京福嵐山線「四条大宮」駅から徒歩5分で行ける本能寺跡
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- 旅行時期:2010/05(約16年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
二条・烏丸・河原町 クチコミ:96件
本能寺は、当初「本応寺」という寺号で、1415年日隆(にちりゅう)によって創建されたもので1547−1548年、日承上人(にちじょう しょうにん)が旧本能小学校のあたりに大伽藍を造営・再建したとされており京福嵐山線「四条大宮」駅から徒歩5分で行ける。
日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国、種子島までも布教され、本能寺を頂点とする本門流教団が成立している。
本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。本門流教団が発展したのも戦国大名の庇護が大きかったようだ。鉄砲を武器として重要視した織田信長(おだ のぶなが1534−1582年)は日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていた。だが1582年明智光秀(あけち みつひで1528−1582年)率いる軍勢に包囲され自刃に追い込まれた本能寺の変で旧本能寺は堂宇を焼失した。
本能寺は1587年、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし1536−1598年)の命で現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転・再建された。
旧地の元本能寺南町には京都市立本能小学校があったが1992年に廃校となり発掘調査が行われた。織田信長の定宿だった当時の遺構が発見されたが現在は京都市立堀川高等学校本能学舎と京都市本能特別養護ルームの施設となっている。
2007年のマンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」の旁(つくり)が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が見つかっている。
本能寺跡から近い二條陣屋の創建は江戸時代寛文年間(1661−1673年)とされ1791年以後、米・両替商人「萬屋平右衛門」の店舗併用住宅だった。
二条城の城下にあって、京都所司代屋敷、東西の京都町奉行、有力藩の藩邸が軒を連ねる一代官庁街の中にあった。
本能寺の変の際、織田信長は守りが薄く、まさか家来に攻められるとは思ってもいなかったのだろうが油断があったのかも知れない。
- 施設の満足度
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3.5
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
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クチコミ投稿日:2012/02/13
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