1970/05/01 - 1970/05/02
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KAUBEさん
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貧乏客船の35日(8)ボンベイからインド洋へ
船はコロンボからボンベイへ。そしてアジアの旅が終わる…
●美惠子さんのこと
コロンボ4月29日〜5月1日ボンベイ5月2日〜5月6日ジブチ
ダイス邸の豪華なカレーに酔って、北川の縄梯子騒動で一騒ぎして、その日の夜、船はコロンボの港を出た。
翌日は一日中インドの西側の海岸線を右に見て北上し、その次の日の夕方、インドの港湾都市ボンベイに着いた。
公式には1995年にムンバイと改名したが、結局現在もボンベイで通っているらしい。
町に出るとすさまじい蒸し暑さの中で、人の波が、どど、と音を立てて流れていた。
地面からは耐えがたい熱気がむんむんと立ち昇り、熱風に混じって不思議な臭気が鼻をついた。
片方だけの靴を大事そうに抱えた裸足の少年が、まだ湯気の立つ牛の糞をべちゃりと踏みつけてぼくたちの前を走り去った。
いつものように町を冷やかして、何か安いものを食って…、というもくろみは急速にしぼみ、顔を見合わせて立ち止まった。
「暑いな」「それに臭い」「気ぃ狂いそうや」「どうする?」「どうしょう」「戻る?」「そやな」
船に戻ると、一人の小柄な日本人女性が乗り込んできたところだった。
「マルセイユまでごいっしょします。よろしく」
インド綿の涼しげなシャツに、これもインド綿の長めのスカートという軽装に、小さな木綿の袋を一つ担いで乗り込んできた彼女に、カンボジュ号三等船室の日本人社会は、大げさに言えばちょっとした衝撃を受けていた。
「インドで何してたんですか?」「インドのどこにいたんですか?」「これからどこへ行くんですか?」「一人でですか?」エトセトラ&エトセトラ。
食堂の片隅で、彼女は質問攻めに合っていた。
ようやく個人の海外旅行が認められたばかりで、
パック旅行もガイドブックもまだなく、
ヨーロッパやアメリカに行くのさえ
ある意味では冒険だというのに、
こんなアジアの僻地からこんな小柄で愛らしい女性が、
しかも単身、しかもしかも、
この何気ない軽装で現れたということが、
大げさな荷物を抱え、大冒険でもするつもりでパリやロンドンを目指していたわれわれには、確かに驚異であり、脅威でもあった。
質問攻めに合う彼女をそのときは遠巻きに見ていたぼくだったが、その日の夕方、上甲板でボンベイの町の灯を眺めていた彼女に近づいた。
いったんは引いてチャンスを待つタイプ?
獲物を奪い合うのはみっともない、
と紳士面しているだけ。多分ね。
「インドの奥地に一年もいたんだってね」
言葉だってほら、ちゃんと標準語に直ってる。
「そう、チベットの国境近くなの」
「どういう仕事で?」
「私は看護婦。国際的なボランティア組織に入ってるんだけど、そこから難民の子供の救済に行かないか、って話があってね」
中国へのチベット人の反乱でインドに逃れたたくさんのチベットの子供たちの世話は、ほとんどボランティアに任されているらしい。
で、そこの仕事がとりあえず落ち着いたのでロンドンに向かうところだという。
「ロンドンからまたどこへ流れて行くかわからないんだけど、とりあえずはロンドン。その組織で仕事をしている限りは、世界中どこへ行っても宿と食事は保証される仕組みなの」
そして彼女、美恵子さんは、自分の年齢や、仕事のこと、そして日本を飛び出すきっかけになった自身のあれこれを、思いがけないくらい開けっぴろげに語ってくれた。
「同い年なんだ」「え、そうなの?」「何月?」「一月」「ぼくは三月。ちょっとだけお姉さんなんだ」
美恵子さんとはその翌日、船がボンべイを出てからも甲板で立ち話をした。
船はいよいよインド洋に漕ぎ出し、ぼくたちは「アジア」を離れようとしていた。
●インド洋に出る
遠ざかるボンベイの町並みを見るともなく見ていた。
「どうしてまたそんなヨーロッパを放浪なんて?」
断っておかなければならない。
現代ならそんなこと「どうしてまた」というほどのことではない。
でもこれは海外旅行がようやく自由化されて間もない頃の話。
まして、金もない、言葉も出来ない、コネもなければ情報もない、そんなぼくが、しかもたった一人でヨーロッパを目指した、というのは、その頃にしてみれば「どうしてまたそんな」というぐらいのことではあったわけだ。
「旅好きが高じて、ということになってるんだけど、実は……」
誰にも話したことのない自分の思いをべらべらとしゃべっていた。
「自分の将来に、というか仕事に不安があってね……」
それをなんとかしようと、五年がかりでせっせと貯めた五十万(うち半分はこの船の運賃になった)をふところに、仕事をやめて飛び出してきた。
親に大学を出してもらって、もう三十にもなって、何とかしなければ帰るに帰れない放浪だ。
もの書きになりたかった。小説ではない。旅を書きたかった。「そんなもの、男一生の仕事か」と、静かに、しかし抗し難い威厳を持ってそう言った親の一言が、ぼくの思いを一蹴した。
親ばかりを責めることは出来ない。ぼくのほうにも、たとえ反対されても、というほどの自信も勇気もなかったのだから。
父にはぼくの将来について、別な設計図があった
(詳しく知りたかったら「ぼくと父との不幸な関係」をどうぞ)。
代案を持たずに父に逆らったぼくは、結局目標を失って転職を繰り返した。
そしてそんな迷路から抜け出そうとして思いついたのが海外放浪だった。
「でも切羽詰っていたのは事実。もう後がなかった」
「そうなの」
「逃避だ、とも思ったけどね」
「でも、私も迷ったわ。普通の看護婦じゃ駄目だと思ったのね」
「普通の、って?」
「何かもっと患者さんといっしょに、というか、患者さんと一体になって考えたり悩んだりしてみたかった」
「……」
「それで精神神経科の勉強をして、東京の精神病院で働いてたの、インドに行く前の二年間。でもそれまでは迷って、悩んで……。同じよ、誰も」
なんかすごいと思った。同じなんかではない。断じてない。
「そういう患者さんて、やさしい人ばかりなのね。簡単に言ってしまうと、やさしいからそんな病気になるんだと思う。そういう人たちといっしょにいると、病気にならない私たちのほうが病んでるんじゃないかって気がしてくるもの」
日焼けした小さな顔の中で、ちょっと同意を求めるように、澄んだ目がきらきら光りながらぼくを見上げた。
「この人たちといれば私も少しはやさしくなれるかもしれない、なんて思ったの」
「もう十分やさしいと思うけど。そんな難民の子供の世話なんかして」
「あれは気まぐれ。外国に行ってみたいっていう好奇心もあったし、結局は自分の都合よね」
心を病んだ人たちとの二年がこの人をよりやさしくし、そして難民の子供たちとの一年がこの人をより強くしたのだという気がした。
「揺れてきた」
「ほんとだ、揺れてる」
●波に揺られて
酔わないうちに部屋に戻ったほうがいい、ということになって、ぼくたちはそれぞれの部屋に戻った。
海はとくに荒れているという様子でもないが、船体が大きく右に左に傾いてからだがふわふわと浮いた。
あまり気分のいいものではない。
インド洋の真ん中では荒れていなくても多少は揺れるのだと聞いていた。
神戸を出てから初めての揺れらしい揺れだった。
ぼくは廊下の手摺につかまりながら部屋に戻った。
さっきまで食堂にいた北川や曽我部も戻っていた。
「ともかく揺れてるときは横になってるのが一番やからな」
ということで、みんなベッドに臥せった。
「あともう三日ほど揺れるそうですよ。四日目にはアーデン湾に入るから静まるとか、さっきピンポンが言うてましたよ」
その日の夕食時、曽我部とぼくは部屋に残り、北川が「ぼく、何とか行ってきます」と食堂に向かった。
この揺れの中であの残飯ディナーを口に入れる勇気は出なかった。
北川は「権利やから」と、どこかで聞いたようなことを言って手摺伝いに出て行った。
そして「結局あんまり食えなかった」と言いながら、皿に盛ったチキンと野菜とバゲットを差し出した。
ぼくたちはそれを少しずつつまんで夕食にした。
「食堂はがら空きやったよ」「そやろな」「ほかに誰か出てたか、日本チームは?」「ああ、美恵子さんだけ」。
やっぱり……。
この程度の揺れで、酔う前に酔うことを恐れて寝込むのは結局ぼくの弱さだと思った。
でもさすがにほとんどの人が食欲を無くしたのも事実だった。
その翌日も、またその次の日も、北川がかろうじて権利を食堂から運んでくるというシステムで三食を賄い、ぼくは逃げの一手でインド洋の波をやり過ごした。
ボンベイを出て四日目の朝、船はまだインド洋上にいたが、アデン湾が近づくにつれて揺れが収まってきた。
その日の昼食には久しぶりにみんなの顔が戻り、あれ以来会っていなかった美恵子さんとも再会した。
●椰子の実
揺れは収まったけれども航海はまだ続いた。
ボンベイから、次の寄港地ジブチまでは4日半の長丁場。でも食堂はにぎわいを取り戻し、船に活気が戻っていた。
インド人のグループが上甲板で歌をうたっていた。
歌詞は英語で、
「A hole in the bucket バケツの穴」
という、アメリカのワークソング。
ヘンリーとライザという男女の組み合わせで歌うのだが、一人の少女がライザ、それを取り囲む数人の男性がヘンリー役で、掛け合いで歌う。
バケツに穴があいてるよ、dear Lisa, dear Lisa,
じゃ直してよ、dear Henry, dear Henry,
何で直すんだい、dear Lisa, dear Lisa,
ワラを詰めればいいじゃない、dear Henry, dear Henry,
……
そして、ワラを何で切る? それは斧で。斧が錆びてる。じゃ研げば。でも砥石が乾いてる。水を汲んでおいでよ。でもバケツに穴が……、と循環する。
ずっと昔、ハリー・ベラフォンテが歌ったレコードがある、とは聞いているが、まだ手に入らないままだ。
セサミストリートにも出てきたらしいが残念ながら聞き漏らした。
単純なメロディーの繰り返しで、いかにも働きながら歌い、歌いながら働いた、多分黒人たちの歌らしい雰囲気がある。もしかしたらルーツはアフリカかもしれない。
一人の少女と、彼女を取り囲んだ男たちのえんえんと続く掛け合いに、ぼくは完全に魅了されていた。
歌といえば、ぼくもよく甲板で歌った。
といってもぼくのはいつも遠慮がちな小声で、一人口ずさんで楽しむだけのことだったが、
甲板では波の音とエンジン音がぼく声の聞き苦しい部分を適当に消してくれ、また他人の耳に入る音量も適当に絞ってくれるのでとても歌いやすい。
たまたま持っていたYMCAのキャンプソング集を甲板で開いては、波の音にぶつけて歌った。
「The ash grove トネリコの林」
という歌を覚えた。
楽譜を頼りに新しい歌を覚えるなんてことは、忙しい日常の中ではなかなか出来ないことだけれども、この船に乗ってからはそんなふうにしていくつかの歌を覚えた。
この愛らしい三拍子のイングランドの民謡を、ぼくはとても気に入っていた。
そんなふうにぼくが歌っているところへ加藤がやってきた。
「歌、少し教えてくんないかな」
「いいよ。でも、どんな歌?」
で、ぼくがぱらぱらと開いたところに
「椰子の実」(島崎藤村作詞・大中寅二作曲)
があった。
あ、これ、これ教えてよ、と彼は言い、そして、メロディーはだいたい知ってるつもりだけど自信がない、いっしょに歌ってみて、と言った。
名も知らぬ 遠き島より流れ寄る 椰子の実ひとつ
ふるさとの岸を離れて 汝れはそも波にいく月
古い歌だ。でもこの古い詩はいつの世にも美しい。
古いものが「古臭く」感じられるのは、それは多分、古いからではなく「まずい」からだと思う。
この島崎藤村の詩は申し分なく美しくて、おおらかな感動に満ちている。
でも、そのときぼくが持っていた小さな歌集には、詩は一節だけしか出ていなかった。
ぼくは自分の記憶回路の中からこの詩を一節一節思い出しながら歌った。そして加藤はそれを手帳に書き付けた。幸い、詩は全部思い出した。
もとの木は 生いや茂れる枝はなお陰をやなせる
われもまたなぎさを枕 ひとり身のうき寝の旅ぞ
それが始まりだった。
その日の夕食のあと、加藤が書き取った歌詞をみんなが写し取るのを見た。
そしてその夜から、甲板上の歌唱指導が始まった。
実をとりて 胸に当つれば 新たなリ 流離の憂い
海の日の沈むを見れば たぎり落つ 異郷の涙
思いやる八重の潮々 いずれの日にか 国に帰らん
貧乏旅行者も、貧乏絵描きも、貧乏留学生も、みんな歌った。
美恵子さんも歌った。
下駄履きの北川も歌った。
甲板の手摺にずらりと並んで、まるでそうしなければならないように、何度も何度も、波の音にかぶせて声を張り上げた。
はるばると地球を旅してきた感慨が、あっけらかんと開き直ったかのように見えるこの連中を、そんな「流離の憂い」に駆り立てたのだろうか。
「この歌が好きなのね」
と美恵子さんが言った。
「こんな長い歌詞を全部覚えてるんだもの」
船はジブチの港に近づいていた。
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