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「比叡山」と言えば条件反射的に「延暦寺」と応えてしまうのですが、比叡山の中でも横川エリアは「比叡山の秘境」と称されています。ホトトギスやクロツグミなどの野鳥の宝庫であり、珍しい植物を随所で観察することができる自然と触れ合えるスポットでもあります。慈円が「おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖」と詠んだように、「墨染の袖」は比叡山が自然豊かな山だったことを表しています。また、比叡山の自然が育んだ「山川草木国土悉有仏性(=自然界の全ての存在は仏性そのもである)」の天台本覚の思想は、琵琶湖を守る思想の根源でもありました。<br />後編では、横川エリアの秘境ともいえる、「比叡山4魔所」のひとつで深山の鬼門中の鬼門にひっそりと佇む「元三大師御廟」や日蓮上人修行の場「定光院」を中心にレポいたします。 <br />http://www.hieizan.or.jp/<br />比叡山マップです。<br />http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

九夏三伏 比叡山彷徨⑧延暦寺 横川エリア(後編 エピローグ)

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2017/07/28 - 2017/07/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

「比叡山」と言えば条件反射的に「延暦寺」と応えてしまうのですが、比叡山の中でも横川エリアは「比叡山の秘境」と称されています。ホトトギスやクロツグミなどの野鳥の宝庫であり、珍しい植物を随所で観察することができる自然と触れ合えるスポットでもあります。慈円が「おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖」と詠んだように、「墨染の袖」は比叡山が自然豊かな山だったことを表しています。また、比叡山の自然が育んだ「山川草木国土悉有仏性(=自然界の全ての存在は仏性そのもである)」の天台本覚の思想は、琵琶湖を守る思想の根源でもありました。
後編では、横川エリアの秘境ともいえる、「比叡山4魔所」のひとつで深山の鬼門中の鬼門にひっそりと佇む「元三大師御廟」や日蓮上人修行の場「定光院」を中心にレポいたします。
http://www.hieizan.or.jp/
比叡山マップです。
http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 横川エリアのマップです。<br />「旅行の概要」にあるマップと併用すれば判り易いと思います。<br />現在地は、四季講堂の山門を右手の道に沿って進み、比叡山行院の前にいます。<br />ここから、まず元三大師御廟へ向かい、その後、一旦分岐点まで戻って定光院へ向かいます。

    横川エリアのマップです。
    「旅行の概要」にあるマップと併用すれば判り易いと思います。
    現在地は、四季講堂の山門を右手の道に沿って進み、比叡山行院の前にいます。
    ここから、まず元三大師御廟へ向かい、その後、一旦分岐点まで戻って定光院へ向かいます。

  • 比叡山 横川エリア 比叡山行院<br />比叡山行院は天台宗僧侶の養成所であり、瀬戸内寂聴さんもここで修行されました。<br />寂聴さんと言えば、昨年、日弁連が開いた死刑制度に関するシンポジウムへのビデオメッセージで、死刑制度を批判して「殺したがるバカどもと戦ってください」と発言して物議を醸しました。僧侶の境地から見れば、「人が人の罪を裁くことは難しい」は正論かもしれませんが、苦悩する被害者の遺族にとっては気持ちを踏みにじる言葉でしかなかったことでしょう。人が人を殺めることに対する思いや「死」については我々とは異なる死生観を持たれていたことを認め、不適切な発言であったことを謝罪されています。<br />死刑制度には賛否両論ありますが、殺人に対する抑止効果はあると思います。また、被害者の遺族あるいは加害者の親族にとっては、死刑執行こそがつきまとう一生の苦難の一区切りだと吐露される方もあるようです。<br />一方、殺人などを犯した者が釈放後、人を殺める事件も少なくありません。これは裁判が甘かったことが要因で、本来起こるはずのないことが起こったことは責任重大です。これについては、裁判長の裁決能力だけでなく裁決責任が問われてもおかしくありません。また、被告の弁護人にも本質を見抜けなかった過失責任はあるはずです。再犯を犯した場合は、その裁判長や弁護士名を公表し、社会的制裁を与えることも視野に入れれば、より適切な裁きが期待できるのでないでしょうか?

    比叡山 横川エリア 比叡山行院
    比叡山行院は天台宗僧侶の養成所であり、瀬戸内寂聴さんもここで修行されました。
    寂聴さんと言えば、昨年、日弁連が開いた死刑制度に関するシンポジウムへのビデオメッセージで、死刑制度を批判して「殺したがるバカどもと戦ってください」と発言して物議を醸しました。僧侶の境地から見れば、「人が人の罪を裁くことは難しい」は正論かもしれませんが、苦悩する被害者の遺族にとっては気持ちを踏みにじる言葉でしかなかったことでしょう。人が人を殺めることに対する思いや「死」については我々とは異なる死生観を持たれていたことを認め、不適切な発言であったことを謝罪されています。
    死刑制度には賛否両論ありますが、殺人に対する抑止効果はあると思います。また、被害者の遺族あるいは加害者の親族にとっては、死刑執行こそがつきまとう一生の苦難の一区切りだと吐露される方もあるようです。
    一方、殺人などを犯した者が釈放後、人を殺める事件も少なくありません。これは裁判が甘かったことが要因で、本来起こるはずのないことが起こったことは責任重大です。これについては、裁判長の裁決能力だけでなく裁決責任が問われてもおかしくありません。また、被告の弁護人にも本質を見抜けなかった過失責任はあるはずです。再犯を犯した場合は、その裁判長や弁護士名を公表し、社会的制裁を与えることも視野に入れれば、より適切な裁きが期待できるのでないでしょうか?

  • 比叡山 横川エリア 弥勒石仏と石仏<br />比叡山行院の少し先にある、元三大師廟と定光院との分岐点(T字路)に佇みます。<br />中央にある一番大きな石仏が弥勒石仏です。現在は、他の石仏もここに寄せられているようです。かつては道祖神のような役割を果たしていたのかもしれません。

    比叡山 横川エリア 弥勒石仏と石仏
    比叡山行院の少し先にある、元三大師廟と定光院との分岐点(T字路)に佇みます。
    中央にある一番大きな石仏が弥勒石仏です。現在は、他の石仏もここに寄せられているようです。かつては道祖神のような役割を果たしていたのかもしれません。

  • 比叡山 横川エリア 弥勒石仏と石仏<br />怖ろしい顔をした生き物が魔物を封じ、石仏たちを守っています。

    比叡山 横川エリア 弥勒石仏と石仏
    怖ろしい顔をした生き物が魔物を封じ、石仏たちを守っています。

  • 比叡山 横川エリア <br />まずは、元三大師御廟へ向かいます。<br />分岐点から300m、4分程の距離です。<br />この道はアップダウンがなく歩き易いので助かります。ただし、右側は崖です。<br />元三大師御廟へは龍が池から真っ直ぐ伸びる道もありますが、アップダウンがあり、あまりお勧めしません。

    比叡山 横川エリア
    まずは、元三大師御廟へ向かいます。
    分岐点から300m、4分程の距離です。
    この道はアップダウンがなく歩き易いので助かります。ただし、右側は崖です。
    元三大師御廟へは龍が池から真っ直ぐ伸びる道もありますが、アップダウンがあり、あまりお勧めしません。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟(みみょう)<br />延暦寺は京都の鬼門に配されました。また、横川は延暦寺山内の鬼門に当たります。更に、元三大師御廟はその横川の中でも鬼門に位置する「究極の鬼門」に佇みます。<br />御廟は香芳尾(かぼうお)と呼ばれる横川最北地に佇み、西からの龍馬場(たつがばんば)と東からの猿馬場(さるがばんば)と呼ばれる2つの参道が通じています。猿馬場の名は、かつて拝殿修復の際、日吉山王の使いである猿の大群がこの参道を使い、用材を運ぶのを手伝ったとの伝承に因みます。<br />また、御廟は、遺言「御遺告」に則り、正式には「横川式廟墓」と呼ばれています。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟(みみょう)
    延暦寺は京都の鬼門に配されました。また、横川は延暦寺山内の鬼門に当たります。更に、元三大師御廟はその横川の中でも鬼門に位置する「究極の鬼門」に佇みます。
    御廟は香芳尾(かぼうお)と呼ばれる横川最北地に佇み、西からの龍馬場(たつがばんば)と東からの猿馬場(さるがばんば)と呼ばれる2つの参道が通じています。猿馬場の名は、かつて拝殿修復の際、日吉山王の使いである猿の大群がこの参道を使い、用材を運ぶのを手伝ったとの伝承に因みます。
    また、御廟は、遺言「御遺告」に則り、正式には「横川式廟墓」と呼ばれています。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />ここは、元三大師 良源が今も生きて修行しながら大衆に利益をもたらすとされており、空海の高野山「奥の院 御廟」と同様の存在です。そして冷気漂う静謐な空間には、伝教大師廟所にもなかった鳥居が建てられているのも奇妙です。元三大師は、比叡山を絶頂期に導いたカリスマ的霊能者として別名「降魔大師」とも呼ばれていました。この地は万人を寄せ付けない何かを秘める反面、何も感じない人には何の変哲もない場所なのかもしれません。<br />司馬遼太郎著『街道をゆく 16 叡山の諸道』や梅原猛著『横川の光 比叡山物語』を読むと、元三大師の偉大さを改めて痛感させられます。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    ここは、元三大師 良源が今も生きて修行しながら大衆に利益をもたらすとされており、空海の高野山「奥の院 御廟」と同様の存在です。そして冷気漂う静謐な空間には、伝教大師廟所にもなかった鳥居が建てられているのも奇妙です。元三大師は、比叡山を絶頂期に導いたカリスマ的霊能者として別名「降魔大師」とも呼ばれていました。この地は万人を寄せ付けない何かを秘める反面、何も感じない人には何の変哲もない場所なのかもしれません。
    司馬遼太郎著『街道をゆく 16 叡山の諸道』や梅原猛著『横川の光 比叡山物語』を読むと、元三大師の偉大さを改めて痛感させられます。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />伝教大師廟所と構成が同じとすれば、この建物が拝殿になります。<br />桁行4間、1間の向拝をやや右寄りに設け、寄せ棟の窓を持たない簡素な堂宇です。<br />

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    伝教大師廟所と構成が同じとすれば、この建物が拝殿になります。
    桁行4間、1間の向拝をやや右寄りに設け、寄せ棟の窓を持たない簡素な堂宇です。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />拝殿の右脇から裏手へ通り抜けます。<br />御廟の周囲は、このように塵ひとつないほどに掃き清められています。<br />また、箒で砂紋のようなV字を描いています。<br />元三大師も、今でも生きているかのようにお世話をされていると言う証左と言えます。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    拝殿の右脇から裏手へ通り抜けます。
    御廟の周囲は、このように塵ひとつないほどに掃き清められています。
    また、箒で砂紋のようなV字を描いています。
    元三大師も、今でも生きているかのようにお世話をされていると言う証左と言えます。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />その先には、小さな祠のようなものがあり、そこにお供えがされています。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    その先には、小さな祠のようなものがあり、そこにお供えがされています。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />拝殿の裏手にあるのが、墓所です。<br />ここにも石造りの少し小振りな鳥居が建てられ、禍々しい空気感が一気に昂ります。<br />また、墓所を守るようかのに聳える鬱蒼としたブナの巨木が雰囲気たっぷりで、怖いほどです!

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    拝殿の裏手にあるのが、墓所です。
    ここにも石造りの少し小振りな鳥居が建てられ、禍々しい空気感が一気に昂ります。
    また、墓所を守るようかのに聳える鬱蒼としたブナの巨木が雰囲気たっぷりで、怖いほどです!

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />鳥居の先には、石燈籠が整然と立ち並び、墓所へと誘います。<br />天台宗では、元三大師と慈眼大師をペアにして「両大師」と呼びます。慈眼大師とは天海大僧正のことで、天海は元三大師を最も尊敬していたと伝えられています。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    鳥居の先には、石燈籠が整然と立ち並び、墓所へと誘います。
    天台宗では、元三大師と慈眼大師をペアにして「両大師」と呼びます。慈眼大師とは天海大僧正のことで、天海は元三大師を最も尊敬していたと伝えられています。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />玉垣の隙間からそっと覗くと、先ほどまでの掃き清められていた聖地とは裏腹に、雑草が伸び放題の荒廃した墓所に愕然とします。<br />これには理由があります。元三大師は、息を引き取る寸前に弟子たちを枕元に呼び寄せ、「私の亡骸は比叡山の鬼門の方角に捨て置き、決して掃除はするな。私は魔王となって未来永劫に比叡山を護ろう」と言い遺したのです。その遺言が今でも忠実に守られているのです。<br />足繁く参拝者が訪れる場所ではないにも拘わらず端正に掃き清められた御廟の周囲と、雑草の生い茂るに任せた墓所とのギャップは、ある意味ショッキングでさえもあります。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    玉垣の隙間からそっと覗くと、先ほどまでの掃き清められていた聖地とは裏腹に、雑草が伸び放題の荒廃した墓所に愕然とします。
    これには理由があります。元三大師は、息を引き取る寸前に弟子たちを枕元に呼び寄せ、「私の亡骸は比叡山の鬼門の方角に捨て置き、決して掃除はするな。私は魔王となって未来永劫に比叡山を護ろう」と言い遺したのです。その遺言が今でも忠実に守られているのです。
    足繁く参拝者が訪れる場所ではないにも拘わらず端正に掃き清められた御廟の周囲と、雑草の生い茂るに任せた墓所とのギャップは、ある意味ショッキングでさえもあります。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />弟子たちは大師の遺言通りに遺体を葬り、石柱に笠の形をした石を載せ、このようなエノキタケを彷彿とさせる墓石のみを建てました。笠塔婆の墓石と思われますが、塔身は八角形多面石幢です。<br />どのような意味があるのか不明ですが、笠の中央には小さな窪みが設けられています。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    弟子たちは大師の遺言通りに遺体を葬り、石柱に笠の形をした石を載せ、このようなエノキタケを彷彿とさせる墓石のみを建てました。笠塔婆の墓石と思われますが、塔身は八角形多面石幢です。
    どのような意味があるのか不明ですが、笠の中央には小さな窪みが設けられています。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />もうひとつの「比叡山4魔所」、「天梯権現祠(てんだいごんげんほこら)」を紹介しておきましょう。<br />本坂の途中にある亀堂の裏手の小高い丘には、天狗が住むと伝わる小さな祠があります。天狗は修行者たちの邪魔をする魔物であり、この丘に聳える杉の大木の上に立ち、比叡山と中国の天台山との間を行き来していたそうです。実際、この祠に祀られている神は、「天梯」つまり「天への梯子」という意味の名を持っています。<br />硲慈弘著『伝説の比叡山』には、次のように記されています。<br />かつてこの地には本殿や拝殿を持つ社殿があった。しかし信長の焼討ちに遭い、その後は小祠が建てられただけである。それが現在の祠である。そしてその社殿があった当時からこの地は魔所として畏敬の念をもって崇められ、この小山の枝一本、小石一個も持ち出すことを禁じられていた。坂本から根本中堂へ抜ける山道「本坂」はその名の通り、比叡山の表参道であった。だが、京都から見ればこの幹線道は鬼門を貫いている。だから「魔を以て魔を制す」ものをここに配したのだと推測する。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    もうひとつの「比叡山4魔所」、「天梯権現祠(てんだいごんげんほこら)」を紹介しておきましょう。
    本坂の途中にある亀堂の裏手の小高い丘には、天狗が住むと伝わる小さな祠があります。天狗は修行者たちの邪魔をする魔物であり、この丘に聳える杉の大木の上に立ち、比叡山と中国の天台山との間を行き来していたそうです。実際、この祠に祀られている神は、「天梯」つまり「天への梯子」という意味の名を持っています。
    硲慈弘著『伝説の比叡山』には、次のように記されています。
    かつてこの地には本殿や拝殿を持つ社殿があった。しかし信長の焼討ちに遭い、その後は小祠が建てられただけである。それが現在の祠である。そしてその社殿があった当時からこの地は魔所として畏敬の念をもって崇められ、この小山の枝一本、小石一個も持ち出すことを禁じられていた。坂本から根本中堂へ抜ける山道「本坂」はその名の通り、比叡山の表参道であった。だが、京都から見ればこの幹線道は鬼門を貫いている。だから「魔を以て魔を制す」ものをここに配したのだと推測する。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />墓所側から拝殿を臨んだ様子です。<br />元三大師の墓所は、開祖伝教大師 最澄の墓所と区別するために御廟(みみょう)と呼んでいます。御廟という言葉に拘る理由は、その立地にあります。この御廟のある場所が極めて重要な意味を持つからです。<br />元三大師の墓所の奥は切り立った断崖になっており、その先には何もありません。しかも比叡山の最果ての地であり、京都の鬼門中の鬼門に当たり、魑魅魍魎を封じる最前線ともいうべき場所なのです。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    墓所側から拝殿を臨んだ様子です。
    元三大師の墓所は、開祖伝教大師 最澄の墓所と区別するために御廟(みみょう)と呼んでいます。御廟という言葉に拘る理由は、その立地にあります。この御廟のある場所が極めて重要な意味を持つからです。
    元三大師の墓所の奥は切り立った断崖になっており、その先には何もありません。しかも比叡山の最果ての地であり、京都の鬼門中の鬼門に当たり、魑魅魍魎を封じる最前線ともいうべき場所なのです。

  • 比叡山 横川エリア 元三大師御廟<br />「比叡山4大魔所」の最後は、横川の飯室谷の端にある「慈忍和尚(尋禅)廟」です。<br />そこは元三大師の直弟子で第19代天台座主にまで昇り詰めた慈忍和尚の霊廟です。真面目な人でしたが魔道を犯してしまい「一眼一足」という妖怪の姿になり、今でも修行者たちが怠慢しないように夜な夜な鐘を鳴らしながら山中を徘徊しているそうです。<br />寺によると、霊廟に妄りに立ち入られることを防ぐ意味もあり、特に明治時代以降、一つ目子僧のような怪異譚が流布されるようになったそうです。魔所と言えば訝しいものの、延暦寺の僧たちにとっては聖地に他なりません。

    比叡山 横川エリア 元三大師御廟
    「比叡山4大魔所」の最後は、横川の飯室谷の端にある「慈忍和尚(尋禅)廟」です。
    そこは元三大師の直弟子で第19代天台座主にまで昇り詰めた慈忍和尚の霊廟です。真面目な人でしたが魔道を犯してしまい「一眼一足」という妖怪の姿になり、今でも修行者たちが怠慢しないように夜な夜な鐘を鳴らしながら山中を徘徊しているそうです。
    寺によると、霊廟に妄りに立ち入られることを防ぐ意味もあり、特に明治時代以降、一つ目子僧のような怪異譚が流布されるようになったそうです。魔所と言えば訝しいものの、延暦寺の僧たちにとっては聖地に他なりません。

  • 比叡山 横川エリア <br />元三大師御廟を後にして、弥勒石仏のある分岐点まで戻ります。<br />分岐を左側(北東方向)へ進むと、すぐにこうした下り坂に差し掛かります。この坂を延々と下った先に「定光院」が佇みます。<br />最初は多少緩めの下り坂ですが、徐々に急勾配になります。

    比叡山 横川エリア
    元三大師御廟を後にして、弥勒石仏のある分岐点まで戻ります。
    分岐を左側(北東方向)へ進むと、すぐにこうした下り坂に差し掛かります。この坂を延々と下った先に「定光院」が佇みます。
    最初は多少緩めの下り坂ですが、徐々に急勾配になります。

  • 比叡山 横川エリア <br />あと100mという標識に折れそうになる心をぐっとこらえて前に進むと、最後はこうした九十九折の急坂が現れます。<br />これも参拝する者の苦行のうちなのでしょうか?<br />弥勒石仏のある分岐点から、往・復ともに10分程ですが、どちらかと言えば登りの方が楽な気がしました。ここを降りられるのであれば、履物に留意ください。

    比叡山 横川エリア
    あと100mという標識に折れそうになる心をぐっとこらえて前に進むと、最後はこうした九十九折の急坂が現れます。
    これも参拝する者の苦行のうちなのでしょうか?
    弥勒石仏のある分岐点から、往・復ともに10分程ですが、どちらかと言えば登りの方が楽な気がしました。ここを降りられるのであれば、履物に留意ください。

  • 比叡山 横川エリア 定光院<br />坂を下り終えると左手に山門が迎えてくれます。<br />横川エリア北端の「華芳谷(かほうだに)」に位置し、かつては華芳谷横川定光院と呼ばれていました。<br />1243(寛元元)~1254(建長6)年まで、若き学僧蓮長こと立正大師 日蓮聖人が20~32歳までの12年間、この地を住坊として諸宗遊学の拠点とした聖地です。晩年の身延での生活が9年であり、生涯で最も長く留まった場所とされます。<br />2005年に日蓮宗立教開宗750年慶讃事業の一環として本堂や庫裡、山門が再建されています。天台宗の延暦寺の中にあって日蓮宗の寺院です。日蓮宗宗門史跡や日蓮宗比叡山研修道場があり、「法華発祥の霊蹟」とされています。

    比叡山 横川エリア 定光院
    坂を下り終えると左手に山門が迎えてくれます。
    横川エリア北端の「華芳谷(かほうだに)」に位置し、かつては華芳谷横川定光院と呼ばれていました。
    1243(寛元元)~1254(建長6)年まで、若き学僧蓮長こと立正大師 日蓮聖人が20~32歳までの12年間、この地を住坊として諸宗遊学の拠点とした聖地です。晩年の身延での生活が9年であり、生涯で最も長く留まった場所とされます。
    2005年に日蓮宗立教開宗750年慶讃事業の一環として本堂や庫裡、山門が再建されています。天台宗の延暦寺の中にあって日蓮宗の寺院です。日蓮宗宗門史跡や日蓮宗比叡山研修道場があり、「法華発祥の霊蹟」とされています。

  • 比叡山 横川エリア 定光院<br />池の対岸にあるのは、日蓮聖人が修業中に使ったとされる苔生した手水鉢です。<br />

    比叡山 横川エリア 定光院
    池の対岸にあるのは、日蓮聖人が修業中に使ったとされる苔生した手水鉢です。

  • 比叡山 横川エリア 定光院<br />手水鉢に浮かんでいるのは、何と「スイカ!」です。<br />暑いですからね!!お勤めの後の冷たいご褒美と言うことでしょう。<br />まさか閉門30分前に参拝者が来るとは想定外だったことでしょう。<br />きっと日蓮も頬を弛めていることでしょう。

    比叡山 横川エリア 定光院
    手水鉢に浮かんでいるのは、何と「スイカ!」です。
    暑いですからね!!お勤めの後の冷たいご褒美と言うことでしょう。
    まさか閉門30分前に参拝者が来るとは想定外だったことでしょう。
    きっと日蓮も頬を弛めていることでしょう。

  • 比叡山 横川エリア 定光院<br />この定光院が歴史の舞台に初めて登場するのは、元三大師が四季講堂で法華経の講義を行った時の修行僧の坊舎としてです。<br />本堂には、日蓮聖人、三十番神(三十番神の一人の赤山大明神)、今井惠晃上人が祀られています。三十番神像は、有名な仏師 松久朋琳氏の制作になります。因みに今井上人は、京呉服の老舗今井ブランド の先祖だそうです。<br />ここに赤山大明神が祀られているのは、横川を開拓した円仁に因むのかもしれません。

    比叡山 横川エリア 定光院
    この定光院が歴史の舞台に初めて登場するのは、元三大師が四季講堂で法華経の講義を行った時の修行僧の坊舎としてです。
    本堂には、日蓮聖人、三十番神(三十番神の一人の赤山大明神)、今井惠晃上人が祀られています。三十番神像は、有名な仏師 松久朋琳氏の制作になります。因みに今井上人は、京呉服の老舗今井ブランド の先祖だそうです。
    ここに赤山大明神が祀られているのは、横川を開拓した円仁に因むのかもしれません。

  • 比叡山 横川エリア 定光院<br />ひと月30日間、毎日交替で国家と民衆を守る国内の三十柱の神々を三十番神と言います。その信仰は、神仏習合思想の起こった平安時代中期には既に存在したそうです。日蓮宗では三十番神信仰を法華神道と呼び、修法(祈祷)の本尊、守護神として大事にしてきました。<br />その縁起は、日蓮聖人が比叡山遊学中、横川 定光院に三十番神が姿を現わし、法華経とその行者を守護すると誓ったことに始まります。信仰が広まっていったのは、京都に開教した日蓮の孫弟子 日像上人の時代です。その後、「立正安国論」の神天上思想に基づく信仰として盛んになり、加藤清正の信仰により更に西日本を中心に広まりました。清正は、「南無妙法蓮華経」の記された旗印を用い、京都の本圀寺に三十番神堂を寄進したとされています。

    比叡山 横川エリア 定光院
    ひと月30日間、毎日交替で国家と民衆を守る国内の三十柱の神々を三十番神と言います。その信仰は、神仏習合思想の起こった平安時代中期には既に存在したそうです。日蓮宗では三十番神信仰を法華神道と呼び、修法(祈祷)の本尊、守護神として大事にしてきました。
    その縁起は、日蓮聖人が比叡山遊学中、横川 定光院に三十番神が姿を現わし、法華経とその行者を守護すると誓ったことに始まります。信仰が広まっていったのは、京都に開教した日蓮の孫弟子 日像上人の時代です。その後、「立正安国論」の神天上思想に基づく信仰として盛んになり、加藤清正の信仰により更に西日本を中心に広まりました。清正は、「南無妙法蓮華経」の記された旗印を用い、京都の本圀寺に三十番神堂を寄進したとされています。

  • 比叡山 横川エリア 定光院 日蓮聖人像 <br />1925(大正14)年に、檀信徒が生誕700年を記念して建立した像です。<br />日蓮は、安房の名もなき漁家の出生とされます。後に地方豪族 貫名氏の出自と改められるも、詳細は不明です。日蓮の一生はストイックな上昇志向と自己主張に一貫しており、それと出自は無関係とは思えませんが…。<br />日蓮は10歳の時、北条氏が庇護していた地元の天台宗寺院清澄寺で出家しました。その4年後、比叡山に入り定光院で修業を積みますが、やがて延暦寺と対立する園城寺(三井寺)に入り、更には高野山や興福寺にも学びました。こうしたことから、貴族出身僧が学生の身分ながら修行もせずにはびこり、また朝廷に強訴する僧兵が跋扈するという往時の天台宗の姿に疑問を抱き、深く仏教を探索していたことが窺えます。<br />31歳の時、故郷の清澄寺に戻り、そこで天台宗の伝法灌頂を授かっています。しかし、その年、日の出に向かって「南無妙法蓮華経」を唱え、日蓮宗を立宗するに至り、法号を「蓮長」から「日蓮」に改めました。<br />日蓮は、初めは庶民や貴族に信仰された浄土宗を攻撃しましたが、次第に禅宗や奈良仏教系の真言律宗へもエスカレートしていきました。このため、拠点が何度も焼討ちに遭い、幕府からも弾圧されました。鎌倉の仏教界全体を敵に回した日蓮は、源頼綱によって捕縛され、鎌倉郊外の腰越竜ノ口で処刑される運びとなりました。まさに処刑の寸前、月の如く光るものが夜空を通過したために処刑人が逃げ出して死刑を免れたとされ、これを「竜ノ口の法難」と言います。こうして奇跡的に処刑を免れて佐渡に流刑されますが、やがて赦免され鎌倉に戻りました。<br />頼綱は日蓮を呼び寄せ「蒙古は来襲」を占わせ、日蓮は来襲を予言しました。蒙古はその6年後に襲来し、予言を的中させた日蓮の評価は一変、久遠寺で再度の元寇に備えて国土安穏を祈りました。すると再度蒙古襲来が起こるも、台風の襲来により撃退できました。この時も日蓮の法力が奏功したと讃えられました。<br />翌年、久遠寺を降りて南部常長の所領へと向かう途中、武蔵国の池上宗仲の邸での逗留中に持病が重くなり、入滅。享年60歳。日蓮入滅の地は、池上本門寺とされています。

    比叡山 横川エリア 定光院 日蓮聖人像 
    1925(大正14)年に、檀信徒が生誕700年を記念して建立した像です。
    日蓮は、安房の名もなき漁家の出生とされます。後に地方豪族 貫名氏の出自と改められるも、詳細は不明です。日蓮の一生はストイックな上昇志向と自己主張に一貫しており、それと出自は無関係とは思えませんが…。
    日蓮は10歳の時、北条氏が庇護していた地元の天台宗寺院清澄寺で出家しました。その4年後、比叡山に入り定光院で修業を積みますが、やがて延暦寺と対立する園城寺(三井寺)に入り、更には高野山や興福寺にも学びました。こうしたことから、貴族出身僧が学生の身分ながら修行もせずにはびこり、また朝廷に強訴する僧兵が跋扈するという往時の天台宗の姿に疑問を抱き、深く仏教を探索していたことが窺えます。
    31歳の時、故郷の清澄寺に戻り、そこで天台宗の伝法灌頂を授かっています。しかし、その年、日の出に向かって「南無妙法蓮華経」を唱え、日蓮宗を立宗するに至り、法号を「蓮長」から「日蓮」に改めました。
    日蓮は、初めは庶民や貴族に信仰された浄土宗を攻撃しましたが、次第に禅宗や奈良仏教系の真言律宗へもエスカレートしていきました。このため、拠点が何度も焼討ちに遭い、幕府からも弾圧されました。鎌倉の仏教界全体を敵に回した日蓮は、源頼綱によって捕縛され、鎌倉郊外の腰越竜ノ口で処刑される運びとなりました。まさに処刑の寸前、月の如く光るものが夜空を通過したために処刑人が逃げ出して死刑を免れたとされ、これを「竜ノ口の法難」と言います。こうして奇跡的に処刑を免れて佐渡に流刑されますが、やがて赦免され鎌倉に戻りました。
    頼綱は日蓮を呼び寄せ「蒙古は来襲」を占わせ、日蓮は来襲を予言しました。蒙古はその6年後に襲来し、予言を的中させた日蓮の評価は一変、久遠寺で再度の元寇に備えて国土安穏を祈りました。すると再度蒙古襲来が起こるも、台風の襲来により撃退できました。この時も日蓮の法力が奏功したと讃えられました。
    翌年、久遠寺を降りて南部常長の所領へと向かう途中、武蔵国の池上宗仲の邸での逗留中に持病が重くなり、入滅。享年60歳。日蓮入滅の地は、池上本門寺とされています。

  • 比叡山 横川エリア 定光院 日蓮聖人像<br />日蓮は、比叡山では『愚管抄』を著した俊範法印の会下に身を投じて学問に励みました。比叡山には「論(法論の日々)・湿(多湿な気候)・寒(厳しい寒さ)・貧(ひもじい思い)」という言葉があります。若き日の日蓮は、この地で「叡山三大地獄」の修行の一つ、横川の看経(かんきん)地獄<昼夜読誦三昧>に励んだそうです。<br />日蓮は比叡山で12年間修学しましたが、その詳細は不明だそうです。目的は「諸宗の肝要を知ること」、つまり学生としての立場から学的研鑽に精励することでした。比叡山は、「広学竪義」の学風を遵守して学生を指導し、天台宗を興隆させるための教育を目的としていました。また、12年間と言う年数は、最澄が規範として制定した『山家学生式』の12年籠山行に従ったものと思われます。<br />因みに建立されている日蓮聖人像は、立教開宗の地である安房 清澄寺旭ヶ森にある像と向き合っているそうです。

    比叡山 横川エリア 定光院 日蓮聖人像
    日蓮は、比叡山では『愚管抄』を著した俊範法印の会下に身を投じて学問に励みました。比叡山には「論(法論の日々)・湿(多湿な気候)・寒(厳しい寒さ)・貧(ひもじい思い)」という言葉があります。若き日の日蓮は、この地で「叡山三大地獄」の修行の一つ、横川の看経(かんきん)地獄<昼夜読誦三昧>に励んだそうです。
    日蓮は比叡山で12年間修学しましたが、その詳細は不明だそうです。目的は「諸宗の肝要を知ること」、つまり学生としての立場から学的研鑽に精励することでした。比叡山は、「広学竪義」の学風を遵守して学生を指導し、天台宗を興隆させるための教育を目的としていました。また、12年間と言う年数は、最澄が規範として制定した『山家学生式』の12年籠山行に従ったものと思われます。
    因みに建立されている日蓮聖人像は、立教開宗の地である安房 清澄寺旭ヶ森にある像と向き合っているそうです。

  • 比叡山 横川エリア 如法水<br />四季講堂まで戻り、講堂の下の道を通って横川駐車場へ向かいます。<br />根本如法塔の真下にあります。<br />良源の弟子 源信が慶滋保胤らと共に行った如法写経で使われた聖水とされています。<br />

    比叡山 横川エリア 如法水
    四季講堂まで戻り、講堂の下の道を通って横川駐車場へ向かいます。
    根本如法塔の真下にあります。
    良源の弟子 源信が慶滋保胤らと共に行った如法写経で使われた聖水とされています。

  • 比叡山 横川エリア 根本如法塔<br />自然積みの石段を少し登った所に佇む塔は、1925(大正14)年に篤信者 山口玄洞により再建された、桧皮葺の多宝塔です。創建当初の姿はこうした塔ではなく堂宇でしたが、信長の焼討ちで灰燼に帰しました。<br />塔の設計は、安井楢次郎(京都府技官)が担いました。再建の際、平安時代の一条天皇中宮・上東門院彰子施入の金銅経箱「宝相華唐草手彫経箱」(国宝)などが発掘されています。現在は釈迦如来・多宝如来及び宝塔を祀り、慈覚大師 円仁が書写した仏教の経典を塔中に安置して祈念する塔です。

    比叡山 横川エリア 根本如法塔
    自然積みの石段を少し登った所に佇む塔は、1925(大正14)年に篤信者 山口玄洞により再建された、桧皮葺の多宝塔です。創建当初の姿はこうした塔ではなく堂宇でしたが、信長の焼討ちで灰燼に帰しました。
    塔の設計は、安井楢次郎(京都府技官)が担いました。再建の際、平安時代の一条天皇中宮・上東門院彰子施入の金銅経箱「宝相華唐草手彫経箱」(国宝)などが発掘されています。現在は釈迦如来・多宝如来及び宝塔を祀り、慈覚大師 円仁が書写した仏教の経典を塔中に安置して祈念する塔です。

  • 比叡山 横川エリア 根本如法塔<br />参道から少し離れた横川中堂の反対側の中腹に建つているため、気付かれない方も少なくありません。それ故に、静寂を身に纏って凛とした姿は、瞑想の世界を演出してくれます。<br />因みに「如法」の意味を調べると、「仏の教えどうりであること。仏の道理にかなっていること」とあります。

    比叡山 横川エリア 根本如法塔
    参道から少し離れた横川中堂の反対側の中腹に建つているため、気付かれない方も少なくありません。それ故に、静寂を身に纏って凛とした姿は、瞑想の世界を演出してくれます。
    因みに「如法」の意味を調べると、「仏の教えどうりであること。仏の道理にかなっていること」とあります。

  • 比叡山 横川エリア 根本如法塔<br />塔の傍らには、大小の五輪塔が仲良く佇んでいます。<br />根本如法塔の由来は、円仁が根本杉の祠の中で石墨草筆(千年以上使っても擦り減らないという硬い石墨と草で作った筆)を以て如法写経を始めたことに因みます。円仁は唐に渡る5年前に大病を患い、意を決して横川に草庵を結びました。ここで死と対峙し、法華経全28品の写経に専念しました。しかも、1文字書く度に3回の五体投地(両手・両膝・額を地面に着ける礼拝)を繰り返す、「一字三礼」を貫き通しました。故に、7万字の写経を成就するのに3年の歳月を要したといいます。こうして写経した法華経を、小塔を建てて安置したのがこの塔の始まりです。<br />この行が奏功したのか、その後円仁は奇跡的に回復し、請益僧として唐へ渡ることができたのです。<br />また、円仁が遣唐使としての9年半もの期間に亘る唐滞在と五台山~長安への往復の記録を残した日記『入唐求法巡礼行記』は、「東アジアの三大旅行記」のひとつと称され、マルコ・ポーロ著『東方見聞録』や玄奘著『大唐西域記』に比肩するものとして世界的に評価されています。(日本ではそれほど評価されていませんが…。)しかも他の著作は口述筆記されたものですが、円仁のものは自筆日記であり、極めて貴重なものと言えます。

    比叡山 横川エリア 根本如法塔
    塔の傍らには、大小の五輪塔が仲良く佇んでいます。
    根本如法塔の由来は、円仁が根本杉の祠の中で石墨草筆(千年以上使っても擦り減らないという硬い石墨と草で作った筆)を以て如法写経を始めたことに因みます。円仁は唐に渡る5年前に大病を患い、意を決して横川に草庵を結びました。ここで死と対峙し、法華経全28品の写経に専念しました。しかも、1文字書く度に3回の五体投地(両手・両膝・額を地面に着ける礼拝)を繰り返す、「一字三礼」を貫き通しました。故に、7万字の写経を成就するのに3年の歳月を要したといいます。こうして写経した法華経を、小塔を建てて安置したのがこの塔の始まりです。
    この行が奏功したのか、その後円仁は奇跡的に回復し、請益僧として唐へ渡ることができたのです。
    また、円仁が遣唐使としての9年半もの期間に亘る唐滞在と五台山~長安への往復の記録を残した日記『入唐求法巡礼行記』は、「東アジアの三大旅行記」のひとつと称され、マルコ・ポーロ著『東方見聞録』や玄奘著『大唐西域記』に比肩するものとして世界的に評価されています。(日本ではそれほど評価されていませんが…。)しかも他の著作は口述筆記されたものですが、円仁のものは自筆日記であり、極めて貴重なものと言えます。

  • 比叡山 横川エリア <br />駐車場まで参道を戻ります。1200年経っても今なお比叡山が修行の場であると言うことを、五感で感じられた気がしました。たっぷり汗もかいたしね!<br />参道には、このように親鸞聖人・道元禅師・日蓮聖人など比叡山で修業された祖師の布教伝道のエピソードを綴った祖師御行績絵看板が並んでいます。<br />文字を読むのは大変ですが、絵を見ておくだけでも横川を訪れるための予習になると思います。

    比叡山 横川エリア
    駐車場まで参道を戻ります。1200年経っても今なお比叡山が修行の場であると言うことを、五感で感じられた気がしました。たっぷり汗もかいたしね!
    参道には、このように親鸞聖人・道元禅師・日蓮聖人など比叡山で修業された祖師の布教伝道のエピソードを綴った祖師御行績絵看板が並んでいます。
    文字を読むのは大変ですが、絵を見ておくだけでも横川を訪れるための予習になると思います。

  • 比叡山 <br />横川からはシャトルバスで比叡山山頂バス停まで向かいます。<br />因みに横川発の最終便は、16:00ですので留意ください。<br />途中、峰道レストランを過ぎた所から、バスの左側に随筆家 白洲正子が愛した「琵琶湖を望む風景」が広がります。

    比叡山
    横川からはシャトルバスで比叡山山頂バス停まで向かいます。
    因みに横川発の最終便は、16:00ですので留意ください。
    途中、峰道レストランを過ぎた所から、バスの左側に随筆家 白洲正子が愛した「琵琶湖を望む風景」が広がります。

  • 比叡山 <br />ゆっくり琵琶湖の景色を堪能…と思ったとたん、大粒な雨が落ちてきました。<br />バスに乗車する前から遠くから雷鳴が聞こえていたので覚悟はしていましたが、バスに乗った後でしたので助かりました。<br />この雷雨は、龍ヶ池弁財天(雨乞い祈願)のご利益かもしれません。これで霊験あらたかなことが立証されました。

    比叡山
    ゆっくり琵琶湖の景色を堪能…と思ったとたん、大粒な雨が落ちてきました。
    バスに乗車する前から遠くから雷鳴が聞こえていたので覚悟はしていましたが、バスに乗った後でしたので助かりました。
    この雷雨は、龍ヶ池弁財天(雨乞い祈願)のご利益かもしれません。これで霊験あらたかなことが立証されました。

  • 比叡山 叡山ロープウェイ<br />比叡山山頂バス停からロープウェイ比叡山頂駅までは少し距離があり、徒歩で3分程かかります。<br />叡山ロープウェイは京福電気鉄道が運営する索道路線であり、ロープ比叡駅~比叡山頂駅間を3分で結んでいます。<br />1928(昭和3)年に日本初のロープウェイとして京都電燈が「比叡山空中ケーブル」として開業し、当時は現在のロープ比叡駅より若干上の位置にあった高祖谷駅から延暦寺の釈迦堂付近にあった延暦寺駅までのルートでした。1942(昭和17)年に京福に事業継承された後、太平洋戦争中に一旦廃止されましたが、1956(昭和31)年に現在のルートが開通し営業を再開しています。当時の正式な呼称は「叡山空中鋼索線」だったそうです。<br />注意する点は、正月三が日を除き冬季は運休になります。

    比叡山 叡山ロープウェイ
    比叡山山頂バス停からロープウェイ比叡山頂駅までは少し距離があり、徒歩で3分程かかります。
    叡山ロープウェイは京福電気鉄道が運営する索道路線であり、ロープ比叡駅~比叡山頂駅間を3分で結んでいます。
    1928(昭和3)年に日本初のロープウェイとして京都電燈が「比叡山空中ケーブル」として開業し、当時は現在のロープ比叡駅より若干上の位置にあった高祖谷駅から延暦寺の釈迦堂付近にあった延暦寺駅までのルートでした。1942(昭和17)年に京福に事業継承された後、太平洋戦争中に一旦廃止されましたが、1956(昭和31)年に現在のルートが開通し営業を再開しています。当時の正式な呼称は「叡山空中鋼索線」だったそうです。
    注意する点は、正月三が日を除き冬季は運休になります。

  • 比叡山 叡山ロープウェイ<br />すれ違った登りのロープウェイです。<br />豪雨のため視認距離が短く申し訳ありません。

    比叡山 叡山ロープウェイ
    すれ違った登りのロープウェイです。
    豪雨のため視認距離が短く申し訳ありません。

  • 比叡山 叡山ケーブル<br />ロープウェイとお揃いのデザインです。<br />車体下部まで達する四角い大きなフロント・ウィンドと赤と青の波ラインが相俟って、どことなく愛嬌のある顔に見えたりもします。<br />車内は半数が1人掛けの座席になっており、その分通路が広くなっています。

    比叡山 叡山ケーブル
    ロープウェイとお揃いのデザインです。
    車体下部まで達する四角い大きなフロント・ウィンドと赤と青の波ラインが相俟って、どことなく愛嬌のある顔に見えたりもします。
    車内は半数が1人掛けの座席になっており、その分通路が広くなっています。

  • 比叡山 叡山ケーブル<br />京福電気鉄道が運営するケーブルカー路線であり、ケーブル八瀬~ケーブル比叡間の1.3kmを9分で結ぶケーブルカーです。<br />比叡山の京都側登山ルートとして、大正14年に京都電燈が叡山鋼索線として西塔橋(現在のケーブル八瀬駅)~四明ヶ嶽(現在のケーブル比叡駅)間を開業したのが始まりです。通称「叡山ケーブル」と呼ばれ、叡山電鉄叡山本線や叡山ロープウェイと共に京都市内からの比叡山山頂へのアプローチ手段になります。<br />因みにケーブルの標高差は561mあり、ケーブルカーとしては日本最大です。因みに標高差は日本一でも叡山ケーブルの最大勾配は27.7度であり、勾配が日本一とうことではありません。<br />日本最長の坂本ケーブルを利用すれば、一気に日本一を2つクリアできます。<br />前に座られた車掌さんは女性の方でした。運転手さんは、比叡駅の中でロープを巻く機械を作動させており、線路に木が倒れていても判りません。車掌さんは線路の安全を確認し、異常があれば運転手さんに無線で連絡してケーブルカーを止めてもらったり、自ら非常ブレーキをかけたりもします。

    比叡山 叡山ケーブル
    京福電気鉄道が運営するケーブルカー路線であり、ケーブル八瀬~ケーブル比叡間の1.3kmを9分で結ぶケーブルカーです。
    比叡山の京都側登山ルートとして、大正14年に京都電燈が叡山鋼索線として西塔橋(現在のケーブル八瀬駅)~四明ヶ嶽(現在のケーブル比叡駅)間を開業したのが始まりです。通称「叡山ケーブル」と呼ばれ、叡山電鉄叡山本線や叡山ロープウェイと共に京都市内からの比叡山山頂へのアプローチ手段になります。
    因みにケーブルの標高差は561mあり、ケーブルカーとしては日本最大です。因みに標高差は日本一でも叡山ケーブルの最大勾配は27.7度であり、勾配が日本一とうことではありません。
    日本最長の坂本ケーブルを利用すれば、一気に日本一を2つクリアできます。
    前に座られた車掌さんは女性の方でした。運転手さんは、比叡駅の中でロープを巻く機械を作動させており、線路に木が倒れていても判りません。車掌さんは線路の安全を確認し、異常があれば運転手さんに無線で連絡してケーブルカーを止めてもらったり、自ら非常ブレーキをかけたりもします。

  • 比叡山 叡山ケーブル<br />ケーブルカーは上り下りを共有する単線のため、ターンアウトと 呼ばれる中間点で必ず2台の車両が行き交います。雨は上がったようですが、車窓が曇って少し幻想的な写真になっています。<br />ケーブル工事は、苦難の連続でした。高低差が日本一の561mもあり、平均勾配が40分の1と急であったことや国内初のS字のカーブを付けたことなどが要因だそうです。<br />平坦線を含めた総工費は、500万円。現在のお金に換算すると、数十億円~百億円と想定されます。

    比叡山 叡山ケーブル
    ケーブルカーは上り下りを共有する単線のため、ターンアウトと 呼ばれる中間点で必ず2台の車両が行き交います。雨は上がったようですが、車窓が曇って少し幻想的な写真になっています。
    ケーブル工事は、苦難の連続でした。高低差が日本一の561mもあり、平均勾配が40分の1と急であったことや国内初のS字のカーブを付けたことなどが要因だそうです。
    平坦線を含めた総工費は、500万円。現在のお金に換算すると、数十億円~百億円と想定されます。

  • 比叡山 叡山ケーブル<br />スポット的な夕立かと思っていましたが、京都市内も降ったようです。<br />中央やや左にあるドーナツ状のビルが、グランドプリンスホテル京都です。その左側の建物が、京都国際会館です。背景の高い山が、愛宕山です。

    比叡山 叡山ケーブル
    スポット的な夕立かと思っていましたが、京都市内も降ったようです。
    中央やや左にあるドーナツ状のビルが、グランドプリンスホテル京都です。その左側の建物が、京都国際会館です。背景の高い山が、愛宕山です。

  • 叡山ケーブル八瀬駅<br />駅舎は細部に改造がなされているものの、今でも1925(大正14)年の開業当初の建物が使われています。<br />開業時の駅名は「西塔橋」駅と言い、これは駅前を流れる高野川に架けられている橋の名に因みます。

    叡山ケーブル八瀬駅
    駅舎は細部に改造がなされているものの、今でも1925(大正14)年の開業当初の建物が使われています。
    開業時の駅名は「西塔橋」駅と言い、これは駅前を流れる高野川に架けられている橋の名に因みます。

  • 八瀬 高野川 西塔橋<br />八瀬の地名は、壬申の乱に因む故事から名付けられたと伝わっています。中大兄皇子の弟 大海人皇子と中大兄皇子の息子 大友皇子との間で天智天皇の後継の座を同属同士が争ったのが壬申の乱です。その乱の最中に大海人皇子が背中に矢傷を負い、この八瀬の地においてその傷を癒したことから「矢背」と名付けられ、やがて「八瀬」に転化したようです。<br />その際に大海人皇子が窯風呂と呼ばれる現在のサウナのような風呂で傷を癒した故事に因み、温泉旅館「ふるさと」の敷地内には「かまぶろ旧跡」が復元されています。往時は、薪などを焚いて温めた巨大なかまくら型のかまど内に濡れた敷物などを持ち込み、蒸気浴を愉しんでいたようです。

    八瀬 高野川 西塔橋
    八瀬の地名は、壬申の乱に因む故事から名付けられたと伝わっています。中大兄皇子の弟 大海人皇子と中大兄皇子の息子 大友皇子との間で天智天皇の後継の座を同属同士が争ったのが壬申の乱です。その乱の最中に大海人皇子が背中に矢傷を負い、この八瀬の地においてその傷を癒したことから「矢背」と名付けられ、やがて「八瀬」に転化したようです。
    その際に大海人皇子が窯風呂と呼ばれる現在のサウナのような風呂で傷を癒した故事に因み、温泉旅館「ふるさと」の敷地内には「かまぶろ旧跡」が復元されています。往時は、薪などを焚いて温めた巨大なかまくら型のかまど内に濡れた敷物などを持ち込み、蒸気浴を愉しんでいたようです。

  • 八瀬 高野川 西塔橋<br />鬼の子孫は大分県日田、奈良県吉野、滋賀県大津など各地に点在しますが、中でも特異な一族が「八瀬童子」です。八瀬の人々も、自らを「鬼の子孫」と公言してきました。「童子」とは大人になる前の段階を表し、酒呑童子など鬼の名に使われています。実際、八瀬童子は縄文人のように髷を結わない総髪、ざんばら髪の童子姿でした。山代の平地で平和に暮らす一族の元に渡来人 秦氏が侵入し、それに追われるように山に逃れました。また、その後比叡山が天台仏教の拠点になり、今度は山を追われ、その一部は滋賀県坂本へ、一部は八瀬の里へと逃れたのです。<br />八瀬童子は、古来、朝廷や延暦寺との関係が深い一族でした。先に八瀬の地名の由来を述べましたが、これは古くから天皇家と関わりが深かったことの証左です。また、平安時代初期、延暦寺で最澄が雑役に使っていた鬼の子孫が八瀬童子でした。更に、南北朝時代、後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢から逃れるため比叡山に登る際、八瀬童子は輿を担いで守護したと伝わります。こうして薪炭の生産を生業としつつ、駕輿丁役(かよちょう)や雑役を担い、既得権益を得ていました。<br />駕輿丁役とは、天皇の行幸や葬送の際に輿を担ぐ役目です。明治天皇が江戸に行幸した際、100名の八瀬童子が付き従ったそうです。また、明治天皇崩御の際は、棺を載せた輿を陸海軍のどちらが担ぐかで紛糾するも、その解決策として八瀬童子が復活して事なきを得ています。大正天皇の崩御の際も同様。さすがに昭和天皇が崩御した際は棺は自動車で運ばれ、八瀬童子はオブザーバーとして代表者6名が付き従いました。

    八瀬 高野川 西塔橋
    鬼の子孫は大分県日田、奈良県吉野、滋賀県大津など各地に点在しますが、中でも特異な一族が「八瀬童子」です。八瀬の人々も、自らを「鬼の子孫」と公言してきました。「童子」とは大人になる前の段階を表し、酒呑童子など鬼の名に使われています。実際、八瀬童子は縄文人のように髷を結わない総髪、ざんばら髪の童子姿でした。山代の平地で平和に暮らす一族の元に渡来人 秦氏が侵入し、それに追われるように山に逃れました。また、その後比叡山が天台仏教の拠点になり、今度は山を追われ、その一部は滋賀県坂本へ、一部は八瀬の里へと逃れたのです。
    八瀬童子は、古来、朝廷や延暦寺との関係が深い一族でした。先に八瀬の地名の由来を述べましたが、これは古くから天皇家と関わりが深かったことの証左です。また、平安時代初期、延暦寺で最澄が雑役に使っていた鬼の子孫が八瀬童子でした。更に、南北朝時代、後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢から逃れるため比叡山に登る際、八瀬童子は輿を担いで守護したと伝わります。こうして薪炭の生産を生業としつつ、駕輿丁役(かよちょう)や雑役を担い、既得権益を得ていました。
    駕輿丁役とは、天皇の行幸や葬送の際に輿を担ぐ役目です。明治天皇が江戸に行幸した際、100名の八瀬童子が付き従ったそうです。また、明治天皇崩御の際は、棺を載せた輿を陸海軍のどちらが担ぐかで紛糾するも、その解決策として八瀬童子が復活して事なきを得ています。大正天皇の崩御の際も同様。さすがに昭和天皇が崩御した際は棺は自動車で運ばれ、八瀬童子はオブザーバーとして代表者6名が付き従いました。

  • 叡山電鉄 八瀬比叡山口駅<br />叡山電鉄叡山本線の終着駅です。<br />駅舎は、細い鉄骨で組まれたレトロなデザインのドーム状の大屋根(トレイン・シェッド)で覆われています。まるでジオラマを見ているような、郷愁を誘う駅舎です。<br />この駅が完成したのは、1925(大正14)年のことです。京都電燈という琵琶湖疏水を利用した日本初の水力発電会社の鉄道事業として開業しました。

    叡山電鉄 八瀬比叡山口駅
    叡山電鉄叡山本線の終着駅です。
    駅舎は、細い鉄骨で組まれたレトロなデザインのドーム状の大屋根(トレイン・シェッド)で覆われています。まるでジオラマを見ているような、郷愁を誘う駅舎です。
    この駅が完成したのは、1925(大正14)年のことです。京都電燈という琵琶湖疏水を利用した日本初の水力発電会社の鉄道事業として開業しました。

  • 叡山電鉄 八瀬比叡山口駅<br />叡山線は、叡山ケーブル(京福電気鉄道鋼索線)と同時開業しており、1928(昭和3)年には比叡山山頂へ直結する叡山ロープウェイも開通しています。やがて八瀬比叡山口駅は比叡山参詣・観光の玄関口として栄えましたが、戦時中は駅全体が軍需工場として接収され、電車は三宅八幡駅方向寄りにあった仮ホームを使って発着を繰り返したという歴史秘話もあります。

    叡山電鉄 八瀬比叡山口駅
    叡山線は、叡山ケーブル(京福電気鉄道鋼索線)と同時開業しており、1928(昭和3)年には比叡山山頂へ直結する叡山ロープウェイも開通しています。やがて八瀬比叡山口駅は比叡山参詣・観光の玄関口として栄えましたが、戦時中は駅全体が軍需工場として接収され、電車は三宅八幡駅方向寄りにあった仮ホームを使って発着を繰り返したという歴史秘話もあります。

  • 叡山電鉄 八瀬比叡山口駅<br />現在の叡電の路線を見てみると「出町柳-鞍馬」線がメインのように感じられますが、歴史的には八瀬へ至るルートの方が主力だったそうです。<br />因みに叡山電鉄は、観光用車両を2018年春に導入すると発表しました。700系車両1両を大幅にリニューアルし、「比叡山と鞍馬が発するダイナミックな気の循環を2つの山頂を極とする楕円ループになぞらえました」とのこと。車体先頭部を巨大な「楕円レンズ」でデザインしたものだそうです。スピリチュアルな発想ですね!イメージとしては、「一つ目小僧」でしょうか???乞うご期待!!

    叡山電鉄 八瀬比叡山口駅
    現在の叡電の路線を見てみると「出町柳-鞍馬」線がメインのように感じられますが、歴史的には八瀬へ至るルートの方が主力だったそうです。
    因みに叡山電鉄は、観光用車両を2018年春に導入すると発表しました。700系車両1両を大幅にリニューアルし、「比叡山と鞍馬が発するダイナミックな気の循環を2つの山頂を極とする楕円ループになぞらえました」とのこと。車体先頭部を巨大な「楕円レンズ」でデザインしたものだそうです。スピリチュアルな発想ですね!イメージとしては、「一つ目小僧」でしょうか???乞うご期待!!

  • 出町ふたば<br />京都の「おもたせ」の定番と言えば、泣く子も黙る「出町ふたば」です。1899(明治32)年に創業された、和生菓子・赤飯などの専門店として昔ながらの手法で作り続けています。<br />店の奥に手際よく和菓子を作っている職人さんたちの姿が見られる、シズル感溢れる店構えです。京阪「出町柳」駅から徒歩5分程の距離です。<br />写真は、「まめ餅」完売後の様子です。<br />本店のマップです。<br />https://www.google.com/maps/place/%E5%87%BA%E7%94%BA%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%B0/@35.031689,135.771628,17z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x5b5854ee646ac567!8m2!3d35.03009!4d135.769568?hl=ja-JP

    出町ふたば
    京都の「おもたせ」の定番と言えば、泣く子も黙る「出町ふたば」です。1899(明治32)年に創業された、和生菓子・赤飯などの専門店として昔ながらの手法で作り続けています。
    店の奥に手際よく和菓子を作っている職人さんたちの姿が見られる、シズル感溢れる店構えです。京阪「出町柳」駅から徒歩5分程の距離です。
    写真は、「まめ餅」完売後の様子です。
    本店のマップです。
    https://www.google.com/maps/place/%E5%87%BA%E7%94%BA%E3%81%B5%E3%81%9F%E3%81%B0/@35.031689,135.771628,17z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0x5b5854ee646ac567!8m2!3d35.03009!4d135.769568?hl=ja-JP

  • 出町ふたば 名代「まめ餅」<br />いつも行列ができる店だけあり、味には定評があります。<br />やわらかなお餅の中に大きな豆がゴロゴロ入っており、塩加減が絶妙なバランスです!初見ですとしっかりした塩気に驚かれるかもしれませんが、これが後引く味の決め手になっています。<br />もち米の生地のモチモチ感に、少し固めの北海道美瑛・富良野産の赤エンドウ(小豆)がアクセントになっています。こし餡は、北海道十勝産の小豆を用い、控えめな甘さで魅了します。老舗のシンプルな伝統の中に、センスを感じずにはいられない味わいです。1個 170円<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    出町ふたば 名代「まめ餅」
    いつも行列ができる店だけあり、味には定評があります。
    やわらかなお餅の中に大きな豆がゴロゴロ入っており、塩加減が絶妙なバランスです!初見ですとしっかりした塩気に驚かれるかもしれませんが、これが後引く味の決め手になっています。
    もち米の生地のモチモチ感に、少し固めの北海道美瑛・富良野産の赤エンドウ(小豆)がアクセントになっています。こし餡は、北海道十勝産の小豆を用い、控えめな甘さで魅了します。老舗のシンプルな伝統の中に、センスを感じずにはいられない味わいです。1個 170円

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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