神流川古戦場
名所・史跡
3.27
クチコミ・評判
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中山道巡りをしているなら必見の場所です。
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滝川一益と北条氏が合戦
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滝川一益、清洲会議に参加できず
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歴史の舞台
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神流川古戦場〔史跡〕
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神流川(かんらがわ)は群馬県西部を流れる利根川上支流の1級河川である。
中世末期の覇者、織田信長(おだ のぶなが... 続きを読む)(天文3年(1543年)6月23日〜天正10年(1582年)7月1日)は、天正10年(1582年)3月11日に織田信長、及び、徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日〜元和2年(1616年)6月7日)連合軍は甲斐國天目山麓で武田勝頼(たけだ かつより)(天文15年(1548年)〜天正10年(1582年)4月3日)を自刃に追い込み、武田家支配地たる甲斐國、信濃國、及び、上野國を手中にし、柴田勝家(しばた かついえ)(大永2年(1522年)〜天正11年(1583年)6月14日)は北陸、羽柴秀吉(はしば ひでよし)を中国、滝川一益(たきがわ かずます)(大永5年(1525年)〜天正14年(1586年)10月21日)を上野國に配置した。
信長公記(のぶなが こうき)に拠れば、
「三月廿三日 滝川右近一益被召寄、年罷寄進國へ被遺候事痛雖被思食候、関東八州之御警護取次候也」
として、滝川一益に対し信濃2郡、及び、関東の押えを命じ、滝川一益は直ちに箕輪城(みのわじょう)に入城した。
北條高広(ほうじょう たかひろ)は厩橋城主だったが、武田側だった為に滝川一益に降伏し、此れに対し、滝川一益は北條高広に対し厩橋城明渡しを命じ、北條高広が次男を人質に差出した為に翌月附にて知行安堵状が交付された。
然るに、織田信長が本能寺の変(ほんのうじのへん)に於いて横死した事実は、上野國厩橋城主で信長の忠実なる家臣を自任していた滝川一益に通信交通不備たる時代とは申せ、事変発生後2日で耳に入ったと伝えられる。
滝川一益にとって直ちに行動すべき事は都に入洛し弔い合戦で勝利を得て次期覇者となる事であった。
その為には、上野國外に存在する北條一族に織田信長横死たる事実を伏せ、巧言を持って途中通過を得て京都に上洛する緊急性を要した。
当時の北條一族は全盛期を過ぎたとは申せ、北條氏邦(ほうじょう うじくに)(天文10年(1541年)〜慶長2年(1597年)9月19日)、及び、北條氏直(ほうじょう うじなお)(永禄5年(1562年)〜天正19年(1591年)12月19日)は時代に対し敏感な嗅覚に長けていた事は想像に難くない。
相前後して北條一族も織田信長横死の事実を知り、滝川対北條間に合戦を要する事なり、天正10年(1582年)6月11日の合戦では北條一族の敗北であった。
然るに、両者の覇権を決する最終戦は同年6月19日に神流川河畔での合戦で滝川派軍勢は大敗し、滝川一益が覇者となる夢は絶たれた。
神流川古戦場跡(かんながわ こせんじょう し)
高崎市新町1086−11
?: 0274−42−1234(高崎市役所新町支所)
高崎線新町駅 徒歩12分
www.takasaki-kannkoukyoukai.or.jp 閉じる投稿日:2011/12/14
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