遺骨の多くは収集されても居ない。
これは小説だが、きっと多くの亡骸を残して日本に帰国した戦友たちの思いは水島上等兵と同じであろう。
ビルマの各地で今も眠る英霊の皆様の、ご冥福を祈る
2006.11.4.Pm.5:52.記す -
2006.平成18年11月8(水)
■祖父探し、その後
徐々に私も現実が分って来た。無知だったというのか?
甘かったというのか?
ミャンマーの父娘は、どのように思っているのか?知る由もないが、その現実の壁は限りなく高い。
ミャンマー日本大使館の対応など期待するのは論外だった。
当の彼女からは、ガイドを通してミャンマー語に翻訳してもらっての私の問いかけにも、私の二度目のメールにも反応はない。
何故か分らないが・・・。想像するしかない。
そして彼女からの至急の手紙も来ないので、イラチの私は、昨日7日、厚生労働省に電話を掛けた。
担当は「社会援護局調査資料室」とのこと、担当者のYさんと話をした。
こういった相談や問い合わせは、戦後61年間、山のようにあったのだろう、そして今も次々とあるのかも知れない。
そして、第三者である私には、例え名簿のような物があっても見せることは出来ない・・・ようは「役所を通して第三者が人探しなど出来ない」と言うことである。
そして、日本人の息子であるという、今はミャンマー国籍の本人であっても、父子の証明がないと名簿を見るのは無理だと言うことである。
名刺など証明になるはずもなく、
「そんな名刺は他人の物を渡しているかも知れない」「他人の名を語っているかも知れない」
・・・と、そのYさんは言う。
なるほどその通りだが・・・。
「身内が会いたいとは限らない」
「身内ということを明らかにしたくない場合もある」・・・Yさんの言であった。
それくらい役所を通じて、日本の身内を探すことは限りなく不可能に近い。
そして、
「外務省を通じての問い合わせは今のところありません」
「ミャンマー大使館の○○書記官からの問い合わせはありません」とYさんは言う。
「それは何か理由でも?」と私が聞くと「そうなのでしょうね」という冷たい返事。そういうことなのか?それは無視としか思えない。
正直、そうか・・と、思うが、あれは、○○書記官の上手い芝居だったのか?
今後、彼女からの手紙が来るかも知れないし、まだ、何らかの展開が開けるかも知れない。
只、壁の高さというか、現実が、ある程度分った。
元軍人の協会を「社会援護局調査資料室」の別の方から電話番号を教わった。そこに電話を掛けて見ようと思う。
こういった人探しは、メディアが興味を持って探してくれるか、プロの興信所や探偵事務所のようなところに金を出して探してもらう方法しかないのだと思う。
ようはこんな問題は例えその時期と場所が「戦争」という背景の中であっても自己責任の範疇である。
日本国としては、このような問題に関わるのは絶対避けたいという意思を強く感じる。それは当然であり、さもありなん。
ミャンマー娘の祖父探し
すでに既婚だが娘が明るく可愛い。絵になる。オセロの中島知子そっくり
父娘がミャンマーでの成功者であり、十二分に物語になる。ホント絵になる一女二男の5人家族だ。
軍事独裁政権に咲いた一輪の花、日本の祖父を偲びルーツを想う。
祖父本人か、その親が、東京でレストランを経営していたようだ。
探し出せば、きっと映画にもなる。物語にはなるだろうが・・・。
だけど、こんな一例が「人道問題ということに化けて」・・・世間に表立って出てくれば、貧しい国ミャンマーに真偽を問わず、続々と親父が、祖父が日本人という二世、三世が雨後の竹の子のように出て来るのだろうなあ・・・。
やっぱり、そっと出来る範囲で・・・と、いうことにしよう。歴史的背景に考慮すべき点はあるが、国家がその責任を負うべき問題ではないだろう。
仕方ない。ちょっとは私も勉強になった、いや、今後も、もう少し・・・。 -
2006.平成18年11月9(木)
■祖父探し、その後:No2
今日の午後、7日に厚生省援護局で教わった「社団法人:元軍人軍属短期在職者協力協会」に電話をした。
元軍人の方が応対してくれた。引き揚げ軍人90万人のうち、15万人くらいの方が戦友会に属し名簿はあるらしい。
・・・と、いうことは大半の75万人の引き揚げ軍人は、この協会では把握していない。
・・・・・・・・・・Webによれば
引揚者の日本人の数は、軍人・軍属が330万人、一般邦人が300万人以上
上記の90万人というのは、ビルマ方面からの引揚者だと思う。
・・・・・・・・・・
そして、この協会は先般、新宿、住友ビル31Fにある「平和祈念事業特別基金」の依頼により、戦友会の調査をしたということであった。
元軍人の身元調査に必要なのは・・・。
名前・本籍地・所属部隊・部隊名、等々が必要である
そして、その方が戦友会に入会しているか否か?も
・・・大きな要素である。
そして、その本人が今も存命しているか否か?
ミャンマーの父娘の場合、分っているのは「名前」だけであり、その名刺、名前も本人である証明はない・・・と、言われれば、どうしようもないということである。
「当時35歳くらいで、今は96,7歳になり本人が存命している可能性はほとんどない」と、言うと、「まず無理です」との一言であった。
現実の状況が分るにつれ、ルーツ探しの道の遠い事が実感として分る。
彼女から連絡があれば、いや、連絡がなくても、このことをミャンマーの日本語ガイドさんに翻訳してもらって彼女にメールを送ってもらおうと思う。
後は、Web上にあるいろんな掲示板を通して、尋ね人をするしかないだろう。
名前がはっきりしている、東京でレストラン、東洋軒を経営?一枚の証明用写真がある。
でも、それらのことは、今後、彼女の要請があれば・・・である。 -
1944〜1945年撮影:戸塚武司さん
今は96,7歳になられているはずの方です
ミャンマーで、息子さん及びご家族がこの方の消息を探しておられます。
もしご存知の方があれば掲示板へご一報ください
2006.平成18年11月20(月)
■祖父探し、その後:No3
二男に、ミャンマーの祖父探しの報告と、その困難さを英語に翻訳してもらって彼女にメールを送信した。
その直後にミャンマーのEさんから彼女の事情を書いたメールが届いた。
そこには彼女が祖父探しを躊躇した理由が書かれてあった。
ミャンマーの事情↓Eさんからのメール
・・・・・・・・・・・・・・
ミャンマーの外国人の条件について少し説明してほしいと彼女が言いました。
ミャンマー人は外人と結婚して出来た子供は100%ミャンマー人に認められません。
それからミャンマー人としての身分証明書も貰えません。
ミャンマー系外人としての身分証明書だけもらいます。
それから、大学も普通の大学だけに勉強できて医科大学とかには勉強出来ません。
彼女に医科大学に行ってる弟さんがいて、もしおじいさんが日本人とミャンマー政府に知られたら彼は問題になりますと彼女がいいました。
だから、彼女たちにはその問題だけあります。あとはぜんぜん問題ないといいました。
・・・・・・・・・・・・・・
そうか・・・、なるほど、こういう問題が有ったのか。
彼女達の祖父が日本人だとミャンマー政府に知れたら、彼女達家族はミャンマー人ではなく、ミャンマー系外国人になるのか。
そして、身分証明書も代わり、ミャンマーで生きて行く上では不利になるようだ。これじゃあ、ミャンマー国外に出る者は良いのだろうけど、ミャンマーで生活を続ける者は、誰しも他人に自分のルーツを知られたくないだろう。
戦後、ビルマに残って妻を娶り、ミャンマーで暮らしていた元日本軍人もその素性を隠して生きていたのも無理のないことなのだろう。
一旦、自分の素性を明かすと、家族、とりわけ子供たちの将来がミャンマーであるなら不利になることは間違いない。
ということは、父祖探しも彼女達がミャンマーの誰であるのか分らなければ大丈夫ということになる。
その祖父自身を日本で探すこと、祖父の身内を日本で探す事には何も問題は起こらない。
その可能性は限りなくゼロに近いだろうが、ボチボチとインターネットで「尋ね人探し」でやってみよう。
以下は彼女から預かった資料の全部だ。
1944年から1945年の一年半くらいの間、日本軍人?としてビルマに出征中にミャンマー女性と結婚し、戦後、奥さんが妊娠しているのを知ったが日本に帰国した。
3年後くらいにビルマの奥さんに、日本に来るように打診があったそうだが、奥さんはすでに再婚?していたのか、それともビルマに残る選択をしたのか?ビルマに残った。
その日本人、祖父の名前は「戸塚武司」さんである。 -
戸塚 武司さん
ビルマに残した写真。35歳前後(1994〜1945)
彼女の父親、すなわち戸塚さんの息子さんは、
自分が父親と同じ年頃の時の写真を私に見せてくれた。それを見れば瓜二つだった。
左の眉毛の角度が全く同じだった -
名刺と写真が入っていた袋
-
書置きの名刺
これがビルマに残された唯一の資料
きれいにわかれたよいおくさん・・・か -
この名刺は、妻のお母さんに託したようなことを言っていた
分かれた事情は最早誰にも分らず、想像の世界でしかない -
東京:蘭貢東洋軒・・・という文字がある
東京で、レストランを経営していたようだと息子(父親)は言っていたが
とにかく彼女が持っている祖父に関する資料はこれだけだ。
この一枚の名刺こそが、彼らと祖父とを繋ぐ唯一の物である
・・・・・・・・・・・・・・
戸塚武司さんはすでに96,7歳であり今も存命の可能性はすこぶる少ない。
ようするに彼の身内を日本で見つければ良いのだ・・・が。尋ね人・・・か。
どうしよう・・・・。
戸塚さんに関して心当たりある方は、どうかご一報をお願いします。
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