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比叡山は大比叡ヶ岳(標高849m)と四明ヶ岳(標高839m)の2峰からなります。『古事記』にも「淡海の日枝山(ひえのやま)」と記され、古来高野山や恐山と並ぶ日本3大霊山のひとつに数えられた山岳信仰の聖地でした。最澄の開山までは、日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていました。また、平安時代末期~鎌倉時代初期の天台宗の僧であり、歴史書『愚管抄』や百人一首で知られた慈円は、「世の中に山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と霊峰 比叡山を日本一の山と詠みました。それは比叡山延暦寺が平安仏教を代表する天台宗の総本山であるだけではなく、学問と修行の道場として日本仏教各宗の祖師高僧を輩出し、「日本仏教の母山」と仰がれたからです。因みに慈円は、九条兼実の弟であり、若くして天台座主になり、親鸞聖人の得度の師でもありました。<br />比叡山は、平安京の表鬼門にも当たり、高野山と並び重要な存在でした。『平家物語』に記された「やまへも奈良へも 牒状をこそおくりけれ」の「やま」は、比叡山を指します。また、比叡山は滋賀県と京都府の境に聳え、東には「天台薬師の池」と詠われた日本一大きな湖 琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。 <br />1994年、延暦寺は京都市および宇治市の寺院、神社等と共に「古都京都の文化財」のひとつとしてユネスコ世界文化遺産に登録されています。<br />比叡山延暦寺のHPです。<br />http://www.hieizan.or.jp/<br />比叡山マップです。<br />http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

九夏三伏 比叡山彷徨③延暦寺 東塔エリア(前編)

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2017/07/28 - 2017/07/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

比叡山は大比叡ヶ岳(標高849m)と四明ヶ岳(標高839m)の2峰からなります。『古事記』にも「淡海の日枝山(ひえのやま)」と記され、古来高野山や恐山と並ぶ日本3大霊山のひとつに数えられた山岳信仰の聖地でした。最澄の開山までは、日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていました。また、平安時代末期~鎌倉時代初期の天台宗の僧であり、歴史書『愚管抄』や百人一首で知られた慈円は、「世の中に山てふ山は多かれど 山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と霊峰 比叡山を日本一の山と詠みました。それは比叡山延暦寺が平安仏教を代表する天台宗の総本山であるだけではなく、学問と修行の道場として日本仏教各宗の祖師高僧を輩出し、「日本仏教の母山」と仰がれたからです。因みに慈円は、九条兼実の弟であり、若くして天台座主になり、親鸞聖人の得度の師でもありました。
比叡山は、平安京の表鬼門にも当たり、高野山と並び重要な存在でした。『平家物語』に記された「やまへも奈良へも 牒状をこそおくりけれ」の「やま」は、比叡山を指します。また、比叡山は滋賀県と京都府の境に聳え、東には「天台薬師の池」と詠われた日本一大きな湖 琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。 
1994年、延暦寺は京都市および宇治市の寺院、神社等と共に「古都京都の文化財」のひとつとしてユネスコ世界文化遺産に登録されています。
比叡山延暦寺のHPです。
http://www.hieizan.or.jp/
比叡山マップです。
http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
  • ケーブル坂本駅<br />山麓と山頂の駅舎は、開業当初からのものあり、1997年に「登録有形文化財」になっています。当時としてはハイカラなバロック様式でしたが、現在は大正ロマンの懐かしい香りを放っています。木造2階建、スレート葺、1階は待合室や駅事務所となっており、2階は比叡山鉄道の本社兼事務所になっています。<br />外壁にモルタルが塗られた以外は建築当時のままであり、縦長の窓が目を引くモダンなデザインです。また、出入口の上部に設けられた庇を支えるアイアンワークの三角形状の補強材「持ち送り」に特徴があります。

    ケーブル坂本駅
    山麓と山頂の駅舎は、開業当初からのものあり、1997年に「登録有形文化財」になっています。当時としてはハイカラなバロック様式でしたが、現在は大正ロマンの懐かしい香りを放っています。木造2階建、スレート葺、1階は待合室や駅事務所となっており、2階は比叡山鉄道の本社兼事務所になっています。
    外壁にモルタルが塗られた以外は建築当時のままであり、縦長の窓が目を引くモダンなデザインです。また、出入口の上部に設けられた庇を支えるアイアンワークの三角形状の補強材「持ち送り」に特徴があります。

  • ケーブル坂本駅<br />待合室は、白を基調にして落ち着いた雰囲気を持たせ、天井装りや改札や窓のアーチ形状が昭和時代のノスタルジーを体現させてくれます。<br />

    ケーブル坂本駅
    待合室は、白を基調にして落ち着いた雰囲気を持たせ、天井装りや改札や窓のアーチ形状が昭和時代のノスタルジーを体現させてくれます。

  • ケーブル坂本駅<br />3代目の車両は、欧州風の小洒落たデザインをしており、「縁」号と「福」号と命名され、この車両のフロントの左側には「福」号のエンブレムが輝いています。<br />車体デザインは、浜大津・びわ湖花噴水のデザイナーとしても著名な工業デザイナー 櫻田秀美さんによるものです。車両カラーは、宗教的な雰囲気を壊すことのないよう、上品なグリーン&レッドでコーディネートされています。この当たりは、高野山を疾走する南海鉄道「天空」(グリーン&オレンジ)に近い発想です。<br />因みにお酒好きの方ならご存知だと思いますが、榮川酒造「雷神光 純米吟醸酒 500ml」も櫻田さんのデザインです。

    ケーブル坂本駅
    3代目の車両は、欧州風の小洒落たデザインをしており、「縁」号と「福」号と命名され、この車両のフロントの左側には「福」号のエンブレムが輝いています。
    車体デザインは、浜大津・びわ湖花噴水のデザイナーとしても著名な工業デザイナー 櫻田秀美さんによるものです。車両カラーは、宗教的な雰囲気を壊すことのないよう、上品なグリーン&レッドでコーディネートされています。この当たりは、高野山を疾走する南海鉄道「天空」(グリーン&オレンジ)に近い発想です。
    因みにお酒好きの方ならご存知だと思いますが、榮川酒造「雷神光 純米吟醸酒 500ml」も櫻田さんのデザインです。

  • ケーブル坂本駅<br />「縁」と「福」は、白寿を迎えられた第253代 天台座主 山田恵諦猊下が、参詣者に良いご「縁」と幸「福」が訪れるようにと祈りを込めて揮毫されたものです。

    ケーブル坂本駅
    「縁」と「福」は、白寿を迎えられた第253代 天台座主 山田恵諦猊下が、参詣者に良いご「縁」と幸「福」が訪れるようにと祈りを込めて揮毫されたものです。

  • 坂本ケーブル<br />坂本ケーブルは、比叡山鉄道株式会社が比叡山延暦寺「日本仏教の母山」へのアクセス手段として1927(昭和2)年に敷設し、今年開業90周年を迎えました。「ケーブル坂本」駅と「ケーブル延暦寺」駅間は日本一長い2025mあり、11分で結びます。因みに最大傾斜角は、18度と控え目です。坂本ケーブルよりも長かった愛宕山鉄道鋼索線(京都市:2135m)が1944年に、伊香保ケーブル鉄道(群馬県:2090m)が1966年に廃止され、繰り上げでトップの座に躍り出ました。<br />パノラマビューの車窓は、ケーブルカーには珍しい途中駅2ヶ所や、橋梁7ヶ所、トンネル2ヶ所と変化に富み、山を上るにつれ琵琶湖の景観が徐々に広がってくるのは感動的です。<br />因みに冬季は、京都府側からの叡山ケーブル&ロープウェイが正月三が日を除き運休となるため、この坂本ケーブルが唯一のアクセス手段になります。

    坂本ケーブル
    坂本ケーブルは、比叡山鉄道株式会社が比叡山延暦寺「日本仏教の母山」へのアクセス手段として1927(昭和2)年に敷設し、今年開業90周年を迎えました。「ケーブル坂本」駅と「ケーブル延暦寺」駅間は日本一長い2025mあり、11分で結びます。因みに最大傾斜角は、18度と控え目です。坂本ケーブルよりも長かった愛宕山鉄道鋼索線(京都市:2135m)が1944年に、伊香保ケーブル鉄道(群馬県:2090m)が1966年に廃止され、繰り上げでトップの座に躍り出ました。
    パノラマビューの車窓は、ケーブルカーには珍しい途中駅2ヶ所や、橋梁7ヶ所、トンネル2ヶ所と変化に富み、山を上るにつれ琵琶湖の景観が徐々に広がってくるのは感動的です。
    因みに冬季は、京都府側からの叡山ケーブル&ロープウェイが正月三が日を除き運休となるため、この坂本ケーブルが唯一のアクセス手段になります。

  • 坂本ケーブル<br />ご覧のように琵琶湖を見下ろす座席仕様になっています。<br />当方のように山側を望みたい場合は、立つしかありません。

    坂本ケーブル
    ご覧のように琵琶湖を見下ろす座席仕様になっています。
    当方のように山側を望みたい場合は、立つしかありません。

  • 坂本ケーブル<br />橋梁の先に一つ目のトンネルが見えてきます。その手前の左側にあるのが「ほうらい丘」駅です。<br />ほうらい駅のすぐ手前左側に「霊窟の石仏(蓬莱丘地蔵尊)」があります。ケーブル内からも一瞬ですが見られ、洞窟内に明かりが灯されているのが判ります。<br />ケーブル建設時に200体以上もの石仏が掘り出され、洞窟状の祠を造って安置しています。これらは、織田信長の比叡山焼討ちで犠牲になった人々の慰霊のために彫まれた石仏だそうです。

    坂本ケーブル
    橋梁の先に一つ目のトンネルが見えてきます。その手前の左側にあるのが「ほうらい丘」駅です。
    ほうらい駅のすぐ手前左側に「霊窟の石仏(蓬莱丘地蔵尊)」があります。ケーブル内からも一瞬ですが見られ、洞窟内に明かりが灯されているのが判ります。
    ケーブル建設時に200体以上もの石仏が掘り出され、洞窟状の祠を造って安置しています。これらは、織田信長の比叡山焼討ちで犠牲になった人々の慰霊のために彫まれた石仏だそうです。

  • 坂本ケーブル ほうらい丘駅<br />2つある幻の中間駅のうち、山麓側の駅です。トンネルの手前に寡黙に佇む乗降場がポツンと佇みます。アスファルト舗装のホームにインターホンだけが設けられた無人駅です。事前申告やインターホンで連絡があった時にだけ停車します。<br />最近は、「秘境駅ハンター」の垂涎の的だとか…。<br />何故こうした駅があるかと言うと、「霊窟の石仏(蓬莱丘地蔵尊)」が 駅の近くにあるからです。つまり、慰霊に訪れる人の便宜を図るために造られた駅だそうです。<br />駅周辺は山林の伐採や間伐が行われており、倒木や枝打ちされた枯れ枝で山道は通行困難な状態なため、ケーブルに一役買ってもらっているそうです。

    坂本ケーブル ほうらい丘駅
    2つある幻の中間駅のうち、山麓側の駅です。トンネルの手前に寡黙に佇む乗降場がポツンと佇みます。アスファルト舗装のホームにインターホンだけが設けられた無人駅です。事前申告やインターホンで連絡があった時にだけ停車します。
    最近は、「秘境駅ハンター」の垂涎の的だとか…。
    何故こうした駅があるかと言うと、「霊窟の石仏(蓬莱丘地蔵尊)」が 駅の近くにあるからです。つまり、慰霊に訪れる人の便宜を図るために造られた駅だそうです。
    駅周辺は山林の伐採や間伐が行われており、倒木や枝打ちされた枯れ枝で山道は通行困難な状態なため、ケーブルに一役買ってもらっているそうです。

  • 坂本ケーブル<br />坂本駅と延暦寺駅の中間点です。「ターンアウト」と呼ばれ、上りと下りのケーブルカーがすれ違う場所です。<br />ケーブルカーの車輪は、右と左で形を変えています。「福」号の車輪は、下から見て右側の車輪がレールを挟み込んでいますが、左側はレールの上に乗っているだけです。つまり、右側のレールの軌道が車両をナビゲートする仕組みです。「縁」号は、車輪の左右が逆になっています。

    坂本ケーブル
    坂本駅と延暦寺駅の中間点です。「ターンアウト」と呼ばれ、上りと下りのケーブルカーがすれ違う場所です。
    ケーブルカーの車輪は、右と左で形を変えています。「福」号の車輪は、下から見て右側の車輪がレールを挟み込んでいますが、左側はレールの上に乗っているだけです。つまり、右側のレールの軌道が車両をナビゲートする仕組みです。「縁」号は、車輪の左右が逆になっています。

  • 坂本ケーブル<br />延暦寺駅から降りてきたのは、「縁」号です。「福」号とは、レッドとグリーンの配置を違えており、より落ち着いた感じがします。<br /><br />坂本ケーブルは、延暦寺参詣のアクセス手段として計画されましたが、比叡山の地形の峻厳さが工事を阻み、開拓は困難を極めました。開拓が困難な地形は迂回し、時にはトンネルを掘り、更に谷間には橋も架けました。その結果、7ヶ所の橋梁と2ヶ所のトンネル、そしてカーブが連続するという他に類を見ないアトラクション系のケーブル線路となりました。その意味でも坂本ケーブルは異例づくしと言えます。

    坂本ケーブル
    延暦寺駅から降りてきたのは、「縁」号です。「福」号とは、レッドとグリーンの配置を違えており、より落ち着いた感じがします。

    坂本ケーブルは、延暦寺参詣のアクセス手段として計画されましたが、比叡山の地形の峻厳さが工事を阻み、開拓は困難を極めました。開拓が困難な地形は迂回し、時にはトンネルを掘り、更に谷間には橋も架けました。その結果、7ヶ所の橋梁と2ヶ所のトンネル、そしてカーブが連続するという他に類を見ないアトラクション系のケーブル線路となりました。その意味でも坂本ケーブルは異例づくしと言えます。

  • 坂本ケーブル<br />2本目のトンネルは結構長く、遊園地のアトラクションを彷彿とさせます。<br /><br />太平洋戦争は、坂本ケーブルの歴史にも深い影を落としました。終戦の年の5月、坂本ケーブルは海軍航空隊に接収されました。本土決戦に備え、比叡山頂に極秘裏に人間ロケット特攻機「桜花」の発射基地を造営することになり、その資材運搬のためでした。因みに「桜花」は、750機製造され、米軍は日本語の「馬鹿」に因んで「BAKA BOMB」というコードネームで呼びました。自力で発進できず、カタパルト(発射装置)を使って機体を空中に飛ばした後、 ジェットエンジンで飛行する仕組みです。機体には爆弾を満載し、搭乗員は自爆のためのナビゲータでした。 しかし、実戦投入の待機中、日本は無条件降伏。もしも降伏が遅れてここから「桜花」が飛び立っていれば、米軍による、2度目の比叡山焼討ちに遭っていたかもしれません。

    坂本ケーブル
    2本目のトンネルは結構長く、遊園地のアトラクションを彷彿とさせます。

    太平洋戦争は、坂本ケーブルの歴史にも深い影を落としました。終戦の年の5月、坂本ケーブルは海軍航空隊に接収されました。本土決戦に備え、比叡山頂に極秘裏に人間ロケット特攻機「桜花」の発射基地を造営することになり、その資材運搬のためでした。因みに「桜花」は、750機製造され、米軍は日本語の「馬鹿」に因んで「BAKA BOMB」というコードネームで呼びました。自力で発進できず、カタパルト(発射装置)を使って機体を空中に飛ばした後、 ジェットエンジンで飛行する仕組みです。機体には爆弾を満載し、搭乗員は自爆のためのナビゲータでした。 しかし、実戦投入の待機中、日本は無条件降伏。もしも降伏が遅れてここから「桜花」が飛び立っていれば、米軍による、2度目の比叡山焼討ちに遭っていたかもしれません。

  • 坂本ケーブル ケーブル延暦寺駅<br />「桜花」の発案者は、大田正一大尉。終戦の3日後、彼は、零式戦闘機に乗り込んで離陸、「東方洋上に去る」と遺書を残して行方不明となりました。やがて殉職として戸籍も抹消されました。彼は、新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて不遜な態度をとった上、桜花搭乗員の人命を軽視する暴言を吐き、報復を恐れたのでした。<br />その後の彼を米国TV番組「History Undercover」が追跡しました。その結果、彼は金華山沖の洋上に着水し、北海道の漁船に救助され生還。戦後の動乱に紛れて別人を装い新戸籍を得、新しく家庭を持ち2人の子どもをもうけ、最期は京都バプティスト病院で1994年に癌で死亡したことが確認されました。平和ボケした日本人への警鐘とも言える「米国からの贈り物」だったのでは?<br />翻って現在、憲法を改正して自衛隊の軍事行為を正当化する機運にありますが、戦争に至ればブレーキはかけられず、職業軍人だけで対峙できなくなるのは明白です。また、改憲されれば、自衛官も激減するはずです。また、米国との安保条約もどこまで守られるか判りません。何故ならば、貴方は他国のために決死の覚悟で戦うことができるでしょうか?できないはずです。ですから、戦前の日本や現在の韓国のように国民徴兵制が常態化するのは必至です。<br />安倍政権は軍事力を抑止効果だとアピールしていますが、それはトリックです。諸国の軍事力からすれば日本のそれは赤子の手をひねるようなものであり、有害無益なことは自明です。軍事力と言う下手な鉄砲より、「…武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というスローガンを毅然とした態度で唱え続けるのが、アジア侵略の当事者かつ唯一の被爆国としての使命ではないでしょうか?<br />「失敗の本質」が理解できていない政治家が多いのは、嘆かわしいことです。

    坂本ケーブル ケーブル延暦寺駅
    「桜花」の発案者は、大田正一大尉。終戦の3日後、彼は、零式戦闘機に乗り込んで離陸、「東方洋上に去る」と遺書を残して行方不明となりました。やがて殉職として戸籍も抹消されました。彼は、新聞に桜花の発案者として華々しく取り上げられて不遜な態度をとった上、桜花搭乗員の人命を軽視する暴言を吐き、報復を恐れたのでした。
    その後の彼を米国TV番組「History Undercover」が追跡しました。その結果、彼は金華山沖の洋上に着水し、北海道の漁船に救助され生還。戦後の動乱に紛れて別人を装い新戸籍を得、新しく家庭を持ち2人の子どもをもうけ、最期は京都バプティスト病院で1994年に癌で死亡したことが確認されました。平和ボケした日本人への警鐘とも言える「米国からの贈り物」だったのでは?
    翻って現在、憲法を改正して自衛隊の軍事行為を正当化する機運にありますが、戦争に至ればブレーキはかけられず、職業軍人だけで対峙できなくなるのは明白です。また、改憲されれば、自衛官も激減するはずです。また、米国との安保条約もどこまで守られるか判りません。何故ならば、貴方は他国のために決死の覚悟で戦うことができるでしょうか?できないはずです。ですから、戦前の日本や現在の韓国のように国民徴兵制が常態化するのは必至です。
    安倍政権は軍事力を抑止効果だとアピールしていますが、それはトリックです。諸国の軍事力からすれば日本のそれは赤子の手をひねるようなものであり、有害無益なことは自明です。軍事力と言う下手な鉄砲より、「…武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というスローガンを毅然とした態度で唱え続けるのが、アジア侵略の当事者かつ唯一の被爆国としての使命ではないでしょうか?
    「失敗の本質」が理解できていない政治家が多いのは、嘆かわしいことです。

  • 坂本ケーブル ケーブル延暦寺駅<br />苦行で知られる延暦寺におよそ似つかわしくない、洋風モダン建築の駅舎です。鉄筋コンクリート造にテラコッタ装飾がなされた駅舎には貴賓室が設けられ、首相経験者や松下幸之助など、参詣した著名人の芳名録が残されています。<br />入口の庇を支える「持ち送り」や縦長の窓は山麓の駅舎と共通する意匠です。しかし、配色と造形により全体を重厚な雰囲気にまとめ、名刹の玄関口としてのムードを醸している点は評価できます。<br />尚、山頂駅は2001年に「関西の駅百選」にも認定されています。

    坂本ケーブル ケーブル延暦寺駅
    苦行で知られる延暦寺におよそ似つかわしくない、洋風モダン建築の駅舎です。鉄筋コンクリート造にテラコッタ装飾がなされた駅舎には貴賓室が設けられ、首相経験者や松下幸之助など、参詣した著名人の芳名録が残されています。
    入口の庇を支える「持ち送り」や縦長の窓は山麓の駅舎と共通する意匠です。しかし、配色と造形により全体を重厚な雰囲気にまとめ、名刹の玄関口としてのムードを醸している点は評価できます。
    尚、山頂駅は2001年に「関西の駅百選」にも認定されています。

  • 比叡山 展望テラス<br />ガスっていて折角の大パノラマがだいなしです。<br />晴れていれば大津の街並や琵琶湖が一望でき、海抜654mの展望テラスからの眺めは天下一品です。

    比叡山 展望テラス
    ガスっていて折角の大パノラマがだいなしです。
    晴れていれば大津の街並や琵琶湖が一望でき、海抜654mの展望テラスからの眺めは天下一品です。

  • 比叡山 展望テラス<br />琵琶湖大橋方面にズームイン。<br />ただ今、気温22℃です。

    比叡山 展望テラス
    琵琶湖大橋方面にズームイン。
    ただ今、気温22℃です。

  • 比叡山 展望テラス<br />さらにズームイン。<br />天気が良ければ沖島も見えるはずなのですが…。

    比叡山 展望テラス
    さらにズームイン。
    天気が良ければ沖島も見えるはずなのですが…。

  • 比叡山 <br />ケーブル延暦寺駅からは、東塔を目指して林道を歩いて行きます。<br />途中、少し高台に立つ法華総持院東塔が見えてきます。望んだ訳ではありませんが、霧が幽玄の世界を演出してくれています。<br />道なりに進むと、延暦寺駅から徒歩7分ほどで東塔巡拝受付に着きます。

    比叡山
    ケーブル延暦寺駅からは、東塔を目指して林道を歩いて行きます。
    途中、少し高台に立つ法華総持院東塔が見えてきます。望んだ訳ではありませんが、霧が幽玄の世界を演出してくれています。
    道なりに進むと、延暦寺駅から徒歩7分ほどで東塔巡拝受付に着きます。

  • 延暦寺 東塔エリア 巡拝受付<br />各塔のエリアに入る時には、巡拝受付で拝観料を支払います。周遊チケットがあれば、それを見せてマップ付きのリーフレットをもらいます。それが以降の「通行手形」になりますので、なくさないようにしてください。<br /><br />東塔エリアは延暦寺発祥の地であり、本堂に当たる根本中堂を中心とするエリアです。最澄が延暦寺の前身となる一乗止観院という草庵を開いた場所であり、総本堂 根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀る大講堂、先祖回向の堂宇である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっています。<br />東塔はパワースポットとも言われているのですが、何故だか判りますか?<br />最澄の生きた時代は、西方には日本に友好的な唐が存在し、むしろ脅威は東方にありました。つまり、東方にはまつろわぬ蝦夷がおり、朝廷軍に反抗していました。802年に、アテルイというリーダーが死亡するまでは、東北地方では激戦が続いていました。最澄は、朝廷の援助で唐に環学したため、東方からの脅威に対して天皇がいる都を守るため、 比叡山の東塔を造ったとも言われています。こうした伝承に因み、パワースポットとして敬われています。

    延暦寺 東塔エリア 巡拝受付
    各塔のエリアに入る時には、巡拝受付で拝観料を支払います。周遊チケットがあれば、それを見せてマップ付きのリーフレットをもらいます。それが以降の「通行手形」になりますので、なくさないようにしてください。

    東塔エリアは延暦寺発祥の地であり、本堂に当たる根本中堂を中心とするエリアです。最澄が延暦寺の前身となる一乗止観院という草庵を開いた場所であり、総本堂 根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀る大講堂、先祖回向の堂宇である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっています。
    東塔はパワースポットとも言われているのですが、何故だか判りますか?
    最澄の生きた時代は、西方には日本に友好的な唐が存在し、むしろ脅威は東方にありました。つまり、東方にはまつろわぬ蝦夷がおり、朝廷軍に反抗していました。802年に、アテルイというリーダーが死亡するまでは、東北地方では激戦が続いていました。最澄は、朝廷の援助で唐に環学したため、東方からの脅威に対して天皇がいる都を守るため、 比叡山の東塔を造ったとも言われています。こうした伝承に因み、パワースポットとして敬われています。

  • 延暦寺 東塔エリアマップ<br />「旅行記の概要」に載せたマップと合わせて活用してください。<br />このマップは上方が北の方角を指しており、「概要」のマップは右側が北です。<br />因みに「概要」にあるマップは、巡拝受付でいただいた「通行手形」と同じものです。

    延暦寺 東塔エリアマップ
    「旅行記の概要」に載せたマップと合わせて活用してください。
    このマップは上方が北の方角を指しており、「概要」のマップは右側が北です。
    因みに「概要」にあるマップは、巡拝受付でいただいた「通行手形」と同じものです。

  • 延暦寺 東塔エリア 萬拝堂(右)と一隅会館(左)<br />萬拝堂は、日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも迎えて奉安し、世界平和と人類の平安を祈願する平成の新堂です。<br />ここの右隅で、工事中である根本中堂のご朱印を授与していただけます。<br />一隅会館は、参拝者用の無料休憩所です。地下にお蕎麦屋があります。<br />「一隅を照らそう」という言葉は、最澄著『山家学生式』が出典で、天台宗の基本となる教えです。「人は懸命に生きれば、一隅を照らすことができる。一人ひとりは小さな灯でも、沢山集まれば日本中が明るく照らされる。皆の幸福のために、個々が今できることを一生懸命がんばりましょう」と伝えています。その教えを真摯に受け止め、一隅を照らせるように精進した宗徒たちの中から数多の高僧が輩出されました。鎌倉仏教の各宗派のルーツは天台宗にあり、その教えの源泉はこの「一隅を照らす」です。

    延暦寺 東塔エリア 萬拝堂(右)と一隅会館(左)
    萬拝堂は、日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも迎えて奉安し、世界平和と人類の平安を祈願する平成の新堂です。
    ここの右隅で、工事中である根本中堂のご朱印を授与していただけます。
    一隅会館は、参拝者用の無料休憩所です。地下にお蕎麦屋があります。
    「一隅を照らそう」という言葉は、最澄著『山家学生式』が出典で、天台宗の基本となる教えです。「人は懸命に生きれば、一隅を照らすことができる。一人ひとりは小さな灯でも、沢山集まれば日本中が明るく照らされる。皆の幸福のために、個々が今できることを一生懸命がんばりましょう」と伝えています。その教えを真摯に受け止め、一隅を照らせるように精進した宗徒たちの中から数多の高僧が輩出されました。鎌倉仏教の各宗派のルーツは天台宗にあり、その教えの源泉はこの「一隅を照らす」です。

  • 延暦寺 東塔エリア 大黒堂<br />エリア内に堂宇が点在しているため、どこから攻めるのが効率的か迷う所です。<br />この先、西塔を経て横川まで巡拝すること、また横川発 最終バス(16:00)の時間制約等を考慮すると、如何に省エネを心がけるかが計画の満願達成のキーになります。<br /><br />大黒堂は、広場を挟んで一隅会館と対峙している堂宇です。最澄が比叡山へ登った折、大黒天を感見した場所に建立され、「日本の大黒天信仰の発祥の地」とされています。<br /> 本尊の大黒天は、「三面出世大黒天」と呼ばれる珍しいもので、米俵の上に立ち、食生活を守る「大黒天」を中心に、右に勇気と力を与える「毘沙門天」、左に美と才能を与える「弁財天」の三面を持ち、商売繁盛・福徳延寿の御利益があります。<br />豊臣秀吉も開運と福徳を祈願したと伝えられています。 <br />因みに写真に写っているお坊さんは、チベットから来られている方です。<br />堂内の厨子の中に最澄自作の三面大黒天像が祀られており、次のような伝説があります。<br />最澄が堂宇を建てる霊地を探していたところ、ある地で大黒天に巡り合った。大黒天は、山の守護になって最澄を助けようと言いました。しかし最澄は、大黒天は千人を助けることができるが、私は3千人の面倒をみなければならないと言って申出を断りました。すると大黒天は、忽ち三面六臂の姿に変身しました。<br />そこで最澄は、変身後の大黒天を象り、食物や財宝を与えてくれる大黒天、危険から身を守ってくれる毘沙門天、芸能と男女の仲をとりもつ弁財天を3つの面に刻んだ像を造り、山上に祀ったといいます。

    延暦寺 東塔エリア 大黒堂
    エリア内に堂宇が点在しているため、どこから攻めるのが効率的か迷う所です。
    この先、西塔を経て横川まで巡拝すること、また横川発 最終バス(16:00)の時間制約等を考慮すると、如何に省エネを心がけるかが計画の満願達成のキーになります。

    大黒堂は、広場を挟んで一隅会館と対峙している堂宇です。最澄が比叡山へ登った折、大黒天を感見した場所に建立され、「日本の大黒天信仰の発祥の地」とされています。
    本尊の大黒天は、「三面出世大黒天」と呼ばれる珍しいもので、米俵の上に立ち、食生活を守る「大黒天」を中心に、右に勇気と力を与える「毘沙門天」、左に美と才能を与える「弁財天」の三面を持ち、商売繁盛・福徳延寿の御利益があります。
    豊臣秀吉も開運と福徳を祈願したと伝えられています。
    因みに写真に写っているお坊さんは、チベットから来られている方です。
    堂内の厨子の中に最澄自作の三面大黒天像が祀られており、次のような伝説があります。
    最澄が堂宇を建てる霊地を探していたところ、ある地で大黒天に巡り合った。大黒天は、山の守護になって最澄を助けようと言いました。しかし最澄は、大黒天は千人を助けることができるが、私は3千人の面倒をみなければならないと言って申出を断りました。すると大黒天は、忽ち三面六臂の姿に変身しました。
    そこで最澄は、変身後の大黒天を象り、食物や財宝を与えてくれる大黒天、危険から身を守ってくれる毘沙門天、芸能と男女の仲をとりもつ弁財天を3つの面に刻んだ像を造り、山上に祀ったといいます。

  • 延暦寺 東塔エリア 大黒堂<br />ご多分に洩れず、比叡山にも「七不思議」なるものがあります。この大黒堂は、#4に当たります。<br />1.「将門岩」。平将門がこの岩の上から都を見渡しながら藤原純友と天下制圧の謀議を交わしたという曰くつきの巨岩です。<br />2.「弁慶水」という名の井戸。最澄が念力で湧かせた泉水とされ、武蔵坊弁慶がこの水で喉の渇きを潤し、この水のおかげで平清盛の熱病が治ったとの言い伝えがあります。<br />3.「なすび婆」が毎夜山中を徘徊。「なすび婆」は、宮中に仕えていた女で、人を殺して地獄に落とされたが、仏の慈悲で比叡山に棲むことを許された。<br />4.「三面大黒天」。<br />5.「船坂」という坂があります。大勢の女の亡者を乗せた「もや船」が出没すると伝わります。<br />6.「乙女が夜中に水ごり」。<br />7.「一つ目小僧が山中を徘徊」。この一つ目小僧の正体は、慈忍和尚。不心得な僧侶を懲らしめるために出没するそうです。

    延暦寺 東塔エリア 大黒堂
    ご多分に洩れず、比叡山にも「七不思議」なるものがあります。この大黒堂は、#4に当たります。
    1.「将門岩」。平将門がこの岩の上から都を見渡しながら藤原純友と天下制圧の謀議を交わしたという曰くつきの巨岩です。
    2.「弁慶水」という名の井戸。最澄が念力で湧かせた泉水とされ、武蔵坊弁慶がこの水で喉の渇きを潤し、この水のおかげで平清盛の熱病が治ったとの言い伝えがあります。
    3.「なすび婆」が毎夜山中を徘徊。「なすび婆」は、宮中に仕えていた女で、人を殺して地獄に落とされたが、仏の慈悲で比叡山に棲むことを許された。
    4.「三面大黒天」。
    5.「船坂」という坂があります。大勢の女の亡者を乗せた「もや船」が出没すると伝わります。
    6.「乙女が夜中に水ごり」。
    7.「一つ目小僧が山中を徘徊」。この一つ目小僧の正体は、慈忍和尚。不心得な僧侶を懲らしめるために出没するそうです。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼(もんじゅろう)<br />大黒天の先、左手に文殊楼へ上る階段があります。この石段も険しいのですが、他の階段に比べれば「天国」です。<br /><br />「一隅を照らす」にまつわるエピソードがあります。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』の著書で知られる宮澤賢治は、信仰する宗派の違いから父親と対立していました。父は浄土真宗の信者、賢治は日蓮宗の教えを敬っていました。他の宗派を痛烈に批判した日蓮と同じく排他的な宗教観に染まった賢治は父に改宗を迫りましたが、父は譲りませんでした。そして威圧的な賢治を心配し、父が誘ったのが延暦寺参拝でした。「皆の幸福のため」という最澄の教えを体感し、やがて「ねがはくは妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ」と歌うほどになりました。最澄の教えに共鳴し、皆の幸せを祈った歌です。<br />因みに、「山家学生式の石碑」を左に回り込んだ所に「宮沢賢治歌碑」があります。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼(もんじゅろう)
    大黒天の先、左手に文殊楼へ上る階段があります。この石段も険しいのですが、他の階段に比べれば「天国」です。

    「一隅を照らす」にまつわるエピソードがあります。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』の著書で知られる宮澤賢治は、信仰する宗派の違いから父親と対立していました。父は浄土真宗の信者、賢治は日蓮宗の教えを敬っていました。他の宗派を痛烈に批判した日蓮と同じく排他的な宗教観に染まった賢治は父に改宗を迫りましたが、父は譲りませんでした。そして威圧的な賢治を心配し、父が誘ったのが延暦寺参拝でした。「皆の幸福のため」という最澄の教えを体感し、やがて「ねがはくは妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまへ」と歌うほどになりました。最澄の教えに共鳴し、皆の幸せを祈った歌です。
    因みに、「山家学生式の石碑」を左に回り込んだ所に「宮沢賢治歌碑」があります。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼<br />高い石段を隔て根本中堂の東側 虚空蔵尾という高台に佇みます。延暦寺の山門に相当し、徒歩で本坂を登ってくる場合は最初にこの門を潜ります。<br />一行三昧院とも称され、慈覚大師 円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って864(貞観6)年に建立したものですが、その後何度も焼失し、現在の建物は1668(寛文8)に再建されたものとされ、大津市指定文化財になっています。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼
    高い石段を隔て根本中堂の東側 虚空蔵尾という高台に佇みます。延暦寺の山門に相当し、徒歩で本坂を登ってくる場合は最初にこの門を潜ります。
    一行三昧院とも称され、慈覚大師 円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って864(貞観6)年に建立したものですが、その後何度も焼失し、現在の建物は1668(寛文8)に再建されたものとされ、大津市指定文化財になっています。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼<br />根本中堂側から見た文殊楼です。<br />1668(寛文8)年に前唐院と共に焼失し、同年中に再建されました。桁行3間、梁間2間の入母屋造の三間一戸二階二重門です。一見、楼門とも思えるほど大きな楼閣です。<br />上階には床を張り、文殊菩薩像と脇侍を安置しています。初重には扉がなく、両脇を板壁で区切って室としています。和様を基調としながらも、柱の粽(ちまき)や台輪、火灯窓などの禅宗様式を加味した折衷様式をしており、江戸時代を代表的する様式と言えます。<br />「文殊菩薩に合格祈願を!」と思う人が多いのか、沢山の合格祈願の絵馬が奉納されています。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼
    根本中堂側から見た文殊楼です。
    1668(寛文8)年に前唐院と共に焼失し、同年中に再建されました。桁行3間、梁間2間の入母屋造の三間一戸二階二重門です。一見、楼門とも思えるほど大きな楼閣です。
    上階には床を張り、文殊菩薩像と脇侍を安置しています。初重には扉がなく、両脇を板壁で区切って室としています。和様を基調としながらも、柱の粽(ちまき)や台輪、火灯窓などの禅宗様式を加味した折衷様式をしており、江戸時代を代表的する様式と言えます。
    「文殊菩薩に合格祈願を!」と思う人が多いのか、沢山の合格祈願の絵馬が奉納されています。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼<br />元々は常坐三昧一行院として最澄によって建立が計画されたものです。また、この計画は、「四条式」において天台宗の年分度者の楽章が12年籠山する際に四種三昧院にて修行することを標榜したものです。四種三昧とは常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を指し、その内の常坐三昧とは『文殊師利所説般若波羅蜜経』や『文殊師利問経』を所拠経典としています。<br />常坐三昧は一行三昧とも言い、静室や空閑地にて喧騒を離れ、座して他に移動することなく、90日を一期として結跏正坐して、頭や背中は直立し、動かず揺れず、坐をもって自誓。食事や排便を除き、専ら仏に向かって端坐正向したという大変な苦行です。<br />しかし常坐三昧一行院の建立は予定より遅れ、最澄示寂後の創建になりました。円仁は入唐中のある夜、東の一谷を距てた峰の上に光を見ており、これにより文殊楼の建立を誓ったと伝えられています。同じ日に円仁は五台山の南台頂近くの金閣寺を訪れ、そこで9間三層の文殊菩薩堂を見物し、第1層には文殊菩薩像、第2層に金剛頂瑜伽の五仏像、第3層に頂輪王瑜伽会の五仏金像が安置されているのを確認しています。この見聞が、実際の文殊楼建立に際して大いに参考となったことは明白です。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼
    元々は常坐三昧一行院として最澄によって建立が計画されたものです。また、この計画は、「四条式」において天台宗の年分度者の楽章が12年籠山する際に四種三昧院にて修行することを標榜したものです。四種三昧とは常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を指し、その内の常坐三昧とは『文殊師利所説般若波羅蜜経』や『文殊師利問経』を所拠経典としています。
    常坐三昧は一行三昧とも言い、静室や空閑地にて喧騒を離れ、座して他に移動することなく、90日を一期として結跏正坐して、頭や背中は直立し、動かず揺れず、坐をもって自誓。食事や排便を除き、専ら仏に向かって端坐正向したという大変な苦行です。
    しかし常坐三昧一行院の建立は予定より遅れ、最澄示寂後の創建になりました。円仁は入唐中のある夜、東の一谷を距てた峰の上に光を見ており、これにより文殊楼の建立を誓ったと伝えられています。同じ日に円仁は五台山の南台頂近くの金閣寺を訪れ、そこで9間三層の文殊菩薩堂を見物し、第1層には文殊菩薩像、第2層に金剛頂瑜伽の五仏像、第3層に頂輪王瑜伽会の五仏金像が安置されているのを確認しています。この見聞が、実際の文殊楼建立に際して大いに参考となったことは明白です。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼<br />木鼻はシンプルな禅宗様式です。また、平行垂木の軒などは和様に倣っています。<br />あまり知られていませんが、建物の四隅と中央には、円仁が五台山から持ち帰ったと伝わる「霊石」が埋められているそうです。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼
    木鼻はシンプルな禅宗様式です。また、平行垂木の軒などは和様に倣っています。
    あまり知られていませんが、建物の四隅と中央には、円仁が五台山から持ち帰ったと伝わる「霊石」が埋められているそうです。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼<br />柱の端に施された粽や基盤と柱の間の台輪は、禅宗様式です。また、柱の下部は鉄輪(かなわ)でしっかり補強されています。<br />この柱の右側の通路が、文殊楼の上階に上がるためのものです。上階には、文殊菩薩像と脇侍を安置していますが、拝観がメインであり、景色は期待できません。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼
    柱の端に施された粽や基盤と柱の間の台輪は、禅宗様式です。また、柱の下部は鉄輪(かなわ)でしっかり補強されています。
    この柱の右側の通路が、文殊楼の上階に上がるためのものです。上階には、文殊菩薩像と脇侍を安置していますが、拝観がメインであり、景色は期待できません。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼<br />こちらが上階へ上る階段です。<br />勾配がきついので梁に頭をぶつけないように注意なさってください。当方はカメラに気を取られ思い切り頭をぶつけました。おかげ様で「煩悩」が全て消え去りましたが…。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼
    こちらが上階へ上る階段です。
    勾配がきついので梁に頭をぶつけないように注意なさってください。当方はカメラに気を取られ思い切り頭をぶつけました。おかげ様で「煩悩」が全て消え去りましたが…。

  • 宝篋印塔<br />隅飾(耳)が開いていないのは、時代が古いものだそうです。<br />中国の呉越王銭弘俶が延命を願い、諸国に立てた「金塗塔」が宝篋印塔の原型とされています。名称は、銭弘俶塔に『宝篋印陀羅尼』を納めたことに因みます。ただし、実際に塔内から陀羅尼が発見された例はないそうです。<br />この形式の塔は、一般的には供養塔や墓碑塔として造られた仏塔です。しかし構造が複雑なため、造るのは大変難しいそうです。比叡山延暦寺の石垣をはじめ石の構造物を担当したのが、坂本の穴太衆でした。彼らは石垣積みで名を残していますが、ひょっとしたらこうした石塔も穴太衆が手がけたものかもしれません。

    宝篋印塔
    隅飾(耳)が開いていないのは、時代が古いものだそうです。
    中国の呉越王銭弘俶が延命を願い、諸国に立てた「金塗塔」が宝篋印塔の原型とされています。名称は、銭弘俶塔に『宝篋印陀羅尼』を納めたことに因みます。ただし、実際に塔内から陀羅尼が発見された例はないそうです。
    この形式の塔は、一般的には供養塔や墓碑塔として造られた仏塔です。しかし構造が複雑なため、造るのは大変難しいそうです。比叡山延暦寺の石垣をはじめ石の構造物を担当したのが、坂本の穴太衆でした。彼らは石垣積みで名を残していますが、ひょっとしたらこうした石塔も穴太衆が手がけたものかもしれません。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼 石碑「清海鎮大使 張保皐の碑」<br />碑よりも亀の厳しい表情に目が釘付けになります。この亀は「亀趺(きふ)」と言い、その背に碑を載せることで亀の長寿にあやかり、その碑が永遠に後世に残ることを念じたものです。<br />亀趺の亀は贔屓(ひいき)と言われ、龍の九子のうち龍になれなかった一子とされ、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣です。元々の贔屓の意味は「一生懸命努力して力を出すさま」でしたが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」意味に転化したそうです。<br />この碑は、「円仁が入唐求法のために渡海した際、海上王であり清海鎮を設置した張保皐が建立した赤山法華院に留錫したことの因縁により、円仁が五台山や長安の地への巡礼を果たすことができた」ことを顕彰するもののようです。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼 石碑「清海鎮大使 張保皐の碑」
    碑よりも亀の厳しい表情に目が釘付けになります。この亀は「亀趺(きふ)」と言い、その背に碑を載せることで亀の長寿にあやかり、その碑が永遠に後世に残ることを念じたものです。
    亀趺の亀は贔屓(ひいき)と言われ、龍の九子のうち龍になれなかった一子とされ、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣です。元々の贔屓の意味は「一生懸命努力して力を出すさま」でしたが、それが「特別に便宜を図ったり、力添えをする」意味に転化したそうです。
    この碑は、「円仁が入唐求法のために渡海した際、海上王であり清海鎮を設置した張保皐が建立した赤山法華院に留錫したことの因縁により、円仁が五台山や長安の地への巡礼を果たすことができた」ことを顕彰するもののようです。

  • 延暦寺 東塔エリア 文殊楼<br />衝立のような已講(いこう)坂の石段の上から根本中堂が見下ろせます。<br />見ての通り、この階段は感覚的には垂直に近いと思います。根本中堂の出入口から直接文殊楼へ上るには、この石段を登ることになります。<br />根本中堂は窪地にあるため、一旦下ってそこから高台へ登る分、標高差が生じます。

    延暦寺 東塔エリア 文殊楼
    衝立のような已講(いこう)坂の石段の上から根本中堂が見下ろせます。
    見ての通り、この階段は感覚的には垂直に近いと思います。根本中堂の出入口から直接文殊楼へ上るには、この石段を登ることになります。
    根本中堂は窪地にあるため、一旦下ってそこから高台へ登る分、標高差が生じます。

  • 延暦寺 東塔エリア 星峯稲荷社<br />文殊楼の北側にある十三重の塔の先に進む小径を西側へ下って行くと見えてきます。根本中堂前からも行けますが、現在は改修工事中のため通行止めになっています。<br />通常、この辺りを訪れる観光客はほとんどいないはずですが、訳ありな女性2人連れに遭遇しました。恐らく、この2人も同じように訝しく思っていることでしょう…。<br />1929(昭和4)年建立の小さな祠ですが、「正一位」に当たります。<br />本尊の茶枳尼(だきに)天は、辰孤王菩薩です。六臂(腕が6本)の姿をなされており、それは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を救済することを表しています。伝承によると、「延暦の頃(782~806年)、荼枳尼天が「白雪の神狐」の姿になって星の峯に降り立ち、諸人の罪穢れを祓い、福徳を施しました。以来、公家たちからの信仰が篤く、霊験があらたか」だったそうです。<br />この先は、根本中堂の改修工事のため、通行止めになっています。

    延暦寺 東塔エリア 星峯稲荷社
    文殊楼の北側にある十三重の塔の先に進む小径を西側へ下って行くと見えてきます。根本中堂前からも行けますが、現在は改修工事中のため通行止めになっています。
    通常、この辺りを訪れる観光客はほとんどいないはずですが、訳ありな女性2人連れに遭遇しました。恐らく、この2人も同じように訝しく思っていることでしょう…。
    1929(昭和4)年建立の小さな祠ですが、「正一位」に当たります。
    本尊の茶枳尼(だきに)天は、辰孤王菩薩です。六臂(腕が6本)の姿をなされており、それは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の衆生を救済することを表しています。伝承によると、「延暦の頃(782~806年)、荼枳尼天が「白雪の神狐」の姿になって星の峯に降り立ち、諸人の罪穢れを祓い、福徳を施しました。以来、公家たちからの信仰が篤く、霊験があらたか」だったそうです。
    この先は、根本中堂の改修工事のため、通行止めになっています。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺会館<br />はじめに上って来たのと同じ大黒堂脇の石段を下り、今度は左手(東側)の坂道を下って行きます。少し下ると立派な門構えが見えてきます。これは延暦寺大書院の門です。<br />奥にある近代的なビルが「延暦寺会館」です。「延暦寺会館」は、現代の宿坊で、精進料理(要予約)や宿泊の他、写経や坐禅の修行体験も実施しています。<br />また、部屋から俯瞰する「琵琶湖」も絶景だそうです。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺会館
    はじめに上って来たのと同じ大黒堂脇の石段を下り、今度は左手(東側)の坂道を下って行きます。少し下ると立派な門構えが見えてきます。これは延暦寺大書院の門です。
    奥にある近代的なビルが「延暦寺会館」です。「延暦寺会館」は、現代の宿坊で、精進料理(要予約)や宿泊の他、写経や坐禅の修行体験も実施しています。
    また、部屋から俯瞰する「琵琶湖」も絶景だそうです。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院 門<br />大書院の門構えです。<br /><br />最澄が宗派を開くに当って用いた「天台」の名は、中国浙江省にある天台山で悟りを得た天台大師 智ぎに由来し、日本天台宗では天台大師を「高祖」と仰いでいます。智ぎの宝号は、隋の晋王広(後の煬帝)から「智者」の号を授かったことより、「南無天台智者大師」と称しています。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院 門
    大書院の門構えです。

    最澄が宗派を開くに当って用いた「天台」の名は、中国浙江省にある天台山で悟りを得た天台大師 智ぎに由来し、日本天台宗では天台大師を「高祖」と仰いでいます。智ぎの宝号は、隋の晋王広(後の煬帝)から「智者」の号を授かったことより、「南無天台智者大師」と称しています。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院 門<br />天台宗は、鎌倉時代に開宗された数多の仏教宗派の原点とされ、日本仏教に多大な影響を及ぼしました。その総本山が、滋賀郡古市郷(現大津市)出身の最澄が平城京での修学を中止し、鑑真が中国からもたらした天台典籍の研究に没頭するために建立した延暦寺です。因みに延暦寺の所在地は、厳密には滋賀県大津市になります。<br />788(延暦7)年、最澄は比叡山に薬師如来を本尊とする小さな草庵「一乗止観院」を建立しました。これが根本中堂の起源です。最澄は「六根相似の位に達するまでは、山から出ない」と誓い、鎮護国家のために真の指導者「菩薩僧」を育成する必要に駆られ、山に籠もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立しました。882(弘仁13)年(最澄没の翌年)、念願叶って国を鎮め護る寺として嵯峨天皇から「延暦寺」の寺号を授かりました。その後延暦寺からは、多くの高僧が輩出されました。浄土念仏の法然上人をはじめ親鸞聖人(浄土真宗)、良忍上人、一遍上人(時宗)、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人などの祖師を育み、比叡山は「日本仏教の母山」と仰がれています。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院 門
    天台宗は、鎌倉時代に開宗された数多の仏教宗派の原点とされ、日本仏教に多大な影響を及ぼしました。その総本山が、滋賀郡古市郷(現大津市)出身の最澄が平城京での修学を中止し、鑑真が中国からもたらした天台典籍の研究に没頭するために建立した延暦寺です。因みに延暦寺の所在地は、厳密には滋賀県大津市になります。
    788(延暦7)年、最澄は比叡山に薬師如来を本尊とする小さな草庵「一乗止観院」を建立しました。これが根本中堂の起源です。最澄は「六根相似の位に達するまでは、山から出ない」と誓い、鎮護国家のために真の指導者「菩薩僧」を育成する必要に駆られ、山に籠もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立しました。882(弘仁13)年(最澄没の翌年)、念願叶って国を鎮め護る寺として嵯峨天皇から「延暦寺」の寺号を授かりました。その後延暦寺からは、多くの高僧が輩出されました。浄土念仏の法然上人をはじめ親鸞聖人(浄土真宗)、良忍上人、一遍上人(時宗)、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人などの祖師を育み、比叡山は「日本仏教の母山」と仰がれています。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院 庭<br />門の先は枯山水と思しき庭園になっており、白砂に流紋が描かれているため立入は許されません。<br /><br />延暦寺は、最盛期には3000にも及ぶ堂坊が甍を並べ、日本仏教の最高峰と讃えられましたが、その栄華も長くは続きませんでした。浅井・朝倉両軍を匿ったこと等を発端に、1571(元亀2)年に織田信長によって比叡山焼討ちの憂き目に遭い、堂塔伽藍は灰燼に帰しました。その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼大師 天海の尽力により、延暦寺は再興されました。<br />現在の延暦寺は、明治時代の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えた比叡山の中にある150ほどの塔堂をまとめた総称であり、3塔16谷のエリアに分かれています。根本中堂を中心とする東塔と5谷、釈迦堂を中心とする西塔と5谷、横川中堂を中心とする横川と6谷のエリアです。それら全ての寺院を統括するのが天台座主です。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院 庭
    門の先は枯山水と思しき庭園になっており、白砂に流紋が描かれているため立入は許されません。

    延暦寺は、最盛期には3000にも及ぶ堂坊が甍を並べ、日本仏教の最高峰と讃えられましたが、その栄華も長くは続きませんでした。浅井・朝倉両軍を匿ったこと等を発端に、1571(元亀2)年に織田信長によって比叡山焼討ちの憂き目に遭い、堂塔伽藍は灰燼に帰しました。その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼大師 天海の尽力により、延暦寺は再興されました。
    現在の延暦寺は、明治時代の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えた比叡山の中にある150ほどの塔堂をまとめた総称であり、3塔16谷のエリアに分かれています。根本中堂を中心とする東塔と5谷、釈迦堂を中心とする西塔と5谷、横川中堂を中心とする横川と6谷のエリアです。それら全ての寺院を統括するのが天台座主です。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院(登録有形文化財)<br />少し戻り、別の通路から敷地内に入って外観だけ拝見させていただきます。<br />1928(昭和3)年、昭和天皇のご大典記念と比叡山開創1150年の記念事業として、東京赤坂山王台にあった村井吉兵衛(煙草王)の邸宅「山王御殿(大正5年築)」を移築したという純和風の建築物です。<br />設計者はかの京都大学名誉教授 武田五一、総棟梁は小林富蔵です。京都にあった代表的な書院造を参考にし、往時の日本の最高技術を総動員した近代御殿建築の白眉と称され、用材は木曽の檜を中心に2つとない逸材を多用しているそうです。<br />現在は、皇族方をはじめ内外の要人を迎える「迎賓館」として活躍しています。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院(登録有形文化財)
    少し戻り、別の通路から敷地内に入って外観だけ拝見させていただきます。
    1928(昭和3)年、昭和天皇のご大典記念と比叡山開創1150年の記念事業として、東京赤坂山王台にあった村井吉兵衛(煙草王)の邸宅「山王御殿(大正5年築)」を移築したという純和風の建築物です。
    設計者はかの京都大学名誉教授 武田五一、総棟梁は小林富蔵です。京都にあった代表的な書院造を参考にし、往時の日本の最高技術を総動員した近代御殿建築の白眉と称され、用材は木曽の檜を中心に2つとない逸材を多用しているそうです。
    現在は、皇族方をはじめ内外の要人を迎える「迎賓館」として活躍しています。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院<br />玄関は、藤原時代の様式を取り入れた車寄せ玄関としており、仁和寺と同じ様式の総檜造りです。ただし、白砂の流紋があり、近くへは行けません。<br />因みにこの「大書院」は村井吉兵衛邸宅の一部だけを移築したものであり、残りの邸宅は空襲で灰燼に帰したそうです。もし移設されていなければ、この姿を見ることは叶わなかったと言うことです。神のお告げだったのでしょうか?

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院
    玄関は、藤原時代の様式を取り入れた車寄せ玄関としており、仁和寺と同じ様式の総檜造りです。ただし、白砂の流紋があり、近くへは行けません。
    因みにこの「大書院」は村井吉兵衛邸宅の一部だけを移築したものであり、残りの邸宅は空襲で灰燼に帰したそうです。もし移設されていなければ、この姿を見ることは叶わなかったと言うことです。神のお告げだったのでしょうか?

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院<br />村井吉兵衛は、1854(文久4)年に京都の煙草商の次男として誕生。家は貧しく、9歳で叔父の養子になり、煙草商を継ぎました。往時は、煙草と言えば、吸い口にストローのような巻紙を付けた口付きが一般的でした。しかし吉兵衛はこの口付き式ではなく、端から端まで葉が詰まった「両切り」煙草を追求しました。例えれば「ゴールデンバット」のようなものです。こうして考案されたのが、日本初の両切り紙巻き煙草「サンライス」でした。その後も、米国に渡って煙草製造方法を研究し、「ヒーロー」という銘柄を開発しました。「ヒーロー」は、パリ万博で金賞を受賞するなど、世界的にも認知され、その生産量は日本一を記録し続けました。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院
    村井吉兵衛は、1854(文久4)年に京都の煙草商の次男として誕生。家は貧しく、9歳で叔父の養子になり、煙草商を継ぎました。往時は、煙草と言えば、吸い口にストローのような巻紙を付けた口付きが一般的でした。しかし吉兵衛はこの口付き式ではなく、端から端まで葉が詰まった「両切り」煙草を追求しました。例えれば「ゴールデンバット」のようなものです。こうして考案されたのが、日本初の両切り紙巻き煙草「サンライス」でした。その後も、米国に渡って煙草製造方法を研究し、「ヒーロー」という銘柄を開発しました。「ヒーロー」は、パリ万博で金賞を受賞するなど、世界的にも認知され、その生産量は日本一を記録し続けました。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院<br />村井吉兵衛は、煙草商に留まらず、銀行や印刷、石鹸製造、カタン糸など多角的経営者として事業を次々に成功させ、やがて村井財閥を形成するに至りました。しかし、その栄華も長くは続かず、戦争・昭和恐慌など時代の潮流に翻弄され、その後邸宅も売りに出されました。<br />村井財閥崩壊の発端は、国策にありました。政府は、戦費調達の必要に迫られ、煙草を国家専売制に切り替えることにより、その財源に充てたのです。このように国策に翻弄されて人生を狂わされた人物もあれば、片や政治家の忖度で学校を建ててもらおうとしている輩もいるとは…。教育者の精神に悖るものであり、果たしてこのような学校に学生や教授が集まるのでしょうか!?<br />因みに、京都市の指定有形文化財の「長楽館」も吉兵衛由来の建物です。機会があれば、吉兵衛の無情に思いを馳せながら眺めてみてください。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院
    村井吉兵衛は、煙草商に留まらず、銀行や印刷、石鹸製造、カタン糸など多角的経営者として事業を次々に成功させ、やがて村井財閥を形成するに至りました。しかし、その栄華も長くは続かず、戦争・昭和恐慌など時代の潮流に翻弄され、その後邸宅も売りに出されました。
    村井財閥崩壊の発端は、国策にありました。政府は、戦費調達の必要に迫られ、煙草を国家専売制に切り替えることにより、その財源に充てたのです。このように国策に翻弄されて人生を狂わされた人物もあれば、片や政治家の忖度で学校を建ててもらおうとしている輩もいるとは…。教育者の精神に悖るものであり、果たしてこのような学校に学生や教授が集まるのでしょうか!?
    因みに、京都市の指定有形文化財の「長楽館」も吉兵衛由来の建物です。機会があれば、吉兵衛の無情に思いを馳せながら眺めてみてください。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院<br />最澄は、帰化人 山背秦氏の聖山だった比叡山を譲り受けたとも伝えられています。その裏付けとして、794年、平安遷都、王都鎮護の法要が最澄を施主として行われ、その場に秦氏出の勤操、護命と言う2僧が招かれていたと伝わります。勤操は、空海から「虚空蔵求聞持法」を授かったとも伝えられており、最澄・空海の両者と交流を持った人物とされています。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院
    最澄は、帰化人 山背秦氏の聖山だった比叡山を譲り受けたとも伝えられています。その裏付けとして、794年、平安遷都、王都鎮護の法要が最澄を施主として行われ、その場に秦氏出の勤操、護命と言う2僧が招かれていたと伝わります。勤操は、空海から「虚空蔵求聞持法」を授かったとも伝えられており、最澄・空海の両者と交流を持った人物とされています。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院<br />比叡山の教学は、最澄が『山家学生式』で修学修行の専攻を「止観業(しかんごう)」と「遮那業(しゃなごう)」の両業と定めたことを基本にしています。<br />「止観業」とは、中国隋代の天台大師 智ぎ莟が自らの証悟により体系付けた『法華経』を基にする教理と実践を言います。また「遮那業」は、『大日経』を中心とする真言密教を指します。最澄は、修学修行する者はいずれかを専攻することと定め、日本天台宗の教学の根本をなす柱としました。<br />最澄は、止観業「法華一乗」と遮那業「真言一乗」は共に成仏するための究極の教えだと認め、両者の優劣を語るのはナンセンスと説きました。これを「円(えん=天台法華)密(みつ=真言密教)一致説」と言います。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院
    比叡山の教学は、最澄が『山家学生式』で修学修行の専攻を「止観業(しかんごう)」と「遮那業(しゃなごう)」の両業と定めたことを基本にしています。
    「止観業」とは、中国隋代の天台大師 智ぎ莟が自らの証悟により体系付けた『法華経』を基にする教理と実践を言います。また「遮那業」は、『大日経』を中心とする真言密教を指します。最澄は、修学修行する者はいずれかを専攻することと定め、日本天台宗の教学の根本をなす柱としました。
    最澄は、止観業「法華一乗」と遮那業「真言一乗」は共に成仏するための究極の教えだと認め、両者の優劣を語るのはナンセンスと説きました。これを「円(えん=天台法華)密(みつ=真言密教)一致説」と言います。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院<br />延暦寺の修行は、真言密教の不動明王を本尊として礼拝行道する千日回峰行や伝教大師御廟浄土院での12年籠山行など、現在でも伝承されていますが、比叡山天台仏教の最大の特色は教えと実践が一致しなくてはならない点にあります。<br />これを「教観双美」とも「解行一致」とも言い、天台大師は「智目行足もて清涼池に到る」と説きました。すなわち、仏の教えを学んで智慧の目を養うだけでなく、自らの足で歩むという実践が伴って始めて清涼池の如き仏が目指す理想の境地「悟り」に辿り着くことができると説きました。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院
    延暦寺の修行は、真言密教の不動明王を本尊として礼拝行道する千日回峰行や伝教大師御廟浄土院での12年籠山行など、現在でも伝承されていますが、比叡山天台仏教の最大の特色は教えと実践が一致しなくてはならない点にあります。
    これを「教観双美」とも「解行一致」とも言い、天台大師は「智目行足もて清涼池に到る」と説きました。すなわち、仏の教えを学んで智慧の目を養うだけでなく、自らの足で歩むという実践が伴って始めて清涼池の如き仏が目指す理想の境地「悟り」に辿り着くことができると説きました。

  • 延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院<br />1986年、ローマ法皇の呼びかけで様々な宗教者がアッシジに集い、世界平和を祈るイベントが開催されました。その精神を受け継ぎ、毎年延暦寺で開催されているのが「比叡山宗教サミット」です。仏教をはじめキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、シーク教、神道、儒教など、様々な宗教者が参加して世界平和を祈願します。<br />今年も8月4日に開催されたことが新聞に掲載されていました。

    延暦寺 東塔エリア 延暦寺大書院
    1986年、ローマ法皇の呼びかけで様々な宗教者がアッシジに集い、世界平和を祈るイベントが開催されました。その精神を受け継ぎ、毎年延暦寺で開催されているのが「比叡山宗教サミット」です。仏教をはじめキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、シーク教、神道、儒教など、様々な宗教者が参加して世界平和を祈願します。
    今年も8月4日に開催されたことが新聞に掲載されていました。

  • 延暦寺 東塔エリア 船坂<br />延暦会館の先に伸びる、急勾配の長い下り坂を「舟橋」と言います。<br />この船坂と更にその先の五智院跡にまつわる「比叡山七不思議」があります。<br /><br />「船坂のもや船」<br />山中にあるのに名に船が付くとは奇妙な坂です。名の由来は次の言い伝えによります。<br />かつて比叡山は女人禁制でした。ある夜、法師が酒を飲んで坂本の町から表坂を登って帰る途中、一面にもやがかかり、女たちの念仏が聞こえてきました。もやの中には一隻の船が浮かび、大勢の女の亡者が乗っていました。法師は、亡者と目が合ったとたんに気を失い、翌日亡くなりました。それ以後、この表坂を船坂と呼ぶようになったそうです。<br />琵琶湖で自殺や不慮の事故で亡くなった女性たちの霊が大挙して船に乗って現れるとは何ともおどろおどろしい光景ですが、死んで女人禁制の山に参るとは、どことなくもの悲しさも感じられ、往時の女性蔑視を皮肉る怪異譚と言えます。<br /><br />「乙女の水ごり」<br />船坂にある法然堂から更に200m程下った左手にかつてあった、五智院にまつわる怪異譚です。この寺の僧が、夜中に仏間の位牌がカタカタと物音を立てたので目を覚ますと、谷あいから水を浴びる音が聞こえてきました。谷に降りてみると、美しい女が水ごりをしていました。翌晩も同じことがあり、女人禁制の山で真夜中に若い女性が水浴びすることを不信に思っていると、女に見つかってしまいました。女は、「仏間の位牌は私のもの。私は五智院の前住職の妹ですが、若くして病で死にました。魂を比叡山に預けて沐浴の行を続ければ、極楽に行けると教えられました」と告げて消えたそうです。仏間に戻ると、小刻みに動いていた位牌だけがなくなっていたそうです。<br />美しい女は浄土へ旅立ったのでしょうか、それとも今も比叡山の行場を巡り続けているのでしょうか…。

    延暦寺 東塔エリア 船坂
    延暦会館の先に伸びる、急勾配の長い下り坂を「舟橋」と言います。
    この船坂と更にその先の五智院跡にまつわる「比叡山七不思議」があります。

    「船坂のもや船」
    山中にあるのに名に船が付くとは奇妙な坂です。名の由来は次の言い伝えによります。
    かつて比叡山は女人禁制でした。ある夜、法師が酒を飲んで坂本の町から表坂を登って帰る途中、一面にもやがかかり、女たちの念仏が聞こえてきました。もやの中には一隻の船が浮かび、大勢の女の亡者が乗っていました。法師は、亡者と目が合ったとたんに気を失い、翌日亡くなりました。それ以後、この表坂を船坂と呼ぶようになったそうです。
    琵琶湖で自殺や不慮の事故で亡くなった女性たちの霊が大挙して船に乗って現れるとは何ともおどろおどろしい光景ですが、死んで女人禁制の山に参るとは、どことなくもの悲しさも感じられ、往時の女性蔑視を皮肉る怪異譚と言えます。

    「乙女の水ごり」
    船坂にある法然堂から更に200m程下った左手にかつてあった、五智院にまつわる怪異譚です。この寺の僧が、夜中に仏間の位牌がカタカタと物音を立てたので目を覚ますと、谷あいから水を浴びる音が聞こえてきました。谷に降りてみると、美しい女が水ごりをしていました。翌晩も同じことがあり、女人禁制の山で真夜中に若い女性が水浴びすることを不信に思っていると、女に見つかってしまいました。女は、「仏間の位牌は私のもの。私は五智院の前住職の妹ですが、若くして病で死にました。魂を比叡山に預けて沐浴の行を続ければ、極楽に行けると教えられました」と告げて消えたそうです。仏間に戻ると、小刻みに動いていた位牌だけがなくなっていたそうです。
    美しい女は浄土へ旅立ったのでしょうか、それとも今も比叡山の行場を巡り続けているのでしょうか…。

  • 延暦寺 東塔エリア 総持坊<br />根本中堂の奥にある総持坊という修行道場にも寄りたかったのですが、根本中堂の改修工事のため通行止めになっており、断念しました。ここも「比叡山七不思議」のひとつに当たります。<br />玄関には1枚の絵が掛けられています。その絵には、第18世座主 慈恵大師の弟子の慈忍和尚が描かれているのですが、その姿は一つ目、一本足で右手に鉦(かね)を持った奇っ怪なものです。<br />慈忍は、良源の厳しい教えを自ら実践し、他の修行僧にも厳しく指導していました。慈忍が亡くなった後、若い僧が修行を怠けたり、肉食や酒を飲んだりすると、その僧の前に一つ目小僧が現れ、「しっかり精進しろ!」と大声で怒鳴りつけたそうです。<br />慈忍和尚の墓所は比叡山の横川から東へ2km程離れた飯室谷と呼ばれる奥まった場所に佇みますが、この辺りを荒らすと祟りがあると伝えられ、「比叡山4魔所」のひとつとして畏れられています。<br />この写真は、次のHPから借用させていただきました。<br />http://ameblo.jp/kisaragi215/entry-12155843916.html

    延暦寺 東塔エリア 総持坊
    根本中堂の奥にある総持坊という修行道場にも寄りたかったのですが、根本中堂の改修工事のため通行止めになっており、断念しました。ここも「比叡山七不思議」のひとつに当たります。
    玄関には1枚の絵が掛けられています。その絵には、第18世座主 慈恵大師の弟子の慈忍和尚が描かれているのですが、その姿は一つ目、一本足で右手に鉦(かね)を持った奇っ怪なものです。
    慈忍は、良源の厳しい教えを自ら実践し、他の修行僧にも厳しく指導していました。慈忍が亡くなった後、若い僧が修行を怠けたり、肉食や酒を飲んだりすると、その僧の前に一つ目小僧が現れ、「しっかり精進しろ!」と大声で怒鳴りつけたそうです。
    慈忍和尚の墓所は比叡山の横川から東へ2km程離れた飯室谷と呼ばれる奥まった場所に佇みますが、この辺りを荒らすと祟りがあると伝えられ、「比叡山4魔所」のひとつとして畏れられています。
    この写真は、次のHPから借用させていただきました。
    http://ameblo.jp/kisaragi215/entry-12155843916.html

  • 延暦寺 東塔エリア 根本中堂(こんぽんちゅうどう:国宝)<br />漸く、本命の根本中堂へ向かいます。一隅会館前の広場まで戻り、右手の坂を下ります。<br />延暦寺では3塔(東塔・西塔・横川)にそれぞれ中心となる仏堂があり、これを「中堂」と呼んでいます。呼称の由来は、最澄創建の3堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置したことから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この3堂が後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名が残ったとされます。その中でも東塔の根本中堂は最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂に当たります。本尊は、最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられています。<br />延暦寺を開山した最澄が788(延暦7)年に創建した一乗止観院が前身であり、その後何回も災害に遭いましたが、復興の度に規模も大きくなりました。<br />現在の姿は、徳川家光の命で8年の歳月をかけて1642(寛永19)年に竣工したものです。本尊の前には、1200年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。 <br />建物は国宝に指定され、回廊は重文に指定されています。<br />2016年から約10年かけて平成の大改修が進行中です。

    延暦寺 東塔エリア 根本中堂(こんぽんちゅうどう:国宝)
    漸く、本命の根本中堂へ向かいます。一隅会館前の広場まで戻り、右手の坂を下ります。
    延暦寺では3塔(東塔・西塔・横川)にそれぞれ中心となる仏堂があり、これを「中堂」と呼んでいます。呼称の由来は、最澄創建の3堂(薬師堂・文殊堂・経蔵)の中心に位置したことから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この3堂が後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名が残ったとされます。その中でも東塔の根本中堂は最大の仏堂であり、延暦寺の総本堂に当たります。本尊は、最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられています。
    延暦寺を開山した最澄が788(延暦7)年に創建した一乗止観院が前身であり、その後何回も災害に遭いましたが、復興の度に規模も大きくなりました。
    現在の姿は、徳川家光の命で8年の歳月をかけて1642(寛永19)年に竣工したものです。本尊の前には、1200年間灯り続けている「不滅の法灯」も安置されています。
    建物は国宝に指定され、回廊は重文に指定されています。
    2016年から約10年かけて平成の大改修が進行中です。

  • 延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊(重文)<br />奈良 東大寺大仏殿、吉野 蔵王堂に次ぐ全国で3番目に大きい木造建築とされ、3方を回廊が囲んでいます。総欅造、屋根は一重、入母屋造です。回廊は、栩(とち)葺の軒唐破風を載せています。<br />南側に中庭を配置する寝殿造となっており、その中庭に日本中の神々を勧請する竹台があります。堂内は外・中・内陣と順に低くなる天台様式の異空間であり、内陣は外陣より3mも低い石敷きの土間になり、そこは僧が読経・修行する場所のため「修業の谷間」と称されます。内陣の本尊や不滅の法灯、中陣の参拝者の目線が同じ高さになる構造をしており、これが天台造や中堂造と呼ばれ、天台仏堂の特徴です。高みに安置された仏像を見上げるのではなく、仏像と同じ高さで対座し、仏に対面して仏法を思い信仰するという奥深い考え方のようです。<br />中陣の天井絵画は『百花の図』と言われ、200に及ぶ草花が極彩色で描かれています。柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれています。中陣中央には玉座があり、その上に昭和天皇宸筆「伝教」と書かれた額が掲げられています。<br />この門から先は、撮影が禁じられています。

    延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊(重文)
    奈良 東大寺大仏殿、吉野 蔵王堂に次ぐ全国で3番目に大きい木造建築とされ、3方を回廊が囲んでいます。総欅造、屋根は一重、入母屋造です。回廊は、栩(とち)葺の軒唐破風を載せています。
    南側に中庭を配置する寝殿造となっており、その中庭に日本中の神々を勧請する竹台があります。堂内は外・中・内陣と順に低くなる天台様式の異空間であり、内陣は外陣より3mも低い石敷きの土間になり、そこは僧が読経・修行する場所のため「修業の谷間」と称されます。内陣の本尊や不滅の法灯、中陣の参拝者の目線が同じ高さになる構造をしており、これが天台造や中堂造と呼ばれ、天台仏堂の特徴です。高みに安置された仏像を見上げるのではなく、仏像と同じ高さで対座し、仏に対面して仏法を思い信仰するという奥深い考え方のようです。
    中陣の天井絵画は『百花の図』と言われ、200に及ぶ草花が極彩色で描かれています。柱は76本あり、諸国の大名が寄進したことから「大名柱」と呼ばれています。中陣中央には玉座があり、その上に昭和天皇宸筆「伝教」と書かれた額が掲げられています。
    この門から先は、撮影が禁じられています。

  • 延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風<br />軒唐破風の虹梁の上には、大瓶束の両側を透かし彫りで飾った笈形が配され、虹梁と頭貫の間に蟇股が置かれています。<br /><br />根本中堂の薬師如来の宝前に掲げた「不滅の法灯」は永享の乱(1453年)の時は無事でしたが、信長の比叡山焼討ちに際して根本中堂と共に常灯明も失われました。ですから1585(天正13)に根本中堂が再建されるに当たり、分灯してあった山形市山寺の立石寺の火をここへ移し、法灯が復興されました。故に「不滅」だったとしています。<br />「不滅の法灯」は天台系の諸寺に多く見られますが、それらは根本中堂から分灯されてたものです。立石寺もそのひとつです。立石寺は慈覚大師 円仁の創建と伝えられていますが、詳しいことは判っていません。

    延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風
    軒唐破風の虹梁の上には、大瓶束の両側を透かし彫りで飾った笈形が配され、虹梁と頭貫の間に蟇股が置かれています。

    根本中堂の薬師如来の宝前に掲げた「不滅の法灯」は永享の乱(1453年)の時は無事でしたが、信長の比叡山焼討ちに際して根本中堂と共に常灯明も失われました。ですから1585(天正13)に根本中堂が再建されるに当たり、分灯してあった山形市山寺の立石寺の火をここへ移し、法灯が復興されました。故に「不滅」だったとしています。
    「不滅の法灯」は天台系の諸寺に多く見られますが、それらは根本中堂から分灯されてたものです。立石寺もそのひとつです。立石寺は慈覚大師 円仁の創建と伝えられていますが、詳しいことは判っていません。

  • 延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風<br />最澄が自ら刻んだと言う薬師瑠璃光如来像はどんな姿をしているのでしょうか?<br />『阿婆縛抄』によると、「施願無畏(通仏の相なり)これ苦しみを抜き楽を与えるの義なり。秘説にいわく、中堂薬師は施願・無畏なり。忠師みずからこれを見ゆ。(中略)東寺金堂ならびに南京の薬師寺像、右手を挙げて左手を垂らす。左足をもって右膝を押す、云々。あるいはいわく、和州室生寺薬師仏これに同じくするなり」とあります。<br />すなわち、印相は右手を挙げて左手を垂らした姿です。つまり、中堂薬師は、一般的な薬師如来像の印相「右手を挙げて左手に宝珠を載せる」という姿ではなく、釈迦如来や弥勒如来などの仏像と見分けが難しい様相をしており、東寺金堂の薬師如来像や室生寺金堂蔵の伝釈迦如来立像と同様の形像と推測されます。

    延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風
    最澄が自ら刻んだと言う薬師瑠璃光如来像はどんな姿をしているのでしょうか?
    『阿婆縛抄』によると、「施願無畏(通仏の相なり)これ苦しみを抜き楽を与えるの義なり。秘説にいわく、中堂薬師は施願・無畏なり。忠師みずからこれを見ゆ。(中略)東寺金堂ならびに南京の薬師寺像、右手を挙げて左手を垂らす。左足をもって右膝を押す、云々。あるいはいわく、和州室生寺薬師仏これに同じくするなり」とあります。
    すなわち、印相は右手を挙げて左手を垂らした姿です。つまり、中堂薬師は、一般的な薬師如来像の印相「右手を挙げて左手に宝珠を載せる」という姿ではなく、釈迦如来や弥勒如来などの仏像と見分けが難しい様相をしており、東寺金堂の薬師如来像や室生寺金堂蔵の伝釈迦如来立像と同様の形像と推測されます。

  • 延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風<br />蟇股にあるのは、「猿」!?木の上で遊んでいる姿にも見えます。確かに猿は、延暦寺の守り神であり、日吉大社の神の使い「神猿」でもあります。<br /><br />歴史を紐解くと、根本中堂焼失は信長の焼討ちだけではありません。室町幕府6代将軍 足利義教は、僧兵が増大した延暦寺を危惧して制圧を加えました。義教は、出家後、義円と称して延暦寺天台座主を務めていたのですが、将軍に抜擢されると還俗して座主を辞任したという特異な経歴の持ち主です。しかも将軍就任後は比叡山と対立しました。1435(永享7)年、何度も制圧の機会を諸大名からの和議推奨で逸していた義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首するに及びました。<br />反発した僧たちは、根本中堂に立籠って義教を非難しました。しかし義教は姿勢を変えず、絶望した僧たちは根本中堂に火を放って集団自決しました。その半年後、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、数年で竣工させました。また、1450(宝徳2)年、僅かに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に祀ったと伝えられています。<br />義教の延暦寺制圧は成功したかに見えましたが、後に義教が殺されると数千人規模の僧兵を備えるに至りました。やがて1499(明応8)年、管領 細川政元が対立する前将軍 足利義稙の入京に呼応して延暦寺を攻め、政元の家臣 赤沢朝経と波々伯部宗量による焼討ちで再び根本中堂は灰燼に帰しました。<br />更にこの後に灰燼と帰するのが信長の焼討ちです。戦国時代末期、信長が京都を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど反逆しました。1571(元亀2)年、延暦寺の僧兵は4千人規模となり、これを天下統一の障害とみた信長は、延暦寺に武装解除を再三要求し、拒否されたのを受けて焼払いました。延暦寺の堂塔は焼失し、多くの僧兵や僧が焼死しました。また記録によると「この時、叡山に居るはずのない大勢の女や子どもが逃げだした」とありますが、これは山麓の坂本の諸堂も炎上したため、町屋の住人たちが逃げた光景から伝わったものと考えられています。<br />そんな状況下、命からがら逃げた僧たちが武田信玄に庇護を求め、信玄は延暦寺復興を果たそうとするも道半ばで病死。その後も僧たちは辛酸を舐めさせられ続けましたが、信長が本能寺で倒れて以降、豊臣秀吉や徳川家の手により再興されました。しかし、家康の死後、天海により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されて以降、皇室から座主を迎え法親王として江戸寛永寺に滞在させるなど、天台宗の宗務の実権は江戸に移って行きました。

    延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風
    蟇股にあるのは、「猿」!?木の上で遊んでいる姿にも見えます。確かに猿は、延暦寺の守り神であり、日吉大社の神の使い「神猿」でもあります。

    歴史を紐解くと、根本中堂焼失は信長の焼討ちだけではありません。室町幕府6代将軍 足利義教は、僧兵が増大した延暦寺を危惧して制圧を加えました。義教は、出家後、義円と称して延暦寺天台座主を務めていたのですが、将軍に抜擢されると還俗して座主を辞任したという特異な経歴の持ち主です。しかも将軍就任後は比叡山と対立しました。1435(永享7)年、何度も制圧の機会を諸大名からの和議推奨で逸していた義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首するに及びました。
    反発した僧たちは、根本中堂に立籠って義教を非難しました。しかし義教は姿勢を変えず、絶望した僧たちは根本中堂に火を放って集団自決しました。その半年後、義教は焼失した根本中堂の再建を命じ、数年で竣工させました。また、1450(宝徳2)年、僅かに焼け残った本尊の一部から本尊を復元し、根本中堂に祀ったと伝えられています。
    義教の延暦寺制圧は成功したかに見えましたが、後に義教が殺されると数千人規模の僧兵を備えるに至りました。やがて1499(明応8)年、管領 細川政元が対立する前将軍 足利義稙の入京に呼応して延暦寺を攻め、政元の家臣 赤沢朝経と波々伯部宗量による焼討ちで再び根本中堂は灰燼に帰しました。
    更にこの後に灰燼と帰するのが信長の焼討ちです。 戦国時代末期、信長が京都を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど反逆しました。1571(元亀2)年、延暦寺の僧兵は4千人規模となり、これを天下統一の障害とみた信長は、延暦寺に武装解除を再三要求し、拒否されたのを受けて焼払いました。延暦寺の堂塔は焼失し、多くの僧兵や僧が焼死しました。また記録によると「この時、叡山に居るはずのない大勢の女や子どもが逃げだした」とありますが、これは山麓の坂本の諸堂も炎上したため、町屋の住人たちが逃げた光景から伝わったものと考えられています。
    そんな状況下、命からがら逃げた僧たちが武田信玄に庇護を求め、信玄は延暦寺復興を果たそうとするも道半ばで病死。その後も僧たちは辛酸を舐めさせられ続けましたが、信長が本能寺で倒れて以降、豊臣秀吉や徳川家の手により再興されました。しかし、家康の死後、天海により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されて以降、皇室から座主を迎え法親王として江戸寛永寺に滞在させるなど、天台宗の宗務の実権は江戸に移って行きました。

  • 延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風<br />こちらの蟇股は、鶴のようです。根本中堂は「国宝」ですが、回廊は「重文」です。その理由は、根本中堂より50年新しいからだそうです。<br /><br />薬師如来像は、1435(永享7)年の根本中堂が焼けた際に焼失し、1450(宝徳2)年に仏師に命じて焼け材を再利用して造立させています(『康富記』)。しかしこの像も信長の焼討ちで再度焼失し、現在の薬師如来立像は江戸時代の延暦寺再興の時に横蔵寺(岐阜県揖斐川町)から移座されたものです。<br />この像が選ばれた理由は、横蔵寺の薬師如来立像が最澄自刻であるとの記録が横蔵寺に残されていたことです(『立石寺文書』)。移座に際し、像内より金銅仏が取り出され、これが現在横蔵寺蔵の薬師如来立像です。横蔵寺蔵の薬師如来の印相は元々の中堂薬師像とは異なり、下に垂らした右手は衣の先を握り、左手に薬壷を持っています。裳裾に「邃授澄貞元廿一四」という銘文があり、「道邃が最澄に授ける。貞元21年(805)4月」と解釈されています。尚、この胎内薬師如来像は、最澄が唐より請来したものとされています。<br /><br />根本中堂は現在改修工事中ですが、拝観はできます。ただし、ただでさえ暗い中、更に覆いがかけられているため、真っ暗です。中陣の天井絵画『百花の図』は、何か描かれているなくらいにしか見えません。<br /><br />根本中堂を参拝した後は、大講堂などが建ち並ぶ高台へと歩を進めます。<br />この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨④延暦寺 東塔エリア(後編)でお届けいたします。

    延暦寺 東塔エリア 根本中堂 回廊の軒唐破風
    こちらの蟇股は、鶴のようです。根本中堂は「国宝」ですが、回廊は「重文」です。その理由は、根本中堂より50年新しいからだそうです。

    薬師如来像は、1435(永享7)年の根本中堂が焼けた際に焼失し、1450(宝徳2)年に仏師に命じて焼け材を再利用して造立させています(『康富記』)。しかしこの像も信長の焼討ちで再度焼失し、現在の薬師如来立像は江戸時代の延暦寺再興の時に横蔵寺(岐阜県揖斐川町)から移座されたものです。
    この像が選ばれた理由は、横蔵寺の薬師如来立像が最澄自刻であるとの記録が横蔵寺に残されていたことです(『立石寺文書』)。移座に際し、像内より金銅仏が取り出され、これが現在横蔵寺蔵の薬師如来立像です。横蔵寺蔵の薬師如来の印相は元々の中堂薬師像とは異なり、下に垂らした右手は衣の先を握り、左手に薬壷を持っています。裳裾に「邃授澄貞元廿一四」という銘文があり、「道邃が最澄に授ける。貞元21年(805)4月」と解釈されています。尚、この胎内薬師如来像は、最澄が唐より請来したものとされています。

    根本中堂は現在改修工事中ですが、拝観はできます。ただし、ただでさえ暗い中、更に覆いがかけられているため、真っ暗です。中陣の天井絵画『百花の図』は、何か描かれているなくらいにしか見えません。

    根本中堂を参拝した後は、大講堂などが建ち並ぶ高台へと歩を進めます。
    この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨④延暦寺 東塔エリア(後編)でお届けいたします。

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