日本橋魚河岸記念碑
名所・史跡
3.47
日本橋魚河岸記念碑 クチコミ・アクセス・周辺情報
日本橋 観光 満足度ランキング 18位
天正8年(1590)徳川家康が江戸に入府した後、摂津国(現在の大阪)の漁師達が江戸に出て佃を造成した。江戸近辺で漁業を営む許しを得て、徳川家にも魚介類を献上した。漁師たちは、上納して余った魚介類を幕府の許しを得た上で一般にも売り始めた。これが日本橋魚河岸の起源である。 関東大震災の発生により、市場が焼失した為築地への移転が決定し、ついに日本橋魚河岸300年の歴史は閉じられた。 現在跡地には石碑と、「龍宮城の住人である海の魚が、ことごとく日本橋に集まった」という意味を込めて、乙姫をイメージした像が置かれている。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
乙姫をイメージした像が設置されていて、その脇には「乙女の広場」と書かれた標識が横に目立たないように置かれていました。
4.0
- 旅行時期 2023/01
- by ナツメロ大王さん
【日本橋】を三越に向かって渡ると、右手(川下側)にこちらの【日本橋魚河岸記念碑】を見つけ立ち寄りました。乙姫をイメージした... 続きを読む像が設置されていて、その脇には「乙女の広場」と書かれた標識が横に目立たないように置かれていました。関東大震災前は、江戸時代からここで魚河岸があったとのこと、説明板もあって日本橋の歴史を知ることが出来ました。 閉じる
クチコミ・評判 2ページ目
21~40件(全117件中)
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日本橋魚河岸の乙姫像
- 4.5
- 旅行時期:2021/04(約5年前)
- 0
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乙姫広場
- 5.0
- 旅行時期:2021/04(約5年前)
- 0
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以前魚河岸のあった場所
- 3.5
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
- 0
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日本最大級の市場
- 3.5
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
- 0
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日本橋のたもとにあります。
- 3.0
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
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日本橋の北東の袂にあります。
- 3.0
- 旅行時期:2021/03(約5年前)
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日本橋の北詰東側
- 3.0
- 旅行時期:2020/12(約5年前)
- 0
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絵図
- 4.5
- 旅行時期:2020/08(約5年前)
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ひっそりと
- 3.5
- 旅行時期:2020/05(約6年前)
- 2
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江戸城に魚を献上
- 5.0
- 旅行時期:2020/03(約6年前)
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佃の漁師が始めた
- 3.0
- 旅行時期:2020/02(約6年前)
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江戸時代初期より大都市・江戸の魚介類などの食材を取り扱う魚河岸の発祥地です!
- 3.0
- 旅行時期:2019/12(約6年前)
- 5
『日本橋魚河岸』の起源は定かではありませんが、「徳川家康」と深い関りを持つ摂津国佃村(現在の大阪府西淀川区佃)の名主である... 続きを読む「森孫右衛門」と漁師たちを「徳川家康」が1590年(天正18年)に江戸入府した後に江戸・隅田川河口の中州(後の佃島)に呼び寄せて永住と江戸湾内での漁業特権を与え、江戸湾で獲れた魚介類を水運により「日本橋川」経由で江戸城内の「徳川幕府」に献上し、その余った魚介類を17世紀初頭の慶長年間(1596年から1615年)に「日本橋川」の本船町から本小田原町(現在の中央区日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)となる「日本橋」から「江戸橋」の北岸一帯で江戸庶民に売り始めたのが起源とされています。
「徳川家康」と摂津国佃村の「森孫右衛門」と漁師たちとの関りについては、1582年(天正10年)の「本能寺の変」が起きた時に「徳川家康」と小姓衆などわずかな手勢で大坂・堺から本拠地「岡崎城」まで決死の覚悟で戻る際に「森孫右衛門」と漁師たちが提供した漁船のおかげで無事に危機を脱出することができた説のほかに天正年間(1573年から1593年)に「徳川家康」が京都上洛をした際に「住吉神社」を参拝するにあたり川を渡る渡し舟がなく難儀していたところ「森孫右衛門」と漁師たちが提供した漁船を利用したという説があります。
その後も「森孫右衛門」と漁師たちが1599年(慶長4年)に「徳川家康」が「伏見城」在城した際には御膳魚の調達、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」および1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」の際に大坂付近の海上偵察と本陣への状況報告を担った功績により大坂表町屋敷地を拝領したものの持主がいたため江戸に出て末永く家康公をお仕えしたい旨を申し出ることにより江戸に呼び寄せられた記述が残されています。
『日本橋魚河岸』は、江戸の人口増加に伴い外房や伊豆半島のほか関西方面から画期的に進んだ網漁法をもつ漁師の進出や漁場の拡大などによる漁獲量の増加と合わせて専業の魚問屋を中心とした独特の魚の流通システムの構築により本格的な魚市場が発展し、近隣に鰹節・海苔・練製品など海産物の店舗が軒を並べるようになり、一日に千両の取り引きが行われるなど江戸で最も活気のある地域として発展しています。
幕末後の1877年(明治10年)には「日本橋魚市場組合」を設け、大正時代になっても東京の台所として魚河岸の役割を果たし続けていますが、1923年(大正12年)に発生した「関東大震災」により『日本橋魚河岸』は壊滅し、東京市は当時手狭となっていた日本橋ではなく隅田川の水運と「汐留駅」による貨車輸送の利便性が高い築地の「旧外国人居留地(海軍省所有地)」を借り受けて「東京市設営魚市場」(後の東京都中央卸売市場築地市場)を開設したことに伴い、江戸時代初期から続いた江戸・東京の台所として魚河岸の役目を「日本橋」から「築地」に引き継いでいます。
『日本橋魚河岸記念碑』は、世界有数の大都市である江戸・東京の台所として魚介類などの食材を取り扱う魚河岸の発祥地として『日本橋魚河岸』関係者が1954年(昭和29年)に”龍宮城の住人である海の魚が、ことごとく日本橋に集まった”という意味を込めて乙姫をイメージした石像とともに発祥地であることを示した石碑を東京メトロ「三越駅前」B6出入口のある「乙女広場」に建立しています。
『日本橋魚河岸記念碑』以外に魚河岸のあった面影を感じるものはありませんが、日本橋に本店を構える鰹節(にんべん)・海苔(山本海苔)・練製品(神茂)など海産物の老舗から世界有数の大都市・江戸の街並みの中心的存在である日本橋に集まる人々と日本橋川を利用した水運による魚河岸の賑わいを想像をすることができました。
また、現在の「東京都中央卸売市場豊洲市場」となるまでの歴史を勉強することもできました。 閉じる投稿日:2020/04/05
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江戸を支えた魚市場です
- 3.5
- 旅行時期:2019/11(約6年前)
- 0
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関東大震災で築地に魚河岸が移転するまで江戸時代から300年続いた魚河岸が日本橋の橋のたもとにありました
- 3.0
- 旅行時期:2019/11(約6年前)
- 0
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日本橋の近くにある
- 3.0
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 0
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魚河岸ここにあり、の名残です
- 3.0
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 0
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愛されてる
- 3.5
- 旅行時期:2019/10(約6年前)
- 0
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築地→豊洲へと続く魚河岸の系譜
- 3.0
- 旅行時期:2019/09(約6年前)
- 0
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昔の魚河岸は
- 4.0
- 旅行時期:2019/09(約6年前)
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看板だけだが
- 5.0
- 旅行時期:2019/08(約6年前)
- 0
投稿写真
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このスポットに関するQ&A(0件)
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