該神社創建に就いては度重なる大火、及び、水害の為に資料散逸が原因で不祥である。
然るに、本能寺ノ変の結果、織田信長(...
続きを読むおだ のぶなが)(天文3年(1534年)〜天正10年(1582年)6月21日)死去に伴う雌雄決戦の為に、相模國小田原城主 北條氏直(ほうじょう うじなお)(天文7年(1538年)〜天正18年(1590年)8月10日) 対 滝川一益(たきかわ かずます)(大永5年(1525年)〜天正14年(1586年)10月21日)が神流川河原に於いて大合戦を前に、北條氏が先祖以来の守護神稲荷社頭に於いて守護神戦勝祈願をし結果的に大勝に結び付いたとして、北條氏は神徳の偉大さの賜物と感銘し、小祠を建物建築奉納を以って報恩の誠を捧げた史実が残存している。
江戸期は新町宿に多数の妓楼が営業し飯盛女も亦多数存在したが、宝暦年間(1751〜63年)に大黒屋於菊は信心深き女であったが、或る願を3年間欠かさず続け、或る夜の枕頭に稲荷霊が現れた事から霊験あらかたとして於菊は稲荷神社巫女となるに至ったが、此れがきっかけで神霊が乗移ったとされ参拝者が後を絶たなかった。
於菊稲荷神社をして手水舎手水桶銘書は江戸中後期の漢詩学者 大窪詩佛(おおくぼ しぶつ)(明和4年(1767年)〜天保8年(1837年)3月17日)に依る物である。
大窪詩佛は漢詩学者でありながら形式ばらず洒脱な性格だった事から誰からも好まれ、同時代の幕吏であり狂歌作者 太田蜀山人(おおた しょくさんじん)(寛永2年(1749年)4月19日〜文政6年(1843年)5月16日)や、頼 山陽(らい さんよう)(安永9年(1781年)1月21日〜天保3年(1832年)10月16日)等々と交遊を有した。
殊に、太田蜀山人は自身の狂歌に於いて、
詩は詩佛、画は文晁、芸者は小萬に狂歌こそ我
と詠い絶賛していた。
江戸期の筆跡は現存例僅少の為に極めて貴重。
於菊稲荷神社(おきく いなりじんじゃ)
高崎市新町247
?: 0274−42−3303
高崎線新町駅 徒歩12分
http://www6.ocn.ne.jp/~okiku/
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投稿日:2011/12/26