2017/05/28 - 2017/05/28
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tadさん
5月28日日曜に、高杉晋作の没後150年記念の特別展示を下関市立歴史博物館と東行記念館の2か所で、午前と午後に分けて、両方をまとめて見た。サンデンバスの一日乗り放題の切符を千円で買い、それで移動。
高杉晋作は幕末の動乱期に奇跡的な活動を短い生涯(29才)の間にした人物だ。長州ではさも維新の志士がたくさん輩出されたような誤解があるが、そんなことはない。幕府側に逆らえない反動的な士族がたくさんいたのだ。幕府側に第一次長州征伐されたあと、反省心を示すために3家老の首を幕府に差し出すほど、毛利藩の中心的集団は保守的な勢力が強かった。
そういった閉塞的状態の時に立ち上がったのが高杉晋作なのだ。この人物がいなかったら、多分、長府の功山寺での決起はなかっただろうし、それ以後の結集力を生み出せる人物はいなかっただろう。(吉田松陰や久坂玄瑞などの行動や決起は早すぎた。。。そのまま勢いは鎮まった可能性さえある。。。)なぜなら、奇兵隊等の諸隊は、晋作が必死で決起を促しても、赤根武人らは立ち上がらなかったのだ。萩や山口の正規の保守的な士族達に歯向かうほどの勢力はなかった。
それでも、やっと80名くらいの志士たちが結集したが、その中にはなんと後の伊藤博文がいた。彼が後年、自分に自慢話ができるとしたら、この時、いの一番に晋作に協力したことだと語っている。長府の功山寺で七卿落ちで来て滞在している公家たちの前で、今からひと暴れすると誓った場面は有名だ。其のときの鎧なども今回展示されていた。
で、最初の敵はまだまだ幕府軍ではない。長州内の萩や山口の毛利藩の正規兵たちが敵なのだ。そこに高杉晋作や伊藤博文達の少数の混成軍が立ち向かった。この勢いある少数の混成軍は下級士族や他の一般民から編成されたものだ。奇兵隊という名称で代表される混成軍は急速に膨れ上がり、萩の正規軍を負かしていく。高杉晋作の軍のほうが「正義派」と呼ばれ、保守派は、「俗論派」と呼ばれるようになり、この後は、立場が逆転することになる。吉田松陰や高杉晋作側の一族には実は「俗論派」に加わっていたものもいた。一族同士でも分断されていたほどだ。(西南の役と同様、萩でも前原一誠らの反乱は起きた。)
ここから後は、第2次長州征伐に対処することになるが、このころには、晋作は既に肺結核が酷くなり、思うようには指揮できなくなりつつあったが、坂本龍馬や薩摩やその他各地からの賛同者などの応援もあり、新式の銃がいきわたり、数千人程度の混成軍で、10倍を越える幕府軍と戦っていくことになる。(大村益次郎も加わる。)晋作が過ごした最後の日々の思い出が残る場所は下関市内にはあちこちある。そういった遺品を集めた展示が今回2か所で開催された。
なお東行庵のある東行記念館では、ギャラリートークが開催され、学芸員がふたりで、解説してくれた。この日の訪問者はそれを知ってきているようだった。明らかに晋作ファンだらけだった!
終わってからは、吉田山の高杉晋作の墓地等を散策し、さらに、その後は吉田温泉、晋作の湯にも入った。晋作漬けの一日だったが、楽しかった。一坂太郎著の「高杉晋作」本を2冊読み直して行った。やはり、晋作は凄い男だった!晋作と私の唯一の共通点は、私も高校3年生の時、重い肺結核だったことくらいだ。(別に誇りにしているのではない!)
晋作は逃亡していた時は、年上の知的な女性、野村望東尼に匿われ、さらに萩一の美人の雅を娶り、その長男に高杉家を継がせ、さらに下関では愛人おうのが東行庵で、生涯の墓守をしてくれ谷家を継いだ!
- 旅行の満足度
- 5.0
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長府の城下町に到着
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長府毛利邸を横に見て通過。目指すは下関市立歴史博物館
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下関市立歴史博物館と東行記念館の共同企画として同時開催されたものを、今日、まとめてどちらも訪問した。博物館の展示は実は本日までだった。入口でいただいた8ページの詳しいパンフレット。東行記念館と共通のパンフレットだ。
残念なのは、どちらも特別展示品は撮影禁止。下関市立歴史博物館 美術館・博物館
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次の絵の説明
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これは常設展のほうなので写真撮影可能。ただ、晋作の特別展示は残念ながら撮影禁止。そのかわり、カラー印刷の8ページの特別展示品の説明パンフレットが配布された。
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七卿落ちの図
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七卿落ちした七人の短冊。長府の功山寺に滞在していた。高杉晋作は決起した80人の仲間と、ここで、挨拶をして出発した。その時の鎧も展示されていたが、撮影禁止。
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伊藤博文の屏風
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これは小倉戦争の前に4か国連合艦隊と戦った時の写真。この時、1864年、敗れた後で、講和会議に高杉晋作が代表となり、伊藤博文と井上薫が通訳として同席し、相手の英国代表側にはアーネスト・サトウがいた。この講和会議の後、伊藤はサトウをさそって、下関で一緒に大坂屋へ飲みに行く。二人の交流はこの後、長く続き、日英同盟に繋がる交際が始まるのだ。伊藤は日本を代表し、サトウは英国を代表する立場となっていく。日清戦争後、この二人は、代表者同志として、たびたびあっていて、サトウの英文日記には表に出なかった話まで丁寧に記録されている。私はこの原文の日記を読み、サトウと伊藤の関係を知ることになった。どちらもロンドン大学UCLで学んだ間柄でもある。
なお、アーネスト・サトウはこの2年後1866年に「ジャパン・タイムズ」に「英国策論」を発表し、幕府では日本は立ちいかないことを公言する。この翻訳版は当時の影響力ある人には秘かに回し読みされており、幕府の終わりが近いことを感じ取っていた人はたくさんいただろう。この関連の書籍はたくさんある。 -
昼間で、歴史博物館を見た後、このうどん店に立ちより、ランチ。桃太郎という下関の人気店。天ぷらうどんなどを食べる。
桃太郎 長府店 グルメ・レストラン
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寿司のおにぎりとミルクセーキも美味しかった。
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秋芳洞行のバスに乗り、「東行庵入り口」で下車。吉田山の麓にある東行庵と東行記念館に到着。前には晋作とその奇兵隊の仲間たちの墓がある。
で、残念ながら、館内の展示は撮影禁止で写真はない。 -
下関市立東行記念館 美術館・博物館
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市立歴史博物館の展示は終了したが、こちらはまだ続く。
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東行庵。晋作の愛人おうのが墓守をして生涯、ここで過ごした。庵はもともと山県有朋の家だったが、おうのに譲ったもの。
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高杉晋作の墓地。
なお、この左横には木戸孝允、井上薫、伊藤博文が寄進した灯篭が立っている。 -
おうのの墓地。
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奇兵隊の墓地が続く
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奇兵隊の墓地が続く
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晋作の陶象。
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山県有朋の像
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記念館前に立つ新しい像。
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記念館前の庭園。菖蒲がもう少しで咲く。
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晋作尽くしの一日はこの晋作の湯でしめくくる。500円払う。いい湯だった。吉田温泉ともいう。
天然ラドン温泉 晋作の湯 温泉
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温泉の2階は休息室だが、そこから撮影した東行庵の庭園。
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温泉を楽しんだ後、バスで下関駅に向かって移動中にこの評判の店が見えたので、下車して、夕食を食べた。肝心のラーメンはちょっと濃厚すぎる味だった。
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