pottieさんへのコメント一覧全1件
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pottieさんおはようございます。
ぺリリュー島の旅行記写真が美しいですね。この島は書かれてる通り日本軍玉砕の島です。武器、弾薬、食料の補給もなく戦わねばならなかった日本兵のバンザイ突撃の気持ちはよく分かります。一旦撃退しても制空権、制海権を握られてる限り相手は何度も勝つまで来れるわけです。こちらは補給は一切なしで水場を押さえられたらもう死んだほうがよほど楽になれますものね。
さておき日本軍の戦車の小ささにビックリされたようですがこの戦車は通常豆戦車と呼ばれている九七式軽装甲車か九五式軽戦車でしょうね。これは騎兵が馬の代わりに乗っていたもので結構重宝されたようです。arfaさん、こんばんは。
書き込みありがとうございます。
ペリリュー島巡りは私たち夫婦にとってメインのイベントでした。
パラオを知ったのも、WW2の激戦地だったということからだったのです。
旧日本兵の方が自害された場所を訪れたり、
写真にもありますが、
日米合せて何万人という人が亡くなったビーチに行ったりと
とてもとても「楽しい」ものではありませんでした。
泣いてばかりいた気がします。
辛かったですが、それでも行って良かったと思います。
今の自分たちがあるのは、彼らがいたから。
今まで以上に感謝の気持ちを持つことができました。
救われた、と思えたのは
現地の人たちの優しさです。
旧日本兵の慰霊碑に今でも掃除をし花を添えてくれる現地の人たち。
本当にありがたいと思いました。
遺族はなかなか会いにこれないけど、
現地の人たちに見守られて、彼らはきっと安らかに眠っている
そう思えました。
日本の戦車だけでなく、アメリカの戦車も残されていて
その大きさの違いに驚きました。
名前も日本軍のは「豆戦車」というのですね〜。
まさに「豆」がふさわしい・・・。
馬代わりに戦車というのもすごい話ですが、
確かに小回りはききそうで
「日本人らしいな〜」と思いました。
arfaさんは海外旅行の経験が豊富でいらっしゃるのですね。
旅行記など、じっくりこれから拝見させていただきます。
読みがいがありそうですね・・・・・。
2007年04月03日19時06分 返信するRE: pottieさんおはようございます。
樺太あたりもそうなんですが見ず知らずの親戚でもない人のお墓の面倒を見ていただけるということは本当に現地に住んでる方々には頭が下がる思いです。
私の伯父に当たる人もブーゲンビル島で戦病死しています。日時は昭和19年9月20日だったと思います。米軍によるブーゲンビル島制圧は昭和18年6月。1年以上ジャングルで隠れる生活だったのでしょうね、きっと。
一昨日地震、津波の被害にあわれたソロモン諸島も第二次大戦の大激戦地です。首都はあのガダルカナル島にあります。ここでの消耗戦に日本は敗れて生産力の差で補給が続かずに敗戦への道を辿ります。
サイパン、テニアン、グアム等の南の楽園は第二次大戦当時の地獄の島です。
最近、話題になった硫黄島の栗林忠道大将も最後の電文に書かれてるように「我に補給さえあれば」の世界になります。
豆戦車は日本軍の戦車のことではなく世界標準の言葉ですよ。重戦車(ドイツのタイガー?、?型やロシアのスターリンなどが有名です)、中戦車(同じくパンサーや?型、?型にアメリカのM4シャーマン=多分見られた米軍戦車はこれでしょう=、ロシアのT34などが有名)、軽戦車、豆戦車となります。
第一次大戦後、世界では騎兵部隊の時代は終わりを告げましたが人員はいるわけなので軽戦車や豆戦車が騎兵部隊の足となりました。2007年04月03日23時38分 返信する