大津旅行記(ブログ) 一覧に戻る
比叡山延暦寺は総本堂「根本中堂」のある東塔エリアが中心ですが、堂宇は思いのほか広く分散しています。しかし、後編でレポするように、高台の聖域にある堂宇や西塔エリアとの境界にある浄土院など見所が満載です。また西塔や横川エリアも各々パーソナリティを持ち、そこで体感する印象は夫々異なります。回峰行者がそれらを縦断して歩くことから、比叡山全体を延暦寺の寺領・境内と捉えた方が判り易いかもしれません。それ故に、他の神社仏閣とは一線を画した魅力を秘めています。<br />第1は、山内が俗化されていないことです。平安仏教で並び称される高野山には寺内町があり、何でも一山の中で賄える状況とは正反対です。<br />第2は、修行が今も息づいていることです。1年程で修行道場を出される他の本山に比べ、最澄の気概を連綿と受け継いでいます。叡山学院や行院があり、山内寺院の住職には3年籠山行が科せられ、更に好相行や百日回峰、千日回峰、12年籠山行が伝承されています。千日回峰は、百日回峰後の7年間に、残り900日の回峰行を行ないます。700日目は「堂入り」と言い、9日間断食断水断眠で不動の真言を唱え続けます。途中で止めるには死ぬ覚悟が求められる過酷な行にも拘わらず、今でも果敢に挑む行者が存在するところに比叡山の計り知れない深さがあります。<br />第3は、教えの広さです。日本仏教を代表する祖師たちがここから巣立ちました。念仏は法然や親鸞が元祖と思われている方も多いのですが、その起源も比叡山の地にあります。禅宗もまた然り。栄西や道元も常座三昧行を修す比叡山から下り、一宗を開きました。<br />第4は、発信メッセージが判り易いことです。「一隅を照らす」運動が展開され、「国宝とは道心なり、誰もが仏となれる、仏としての働きをなせ」というシンプルなメッセージです。<br />比叡山延暦寺のHPです。<br />http://www.hieizan.or.jp/<br />比叡山マップです。<br />http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

九夏三伏 比叡山彷徨④延暦寺 東塔エリア(後編)

1094いいね!

2017/07/28 - 2017/07/28

5位(同エリア1620件中)

0

72

montsaintmichel

montsaintmichelさん

比叡山延暦寺は総本堂「根本中堂」のある東塔エリアが中心ですが、堂宇は思いのほか広く分散しています。しかし、後編でレポするように、高台の聖域にある堂宇や西塔エリアとの境界にある浄土院など見所が満載です。また西塔や横川エリアも各々パーソナリティを持ち、そこで体感する印象は夫々異なります。回峰行者がそれらを縦断して歩くことから、比叡山全体を延暦寺の寺領・境内と捉えた方が判り易いかもしれません。それ故に、他の神社仏閣とは一線を画した魅力を秘めています。
第1は、山内が俗化されていないことです。平安仏教で並び称される高野山には寺内町があり、何でも一山の中で賄える状況とは正反対です。
第2は、修行が今も息づいていることです。1年程で修行道場を出される他の本山に比べ、最澄の気概を連綿と受け継いでいます。叡山学院や行院があり、山内寺院の住職には3年籠山行が科せられ、更に好相行や百日回峰、千日回峰、12年籠山行が伝承されています。千日回峰は、百日回峰後の7年間に、残り900日の回峰行を行ないます。700日目は「堂入り」と言い、9日間断食断水断眠で不動の真言を唱え続けます。途中で止めるには死ぬ覚悟が求められる過酷な行にも拘わらず、今でも果敢に挑む行者が存在するところに比叡山の計り知れない深さがあります。
第3は、教えの広さです。日本仏教を代表する祖師たちがここから巣立ちました。念仏は法然や親鸞が元祖と思われている方も多いのですが、その起源も比叡山の地にあります。禅宗もまた然り。栄西や道元も常座三昧行を修す比叡山から下り、一宗を開きました。
第4は、発信メッセージが判り易いことです。「一隅を照らす」運動が展開され、「国宝とは道心なり、誰もが仏となれる、仏としての働きをなせ」というシンプルなメッセージです。
比叡山延暦寺のHPです。
http://www.hieizan.or.jp/
比叡山マップです。
http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
  • 東塔エリアのマップです。<br />このマップは、上方が北の方角を指します。<br />「旅行記の概要」にあるマップと併用すると判り易いと思います。<br />現在地は、東塔の中心にある「根本中堂」から少し下方に下がった、萬拝堂前の広場にいます。<br />ここから、その左側にある階段を登り、東塔の西エリアにある大講堂へ向かいます。

    東塔エリアのマップです。
    このマップは、上方が北の方角を指します。
    「旅行記の概要」にあるマップと併用すると判り易いと思います。
    現在地は、東塔の中心にある「根本中堂」から少し下方に下がった、萬拝堂前の広場にいます。
    ここから、その左側にある階段を登り、東塔の西エリアにある大講堂へ向かいます。

  • 延暦寺 東塔エリア 開運の鐘<br />根本中堂から萬拝堂前の広場に戻り、そこから右手に見える高台を目指します。<br />石段を上っていくと、朱色が目に鮮やかな大講堂広場にある入母屋造の堅牢そうな鐘楼が見えてきます。<br />現在は「開運の鐘」 と呼ばれていますが、かつては比叡山に一大事が起こった時に撞かれました。勿論、延暦寺焼討ちの時も撞かれたそうです。僧兵たちは鐘の音を合図に法衣の下に鎧を付けて太刀に薙刀のいでたちで大講堂前に集結したそうです。<br />梵鐘は、最澄に師事し義真に「摩訶止観」を学んだ光定が、勅命により平安時代の827年に鋳造したと伝えられています。鐘楼は1956年に焼失し、その後再建されたものですが、梵鐘は焼失を免れ、現在は国宝殿に保管されています。<br />一打¥50で撞けますが、「連打はお控え下さい」と書かれています。元々は、日吉山王の神輿を担いで都へ強訴するための合図の鐘です。「連打してこその鐘」と思わず苦笑いです。

    延暦寺 東塔エリア 開運の鐘
    根本中堂から萬拝堂前の広場に戻り、そこから右手に見える高台を目指します。
    石段を上っていくと、朱色が目に鮮やかな大講堂広場にある入母屋造の堅牢そうな鐘楼が見えてきます。
    現在は「開運の鐘」 と呼ばれていますが、かつては比叡山に一大事が起こった時に撞かれました。勿論、延暦寺焼討ちの時も撞かれたそうです。僧兵たちは鐘の音を合図に法衣の下に鎧を付けて太刀に薙刀のいでたちで大講堂前に集結したそうです。
    梵鐘は、最澄に師事し義真に「摩訶止観」を学んだ光定が、勅命により平安時代の827年に鋳造したと伝えられています。鐘楼は1956年に焼失し、その後再建されたものですが、梵鐘は焼失を免れ、現在は国宝殿に保管されています。
    一打¥50で撞けますが、「連打はお控え下さい」と書かれています。元々は、日吉山王の神輿を担いで都へ強訴するための合図の鐘です。「連打してこその鐘」と思わず苦笑いです。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂(重文)<br />大講堂は、その名の通り、僧の学問研鑚の場として発展し、議論や講義などを行う学問修行の道場です。大講堂で重視される法会に「法華大会 広学竪義」があります。法華大会は「法華十講」とも称され、法華経8巻に無量義経1巻・観普賢経1巻を合わせた、「法華三部経」10巻を講説する法会です。<br />本尊は胎蔵界大日如来像、その右に十一面観音、左に弥勒菩薩が祀られています。その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍…といった錚々たる顔ぶれです。<br />また、外陣には釈迦をはじめ仏教・天台宗所縁の高僧の肖像画が掛けられています。<br />尚、最澄が講堂の地に埋めたとされる鏡は、義真が天長年間に大講堂を造立した時に本尊の腹中に納め、大講堂が焼失した際には灰の中から件の鏡を取り出し、本尊を新造する際に再度腹中に納めたと伝わります(『叡岳要記』)。<br />紫色の幕には、延暦寺寺紋が躍っています。十六菊紋は、現在天皇家の紋となっていますが、元々この紋は「比叡菊」を紋様化した延暦寺の寺紋だったそうです。しかし、皇室の紋として使いたいとのお言葉があり、天台宗が献上したとされています。寺紋と同じでは申し訳ないため、菊花の芯に法輪や三諦星を重ね寺紋や宗紋としたそうです。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂(重文)
    大講堂は、その名の通り、僧の学問研鑚の場として発展し、議論や講義などを行う学問修行の道場です。大講堂で重視される法会に「法華大会 広学竪義」があります。法華大会は「法華十講」とも称され、法華経8巻に無量義経1巻・観普賢経1巻を合わせた、「法華三部経」10巻を講説する法会です。
    本尊は胎蔵界大日如来像、その右に十一面観音、左に弥勒菩薩が祀られています。その左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍…といった錚々たる顔ぶれです。
    また、外陣には釈迦をはじめ仏教・天台宗所縁の高僧の肖像画が掛けられています。
    尚、最澄が講堂の地に埋めたとされる鏡は、義真が天長年間に大講堂を造立した時に本尊の腹中に納め、大講堂が焼失した際には灰の中から件の鏡を取り出し、本尊を新造する際に再度腹中に納めたと伝わります(『叡岳要記』)。
    紫色の幕には、延暦寺寺紋が躍っています。十六菊紋は、現在天皇家の紋となっていますが、元々この紋は「比叡菊」を紋様化した延暦寺の寺紋だったそうです。しかし、皇室の紋として使いたいとのお言葉があり、天台宗が献上したとされています。寺紋と同じでは申し訳ないため、菊花の芯に法輪や三諦星を重ね寺紋や宗紋としたそうです。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />法会の舞台と言える建物ですが、幾度も焼失しては再建が繰り返されてきました。現在の建物は、初代から数えて10代目です。正面中央に向拝を持たせた、単層入母屋造、銅板葺です。1761(宝暦11)年の修理で屋根を桧皮葺から銅板葺に改めたとの記録があります。<br />大講堂は、平安時代初期の淳和天皇の天長年間(824~34年)に義真によって創建されたのが初めと伝わります。現在の建物は1963(昭和38)年に比叡山山麓の坂本にあった「讃仏堂(旧東照宮本地堂)」を移築したもので、1634(寛永11)年の建立です。移築に当たっては、山上の湿気対策のため、側廻りをガラス障子に変え、また外部に丹塗・彩色塗を施すなどの変更を加えています。<br />東照宮本地堂は、家康の遺命により家光が天海大僧正に命じて建立させたもので、勅許によって比叡山山麓の真葛原に鎮座していました。幕藩体制下では重視され、代々の将軍の忌日には三院の論議が行なわれましたが、明治維新を迎えて東照宮信仰は衰退の憂き目に遭いました。神仏分離令により、東照宮は日吉大社に、本地堂は名を讃仏堂と名を改めて延暦寺に分割管理されました。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    法会の舞台と言える建物ですが、幾度も焼失しては再建が繰り返されてきました。現在の建物は、初代から数えて10代目です。正面中央に向拝を持たせた、単層入母屋造、銅板葺です。1761(宝暦11)年の修理で屋根を桧皮葺から銅板葺に改めたとの記録があります。
    大講堂は、平安時代初期の淳和天皇の天長年間(824~34年)に義真によって創建されたのが初めと伝わります。現在の建物は1963(昭和38)年に比叡山山麓の坂本にあった「讃仏堂(旧東照宮本地堂)」を移築したもので、1634(寛永11)年の建立です。移築に当たっては、山上の湿気対策のため、側廻りをガラス障子に変え、また外部に丹塗・彩色塗を施すなどの変更を加えています。
    東照宮本地堂は、家康の遺命により家光が天海大僧正に命じて建立させたもので、勅許によって比叡山山麓の真葛原に鎮座していました。幕藩体制下では重視され、代々の将軍の忌日には三院の論議が行なわれましたが、明治維新を迎えて東照宮信仰は衰退の憂き目に遭いました。神仏分離令により、東照宮は日吉大社に、本地堂は名を讃仏堂と名を改めて延暦寺に分割管理されました。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />大講堂広場にある鐘楼にも「比叡山七不思議」のひとつが語り継がれています。<br />「なすび婆あ」という慈眼大師 天海にまつわる怪異譚です。<br />天海は、家康・秀忠・家光の宗教・政治顧問として絶大な力を振るい、「黒衣の宰相」と呼ばれた人物です。信長の焼討ちで焼失した比叡山の復興に尽力し、徳川家の援助を得て根本中堂、大講堂などの主要堂塔を再建した人物です。<br />ある夜更け、天海が住する南光坊の門を叩く音がしました。小僧が出てみると、顔がなすびのように黒紫色をした老女がニヤニヤしながら立っており、やがてふっと姿を消しました。天海の話によると、女は昔宮中に仕えていたが、人を殺して身を地獄に落とされた。しかし、仏の慈悲で心は比叡山に住むことを許されたため、人目につかぬよう夜の山を彷徨しているのだと言う。<br />また、「なすび婆あ」は、信長が比叡山焼討ちを図った時、大講堂前の鐘を撞いて急を知らせたとも言われています(『大津の伝説』)。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    大講堂広場にある鐘楼にも「比叡山七不思議」のひとつが語り継がれています。
    「なすび婆あ」という慈眼大師 天海にまつわる怪異譚です。
    天海は、家康・秀忠・家光の宗教・政治顧問として絶大な力を振るい、「黒衣の宰相」と呼ばれた人物です。信長の焼討ちで焼失した比叡山の復興に尽力し、徳川家の援助を得て根本中堂、大講堂などの主要堂塔を再建した人物です。
    ある夜更け、天海が住する南光坊の門を叩く音がしました。小僧が出てみると、顔がなすびのように黒紫色をした老女がニヤニヤしながら立っており、やがてふっと姿を消しました。天海の話によると、女は昔宮中に仕えていたが、人を殺して身を地獄に落とされた。しかし、仏の慈悲で心は比叡山に住むことを許されたため、人目につかぬよう夜の山を彷徨しているのだと言う。
    また、「なすび婆あ」は、信長が比叡山焼討ちを図った時、大講堂前の鐘を撞いて急を知らせたとも言われています(『大津の伝説』)。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />大講堂は、1951(昭和26)年に総工費998万円をかけて大修理を終えましたが、その5年後に焼失しています。<br />1956(昭和31)年10月11日未明、大講堂から火の手が上がり、延暦寺の宿直者20人が消火に努めるも手の尽くしようがなく全焼しました。安置されていた重文の持国天像・多聞天像・釈迦如来像・阿弥陀如来坐像・大日如来像・弥勒像も大講堂と共に灰燼に帰しています。翌日、修学旅行で比叡山を訪れた甲府高校の生徒100名は、瓦礫と化した堂宇を見学し、唖然としたそうです。<br />失火と放火の両面から捜査が進められ、延べ1000人もの刑事を動員し、1500人に事情聴取した結果、延暦寺山上事務所受付係の19歳の少年が放火の容疑で逮捕されました。少年は別件の賽銭窃盗容疑で逮捕され、同日に放火を自白しました。上司から無断下山を叱責され、これを恨みに思った末の犯行でした。大講堂の扉を合鍵で開け、東南の隅に立てかけてあった畳にマッチで放火。但し、上司の叱責と言う発作的な面だけでなく、受付係という低い職務への不満や学歴コンプレックス、夢見た結婚の破談なども複雑に絡んだ末の放火だったようです。<br />1950年に見習い僧侶が起こした金閣寺放火事件を彷彿とさせる事件と思われます。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    大講堂は、1951(昭和26)年に総工費998万円をかけて大修理を終えましたが、その5年後に焼失しています。
    1956(昭和31)年10月11日未明、大講堂から火の手が上がり、延暦寺の宿直者20人が消火に努めるも手の尽くしようがなく全焼しました。安置されていた重文の持国天像・多聞天像・釈迦如来像・阿弥陀如来坐像・大日如来像・弥勒像も大講堂と共に灰燼に帰しています。翌日、修学旅行で比叡山を訪れた甲府高校の生徒100名は、瓦礫と化した堂宇を見学し、唖然としたそうです。
    失火と放火の両面から捜査が進められ、延べ1000人もの刑事を動員し、1500人に事情聴取した結果、延暦寺山上事務所受付係の19歳の少年が放火の容疑で逮捕されました。少年は別件の賽銭窃盗容疑で逮捕され、同日に放火を自白しました。上司から無断下山を叱責され、これを恨みに思った末の犯行でした。大講堂の扉を合鍵で開け、東南の隅に立てかけてあった畳にマッチで放火。但し、上司の叱責と言う発作的な面だけでなく、受付係という低い職務への不満や学歴コンプレックス、夢見た結婚の破談なども複雑に絡んだ末の放火だったようです。
    1950年に見習い僧侶が起こした金閣寺放火事件を彷彿とさせる事件と思われます。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />側方に回ると、入母屋造の妻入りに上下2段になった2重虹梁と大瓶束が見られます。軒の構造は、平行垂木です。<br />長押を廻らせ、蔀戸を用いた和様を基調としていますが、2重虹梁や大瓶束の妻飾、桟唐戸など禅宗様式も巧みに取り入れた和漢折衷様式になっています。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    側方に回ると、入母屋造の妻入りに上下2段になった2重虹梁と大瓶束が見られます。軒の構造は、平行垂木です。
    長押を廻らせ、蔀戸を用いた和様を基調としていますが、2重虹梁や大瓶束の妻飾、桟唐戸など禅宗様式も巧みに取り入れた和漢折衷様式になっています。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />三ツ花懸魚には、六葉の下に黄金色に輝く天台宗輪宝が嵌め込まれています。また、隅木の先端には飾り金具が被せられ、そこにも輪宝の文様が見られます。<br />こうした輪宝は、移築の際に施されたものと思われます。<br />

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    三ツ花懸魚には、六葉の下に黄金色に輝く天台宗輪宝が嵌め込まれています。また、隅木の先端には飾り金具が被せられ、そこにも輪宝の文様が見られます。
    こうした輪宝は、移築の際に施されたものと思われます。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />大講堂正面に張られた幕の上に、極彩色に彩られた3つの蟇股があります。<br />左側に構えるのは、虎です。なるほど、かつては坂本にあった家康由来の東照宮本地堂だったことを思えば、家康の干支の虎があるのは納得です。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    大講堂正面に張られた幕の上に、極彩色に彩られた3つの蟇股があります。
    左側に構えるのは、虎です。なるほど、かつては坂本にあった家康由来の東照宮本地堂だったことを思えば、家康の干支の虎があるのは納得です。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />中央に構えるのが、少し窮屈そうな龍です。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    中央に構えるのが、少し窮屈そうな龍です。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />右側が、唐獅子と牡丹です。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    右側が、唐獅子と牡丹です。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />肘木の上の手挟(たばさみ)には、牡丹が彫られています。極彩色が目に鮮やかです。<br />奥に渡された、うねった海老虹梁も味わいがあります。<br />

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    肘木の上の手挟(たばさみ)には、牡丹が彫られています。極彩色が目に鮮やかです。
    奥に渡された、うねった海老虹梁も味わいがあります。

  • 延暦寺 東塔エリア 大講堂<br />木鼻は白く塗られた象です。長い牙は枝分かれしており、こうした造形は珍しいものです。<br />また、象の頭部には直に斗が載せられています。斗を載せた形式の木鼻も珍しいものかもしれません。

    延暦寺 東塔エリア 大講堂
    木鼻は白く塗られた象です。長い牙は枝分かれしており、こうした造形は珍しいものです。
    また、象の頭部には直に斗が載せられています。斗を載せた形式の木鼻も珍しいものかもしれません。

  • 延暦寺 東塔エリア 戒壇院(重文)<br />最澄の大願による大乗戒壇授戒のために建立された重要な建造物であり、大講堂よりも更に登った位置に建てられています。ここにもきつい石段のアプローチがあります。<br />本尊には、釈迦牟尼如来と文殊・弥勒の両菩薩、得戒和尚像を祀ります。<br />古色蒼然とした桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、正面に軒唐破風を載せています。 外観は、裳階(もこし)を付けていることから2階建てのように見えます。この戒壇院も、近世に復興されたもので、1678(延宝6)年の再建と伝えられています。 桟唐戸、花灯窓、柱上部の粽(ちまき)など禅宗様式を基調に、裳階の内法長押や平行垂木の軒など和漢折衷様式とし、木部に丹や黒の色彩を主に施し、内部は石敷で石の戒壇を築いています。1901( 明治34)年に重文に指定されています。<br />戒壇院の設立は、比叡山史上、最も困難な事業だったそうです。何故ならば、設立においては、これまでの仏教界を差配していた奈良仏教の反対に正面から立ち向かわねばならなかったからです。これらの一連の事件を「大乗戒壇設立」や「大乗戒壇独立」と言いますが、大乗戒壇設立に尽力したのが最澄の弟子の光定でした。

    延暦寺 東塔エリア 戒壇院(重文)
    最澄の大願による大乗戒壇授戒のために建立された重要な建造物であり、大講堂よりも更に登った位置に建てられています。ここにもきつい石段のアプローチがあります。
    本尊には、釈迦牟尼如来と文殊・弥勒の両菩薩、得戒和尚像を祀ります。
    古色蒼然とした桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、正面に軒唐破風を載せています。 外観は、裳階(もこし)を付けていることから2階建てのように見えます。この戒壇院も、近世に復興されたもので、1678(延宝6)年の再建と伝えられています。 桟唐戸、花灯窓、柱上部の粽(ちまき)など禅宗様式を基調に、裳階の内法長押や平行垂木の軒など和漢折衷様式とし、木部に丹や黒の色彩を主に施し、内部は石敷で石の戒壇を築いています。1901( 明治34)年に重文に指定されています。
    戒壇院の設立は、比叡山史上、最も困難な事業だったそうです。何故ならば、設立においては、これまでの仏教界を差配していた奈良仏教の反対に正面から立ち向かわねばならなかったからです。これらの一連の事件を「大乗戒壇設立」や「大乗戒壇独立」と言いますが、大乗戒壇設立に尽力したのが最澄の弟子の光定でした。

  • 延暦寺 東塔エリア 戒壇院<br />東大寺にも「戒壇」がありますが、どんな場所なのでしょうか?<br />「僧製造器」と解いた人がいましたが、言い得て妙です。現在、広義の「僧」は仏教の出家者全体を意味しますが、古代においてそれに相当する語は「沙弥」とされました。往時の「僧」とは、出家・得度して「沙弥」となった後、更に戒壇において授戒した官僧を指しました。つまり、延暦寺以前の戒壇とは、「官僧」になる資格を授戒する場でした。<br />奈良仏教は僧尼令の得度・授戒制度によって官僚の統制を受け、また国家への奉仕を第一義とし、「国家仏教」と称していました。受戒法は、養老令で規定され、授戒に際しては、まず戒壇に登り、3人の師と7人の証人(三師七証)の下での授戒が必要でした。ところが日本では三師七証を務める資格者が揃わず、便法として自身の誓いにて行う自誓授戒を行なっており、後に戒師を唐より招聘したのが鑑真です。こうして戒壇院が全国3ヶ所に設置され、東大寺戒壇院・大宰府観世音寺戒壇院・下野国薬師寺が「天下の三戒壇」と称されました。これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して具足戒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理するシステムになりました。

    延暦寺 東塔エリア 戒壇院
    東大寺にも「戒壇」がありますが、どんな場所なのでしょうか?
    「僧製造器」と解いた人がいましたが、言い得て妙です。現在、広義の「僧」は仏教の出家者全体を意味しますが、古代においてそれに相当する語は「沙弥」とされました。往時の「僧」とは、出家・得度して「沙弥」となった後、更に戒壇において授戒した官僧を指しました。つまり、延暦寺以前の戒壇とは、「官僧」になる資格を授戒する場でした。
    奈良仏教は僧尼令の得度・授戒制度によって官僚の統制を受け、また国家への奉仕を第一義とし、「国家仏教」と称していました。受戒法は、養老令で規定され、授戒に際しては、まず戒壇に登り、3人の師と7人の証人(三師七証)の下での授戒が必要でした。ところが日本では三師七証を務める資格者が揃わず、便法として自身の誓いにて行う自誓授戒を行なっており、後に戒師を唐より招聘したのが鑑真です。こうして戒壇院が全国3ヶ所に設置され、東大寺戒壇院・大宰府観世音寺戒壇院・下野国薬師寺が「天下の三戒壇」と称されました。これ以降、僧になるためには、いずれかの戒壇で授戒して具足戒を受けることが必須となり、国(国分寺)が僧を管理するシステムになりました。

  • 延暦寺 東塔エリア 戒壇院<br />こうした授戒法に異を唱えたのが最澄でした。比叡山に新しい戒壇院を建て、しかもそこでは具足戒を授けず、唐の天台宗 道邃(どうずい)譲りの大乗戒(規律)を授けたいと提唱しました。具足戒を受けた場合、僧は250戒、尼僧は384戒を守ることになりますが、大乗戒の場合は、心構えさえあればそれで済みました。大乗戒は在家・出家の区別なく授けられ、僧・尼僧・沙弥・一般信者などの区別はなし。つまり、大乗戒は「戒」の放棄であり、僧と俗人(在家)との違いは戒を守っているか否かにあります。<br />最澄が大乗戒壇院建立を申請する、いわゆる「四条式」を朝廷に提出すると、南都の僧たちは猛反発しました。この批判に対して最澄は、『顕戒論』で反論を述べています。<br />この論争を結論付けるのが、南都の僧たちが恐れていたことが現実になったことです。つまり、日本仏教は戒律と関係のない仏教に梶を切ったのです。それは早晩起こるべくして起きたことでした。最澄の死直後の大乗戒壇建立の許可の勅命は、ひとつの結果と言えます。

    延暦寺 東塔エリア 戒壇院
    こうした授戒法に異を唱えたのが最澄でした。比叡山に新しい戒壇院を建て、しかもそこでは具足戒を授けず、唐の天台宗 道邃(どうずい)譲りの大乗戒(規律)を授けたいと提唱しました。具足戒を受けた場合、僧は250戒、尼僧は384戒を守ることになりますが、大乗戒の場合は、心構えさえあればそれで済みました。大乗戒は在家・出家の区別なく授けられ、僧・尼僧・沙弥・一般信者などの区別はなし。つまり、大乗戒は「戒」の放棄であり、僧と俗人(在家)との違いは戒を守っているか否かにあります。
    最澄が大乗戒壇院建立を申請する、いわゆる「四条式」を朝廷に提出すると、南都の僧たちは猛反発しました。この批判に対して最澄は、『顕戒論』で反論を述べています。
    この論争を結論付けるのが、南都の僧たちが恐れていたことが現実になったことです。つまり、日本仏教は戒律と関係のない仏教に梶を切ったのです。それは早晩起こるべくして起きたことでした。最澄の死直後の大乗戒壇建立の許可の勅命は、ひとつの結果と言えます。

  • 延暦寺 東塔エリア 戒壇院<br />「具足戒を棄てた」と言っても、最澄は贅沢な生活を始めたわけではありません。彼は生涯を通じ、人里離れた山林に住む清浄な行者を全うしました。弟子たちへの遺戒には、「大乗戒を受けた天台宗の僧は、集会では沙弥の後ろに坐るべし」とあります。つまり、自らを在家の位置に据えたのです。さらに、衣食住は質素で粗末なもので満足すべきとしています。<br />最澄の理想とした僧は、三師七証によって大寺院の戒壇院で具足戒を授かり、その戒を守ることに大半のエネルギーを費やす伝統的な僧ではありませんでした。心構えひとつで山林で修行する者が彼の理想「僧」でした。具足戒を受けた30年以上後に、自ら戒を棄てることによって新しいスタイルを示そうと実践したのです。『花伝書』にある「守・破・離」で言う、独自の境地を切り開いた「離」に相当するのではないでしょうか?

    延暦寺 東塔エリア 戒壇院
    「具足戒を棄てた」と言っても、最澄は贅沢な生活を始めたわけではありません。彼は生涯を通じ、人里離れた山林に住む清浄な行者を全うしました。弟子たちへの遺戒には、「大乗戒を受けた天台宗の僧は、集会では沙弥の後ろに坐るべし」とあります。つまり、自らを在家の位置に据えたのです。さらに、衣食住は質素で粗末なもので満足すべきとしています。
    最澄の理想とした僧は、三師七証によって大寺院の戒壇院で具足戒を授かり、その戒を守ることに大半のエネルギーを費やす伝統的な僧ではありませんでした。心構えひとつで山林で修行する者が彼の理想「僧」でした。具足戒を受けた30年以上後に、自ら戒を棄てることによって新しいスタイルを示そうと実践したのです。『花伝書』にある「守・破・離」で言う、独自の境地を切り開いた「離」に相当するのではないでしょうか?

  • 延暦寺 東塔エリア 戒壇院<br />桃あるいは宝珠を象った透かし窓がアクセントになっています。<br /><br />最澄の大願は、比叡山に大乗戒壇を設立することでした。それは、奈良仏教界から完全に独立し、延暦寺において独自に僧の養成を可能にするためでした。<br />最澄の思想は「一向大乗」、全ての者が菩薩であり成仏できると説き、奈良仏教の思想とは一線を画していました。往時の僧の地位は国家資格であり、公認僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良 東大寺、筑紫 観世音寺、下野 薬師寺)しか存在せず、天台宗が独自に僧の養成を行なうのはご法度でした。<br />最澄は、比叡山で得度した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行を終えた者はその適性に応じて後進の指導に当たらせ、また各地で仏教界の指導者として活動させたいと主張しました。大願叶って、大乗戒壇の設立は822年、最澄没後7日目にして許可されています。<br />大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の高僧を輩出しました。その一方、比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになり、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立て籠りました。以後、山門派(円仁派、延暦寺)と寺門派(円珍派、園城寺)は度々対立し、抗争に参加し武装化した法師の中から自然発生的に僧兵の出現をみたのは皮肉なことでした。

    延暦寺 東塔エリア 戒壇院
    桃あるいは宝珠を象った透かし窓がアクセントになっています。

    最澄の大願は、比叡山に大乗戒壇を設立することでした。それは、奈良仏教界から完全に独立し、延暦寺において独自に僧の養成を可能にするためでした。
    最澄の思想は「一向大乗」、全ての者が菩薩であり成仏できると説き、奈良仏教の思想とは一線を画していました。往時の僧の地位は国家資格であり、公認僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良 東大寺、筑紫 観世音寺、下野 薬師寺)しか存在せず、天台宗が独自に僧の養成を行なうのはご法度でした。
    最澄は、比叡山で得度した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行を終えた者はその適性に応じて後進の指導に当たらせ、また各地で仏教界の指導者として活動させたいと主張しました。大願叶って、大乗戒壇の設立は822年、最澄没後7日目にして許可されています。
    大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の高僧を輩出しました。その一方、比叡山の僧は円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになり、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立て籠りました。以後、山門派(円仁派、延暦寺)と寺門派(円珍派、園城寺)は度々対立し、抗争に参加し武装化した法師の中から自然発生的に僧兵の出現をみたのは皮肉なことでした。

  • 延暦寺 東塔エリア 52段の石段<br />阿弥陀堂へのアプローチとなるこの石段は、菩薩が修行して得られる52の段階(菩薩52位)を表しています。成仏に向かう道程(段階)を表し、十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚という合計52の段階(位)があるという考え方です。十廻向までは凡夫の修行、それ以上が聖者の修行の位に入るそうです。瓔珞経に基づく天台教説に基づくそうです。

    延暦寺 東塔エリア 52段の石段
    阿弥陀堂へのアプローチとなるこの石段は、菩薩が修行して得られる52の段階(菩薩52位)を表しています。成仏に向かう道程(段階)を表し、十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚という合計52の段階(位)があるという考え方です。十廻向までは凡夫の修行、それ以上が聖者の修行の位に入るそうです。瓔珞経に基づく天台教説に基づくそうです。

  • 延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂<br />法華総持院は、862(貞観4)年に円仁が天台密教の根本道場として建立して以来、焼失、再建を繰り返し、1435(文明17)年に放火によって焼失してから再建されませんでした。<br />現在の建物は、日野の法界寺阿弥陀堂を模して1937(昭和12)年に建立された、檀家や信徒の先祖の冥福を祈る「先祖回向」の道場です。本尊には、1937年に行われた比叡山開創1150年を記念して建立された、 丈六の阿弥陀如来坐像を祀っています。

    延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂
    法華総持院は、862(貞観4)年に円仁が天台密教の根本道場として建立して以来、焼失、再建を繰り返し、1435(文明17)年に放火によって焼失してから再建されませんでした。
    現在の建物は、日野の法界寺阿弥陀堂を模して1937(昭和12)年に建立された、檀家や信徒の先祖の冥福を祈る「先祖回向」の道場です。本尊には、1937年に行われた比叡山開創1150年を記念して建立された、 丈六の阿弥陀如来坐像を祀っています。

  • 延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂<br />円仁派と円珍派の抗争に端を発して法師の中から僧兵が出現しました。その後、延暦寺の武力は年々強まり、強大な権力で院政を執った白河法皇に「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と嘆かせるほどになりました。山法師とは延暦寺の僧兵を指し、コントロールできないもののひとつに例えられるほどに武装化されたのです。<br />意に沿わぬことには僧兵たちが神輿を担いで強訴するという手段に訴え、時の権力者に対し自らの言い分を通しました。また、祇園社(現八坂神社)は当初は興福寺の配下でしたが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺に含めました。同じ頃、北野社も延暦寺の配下になり、祇園社は鴨川の東側の広大な領地を所有することになり、朝廷権力から承認された無縁所となっています。<br />このように延暦寺は、権威に伴って武力を備え、また物資の流通を握って財力も持ち合わせ、時の権力からは治外法権となり、一種の独立した状態を保ちました。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び、「南都北嶺」と言われて畏れられていました。

    延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂
    円仁派と円珍派の抗争に端を発して法師の中から僧兵が出現しました。その後、延暦寺の武力は年々強まり、強大な権力で院政を執った白河法皇に「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と嘆かせるほどになりました。山法師とは延暦寺の僧兵を指し、コントロールできないもののひとつに例えられるほどに武装化されたのです。
    意に沿わぬことには僧兵たちが神輿を担いで強訴するという手段に訴え、時の権力者に対し自らの言い分を通しました。また、祇園社(現八坂神社)は当初は興福寺の配下でしたが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺に含めました。同じ頃、北野社も延暦寺の配下になり、祇園社は鴨川の東側の広大な領地を所有することになり、朝廷権力から承認された無縁所となっています。
    このように延暦寺は、権威に伴って武力を備え、また物資の流通を握って財力も持ち合わせ、時の権力からは治外法権となり、一種の独立した状態を保ちました。延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺と並び、「南都北嶺」と言われて畏れられていました。

  • 延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂<br />阿弥陀堂の右手前には水琴窟があり、美しい響きを聞かせます。<br />普通は柄杓で水を注ぐと美しい音が奏でられるのですが、ここは「かけ流し」です。<br />阿弥陀堂から洩れ聞こえる読経と水琴窟の響きが相俟って、ここならではの独特の雰囲気が味わえます。

    延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂
    阿弥陀堂の右手前には水琴窟があり、美しい響きを聞かせます。
    普通は柄杓で水を注ぐと美しい音が奏でられるのですが、ここは「かけ流し」です。
    阿弥陀堂から洩れ聞こえる読経と水琴窟の響きが相俟って、ここならではの独特の雰囲気が味わえます。

  • 延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂<br />右側に、もうひとつ水琴窟があります。<br />こちらも「かけ流し」です。

    延暦寺 東塔エリア 阿弥陀堂
    右側に、もうひとつ水琴窟があります。
    こちらも「かけ流し」です。

  • 延暦寺 東塔エリア 法華総持院東塔<br />1980(昭和55)年に阿弥陀堂の横に再建されました。<br />最澄は「法華経」 千部を安置する塔として日本全国に6か所の宝塔を建てて国を護る計画を立てましたが、それを総括する存在がこの東塔であり、近江宝塔院に当たります。根本中堂に並ぶ重要な信仰道場として、862(定観4)年に慈覚大師 円仁によって創建されました。因みに他の塔は、上野宝塔院・筑前宝塔院・豊前宝塔院・下野宝塔院・山城宝塔院(比叡山西塔)になります。 <br />塔内には、下層須弥壇に創建時と同様に本尊の胎蔵界五仏が京都の大仏師 松久朋琳氏の手で奉製され安置されています。胎蔵界五仏とは、大日如来・ 開敷華王如来・宝幢如来・天鼓雷音如来・無量寿如来の五体の如来像を言います。比叡山では胎蔵界を主にし、金剛界を従とし、胎蔵界五仏の背面の壁画に金剛界五仏を安置しています。<br />尚、塔の上層部には円仁が唐から授かってきた仏舎利と法華経を安置しています。

    延暦寺 東塔エリア 法華総持院東塔
    1980(昭和55)年に阿弥陀堂の横に再建されました。
    最澄は「法華経」 千部を安置する塔として日本全国に6か所の宝塔を建てて国を護る計画を立てましたが、それを総括する存在がこの東塔であり、近江宝塔院に当たります。根本中堂に並ぶ重要な信仰道場として、862(定観4)年に慈覚大師 円仁によって創建されました。因みに他の塔は、上野宝塔院・筑前宝塔院・豊前宝塔院・下野宝塔院・山城宝塔院(比叡山西塔)になります。
    塔内には、下層須弥壇に創建時と同様に本尊の胎蔵界五仏が京都の大仏師 松久朋琳氏の手で奉製され安置されています。胎蔵界五仏とは、大日如来・ 開敷華王如来・宝幢如来・天鼓雷音如来・無量寿如来の五体の如来像を言います。比叡山では胎蔵界を主にし、金剛界を従とし、胎蔵界五仏の背面の壁画に金剛界五仏を安置しています。
    尚、塔の上層部には円仁が唐から授かってきた仏舎利と法華経を安置しています。

  • 延暦寺 東塔エリア 法華総持院東塔<br />1571(元亀2)年の信長の焼討ちで焼失ましたが、伝教大師出家得度1200年慶讃大法会に際し、400余年ぶりに天台宗徒と佐川急便グループの創業者 佐川清氏の寄進により再建されました。<br />昭和の大再建と言われた東塔の様式には、『鎌倉古絵図』が参考にされたことは言うまでもありません。<br />目にも鮮やかな朱色の柱や欄干、真っ白な壁、木材の薄板を用いた柿葺の屋根など、実に華麗な均整を保ち、霊山の緑陰を借景にコントラストの効いた輪郭を見せています。因みに高さは30mあります。

    延暦寺 東塔エリア 法華総持院東塔
    1571(元亀2)年の信長の焼討ちで焼失ましたが、伝教大師出家得度1200年慶讃大法会に際し、400余年ぶりに天台宗徒と佐川急便グループの創業者 佐川清氏の寄進により再建されました。
    昭和の大再建と言われた東塔の様式には、『鎌倉古絵図』が参考にされたことは言うまでもありません。
    目にも鮮やかな朱色の柱や欄干、真っ白な壁、木材の薄板を用いた柿葺の屋根など、実に華麗な均整を保ち、霊山の緑陰を借景にコントラストの効いた輪郭を見せています。因みに高さは30mあります。

  • 延暦寺 東塔エリア 法華総持院<br />法華総持院は東塔西谷にある寺院群を言い、法華は法華経を、総持は密教を指します。東塔、潅頂堂、阿弥陀堂、寂光堂は回廊で結ばれています。<br />この後に訪れる、西塔エリアにある「にない堂」の姿を彷彿とさせます。<br /><br />ここから先は、中央の回廊を潜って西塔まで修行僧の回峰行を彷彿とさせる道程になります。足腰に自信のない方は、シャトルバスをご利用ください。<br />回廊を潜るとその先の道は左右に枝分かれしています。左は上り、右は下りです。事前情報で険しい道と刷り込まれていたため、無意識に左側の上りの道を選んだのが間違いでした。5分程上ると行き止まりでした。スマホのGPS機能を使って確認すると、右側の下りの道が正しいルートでした。

    延暦寺 東塔エリア 法華総持院
    法華総持院は東塔西谷にある寺院群を言い、法華は法華経を、総持は密教を指します。東塔、潅頂堂、阿弥陀堂、寂光堂は回廊で結ばれています。
    この後に訪れる、西塔エリアにある「にない堂」の姿を彷彿とさせます。

    ここから先は、中央の回廊を潜って西塔まで修行僧の回峰行を彷彿とさせる道程になります。足腰に自信のない方は、シャトルバスをご利用ください。
    回廊を潜るとその先の道は左右に枝分かれしています。左は上り、右は下りです。事前情報で険しい道と刷り込まれていたため、無意識に左側の上りの道を選んだのが間違いでした。5分程上ると行き止まりでした。スマホのGPS機能を使って確認すると、右側の下りの道が正しいルートでした。

  • 延暦寺 東塔エリア 弁慶水<br />回廊の先にある雲母坂(きららさか)を下りはじめて数分の所で、路傍に湧き出る弁慶水が見えてきます。ここも「比叡山七不思議」の場所です。<br />比叡山随一の泉で、「千手(せんじゅ)の井」とも呼ばれます。泉の上に覆屋が載せられ中の様子は見られませんが、耳を澄ますと滾々と水の湧き出す音が洩れ聞こえます。因みに、現在も東塔の水源になっています。<br />名の由来は、『都名所図会』に「武蔵坊弁慶千手堂に千日参籠す。この水を毎日閼伽とせしよりこの名あり。平清盛熱病のとき、この水を石船に湛えて沐すといへり」とあることに因みます。<br />弁慶水の右隣が、「地蔵石仏・無縁塔」です。覆屋に納められた地蔵石仏の右には、角柱状の縦長の五輪塔が立てられ、地輪の部分に「無縁塔」と刻されています。

    延暦寺 東塔エリア 弁慶水
    回廊の先にある雲母坂(きららさか)を下りはじめて数分の所で、路傍に湧き出る弁慶水が見えてきます。ここも「比叡山七不思議」の場所です。
    比叡山随一の泉で、「千手(せんじゅ)の井」とも呼ばれます。泉の上に覆屋が載せられ中の様子は見られませんが、耳を澄ますと滾々と水の湧き出す音が洩れ聞こえます。因みに、現在も東塔の水源になっています。
    名の由来は、『都名所図会』に「武蔵坊弁慶千手堂に千日参籠す。この水を毎日閼伽とせしよりこの名あり。平清盛熱病のとき、この水を石船に湛えて沐すといへり」とあることに因みます。
    弁慶水の右隣が、「地蔵石仏・無縁塔」です。覆屋に納められた地蔵石仏の右には、角柱状の縦長の五輪塔が立てられ、地輪の部分に「無縁塔」と刻されています。

  • 延暦寺 東塔エリア 弁慶水<br />この泉について硲慈弘著『伝説の比叡山』は「最澄と徳一和尚」の伝説を紹介しています。<br />ある暑い日の午後、西坂本から雲母坂に差し掛かった所で、ふたりの僧が日差しを避けて大きな梨の木蔭で休んでいました。一人は最澄、もう一人は最澄の叡山仏教に真っ向から反対の論陣を張る徳一和尚でした。最澄は、徳一のたっての願いで叡山に案内するところでした。2人が蔭を借りている梨の木は大木でしたが、実が一つもないのに気付いた徳一は、「草も木も仏になるという山の麓に、ならぬ梨もこそあれ」と皮肉りました。最澄は動ずることなく、立ち上がって雲母坂を急ぎました。東塔に近づいた時、徳一は喉の渇きを覚えました。最澄は「草も木も仏になるといふ山に、何所に水のあると知らずや」と言い、手に印を結び念じました。すると忽ち、路傍の岩陰から玉のような泉が湧き出しました。<br />泉水は今も滾々と湧き出ており、水晶のように麗しく、氷の如く冷たい水だそうです。しかしこの泉水は、徳一の揶揄に対する最澄の我慢によって念出されたものである故、例え一滴でも口にしたら不思議に心が猛々しくなると伝わります。

    延暦寺 東塔エリア 弁慶水
    この泉について硲慈弘著『伝説の比叡山』は「最澄と徳一和尚」の伝説を紹介しています。
    ある暑い日の午後、西坂本から雲母坂に差し掛かった所で、ふたりの僧が日差しを避けて大きな梨の木蔭で休んでいました。一人は最澄、もう一人は最澄の叡山仏教に真っ向から反対の論陣を張る徳一和尚でした。最澄は、徳一のたっての願いで叡山に案内するところでした。2人が蔭を借りている梨の木は大木でしたが、実が一つもないのに気付いた徳一は、「草も木も仏になるという山の麓に、ならぬ梨もこそあれ」と皮肉りました。最澄は動ずることなく、立ち上がって雲母坂を急ぎました。東塔に近づいた時、徳一は喉の渇きを覚えました。最澄は「草も木も仏になるといふ山に、何所に水のあると知らずや」と言い、手に印を結び念じました。すると忽ち、路傍の岩陰から玉のような泉が湧き出しました。
    泉水は今も滾々と湧き出ており、水晶のように麗しく、氷の如く冷たい水だそうです。しかしこの泉水は、徳一の揶揄に対する最澄の我慢によって念出されたものである故、例え一滴でも口にしたら不思議に心が猛々しくなると伝わります。

  • 延暦寺 東塔エリア <br />弁慶水に別れを告げるとすぐその先に奥比叡ドライブウェイを横断する陸橋が見えてきます。この季節は樹木や雑草の丈が高く、陸橋を見落とすこともあるかもしれません。道標は、左端にあるような小さな目立たないものです。<br />太い道(東海自然歩道)が真っ直ぐ伸びていますので、右折するのを失念するとタイムロスに繋がります。真っ直ぐ進むと、「ガーデンミュージアム比叡」方向へ行ってしまいます。<br />この陸橋を渡った先が「山王院」です。雲母坂のようなハイキングコースとは、ここでさよならです。

    延暦寺 東塔エリア
    弁慶水に別れを告げるとすぐその先に奥比叡ドライブウェイを横断する陸橋が見えてきます。この季節は樹木や雑草の丈が高く、陸橋を見落とすこともあるかもしれません。道標は、左端にあるような小さな目立たないものです。
    太い道(東海自然歩道)が真っ直ぐ伸びていますので、右折するのを失念するとタイムロスに繋がります。真っ直ぐ進むと、「ガーデンミュージアム比叡」方向へ行ってしまいます。
    この陸橋を渡った先が「山王院」です。雲母坂のようなハイキングコースとは、ここでさよならです。

  • 延暦寺 東塔エリア 山王院<br />陸橋を渡った先に石段があります。<br />東塔エリアの西方に佇む小堂で、正式には「法華鎮護山王院」と言います。ここは第6祖 智証大師 円珍の住房だったことで知られ、後唐院とも呼ばれました。最澄は九院を定めましたが、止観院・定心院・惣持院・四王院・戒壇院・八部院・西塔院・浄土院と共にこの山王院が含まれ、黎明期からの堂宇です。<br />千手観音を祀るため千手堂や千手院とも呼ばれますが、円珍座主の滅後百年、円珍派と円仁派の学僧の間に紛争が起こり、円珍派はここから円珍の木像を背負って三井寺(園城寺)へ移住したと伝わります。 故に、このお堂は歴史上重要な堂宇と言えます。<br />「山王」の名は、日本古来の概念でも最澄の概念でもありません。最澄が入唐した際、入寺した国清寺に「地主山王元弼真君」なる祠があったことが名の由来と伝わります。<br />11世紀に入宋した成尋は、天台山に参詣した時の見聞として以下のように記しています。<br />「地主山王元弼真君に礼拝した。真君は周の霊王の子で、王子晋といい、寺は王子の邸宅であった。王子は仙人となってから数百年を経て、智者大師に謁見して授戒し、地(天台山)に付属した。あたかも日本天台の山王のようである」。<br />このように最澄は中国天台山の「山王」、すなわち真君祠に倣って山王を比叡寺に祀ったのでした。しかし中国天台山が山王を道教の神としたのに対し、最澄は日本の国情に合わせて地神の日吉大神を山王として信仰したのです。

    延暦寺 東塔エリア 山王院
    陸橋を渡った先に石段があります。
    東塔エリアの西方に佇む小堂で、正式には「法華鎮護山王院」と言います。ここは第6祖 智証大師 円珍の住房だったことで知られ、後唐院とも呼ばれました。最澄は九院を定めましたが、止観院・定心院・惣持院・四王院・戒壇院・八部院・西塔院・浄土院と共にこの山王院が含まれ、黎明期からの堂宇です。
    千手観音を祀るため千手堂や千手院とも呼ばれますが、円珍座主の滅後百年、円珍派と円仁派の学僧の間に紛争が起こり、円珍派はここから円珍の木像を背負って三井寺(園城寺)へ移住したと伝わります。 故に、このお堂は歴史上重要な堂宇と言えます。
    「山王」の名は、日本古来の概念でも最澄の概念でもありません。最澄が入唐した際、入寺した国清寺に「地主山王元弼真君」なる祠があったことが名の由来と伝わります。
    11世紀に入宋した成尋は、天台山に参詣した時の見聞として以下のように記しています。
    「地主山王元弼真君に礼拝した。真君は周の霊王の子で、王子晋といい、寺は王子の邸宅であった。王子は仙人となってから数百年を経て、智者大師に謁見して授戒し、地(天台山)に付属した。あたかも日本天台の山王のようである」。
    このように最澄は中国天台山の「山王」、すなわち真君祠に倣って山王を比叡寺に祀ったのでした。しかし中国天台山が山王を道教の神としたのに対し、最澄は日本の国情に合わせて地神の日吉大神を山王として信仰したのです。

  • 延暦寺 東塔エリア 山王院<br />『都名所図会』には、「智証大師の本房にして山王の神、常に影向(ようごう)の地也。千手観音を安置す」とあります。<br />『伝説の比叡山』は次のように語ります。「天平の昔、都から比叡山へ千手観音が飛来してきた。名工の手になる見事な霊像であったため、時の帝はすぐに勅使を派遣して都へ迎え入れようとした。しかし、磐石の如く端座した霊像は、いかに手を尽くしても微動だにしないため、勅使たちはなすすべもなくすごすごと都に帰ってしまった。785(延暦4)年に比叡山に登った最澄がこの霊像を発見し、草庵を結んで安置したという。後に弁慶が弁慶水を閼伽として参籠したのは、この霊像という」。

    延暦寺 東塔エリア 山王院
    『都名所図会』には、「智証大師の本房にして山王の神、常に影向(ようごう)の地也。千手観音を安置す」とあります。
    『伝説の比叡山』は次のように語ります。「天平の昔、都から比叡山へ千手観音が飛来してきた。名工の手になる見事な霊像であったため、時の帝はすぐに勅使を派遣して都へ迎え入れようとした。しかし、磐石の如く端座した霊像は、いかに手を尽くしても微動だにしないため、勅使たちはなすすべもなくすごすごと都に帰ってしまった。785(延暦4)年に比叡山に登った最澄がこの霊像を発見し、草庵を結んで安置したという。後に弁慶が弁慶水を閼伽として参籠したのは、この霊像という」。

  • 延暦寺 東塔エリア 山王院<br />山王院についての詳細は判っていません。『山門堂舎記』や『叡岳要記』といった延暦寺の寺誌に記載され、『東塔絵図』に描かれていることから、中世まで存在していたと推測されています。<br />その後、信長の比叡山焼討で焼失したとされますが、天正年間(1573~92年)に行光坊 雄盛が千手堂を再建しており、同時期に山王院も再建されたものと考えられています。尚、1661(万治4)年と1753(宝暦3)年に修復が行なわれたとの記録があります。

    延暦寺 東塔エリア 山王院
    山王院についての詳細は判っていません。『山門堂舎記』や『叡岳要記』といった延暦寺の寺誌に記載され、『東塔絵図』に描かれていることから、中世まで存在していたと推測されています。
    その後、信長の比叡山焼討で焼失したとされますが、天正年間(1573~92年)に行光坊 雄盛が千手堂を再建しており、同時期に山王院も再建されたものと考えられています。尚、1661(万治4)年と1753(宝暦3)年に修復が行なわれたとの記録があります。

  • 延暦寺 東塔エリア 山王院<br />「智証大師」は、円珍示寂後に朝廷から賜った諡号です。円珍は、俗姓は因支首で讃岐国那珂郡金倉郷(香川県丸亀市)の出身です。母は佐伯姓で空海の姪に当たります。814(弘仁5)年に誕生し、幼い頃から才を示したため、15歳の時に叔父である僧 仁徳に従って比叡山に登り、義真の弟子になりました。

    延暦寺 東塔エリア 山王院
    「智証大師」は、円珍示寂後に朝廷から賜った諡号です。円珍は、俗姓は因支首で讃岐国那珂郡金倉郷(香川県丸亀市)の出身です。母は佐伯姓で空海の姪に当たります。814(弘仁5)年に誕生し、幼い頃から才を示したため、15歳の時に叔父である僧 仁徳に従って比叡山に登り、義真の弟子になりました。

  • 延暦寺 東塔エリア 山王院<br />天正年間の再建と推定されているだけあり、至って簡素な造りです。格子が嵌め込まれた半蔀(はじとみ)が古色蒼然とした雰囲気を醸します。<br />「山王院」の表札の下部には、「本尊千手観世音菩薩」「六祖智証大師円珍御住坊」と記されています。<br />頭貫の木鼻も簡素ですが、大講堂同様に組物の斗を直接受ける構造も合理的なものです。

    延暦寺 東塔エリア 山王院
    天正年間の再建と推定されているだけあり、至って簡素な造りです。格子が嵌め込まれた半蔀(はじとみ)が古色蒼然とした雰囲気を醸します。
    「山王院」の表札の下部には、「本尊千手観世音菩薩」「六祖智証大師円珍御住坊」と記されています。
    頭貫の木鼻も簡素ですが、大講堂同様に組物の斗を直接受ける構造も合理的なものです。

  • 延暦寺 東塔エリア 山王院<br />蟇股も簡素なもので、中央部をくり抜いた初期的な雲形の造形です。

    延暦寺 東塔エリア 山王院
    蟇股も簡素なもので、中央部をくり抜いた初期的な雲形の造形です。

  • 延暦寺 東塔エリア <br />人の姿はどこにもありません。<br />山王院からは、京都一周トレイルのコースにもなっているこの石段をひたすら寡黙に降ります。目指す浄土院は、窪地状の所にあるのです。しかし石段の段差は30cm程あり、尋常ではありません。下るのも難儀ですが、逆コースで登るのは更に苦行です。「厳しい修行に耐えられない者の参拝は拒む」と黙して語るような石段です。水平距離にして200mを垂直方向に80m程下る急な坂道は、奈落の底に落ちて行くような気分になります。

    延暦寺 東塔エリア
    人の姿はどこにもありません。
    山王院からは、京都一周トレイルのコースにもなっているこの石段をひたすら寡黙に降ります。目指す浄土院は、窪地状の所にあるのです。しかし石段の段差は30cm程あり、尋常ではありません。下るのも難儀ですが、逆コースで登るのは更に苦行です。「厳しい修行に耐えられない者の参拝は拒む」と黙して語るような石段です。水平距離にして200mを垂直方向に80m程下る急な坂道は、奈落の底に落ちて行くような気分になります。

  • 延暦寺 東塔エリア <br />坂道の途中で見上げた様子です。グリーンのモノトーンが清涼感を漂わせます。<br />高い木立が暑い日差しを遮ってくれてはいるものの、ここを登るには精神面の強さも求められそうです。<br />逆コースでなくてよかったと、胸をなでおろします。

    延暦寺 東塔エリア
    坂道の途中で見上げた様子です。グリーンのモノトーンが清涼感を漂わせます。
    高い木立が暑い日差しを遮ってくれてはいるものの、ここを登るには精神面の強さも求められそうです。
    逆コースでなくてよかったと、胸をなでおろします。

  • 延暦寺 東塔エリア <br />脇目も振らず黙々と石段を降りると、やがて谷底に忽然と緑色をした屋根が現れます。ホッとする瞬間です。しかしこの先には、最後の難関が待ち構えています。路傍に立つ燈籠には、「奉献 御廟前」と刻まれています。

    延暦寺 東塔エリア
    脇目も振らず黙々と石段を降りると、やがて谷底に忽然と緑色をした屋根が現れます。ホッとする瞬間です。しかしこの先には、最後の難関が待ち構えています。路傍に立つ燈籠には、「奉献 御廟前」と刻まれています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院(伝教大師の御廟)<br />東塔と西塔エリアの境界線付近に位置しますが、所属は東塔エリアになります。<br />ここは比叡山の開祖 伝教大師 最澄上人の御廟所であり、比叡山内で最も清浄な聖域です。<br />最澄は一生を大乗戒坦院の独立に捧げ、822(弘仁13)年6月4日、中道院にて56歳で入滅しました。その遺骸を、弟子の慈覚大師 円仁が854(仁寿4)年に中国五合山竹林院を模した御廟所を建立し、この地に移して安置しました。<br />866(貞観8)年、最澄は清和天皇より「伝教大師」の諡号を授かりました。これが日本初の大師号です。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院(伝教大師の御廟)
    東塔と西塔エリアの境界線付近に位置しますが、所属は東塔エリアになります。
    ここは比叡山の開祖 伝教大師 最澄上人の御廟所であり、比叡山内で最も清浄な聖域です。
    最澄は一生を大乗戒坦院の独立に捧げ、822(弘仁13)年6月4日、中道院にて56歳で入滅しました。その遺骸を、弟子の慈覚大師 円仁が854(仁寿4)年に中国五合山竹林院を模した御廟所を建立し、この地に移して安置しました。
    866(貞観8)年、最澄は清和天皇より「伝教大師」の諡号を授かりました。これが日本初の大師号です。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門(重文)<br />白い築地塀を両脇に従えた向唐門は、平入りにして両側面を唐破風に仕立て、屋根は銅板葺です。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門(重文)
    白い築地塀を両脇に従えた向唐門は、平入りにして両側面を唐破風に仕立て、屋根は銅板葺です。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院<br />唐門の先にあるのが通用門です。ここが出入口になります。<br />門から見えるのは、庫裡だと思います。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院
    唐門の先にあるのが通用門です。ここが出入口になります。
    門から見えるのは、庫裡だと思います。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院<br />通用門には、表札「浄土院御廟」が掲げられ、そこには「宗祖伝教大師の創建にして御自作の阿弥陀仏を安置するが故に浄土院と称す」とあり、最後に「万治4年徳川家光公之を改造せらる」と記されています。万治4年は西暦1661年になります。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院
    通用門には、表札「浄土院御廟」が掲げられ、そこには「宗祖伝教大師の創建にして御自作の阿弥陀仏を安置するが故に浄土院と称す」とあり、最後に「万治4年徳川家光公之を改造せらる」と記されています。万治4年は西暦1661年になります。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿(重文)<br />入口の門を潜ると、静謐な枯山水の前庭の背後に拝殿が佇んでいます。<br />前庭の白砂は端正に掃き清められ、手前には蚊取り線香を彷彿とさせる渦巻紋や流紋を配し、隅々まで砂紋を描いています。参道は石畳になっています。<br />拝殿は、桁行5間、梁行3間で、屋根は入母屋造、銅板葺で中央に軒唐破風を載せています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿(重文)
    入口の門を潜ると、静謐な枯山水の前庭の背後に拝殿が佇んでいます。
    前庭の白砂は端正に掃き清められ、手前には蚊取り線香を彷彿とさせる渦巻紋や流紋を配し、隅々まで砂紋を描いています。参道は石畳になっています。
    拝殿は、桁行5間、梁行3間で、屋根は入母屋造、銅板葺で中央に軒唐破風を載せています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿<br />浄土院の僧を侍眞と言い、12年間山を降りない籠山修行の内規に則り、厳しい戒律の下に身心を清浄にし、生身の大師に仕えるように、今も霊前の給仕に明け暮れしています。侍眞に選ばれるのは大変名誉なことだそうです。高野山では今も瞑想を続ける大師のために、1200年もの間、毎日食事が作られていますが、比叡山も同じ精神のようです。 <br />また、「ここは掃除地獄とよばれるように、1に掃除、2に音声(おんじょう=読経)、3に学問という厳しい修行の場」と言われています。確かに塵ひとつ見られず、白砂の流紋が端正なのは、掃除修行の体現と言えます。<br />侍眞さんたちのありがたいご給仕に合掌!

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿
    浄土院の僧を侍眞と言い、12年間山を降りない籠山修行の内規に則り、厳しい戒律の下に身心を清浄にし、生身の大師に仕えるように、今も霊前の給仕に明け暮れしています。侍眞に選ばれるのは大変名誉なことだそうです。高野山では今も瞑想を続ける大師のために、1200年もの間、毎日食事が作られていますが、比叡山も同じ精神のようです。
    また、「ここは掃除地獄とよばれるように、1に掃除、2に音声(おんじょう=読経)、3に学問という厳しい修行の場」と言われています。確かに塵ひとつ見られず、白砂の流紋が端正なのは、掃除修行の体現と言えます。
    侍眞さんたちのありがたいご給仕に合掌!

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿<br />鬼板の中央には、天台宗輪宝が黄金色に輝いています。<br /><br />侍眞は、身心共に清らかでなければなりません。そこでまず仏教の作法で心を清め、感得した者だけが仕えることを許されます。その作法を「好相行」と言います。浄土院拝殿にある奥の間を幕で仕切り、中央に半畳のゴザを敷き、そこで『仏名経』に説かれた3千体もの仏の名前を唱えながら、香や花を献じ、そして五体投地と言われる仏教で一番丁寧な礼拝を行います。五体とは両膝、両肘、額を指します。これらを床に着け、そして立ち上がり、再び体を折り曲げて礼拝します。これを日に3千回繰り返します。食事や排泄、沐浴以外は、礼拝をしている状態です。3千回終えるまでは、眠ることも横になることも許されません。記録によると、歴代の満行者は平均3ヶ月を要し、30万回で目の前に仏様が立つそうです。しかし当方のように煩悩の多い者は、それよりも遅くなるそうです。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿
    鬼板の中央には、天台宗輪宝が黄金色に輝いています。

    侍眞は、身心共に清らかでなければなりません。そこでまず仏教の作法で心を清め、感得した者だけが仕えることを許されます。その作法を「好相行」と言います。浄土院拝殿にある奥の間を幕で仕切り、中央に半畳のゴザを敷き、そこで『仏名経』に説かれた3千体もの仏の名前を唱えながら、香や花を献じ、そして五体投地と言われる仏教で一番丁寧な礼拝を行います。五体とは両膝、両肘、額を指します。これらを床に着け、そして立ち上がり、再び体を折り曲げて礼拝します。これを日に3千回繰り返します。食事や排泄、沐浴以外は、礼拝をしている状態です。3千回終えるまでは、眠ることも横になることも許されません。記録によると、歴代の満行者は平均3ヶ月を要し、30万回で目の前に仏様が立つそうです。しかし当方のように煩悩の多い者は、それよりも遅くなるそうです。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿<br />扁額「浄土院」は、奇妙な書体で陽刻されています。周囲にある部分的な彩色が、穏やかさの中にも華やかさを感じさせます。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿
    扁額「浄土院」は、奇妙な書体で陽刻されています。周囲にある部分的な彩色が、穏やかさの中にも華やかさを感じさせます。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿<br />虹梁の上の大瓶束の左右の笈形は、極彩色に彩られています。<br />柱や頭貫、虹梁の極彩色は剥落して木肌に戻り、古色蒼然とした印象があります。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿
    虹梁の上の大瓶束の左右の笈形は、極彩色に彩られています。
    柱や頭貫、虹梁の極彩色は剥落して木肌に戻り、古色蒼然とした印象があります。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿<br />斗きょうの上には、牡丹と思われる装飾も施されています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿
    斗きょうの上には、牡丹と思われる装飾も施されています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿<br />扉の上部には雲形紋が彫られ、極彩色で3色に塗り分けられたその中央には天台宗輪宝が刻まれています。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿
    扉の上部には雲形紋が彫られ、極彩色で3色に塗り分けられたその中央には天台宗輪宝が刻まれています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿<br />拝殿の周囲には、格子が嵌め込まれ、黒く塗られた半蔀(はじとみ)が設けられています。<br />扉にある蓮華をデフォルメしたデザインとその色彩も面白いです。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 拝殿
    拝殿の周囲には、格子が嵌め込まれ、黒く塗られた半蔀(はじとみ)が設けられています。
    扉にある蓮華をデフォルメしたデザインとその色彩も面白いです。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟(重文)<br />拝殿を右に回り込むと、御廟が深い静寂の中にひっそりと佇んでいます。凛とした張り詰めた空気が漂う、比叡山内随一の浄域です。<br />玉垣で囲われた御廟の手前には、法華塔や宝篋印塔、石燈籠が配されています。また、周囲には沙羅双樹や菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気が醸されています。 <br />ここの白砂もは流紋が描かれています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟(重文)
    拝殿を右に回り込むと、御廟が深い静寂の中にひっそりと佇んでいます。凛とした張り詰めた空気が漂う、比叡山内随一の浄域です。
    玉垣で囲われた御廟の手前には、法華塔や宝篋印塔、石燈籠が配されています。また、周囲には沙羅双樹や菩提樹が植えられ、極楽浄土の雰囲気が醸されています。
    ここの白砂もは流紋が描かれています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟<br />最澄は、比叡山を開山し、入唐求法後に天台宗を開き、天台宗の「宗祖」と称されます。最澄の宝号は、正式には「南無円戒高祖一乗禅密根本伝教大師福聚金剛」と称されます。<br />最澄は、俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)と言い、766(天平神護2)年に近江国滋賀郡に生まれました。15歳で近江国分寺の僧 行表の下に出家得度し、最澄と名乗りました。20歳で奈良 東大寺で具足戒を受け、官僧となりました。しかし最澄は奈良の大寺院での地位を求めず、自らの出生祈願を父親がなした山林静寂の地「比叡山」に籠って修行と経典研究に没頭しました。最澄は、数ある経典の中で法華経の教えが最高のものと考え、中国の天台大師 智ぎの著述『法華三大部』を研究しました。<br />789(延暦7)年、最澄は根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な伽藍を建立し、一乗止観院と名付けました。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号を冠した「延暦寺」の寺号が嵯峨天皇から許されたのは、最澄没後のことでした。最澄は桓武天皇に帰依し、天皇や側近の和気氏の援助を受け、比叡山寺は平安京の表鬼門を護る国家鎮護の道場として次第に栄えていきました。この頃、最澄は皇室の仏事に執行する「内供奉十禅師」のひとりに選ばれています。<br />804(延暦22)年、最澄は還学生として遣唐使船で唐に渡り、天台山にて天台大師 智ぎ直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒を、行満座主から天台教学を学びました。また、帰国間際、越州(紹興)の龍興寺で順暁阿闍梨から密教を、しゃく然禅師から禅を学びました。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想を学び、日本に伝えたのが最澄の学問の特色であり、延暦寺は総合仏教学問所としての性格を持ち合わせました。後に延暦寺から各宗派の宗祖を輩出した理がここにあります。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟
    最澄は、比叡山を開山し、入唐求法後に天台宗を開き、天台宗の「宗祖」と称されます。最澄の宝号は、正式には「南無円戒高祖一乗禅密根本伝教大師福聚金剛」と称されます。
    最澄は、俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)と言い、766(天平神護2)年に近江国滋賀郡に生まれました。15歳で近江国分寺の僧 行表の下に出家得度し、最澄と名乗りました。20歳で奈良 東大寺で具足戒を受け、官僧となりました。しかし最澄は奈良の大寺院での地位を求めず、自らの出生祈願を父親がなした山林静寂の地「比叡山」に籠って修行と経典研究に没頭しました。最澄は、数ある経典の中で法華経の教えが最高のものと考え、中国の天台大師 智ぎの著述『法華三大部』を研究しました。
    789(延暦7)年、最澄は根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な伽藍を建立し、一乗止観院と名付けました。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号を冠した「延暦寺」の寺号が嵯峨天皇から許されたのは、最澄没後のことでした。最澄は桓武天皇に帰依し、天皇や側近の和気氏の援助を受け、比叡山寺は平安京の表鬼門を護る国家鎮護の道場として次第に栄えていきました。この頃、最澄は皇室の仏事に執行する「内供奉十禅師」のひとりに選ばれています。
    804(延暦22)年、最澄は還学生として遣唐使船で唐に渡り、天台山にて天台大師 智ぎ直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒を、行満座主から天台教学を学びました。また、帰国間際、越州(紹興)の龍興寺で順暁阿闍梨から密教を、しゃく然禅師から禅を学びました。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想を学び、日本に伝えたのが最澄の学問の特色であり、延暦寺は総合仏教学問所としての性格を持ち合わせました。後に延暦寺から各宗派の宗祖を輩出した理がここにあります。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟<br />正面・側面3間の方形で、屋根は宝形造の銅板葺です。外観は、礎盤・台輪・火灯窓が備わった禅宗様建築ですが、軒は和様の並行垂木を用いています。<br />御廟の建立年代は、表門・拝殿と同じく1661(寛文元)年の建立とされます。<br />こうして見ると、青(あを)色に彩られた火灯窓が厳粛な聖域を穏やかな雰囲気にやわらげています。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟
    正面・側面3間の方形で、屋根は宝形造の銅板葺です。外観は、礎盤・台輪・火灯窓が備わった禅宗様建築ですが、軒は和様の並行垂木を用いています。
    御廟の建立年代は、表門・拝殿と同じく1661(寛文元)年の建立とされます。
    こうして見ると、青(あを)色に彩られた火灯窓が厳粛な聖域を穏やかな雰囲気にやわらげています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟<br />写真の編集をしていて気付きましたが、軒下には猿の彫像が置かれています。<br />判りますか?屋根のすぐ下です。恐らく、4隅に配されているものと思います。<br />日吉大社 西本宮楼門の4隅にある棟持猿(むなもちさる)と同類のもので、魔除けです。五重塔などでは、邪鬼や力士が支える例が多いのですが、仏教思想と融合した風水術のひとつと思われます。<br />古来、日吉と言えば猿と言われ、比叡山では神猿(まさる)は魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんです。そういえば根本中堂の回廊の蟇股も「猿」でした。また、日吉東照宮にも「猿」の蟇股があり、これが日光東照宮の「3猿」に発展したとの見解もあります。<br />日吉大社と神猿には幾つかの伝説が残されています。その中でも、江戸時代初期に、後西天皇が天然痘の一種、疱瘡に罹った時、神猿も同じ病気に罹り、天皇の身代わりになって死んだという伝説は有名です。その他にも、比叡山山麓の坂本に残る和歌の「七猿歌」にも詠まれるほど日吉大社と深く繋がっています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟
    写真の編集をしていて気付きましたが、軒下には猿の彫像が置かれています。
    判りますか?屋根のすぐ下です。恐らく、4隅に配されているものと思います。
    日吉大社 西本宮楼門の4隅にある棟持猿(むなもちさる)と同類のもので、魔除けです。五重塔などでは、邪鬼や力士が支える例が多いのですが、仏教思想と融合した風水術のひとつと思われます。
    古来、日吉と言えば猿と言われ、比叡山では神猿(まさる)は魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんです。そういえば根本中堂の回廊の蟇股も「猿」でした。また、日吉東照宮にも「猿」の蟇股があり、これが日光東照宮の「3猿」に発展したとの見解もあります。
    日吉大社と神猿には幾つかの伝説が残されています。その中でも、江戸時代初期に、後西天皇が天然痘の一種、疱瘡に罹った時、神猿も同じ病気に罹り、天皇の身代わりになって死んだという伝説は有名です。その他にも、比叡山山麓の坂本に残る和歌の「七猿歌」にも詠まれるほど日吉大社と深く繋がっています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門<br />不謹慎とは思いつつ、歴史の証拠資料として激写させていただきます。<br />虹梁の上の大瓶束の左右の笈形と下部の装飾は、簡素なものですが極彩色に彩られ目に鮮やかです。<br />柱や頭貫、虹梁の極彩色は剥落して元の木肌に戻され、若干苔生して味わいを深めています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門
    不謹慎とは思いつつ、歴史の証拠資料として激写させていただきます。
    虹梁の上の大瓶束の左右の笈形と下部の装飾は、簡素なものですが極彩色に彩られ目に鮮やかです。
    柱や頭貫、虹梁の極彩色は剥落して元の木肌に戻され、若干苔生して味わいを深めています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門<br />蟇股は、かつては極彩色に輝いていただろう雄渾な唐獅子の面影を偲ぶよすがとなっています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門
    蟇股は、かつては極彩色に輝いていただろう雄渾な唐獅子の面影を偲ぶよすがとなっています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門<br />木鼻は簡素な禅宗様の造形です。渦紋と言うよりも、雲形を表現しているように思えます。<br />手前の木鼻は、直に斗を載せています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門
    木鼻は簡素な禅宗様の造形です。渦紋と言うよりも、雲形を表現しているように思えます。
    手前の木鼻は、直に斗を載せています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門<br />門扉の透かし彫りだけでなく、金具の鋲の細工にも深い味わいがあります。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟 唐門
    門扉の透かし彫りだけでなく、金具の鋲の細工にも深い味わいがあります。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟<br />唐門の透かしから覗いた御廟の正面です。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟
    唐門の透かしから覗いた御廟の正面です。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟<br />根本中堂の堂内中央にあるのと同じ、扁額「傳教」が掲げられています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 御廟
    根本中堂の堂内中央にあるのと同じ、扁額「傳教」が掲げられています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院<br />突然、御廟からカエルが跳び出してきました。「神蛙」かもしれません…。<br />カエル目アカガエル科に分類され、水辺で見られる褐色のカエルです。<br />体長5cm程で、背中には灰褐色~黒褐色の斑模様があります。背中には大小のいぼ状突起が並び、このため各地で「イボガエル」という方言で呼ばれています。<br />因みにイメージが覆るかもしれませんが、松尾芭蕉の句にある「古池に飛び込むカエル」は、このツチガエルの可能性が高いと言われています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院
    突然、御廟からカエルが跳び出してきました。「神蛙」かもしれません…。
    カエル目アカガエル科に分類され、水辺で見られる褐色のカエルです。
    体長5cm程で、背中には灰褐色~黒褐色の斑模様があります。背中には大小のいぼ状突起が並び、このため各地で「イボガエル」という方言で呼ばれています。
    因みにイメージが覆るかもしれませんが、松尾芭蕉の句にある「古池に飛び込むカエル」は、このツチガエルの可能性が高いと言われています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 慈摂大師 二十五番霊場 第三番 浄土院<br />御廟に向かって左にある堂宇からは、かすかに読経のような声が洩れ聞こえます。<br />ここで「好相行」をなされているのかもしれません。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 慈摂大師 二十五番霊場 第三番 浄土院
    御廟に向かって左にある堂宇からは、かすかに読経のような声が洩れ聞こえます。
    ここで「好相行」をなされているのかもしれません。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 慈摂大師 二十五番霊場 第三番 浄土院<br />額には「慈摂大師 二十五番霊場 第三番 浄土院」とあります。その隣には、「南無阿弥陀仏の六文字を…」と認められています。<br />慈摂大師とは天台真盛宗の宗祖 真盛上人を指します。諡号は、円戒国師とも呼ばれ、西塔の慶秀に師事し、その後、同所の黒谷青龍寺に隠遁し、『往生要集』に拠り称名念仏を唱えました。西塔エリアには、後程紹介する円戒国師寿塔があります。<br />正直なところ、「法然上人二十五霊場」は聞いたことがありますが、「慈摂大師 二十五番霊場」は知りませんでした。<br />蟇股は、躍動的な飛び跳ねている兎です。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 慈摂大師 二十五番霊場 第三番 浄土院
    額には「慈摂大師 二十五番霊場 第三番 浄土院」とあります。その隣には、「南無阿弥陀仏の六文字を…」と認められています。
    慈摂大師とは天台真盛宗の宗祖 真盛上人を指します。諡号は、円戒国師とも呼ばれ、西塔の慶秀に師事し、その後、同所の黒谷青龍寺に隠遁し、『往生要集』に拠り称名念仏を唱えました。西塔エリアには、後程紹介する円戒国師寿塔があります。
    正直なところ、「法然上人二十五霊場」は聞いたことがありますが、「慈摂大師 二十五番霊場」は知りませんでした。
    蟇股は、躍動的な飛び跳ねている兎です。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門<br />山王院から下ってきた石段の最後難関の急坂が唐門越しに見られます。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門
    山王院から下ってきた石段の最後難関の急坂が唐門越しに見られます。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門<br />唐破風板の飾り金具も凝っています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門
    唐破風板の飾り金具も凝っています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門<br />銅板製と思しき鬼瓦の鬼板は、太陽を象徴するかのような円板を浮き上がらせています。<br />

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門
    銅板製と思しき鬼瓦の鬼板は、太陽を象徴するかのような円板を浮き上がらせています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門<br />扉には透かし彫りが施され、菱格子の中に葉を彷彿とさせる文様がいい仕事をしています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 唐門
    扉には透かし彫りが施され、菱格子の中に葉を彷彿とさせる文様がいい仕事をしています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 庫裡<br />こちらも渦巻紋のようです。<br />さすがに禅寺の石庭のような枯山水にはなっていませんが、砂紋にはそれなりの意味が持たせてあると思います。<br />枯山水は、禅の思想に沿い、人の人生を水の流れに例え、砂や岩を配置してそれを表現したものです。<br />最も大きな岩が泉、つまり人生の始まりにです。この庭ではそれが右端の燈籠でしょうか?そこから人は成長していきますが、誰しも困難や挫折に遭遇します。その苦難を表現したのが岩などです。ここでは苔地でしょうか?そして最期、死に至る悟りの心境を大海に例えます。その海の象徴が渦巻紋です。ここが人生の最期を表しています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 庫裡
    こちらも渦巻紋のようです。
    さすがに禅寺の石庭のような枯山水にはなっていませんが、砂紋にはそれなりの意味が持たせてあると思います。
    枯山水は、禅の思想に沿い、人の人生を水の流れに例え、砂や岩を配置してそれを表現したものです。
    最も大きな岩が泉、つまり人生の始まりにです。この庭ではそれが右端の燈籠でしょうか?そこから人は成長していきますが、誰しも困難や挫折に遭遇します。その苦難を表現したのが岩などです。ここでは苔地でしょうか?そして最期、死に至る悟りの心境を大海に例えます。その海の象徴が渦巻紋です。ここが人生の最期を表しています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院 庫裡<br />庫裡の軒唐破風の装飾です。<br />頭貫の上には瑞雲の中に宝珠が彫られた蟇股を載せ、その上の虹梁の上には大瓶束、その左右には唐草文様風の笈形を配しています。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院 庫裡
    庫裡の軒唐破風の装飾です。
    頭貫の上には瑞雲の中に宝珠が彫られた蟇股を載せ、その上の虹梁の上には大瓶束、その左右には唐草文様風の笈形を配しています。

  • 延暦寺 東塔エリア 浄土院<br />浄土院を出てすぐの所に手水があります。境内に手水鉢がないと思っていましたが、ここで済ませるのですね!<br />その木陰には、雰囲気たっぷりの五輪塔が寡黙に佇みます。

    延暦寺 東塔エリア 浄土院
    浄土院を出てすぐの所に手水があります。境内に手水鉢がないと思っていましたが、ここで済ませるのですね!
    その木陰には、雰囲気たっぷりの五輪塔が寡黙に佇みます。

  • 延暦寺 東塔エリア 参道<br />山側に燈籠、谷側に杉木立が並ぶのっぺりとした参道を軽快に進みます。<br />阿弥陀堂と東塔を結ぶ回廊を潜って以降、誰とも出会いませんでした。まさに陸の孤島といった閑静な浄域です。<br />浄土院は、僧でなくても参拝できる所ですが、一部のストイックな人種向けのコースと言えるかもしれません。

    延暦寺 東塔エリア 参道
    山側に燈籠、谷側に杉木立が並ぶのっぺりとした参道を軽快に進みます。
    阿弥陀堂と東塔を結ぶ回廊を潜って以降、誰とも出会いませんでした。まさに陸の孤島といった閑静な浄域です。
    浄土院は、僧でなくても参拝できる所ですが、一部のストイックな人種向けのコースと言えるかもしれません。

  • 延暦寺 東塔エリア 参道<br />穴太衆が積んだ苔生した石垣も、比叡山内ではそれほど珍しいものではありません。しかし、こうした所にこそ、僧兵たちが要塞を築いて寺院を守ろうとした歴史の片鱗が窺われます。<br />浄土院からほぼ平坦な参道を400m程進むと、西塔エリアの巡拝受付にでます。山王院を諦めて浄土院だけを参拝するなら、西塔エリアからアプローチするのがベストです。健脚であれば巡拝受付から5分程です。<br />山王院も是非参拝したいという欲張りな方は、阿弥陀堂からの往復をお勧めします。回廊から、片道5分強の距離です。その先は苦行の道になりますので、戻ってきてください。<br />この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨⑤延暦寺 西塔エリア(前編)でお届けいたします。

    延暦寺 東塔エリア 参道
    穴太衆が積んだ苔生した石垣も、比叡山内ではそれほど珍しいものではありません。しかし、こうした所にこそ、僧兵たちが要塞を築いて寺院を守ろうとした歴史の片鱗が窺われます。
    浄土院からほぼ平坦な参道を400m程進むと、西塔エリアの巡拝受付にでます。山王院を諦めて浄土院だけを参拝するなら、西塔エリアからアプローチするのがベストです。健脚であれば巡拝受付から5分程です。
    山王院も是非参拝したいという欲張りな方は、阿弥陀堂からの往復をお勧めします。回廊から、片道5分強の距離です。その先は苦行の道になりますので、戻ってきてください。
    この続きは、九夏三伏 比叡山彷徨⑤延暦寺 西塔エリア(前編)でお届けいたします。

この旅行記のタグ

関連タグ

1094いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP