大典寺
寺・神社・教会
3.33
クチコミ・評判 2ページ目
21~27件(全27件中)
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鐘楼が本堂の屋上
- 3.5
- 旅行時期:2016/05(約10年前)
- 1
ゆいレールの県庁前駅を下車して、福州園に向かう途中にあったので立ち寄りました。駅から5〜6分の場所で周辺はマ... 続きを読むンションやオフィス、戸建て住宅がが混在する市街地で、比較的賑やかな場所です。前面道路に面して背丈以上に亜熱帯植物が植栽としてあるため、山門と呼べる外構だとか建築物は見当たりません。境内に入ると正面に鉄筋コンクリート造の本堂があって、そのデザインは都市部でよく見かけるもので、現代建築と仏教様式を混ぜたような外観になっています。また、ここの特徴は本堂屋上に鐘楼が塔のようにのっかっていて、非常に珍しいです。また外壁の色も薄いイエローで南国らしいです。 閉じる
投稿日:2016/05/18
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学徒動員されて犠牲となった生徒や職員を慰霊する
- 4.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 2
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ちょっと変わったデザイン
- 3.5
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 2
国道58号線の久茂地の交差点から西に入ってすぐ、那覇商業高校の隣りにある浄土真宗本願寺派のお寺さんです。
国家も宗教も本... 続きを読む土と違った歴史を経た沖縄には仏教寺院そのものが少なく、この大典寺も明治時代に布教のために造られたお寺さんです。
コンクリート造りの本堂は、ビルマ風と言うかちょっと変わったデザインで、本堂の上部は鐘楼になっていてお寺と言うより教会の様な雰囲気があります。戦前、この地には、積徳高等女学校があった場所で、境内の右手には学徒動員されて犠牲となった生徒や職員の慰霊碑があります。
戦争により、たった28年の歴史しか刻むことができなかった積徳高等女学校、現地にある説明板を見ているとなんだか悲しい気持ちになりました。
閉じる投稿日:2016/04/17
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ふじ(積徳)学徒看護隊学徒と学校関係者が祀られた慰霊碑です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/03(約10年前)
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那覇市松山、那覇の中心部に位置する浄土真宗聖徳山大典寺。その敷地内に平成12(2000)年に積徳高等女学校関連の戦没者職員... 続きを読む5名・同窓生44人・学徒23の合計72名が合祀された積徳高等女学校慰霊之碑が建立されました。
明治時代に布教が始まった浄土真宗、その教えを元に私立家政女学院が大典寺敷地内に開校したのは大正7(1918)年のことになります。以降昭和5(1930)年には四年制の高等女学校となり美栄橋に移転の後、昭和18(1943)年に私立沖縄積徳高等女学校と校名を改めます。
昭和19(1944)年10月10日の十・十空襲で校舎が全焼し、その後ほとんどの授業が停止され、全校あげて垣花・天久・識名などの高射砲陣地構築や国場での戦車壕掘り作業に従事するようになり、昭和20(1945)年2〜3月には4年生55名が看護教育を受けるようになり、東風平国民学校に置かれた第24師団第2野戦病院壕で実習訓練を受けることになります。
昭和20(1945)年3月には沖縄戦の開戦が避けられない状況となり、実習は打ち切られて生徒達は学徒看護隊として豊見城城跡にあった第24師団第二野戦病院本部壕に55人中25名が入隊し、その日から負傷兵の看護に当たることになりました。本来ならば行われるはずの卒業式は戦況により中止となっています。昭和20(1945)年5月27日には戦況の悪化に伴い糸洲の自然壕に移動命令が出され、昭和20(1945)年6月17日には米軍の馬乗り攻撃を受け、壕内の患者に犠牲者が出ました。6月26日第二野戦病院長小池勇助少佐が、野戦病院を解散させますが、その際学徒隊ひとりひとりに労いの言葉をかけられたそうです。昭和20(1945)年7月2日 米軍が掃討作戦終了を宣言し、昭和20(1945)年9月7日 嘉手納基地内での降伏文章への調印によって沖縄戦が正式に終了しました。
しかし戦災で焼けてしまい学校関係者が望んだ積徳高等女学校の学び舎は、遂に戦後復興されることもなく廃校となりました。
従軍した学徒25名のうち、戦没者が3名(1名は戦後自死されます)という一般的に言われている学徒戦死者の割合がたいへん少ないことは知る人ぞ知る史実ではあります。積徳学徒隊が従軍した第24師団第2野戦病院院長の小池勇助中佐の出した戦況を見た?解散命令?、そして最後の訓示として?生きることは恥ではない。死ぬことこそ恥である?と言われたことが学徒として従軍されたものの、戦争を生きながらえられた学徒隊の方々が揃って仰る言葉です。
戦争という背景の中では?死ぬことが当たり前?的な考えが蔓延る中、命を大切にと最後の訓示をした小池隊長。そしてその言葉を守った学徒隊の皆さん…。結果としてその?信頼感?こそが?生きる原動力?となったに違いありません。
残念ながら?生きろ?と訓示した小池隊長は自決を選ばれました。しかし小池隊長を命の恩人と慕う学徒生き残りの方々との交流は戦後も続き、小池隊長の回忌のお墓参りには参加されていたとのことが新聞記事にも載っていました。
戦後70年が経過した平成27(2015)年6月23日、学徒生存者の方々の高齢化を理由に慰霊祭を執り行っていた?ふじ同窓会?が解散を表明され、本年から?自由参拝?とされることを表明されました。人間の老いを止めることは現在の科学をもってしても不可能なことゆえ仕方がないことだとは思います。しかしその趣旨を理解した戦後世代に引き継ぎ、自由参加の中でも主体性を持ったものにはできないか?とも思います。
犠牲となった多くの学徒を祀る慰霊碑は数はあるものの、多くは訪れる方も疎らで?枯れた花?や?色褪せた千羽鶴?がそのままになっているものをよく目にします。その点大典寺境内に建立された慰霊碑ゆえ花が絶えることはありません。多くの犠牲者が出た場所に建立されている慰霊碑ではあるものの、今後は?永代供養?を視点に入れて考えなければいけないのかも…。そのような現実をふと思った今回の?積徳高等女学校慰霊之碑?参拝でした。 閉じる投稿日:2016/07/17
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浄土真宗本願寺派の寺院です。
- 5.0
- 旅行時期:2016/03(約10年前)
- 8
浄土真宗本願寺(西本願寺)派の聖徳山大典寺。琉球王府時代は浄土真宗は禁教とされていたものの、琉球処分の後明治12(1879... 続きを読む)年に宮崎県の大河内正念師が来沖に始まり、翌年明治13(1890)年には鹿児島の亀井慈雲師が来沖し、13年間の開教の準備がなされた後、明治33(1910)年に鹿児島県大島郡徳之島説教所より菅深明師が転任来島、那覇市上之蔵に?浄土真宗那覇説教所?を設置し、布教伝道を始めます。
翌年明治34(1911)には現在地に説教所を移転、寄留商人や官吏を中心に布教を行い漸次地元の沖縄の人々へも教化の手を進めて行きます。大正5(1916)には大正天皇即位の御大典を記念し、本堂及び庫裡を建立し?聖徳山大典寺?と寺号を公称、開基の菅深明師が初代住職となりました。
以降沖縄各地に布教所を開設し、教線を拡げていくと同時に非行少年の更生保護のため沖縄少年感化院(後の球陽学園)を設置します。また子女教育のため沖縄家政女学校(後の積徳高等女学校)を創設して、活発な教化伝道を展開していましたが、沖縄戦によってすべてが焼失することになってしまいます。
南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の教えのもと浄土真宗を沖縄の地に布教し、その過程に於いて更生所や学校を作るものの沖縄戦によって焼失し、戦後その学校施設が再建されることはありませんでした。
沖縄戦に於いて?ふじ(積徳)学徒看護隊?を結成した積徳高等女学校の生徒は、従軍した第24師団第二野戦病院院長の小池勇助中佐の?命を大切に?との考えのもと、多くの犠牲者を出した少年少女の学徒隊に於いて、3名の犠牲者で済んだ奇跡的な結果を生み出した学徒隊でした。勿論3名の犠牲者は出しているため、無傷とは言えませんがその比率はやはり目を惹く内容だと思います。しかし残念ながら学校は戦火で焼失し、戦後復興されることもなく廃校となりました。
アジアの寺院的な感じを受ける大典寺の境内には、積徳学徒看護隊や学校関係者の戦没犠牲者を祀るべく、慰霊碑が建立されています。寺院敷地内に置かれているため、花が絶えることもなく見る限り慰霊の気持ちを感じることができる場所となっています。内地の寺院とは違って、参拝時間はさほどかからないため、空港へと戻る?最後の目的地?のひとつとして訪れる価値はおおいにあると思います。 閉じる投稿日:2016/07/17
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静かに祈りを捧げたい場所です
- 4.0
- 旅行時期:2016/01(約10年前)
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元々は女学校があった場所です
- 4.0
- 旅行時期:2016/01(約10年前)
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21件目~27件目を表示(全27件中)
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