adsawinさんのクチコミ(44ページ)全2,924件
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投稿日 2006年05月19日
自分の気持ちの問題ですから・・どのくらいの値段がとかどういうものが・・と考えるより直感で購入した方がいいですよ・・・
高ければいいと言うものでもありませんし・・安いければ・・というほど高くもありませんので・・だいたいのセットは10-20Bだと頭に入れて置いて下さい。自分の好きな花の色があればそれでもいいですし・・蓮の花ならピンクや白などもありますので・・好みはその辺りで決めましょう。- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月19日
それでも皆止まることなくそのお祈り用の花のセットを購入します。
夜だからあまり気にもならないけれどもかなりリサイクルされた後かなあ??と少々ガックリ・・しかし考えてみれば?それだけの人たちの分を作り置き出来るわけありませんよね・・- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月19日
それは仏様が生まれた日・仏様が悟られた日・仏様が亡くなられた日だからです。
毎年のことながら・・今年もこの日チェンマイ大学の門からは歩きでドイ巣テープをあがる人がたくさんいます。
時間に関係なくその人の足も止まることなく何処からともなく途切れることなく坂道を歩いていきます。
ドイステープの麓にはこのドイステープをあがる為に道路を築いたお坊さまが祭られいます。まずそこにお祈りをする人でお坊様の体中に花と金粉がつけられています。1セット10B-20Bです。- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月19日
山に囲まれ・・広い敷地の中には何百年もの樹木があり涼しい空気と自然のありのままの姿はきっと忙しすぎた時間を癒してくれる場所になるとそう感じています。
そういう自分も来なければならないという新たなる気持ちで瞑想寺を後にしてきました。
チェンマイにはロイカトーンの直前に開かれるサイサイ市になるチェンマイ大学の瞑想寺が一番大きいです。その次がここになります。
事前に瞑想するための申し込みが必要です、入るときは体だけで他にはないも必要ありません。- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月19日
ビルマの影響を受けているのと、タイヤィ族の影響が強い様子です。
ジェディーの各所に仏像が座っているのですが、その上になる仏像はけしてその下の仏像の上にはならにようにズラシテありました。珍しいつくりだと思います。チェンマイの寺院では見かけません。- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月19日
瞑想している人々は大体の人が最低でも2週間はするんだそうです。長い人は何年でもするそうです。しかし瞑想からまるで醒めたように人が変わって帰る人がその7割を占めているそうです。
それだけ何かをフッ切れた上体爽やかな状態で人生をやり直そうと出直そうとここを出て行く人は目が生き生きしているといいます。ここはもちろんチェンマイ県で管理する寺院ですからお坊様もいますし・・瞑想を担当したり女性の人を出迎えるために
女性のお坊様(タイ語ではメーチーと呼ばれています)もお出でなので女性の方が一人で来ても何も問題ありません。
ここはもちろんフリーです。ただし決められた服装と決められたことは守らなければなりません。朝晩の寝起きの時間を守ること、食事で呼ばれたら必ず遅れないこと、そして無断外出は禁止、そして外部からの面会もよほどのことがない限り禁止されています。
お坊様に出家することと同じで、俗世界から隔離される状態になります。携帯電話も駄目です、漫画や読書は仏の教え以外は禁じられています。
それでもここに来る人が後をたたないというのはやはり・・人生の中で一番大変なこととの出会いなど出来事などでぼろぼろになって来た人、あるいは来世に今より良い運が訪れるように、体を清める?つもりで訪れるひとなどが多い証拠なのです。
寺院の中を静かに歩きながら・・・一人で微笑む人・・寺院の中をまるで知り尽くしているように目を閉じたまま歩いている人・・などいろいろな人がいました。- 旅行時期
- 2006年05月
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瞑想寺**一番苦しいとき・・悲しいとき・・あなたはどうやってそれを乗り越えてきましたか?
投稿日 2006年05月19日
人間これが限界だと思うとき死を意識するあるいは死を選ぶ・・それは何から逃れるために?それは最後の手立てなのだろうか?死は簡単ではない・・・死を覚悟して死を選ぶ人の方が勇気がいると思う。
死ねないことに悔いる・・それは間違いだと思う・・・・死ぬことだけが残された道だとは誰も言わない、それは自分で決めなければならない人生の選択・・・
死ぬことより生きる道を選んだ人の方がこの先の生きるすべての道に覚悟して望めるそれこそ強い心の持ち主ではないだろうか?死を選んだ人もそれだけの恐怖を味わいながら死を選べる度胸にはよほどの覚悟が必要だと・・そう思いたい、
しかし最近の若い人々は特に子供たちは簡単に死を選ぶ・・それは自分がまるでゲームの主人公のようにリセットされ再生されると勘違いしているのでは?ないだろうか?命の尊さはどうしたら学べるのだろうか??宗教が異なれど・・世界中で一番
考えていかなければならない命の重みだと思う・・・・人を殺すことが楽しいとか?人をいじめることでエクスタシーを覚えるとか?子供達は平気で答える。
しかしそれは自分がその相手の立場にならないから?理解出来ないことで・・自分主義の子供達が今の世の中を埋め尽くしているのだと思うと戦争はこの先防げないのか?と恐怖を覚える。
世界中で大きな問題になるだろう・・感情のコントロールが出来ない世代の人々がこの先の世の中をどうコントロールしていくのだろうか??
さて、このタイでは寺院と呼ばれる寺の他に瞑想するために作られたお寺もある。日本だとさしずめ座禅を組むと言うことだろうか?- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月18日
現プミポン国王の後継者は、Mahaの称号を持つ、Vajiralongkorn(ワチラロンコーン)王子かSirindhorn(シリントーン)王女のどちらかと言われていますが、「国王による後継者についての指示」がなければ、男系の長子継承制な為ワチラロンコーン王子が継承者ということになります。
ワチラロンコーン王子には、妻のソムサワリ王女(シリキット王妃の姪=兄の娘)との間に女の子が1人、愛人ユワディダさんとの間に男の子4人と女の子1人いらっしゃいます。ただ、母親のタイトル(称号)の違いから、ソムサワリ王女の子供は、Her Royal Highness(HRH)の称号となっていますが、一般人であるユワディダさんの子供は、His/Her Serene Highness(HSH)と違いがあります。このお子様は皇室の血は持つものの皇室の人間としては迎え入れられず現在でも外国で生活しています。
ソムサワリ王女と離婚され、また別の女性であるスィラスミさんと2001年2月10日に再婚されて現在満1歳の男の子がいます。
また、Ubol Rattana(ウボンラッタナ)王女はアメリカ人(既に離婚済み)との間に、Chulabhorn(チュラボーン)王女はタイ人(一般人)との間に、それぞれお子様がいらっしゃいますが、女性の王室の人間と一般人の男性との間に出来た子供は、一般人となります。
(1)妻 1.王室の人間の場合 Somdetch Pra
2.王室以外の人間の場合 Chao Chom
(2)子供 1.母親が王室の場合 Chao Fa(HRH)
2.母親が王室以外の場合 Pra Ong Chao(HRH)
(3)孫 1.1上記Chao Faの子供で母親が王室の場合
Pra Ong Chao(HH)
1.2上記Chao Faの子供で母親が王室以外の場合
Mom Chao(HSH)
2.1上記Pra Ong Chaoの子供で母親が王室の場合
Pra Ong Chao(HH)
2.2上記Pra Ong Chaoの子供で母親が王室以外の場合
Mom Chao(HSH)
更に、下に行くと、Mom Rajawongse、Mom Luangなどがあります。
父親がチュラロンコーン王の子供であるMahidol(マヒドン)王子と、王室の母の間に生まれた、現プミポン国王も当時はHH(His Highness)であった。この原則でいくと、ワチラロンコーン王子とソムサワリ王女の娘であるBajrakitiyabha(パチャラキティヤパー)王女はHRHとなっています。- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月18日
ラマ9世 プミポン国王のロゴ
ラマ9世について・・プーミポン・アドゥンラヤデート王、プミポン王
正式名称 : プラバート・ソムデット・プラパラミンタラ・マハー・プーミポン・アドゥンラヤデート・
マヒタラーティベート・ラーマーティボーディー・チャックリーナルボーディン・サヤーミンタラーティラート・ボーロマナートボーピット
タイ語表:พระบาทสมเด็จพระปรมินทรมหา ภูมิพลอดุลยเดช มหิตลาธิเบศรรามาธิบดี จักรีนฤบดินทรสยามินทราธิราช บรมนาถบพิตร
英語表記 :Bhumibol Adulyadej- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO9
投稿日 2006年05月18日
ラマ9世 プミポン王 1946~
ラマ8世の死後生き写しのように似ていた弟のラマ9世が、タイチャクリー王朝の9代目の王となる・・アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれる。ラマ5世の69番目の子息、ソンクラーナカリン親王を父に持つ。学業はスイスのローザンヌ大学で修めた。この兄の惨事で兄の死を認められず悲しい日々を過ごしたと言われる・・・1927年(タイ仏暦2470年)12月5日、
学業中にいったん休学し1945年(タイ仏暦2488年)にタイへ帰国するが、翌年の6月9日に兄ラーマ8世アーナンタが怪死したため兄王の死の12時間後タイ国王に即位。その後すぐにローザンヌ大学へ復帰し、1952年(タイ仏暦2495年)に帰国。同年、フランス滞在中に出会った同じく王族のモム・ラーチャ・ウォン・シリキット・キッティヤーコーン(シリキット)と大恋愛の末結婚し、4人の子供達に恵まれ現在に至る。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO8
投稿日 2006年05月18日
ラマ8世 アーナンタ王 1934~
ラマ8世(Rama VIII、1925年9月20日 - 1946年6月9日)は本名をアーナンタ・マヒドン王という。外国ではアーナンタ王、マヒドン王とも呼ばれる。タイ現王朝チャクリー王朝の8代目の王。ラマ5世の孫で、ラマ7世の甥に当たる。1925年(タイ仏暦2468年)ドイツのハイデルベルクで生まれた。1928年(同2471年)年に初めてタイに帰ってきた。翌年に父親が亡くなると、兄弟三人でスイスのローザンヌで修学した。1934年(同2477年)ラマ7世が退位するとタイの国会の決定で即位したが、すぐにスイスに帰り学業を続けた。1945年(同2488年)に学業を終えると帰国する。しかし翌年には「事故」で崩御した。ボーロマピマーン宮殿で銃声がしたので駆けつけてみると、ラマ8世は死んでいた、といわれる。そのまま銃の暴発事故で片づけられそうになったが、警察が検死結果を元に他殺説を示唆した。ラマ8世死亡事件捜査本部が設置されたものの結局それ以上の捜査は続けられず、責任をとって内閣は総辞職し、数人の王室関係者が処刑されたが、真相は未だもって不明だが、昔から拳銃いじりが趣味で間違って暴発したのでは?と言う説が一番正しい様子である。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO7
投稿日 2006年05月18日
ラマ7世 プラチャティポック王 1925~
ラマ7世は、タイ現王朝であるチャクリー王朝7代目の王。タイで最後の絶対君主で最初の立憲君主である。本名はポッククラオ王。幼名がプラチャーティポックサックディデートというのでその一部を取って外国ではプラチャーティポック王とも言われ仏暦を採用した事で知られている。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO6
投稿日 2006年05月18日
ラマ6世 ワチラウット王 1910~
ラマ6世(Rama VI、1880年1月1日 – 1925年11月25日) は、タイチャクリー王朝の国王の一人。幼名がワチラーウットというので外国ではワチラーウット王(King Vajiravudh)とも言われる。タイの王朝史上、初めて海外留学をした王で、イギリスに滞在していた。帰国後は陸軍大将を勤め、1910年に即位すると、ラマ5世の始めたチャクリー改革を押し進め、以下の改革を行った。義務教育制度の導入・発電所・水道施設・ドーンムアン空港・プット大橋を整備・国旗はラマ2世による白象旗を廃し、新たに現在の三色旗を採用・姓氏法を制定し国民に姓を持たせた。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO5
投稿日 2006年05月18日
ラマ5世 チュラロンコーン王 1868~
ラマ5世(Rama V、1853年9月20日 - 1910年10月23日)は本名をチュラチョームクラオ王という。タイ王国の現王朝チャクリー王朝の王で5代目。幼名をチュラローンコーンと言うため、外国ではチュラーロンコーン大王(King Chulalongkorn the Great)が名前としてよく使われる。タイ三大王のうちの一人で、今でも尚も国民からの人気が高く、肖像画がなど商売の神様としてもポスターなどとしても、店や仕事場などに置かれ祭られている。日本の明治天皇と同時期の王で、明治天皇と同じく近代化に大きく貢献した王としてもタイの基盤を作り出した大きな王であり、即位すると度々外国へ旅行をして、その国の良いものを自国へ取り入れるなど新しい文化を築いた人でもある。奴隷制度などを廃止し個人の自由を尊重する時代への前進を築いている。そして多くの改革を行いこれをまたチャクリー改革と呼ばれた。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO4
投稿日 2006年05月17日
ラマ4世モンクット王 1851~
ラマ4世はタイ王国の現王朝チャクリー王朝の4代目王。本名チョームクラオ王。幼名をモンクットと言うため、外国ではモンクット王が名前としてよく使われるが、ラマ6世の本名にもモンクットと言う語が使われる為良く間違われることがある。元々は兄のラマ3世よりも彼の方に王位継承権があったとされるが、学業専念のために兄に王位を譲り、自分は学問を続けた。即位までの27年間は寺に属し、経文の言語であるパーリ語、サンスクリット語をマスターする。しかしその中でタイの仏教のあり方に疑問を感じ始めていた。その後、キリスト教宣教師の手を借り、英語、ラテン語を学び、ルネッサンスを通じて教義が合理化されたキリスト教にふれたことで、新時代の宗教は合理化されたものでなければならないと感じ、俗信を排除した新しい仏教を建てた。このとき建てられた革新派の仏教集団をタマユットニカーイと言い、ラームカムヘーン大王碑文を発見した人でもある。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO3
投稿日 2006年05月17日
ラマ3世 プラナンカオ王 1824~
ラマ3世はタイ王国の現王朝チャクリー王朝の王で3代目。父王、ラマ2世譲りの詩人で、叙事詩『クン・チャーン=クン・ペーン』の作詩にも関わる。また、ラマ3世の治世には戦乱が減ったため世の中の安定により国内における政治・商売など全ての面で築き上げることが出来た為、ラマ3世までを「チャクリー王朝の建設期」と言うことが出来るかもしれない。
ラマ3世についてでした。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO2
投稿日 2006年05月17日
ラマ2世プラプッタロエットラ(ナパーライ)王 1809~
(Rama II、1766年2月26日 - 1824年7月21日)はタイ王国チャクリー王朝第2代目の王ラマ1世の息子である。幼名をチムと言う。チムは1782年(タイ仏暦2345年)ラーマ1世が即位するとクロムルワンイッサラスントーン王子の名を戴いた。その後タイの仏教の伝統に則って出家した。1806年(タイ仏暦2349年)の副王の死によって自分が副王になり、皇太子となった。1809年(タイ仏暦2352年)にラマ1世が崩御し王に即位。治世の前半はたび重なるビルマとの戦い続くが、後半ではビルマがイギリスに占領された為静かになり、国内の整備などを行った。タイの文豪の一人にも数えられる。文学面での功績は大きいが、ブンナーク家などの貴族に内政を任せきりにしていた為、政治的にはあまり実権を持たない王でもある。
ラマ2世についてでした。- 旅行時期
- 2006年05月
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チャクリー王朝時代をもう少し勉強して即位60周年ラマ9世をお祝いしたいですね・・NO1
投稿日 2006年05月17日
ラマ1世 チャクリ(プラプッタヨドファ)王 1782~
ラマ1世(Rama I、1737年3月20日 - 1809年9月7日)はタイ王国現王朝、チャクリー王朝の創始者であり、幼名はトーン・ドゥワンと言う。アユタヤ王家の血を引き、アユタヤー時代の士官チャオプラヤー・コーサーパーンの子孫である。アユタヤー王朝末期にすでに官吏として士官しておりルワンヨック・クラバットの爵位名も持つ。このラマ1世の称号はラマ6世によって制定されたものである。
ラマ1世についてでした。- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月17日
この辺りをその当時仕切っていた・・ルァ(ラワー)族の将軍がいたのです、彼は人目でこの女王ジャーマテェービィーに恋してしまった様子で・・恋文を何度も送ります、その返事は槍を投げてここまで届いたら結婚しても良いと言う条件をだしたのです。彼は1生懸命それに答えるべく槍投げに挑戦しました、1度目はもう少しで届きそうでしたが叶いません、そしてその次も後少しの所で届きませんでしたが・・この次は届くだろうという時女王は恐れをなして自分のところに届かないように呪いをかけ、3度目も叶いませんでした。
其れを後から知った将軍はあまりの仕打ちと哀しみに自分の命を絶つてしまいました。
其れを聞いた女王は正直に話せばよかったことや呪いをかけたことを大変悔やみ深い悲しみに陥ったと記されてありました。それを見た息子達が母親とその将軍のためにこのワットドイカムを建設したのだと言われています。
ランナーの古き伝説などを知る上でこのドイカムもまた観光地としては知られていませんが、大切な意味を持つ場所ではないかと思いました。
もし時間が許される人は是非お立ちより下さい。別の角度から見たチェンマイもまた素晴らしいと感動新たに出来る事だと思います。- 旅行時期
- 2006年05月
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投稿日 2006年05月17日
ドイカムの寺院はランナー王国よりも遥か昔に立てらている様子です。
ランプーンの女王ジャーマテェービィーの息子二人が仏暦1230年頃母親の為に高僧なお坊様の骨を納めた寺院として建てられてたのだそうですが、時代の流れと共にビルマにこのあたりを占領されていた為に仏暦2524年までの間40年近くの間寺院を守る為のお坊様も居ない状態でした、その上に骨が収められていたジェディーが崩れてしまい中に収められていた高僧の骨や崩れたジェディーなどが持ち去られ修復に必用ないろいろなものが持ち去さられてしまいました。
仏暦2524年(1981年)になりやっと寺院の修復をするべく人が立ち上がり現在の状態に修復されたようです。それにしてもどうして天上などの造りが低いのか?とても気になりますが・・またまるでドイステープ寺院の小型版のような作りでありながら・・色々な意味があるのでしょう・・その4つ角4つ角には寺院の建設或いは色々は宗教的な人物などの人形が置かれ祭られていました。- 旅行時期
- 2006年05月























