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後編は、西塔エリアの中では比較的マイナーなスポットをレポいたします。<br />今回紹介するのは、もし時間に余裕があれば是非立ち寄っていただきたい、トレジャーハンター向けのスポットです。<br />比叡山に安置された石仏では最古とされ、鎌倉時代初期の藤原仏「弥勒石仏」や比叡山で信長の焼討ちを唯一逃れたと伝わる「瑠璃堂」、また特報として、訳ありで「比叡山3魔所」には公式発表されていない4ヶ所目の「究極の魔所」と言われる「狩籠(かりごめ)の丘」もレポいたします。「狩籠の丘」は、平安京の巽方向に跋扈する魑魅魍魎を捕え、この丘に封じ込めたとされる曰く付きの魔所ですので、霊感が強い方はご注意願います。<br />それでは魔境へご案内いたしましょう。心の準備はよろしいでしょうか?<br />比叡山延暦寺のHPです。<br />http://www.hieizan.or.jp/<br />比叡山マップです。<br />http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

九夏三伏 比叡山彷徨⑥延暦寺 西塔エリア(後編)

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2017/07/28 - 2017/07/28

6位(同エリア1614件中)

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

後編は、西塔エリアの中では比較的マイナーなスポットをレポいたします。
今回紹介するのは、もし時間に余裕があれば是非立ち寄っていただきたい、トレジャーハンター向けのスポットです。
比叡山に安置された石仏では最古とされ、鎌倉時代初期の藤原仏「弥勒石仏」や比叡山で信長の焼討ちを唯一逃れたと伝わる「瑠璃堂」、また特報として、訳ありで「比叡山3魔所」には公式発表されていない4ヶ所目の「究極の魔所」と言われる「狩籠(かりごめ)の丘」もレポいたします。「狩籠の丘」は、平安京の巽方向に跋扈する魑魅魍魎を捕え、この丘に封じ込めたとされる曰く付きの魔所ですので、霊感が強い方はご注意願います。
それでは魔境へご案内いたしましょう。心の準備はよろしいでしょうか?
比叡山延暦寺のHPです。
http://www.hieizan.or.jp/
比叡山マップです。
http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
  • 西塔エリアのマップです。<br />まず、現在位置を確認しましょう。<br />中央やや右上にある釈迦堂の上方にある細い道を通って相輪トウ(木偏に棠)ならびに弥勒石仏へ向かいます。尚、弥勒石仏の場所は相輪トウの反対側の道の先になりますが、このマップには道しか記されていません。「旅行の概要」にあるマップで場所を確認してください。

    西塔エリアのマップです。
    まず、現在位置を確認しましょう。
    中央やや右上にある釈迦堂の上方にある細い道を通って相輪トウ(木偏に棠)ならびに弥勒石仏へ向かいます。尚、弥勒石仏の場所は相輪トウの反対側の道の先になりますが、このマップには道しか記されていません。「旅行の概要」にあるマップで場所を確認してください。

  • 比叡山 西塔エリア 東谷<br />釈迦堂の左脇から、その裏手に伸びる山道を登って行きます。<br />登り始めて間もなく右手に折れる細い登り道があります。そこを進めば、香炉ヶ丘の十字路にでられます。<br />もし右折せずに真っ直ぐ進んだ場合は、Googleマップを見る分には奥比叡ドライブウェイに突き当たると思います。「瑠璃堂」だけを回りたい場合は、ここを直進してドライブウェイに突き当たり、旧黒谷道に合流してください。

    比叡山 西塔エリア 東谷
    釈迦堂の左脇から、その裏手に伸びる山道を登って行きます。
    登り始めて間もなく右手に折れる細い登り道があります。そこを進めば、香炉ヶ丘の十字路にでられます。
    もし右折せずに真っ直ぐ進んだ場合は、Googleマップを見る分には奥比叡ドライブウェイに突き当たると思います。「瑠璃堂」だけを回りたい場合は、ここを直進してドライブウェイに突き当たり、旧黒谷道に合流してください。

  • 比叡山 西塔エリア 東谷 十一面観音菩薩石仏<br />右折した細い道を登って行くと、左手に十一面観音菩薩石仏がポツンと佇んでおられます。高さ2m程あり、若々しいお顔でかすかに笑みが漏れています。

    比叡山 西塔エリア 東谷 十一面観音菩薩石仏
    右折した細い道を登って行くと、左手に十一面観音菩薩石仏がポツンと佇んでおられます。高さ2m程あり、若々しいお顔でかすかに笑みが漏れています。

  • 比叡山 西塔エリア 東谷<br />最後の詰めはこうした坂道です。<br />

    比叡山 西塔エリア 東谷
    最後の詰めはこうした坂道です。

  • 比叡山 西塔エリア 東谷<br />坂を登り切ると道標などが立つ開けた辻にでます。この辺りを西塔東谷 香炉ヶ丘と呼び、十字路を左側に行けば相輪トウ、反対の右側に行けば弥勒石仏に至ります。<br />真っ直ぐ行けば恐らく居士林齋食道場の方へ抜けるのだと思いますが、これは未確認です。

    比叡山 西塔エリア 東谷
    坂を登り切ると道標などが立つ開けた辻にでます。この辺りを西塔東谷 香炉ヶ丘と呼び、十字路を左側に行けば相輪トウ、反対の右側に行けば弥勒石仏に至ります。
    真っ直ぐ行けば恐らく居士林齋食道場の方へ抜けるのだと思いますが、これは未確認です。

  • 比叡山 西塔エリア 相輪トウ(重文)<br />辻の左側には相輪トウが見えます。五重塔などの先端に見られる銅製の相輪だけを地面に立てたようなものです。<br />正式には「浄菩提心無垢浄光摩尼幢相輪トウ」と言い、最澄が820(弘仁11)年に創建したものが始まりと伝えられています。この塔内には法華経や大日経など23部58巻が納められ、元々はこの付近にあった宝幢院の付属施設でしたが、宝幢院の廃絶後に相輪トウだけが残されました。<br />最澄は818(弘仁9)年に相継いで諸堂坊の建立を計画しましたが、宝幢院や相輪トウもその構想の一部でした。天台宗の根本経典のひとつである法華経には、釈迦が法華経を説法していると多宝塔が現出し、塔の中に安置されていた多宝如来が半座を空けて座を譲るという場面があります。それを具象化したのが宝幢院であり、相輪トウだとされています。相輪トウは1917(大正6)年に重文に指定されています。<br />宝幢院は恵亮が建立したもので、嘉祥年間(848~51年)に完成しています。千手観音像を安置し、そこで清和天皇の即位を祈祷したそうです。他にも等身大の不動・毘沙門三尊があったと伝えられます。

    比叡山 西塔エリア 相輪トウ(重文)
    辻の左側には相輪トウが見えます。五重塔などの先端に見られる銅製の相輪だけを地面に立てたようなものです。
    正式には「浄菩提心無垢浄光摩尼幢相輪トウ」と言い、最澄が820(弘仁11)年に創建したものが始まりと伝えられています。この塔内には法華経や大日経など23部58巻が納められ、元々はこの付近にあった宝幢院の付属施設でしたが、宝幢院の廃絶後に相輪トウだけが残されました。
    最澄は818(弘仁9)年に相継いで諸堂坊の建立を計画しましたが、宝幢院や相輪トウもその構想の一部でした。天台宗の根本経典のひとつである法華経には、釈迦が法華経を説法していると多宝塔が現出し、塔の中に安置されていた多宝如来が半座を空けて座を譲るという場面があります。それを具象化したのが宝幢院であり、相輪トウだとされています。相輪トウは1917(大正6)年に重文に指定されています。
    宝幢院は恵亮が建立したもので、嘉祥年間(848~51年)に完成しています。千手観音像を安置し、そこで清和天皇の即位を祈祷したそうです。他にも等身大の不動・毘沙門三尊があったと伝えられます。

  • 比叡山 西塔エリア 相輪トウ<br />現在の相輪トウは1896(明治29)年に再建されたもので、1970(昭和45)年に解体修理が行われています。<br />正面には、平安時代以来刻まれてきたとされる820(弘仁11)年の最澄撰の銘文が刻まれています。芯柱上に相輪(九輪)を付け、インドにある塔の原型とされています。<br />花崗岩2段積みの上に礎石を据え、木製の心柱に九輪、八葉、火焔付宝珠などを順次被せて組立て、4方に柱を立てて支えています。<br />全高14.5m、うち宝珠・九輪で構成される上部は8.5m、円柱の下部は6mです。往時は全高13.6m、うち上部は1m、銅桶は0.4m、円柱の下部は12.3mだったそうです。<br />玉垣の正面にある延暦寺寺紋は、古いデザインに当たる十六菊紋です。造られた時代が古いことの証左と言えます。現在の寺紋は、皇室の紋章と区別するために、菊花の芯に法輪や三諦星を重ねています。

    比叡山 西塔エリア 相輪トウ
    現在の相輪トウは1896(明治29)年に再建されたもので、1970(昭和45)年に解体修理が行われています。
    正面には、平安時代以来刻まれてきたとされる820(弘仁11)年の最澄撰の銘文が刻まれています。芯柱上に相輪(九輪)を付け、インドにある塔の原型とされています。
    花崗岩2段積みの上に礎石を据え、木製の心柱に九輪、八葉、火焔付宝珠などを順次被せて組立て、4方に柱を立てて支えています。
    全高14.5m、うち宝珠・九輪で構成される上部は8.5m、円柱の下部は6mです。往時は全高13.6m、うち上部は1m、銅桶は0.4m、円柱の下部は12.3mだったそうです。
    玉垣の正面にある延暦寺寺紋は、古いデザインに当たる十六菊紋です。造られた時代が古いことの証左と言えます。現在の寺紋は、皇室の紋章と区別するために、菊花の芯に法輪や三諦星を重ねています。

  • 比叡山 西塔エリア 相輪トウ<br />倒れないように、下部でこのように4本の柱でしっかり支えています。

    比叡山 西塔エリア 相輪トウ
    倒れないように、下部でこのように4本の柱でしっかり支えています。

  • 比叡山 西塔エリア 弥勒石仏<br />相輪トウから十字路の先へ真っ直ぐ進むと、弥勒石仏の光背の背面が見えてきます。<br />十字路から30m程の左手に佇みます。<br />

    比叡山 西塔エリア 弥勒石仏
    相輪トウから十字路の先へ真っ直ぐ進むと、弥勒石仏の光背の背面が見えてきます。
    十字路から30m程の左手に佇みます。

  • 比叡山 西塔エリア 弥勒石仏<br />香炉ヶ丘の高台に、高さ205cmもある花崗岩製の弥勒菩薩が鎮座しています。<br />比叡山にある石仏では最古とされ、鎌倉時代初期の藤原仏と推測されています。坐する円形反花座は別の石ですが、仏身と光背、台座の一部分が一体彫りされています。また、光背には、月輪内に梵字が陽刻されています。<br />降魔相をしており、二重円光を持ち、向かって右側の光背が大きく破損していますが、これは信長の比叡山焼討ちによる火炎の熱で割れたものと考えられています。満身創痍の状態ですが、よくぞ今まで遺されたものです。

    比叡山 西塔エリア 弥勒石仏
    香炉ヶ丘の高台に、高さ205cmもある花崗岩製の弥勒菩薩が鎮座しています。
    比叡山にある石仏では最古とされ、鎌倉時代初期の藤原仏と推測されています。坐する円形反花座は別の石ですが、仏身と光背、台座の一部分が一体彫りされています。また、光背には、月輪内に梵字が陽刻されています。
    降魔相をしており、二重円光を持ち、向かって右側の光背が大きく破損していますが、これは信長の比叡山焼討ちによる火炎の熱で割れたものと考えられています。満身創痍の状態ですが、よくぞ今まで遺されたものです。

  • 比叡山 西塔エリア 弥勒石仏<br />比叡山は古来多くの堂坊が立ち並ぶ巨大伽藍でした。しかし比叡山上には石造の遺品が極めて少なく、注目すべきものはないと長らく捨て置かれていました。ところが、香炉ヶ丘からこの石仏が発見され、俄かに情勢が変わりました。<br />伝説によると、釈迦堂供養の際に天人が香炉を手にして舞い降り、口に「敬礼天人大覚尊」から始まる四句文を唱えた。後に香炉をこの丘に埋めたことから、この地を「香炉ヶ丘」と呼ぶそうです。

    比叡山 西塔エリア 弥勒石仏
    比叡山は古来多くの堂坊が立ち並ぶ巨大伽藍でした。しかし比叡山上には石造の遺品が極めて少なく、注目すべきものはないと長らく捨て置かれていました。ところが、香炉ヶ丘からこの石仏が発見され、俄かに情勢が変わりました。
    伝説によると、釈迦堂供養の際に天人が香炉を手にして舞い降り、口に「敬礼天人大覚尊」から始まる四句文を唱えた。後に香炉をこの丘に埋めたことから、この地を「香炉ヶ丘」と呼ぶそうです。

  • 比叡山 西塔エリア 弥勒石仏<br />1959(昭和34)年、釈迦堂の解体修理が終盤に差しかかっていた頃、横川に参詣した篤信の一老女が、釈迦堂背後の高台に大きな石仏があることを語り、西塔輪番の小堀光詮師は半信半疑のまま、修理の工人に人の背丈ほどある熊笹の群生を刈り払わせたところ、この弥勒石像が出現したといいます。<br />藤原仏の名残を残す鎌倉時代初期のこの弥勒石仏は、叡山系と称される石仏の基になっている石仏です。叡山系とされる石仏の代表には、「北白川阿弥陀石仏」、「石像寺阿弥陀石仏」、「聞名寺阿弥陀石仏」、「戸寺阿弥陀石仏」、「大原阿弥陀石仏」などがあります。

    比叡山 西塔エリア 弥勒石仏
    1959(昭和34)年、釈迦堂の解体修理が終盤に差しかかっていた頃、横川に参詣した篤信の一老女が、釈迦堂背後の高台に大きな石仏があることを語り、西塔輪番の小堀光詮師は半信半疑のまま、修理の工人に人の背丈ほどある熊笹の群生を刈り払わせたところ、この弥勒石像が出現したといいます。
    藤原仏の名残を残す鎌倉時代初期のこの弥勒石仏は、叡山系と称される石仏の基になっている石仏です。叡山系とされる石仏の代表には、「北白川阿弥陀石仏」、「石像寺阿弥陀石仏」、「聞名寺阿弥陀石仏」、「戸寺阿弥陀石仏」、「大原阿弥陀石仏」などがあります。

  • 比叡山 西塔エリア 弥勒石仏<br />この石仏の特徴は背面にあり、中央に大きな月輪、左右に小さな月輪が彫られ、それぞれの月輪の中には釈迦三尊を表す梵字が浮き彫りされています。<br />また、中央下の深い四角の彫り込みは奉籠孔と考えられており、この中に経巻が納められていたと考えられています。

    比叡山 西塔エリア 弥勒石仏
    この石仏の特徴は背面にあり、中央に大きな月輪、左右に小さな月輪が彫られ、それぞれの月輪の中には釈迦三尊を表す梵字が浮き彫りされています。
    また、中央下の深い四角の彫り込みは奉籠孔と考えられており、この中に経巻が納められていたと考えられています。

  • 比叡山 西塔エリア 弥勒石仏<br />3つの月輪は、中央に「バク」(釈迦)、向かって左が「マン」(文殊)、右が「ウーン」(普賢)という釈迦三尊の種子を表しています。<br />雨晒しになっていますので、酸性雨が表面を溶かし梵字が見難くなっています。こうした所からも、地球環境が危機的状態にあることが窺えます。米国トランプ政権がパリ協定からの離脱を決定しましたが、地球温暖化という世界的な脅威を2の次にして「米国第一主義」を唱えるのは経済大国の凋落としか言いようがありません。「ノブレス・オブリージュ精神」を忘れた米国なんて全く魅力ないですね!しかし、安倍政権も同じ穴のムジナです。米国離脱が自明だったTPPを最優先した結果、COP22では日本は屈辱的な議決権のないオブザーバー参加に甘んじました。<br />一方、安倍政権の傲慢さは今年の平和祈念式典でも顕著でした。長崎市長は国民を代表して、核兵器禁止条約の批准を要求しました。しかし安倍首相は、「我が国のアプローチと異なるものであることから、署名、批准を行う考えはない」と一蹴。唯一の被爆国である日本が、この条約を批准しないのは被爆者ならびに日本人、否、世界中の人々の感情を逆撫でする暴挙であり、究極のパワハラです。そのような考えであれば、平和祈念式典に出席する資格はありません。口ばっかりで反省の色が全く見えない首相を諭すブレーンはいないのでしょうか?近年は悪代官の顔に見えて仕方ありません。そろそろ替え時では!?

    比叡山 西塔エリア 弥勒石仏
    3つの月輪は、中央に「バク」(釈迦)、向かって左が「マン」(文殊)、右が「ウーン」(普賢)という釈迦三尊の種子を表しています。
    雨晒しになっていますので、酸性雨が表面を溶かし梵字が見難くなっています。こうした所からも、地球環境が危機的状態にあることが窺えます。米国トランプ政権がパリ協定からの離脱を決定しましたが、地球温暖化という世界的な脅威を2の次にして「米国第一主義」を唱えるのは経済大国の凋落としか言いようがありません。「ノブレス・オブリージュ精神」を忘れた米国なんて全く魅力ないですね!しかし、安倍政権も同じ穴のムジナです。米国離脱が自明だったTPPを最優先した結果、COP22では日本は屈辱的な議決権のないオブザーバー参加に甘んじました。
    一方、安倍政権の傲慢さは今年の平和祈念式典でも顕著でした。長崎市長は国民を代表して、核兵器禁止条約の批准を要求しました。しかし安倍首相は、「我が国のアプローチと異なるものであることから、署名、批准を行う考えはない」と一蹴。唯一の被爆国である日本が、この条約を批准しないのは被爆者ならびに日本人、否、世界中の人々の感情を逆撫でする暴挙であり、究極のパワハラです。そのような考えであれば、平和祈念式典に出席する資格はありません。口ばっかりで反省の色が全く見えない首相を諭すブレーンはいないのでしょうか?近年は悪代官の顔に見えて仕方ありません。そろそろ替え時では!?

  • 比叡山 西塔エリア 円澄供養塔<br />弥勒石仏を堪能した後は、少し離れた所にある「狩籠(かりごめ)の丘」に向かいます。<br />香炉ヶ丘の十字路からも行けると思いましたが、釈迦堂に向かって右手にあるトイレを借りるため一旦釈迦堂まで戻りました。<br />釈迦堂の右側にある居士林齋食道場方面への道を辿ります。途中、右手奥に西塔を切り開いた第2世天台座主 寂光大師 円澄の供養塔が見られます。すったもんだの挙句に天台座主に落ち着いた円澄ですが、周囲の忖度があったのか供養塔は奥深い閑静な地に設けられています。通常、ここまで来られる参拝者はいないのでは…。

    比叡山 西塔エリア 円澄供養塔
    弥勒石仏を堪能した後は、少し離れた所にある「狩籠(かりごめ)の丘」に向かいます。
    香炉ヶ丘の十字路からも行けると思いましたが、釈迦堂に向かって右手にあるトイレを借りるため一旦釈迦堂まで戻りました。
    釈迦堂の右側にある居士林齋食道場方面への道を辿ります。途中、右手奥に西塔を切り開いた第2世天台座主 寂光大師 円澄の供養塔が見られます。すったもんだの挙句に天台座主に落ち着いた円澄ですが、周囲の忖度があったのか供養塔は奥深い閑静な地に設けられています。通常、ここまで来られる参拝者はいないのでは…。

  • 比叡山 西塔エリア<br />この道から奥比叡ドライブウェイに合流できると読んでいたのですが、いきなりトンネルに遭遇してしまいました。しかし道標は「仰木峠方面」となっていますので、東海自然歩道に合流したのは確かです。<br />トンネルを潜って暫く進むと、左手にドライブウェイが見える所に出ます。よく見ると「京都一周トレイル」と記された小さな道標があり、その先にドライブウェイに出られる獣道のようなルートがありました。<br />ドライブウェイに合流した所で進む方角をスマホのGPSで確認します。「狩籠の丘」へは、東方向へうねった坂道を上って行きます。

    比叡山 西塔エリア
    この道から奥比叡ドライブウェイに合流できると読んでいたのですが、いきなりトンネルに遭遇してしまいました。しかし道標は「仰木峠方面」となっていますので、東海自然歩道に合流したのは確かです。
    トンネルを潜って暫く進むと、左手にドライブウェイが見える所に出ます。よく見ると「京都一周トレイル」と記された小さな道標があり、その先にドライブウェイに出られる獣道のようなルートがありました。
    ドライブウェイに合流した所で進む方角をスマホのGPSで確認します。「狩籠の丘」へは、東方向へうねった坂道を上って行きます。

  • 比叡山 西塔エリア 狩籠(かりごめ)の丘<br />ドライブウェイとの合流地点から100mほど東北東の方角に位置します。<br />比叡山では「比叡山3魔所」が有名で、「元三大師御廟」、「慈忍和尚廟」、「天梯権現祠」が公式に発表されています。しかし、もうひとつの「究極の魔所」を加えた「比叡山4魔所」が本来の姿であり、公式見解から恣意的に省かれているのが「狩籠の丘」です。その理由は、ここが最も危険かつ強烈な魔界スポットであるため、延暦寺としては妄りに立ち入られたくないとの思いからです。<br />桓武天皇が長岡京から平安京に遷都した理由は、相次ぐ疫病や天災、近親者の死などが、讒言によって憤死した弟 早良親王の祟りと畏れられたためです。そこで桓武天皇は、比叡山を開いた天台宗の宗祖 最澄に魔物が鬼門から都に入ってこないよう守護を命じました。これに応じた最澄は、平安京の巽方向に跋扈する魑魅魍魎を捕え、この狩籠の丘に封じ込めたとされます。<br />特に祠が建立されているわけでもなく、何も知らずにここを訪れれば、普通の雑木林としか思えないくらい自然に溶け込んでいます。ごく自然に石の上に腰掛けたりするかもしれません。

    比叡山 西塔エリア 狩籠(かりごめ)の丘
    ドライブウェイとの合流地点から100mほど東北東の方角に位置します。
    比叡山では「比叡山3魔所」が有名で、「元三大師御廟」、「慈忍和尚廟」、「天梯権現祠」が公式に発表されています。しかし、もうひとつの「究極の魔所」を加えた「比叡山4魔所」が本来の姿であり、公式見解から恣意的に省かれているのが「狩籠の丘」です。その理由は、ここが最も危険かつ強烈な魔界スポットであるため、延暦寺としては妄りに立ち入られたくないとの思いからです。
    桓武天皇が長岡京から平安京に遷都した理由は、相次ぐ疫病や天災、近親者の死などが、讒言によって憤死した弟 早良親王の祟りと畏れられたためです。そこで桓武天皇は、比叡山を開いた天台宗の宗祖 最澄に魔物が鬼門から都に入ってこないよう守護を命じました。これに応じた最澄は、平安京の巽方向に跋扈する魑魅魍魎を捕え、この狩籠の丘に封じ込めたとされます。
    特に祠が建立されているわけでもなく、何も知らずにここを訪れれば、普通の雑木林としか思えないくらい自然に溶け込んでいます。ごく自然に石の上に腰掛けたりするかもしれません。

  • 比叡山 西塔エリア 狩籠の丘<br />丘の上にはピラミッド状の高さ1m程の3つの石が1辺9m程の正三角形を描くように配置され、その中心に魑魅魍魎が封じ込められています。3つの石は、真南、真北、真東の方角に配され、それらを結んだ正三角形は魔物が再び暴れ出さないために張られた「結界」と読み取れます。<br />現在も千日回峰行を行なう修行僧が夜中にここを通る際は、それまで使っていた提灯のロウソクを石の横に立て、新しいロウソクと取り替え、法華経を唱えながら立ち去るという魑魅魍魎封印の儀式を続け、僧たちは供養する気持ちで結界の中の魔物と向き合っておられるそうです。因みにこの場所では、ロウソクの灯が突然消えたとか、物の怪が見えたとか、怪奇現象が絶えないそうです。<br />昼間ゆえに特に違和感は覚えませんが、正三角形の中心部にある「もみじ」だけが血のように赤く染まっているのは不思議な光景です。<br />また、丘から暫く続く坂道は「餓鬼坂」と呼ばれ、修行僧たちは待ち受ける魔物たちにつけ込まれないよう、読経する以外は無言で通過しなければならないとの掟があるそうです。つまり、ここでは私語は禁止です。<br />魔物たちが目を覚まさないによう、遠巻きに写真だけ撮って早々に退散します。

    比叡山 西塔エリア 狩籠の丘
    丘の上にはピラミッド状の高さ1m程の3つの石が1辺9m程の正三角形を描くように配置され、その中心に魑魅魍魎が封じ込められています。3つの石は、真南、真北、真東の方角に配され、それらを結んだ正三角形は魔物が再び暴れ出さないために張られた「結界」と読み取れます。
    現在も千日回峰行を行なう修行僧が夜中にここを通る際は、それまで使っていた提灯のロウソクを石の横に立て、新しいロウソクと取り替え、法華経を唱えながら立ち去るという魑魅魍魎封印の儀式を続け、僧たちは供養する気持ちで結界の中の魔物と向き合っておられるそうです。因みにこの場所では、ロウソクの灯が突然消えたとか、物の怪が見えたとか、怪奇現象が絶えないそうです。
    昼間ゆえに特に違和感は覚えませんが、正三角形の中心部にある「もみじ」だけが血のように赤く染まっているのは不思議な光景です。
    また、丘から暫く続く坂道は「餓鬼坂」と呼ばれ、修行僧たちは待ち受ける魔物たちにつけ込まれないよう、読経する以外は無言で通過しなければならないとの掟があるそうです。つまり、ここでは私語は禁止です。
    魔物たちが目を覚まさないによう、遠巻きに写真だけ撮って早々に退散します。

  • 比叡山 西塔エリア 狩籠の丘<br />横川から乗ったシャトルバスの車内から撮影した「狩籠の丘」です。(バスの左側の座席から見られます。)<br />ブルーの立札に反応してとっさにカメラを構えましたが、残念な構図になってしまいました。<br />このように「狩籠の丘」は、今では誰もが見られる奥比叡ドライブウェイ脇にその胡乱な姿を晒しています。しかしドライブウェイが通るまでは、東海自然歩道からも距離を置き、道さえない辺鄙な場所だったことは想像に難くありません。何の因果か、車でなら容易にアクセスできる場所に変わってしまっています。しかし、立札には「狩籠の丘」の説明は一切ありません。隣地は広い空き地になっており、轍の跡が残されていたのでハイカーが立ち寄ったことが判ります。遊び半分で立ち寄ったハイカーが結界を超えていないことを願うばかりです。<br />場所は、ドライブウェイがSの字にうねる起点付近です。Googleマップにも「狩籠の丘」と表示されています。

    比叡山 西塔エリア 狩籠の丘
    横川から乗ったシャトルバスの車内から撮影した「狩籠の丘」です。(バスの左側の座席から見られます。)
    ブルーの立札に反応してとっさにカメラを構えましたが、残念な構図になってしまいました。
    このように「狩籠の丘」は、今では誰もが見られる奥比叡ドライブウェイ脇にその胡乱な姿を晒しています。しかしドライブウェイが通るまでは、東海自然歩道からも距離を置き、道さえない辺鄙な場所だったことは想像に難くありません。何の因果か、車でなら容易にアクセスできる場所に変わってしまっています。しかし、立札には「狩籠の丘」の説明は一切ありません。隣地は広い空き地になっており、轍の跡が残されていたのでハイカーが立ち寄ったことが判ります。遊び半分で立ち寄ったハイカーが結界を超えていないことを願うばかりです。
    場所は、ドライブウェイがSの字にうねる起点付近です。Googleマップにも「狩籠の丘」と表示されています。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷<br />狩籠の丘を後にして、次は「瑠璃堂」を目指します。<br />直線距離では近いのですが、ドライブウェイからの林道入口は狩籠の丘とは真逆になり、今来た道を戻ります。<br />途中、東海自然歩道からドライブウェイに合流した場所を右手に見送り、その先を5分程進むと道路右手にドライブウェイに並行して走る旧黒谷道への入口が見えてきます。(車両は進入禁止。)しかし、道標などはありません。

    比叡山 西塔エリア 北谷
    狩籠の丘を後にして、次は「瑠璃堂」を目指します。
    直線距離では近いのですが、ドライブウェイからの林道入口は狩籠の丘とは真逆になり、今来た道を戻ります。
    途中、東海自然歩道からドライブウェイに合流した場所を右手に見送り、その先を5分程進むと道路右手にドライブウェイに並行して走る旧黒谷道への入口が見えてきます。(車両は進入禁止。)しかし、道標などはありません。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷<br />林道は車両進入禁止になっていますが、轍の跡が確認できます。これは後で判ったことですが、この先にある正教坊(しょうきょうぼう)が改修を行っているため、工事用車両が通行しているためです。

    比叡山 西塔エリア 北谷
    林道は車両進入禁止になっていますが、轍の跡が確認できます。これは後で判ったことですが、この先にある正教坊(しょうきょうぼう)が改修を行っているため、工事用車両が通行しているためです。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />林道に入って5分強、少し道標もなく不安になりかけた頃、道の先に古色蒼然とした建物が見えてきます。手前に佇むのが瑠璃堂です。穴太積みされた石垣を背にしています。<br />奥に見えるのは、正教坊です。正教坊は、修復中のためブルーシートに包まれています。因みに瑠璃堂は、正教坊の持仏堂に当たります。

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    林道に入って5分強、少し道標もなく不安になりかけた頃、道の先に古色蒼然とした建物が見えてきます。手前に佇むのが瑠璃堂です。穴太積みされた石垣を背にしています。
    奥に見えるのは、正教坊です。正教坊は、修復中のためブルーシートに包まれています。因みに瑠璃堂は、正教坊の持仏堂に当たります。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />ガイドブック等には、信長の焼討ちを逃れた比叡山唯一の建物とアピールされています。西塔北谷に位置し、薬師瑠璃光如来を祀る、正面側面とも柱間数3間4方の正方形の入母屋造、檜皮葺、斗きょうは出組の小堂です。どことなく気品が漂う魅力的な建物です。<br />建立年代は様式手法から室町時代後期と考えられていますが、江戸時代に移築されたとの記録もあり、建立時期についてははっきりしていません。<br />柱の上だけでなく間にも組物を載せて詰組とするなど、室町時代後期の禅宗建築様式を基調としていますが、軒は扇形に垂木を配さず、平行に配する和様の手法が採られています。<br />因みに、延暦寺の現存建造物の中では転法輪堂に次いで古いものと推定されています。

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    ガイドブック等には、信長の焼討ちを逃れた比叡山唯一の建物とアピールされています。西塔北谷に位置し、薬師瑠璃光如来を祀る、正面側面とも柱間数3間4方の正方形の入母屋造、檜皮葺、斗きょうは出組の小堂です。どことなく気品が漂う魅力的な建物です。
    建立年代は様式手法から室町時代後期と考えられていますが、江戸時代に移築されたとの記録もあり、建立時期についてははっきりしていません。
    柱の上だけでなく間にも組物を載せて詰組とするなど、室町時代後期の禅宗建築様式を基調としていますが、軒は扇形に垂木を配さず、平行に配する和様の手法が採られています。
    因みに、延暦寺の現存建造物の中では転法輪堂に次いで古いものと推定されています。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />建立時期は史料がないため特定されていませんが、承澄が1275(建治元)年に編纂した図像集『阿娑縛抄』に西塔の一堂として描かれ、また鎌倉時代の延暦寺寺誌『叡岳要記』には「北谷 瑠璃堂(本仏薬師)」とあることから、少なくとも鎌倉時代には存在したと考えられています。<br />また、中世の伝承によると、瑠璃堂の本尊 薬師如来は、根本中堂の薬師如来と同じく清涼山の霊木で造られたとされています。

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    建立時期は史料がないため特定されていませんが、承澄が1275(建治元)年に編纂した図像集『阿娑縛抄』に西塔の一堂として描かれ、また鎌倉時代の延暦寺寺誌『叡岳要記』には「北谷 瑠璃堂(本仏薬師)」とあることから、少なくとも鎌倉時代には存在したと考えられています。
    また、中世の伝承によると、瑠璃堂の本尊 薬師如来は、根本中堂の薬師如来と同じく清涼山の霊木で造られたとされています。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />西塔寺誌『西塔堂舎並各坊世譜』(1714年)によると、瑠璃堂の建立は桃山時代の天正年間(1573~92)とし、その後江戸時代初期の1630(寛永7)年に3間の堂として新造され、1693(元禄6)年に正琳坊の跡地に移建したとあります。このように天正年間の建立、江戸時代前期に再建、その後移転という略歴が記されていますが、瑠璃堂はすでに鎌倉時代の延暦寺寺誌に記録があることから、創建年代の議論が醸される結果となっています。<br />瑠璃堂は、西塔北谷の中心的建造物であったが故に信長の焼討ちを免れたと考えるのは難しく、また建築様式は禅宗様を基調としており、『西塔堂舎並各坊世譜』の記述に従って禅寺の一堂を元禄年間に移建したものとする説もあります。実際、瑠璃堂は粽付円柱と礎石の間に木製礎盤が組込まれていますが、粽付円柱は室町時代様式であるのに対し、木製礎盤は時代が異なります。つまり、瑠璃堂は、移設・改修された結果、多様な様式を折衷した建造物になっており、創建年代を特定する足枷になっていると言えます。

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    西塔寺誌『西塔堂舎並各坊世譜』(1714年)によると、瑠璃堂の建立は桃山時代の天正年間(1573~92)とし、その後江戸時代初期の1630(寛永7)年に3間の堂として新造され、1693(元禄6)年に正琳坊の跡地に移建したとあります。このように天正年間の建立、江戸時代前期に再建、その後移転という略歴が記されていますが、瑠璃堂はすでに鎌倉時代の延暦寺寺誌に記録があることから、創建年代の議論が醸される結果となっています。
    瑠璃堂は、西塔北谷の中心的建造物であったが故に信長の焼討ちを免れたと考えるのは難しく、また建築様式は禅宗様を基調としており、『西塔堂舎並各坊世譜』の記述に従って禅寺の一堂を元禄年間に移建したものとする説もあります。実際、瑠璃堂は粽付円柱と礎石の間に木製礎盤が組込まれていますが、粽付円柱は室町時代様式であるのに対し、木製礎盤は時代が異なります。つまり、瑠璃堂は、移設・改修された結果、多様な様式を折衷した建造物になっており、創建年代を特定する足枷になっていると言えます。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />現在の瑠璃堂は桧皮葺ですが、1900(明治33)年の記録には柿葺とあります。つまり、後世に替えられています。何故こうした改修がなされたかと言うと、1918(大正7)年の修理工事の際、担当者が官報告示(国宝指定)に「桧皮葺」と誤って記されていたのを真に受け、記述通りに桧皮葺に替えてしまったそうです。往時、国宝指定の建物ですら、この体たらくです。官僚にありがちな、「現地・現物」の精神を怠ったことが大失敗の原因と思われます。<br />更に、現在の瑠璃堂は正面中央に桟唐戸がありますが、1912(明治45)年の写真には桟唐戸は見られず、これも大正の修理の際に推定復元してしまったものです。<br />このように後世に安易に改修されたこと等も手伝い、創建年代を同定する足枷になっているのは嘆かわしいことです。明治時代どころか大正時代に入っても、まだ日本の文化レベルは欧米に比べて低かったことの証左と言えます。

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    現在の瑠璃堂は桧皮葺ですが、1900(明治33)年の記録には柿葺とあります。つまり、後世に替えられています。何故こうした改修がなされたかと言うと、1918(大正7)年の修理工事の際、担当者が官報告示(国宝指定)に「桧皮葺」と誤って記されていたのを真に受け、記述通りに桧皮葺に替えてしまったそうです。往時、国宝指定の建物ですら、この体たらくです。官僚にありがちな、「現地・現物」の精神を怠ったことが大失敗の原因と思われます。
    更に、現在の瑠璃堂は正面中央に桟唐戸がありますが、1912(明治45)年の写真には桟唐戸は見られず、これも大正の修理の際に推定復元してしまったものです。
    このように後世に安易に改修されたこと等も手伝い、創建年代を同定する足枷になっているのは嘆かわしいことです。明治時代どころか大正時代に入っても、まだ日本の文化レベルは欧米に比べて低かったことの証左と言えます。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />その他の伝承によると、西塔北谷にあった古仙の霊崛に最澄自作の薬師如来を安置したのが始まりと伝えられています。<br />平安時代の元慶年間(877~85年)、本尊が光を放ち京の都を照らしたので、時の天皇 陽成天皇が不思議に思い、その光を尋ねたところ、ここに辿り着いたので、この寺が放光院の号を賜ったという逸話が残されています。<br />村上天皇の勅命により、延昌座主が梵刹を建てて、薬師大像・日光月光十二神将を安置したと伝えられています。<br />諸説ありますが、自分なりに解釈して素直な気持ちで建物を愛でればいいのではないでしょうか?

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    その他の伝承によると、西塔北谷にあった古仙の霊崛に最澄自作の薬師如来を安置したのが始まりと伝えられています。
    平安時代の元慶年間(877~85年)、本尊が光を放ち京の都を照らしたので、時の天皇 陽成天皇が不思議に思い、その光を尋ねたところ、ここに辿り着いたので、この寺が放光院の号を賜ったという逸話が残されています。
    村上天皇の勅命により、延昌座主が梵刹を建てて、薬師大像・日光月光十二神将を安置したと伝えられています。
    諸説ありますが、自分なりに解釈して素直な気持ちで建物を愛でればいいのではないでしょうか?

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />ある比叡山の僧が「自然から気をいただいて生きています」と言った言葉が判るような気がします。<br />入母屋の妻入りにある2重虹梁の上には、大瓶束が見られます。

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    ある比叡山の僧が「自然から気をいただいて生きています」と言った言葉が判るような気がします。
    入母屋の妻入りにある2重虹梁の上には、大瓶束が見られます。

  • 比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂<br />鬼瓦には卍のマークがあります。<br />卍はヒンドゥー教や仏教で吉兆を表すシンボルです。卍の形は、ヒンドゥー教の神ヴィシュヌの胸のつむじの形を示すものです。また、釈迦の胸にもあるありがたいシンボルです。<br /><br />この後、ドライブウェイまで戻り、その先にある西塔駐車場へ向かいました(5分強)。西塔駐車場からはシャトルバスに乗り、横川エリアへ向かいます。<br />この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨⑦延暦寺 横川エリア(前編)でお届けいたします。

    比叡山 西塔エリア 北谷 瑠璃堂
    鬼瓦には卍のマークがあります。
    卍はヒンドゥー教や仏教で吉兆を表すシンボルです。卍の形は、ヒンドゥー教の神ヴィシュヌの胸のつむじの形を示すものです。また、釈迦の胸にもあるありがたいシンボルです。

    この後、ドライブウェイまで戻り、その先にある西塔駐車場へ向かいました(5分強)。西塔駐車場からはシャトルバスに乗り、横川エリアへ向かいます。
    この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨⑦延暦寺 横川エリア(前編)でお届けいたします。

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