2017/07/28 - 2017/07/28
12位(同エリア1466件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記367冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,058,932アクセス
- フォロワー141人
西塔から北へ4km程の距離にあり、入唐求法の旅から帰国した第3世天台座主 慈覚大師 円仁によって開かれた、霊峰感漂う静寂なエリアです。本堂は、遣唐使船を模した屋根を載せた堂々たる舞台造の横川中堂です。その他、『往生要集』を著した源信僧都が隠居していた恵心堂やおみくじや魔除けの角大師で知られる元三大師 良源を祀つる四季講堂など目白押しです。極めつけは、ミステリー・ハンターが集うという、大魔所「元三大師御廟」です。ここは確かに空気が違います。それを体感なさってください。
延暦寺は数多の高僧を輩出しましたが、この横川に所縁があるのは、親鸞聖人、道元禅師、日蓮聖人などになります。血の滲むような命がけの修行の末、独自の境地を切り開いて一宗一派を開きました。また、平安時代~現代まで多くの文学作品の舞台になった地でもあります。横川を開いた円仁も日本初の旅行記『入唐求法巡礼行記』を著すなど学究的な気風が漂う修行場となっています。
尚、西塔エリアから横川までは東海自然歩道を60分以上歩くことになりますので、シャトルバスを利用してください(約10分)。
http://www.hieizan.or.jp/
比叡山マップです。
http://netlog.jpn.org/r271-635/upload2/20150502-map-enryakuji.jpg
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
PR
-
比叡山 伝教大師尊像
奥比叡ドライブウェイの峰路レストランの駐車場端に立っている伝教大師尊像です。シャトルバスの車窓から撮影しました。
伝教大師40歳のお姿を模し、「天台薬師の池」を眺めるようにして立たれています。台座を含めて全高11mあり、大師が比叡山に一乗止観院を開いてから1200年目を慶讃して1987年に建立されました。台座中央のプレートには 「瞻仰崇信(せんぎょうすいしん)」 の文字が躍ります。 すなわち、「仰ぎ見て、敬い慕う、そして尊び信じる」の意です。
ここでは、毎年3月、比叡山の春の訪れを告げる行事 「比叡山大護摩供法要」 が行われます。 -
横川エリアのマップです。
「旅行の概要」にあるマップと併用すれば便利です。
シャトルバスは、左下にある横川駐車場に停車します。
ここにトイレや飲料の自動販売機があります。 -
比叡山 横川エリア
横川エリアへの入口です。
入ってすぐ右側に巡拝受付があります。
入口の両脇には立派な石燈籠が構えています。 -
比叡山 横川エリア
入口を進むと左側にブルー系のアジサイ群生地が広がっています。
さすがに季節は盛夏ですのでかなり傷んでいますが、その中で比較的きれいなものを厳選しました。 -
比叡山 横川エリア 九頭龍池
九頭龍池までは、駐車場から参道を200m程の距離です。
参道に立ち並ぶ祖師御行績絵看板(紙芝居のようなパネル)を横目に下って行くと、九頭龍池があり、その手前の畔に2体の石仏が仲良く並んでいます。野仏のようでもありますが、お供え物があるため、お世話をされている方がおられるようです。 -
比叡山 横川エリア 龍ヶ池弁財天
九頭龍池の中に佇む弁財天です。ここも「比叡山七不思議」のひとつです。この弁財天には次のような怪異譚があります。
延暦寺古書に曰く、昔この池に大蛇が棲みつき村人に害を与えていた。元三大師これを聞き大蛇に向い「汝、法力を持つと聞くが本当か」と訊ねました。大蛇は、威猛々に「本当だ。出来ないことは何もない」と答えました。大師が「ならば大きい姿になってみよ」と言うと数十倍の大きさに変身しました。「では、小さくなり私の手の平に乗れるか」と言うと小さくなり手の平の中に入りました。そこで、大師がすぐさま観音様の念力により閉じ込めてしまわれました。そして弁天様をお迎えし、小さな蛇をお渡しになり、お侍いとして仕えさせて頂きたいとお願いされました。大蛇も大師に諭され前非を悔い、今度は自分の持つ法力を善業に向け横川の地を訪れる人の道中の安全と心願の成就の助けをすると誓いました。別名「雨乞いの弁天様」としても知られており、とても法力があると言われています。
因みに、「策略に嵌ってはダメ」という意味で「その手に乗るな」と言いますが、この言葉は元三大師の手のひらに大蛇が乗ったことに由来するとの説もあります。 -
比叡山 横川エリア 龍ヶ池弁財天
石造りの鳥居を構える龍ヶ池弁財天です。扁額には「龍ヶ池弁財天」とあります。
九頭龍池は赤池とも呼ばれることから、紅葉の頃は真っ赤に染まるのは想像に難くありません。 -
比叡山 横川エリア 龍ヶ池弁財天
九頭龍池に浮かぶ祠であり、龍王社とも呼ばれます。
今もこうした伝説が語り継がれ、弁財天は龍に守られています。因みにこの伝説は、まんが「日本昔話」でも放映されました。ご覧になった方もおられるのでは?
ここの弁財天は「雨乞いの弁財天」でも霊験あらたかであるのを失念して参拝したため、この後、その恵みを授かることになるとは…。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
横川エリアの本堂に当たるのが、懸崖に建つ横川中堂です。樹木の中に浮かぶような、舞台造、丹塗りの堂宇が印象的です。正式には「首楞厳院(しゅりょうごんいん)」と言い、根本観音堂とも呼ばれます。慈覚大師 円仁が伝教大師の教えに基づいて848(嘉祥元)年に創建し、聖観音菩薩像と毘沙門天像の2尊を安置しました。円仁が入唐する際、暴風に遭遇し、あわや大海に没せんとした時、観音力を念ずると観音菩薩が現われ、忽ち風晴れ浪平らいだといいます。帰山後、一堂を建てて観音様を祀ったのが横川中堂の始まりです。
堂宇の中央部が2m程下がっており、そこに本尊の円仁作と伝わる聖観音菩薩が祀られています。丁度、参拝者と観音菩薩の目の位置が同じになるように設計されています。ここでは、除災招福のご利益がいただけます。
因みに円仁は、最後の遣唐使のひとりです。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
建物は、信長の焼討ちで焼損しましたが、1584年に秀吉が再興し、1604(慶長9)年に淀君が改修した当時の建物の形を復元しています。しかしその後、1942年に落雷により2度目の焼損に遭い、伝教大師1150年大遠忌を記念して1971(昭和46)年に鉄筋コンクリート造で再建されています。
幸いにも本尊の聖観音菩薩像だけは焼失を免れたそうです。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
横川中堂は忠実に再現されているそうですが、古色を感じるにはもう少し丹色が色褪せた方がいいかもしれません。
屋根は、円仁が乗船した遣唐船の形を模した船形をしています。かつて入唐時に海難に逢った円仁が、聖観音を念じて事なきを得たため、帰朝後、この堂宇を建立する際、屋根を思い入れのある遣唐船に模して造らせたと伝わります。内部も段差構造になっており、どことなく船底を彷彿とさせます。
基壇となる端正な石垣は、もちろん穴太衆積です。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
ここも「比叡山七不思議」のひとつ、「六道おどり」が語り継がれる場所です。
ある年のお盆、横川中堂前の広場で里人たちが僧たちと盆供養をしていました。その深夜、観音様が本堂から庭に現れ、印を結んだかと思うや否や、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六道の亡者たちがそこへ集ってきました。そして、香や花を供えて盆供養をし、やがて踊りはじめました。
地獄の亡者たちは地獄での責め苦を踊り表し、修羅たちは剣の舞を舞うなど夜通し続き、最後に天人が延命の舞を舞い、やがて夜明けと共に消えていったと伝わります。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
鬼板の鬼は、節分の豆撒きに登場しそうな1つ角の鬼で、どことなく愛敬があります。
円仁は43歳の時、3度目の正直で念願の唐に渡ったものの、天台山への入山が許されず、また時の皇帝による仏教弾圧にも遭遇し、苦渋の日々を強いられました。しかし、不屈の求道精神で幾多の困難を克服し、入唐から9年半後に多大な成果を携えて帰国しました。その翌年に建てたのがこの横川中堂です。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂 護法石
横川中堂への入口の右脇にあります。
寺伝によると、比叡山の守護神の「鹿島明神」と「赤山明神」が影向(ようごう)した石としています。影向とは、神仏が来臨することを言います。
「赤山明神」は比叡山西麓の守護神です。因みに東麓の守護神は、「日吉山王」です。
「鹿島明神」がどんな神なのか判りませんが、祇園祭の船鉾の屋形内には、主神神功皇后と皇后に従う住吉明神、鹿島明神、安曇磯良(龍神)の4柱の御神体人形が祀られています。そこでは、鹿島明神は、神功皇后の後方を守る武神とされ、武御雷神 (たけみかずちのかみ)とも呼ばれます。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
入口に安置されているのは、度肝を抜かれるほどに金色に輝く 「仏国土観音像」です。眼が眩むほどに眩しい観音像です。その光たるや後光が射すが如しです。
「仏国土をつくろう会」の会長 河野芳郎氏が日本一の大仏師 松久朋淋師に依頼して制作されたものだそうです。
仏国土とは、諸仏それぞれの浄土のことを言います。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
ネットには聖観音菩薩立像の画像が溢れているため、ダメ元で撮影許可をお願いしてみました。遠目かつノーフラッシュという条件付きでOKをいただけました。内部は暗いのではっきり写らないと読んでいるようです。
本尊は、1.7m程ある聖観音菩薩立像(重文)で、材はカヤの寄木造です。この像は天台系の観音像の典型とされ、この姿が根本像として流布されたものと思われます。脇侍は、右に毘沙門天、左に不動明王を配しています。
外陣からの拝観のため距離があり、またガラス張りの厨子のため、細部をつぶさに観ることは叶いません。
『山門堂舍記』によると、1169年に横川中堂は焼失していますが、聖観音像は無事だったとあります。
ここでは祈願の際には梵語を唱えるそうで、願いに応じてそれに相応しいサンスクリット語が掲示されています。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
聖観音菩薩立像は、穏やかで慈愛に満ちた優しい顔付き、彫りの浅い衣文は平安時代後期の作風です。蓮台に立ち、左手は未敷蓮華(蕾の蓮華:後補)を持ち、右手は転法輪印を結んで蓮華に近づけ、僅かに腰をくねったポーズが優美です。
「滋賀・びわ湖 観光情報」にある写真を借用させていただきました。
http://www.biwako-visitors.jp/shinbutsuimasu/shinbutsu/otsu/otsu_005.php -
比叡山 横川エリア 横川中堂
廻廊にもでられます。
御朱印には、「大悲殿」と書かれています。「大悲殿」とは、聖観音や千手観音や如意輪観音などの観音菩薩が安置されている堂宇を言います。 -
比叡山 横川エリア 横川中堂
本尊を祀る内陣の周囲には、夥しいほどの黄金色に輝く小さな観音様が祀られています。これらは供養を願って奉納されたものだそうです。
千体観音でしょうか?この光景は圧巻です。 -
比叡山 横川エリア 赤山宮
比叡山西麓の守護神として、横川中堂の正面斜め前の小高い所に建てられています。
因みに比叡山の京都側の麓には、赤山禅院があります。赤山禅院は、円仁の死後、弟子の安慧(あんえ)がその意思を継いで建立したものです。
何故、赤山明神が円仁所縁の横川でなく、わざわざ山を下りた修学院の地を選んだのでしょうか?実は、初代遣隋使となった小野妹子を祖先とする小野一族所縁の地が赤山禅院のある場所だそうです。隋から持ち帰った道教の神々を小野一族はよく理解しており、赤山明神を受け入れられる土地柄だったようです。 -
比叡山 横川エリア 赤山宮
慈覚大師 円仁が遣唐使として留学した際、中国の赤山において新羅明神を仏法研究の守護神とし、その功徳によって9年半の修行を無事終えたため、帰国後この地に祀ったものです。それ以来、新羅明神は、地蔵菩薩と神仏習合して天台宗の守護神として篤く祀られてきました。除災延寿と方除の神とされます。
東塔にある「情海鎮大使張保皐碑(2002年除幕法要)」がこうした張保旱と円仁の関係を注目させる起爆剤になったものの、生憎、現在の京都 赤山禅院には、これに関連する史跡が遺されていません。延暦寺の中では、後人たちの手によって建てられた赤山明神社(現赤山宮)が唯一この史実を伝えるのみです。 -
比叡山 横川エリア
横川中堂から鐘楼へ向かう参道です。
鬱蒼とした杉林が誘う参道は、仄暗く静寂の中に埋没した感があり、神秘性を秘めています。また、参道には道祖神の如く西国三十三観音霊場の本尊を模した石像が安置され、黙っていても静粛な気持ちにさせられます。 -
比叡山 横川エリア 第三十一番 姨綺耶山 長命寺
滋賀県近江八幡市長命寺町にある古刹です。
12代 景行天皇の代、武内宿彌がこの山に上り、『寿命長遠諸元成就』の文字を柳の大木に彫り、長寿を祈願した結果、3百歳の長寿を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地を訪れ山に上り、武内宿彌が彫った柳の木を見、感嘆しているとそこに白髪の老人が現れ、『この木で仏像を刻み、寺を建立するように』と告げ立ち去ったという。太子はこのお告げの通り、この柳の木で千手十一面聖観音三尊一体の像を刻み、推古天皇27年(619年)に本尊として祀り、武内宿彌長寿霊験の因縁で長命寺と名付けたのがこの寺の創始とされています。1516(永正13)年の戦火で伽藍の殆どは焼失してしまい、現存する建造物は大永年間から慶長年間(1512~1614年)にかけて再建されたそうです。
琵琶湖直近の姨綺耶山(いきやさん)の中腹にあり、この参道の石段が本堂まで808段(長さ約600m)あることで有名です。但し、現在は山門直下までは車で行けるようです。年間の参拝者10万人のうち、2割程度が麓から登られるそうです。登り切ると、伽藍が整然と並び、随筆家 白洲正子が愛した琵琶湖を望む風景が眼下に広がります。苦行の果てに辿り着いた故の浄土がそこにあるそうです。
健康長寿、無病息災にご利益があります。 -
比叡山 横川エリア 虚子の塔
高浜虚子は在京の時比叡山に登って『叡山詣』を書き、その横川中堂の政所「一念寺」に籠り 『風流懺法』を執筆しました。85歳で永眠するまでに20万句を超える俳句を詠んだと言われてます。
1942年に横川中堂が落雷による火災で焼失した際、虚子は多額の見舞金を送ったほどです。 -
比叡山 横川エリア 虚子の塔
虚子の塔に寄り添うように立つもうひとつの句碑は、虚子の次女 星野立子の句です。
「御僧に別れ惜しやな 百千鳥」 とあります。
星野立子は、初の女性による主宰誌『玉藻』を創刊、主宰し、杉田久女や中村汀女と共に『ホトトギス』同人となりました。
因みに彼女の娘のペンネームは、虚子が好きだった「椿」が使われています。 -
比叡山 横川エリア 虚子の塔
句碑には「清浄な月を見にけり 峰の寺」とあります。
虚子には、このように比叡山を詠んだ俳句が90首以上あるそうです。
「花鳥諷詠」「客観写生」という看板に偽りなく、横川をこよなく愛した俳聖 高浜虚子の面影がひしひしと伝わってくる句です。 -
比叡山 横川エリア 虚子の塔 逆修爪髪塔
虚子は椿が大好きだったこともあり、墓の周りに椿の木を沢山植えたそうです。 -
比叡山 横川エリア 虚子の塔 逆修爪髪塔
1953年に建立された、虚子の生前墓(生きているうちに爪と髪を納めた供養塔)です。没後、ここに遺骨が分骨されています。 -
比叡山 横川エリア 鐘楼
T字路に立ちはだかる鐘楼です。
18世紀前期に再建されたものとされています。独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所の海野 聡氏によると、この鐘楼は「延暦寺型鐘楼」とも称すべき独特の意匠を示し、注目に値するそうです。同氏は、特殊な雲形肘木や鐘楼の形式を比叡山建築の独自性の表れと評されています。
柱を四方転びの角柱とし、各柱間には2本の角柱の間柱を立て、更に隅柱と間柱を腰貫と飛貫で連結した、堅牢な構造としています。類似例には東大寺鐘楼や知恩院大鐘楼がありますが、共に規模が大きく、間柱上に太い大梁を架け、鐘を吊っています。この鐘楼では間柱上に大梁を架けないため、これらの形式とは根本的に異なる独自形式と考えられています。尚、日光東照宮 仮殿鐘楼(江戸時代前期)も延暦寺型鐘楼の特徴を示すとされ、興味深いものがあります。 -
比叡山 横川エリア 恵心堂
T字路を右へ進むと左手に恵心堂が佇みます。
この堂宇は、藤原兼家が良源のために建立したものす。
門前の石碑には、「南無阿弥陀仏 極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」とあるように、念仏三昧の道場です。毎年6月10日の僧都の命日には 『二十五昧式』の講式が唱えられ、報恩法要が営まれています。また、この周辺は「都率谷」と呼ばれ、付近の都率谷墓地に恵心廟があります。
清和源氏の祖である源満仲の末っ子 美女丸は、比叡山でこの恵心僧都に師事し、19歳にして恵心院円覚との名を授かっています。 -
比叡山 横川エリア 恵心堂
恵心僧都 源信の旧跡であり、元々は秘宝館の付近にありました。阿弥陀如来を祀る、念仏三昧の道場です。
源信は恵心院に篭り、仏道修行と多くの著述に専念し、『往生要集』 や『二十五昧式』、 『六道十界ノ図』、 『弥陀来迎ノ図』等を著し、後の浄土宗や浄土真宗などの源となる日本浄土教の基礎を築き上げました。故にこの恵心院は、「念仏発祥の地」とされています。
源信は、日本で初めて中国仏教の浄土思想を紹介する本を執筆しました。やがてその本を読んだ法然が浄土思想を知り、新しい宗派である浄土宗を開くきっかけになりました。源信と法然は生きた時代が百年も違いますが、時空を超えて繋がっています。故に、この恵心堂もパワースポットのひとつに数えられています。恵心堂の前が一般人にとってのパワースポットだと言われています。 -
比叡山 横川エリア 恵心堂
源信は平安時代中期の僧で、942(天慶5)年に大和国に生まれ、1017(寛仁元)年に76歳で没しました。天台宗座主 慈恵大師 良源に師事し、985年に著した『往生要集』が以後の浄土宗信仰の発展に大きな影響を与えました。
源信が良源から教えを授かったのが恵心院ですが、それは焼けてしまい、現在の恵心堂の建物は比叡山の麓の坂本里坊にあった別当大師堂を移築したものです。尚、琵琶湖に浮かぶ堅田にある浮御堂は、源信が建てた美しい堂宇として知られています。 -
比叡山 横川エリア 恵心堂
源信は、死後に阿弥陀如来の来迎を受けて極楽浄土へ生まれることを願う「浄土信仰」を広めた僧です。
『往生要集』は、人間界の因果により、それぞれ次の世界(様々な地獄から天上界まで)に生まれ変り、それぞれの報いを受けると解いています。地獄と極楽の具体的なイメージを作り上げ、『地獄絵図』を含む『六道絵』や『阿弥陀来迎図』などは源信の影響下で生まれました。そしてひたすらに「南無阿弥陀仏」と唱えることによって救われると説きました。 -
比叡山 横川エリア 恵心堂 『源氏物語』の横川僧都遺跡の石碑
紫式部著『源氏物語』には 、「法華経」をはじめ比叡山が多く登場します。第10帖「賢木」の巻では、光源氏は天台座主により受戒し、横川僧都により剃髪しています。また、第53帖と第54帖では、「比叡山の横川の僧都」というお坊さんが活躍します。
第53帖「手習」では、偶然通りかかった宇治の道で自殺未遂を起こした浮舟を「なにがしの僧都」が発見&介抱し、加持祈祷により浮舟の体に入り込んだモノノケを退散させます。
また、第54帖「夢浮橋」 では、薫が毎月根本中堂に詣でて、「経・仏など供養」 したとあります。
この横川の僧都のモデルが、天台宗のスターだった恵心僧都源信と言われています。また、『紫式部日記』にも天台座主 「院源僧都」 の記述があります。 -
比叡山 横川エリア 秘宝館
秘宝館の前にある広場のもみじです。
ここだけ季節を先取りした感があります。
元々、葉が赤い種類なのでしょうか? -
比叡山 横川エリア 四季講堂(元三大師堂)
第18代天台座主として19年間在職し、延暦寺の中興の祖と仰がれる慈恵大師(良源=元三大師)の住居跡と伝えられ、古くは「定心房」と呼ばれていました。元三大師堂は、村上天皇の勅命で春夏秋冬の年4回法華経が論議されたことから四季講堂とも呼ばれます。
現存の建物は、1652(承応元)年に後水尾天皇の勅願により再建されたもので、江戸時代初期に建てられた寺院建築の遺構として滋賀県有形文化財に指定されています。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
元三大師は、僧名を良源と言い、近江に生まれ、比叡山18代目の座主に昇り、この間20年間に亘って比叡山の教義を確立し、学問を高め、荒れていた比叡山を復興し、横川の地で幾多の弟子を育てました。門下3千人と言われ、この中から我が国浄土教の祖とされる恵心僧都(源信)、慈忍和尚(尋禅)、覚運、覚超師といった高僧が輩出されました。
また、法力や霊力の持主としても知られ、護法の権化として人々の魔を除き、家庭の厄除けや五穀の農作の守り神として今日も広く信仰を集めています。正月の三日に亡くなられたことに因んで、通称「元三大師」と親しみを込めて呼ばれます。
更に、全国津々浦々で行なわれているおみくじのスタイルは、良源のアイデアと言われ、この元三大師堂は「おみくじ発祥の地」とされています。往時は今のようなスタイルではなく、重要な進路の決断をしなくてはならない時に相談するというカウンセラー的存在でした。ですから、その教えには逆らえなかったそうです。
一方、良源は「たくあん漬け」の元祖と言われています。「たくあん」の考案者は紫衣事件で有名な大徳寺の沢庵宗彭というのが定説ですが、比叡山では良源を元祖としており、故にたくあんを良源の住居名だった「定心房」と呼びます。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂 石碑 「元三大師と角大師の由来」
ここでは元三大師が鬼になった姿を表した角大師(つのだいし)を授与し、魔除けの護符になっています。何故、こんなに恐ろしい姿になったかと言うと、都で疫病が流行り、防ぐ手段は無いかと捻りだしたアイデアです。
永観2年(984)、全国に疫病が流行し、巷には疫病の神が徘徊し、人々が 次々に冒されていきました。大師が人々を救済しようと目を閉じ禅定に入ると、大師の姿は徐々に変貌して骨ばかりの鬼(夜叉)の姿になりました。それを見ていた弟子 明普阿闍梨がその姿を写しとりました。大師は、その絵を版木でお札に刷るよう命じ、そのお札を配布して家々の戸口に貼らせて疫病を退散させました。
やがてこのお札を病魔は怖れて寄りつかず 、一切の厄難から逃れることができました。以来千余年、あらゆる病気の平癒と厄難の消除に霊験を顕わし全国的に崇められています。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
門の前に立つだけで静謐な雰囲気が怒涛のように押し寄せてきます。
この波動が感じられるだけでもご利益が期待できそうです。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
山門には額が掛けられ、「元三大師自讃文」が書かれています。
源信作『慈恵大師講式』の一部でしょうか?「本躰如意輪 出首楞嚴定 破生死魔怨 現作魔王身」とあります。難しい漢字が並んでいますが、源信は如意輪観音の化身とも仰がれました。後半は、魔除けの護符のことを言っていると思います。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
四季講堂は、桁行5間、梁間4間、一重、入母屋造、瓦棒銅板葺の建物です。正面中央は双折唐戸、その左右に蔀戸と舞良戸を嵌め、側面は板壁で囲んだ素木造で、低い縁高欄を廻し、威風堂々とした風格ある建物です。蟇股の彫刻などに時代の特色がよく表れています。
当初は弥勒菩薩が本尊でしたが、元三大師の没後、本尊には阿闍梨が描いた「横川のお大師さん」と親しまれている元三大師御影像を祀っています。
この御影像にはエピソードがあります。元三大師御影像は、信長の比叡山焼き討ちの際、執事の福定坊により持ち出されました。しかし、皮肉にも香芳谷に向かった信長方の武将と鉢合わせし、福定坊は死を覚悟しました。ところが、その武将は刀を帯から外し、御影像を一目拝ませて欲しいと懇願してきました。開帳は正月三日と決まっていましたが、福定坊はやむなく応じました。その後、福定坊はその武将に護衛を付けてもらい堅田方面へ逃げ落ちることができました。比叡山の伝承では、その武将が羽柴秀吉だったことになっています。
横川中堂を再建したのも秀吉の正室 淀君ですので、秀吉が御影像を拝んだことで授かった幸運への恩返しと言えなくもありません。 -
四季講堂の左脇に立つのが旧恵雲院です。
旧恵雲院と鶏足院灌室は、2つの堂宇が仲睦まじく向かい合っているため、「向い堂」とも呼ばれています。
かつての定心院には東西方向に板屋があったとされ、全体の雰囲気は現在と似た感じだったのかもしれません。ただし、現在の向い堂は、東西ではなく南北方向に建てられています。 -
比叡山 横川エリア 旧恵雲院
軒唐破風の様子です。
2つの蟇股の上に斗きょう、その上に蟇股を載せた珍しい構成です。 -
比叡山 横川エリア 鶏足院灌室
四季講堂の右脇に立つのが鶏足院灌室です。
現在は、と潅頂道場となっています。
「授戒」とは仏教の戒律を授けいただき仏弟子となる儀式、「灌頂」とは授戒を受けた者の頭上に清らかな法水が注がれ、仏の心に触れる(仏と一体となる)儀式をいいます。
これは、釈迦が誕生した時、甘露の雨が降って釈迦の頂に注がれた故事に始まり、国王の載冠式には4大海の水を頂に注いで王位を証明したことからその名があります。
手前の木陰にあるのが、手水舎です。 -
比叡山 横川エリア 鶏足院灌室
軒唐破風の様子です。
蟇股の上に一回り大きな蟇股を載せています。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
「社号額」には薄れた文字で「元三大師」と書かれています。
障子戸の先が内陣となり、祈祷や回向、おみくじなどの相談者のみが内陣への入堂を許されます。
ここで唱えられるのは「六道講式」と呼ばれるものです。講式とは、漢文の読み下しの文章であり、物語風の説話を読み上げます。単に音読するのではなく、抑揚を付け、確固たる音楽性も相俟って今日まで発展してきました。つまり、浄瑠璃や講談、浪曲などに至るまで、日本の「語りもの音楽」の起源になったものです。
作者が判明している作品では、源信の『二十五三昧式』や『六道講式』が最古とされています。その講式のルーツが、この四季講堂にあります。
尚、講式は、民衆への布教という点でも重要な働きを果たしました。教義を判り易い物語にして聞かせるという点で優れたものです。キリスト教のステンドグラスが聖書を物語るのと同じ役割です。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
正面に掛けられている奉納額は、大津絵の『武蔵坊弁慶』と『藤娘』です。
「大津絵」は、滋賀県大津で江戸時代から名産として知られる民俗絵です。大津絵は江戸時代には東海道を旅する人の護符とされ、また江戸時代初期のキリスト教禁制の時代には、仏様が描かれていたことから庶民が持つ免罪符のような役割を果たしていたそうです。大津絵の画題として多く描かれたのが鬼や雷神であり、やがて大津絵と言えば鬼の絵が代名詞になっていきます。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
左の額には「魔滅大師(豆大師)」とあり、「元三大師」が33人の子どものように小さな若者となり、百姓を救う話が書かれています。
寛永年間、ある百姓が、元三大師堂へ豊作祈願に来ている最中、豪雨になりました。百姓は田植え後の田圃を心配し、田作りの守護の大師に「お助けください」の一念で祈りました。降り続く雨の中を家に戻ると、不思議にもその百姓の田圃だけが無事でした。隣人の話によると、30人余りの子どものように小さい若者が、畔を造ったり、水を汲み出したり手際よく働いたそうです。この30人余りの若者は、観音様の化身である大師が33人の童子となったものでした。
もうひとつ、女官と元三大師(豆大師)にまつわる伝説があります。
大師は、眉目秀麗だったため、若い女官に人気がありました。ある年の春、女官たちが幔幕をひき廻らして花見に興じていたところ、そこへ大師が通りかかりました。女官たちが歓声を上げて囃し立てたところ、それを見た大師は苦りきった顔をしました。そして不思議にも、その美しい姿が見る見る豆粒のように小さくなり、とうとう恐ろしい鬼畜に変貌しました。なまじ容姿の美しさから自分や他人を魔道に落しめんとすることを恐れていた大師は、自他共に救うはからいとして鬼畜になって見せたそうです。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
正面左手の軒下に掛けられた「角大師」の由来を説明する額です。
鏡に映っているのが角大師が鬼(夜叉)に変貌したお姿です。尚、この絵に描かれている鏡は、本堂内陣の右手に見ることができます。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
このユーモラスな大津絵『鬼の寒念仏』は、鬼つながりということで奉納されたのでしょうか?
寒念仏とは、僧が小寒から立春の前日までの寒の30日間の明け方、山野に出て声高く念仏を唱え、また家々の門前で念仏を唱えて報謝を請い歩くことを言います。
僧衣を纏った鬼は、慈悲の姿とは裏腹の偽善者の姿を表しています。顔の形は鬼のままで、衣装や小道具だけを僧侶にしても無駄だという戒めが込められています。
鬼は人の心の中にあり、鬼の角は貪欲さや我執の象徴です。いつも自己の欲望や自分本位の考えでいると、角が生えてきます。この『鬼の寒念仏』は念仏を唱えることにより、そこから救済されることを表しているとされます。 -
比叡山 横川エリア 四季講堂
社号額に隠された蟇股には、青い唐獅子が彫られています。
元三大師堂で行っているおみくじは、一般的なおみくじではなく、まず僧侶の前で自分の悩み事を赤裸々に話し、僧侶が引いたおみくじを授受します。その後、おみくじに書いてある内容について僧侶から教えを授かります。そのため、悩みの内容によっては数十分要することもあるそうです。
一縷の望みを託してここに来られる方が多いということでしょうか?
寂寥とした四季講堂を後に、次は横川の魔所「元三大師御廟」へと駒を進めます。
ここ続きは、九夏三伏 比叡山彷徨⑧延暦寺 横川エリア(後編 エピローグ)でお届けいたします。
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