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回向院

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両国 観光 満足度ランキング 3位

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振袖火事と称した江戸の大火で死んだ人を弔うため建てた。以来無縁仏や無縁犬猫を供養する。

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  • 満足度の高いクチコミ

    赤穂義士は休息のため入るのを拒絶されましたが、誰でも分け隔てなく埋葬してくれる無縁寺です。

    4.0

    「両国回向院」は、墨田区両国2丁目にあります。「両国回向院」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の西口を出て、左方向に進...  続きを読むむと140m先に「国道14号」(京葉道路)があります。横断歩道を渡るとすぐ目の前に「両国回向院」の朱色の「山門」があります。その「山門」の両脇には、「回向院」を守るように二体の仁王像が安置されています。 「回向院」は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院で、「諸総山無縁寺回向院」と呼ばれています。そして、「回向院」の理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」で、江戸時代から変わることなく引き継がれています。なぜ、それは何故かと言うと、「回向院」が開かれた明暦3年(1657年)に、江戸では、「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。そのようなことから無縁寺とも呼ばれている訳です。江戸は火事が多い街で、人口の増加による家屋の密集、冬場に吹く「からっ風」がその要因に挙げられます。その中でも明暦の大火は「振袖火事」でその名が知られています。そして、当時の将軍「徳川家綱」は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸にある現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが「回向院」の歴史の始まりです。 では、「回向院」の「山門」を潜ります。「回向院」の「正門」は、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです。「正門」の「扁額」と「寺号碑」に注目してください。扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「囬向院」と表記されています。 次が、「力塚の碑」が参道を進むと右手にあります。「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。 更に進むと「塩地蔵」があります。「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。 次に、「鳥居清長顕彰碑」です平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。「鳥居清長」は、江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。 更に進むと「鼠小僧次郎吉の墓」です。「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。その他の見どころである、「水子塚」、「千体地蔵尊」、「馬頭観世音菩薩像」、「オットセイ供養塔」、「猫塚」など多数ありますので、下記に取りまとめてありますから、ご覧いただければ幸いです。 01_【一口メモ】 ⑴ 所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国2丁目8-10 電話:03-3634-7776 ⑵ 回向院の概要 ①山号…諸宗山 ②院号…回向院 ③寺号…無縁寺 ④宗派…浄土宗 02_【アクセス】 1 電車を利用して ⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩4分290m ⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩10分700m 03_【「両国回向院」の見どころ】 ⑴ 「本尊阿弥陀如来」 「回向院」の御ご本尊は、宝永2年(1705年)に安置された銅の「阿弥陀如来座像」です。かつては、野外に置かれ、濡仏さまと呼ばれていました。「阿弥陀如来座像」は、「釜屋六右衛門」の作によるもので、現在は、東京都の有形文化財にも指定されています。「阿弥陀如来座像」は、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像で、数多くの無縁仏を見守ってきたその眼差しは慈愛に満ち溢れています。 ⑵ 「水子塚」 「回向院」の「水子塚」は、寛政5年(1793年)に老中「松平定信」の命によって造立されたもので、「水子供養の発祥」とされています。ちなみに、「水子塚」とは、陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するためものです。「水子塚」の板石には、地蔵菩薩坐像と他では見られないような「水子塚」という大きな文字が刻まれていました。 ⑶ 「塩地蔵」 劣化が激しく「塩地蔵」の建立年は不詳ですが、「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。「東都歳時記」所載の江戸東方48ヶ所地蔵尊参りには、その42番目として数えられています。現在、私の知る限りでは、「西新井大師」、「浄土宗常光山源覚寺(こんにゃく閻魔)」など都内10社寺で確認していますが、かつては48ヶ所にあったのですね。 ⑷ 「千体地蔵尊」 「千体地蔵尊」は、ご本尊の背面にあり、ご先祖の供養や家運や社運の隆昌・繁栄を祈願する人々によって奉安されたものです。関東大震災により焼失してしまった尊像で「増上寺」の「黒本尊」と同木といわれ、「恵心僧都」の作と伝えられた「備中千体阿弥陀如来像」をその由縁としております。後光のようにご本尊を守護するさまは必見です。 ⑸ 「力塚の碑と回向院相撲」 「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。ちなみに、日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集め(寺社建立の資金となる浄財を集めるなど)のための「勧進相撲」興行の形態をとっていました。貞享元年(1684年)、江戸での「勧進相撲」が許可されると相撲はさらに盛んになりました。その後、「勧進相撲」が「回向院」境内で初めて行われたのは明和5年(1768年)で、天保4年(1833年)以降は春秋2回の興行の定場所として江戸での「勧進相撲」を独占しました。そして、明治42年(1909年)の旧両国国技館が完成するまでの76年の間、「回向院相撲の時代」が続きました。「回向院」が定場所となり、回向院で行うことが定例となり、この「回向院」の定場所が今に続く、両国国技館の前身ということですね。そして、「力塚」の敷地内には、「角力記」、「東京相撲記者碑」という相撲の発展に寄与した相撲記者の慰霊碑も建てられています。 ⑹ 「馬頭観世音菩薩像」 「馬頭観音堂」は第4代将軍「徳川家綱」の愛馬の供養として創祀されました。また、「回向院」は動物供養でも知られ、犬、猫、オットセイ、小鳥などの塚や碑もあります。供養のために建てられた「馬頭観音堂」は、回向院二世信誉貞存上人が建立し、自らが鑿をとって彫刻した「馬頭観世音菩薩像」を安置しました。「馬頭観世音菩薩像」は、享保年間頃から「江戸三十三観音」でした。「回向院」の「馬頭観世音菩薩」に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めたそうです。現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所となっています。 ⑺ 「一言観音像」 「一言観音」は、奈良の「唐招提寺」の像と同じ木で彫られたもので「恵心僧都源信」作と伝えられています。 元禄16年(1703年)10月に回向院四世「観誉上人」の夢枕にこの観音様が現れ、他所へ遷すように告げられたため、「観誉上人」はこの聖観音像を墓所へ遷したところ、ちょうどその年11月に大地震及び火災により、寺院は倒壊・類焼してしまいました。この移転により聖観音像が倒壊を免れたことが知れ渡り信仰を集めるようになるとともに、その御前で一言願をかけると願い事が叶うと慕われ、いつしか一言観音と呼ばれるようになりました。 ⑻ 「鼠小僧次郎吉の墓」 「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。計90回の盗みの後、ようやく御用になり処刑されてしまいましたが、長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。 ⑼ 「関東大震災供養塔」 東京が一朝にして焼土と化した大正12年(1923年)の関東大震災において、当時の住職であった第21世「浄厳師」は、役僧を引き連れ焼野原を歩き、亡骸を見つけては巡回回向し、また被服廠跡や隅田堤で日夜読経念仏したと伝えられます。大正14年(1925年)に東京市は遺族に対して遺骨の引き取り方を公告しました。各区にわたる死者は分骨して「回向院」にも納骨されました。 ⑽ 「正門」 「回向院」は一般的な表記ですが、「正門」の扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「囬向院」と表記されています。令和元年(2019年)に、「正門」に「仁王像」が安置されました。「回向院」の「正門」は、かつては、現在の「両国2-8-10」あたりの位置にありました。残念ながら「回向院」の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです ⑾ 「鳥居清長顕彰碑」 「鳥居清長」は、鳥居派四代目として八頭身の美人画を確立したことで知られる浮世絵師です。江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。「鳥居清長」の墓碑は以前から「回向院」にあったとされていましたが、「関東大震災」や「東京大空襲」により所在不明となっていましたが、近年の調査で過去帳に名が記されていることが発見され、平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。 ⑿ 「オットセイ供養塔」 「オットセイ供養塔」は、大正15年(1938年)に建てられたオットセイのための供養塔です。漢字で書くと非常に難しく、「膃肭臍」と書いてオットセイと読みます。大正時代に「回向院」のなかにあった見世物小屋にいたオットセイを供養するために建てられたものです。これだけでも「回向院」の栄華が分かりますね。 ⒀ 「猫塚」 「歌川国芳」は、大の猫好きで知られる江戸後期の浮世絵師です。常に数匹、多い時には十数匹の猫を飼い、猫の戒名の書かれた位牌で飾られた猫用の仏壇を自宅に設けていたそうです。「歌川国芳」が生きていた時代にはすでに「回向院」の猫塚は存在し、「歌川国芳」は何匹もの愛猫の供養をお願いしていたそうです。「猫塚」が回向院に築かれることになったきっかけは、次の様な逸話からです。猫を大変かわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。このようなことにより「回向院」の猫塚が築かれたそうです。   閉じる

クチコミ・評判 17ページ目

321~340件(全462件中)

  • 動物の報恩話

    • 3.5
    • 旅行時期:2015/05(約11年前)
    • 0

    両国の回向院には、相撲に関係した力塚やねずみ小僧次郎吉の墓などのみどこがあります。 猫塚もあって、そのいわれが書かれた看板...  続きを読むもたっていました。 動物の報恩話でちいさい石塚があります。ゴールデンウィークだったので、下町めぐりをしている人がたくさん訪れていました。  閉じる

    投稿日:2015/06/09

  • 江戸後期の国学者、歌人

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/05(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いの回向院にある。参道の左奥に進むと、お墓と説明板がある。隣には他の説明板が数枚並んでいる。平日...  続きを読む午後、数人の方が境内を見ていたが、こちらを見ている人はいなかった。加藤千蔭は、江戸後期の国学者、歌人で、賀茂真淵に入門し、うけらが花、万葉集略解等を著した。特に加藤千蔭やこの界隈に関心や知識がある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/05/20

  • いろんな見所がある

    • 3.5
    • 旅行時期:2015/05(約11年前)
    • 0

    JR両国駅から国技館通りを歩いていくと、相撲関係の力塚や猫塚やねずみ小僧などで有名な回向院の山門がみえてきました。 山門の...  続きを読む付近には旧国技館跡のパネルがあり、ビルに囲まれた大きくはない境内ですが、みどころ多いです。 ゴールデンウィークだったので、参拝客が多く訪れていました。  閉じる

    投稿日:2015/05/19

  • 両国らしい石碑

    • 3.5
    • 旅行時期:2015/05(約11年前)
    • 0

    ゴールデンウィークに両国周辺を散策したとき、回向院に参拝しました。 ここには力塚があって、いかにも国技館のある両国らしいで...  続きを読むす。 石に刻まれた文字が力強くて印象にのこりました。 下町めぐりをしている観光客が多くて、この碑をバックに記念撮影をしている姿をよく見かけました。  閉じる

    投稿日:2015/05/19

  • お前立を削り取って行く

    • 2.0
    • 旅行時期:2015/04(約11年前)
    • 0

    「鼠小僧次郎吉」こと中村次良吉は、小塚原刑場で処刑された。刑場にあった回向院別院の本寺である両国回向院の境内に墓碑が建てら...  続きを読むれたが、それを持っているとご利益があると信じられたため激しく欠損したことから、欠け石専用のお前立とハンマーが設置された。  閉じる

    投稿日:2015/05/19

  • 江戸時代の有名な戯作者

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/03(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いの回向院の境内の左奥にこちらのお墓と説明板がある。平日午後、数人が境内を見学していたが、こちら...  続きを読むのお墓や説明板はあまり見ておらず周りは静かであった。岩瀬京伝は江戸時代の戯作者で、深川木場の質屋に生まれ若い頃浮世絵を北尾重政に学び、後に御存商売物や江戸生艶気樺焼等を著し有名になった。特に岩瀬京伝やこの界隈に関心や知識のある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/07/14

  • 6基の供養碑が立っている

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/03(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いの回向院にある。参道を進み左奥に入っていくと、こちらの供養碑と説明板がある。参拝者は数人いたが...  続きを読む、こちらを見ている人はいなかった。供養碑は、寛政元年(1789年)から明治28年(1895年)の6件の海難のものであり、説明板には図とともにわかりやすく解説されている。ほとんどが海難史関係資料に収録されてなく貴重なもののようである。特に海難事故やこの界隈に関心や知識がある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/05/12

  • 主人に恩返しした猫を供養

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/03(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いの回向院にある。境内のかなり左奥にこちらの小さな塚があり、その上には小さな屋根がある。また横に...  続きを読むは、江戸時代、病気で商売ができなくなった魚屋の主人のために、猫がどこからか二両のお金を持ってきて助けたという猫の恩返しを解説した、可愛い猫が描かれた立札がある。この猫塚はその猫の供養のために文化13年に建てられた。特にこの物語やこの界隈に関心や知識がある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/04/28

  • 小判のような大きなお墓

    • 3.5
    • 旅行時期:2015/03(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いの回向院にある。境内を入っていくと、左側の一番奥のほうにこちらのお墓がある。お墓は比較的大きく...  続きを読む角が丸まった長方形の小判のような形状である。平日午後だったが、4、5人がこちらのお墓を見ていた。鼠小僧は江戸時代後期に実在した盗賊で、貧しい庶民の家には押し入らなかったことから義賊として歌舞伎や小説で何度も取り上げれている。特に鼠小僧やこの界隈に関心や知識がある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/04/13

  • くっきり大きく刻まれている力塚

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/03(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いの回向院にある。境内を入っていくと、左側にこちらの石碑群と説明板がある。平日午後だったが、4、...  続きを読む5人がこちらの石碑を見ていた。石碑は、力塚と刻まれた大きな石碑を中心に5基があり、大正5年から昭和38年にかけて相撲記者や歴代相撲・年寄の慰霊のために建てられた。特に相撲やこの界隈に関心や知識がある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/04/09

  • 相撲興行の中心

    • 3.5
    • 旅行時期:2015/03(約11年前)
    • 0

    両国の駅から、国技館とは反対に歩いて行くとあります。ここの境内では、およそ250年前に資金集めのための勧進相撲興行が行われ...  続きを読むていました。現在も相撲との繋がりが深く、歴代相撲年寄の慰霊の為に建てられた「力塚」では新弟子が祈願するそうです。  閉じる

    投稿日:2015/03/25

  • 高さ3mほどの供養塔

    • 3.5
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いの回向院にある。境内の左奥に、高さ3mほどで上に女性の小さな像がたっているこちらの供養塔がある...  続きを読む。数人が供養塔を見ていた。明暦3年の江戸市中の繁華街を焼いた明暦の大火による焼死者や溺死者を供養するために、延宝3年に建立された。特に江戸時代やこの界隈に関心や知識がある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/04/18

  • 鼠小僧のお墓のある浄土宗のお寺

    • 3.5
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    JR両国駅の南、京葉道路沿いにある浄土宗のお寺。歩道の横に丸い形状の屋根のある山門が立っている。参道を歩いていくと正面にR...  続きを読むC造の本堂が立っている。境内は比較的広く、明暦大火横死者供養塔や力塚、鼠小僧のお墓等があり、木々も立っている。平日午後だったが、かなりの人が参拝に来ていた。回向院は、1657年の振袖火事の死者を埋葬し供養したのが起源で、出開帳や勧進相撲が行われ、また江戸三十三観音霊場4番札所となっていて多くの人々から敬拝されている。特に浄土宗や江戸三十三観音霊場に関心や知識がある方には、訪問することをお勧めする。  閉じる

    投稿日:2015/02/26

  • 江戸時代の読み物作家の墓は回向院の中に。

    • 2.5
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    江戸時代の戯作者で弟は京山。
    戯作というのは江戸時代に発達した俗文学を言う、と広辞苑に出ている。
    一般大衆の読み物と解...  続きを読む釈すればいいのだろう。

    京伝、京山兄弟は墓は都の指定になっているくらいだから、有名作家だったのだろう。

    墓の場所は両国駅から5~6分の回向院の中にある。

    両国街歩きマップを見ると、回向院の中にはたくさんの謂われのある物、著名な人のお墓、像などがあるので、立ち寄る時は多めに時間を取っていくといいですね。  閉じる

    投稿日:2015/02/25

  • 江戸時代の戯作者の墓は兄弟で隣り合う。

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    両国にある回向院の境内。
    その中にはいろいろな謂われのある像や、墓、跡地である印の案内板が立っていた。

    この「岩瀬...  続きを読む京山」は江戸時代の戯作者。
    東京都の指定旧跡になっていて兄の京伝のはかも同じ場所にある。
    兄の墓はこの京山が建てたのだそう。

    特に関心のある人だったわけではないが、散策の時に目についたので、案内板を読んでみた。散策は学びの場でもある。

      閉じる

    投稿日:2015/02/25

  • 江戸時代の歌人の墓は回向院の中に。

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    東京都の史跡旧跡指定として回向院内に案内板が立っていた。
    それによると江戸時代中期の国学者で歌人。

    父親は与力とし...  続きを読むて八丁堀住まいだったというから、当然彼も八丁堀住まいだったということだろう。親の後を継いだが、後に病気で辞職したので、勉学に励み、多くの書物を著した。
    75歳で没したというから当時としては長命で、それ故、良い仕事がたくさんできたのだろう。

    回向院には多くの史跡などがあるので、よく見ているとあっという間に時がたつ。


      閉じる

    投稿日:2015/02/21

  • 紀州白子浜の遭難者が多い

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    回向院境内左手、鼠小僧の墓近くに6基の海難供養碑がある。
    江戸時代から、明治中ごろにかけての海難、水難死亡者を供養するも...  続きを読むのだ。
    勢州白子参州平坂溺死者、紀州本□徳福丸富茂船溺死者、勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養など、和歌山県白子からの遭難者が多い。
      閉じる

    投稿日:2015/02/17

  • 悲惨な事実の証。

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    回向院にはいろいろな歴史を物語るものがあります。
    特に、この明暦の大火は、そもそもこの回向院を立てる基になった大きな出来...  続きを読む事。

    明暦3年(1657年)に起きた江戸時代で最大の火事は江戸の大半を焼失させたとのことですからどんなに悲惨だったことか、想像もつかないことです。

    その死者も今のように正確な人数把握ができないころなので、3万人とも10万とも言われているようです。

    その人たちの供養のため、回向院は建てられたそうです。
    時代小説を見読むと良く火事の場面が出てきますが、本当一番怖い物だったのでしょう。






      閉じる

    投稿日:2015/02/17

  • 戯作の第一人者、山東京伝が眠る

    • 3.0
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    江戸時代後期の浮世絵師、戯作者、山東京伝(1761-1816)の墓。
    本山東京伝の本名は、岩瀬醒(いわせ さむる)。
    ...  続きを読む弟の岩瀬京山の墓も並んでいる。
    京伝の作品は、風刺画強烈だったため、寛政の改革を強行した松平定信の怒りを買い、手鎖の処罰を受けるなど、弾圧の対象となった。
      閉じる

    投稿日:2015/02/16

  • 山東京伝の弟

    • 2.0
    • 旅行時期:2015/02(約11年前)
    • 0

    回向院の参道奥、左手の墓石群の一つ。
    東京都指定の旧跡となっている。
    岩瀬京山は、江戸時代の戯作者、山東京伝の弟。
    ...  続きを読むあまり名を知られていないが、本人も戯作者。
    兄京伝の墓と並んでいるが、兄の墓を建てたのは京山。  閉じる

    投稿日:2015/02/16

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基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
回向院
住所
  • 東京都墨田区両国2-8-10
電話番号
03-3634-7776
アクセス
JR総武線両国駅 徒歩 5分
その他
創建年代 江戸
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 寺・神社・教会

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

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