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丁度1年前に高野山を訪ねた経緯から、次は比叡山延暦寺と心に秘めていました。しかし苦行で知られる延暦寺を訪ねるには、それなりの覚悟と体力が求められます。そして1年間の厳しい鍛錬(???)の成果を試す機会がついに訪れました。<br />アプローチは滋賀県側の坂本から京都府八瀬へ横断するコースです。体力勝負と書いたものの、登り下りは文明の利器を活用し、体力温存に努めました。<br />今回はそのプロローグとして大津市坂本にある「慈眼堂」をレポいたします。京阪電車 石山坂本線の北端「坂本駅」周辺は近江坂本と言い、日吉大社及び延暦寺の門前町として古くから栄え、比叡山を隠居した老僧が住み暮らした「里坊の町」として知られ、現在も50もの神社仏閣が密集しています。また、ここから東南方向にある琵琶湖畔には、宣教師ルイス・フロイスが『日本史』に「豪壮華麗で安土城に次ぐ名城」と記した、明智光秀の居城 坂本城が聳えていました。更には、坂本は穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団の出身地であり、里坊の石垣は自然石を巧みに積み上げた堅固ながら独特の落ち着いた雰囲気を漂わせています。<br />天海の廟所を「慈眼堂」と言い、日光輪王寺にも堂や墓所としてその名がありますが、ここ坂本にも存在します。1607(慶長12)年から比叡山 南光坊に住み込み、織田信長の比叡山焼討ち後の復興に尽力した天海大僧正の廟所です。<br />天海は、徳川家3代に亘ってブレーンを務め、徳川幕府260年の基礎を築いき、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。1643(寛永20)年に108歳で歿したとされますが、家光の命でその翌年に滋賀院の境内に廟所が建てられ、死後5年を経て朝廷から慈眼大師号を追贈されたことから、「慈眼堂」と呼ばれています。<br />坂本エリアのマップです。<br />http://www.hieizansakamoto.jp/sakamoto-map02.pdf<br />慈眼堂のマップです。<br />http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/content.asp?key=0402000000&amp;skey=48

九夏三伏 比叡山彷徨①坂本 慈眼堂

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2017/07/28 - 2017/07/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

丁度1年前に高野山を訪ねた経緯から、次は比叡山延暦寺と心に秘めていました。しかし苦行で知られる延暦寺を訪ねるには、それなりの覚悟と体力が求められます。そして1年間の厳しい鍛錬(???)の成果を試す機会がついに訪れました。
アプローチは滋賀県側の坂本から京都府八瀬へ横断するコースです。体力勝負と書いたものの、登り下りは文明の利器を活用し、体力温存に努めました。
今回はそのプロローグとして大津市坂本にある「慈眼堂」をレポいたします。京阪電車 石山坂本線の北端「坂本駅」周辺は近江坂本と言い、日吉大社及び延暦寺の門前町として古くから栄え、比叡山を隠居した老僧が住み暮らした「里坊の町」として知られ、現在も50もの神社仏閣が密集しています。また、ここから東南方向にある琵琶湖畔には、宣教師ルイス・フロイスが『日本史』に「豪壮華麗で安土城に次ぐ名城」と記した、明智光秀の居城 坂本城が聳えていました。更には、坂本は穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団の出身地であり、里坊の石垣は自然石を巧みに積み上げた堅固ながら独特の落ち着いた雰囲気を漂わせています。
天海の廟所を「慈眼堂」と言い、日光輪王寺にも堂や墓所としてその名がありますが、ここ坂本にも存在します。1607(慶長12)年から比叡山 南光坊に住み込み、織田信長の比叡山焼討ち後の復興に尽力した天海大僧正の廟所です。
天海は、徳川家3代に亘ってブレーンを務め、徳川幕府260年の基礎を築いき、「黒衣の宰相」とも呼ばれました。1643(寛永20)年に108歳で歿したとされますが、家光の命でその翌年に滋賀院の境内に廟所が建てられ、死後5年を経て朝廷から慈眼大師号を追贈されたことから、「慈眼堂」と呼ばれています。
坂本エリアのマップです。
http://www.hieizansakamoto.jp/sakamoto-map02.pdf
慈眼堂のマップです。
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/content.asp?key=0402000000&skey=48

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 世界遺産 比叡山延暦寺巡拝チケット <br />今回は京阪電鉄が発行している「世界遺産 比叡山延暦寺巡拝チケット 」(¥3300)を利用しました。具体的に計算はしていませんが、滋賀県坂本からアプローチして京都府八瀬に降りる比叡山横断ルートなら、断然お得なチケットです。(比叡山内シャトルバスは、ぼったくりかと思うほど高額です!)<br />チケットは京阪の各駅で販売しています。淀屋橋からスタートする場合は、地下鉄「御堂筋」線から京阪「淀屋橋」駅改札口に向かう途中、左右に通路が分かれますが、その左側通路沿いに駅事務所があり、そこで購入できます。7時前でしたが、すでにオープンしていました。

    世界遺産 比叡山延暦寺巡拝チケット
    今回は京阪電鉄が発行している「世界遺産 比叡山延暦寺巡拝チケット 」(¥3300)を利用しました。具体的に計算はしていませんが、滋賀県坂本からアプローチして京都府八瀬に降りる比叡山横断ルートなら、断然お得なチケットです。(比叡山内シャトルバスは、ぼったくりかと思うほど高額です!)
    チケットは京阪の各駅で販売しています。淀屋橋からスタートする場合は、地下鉄「御堂筋」線から京阪「淀屋橋」駅改札口に向かう途中、左右に通路が分かれますが、その左側通路沿いに駅事務所があり、そこで購入できます。7時前でしたが、すでにオープンしていました。

  • 京阪電気鉄道 石山坂本線「松ノ馬場」駅<br />距離的に目的地へのアクセスが短いため、石山坂本線の北端「坂本」駅の1つ手前の「松ノ馬場」駅で下車します。<br />残念ながら「浜大津」駅から乗ってきた車両は、ラッピング車両「ちはやふる」ではなく、石山坂本線のラインカラー「緑色」のごく普通の車両でした。<br />かるたの聖地「近江神宮」の最寄り駅が、石山坂本線の近江神宮前駅です。近江神宮の祭神 天智天皇は、小倉百人一首の巻頭に「秋の田のかりほの庵のとまを あらみわが衣手は露にぬれつつ」と御製を残され、その所縁で近江神宮は「かるたの殿堂」と称されています。

    京阪電気鉄道 石山坂本線「松ノ馬場」駅
    距離的に目的地へのアクセスが短いため、石山坂本線の北端「坂本」駅の1つ手前の「松ノ馬場」駅で下車します。
    残念ながら「浜大津」駅から乗ってきた車両は、ラッピング車両「ちはやふる」ではなく、石山坂本線のラインカラー「緑色」のごく普通の車両でした。
    かるたの聖地「近江神宮」の最寄り駅が、石山坂本線の近江神宮前駅です。近江神宮の祭神 天智天皇は、小倉百人一首の巻頭に「秋の田のかりほの庵のとまを あらみわが衣手は露にぬれつつ」と御製を残され、その所縁で近江神宮は「かるたの殿堂」と称されています。

  • 坂本<br />比叡山を借景に坂本の町並みを写したものがこれしかなく、フォーカスが甘くなっていますがご容赦願います。(コンデジで撮影)<br />ご覧のように比叡山は中腹から思いっきりガスっています。どうなることやら…。<br />デジイチは、リュックに凍らした飲料と共に詰め込んだため、結露してスタンバイできませんでした。皆さんもご注意ください。

    坂本
    比叡山を借景に坂本の町並みを写したものがこれしかなく、フォーカスが甘くなっていますがご容赦願います。(コンデジで撮影)
    ご覧のように比叡山は中腹から思いっきりガスっています。どうなることやら…。
    デジイチは、リュックに凍らした飲料と共に詰め込んだため、結露してスタンバイできませんでした。皆さんもご注意ください。

  • 坂本 オニユリ<br />ざれ歌に「立てばシャクヤク 座ればボタン 歩く姿はユリの花」とあり、美人をそれぞれの花の美しさに例えたものですが、花姿の美しさばかりでなく、いずれの花も婦人病に効く薬草で服用すると綺麗になるという意味もあるのかも知れません。ユリはその美しい花姿から現代では観賞花とされることが多いのですが、元来、薬用や食用の花です。オニユリやヤマユリの鱗茎(ユリ根)は漢方では百合の名で滋養、強壮、解熱等に用いられる薬となっています。また、古代から鱗茎は食用とされ、17世紀頃には国内でも栽培され、現在でも京料理や中華料理には欠かせない素材です。

    坂本 オニユリ
    ざれ歌に「立てばシャクヤク 座ればボタン 歩く姿はユリの花」とあり、美人をそれぞれの花の美しさに例えたものですが、花姿の美しさばかりでなく、いずれの花も婦人病に効く薬草で服用すると綺麗になるという意味もあるのかも知れません。ユリはその美しい花姿から現代では観賞花とされることが多いのですが、元来、薬用や食用の花です。オニユリやヤマユリの鱗茎(ユリ根)は漢方では百合の名で滋養、強壮、解熱等に用いられる薬となっています。また、古代から鱗茎は食用とされ、17世紀頃には国内でも栽培され、現在でも京料理や中華料理には欠かせない素材です。

  • 坂本 フユサンゴ<br />石垣の隙間に逞しく育つフユサンゴです。<br />ナス科ソラナム属の常緑低木。ブラジルなど南米を原産地とし、明治時代半ばに渡来しました。鳥の糞などによって運ばれたものが各地で野生化しており、ジャガイモやナスの仲間ですが、木に分類されています。<br />8月頃から冬にかけて黄色~オレンジ色の丸い果実が愉しめます。果実は有毒なため食用にはできませんが、長期間に亘って観賞できます。<br />名の由来は、夏から冬にかけて珊瑚のように美しいオレンジ色の実をつけることに因みます。 英語名 は「Jerusalem cherry」。チェリーとは言い得て妙ですが、エルサレム の由来が判りません。フユサンゴの実に毒があることと関係するのかと勘ぐってしまいますが、フユサンゴが発見された時代、欧州人にとり「エルサレム」という言葉は「遠くの異国の地」を代表する言葉だったようです。<br />花言葉は、「神秘的」「あどけない」「あなたを信じる」「愛情」。

    坂本 フユサンゴ
    石垣の隙間に逞しく育つフユサンゴです。
    ナス科ソラナム属の常緑低木。ブラジルなど南米を原産地とし、明治時代半ばに渡来しました。鳥の糞などによって運ばれたものが各地で野生化しており、ジャガイモやナスの仲間ですが、木に分類されています。
    8月頃から冬にかけて黄色~オレンジ色の丸い果実が愉しめます。果実は有毒なため食用にはできませんが、長期間に亘って観賞できます。
    名の由来は、夏から冬にかけて珊瑚のように美しいオレンジ色の実をつけることに因みます。 英語名 は「Jerusalem cherry」。チェリーとは言い得て妙ですが、エルサレム の由来が判りません。フユサンゴの実に毒があることと関係するのかと勘ぐってしまいますが、フユサンゴが発見された時代、欧州人にとり「エルサレム」という言葉は「遠くの異国の地」を代表する言葉だったようです。
    花言葉は、「神秘的」「あどけない」「あなたを信じる」「愛情」。

  • 坂本1丁目 頬焼(ほおやけ)地蔵尊の石碑<br />建物ではなく、入口に立つ石碑の文字「頬焼地蔵尊」に注目してください。<br />比叡山中学校の東隣りにある天台宗妙行院の本尊 木造地蔵尊は、かつては横川 般若谷(はんにゃだに)にあった地蔵尊で、「頬焼地蔵」と呼ばれています。その由来は、鎌倉時代に書かれた『宇治拾遺物語』や『元亨釈書』などにみられます。<br />『歴史と伝説の坂本』には次のように記されています。<br />昔、賀能という猟師がいた。ある日、横川の般若谷を通りかかった時ににわか雨があった。幸いにも近くにお堂があり、そこで雨宿りすることにした。堂内に入ると、荒れて雨漏りが激しく、本尊の地蔵像は雨晒しだった。気の毒に思った賀能は、せめていささかの雨除けと、自分が被っていた笠を地蔵像に着けてやった。<br />年月が流れ、年老いた賀能は病気が元で死んでしまった。殺生を業としていた賀能は、地獄へ墜ち、猛火にその身を焼かれることになった。鉄釜に賀能が投じられた時、一人の比丘(びく=僧)が現われて燃え盛る鉄釜の中に右手を差し伸べて救ってくれた。その比丘の体の右側は顔といわず肩から足まで黒焦げになった。そして言うことには、私は比叡山般若谷にいる地蔵である。かつてお前は雨漏りをみかねて笠を着せてくれた。その志に報いるため、自らが焼けるのも顧みず、お前を救ったのである。<br />そして気が付くと、賀能は蘇生していた。急いで般若谷の地蔵堂へ駆けつけ、地蔵尊を礼拝したところ、像の右側は焼けただれ、地獄で見たお姿とそっくりだったという。

    坂本1丁目 頬焼(ほおやけ)地蔵尊の石碑
    建物ではなく、入口に立つ石碑の文字「頬焼地蔵尊」に注目してください。
    比叡山中学校の東隣りにある天台宗妙行院の本尊 木造地蔵尊は、かつては横川 般若谷(はんにゃだに)にあった地蔵尊で、「頬焼地蔵」と呼ばれています。その由来は、鎌倉時代に書かれた『宇治拾遺物語』や『元亨釈書』などにみられます。
    『歴史と伝説の坂本』には次のように記されています。
    昔、賀能という猟師がいた。ある日、横川の般若谷を通りかかった時ににわか雨があった。幸いにも近くにお堂があり、そこで雨宿りすることにした。堂内に入ると、荒れて雨漏りが激しく、本尊の地蔵像は雨晒しだった。気の毒に思った賀能は、せめていささかの雨除けと、自分が被っていた笠を地蔵像に着けてやった。
    年月が流れ、年老いた賀能は病気が元で死んでしまった。殺生を業としていた賀能は、地獄へ墜ち、猛火にその身を焼かれることになった。鉄釜に賀能が投じられた時、一人の比丘(びく=僧)が現われて燃え盛る鉄釜の中に右手を差し伸べて救ってくれた。その比丘の体の右側は顔といわず肩から足まで黒焦げになった。そして言うことには、私は比叡山般若谷にいる地蔵である。かつてお前は雨漏りをみかねて笠を着せてくれた。その志に報いるため、自らが焼けるのも顧みず、お前を救ったのである。
    そして気が付くと、賀能は蘇生していた。急いで般若谷の地蔵堂へ駆けつけ、地蔵尊を礼拝したところ、像の右側は焼けただれ、地獄で見たお姿とそっくりだったという。

  • 坂本4丁目<br />穴太衆積みの石垣の一角に地蔵尊の小祠が埋め込まれています。<br />後世の物なのかは判りませんが、果たして何が祀られているのか興味深い所です。<br />実は、どこかへ通じる秘密の通路だったりして…。

    坂本4丁目
    穴太衆積みの石垣の一角に地蔵尊の小祠が埋め込まれています。
    後世の物なのかは判りませんが、果たして何が祀られているのか興味深い所です。
    実は、どこかへ通じる秘密の通路だったりして…。

  • 坂本4丁目<br />穴太衆積みの石垣が連なる美しい町です。<br />比叡山の堂宇の基礎となる石組を担った石工集団が穴太(あのう)村の者であったことから、「穴太積み」と名付けられています。その特徴は、自然石の組合せのみで積み上げ、小石を詰め石として用いる技法にあります。戦国時代以降、築城時の石垣造りで穴太衆が重用されましたが、寂しいことに今では坂本でも1軒しかその技術を伝承していないそうです。<br />コンクリートなどの擁壁は排水に問題があり、水圧のために亀裂が入ったり、次第に形が変わることが多いのですが、「穴太積み」の石垣は石の隙間から余分な水分を逃すため形が崩れ難いと言われています。この石垣は造られて400年近くなるそうですが、今も均整のとれた美しさを保持しています。

    坂本4丁目
    穴太衆積みの石垣が連なる美しい町です。
    比叡山の堂宇の基礎となる石組を担った石工集団が穴太(あのう)村の者であったことから、「穴太積み」と名付けられています。その特徴は、自然石の組合せのみで積み上げ、小石を詰め石として用いる技法にあります。戦国時代以降、築城時の石垣造りで穴太衆が重用されましたが、寂しいことに今では坂本でも1軒しかその技術を伝承していないそうです。
    コンクリートなどの擁壁は排水に問題があり、水圧のために亀裂が入ったり、次第に形が変わることが多いのですが、「穴太積み」の石垣は石の隙間から余分な水分を逃すため形が崩れ難いと言われています。この石垣は造られて400年近くなるそうですが、今も均整のとれた美しさを保持しています。

  • 坂本 権現馬場<br />「毘沙門天王」の石標を左折した先の坂道は、「日吉東照宮」へと通じる参道「権現馬場」です。<br />石標の左にある地蔵堂の背後(西側)が「理性院」になります。

    坂本 権現馬場
    「毘沙門天王」の石標を左折した先の坂道は、「日吉東照宮」へと通じる参道「権現馬場」です。
    石標の左にある地蔵堂の背後(西側)が「理性院」になります。

  • 坂本 権現馬場<br />杉並木の坂道を進みます。<br />最初は緩い勾配の坂道ですが、徐々に険しくなっていきます。

    坂本 権現馬場
    杉並木の坂道を進みます。
    最初は緩い勾配の坂道ですが、徐々に険しくなっていきます。

  • 坂本 権現馬場<br />途中、県道47号を挟んで、最後は急勾配な階段になります。<br />まるで「天国への階段」です。

    坂本 権現馬場
    途中、県道47号を挟んで、最後は急勾配な階段になります。
    まるで「天国への階段」です。

  • 坂本 比叡山幼稚園<br />カエルの彫像の前にある石碑には、「ひえいっ子 ぶじかえる 合掌」とあります。<br />

    坂本 比叡山幼稚園
    カエルの彫像の前にある石碑には、「ひえいっ子 ぶじかえる 合掌」とあります。

  • 坂本 権現馬場<br />カエルの彫像に感化されて「振りカエル」と、琵琶湖の対岸に通称「近江富士」と呼ばれる三上山(みかみやま)がくっきりとその姿を横たえています。

    坂本 権現馬場
    カエルの彫像に感化されて「振りカエル」と、琵琶湖の対岸に通称「近江富士」と呼ばれる三上山(みかみやま)がくっきりとその姿を横たえています。

  • 坂本 慈眼堂<br />息が切れ始める頃、救いの手を差し伸べるように、権現馬場の右手に延段が誘う小径が見えてきます。<br />この先にあるのが、目指す慈眼堂です。

    坂本 慈眼堂
    息が切れ始める頃、救いの手を差し伸べるように、権現馬場の右手に延段が誘う小径が見えてきます。
    この先にあるのが、目指す慈眼堂です。

  • 坂本 慈眼堂<br />まだ開門時間の9時前ですが、ラッキーなことに山門が開けられています。

    坂本 慈眼堂
    まだ開門時間の9時前ですが、ラッキーなことに山門が開けられています。

  • 坂本 慈眼堂<br />南側の山門から覗くと、延段の両側に配された石燈籠が廟所の雰囲気を醸しています。また、一面に敷き詰められた杉苔の緑と木々の緑のモノトーンに彩られ、しっとりと落ち着いた空気が漂っています。<br />

    坂本 慈眼堂
    南側の山門から覗くと、延段の両側に配された石燈籠が廟所の雰囲気を醸しています。また、一面に敷き詰められた杉苔の緑と木々の緑のモノトーンに彩られ、しっとりと落ち着いた空気が漂っています。

  • 坂本 慈眼堂 山門<br />年季の入った鄙びた味わいのある高麗門様式の山門を潜ります。<br />「慈眼堂」という名称は、天海の死後、1648(慶安元)年に後光明天皇から慈眼大師の諡号を賜ったことに由来しています。

    坂本 慈眼堂 山門
    年季の入った鄙びた味わいのある高麗門様式の山門を潜ります。
    「慈眼堂」という名称は、天海の死後、1648(慶安元)年に後光明天皇から慈眼大師の諡号を賜ったことに由来しています。

  • 坂本 慈眼堂<br />山門を潜ると、木立に囲まれ、杉苔の緑が目に鮮やかな空間が待っています。

    坂本 慈眼堂
    山門を潜ると、木立に囲まれ、杉苔の緑が目に鮮やかな空間が待っています。

  • 坂本 慈眼堂 ウマスギゴケ<br />隙間なく、一面をびっしり覆うウマスギゴケの姿は圧巻です。

    坂本 慈眼堂 ウマスギゴケ
    隙間なく、一面をびっしり覆うウマスギゴケの姿は圧巻です。

  • 坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所<br />石燈籠は16基立ち並び、これらは江戸時代初期に堂宇の建立からさほど時間を置かずに整備されたものだそうです。石燈籠が堂宇と一連の存在となり、独特の廟所景観を形成しているのも見所かもしれません。<br />開門一番と言うこともあり、寂寥とした佇まいにただただ圧倒されます。

    坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所
    石燈籠は16基立ち並び、これらは江戸時代初期に堂宇の建立からさほど時間を置かずに整備されたものだそうです。石燈籠が堂宇と一連の存在となり、独特の廟所景観を形成しているのも見所かもしれません。
    開門一番と言うこともあり、寂寥とした佇まいにただただ圧倒されます。

  • 坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所<br />石燈籠と延段が導く先にあるのは、天台宗の僧で徳川家康以下3代の将軍の政治顧問であった天海の坐像を安置する廟所です。<br />3代将軍 徳川家光が建造させた慈眼堂は、江戸時代初期の1646(正保3)年の竣工とされ、高く築かれた基壇の上に建てられ、簡素ながらも禅宗様式を基調とした正面・側面各3間の正方形をしており、宝形造、桟瓦葺の建物です。<br />屋根の頂部には、露盤と宝珠を載せています。<br />堂内には木造慈眼大師坐像(重文)を祀っていますが、拝観はできません。

    坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所
    石燈籠と延段が導く先にあるのは、天台宗の僧で徳川家康以下3代の将軍の政治顧問であった天海の坐像を安置する廟所です。
    3代将軍 徳川家光が建造させた慈眼堂は、江戸時代初期の1646(正保3)年の竣工とされ、高く築かれた基壇の上に建てられ、簡素ながらも禅宗様式を基調とした正面・側面各3間の正方形をしており、宝形造、桟瓦葺の建物です。
    屋根の頂部には、露盤と宝珠を載せています。
    堂内には木造慈眼大師坐像(重文)を祀っていますが、拝観はできません。

  • 坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所<br />軒は二軒繁垂木とし、頭貫木鼻や虹梁、火灯窓、桟唐戸の禅宗様式などから江戸時代初期の建立だと判ります。そして、軒の平行垂木や中央間の吹寄菱格子など、和様の要素も折衷されています。<br />天海は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。徳川家康の篤い信頼を受け、1607(慶長12)年から比叡山探題として叡山 南光坊に住み、織田信長の比叡山焼討ち後の延暦寺復興に尽力しました。南光坊天海、智楽院とも呼ばれ、諡号は慈眼大師です。

    坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所
    軒は二軒繁垂木とし、頭貫木鼻や虹梁、火灯窓、桟唐戸の禅宗様式などから江戸時代初期の建立だと判ります。そして、軒の平行垂木や中央間の吹寄菱格子など、和様の要素も折衷されています。
    天海は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。徳川家康の篤い信頼を受け、1607(慶長12)年から比叡山探題として叡山 南光坊に住み、織田信長の比叡山焼討ち後の延暦寺復興に尽力しました。南光坊天海、智楽院とも呼ばれ、諡号は慈眼大師です。

  • 坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所<br />『慈眼大師縁起』は、天海大僧正を次のように称しています。<br />「心気清朗にして明敏、人の毀誉褒貶に心を動かさず、憤怒の色無く、高貴に媚びず、卑賤を侮らず、心浩然として更に動くことなし」。<br />様々な資料に共通して言えるのは、深く物事の道理に通じる才知に優れ、ウイットに富み、人々に感動を与える天性を持ち合わせた性格だったことです。

    坂本 慈眼堂 慈眼大師廟所
    『慈眼大師縁起』は、天海大僧正を次のように称しています。
    「心気清朗にして明敏、人の毀誉褒貶に心を動かさず、憤怒の色無く、高貴に媚びず、卑賤を侮らず、心浩然として更に動くことなし」。
    様々な資料に共通して言えるのは、深く物事の道理に通じる才知に優れ、ウイットに富み、人々に感動を与える天性を持ち合わせた性格だったことです。

  • 坂本 慈眼堂 桓武天皇 御骨塔<br />天台座主らの廟所への入口になる中央階段の前には、鎌倉時代後期のものとされる巨大な桓武天皇 御骨塔が立っています。平安京遷都の際、最澄に命じて表鬼門を封じるために比叡山延暦寺を創建させたことを考えれば、比叡山に所縁の深い桓武天皇の供養塔が中心にあるのは妥当なところです。<br />また、高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の阿弥陀如来座像の他、 歴代天台座主の墓や歴史上の各界著名人の供養塔が立ち並んでおり、「墓マイラー」には垂涎の的になっています。

    坂本 慈眼堂 桓武天皇 御骨塔
    天台座主らの廟所への入口になる中央階段の前には、鎌倉時代後期のものとされる巨大な桓武天皇 御骨塔が立っています。平安京遷都の際、最澄に命じて表鬼門を封じるために比叡山延暦寺を創建させたことを考えれば、比叡山に所縁の深い桓武天皇の供養塔が中心にあるのは妥当なところです。
    また、高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の阿弥陀如来座像の他、 歴代天台座主の墓や歴史上の各界著名人の供養塔が立ち並んでおり、「墓マイラー」には垂涎の的になっています。

  • 坂本 慈眼堂 <br />慈眼堂に向かって左の高台は、近世以降の天台座主らの廟所になっており、多くの石造五輪塔や宝篋印塔などがあります。<br />この写真は、桓武天皇 御骨塔から南方(左側)を眺めた様子です。<br />

    坂本 慈眼堂
    慈眼堂に向かって左の高台は、近世以降の天台座主らの廟所になっており、多くの石造五輪塔や宝篋印塔などがあります。
    この写真は、桓武天皇 御骨塔から南方(左側)を眺めた様子です。

  • 坂本 慈眼堂 <br />この写真は、桓武天皇 御骨塔から北方(右側)を眺めた様子です。<br />ここに安置された供養塔群は「徳川家の威信」にかけるといった性格のものであり、どれも巨大で立派なものばかりです。<br /><br />

    坂本 慈眼堂
    この写真は、桓武天皇 御骨塔から北方(右側)を眺めた様子です。
    ここに安置された供養塔群は「徳川家の威信」にかけるといった性格のものであり、どれも巨大で立派なものばかりです。

  • 坂本 慈眼堂 石造九重塔(後陽成天皇供養塔)<br />慈眼堂は滋賀院門跡の敷地内の一画にある堂宇です。1615年(元和元)に江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天海が、後陽成天皇から京都 法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺が滋賀院です。<br />こうした所縁から、ここに供養塔が建てられたものと思われます。

    坂本 慈眼堂 石造九重塔(後陽成天皇供養塔)
    慈眼堂は滋賀院門跡の敷地内の一画にある堂宇です。1615年(元和元)に江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天海が、後陽成天皇から京都 法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺が滋賀院です。
    こうした所縁から、ここに供養塔が建てられたものと思われます。

  • 坂本 慈眼堂 慈眼大師(天海大僧正)塔<br />大師の廟所であるにも拘わらず、意外にも控え目なサイズの石塔です。<br />天海は108歳まで生きたとされ、秀忠と家光の両将軍に、健康の秘訣を伝授しています。<br />秀忠へ:長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼 時折ご下風あそばさるべし<br />家光へ:気はながく 務めはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ<br />「日湯」とは毎日入浴すること、「陀羅尼」は読経すること、「ご下風」は屁をすること、「色」は女人のことを指します。<br />天海自身の信念でもあり、100歳を超える長命を全うした所以でもあります。

    坂本 慈眼堂 慈眼大師(天海大僧正)塔
    大師の廟所であるにも拘わらず、意外にも控え目なサイズの石塔です。
    天海は108歳まで生きたとされ、秀忠と家光の両将軍に、健康の秘訣を伝授しています。
    秀忠へ:長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼 時折ご下風あそばさるべし
    家光へ:気はながく 務めはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ
    「日湯」とは毎日入浴すること、「陀羅尼」は読経すること、「ご下風」は屁をすること、「色」は女人のことを指します。
    天海自身の信念でもあり、100歳を超える長命を全うした所以でもあります。

  • 坂本 慈眼堂 石造九重塔(東照大権現供養塔)<br />東照大権現、つまり徳川家康の供養塔です。

    坂本 慈眼堂 石造九重塔(東照大権現供養塔)
    東照大権現、つまり徳川家康の供養塔です。

  • 坂本 慈眼堂 石造九重塔(後水尾天皇供養塔)<br />1634年 後水尾天皇より 滋賀院の寺号と寺領1千石を賜っています。<br />その所縁と思われます。

    坂本 慈眼堂 石造九重塔(後水尾天皇供養塔)
    1634年 後水尾天皇より 滋賀院の寺号と寺領1千石を賜っています。
    その所縁と思われます。

  • 坂本 慈眼堂 石造宝塔(新田義貞供養塔)<br />新田義貞は、「徳川家はその一族の末裔」と称しているため、ここに存在することに意義があるのでしょう。しかし、これは「家系のでっち上げ」としてよく話題に上るところです。<br />南北朝時代の武将 義貞は、鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となりました。しかし官軍総大将に任命されて尊氏に対抗して各地を転戦したものの、箱根や湊川の合戦で敗北。そして後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を連れて(天皇は和睦)殆ど敗走とも言える北陸への逃避行の末、勾当内侍(こうとうのないし)の兄 行房は金ヶ崎で自害、義貞は越前藤島で討死しています。勝者が編纂した歴史書は敗者に対して痛烈であり、その死を犬死(=無駄死)と形容するほどです。 <br />妻 勾当内侍は義貞の死を知り、三条河原で晒し首となっていた義貞の首を密かに持ち帰り、滝口寺に葬りました。そして庵を結んで出家、義貞の菩提を弔って余生を過ごしたといいます。『太平記』では、義貞は勾当内侍との別れを惜しんだがために出兵する時期を逸したと非難しています。故に勾当内侍は、尊氏を討つ機会を逸して義貞が滅亡した遠因を作った女性として蔑視されています。<br />京都嵯峨野にある滝口寺には、義貞の首塚から少し距離を置き、遠慮がちに勾当内侍の供養塔が鎮座しています。

    坂本 慈眼堂 石造宝塔(新田義貞供養塔)
    新田義貞は、「徳川家はその一族の末裔」と称しているため、ここに存在することに意義があるのでしょう。しかし、これは「家系のでっち上げ」としてよく話題に上るところです。
    南北朝時代の武将 義貞は、鎌倉幕府を倒し後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となりました。しかし官軍総大将に任命されて尊氏に対抗して各地を転戦したものの、箱根や湊川の合戦で敗北。そして後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を連れて(天皇は和睦)殆ど敗走とも言える北陸への逃避行の末、勾当内侍(こうとうのないし)の兄 行房は金ヶ崎で自害、義貞は越前藤島で討死しています。勝者が編纂した歴史書は敗者に対して痛烈であり、その死を犬死(=無駄死)と形容するほどです。
    妻 勾当内侍は義貞の死を知り、三条河原で晒し首となっていた義貞の首を密かに持ち帰り、滝口寺に葬りました。そして庵を結んで出家、義貞の菩提を弔って余生を過ごしたといいます。『太平記』では、義貞は勾当内侍との別れを惜しんだがために出兵する時期を逸したと非難しています。故に勾当内侍は、尊氏を討つ機会を逸して義貞が滅亡した遠因を作った女性として蔑視されています。
    京都嵯峨野にある滝口寺には、義貞の首塚から少し距離を置き、遠慮がちに勾当内侍の供養塔が鎮座しています。

  • 坂本 慈眼堂 <br />穴太積みの石垣の上段から見下ろした全景です。

    坂本 慈眼堂
    穴太積みの石垣の上段から見下ろした全景です。

  • 坂本 慈眼堂 <br />天海は、生年も諸説あり、前半生には不明な点も多いのですが、情報を紡いでみると、1536(天文5)年頃の生まれで隋風と号して天台宗を学び、近江では比叡山延暦寺や三井寺で修行しています。信長の比叡山焼討ちに遭って甲斐 武田信玄に招かれ、その後埼玉川越の無量寿寺北院(後の喜多院)に移って天海と号し、1599(慶長4)年に住職になっています。<br />家康と天海の出会いは、比叡山焼討ちの直前という説が多いのですが、真偽は不明です。家康が幕府を開くに当たり、天海の意見を汲んで江戸の地を選んだとの説もありますが、史実とされるほどの資料はないようです。<br />後半生の活躍は周知の通りで、家康以降の徳川将軍の篤い信頼を得、政治及び宗教顧問として幕府の確立にも尽力しました。特に「東照大権現」という家康の神号を定め、比叡山延暦寺の再建、川越大師(喜多院)の復興、日光東照宮の建設と輪王寺の復興、東叡山寛永寺(徳川家菩提寺)の創建等を行い、仏教の中心地を京都から関東へシフトさせたことは幕末まで大きな影響を与えました。大奥という巧妙な世継ぎシステムも天海のアイデアと言われています。

    坂本 慈眼堂
    天海は、生年も諸説あり、前半生には不明な点も多いのですが、情報を紡いでみると、1536(天文5)年頃の生まれで隋風と号して天台宗を学び、近江では比叡山延暦寺や三井寺で修行しています。信長の比叡山焼討ちに遭って甲斐 武田信玄に招かれ、その後埼玉川越の無量寿寺北院(後の喜多院)に移って天海と号し、1599(慶長4)年に住職になっています。
    家康と天海の出会いは、比叡山焼討ちの直前という説が多いのですが、真偽は不明です。家康が幕府を開くに当たり、天海の意見を汲んで江戸の地を選んだとの説もありますが、史実とされるほどの資料はないようです。
    後半生の活躍は周知の通りで、家康以降の徳川将軍の篤い信頼を得、政治及び宗教顧問として幕府の確立にも尽力しました。特に「東照大権現」という家康の神号を定め、比叡山延暦寺の再建、川越大師(喜多院)の復興、日光東照宮の建設と輪王寺の復興、東叡山寛永寺(徳川家菩提寺)の創建等を行い、仏教の中心地を京都から関東へシフトさせたことは幕末まで大きな影響を与えました。大奥という巧妙な世継ぎシステムも天海のアイデアと言われています。

  • 坂本 慈眼堂 石仏<br />穴太積みの石垣の上の小径沿いには阿弥陀如来の坐像が並んでいます。<br />これらの石仏は、室町時代後期に南近江を治める観音寺城城主の六角義賢(承禎)が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見て丁度対岸に当たる母の郷里 滋賀県高島郡鵜川に建立した花崗岩質の「鵜川四十八体石仏」の中の一部を移転したものです。<br />慈眼堂にある13体は、江戸初期に天海が移したと伝わります。石仏のひとつ一つがパーソナリティーに溢れた表情をなされており、見飽きることがありません。尚、「鵜川四十八体石仏」は、 現在、高嶋郡の鵜川に33体、この坂本の慈眼堂に13体が安置されており、残り2体の行方は不明だそうです。<br />因みに、鵜川にあるものより、こちらの石仏の方が保管状態が良いそうです。

    坂本 慈眼堂 石仏
    穴太積みの石垣の上の小径沿いには阿弥陀如来の坐像が並んでいます。
    これらの石仏は、室町時代後期に南近江を治める観音寺城城主の六角義賢(承禎)が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見て丁度対岸に当たる母の郷里 滋賀県高島郡鵜川に建立した花崗岩質の「鵜川四十八体石仏」の中の一部を移転したものです。
    慈眼堂にある13体は、江戸初期に天海が移したと伝わります。石仏のひとつ一つがパーソナリティーに溢れた表情をなされており、見飽きることがありません。 尚、「鵜川四十八体石仏」は、 現在、高嶋郡の鵜川に33体、この坂本の慈眼堂に13体が安置されており、残り2体の行方は不明だそうです。
    因みに、鵜川にあるものより、こちらの石仏の方が保管状態が良いそうです。

  • 坂本 慈眼堂 <br />右端(北側)にある宝塔です。<br />これらは、左から「紫式部」「和泉式部」「清少納言」の供養塔です。平安女流文学界の3才女の供養塔が仲睦まじく並んでいるのは、ご愛嬌と言えなくも…。 <br />因みに紫式部の作とされる『紫式部日記』には、和泉式部と清少納言を酷評した段落があります。白州正子著『私の百人一首』には、毒々しく辛辣と断った上でニュアンスが崩れることに配慮され、原文のみが記されています。<br />「清少納言ときたら、得意顔で嫌な人。知識をひけらかして漢詩文を書きまくっているけど、よく見ると稚拙なところがいっぱい。こんな風に人とは違うと思い込んでいい気になっている人は、化けの皮が剥がれて痛い目を見ること間違いなし。それに、エレガントさを気取っているけど、そんな人は白けて退屈な時でも感動的なことを探そうとして頓珍漢になるものよ。頓珍漢になった挙句に、行き着く果ては知れているわ」。<br />「和泉式部という人は、手紙のやりとりが絶妙だけれど、倫理的には感心しませんね。気軽に走り書きした恋文の何気ない言葉にも色香が漂うといった才覚があります。和歌はとても上手です。古典の知識や歌の理論に関してはプロの歌人のレベルとは言えませんが、口にまかせて出てくる言葉に必ず興のある一節が見られます。だからといって、和泉は他の人の詠んだ歌を理屈をこねて批判しているけど、そこまで理解しているとは思えません。口に歌を詠まれているのが見え見えといったところでしょうか。尊敬するほどの歌人とは思いませんね」。<br />いつの時代も女性の嫉妬は怖ろしいものです。<br />和歌の腕前では、どちらも紫式部より上位ではないでしょうか?

    坂本 慈眼堂
    右端(北側)にある宝塔です。
    これらは、左から「紫式部」「和泉式部」「清少納言」の供養塔です。平安女流文学界の3才女の供養塔が仲睦まじく並んでいるのは、ご愛嬌と言えなくも…。
    因みに紫式部の作とされる『紫式部日記』には、和泉式部と清少納言を酷評した段落があります。白州正子著『私の百人一首』には、毒々しく辛辣と断った上でニュアンスが崩れることに配慮され、原文のみが記されています。
    「清少納言ときたら、得意顔で嫌な人。知識をひけらかして漢詩文を書きまくっているけど、よく見ると稚拙なところがいっぱい。こんな風に人とは違うと思い込んでいい気になっている人は、化けの皮が剥がれて痛い目を見ること間違いなし。それに、エレガントさを気取っているけど、そんな人は白けて退屈な時でも感動的なことを探そうとして頓珍漢になるものよ。頓珍漢になった挙句に、行き着く果ては知れているわ」。
    「和泉式部という人は、手紙のやりとりが絶妙だけれど、倫理的には感心しませんね。気軽に走り書きした恋文の何気ない言葉にも色香が漂うといった才覚があります。和歌はとても上手です。古典の知識や歌の理論に関してはプロの歌人のレベルとは言えませんが、口にまかせて出てくる言葉に必ず興のある一節が見られます。だからといって、和泉は他の人の詠んだ歌を理屈をこねて批判しているけど、そこまで理解しているとは思えません。口に歌を詠まれているのが見え見えといったところでしょうか。尊敬するほどの歌人とは思いませんね」。
    いつの時代も女性の嫉妬は怖ろしいものです。
    和歌の腕前では、どちらも紫式部より上位ではないでしょうか?

  • 坂本 慈眼堂 <br />『百人一首』に撰ばれた清少納言の歌と言えば、「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」が有名です。この歌は、大津市逢坂の関で詠まれたものです。<br />和泉式部の病気が重くなり、死期を悟った折に病床から恋しい人を想い詠ったのが、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」です。<br />紫式部と大津の繋がりは、『源氏物語』に尽きます。石山寺の「源氏の間」に参籠して執筆したと伝えられています。因みに百人一首の歌は、「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな」です。

    坂本 慈眼堂
    『百人一首』に撰ばれた清少納言の歌と言えば、「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」が有名です。この歌は、大津市逢坂の関で詠まれたものです。
    和泉式部の病気が重くなり、死期を悟った折に病床から恋しい人を想い詠ったのが、「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」です。
    紫式部と大津の繋がりは、『源氏物語』に尽きます。石山寺の「源氏の間」に参籠して執筆したと伝えられています。因みに百人一首の歌は、「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな」です。

  • 坂本 慈眼堂 紫式部供養塔<br />疑問に思うのは、何故坂本の地に天海の廟所が築かれたかです。家光が天海所縁の比叡山の麓で眠らせてやりたいと思った根拠は何か?天海が比叡山で修業を積んだのは事実ですが、やがて仏教の中心地を京都から関東へシフトさせた張本人です。であれば、関東の方が天海を敬う人が多かったはずです。<br />「天海=明智光秀」という説をご存知でしょうか?家光まで絡んでいるとすれば、この説の裏付けになるかもしれません。光秀の最期は、居城 坂本城に逃げ戻る途上、京都山科 小栗栖の地で農民 中村長兵衛に竹槍で刺されて深手を負い、家臣 溝尾茂朝に介錯させて自刃したとするのが定説です。しかし秀吉が大村由己(秀吉の御伽衆)に書かせた『惟任退治記』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」とあるのですが、その40年後に小瀬甫庵が記した『太閤記』に初めて「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」と記されています。そして、現在定説の「竹槍で刺された」ことを初めて記したのが、元国学院大学教授 高柳光寿が著した『明智光秀』(1958年)です。<br />元々史料の少ない時代のことを、勝者が編纂した正史や意図的に広めた軍記物などの記述に根拠を求め、更に戦国史の泰斗と呼ばれた人物が創作まで加えた歴史記述がいつの間にか定着し、それが常識とされていたのです。<br />百姓に拾われた首が光秀のものでないことは、秀吉も分かっていたはずです。だとすれば、光秀はどこかで生きていたはずです。つまり、家康のブレーンであった天海こそが光秀ではないかという説です。勿論、本能寺の変は、家康と秀光が企てたとの前提です。秀吉もその情報はキャッチしていたはずです。何故なら、信長は本能寺で家康を暗殺することを企んでいたからです。それは光秀も周知のことでした。もしも天海が光秀であれば、光秀を半ば裏切って天下を取った家康のことを思えば、家光は光秀を生まれ故郷の地に眠らせて弔うことを考えたことでしょう。<br />因みに光秀ではなく、その娘婿 左馬之助秀満こそ天海だとの説もあります。また、天海の長寿命を鑑み、光秀と2代で天海だったとの説もあります。

    坂本 慈眼堂 紫式部供養塔
    疑問に思うのは、何故坂本の地に天海の廟所が築かれたかです。家光が天海所縁の比叡山の麓で眠らせてやりたいと思った根拠は何か?天海が比叡山で修業を積んだのは事実ですが、やがて仏教の中心地を京都から関東へシフトさせた張本人です。であれば、関東の方が天海を敬う人が多かったはずです。
    「天海=明智光秀」という説をご存知でしょうか?家光まで絡んでいるとすれば、この説の裏付けになるかもしれません。光秀の最期は、居城 坂本城に逃げ戻る途上、京都山科 小栗栖の地で農民 中村長兵衛に竹槍で刺されて深手を負い、家臣 溝尾茂朝に介錯させて自刃したとするのが定説です。しかし秀吉が大村由己(秀吉の御伽衆)に書かせた『惟任退治記』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」とあるのですが、その40年後に小瀬甫庵が記した『太閤記』に初めて「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」と記されています。そして、現在定説の「竹槍で刺された」ことを初めて記したのが、元国学院大学教授 高柳光寿が著した『明智光秀』(1958年)です。
    元々史料の少ない時代のことを、勝者が編纂した正史や意図的に広めた軍記物などの記述に根拠を求め、更に戦国史の泰斗と呼ばれた人物が創作まで加えた歴史記述がいつの間にか定着し、それが常識とされていたのです。
    百姓に拾われた首が光秀のものでないことは、秀吉も分かっていたはずです。だとすれば、光秀はどこかで生きていたはずです。つまり、家康のブレーンであった天海こそが光秀ではないかという説です。勿論、本能寺の変は、家康と秀光が企てたとの前提です。秀吉もその情報はキャッチしていたはずです。何故なら、信長は本能寺で家康を暗殺することを企んでいたからです。それは光秀も周知のことでした。もしも天海が光秀であれば、光秀を半ば裏切って天下を取った家康のことを思えば、家光は光秀を生まれ故郷の地に眠らせて弔うことを考えたことでしょう。
    因みに光秀ではなく、その娘婿 左馬之助秀満こそ天海だとの説もあります。また、天海の長寿命を鑑み、光秀と2代で天海だったとの説もあります。

  • 坂本 慈眼堂 和泉式部供養塔<br />2000年にTV放映された「世界ふしぎ発見」では、元警視庁委託筆跡鑑定人 森岡恒舟氏による 天海の「御遺訓/輪王寺所蔵」と光秀の「明智光秀覚書」との筆跡鑑定が行われ、「別人であるが、親子のような近親者かもしれない」と判定されました。しかし、2006年の「超歴史ミステリーロマン2」では、同一鑑定人が再び慎重に筆跡鑑定を行なったところ、「極めて強く似ている」と判定しています。光秀=天海説を押す番組ですので、番組の演出上やむを得ないことなのかもしれませんが…。

    坂本 慈眼堂 和泉式部供養塔
    2000年にTV放映された「世界ふしぎ発見」では、元警視庁委託筆跡鑑定人 森岡恒舟氏による 天海の「御遺訓/輪王寺所蔵」と光秀の「明智光秀覚書」との筆跡鑑定が行われ、「別人であるが、親子のような近親者かもしれない」と判定されました。しかし、2006年の「超歴史ミステリーロマン2」では、同一鑑定人が再び慎重に筆跡鑑定を行なったところ、「極めて強く似ている」と判定しています。光秀=天海説を押す番組ですので、番組の演出上やむを得ないことなのかもしれませんが…。

  • 坂本 慈眼堂 清少納言供養塔<br />元禄年間初頭から、光秀=天海という噂がすでに流布していたようです。<br />信長の比叡山焼討ちの寺院の復興、豊臣家に対する容赦ない施策、光秀の家老斉藤利三の娘 於福(後の春日の局)の重用などが噂の根拠です。光秀は領地では善政を行ない、領民に慕われていたことから、謎多き天海を光秀の再来と思った民が多かったのかも知れません。<br />そして更に都市伝説は発展し、坂本龍馬が光秀の子孫との説もあります。明智家の末裔が四国に渡り、出身地だった坂本の名を名乗って酒屋を始め、明智家の桔梗紋に似た、酒枡に桔梗の紋を使ったと言われています。<br />知れば知るほど謎が深まります。

    坂本 慈眼堂 清少納言供養塔
    元禄年間初頭から、光秀=天海という噂がすでに流布していたようです。
    信長の比叡山焼討ちの寺院の復興、豊臣家に対する容赦ない施策、光秀の家老斉藤利三の娘 於福(後の春日の局)の重用などが噂の根拠です。光秀は領地では善政を行ない、領民に慕われていたことから、謎多き天海を光秀の再来と思った民が多かったのかも知れません。
    そして更に都市伝説は発展し、坂本龍馬が光秀の子孫との説もあります。明智家の末裔が四国に渡り、出身地だった坂本の名を名乗って酒屋を始め、明智家の桔梗紋に似た、酒枡に桔梗の紋を使ったと言われています。
    知れば知るほど謎が深まります。

  • 坂本 慈眼堂 <br />「柿の種」という家光に絡む逸話があります。<br />家光との拝謁の際、柿が出された。天海は、食べ終えると柿の種を懐紙に包み、持ち帰ろうとした。家光が不思議に思って問うと、「持って帰って植える」と答えた。<br />「桃栗三年 柿八年」と言われるほど、収穫までに期間のかかる果物である。家光が「百歳もなるご老人には無駄なことでは?」とからかうと、「天下を治める者が、そのように性急な考えではいけない」と諭したという。<br />その後、天海から柿を献上された家光が産地を問うと、「拝領した柿の種から」と聞き、自らの予断を恥じたという。

    坂本 慈眼堂
    「柿の種」という家光に絡む逸話があります。
    家光との拝謁の際、柿が出された。天海は、食べ終えると柿の種を懐紙に包み、持ち帰ろうとした。家光が不思議に思って問うと、「持って帰って植える」と答えた。
    「桃栗三年 柿八年」と言われるほど、収穫までに期間のかかる果物である。家光が「百歳もなるご老人には無駄なことでは?」とからかうと、「天下を治める者が、そのように性急な考えではいけない」と諭したという。
    その後、天海から柿を献上された家光が産地を問うと、「拝領した柿の種から」と聞き、自らの予断を恥じたという。

  • 坂本 慈眼堂 <br />北端から南方を望んだ景色です。<br />天海の廟所というお触れからふらりと立ち寄った慈眼堂でしたが、「天海=明智光秀」説への飛躍、果ては平安女流文学界の3才女にまで思いを馳せることができました。これも静寂な異空間が与えてくれた、ひとときのご褒美かもしれません。<br />合掌!<br /><br />この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨②坂本 日吉東照宮でお届けいたします。

    坂本 慈眼堂
    北端から南方を望んだ景色です。
    天海の廟所というお触れからふらりと立ち寄った慈眼堂でしたが、「天海=明智光秀」説への飛躍、果ては平安女流文学界の3才女にまで思いを馳せることができました。これも静寂な異空間が与えてくれた、ひとときのご褒美かもしれません。
    合掌!

    この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨②坂本 日吉東照宮でお届けいたします。

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