伊江島の名所・史跡 ランキング
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3.32
評価詳細
- アクセス
- 3.63
- 人混みの少なさ
- 4.63
- バリアフリー
- 2.80
- 見ごたえ
- 4.19
満足度の高いクチコミ クチコミ一覧を見る戦火を潜り抜けた築95年のコンクリートの建物である。
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5.0
- 旅行時期: 2024/01
- by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。
伊江村中央公民館の敷地内にある公益質屋跡は、昭和4(1929)年12月に政府の融資を受けて設立されたものである。設立当時は続きを読む
伊江村中央公民館の敷地内にある公益質屋跡は、昭和4(1929)年12月に政府の融資を受けて設立されたものである。設立当時は世界大恐慌のため村の財政や村民の生活が苦しい時期であり、高利貸しの暴利に泣く村民に低利の融資を行うことで生活の安定を図ることを目的とした。公益質屋は大正元(1912)年に社会福祉事業の一環として設置された非営利的な金融機関であり、大正13(1924)年頃に全国に広がったとされている。 昭和20(1945)年4月16日からの六日戦争に於いて、学校陣地が置かれたこの界隈は米兵から〝血ぬられた丘〟と称される程の激戦が繰り広げられ、米軍上陸準備のために艦砲射撃を開始した3月28日以降2週間に渡り空と海から昼夜問わず爆撃が加えられ、村の建物は悉く焼き払われた。 その中で公益質屋は〝質物の管理・保存〟のために頑丈に作られており、砲撃を受けながらも辛うじて原型を留めることができた。しかし現在でも見られるように建物の内外には無数の弾痕や砲撃の痕が残されており、戦争の恐ろしさを後世に伝える存在として村の史跡に指定されるにあたり、建物内部の補強や壁面の保護などが外観を損なわないように施され、現在にその姿を伝えている。 伊江島戦跡の代表と言われるこの〝公益質屋跡〟は、伊江島を訪れたく思う理由のふたつ〝伊江島タッチュウ〟と共に私の中でずっとその〝価値〟を呈し続けていた。実際に見て、歩いてみてその存在感は期待通りの素晴らしい建造物だったと改めて思った。 ここは文章で書かれたからその価値がわかるレベルのものではない。見るだけで何かを感じられる場所である。戦跡に〝良い場所〟も〝悪い場所〟もないのだが、沖縄戦の生き字引を目の当たりにして心を動かされないものはいないだろうと確信した場所でもあった。
- 住所
- 沖縄県伊江村東江上75
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3.30
評価詳細
- アクセス
- 4.00
- 人混みの少なさ
- 4.67
- バリアフリー
- 2.50
- 見ごたえ
- 4.17
満足度の高いクチコミ クチコミ一覧を見る伊江島の戦いでの戦没者を祀っている。
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5.0
- 旅行時期: 2024/01
- by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。
ニーバナ児童公園内に建立されている〝芳魂之塔〟。伊江島での戦闘に於ける伊江島守備隊と、その戦いに於ける住民の戦没者を祀る為続きを読む
ニーバナ児童公園内に建立されている〝芳魂之塔〟。伊江島での戦闘に於ける伊江島守備隊と、その戦いに於ける住民の戦没者を祀る為に1951年4月20日に建立された。当時の沖縄群島知事平良辰雄氏の書による碑銘と、伊江島の三大歌人の一人である名嘉元浪村の〝ひねもすを とヾろ とヾろと 潮騒の 声をまくらに ここだくも 眠れる霊の 夢まどかならむ〟という歌が刻まれている。 長年に渡る風雨に晒され劣化したものを平成13(2001)年3月に境内の拡張並びに塔の建替えが行われ、また同時に塔に向かって右側には礎が併設された。この礎には村外での戦没者も刻銘されており、伊江島の〝戦没者慰霊碑〟として現在に至っている。 伊江島に於ける終戦とは昭和20(1945)年4月21日の米軍に於ける〝伊江島占領〟が宣言された日となっており、毎年4月21日に慰霊祭が行われていたが、昭和52(1977)年の33回忌を以って慰霊祭は終了し、翌年からは〝平和祈願祭〟と称し、遺族は勿論、県内を始めとする子供達も参列し、平和を考える式典として現在に至っている。 慰霊碑についてはいつも思うところがある。終戦後の混乱期に材料も乏しい中で作り上げられた〝粗末な慰霊碑〟、それが劣化を理由に建て替えられて立派な物が建立されることは良いのだが、観光名所として取り上げられるがために〝初代の碑〟の存在が蔑ろにされている残念な現実だ。〝芳魂之塔〟も例に漏れずwebで検索した限りでは〝初代の碑〟の映像が見つけられなかった。 沖縄平和記念公園の〝平和の礎〟を彷彿させるような立派な物が目の前に広がっている。それはそれで慰霊の気持ちには変わりはないのだが、70余年前に建立された初代の碑がどのような状況下で作られたものなのかを知らなければ、ただの慰霊碑としか見えなくなってしまうことに対する危惧は否めない。古き物にはそれなりの背景がある。それを残して欲しかった…と少し残念にも思った私であった。
- 住所
- 沖縄県伊江村西江前
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3.29
評価詳細
- アクセス
- 4.50
- 人混みの少なさ
- 5.00
- バリアフリー
- 3.50
- 見ごたえ
- 3.50
満足度の高いクチコミ クチコミ一覧を見る米軍の従軍記者であったアーニー・パイルの戦死場所である。
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5.0
- 旅行時期: 2024/01
- by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。
米国インディアナ州の出身であるアーニー・パイルは、第二次世界大戦に従軍記者として同行した新聞記者である。彼の入隊は〝通信兵続きを読む
米国インディアナ州の出身であるアーニー・パイルは、第二次世界大戦に従軍記者として同行した新聞記者である。彼の入隊は〝通信兵〟であったが、戦場となった各地を転戦し、戦場から無名兵士たちの模様を報道して全米を感動させた〝戦場カメラマン〟でもある。その〝写真〟を介した情報発信は欧米の多くの民衆の関心や感動を呼び、1944年にはジャーナリストとして最高の名誉であるピューリッツアー賞を受賞している。その際一時的に米国に帰国しているが、すぐに第77歩兵師団に入隊し、再び戦線へと赴いた。 沖縄戦に於いては第77歩兵師団零下の米軍第305連隊と行動を共にしていた。伊江島での戦いのさなか昭和20(1945)年4月18日に他の将校たちとジープに乗って移動していたところ、伊江島守備隊の機関銃小隊からの銃撃を受ける。一旦は降車して身を隠したところに続けて撃たれた銃弾が命中し戦死した。享年44歳。 彼の亡骸は粗末な木の十字架の下にヘルメットを装着したまま埋葬された。その後米軍基地内に移された後、1949年にハワイ・ホノルルの国立太平洋記念墓地に埋葬された。そして毎年4月18日に最期の地となったここ伊江島にて慰霊祭が行われている。 彼自身のジャーナリストとしての活動の中に〝兵士〟という概念はなかったようだ。そのことは彼の〝戦争道具〟一覧に記されているノート・ペンそしてタイプライターであったということからもわかることではある。しかし戦時下であり、かつ〝負け戦〟の様相を呈している日本軍兵士に、相手を選ぶ余裕はない。むしろ少しでも多くの〝米兵〟を殺すという〝義務感〟に苛まれていたであろう。そんな中に現れた米軍将校が乗るジープと遭遇すれば、手あたり次第に銃撃したであろう。殺さなければ殺される…それが戦争であり、人間の心を蝕む要因となることは、今も昔も変わってはいない。 ただ相手は伊江島を占領した米兵である。そういった立場で言うならば〝勝てば官軍〟そのものであろう。彼の戦死場所はその後綺麗に整備され、現在でも〝アーニーパイル記念碑〟の場所として伊江島観光の場所として多くのガイドブックに取り上げられている。 戦死した兵士に敵味方は関係ないが、村民を含めた多くの日本人が亡くなっている場所でのこの違いは正直違和感を感じずにはいられない。伊江村長が述べた〝私達村民は誓う 二度とあの忌わしい戦争を繰り返さない、平和な世界を築くことを〟という言葉にも、反論を持つ者は絶対にいると不思議にも感じたアーニーパイル記念碑訪問を終えた私の気持ちであった。
- 住所
- 沖縄県国頭郡伊江村川平
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3.29
- アクセス
- 伊江港から車で約6分
- 営業時間
- 9:00~17:00
- 休業日
- 水曜
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3.12
評価詳細
- アクセス
- 3.00
- 人混みの少なさ
- 4.00
- 見ごたえ
- 4.00
- 住所
- 沖縄県国頭郡伊江村西江上17
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3.12
- 住所
- 沖縄県国頭郡伊江村東江前
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