1970/04/10 - 1970/08/15
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貧乏客船の35日(1)
初めての海外旅行は船で行った。
優雅な船旅、なんてものにはほど遠い、
今思い出してもニヤニヤしてしまうような
おかしな客船の旅だった。
そんな船旅から、ぼくの放浪は始まった。
●神戸出航
4月10日、神戸から乗船、出航が延びて船内に1泊。
神戸4月11日~4月12日横浜。
マルセイユ着は5月14日の予定。
1964年4月11日の午後、
船は神戸港第4突堤を離れた。
七色のテープに1本だけ、白くて太いテープが舞った。
船のトイレから持ってきたに違いない。
そんな見送り風景を見ていたアメリカ人の女の子が
ぼくの後ろでつぶやいた。
「みんなで船をつなぎ止めようとしてるのね」
船がスピードを上げ、
波を蹴立てる音がはっきりと耳に届いた。
三等は一番揺れの大きい船首部分にあるから
へさきから聞こえる波音が大きい、
ということに気がついたのはもう少しあとのこと。
歩き慣れた六甲の山並みが
神戸の町の向こうにかすんで遠ざかるのを
じっと見ていた。
あの山を毎週のようにいっしょに歩いた仲間たちが
突堤の先端にかたまっていつまでも手を振っていた。
ぼくは神戸で生まれた。
生まれてまもなく大阪に移り、京都に移り、また地方を転々とした時期もあったが、
二十一歳のときにまた神戸に戻って、
それからこの日までずっと神戸に住んでいた。
神戸港には外国航路の船も出入りする。
とくにセンター街や元町通りに、外国人の姿がいつもにも増して多いな、というとき、港には外国の大きな船が着いている。
昭和30年代、ようやくみんな少しは生活を楽しむゆとりが出てきたかな、という時代、
この町に住む外国の人が自国の味覚を売り物にするエキゾチックなレストランのいくつかも開店し、あるいは再開していた。
イタリア料理のドナロイヤ、コスモポリタンのチョコレート屋さん、ドイツパンのフロイントリープ、などなど。そしてドイツ菓子のユーハイム本店にはぼくもよく行った。
ぼくがとうとう外国旅行を実現させるところまでこぎつけたこの日、
ぼくはそんな神戸の町がぼくの背中を押してくれたのだと、
そんな気がしたものだ。
カンボジュ号への乗船が決まってからは、毎月入港するそのフランス郵船の客船を神戸港第四突堤に見に行った。
ぼくが予約したのはカンボジュだが、ほかにラオス、ベトナム、という、フランスの旧植民地の名前をつけた三隻の船がこの極東航路に就航していた。みんな1万3千トンから5千トンの結構大きな船だった。
ゆっくりと大きなリズムでかすかにゆらぎながら突堤につながれたその白い船体を見ていると、
船体のきしむ音に混じって、遥かヨーロッパの町の音が聞こえてくるような気がした。
●そしてマルセイユまでの長い船旅が始まった…
「これは刑務所ですねえ」
さっき見送り人にトイレットペーパーを投げていたやつだ。
同室の北川。
京大の学生でぼくと同じヨーロッパ貧乏旅行に出る。
「うん、扉に小窓があったら完璧に刑務所やな」
三等客室は船体の下部にあり、斜めになった壁には円い小さな窓があるだけ、客室といっても鉄パイプで出来た二段ベッドが3つの6人部屋だ。
同室者はもう一人、
ロンドンに語学留学する同志社大生の曽我部。
神戸から香港まではこの三人だけで、後の3つのベッドは空いていた。
そして他の部屋も合わせると、
三等には日本人客が十数人いる。
15,000トンのフランスの客船、といえば聞こえはいい。
真っ白な船体に「CAMBOGE」という船名が浮き彫りになったその外見もなかなかのものだ。
その船の三等船客としてマルセイユまで35日の旅をする。
ぼくはかなり期待していた。乗り込むまでは…
35日のステキな船旅…、なんてね。
で、乗り込んだときから、その期待が少し見当はずれだったかな、ということに気付き始めてはいた。
紀伊半島を回って船が太平洋に出る頃、最初の夕食が出た。ぼくはまだほのかな期待を捨てきれないでいた。
食事だけはうまいに違いない。フランスの船だもんね。
しかし…
「これは何ですかあ、きっとこれは一等の残飯で作ってるんですねえ」
最初の夕食の席の、日本人ばかりの大テーブルで、北川が遠慮のない評価を下した。
パリへ絵の勉強に行くという中年の画家Nが不機嫌につぶやいた。
「きみね、ちょっとそりゃ無作法だよ」
北大を出てデンマークに酪農の実習に行く加藤が遠慮がちに割って入った。
「まあこの値段だしね、メシだって、ま、こんなもんじゃないすか」
日本人の三等乗客は、北川やぼくみたいな貧乏旅行者、曽我部みたいな貧乏留学生、Nさんみたいな貧乏画家など、みんな肩書きに「貧乏」がついた。
ほかにドイツ人、スイス人、アメリカ人などの若いヒッチハイカーが20人ばかり、どっちにしても気取っても始まらない客ばかりで、食事時なんかもみんなそれはものすごい格好で現れる。
アメリカ人のお兄さんたちは上半身裸で日光浴をしていて、そのまま食卓に着くし、毎食後、短パンからはみ出したボンレスハムみたいな足をテーブルに持ち上げて、フワーッと、うまそうにタバコを吸うヤンキ-姉ちゃんもいた。ドイツ人も上半身は裸、短パンにゴムぞうり。
日本チームにもいつも下駄履きというのがいて、これはさすがに評判になった。
そんなことをするのはもちろん北川である。
食堂は、三等でも一応船体の上に築かれた、いわゆる「上部構造物」の中にある。
だからここには小さな丸い窓ではなく、海の眺めのよい大きな明るい窓もあって、船体深く沈み込んで眠る三等船客にとってはパラダイスのような場所である。
船が港に入っているときは各等の間の仕切りを取り払って出入りが自由になるから、神戸で乗船したときは一、二等の食堂が見えてしまった。
あれさえ見なければ、三等食堂ももっともっとパラダイスだったのだが、何しろ一等のあのシャンデリアきらめくダイニングルームを見てしまった目には、やっぱりこれは場末のめし屋「パラダイス食堂」だ。
食事は、朝食が8時から9時、昼が11時半から12時半、4時がコーヒータイムで、夕食は6時から7時。
朝食はパン、バター、ジャムが2種類、それにコーヒーという簡単なもの。
4時のコーヒータイムにも朝とまったく同じ物が出る。そして昼と夜は、味はともかく、フルコース。
食堂はまた三等船客のサロンでもある。
三等にはプールがあるわけでもなく、もちろん映画館もゲーム設備もなく、ほかにすることがないから、食事のあとはたいていみんな食堂にたむろしている。
「寝る」以外の目的であの雑居房に戻る者など当然いない。
船体部の船首に近いところにはトイレとシャワーがある。
風呂は、もちろんない。
トイレは便座がなくて、むき出しの陶器の上に直接これもむき出しの臀部が乗る。
だから神経質な人は毎回そこを紙などでごしごし拭いてから座る。
というよりも、ほんとに神経質になったらとても便器は使えない。
ローマへ美術の勉強に行くYさんという女性なんか「お尻を浮かして」するのだという。
それじゃ力が入らないでしょう、と言ったら「そう。だから便秘」。
ぼくは幸いそういうことはわりと適当にやり過ごせるほうなので、2日目にはもう慣れて、朝食後には快便、という行事が習慣化した。
2日目の午後には右手はるかに島影が見えた。
その島は見事なピラミッド型をしていて、島全体が一つの山、山全体が一つの島になっている。
「屋久島、ですかね、あれ」
北川が寄って来た。
「そういえばそうやなあ」
北川はいろいろよく知っている。
島影はほかにも点々と見えた。南西諸島の島々だった。
2日目、船は沖縄の東の海を走っているはずだった。でも島影は遠くにかすんで見えただけだった。
3日目の夕方、油を流したような凪の海を船は軽いエンジン音を響かせて渡った。
台湾海峡を抜けるところだった。
その凪の海に、不思議な形をした小さな帆船が点々と漂って漁をしていた。
不思議にエキゾチックなその眺めに、三等船客がぞろりと甲板に集まった。
そしてみんな、魅せられたように黙って海を見ていた。
「香港の漁民でしょうかね」
加藤がそっとささやいた。
ここを抜けたらもう香港は近い。
船は、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、ボンベイ、ジブチ、ポートサイド、バルセロナに寄港し、港ではそれぞれ半日か1日停船する。
つまり港ごとに上陸して遊べる。
港の名前は、たとえばサイゴンはホーチミン、というふうに今は変わったところもあるが、ここには一応当時の名前で書いた。
ちなみに料金は往復二十四万円。もちろん三食昼寝つき。
神戸中華街の餃子定食が百円の時代である。決して安くはない。
それでも、まだ安売り航空券も、シベリアルートもなくて、当時はこれが一番安い方法だった。
ちなみに、その数年後からこの船はもう日本には寄港しなくなった。
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