歴史の悲惨さが伝わるお寺です。
- 5.0
- 旅行時期:2023/03(約3年前)
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by hijunoさん(非公開)
二条・烏丸・河原町 クチコミ:50件
1611年に角倉了以により豊臣秀次とその一族の菩提を弔うために建立されたお寺です。豊臣秀次は謀反の罪により高野山で自刃させられ、その一族はまた命を絶たれます。
その塚は現在のお寺の場所にあったようで、塚には「秀次悪行塚」と刻まれます。そのそばの鴨川は度々洪水をおこし、塚も荒廃していきます。
角倉了以は高瀬川の開削工事を行う際に、この荒廃した塚に胸を痛め、お寺を建立し、首がおさまった石櫃の「悪行」の文字を削り、秀次とその一族を供養しています。また、実弟も秀次の医師として仕えたこともありましたが、連座を免れたものの、1610年に亡くなったことから、その1周忌もかねてお寺を建立することとなります。秀次や一族の供養は大雲院やその他の関係のお寺などでも行われていますが1941年には松下幸之助らの「豊公会」によって、秀次のお墓の整備や一族や家臣の墓の五輪塔なども建立されています。また地蔵堂には小さな像が安置されています。
一族で命を絶たれた、駒姫は最上義光の娘で、一度も秀次に会うことなく、側室候補というだけで亡くなっています。各方面からの命の嘆願もなされましたが、間に合うことなく、命を絶たれています。父親の最上義光がその後、関ヶ原の戦いで東軍になることは当然の結果です。
非常に厳しい時代とはいえ、このような悲惨な出来ごとが歴史にあったことは忘れてはならないとおもいます。今は、静かなお寺に美しい椿も咲き、丁寧に手入れをされたお墓、
地蔵堂などをみると少しほっとした気持ちになりました。この日も多くの参拝者がありました。小さな展示室もありひと休みもできるスペースになっていました。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
クチコミ投稿日:2023/03/18
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