2015/06/07 - 2015/06/07
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
最終日は順調な滑り出し。最初の2つの教会で、すでにお腹がいっぱいという状態ですが、今日は食べまくりまっせ。明日から暫くお預けを食らうんだから、短い時間ではありますが、ミラノを味わいつくさねば!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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豊かな表現力に溢れたフレスコが大変素晴らしかった聖マウリツィオ教会。かろうじてファサードを撮った写真が見つかりました。
この教会がある場所は、古代ローマ時代の建造物を再利用して作られた初期キリスト教の教会があったと、前の旅行記で書きました。ここはマクシミアヌス帝の時代の3世紀末から4世紀初めにかけて、古い城壁が築かれた場所でもあります。 -
教会の隣には、市の考古学博物館があったので、ついでに覗いて行きます。博物館の入口部分は誰でも入れるようになっていました。
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聖マウリツィオ教会付設の女子修道院のキオストロがあった場所なのでしょう。中庭を囲む回廊内に、沢山の発掘物が展示されていました。
実はミラノでは、1808年に考古学博物館が現在はブレラ美術館となっているイエズス会の教会内にオープンしたのですが、発掘物のみならず、廃止された教会から持ち込まれたもの等で溢れ、長い間展示できない状態が続いていました。
それを整備し、聖マウリツィオ教会の旧修道院内に再オープンしたのが1868年のこと。この中庭の奥にある第二のキオストロにはローマ帝国時代の城壁の一部と多角形の塔が残っており、合わせて展示できるうってつけの場所でした。
館内には、ローマ時代のミラノ、中世、エトルリア時代、ガンダーラ美術、カエサリア・マリティマ(ヘロデ王が建設したパレスティナの都市)、エジプト、先史時代と多岐にわたった展示があります。 -
ここで主に見られたのは墓石やその付随品の類です。手前の墓石には、大きな雄牛の頭と円のレリーフが見えますね。雄牛崇拝はミトラ教でも核心のものでしたが、その時代のものかしら?
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こちらは、柱とその土台、柱頭のコレクション。
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左は石棺、右の、中に円筒が4つ埋まっているように見える立方体は何でしょうか?
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中世に建てられたベネディクト会修道院の建物の下に、ローマ時代のヴィッラの跡が埋まっているのが確認できました。
迷ったのですが、今日は予定が詰まっているのまた時間のある時に、ゆっくりと見て回りたいと思い、奥の考古学博物館本館には寄らずに次の場所へと向かいました。 -
聖マウリツィオ教会横を歩いていきます。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会同様、〇が続く外壁です。
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二、三回ジグザグに道を進んでいくと、遠くに古い鐘楼が見えてきました。右側は大きな警察の建物が続いていました。
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さてと。聖アンブローズ(アンブロージョ)聖堂の後陣が見えてきました。ミラノでも最も古い教会の一つで、創建は4世紀と言われています。少し見慣れて来た堂々たるクーポラのある構えですね。
アンブロージョ広場には出たけれど、ここは教会の裏手のようで、高い塀が回っていて、入ることが出来ません。どこから入るのでしょうか? -
その前に、右手に建つ、白い瀟洒な塔が気になりました。何だろう??
輝くばかりの白い大理石が美しいですね。こちらは、テンピオ・デッラ・ヴィットリアと呼ばれる建物で、第一次大戦で亡くなったミラノ出身者を弔うために、1927年-30年の間にジョヴァンニ・ムツィオらによって建てられた戦没者追悼碑のための施設でした。
勝利というのは、オーストリアとの戦争に勝利したという意味も込められているそうです。 -
右方向に少し歩くと、列柱の並ぶ立派な門が見えてきました。傍の壁には、祖国のために亡くなったミラノ人通り と書かれていました。
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八角形の建物の外壁は、ムッソ産の白大理石で覆われています。聖アンブロージョ聖堂と同じ向きになるように建てられたそうですよ。殉教者を葬るのと同様の考え方ですね。
入口のアーチの奥には、4.5mある巨大なブロンズ像が7つの大罪を踏みつけながら立っていました。これは彫刻家アドルフォ・ウィルトが1928年に制作した彫像です。 -
八角形の角はミラノのある8つの門を表わしているそうです。4つあるメイン扉は戦争期間の4年間を意味していて、三角のペディメントには、それぞれ土、水、火、空気のシンボルが描かれていました。
建物の中には、亡くなった方々の名前が記されているプレートと、戦場の土が詰められた黒い壺がニッチェに置かれていました。 -
この戦争慰霊塔からようやく道を見つけて、聖アンブロージョ聖堂敷地内に入ったのは良いのですが、どうも裏口のようで、どこから教会に入れば良いのかうろうろしました。左側に見えるアーチ(なんとこちら ブラマンテが15世紀末に作ったポルティコでした!)の奥の扉から中を覗くと、どうやらミサの真っ最中。入口の注意書きには、日本語を含め、数か国語で「ミサなどの礼拝式の時間帯は、見学禁止」と書いてありました。了解でーす。
ということで、お邪魔しないように少しの間、裏口を散策しました。どうしたらファサード方向に行けるのか聞きたかったけれど、通る人もなし。
正面に後陣が見える小さな礼拝堂は、聖シジスモンド教会です。聖マウリツィオ教会の主祭壇にも彼の殉教場面のフレスコがありましたね。 -
彼の経歴を読んでみても、あまり聖人ぶりは語られていないのですが、どうやらシジスモンドが信奉したヴィエンヌの聖アウィトゥスの影響により、彼がキリスト教の異端と呼ばれたアリウス派からカトリックに信仰替えしたこと、彼が異教徒(ゲルマン民族の大移動でその後ブルゴーニュに入ってきた民族)との戦争で殺され、井戸に投げ込まれて人生を終えたこと、つまり殉教したこと が最大の評価を受けたのではないかと思っています。
写真は聖シジスモンド教会の横壁です。 -
聖シジスモンド教会は11世紀ころの創建。ファサードのポルティコを支える柱は半分以上割れてしまっていて、危険な状態でしたよ。この灰色で白いまだら模様のある大理石はギリシャのレスボス島から運ばれたものだそうです。
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聖アンブロージョ聖堂の鐘楼は二つあったようですが、こちらは高い方で、カノニチ(カノン)という愛称で呼ばれています。12世紀の鐘楼で、上の二層は1889年になってから追加された部分です。中にはブロンズ製の鐘が5つ収められています。
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人が沢山堂内から出て来てそれぞれの車に向かったので、ミサが終わったようです。ブラマンテのポルティコにある入口から中を覗くと、一番最初に目に入ったのがこちらの後陣の半円形部分でした。
モザイクは残念ながら第二次大戦の空襲で破壊され、今あるのは戦後の再建で、可能な限り爆破された跡にあったかけらを再利用しています。 -
オリジナルは4世紀ですが、9世紀まで何度か改修されています。
中央に座るのは全能者ハリストス。両サイドにいるのは聖ジェルバシウスと聖プロタシウス。両名とも全く知らない聖人ですが、2世紀の殉教者で、ミラノの守護聖人です。
同じ日に殉教した彼らの聖遺物の在りかを夢の中で聞いて探し当てたのが聖アンブロージョです。彼は二人の聖遺物を持ち帰り、386年、ここに彼らを祀る聖堂を建てたのだそうです。
どうやっても全体が写せませんが、これ以上は無理のようです。ラヴェンナ以降久々に見るモザイクに、暫しうっとりです。 -
ミサは終わったようですが、まだ引き続き儀式が行われていて、なかなか後陣に近づけません。何とか移動して主祭壇を見学。
中央の幕屋(チボリウム)はその下に見える金の祭壇を保護するために、494年以降に、司教ロレンツォの命で作られました。その後849年頃、新しい祭壇に合わせて作り直されました。幕屋の外側には10世紀末に象牙などを用いた細かな装飾が施されています。 -
時間を気にしながら次に訪れたのはクリプトです。現在あるクリプトが最初に作られたのは10世紀後半。18世紀に枢機卿ベネデット・エルバの時代に改修され、聖アンブロージョ、前述の二人の聖人ジェルバシウスとプロタシウスの三人の亡骸が銀のケースに収められています。
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私にはどうしても二人しか見えませんでしたが、奥に聖アンブロージョがいるのかなあ・・・手前はジェルバシウスだそうです。
何枚も撮りたい写真でないので、忘れないために1枚だけ。 -
地上に戻ると、ようやく人波が引いていてほっとしました。まずは全体像を把握します。
内部は三廊式。天井は大きめのクロスヴォールトでした。主祭壇に向かって身廊左側中央付近に、12世紀に作られたロマネスクのごっつい説教壇が見えます。4世紀のローマ時代の石棺と柱を再利用したとのこと。
全体的に装飾はとてもシンプルで私好みでした。 -
こちらがその説教壇です。教会の説明板には残されているロンバルディア・ロマネスク芸術の中で最も重要だと書かれていました。
説教壇は1130年から43年の間に作られましたが、1196年に左側三番目のアーケードが崩落する事故があり破損。その後ギイェルダ・ダ・ポモによって作り直されています。 -
カウンターファサード側のアップです。
説教壇表面の装飾には、聖アンブロージョの著作から触発された教訓話や、罪と贖いというテーマのシンボル、想像上の動物や人が描かれています。 -
イチオシ
北側のレリーフは大変細かくて見事でした。上にずらりと並んだ11人の食卓風景は何の場面でしょう? 最後の晩餐にしては数が半端ですね。
初期キリスト教で、信徒の交わりを厚くするために毎日曜の夜に行われた食事「アガペー」だとする説もあるそうですよ。 -
説教壇の下に見えるローマ帝国時代の石棺部分です。
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少々ボケていますが、正面側です。制作には二人の石工「聖餐のマスター」と「テラモンのマスター」が加わっていたことが確認されています。なるほど、四隅にはテラモンらしい像も見えていますね。
正面に取り付けられている、金メッキされた銅で作られた鷲と天使は、それぞれ洗礼者聖ヨハネと福音記者マタイのシンボルです。 -
身廊には、このような、モーゼが神の言葉に従って青銅で作ったとされる蛇が柱頭に乗った柱もありました。
この柱は4世紀頃の花崗岩でオリジナルの聖堂時代のものですが、蛇が柱頭に置かれたのは11世紀頃だと書かれていました。 -
そして同じ頃、身廊の反対側に、柱頭に十字架が乗った柱が置かれました。いわば対のシンボルといったところでしょうか。
しかし実のところ、こちらの柱と十字架は19世紀に改修されたものだそうです。 -
で、こちらは、聖アンブロージョ時代の最初の聖堂時代に26本(片側に13本ずつ)立っていた列柱の柱脚です。19世紀の発掘調査の際に発見されたものです。
右側に立つ蛇の乗った柱の太さと比べても、かなり大きなことが分かりますね。 -
このアンブロージョ聖堂の隣にはヨーロッパで最も大きい私立大学と言われているサクラ・クオーレというカトリックの大学がありますが、こちらの礼拝堂も同じ名前がついていました。サクラ・クオーレ(神聖な心)礼拝堂です。
聖ベネディクトと聖ベルナルディーノに捧げられたルネサンス様式の礼拝堂でしたが、17世紀末、バロック様式で再建されました。祭壇の「神聖な心」の像は、ドゥオモの中央扉を作った彫刻家ルドヴィコ・ポリャーギの作品です。 -
左壁には、カルロ・プレーダ(1645年-1729年)作の「聖ベネディクトの死」が、
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右壁にはフィリッポ・アッビアティ(1643年-1715年)作の「教皇の前の聖ベルナルディーノ」がそれぞれ飾られていました。
入場したかったのですが、信者に限ると制限が設けられていたので、叶いませんでした。両壁のプット達はアッビアティの筆によるもの。 -
愛しのベルナルディーノ・ルイニの「キリストのエルサレム入城」と「ゲッセマネの祈り」があると説明板には書かれていたのですが、ご覧の状況で、信者の振りもできませんでした。残念・・・
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続いては4世紀の聖人 聖マルチェッリーナの礼拝堂です。全く存じ上げなかったのですが、この方実は聖アンブロージョのお姉さんで、敬虔なキリスト教徒で禁欲生活を貫いた方でした。353年には、教皇リベリウスから聖処女のベールを受け取っています。
聖アンブロージョはミラノの司教になった後、姉を呼び寄せ、生涯彼の仕事の助手として彼女を重用したそうです。398年彼女はミラノで亡くなり、ここアンブロージョ聖堂に葬られました。彫像は祈りを捧げるマルチェッリーナで、カミッロ・パチェッティの19世紀後半の作品。
余談ですが、アンブロージョの兄弟で弁護士だったサティーロも、後に列聖されています。一家総聖人って??? -
お隣に発見しましたよ! 聖バルトロメオとアンブロージョの兄弟聖サティーロに捧げられた礼拝堂です。
鉄の柵越しに見えているものが聖サティーロの聖遺物だそう。なぜかパドヴァの聖アントニオの彫像も立っていました。
サティーロは378年、アンブロージョは397年、そしてマルチェッリーナは398年に亡くなっています。 -
次なる十字架降下に捧げる礼拝堂は16世紀のフレスコで覆われていました。小さな階段のある変わった形の礼拝堂ですね。
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中央にある「十字架降下」のフレスコは、ジョヴァン・バッティスタ・デッラ・チェルヴァの作と判明しています。1545年。私はまたもや、背景の町並みに見入ってしまいました。エルサレムじゃあなさそう・・・
見えにくいですが、左右の壁に描かれているのは、ガウデンツィオ・フェッラーリ作の「天使達」です。こちらも1545年の制作です。
小さな階段の奥に何があるだろうと好奇心で覗いてみましたが、通せんぼされていました。 -
反対側の祭壇には、フレスコの代わりに大きな絵画が飾られていました。元々あったフレスコはどうしたのでしょうか?
左側にあるフレスコの男性達の正体は分かりませんでした。 -
さて、この絵には説明書きがありましたよ。カッミッロ・プロカッチーニの作品で、「テッサロニキでの虐殺の後、聖堂に入ろうとする皇帝テオドシウス1世を拒む聖アンブロージョ」という長いタイトルの絵画です。信者からの寄進だそうですよ。
テオドシウス1世は380年にカトリック国教化勅令を発し、司教アンブロージョに深く傾倒していましたが、390年、テッサロニキで、部下の殺害に対し報復として市民の殺戮を命じます。これに怒ったアンブロージョは、テオドシウスが悔い改めて正式な懺悔を行うまで、皇帝の聖体拝領を断固として拒み続けたそうです。
その後テオドシウスは、392年にはべての異教礼拝を禁止し、394年には東西に分裂していたローマ帝国を再統一しますが、1年後に亡くなってしまいます。ローマ帝国を一人で治めた最後の皇帝となりました。 -
左側廊にあった洗礼堂には、墓の中から復活したキリストのフレスコが描かれていました。背後に控える天使達は、一人は十字架、もう一人はキリストが身に着ける衣服を持っています。レオナルドとブラマンテに影響を多く受けたとされるボルボニョーネ(1453年-1523年)の作品です。
軽快で優しいタッチの筆遣いが私好み♪!
暗いですが、フレスコの手前には聖水盤が置かれていました。 -
祭壇画が丸い、珍しい礼拝堂です。玉座の聖母子と右側は聖ロッコ、左側はヒエロニムスしょうか?
こちらは「救済の聖母」と呼ばれる作品で、やはりペスト絡みで、聖母の救済を求めているのを強く感じます。ベルナルディーノ・ルイニの弟子達の作品とされています。 -
もう一度、主祭壇と後陣を撮ってお暇しましょう。
そうそう、幕屋の正面がようやくはっきり見えましたね。中央のキリストにおすがりをしているような格好の二人は聖パオロと聖ピエトロだそうですよ。
背後のモザイクはどうしても全容を見ることが叶いませんでした。 -
最後はやはり聖アンブロージョにご挨拶して と近づいて行ったら、違いましたよ。この方は教皇ピウス9世(在位1846年-1878年)。実に31年間も教皇の座にあった人で、無原罪の御宿りを制定した人としても知られています。
イタリアが統一され、イタリア王国が成立していく中で、教皇領が失われ、教皇庁としても非常に難しい舵取りを迫られた時代において、常にカトリック勢力の維持増強に努めた方でもありました。
彫像は彫刻家フランチェスコ・コンファロニエリによる1880年の作品です。 -
聖堂には裏口から入場したので、ファサードから出て、両側に素晴らしいポルティコが続いているのを見てびっくり!
アーチは両側を付け柱で補強した束柱で支えられていました。アーチの上、屋根に一番近いところにある連続した飾りがロンバルディア・バンドと呼ばれるものです。ドゥオモにも見られましたね。 -
振り向いてみると、ファサードもダブルのポルティコ構造でした。1階部分は同じサイズが5つですが、2階は中央が大きく、左右に行くにつれ、小さくなっていました。2階部分のポルティコは、ファサード前に集まった市民に司教が祝福を与える場として使われたそうです。
ファサードは傾斜の緩いロンバルディア様式特有の形をしていました。こちらにもロンバルディア・バンドが良いアクセントになっていますね。
左手前の柱の柱頭に注目! 先ほど中で見た説教壇と同じようなレリーフが施されていますよ。 -
よく見ると、柱頭のデザインは一つ一つ異なっていました。動物や植物、幾何学模様など様々です。両側のポルティコの中には古い時代の石棺や柱、半分消えかけたフレスコなどが残されていました。
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イチオシ
このポジションがベストのようです。先ほど裏から見た左側の鐘楼に比べ、かなり低い右側の鐘楼も綺麗に見えています。
こうやって見ると、教会の幅も、ポルティコの端から端の長さと同じですね。つまり今立ってのは身廊と同じ幅と考えて良いのかな? -
ポルティコはキオストロのようにファサード前を一周しており、
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その外側のアーチをくぐると、ご覧のように何も見えなくなってしまいました。こういう壁で覆った教会、聖堂を見たのは初めてです。そう言えば、ルーマニア北部で要塞教会を見ましたが、こちらもいざという時には要塞になりそうです。
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更に下がってもう1枚。ようやく低い方の鐘楼が姿を見せてくれましたが、ファサードはちょこんと頭だけしか見えませんでした。面白ーい! 裏口から入ったのが幸いして、感動が二倍になりましたぁ!
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聖アンブロージョ聖堂にほど近いサン・ヴィットーレ通りぞいにあったこちらは、プステルラ・ディ・サンタンブロージョ(聖アンブロージョの小門)と呼ばれるもんです。残念ながら修復中でした。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に1162年町を破壊された後の1171年に造られました。ミラノにはすでにローマ共和制の頃の城壁とマキシミアヌスが延長した城壁があったのですが、皇帝フリードリヒ1世は繰り返しロンバルディアに攻撃を仕掛けたため、更に丈夫な石壁にご覧のような濠を加えてほぼ円形の城壁を建造したのです。濠には近くの川から引いた水が蓄えられました。
中世の城壁には正式の門が7つ、小門は10ありました。スペイン統治時代の16世紀には更に新たな城壁が造られ、今足場が組んである塔は牢獄に転用されたそうです。 -
続いて目の前に現れた巨大な城は「カステッロ・コヴァ」。別名パラッツォ・ヴィヴィアニ・コヴァと言う建物です。1910年から1915年にかけて、建築家アドルフォ・コッペデの設計により建てられました。
コッペデで思い出すのは愛しのローマのコッペデ地区。調べてみたら、ローマのコッペデ地区を創ったのはジーノ・コッペデ。アドルフォのお兄さんでした。
コッペデ地区についてはこちらをどうぞ参照ください。
http://4travel.jp/travelogue/11050704 -
20世紀の建物ですから勿論本物の城ではありませんが、中世の教皇派が良く使ったスタイルの胸郭狭間を備えたゴシック様式をふんだんに取り入れています。
あの先が開いた形の塔もこれまで方々で見て来たような気がします。レンガに白い石がとても映えていますね。また、外にせり出したあのロッジアが凄い。あの部分だけ雰囲気がガラッと変わってアラブの宮殿のようなイメージ。
ミラノの町のイメージが良い意味でどんどん壊れていく、そんなことを呟きながら「コヴァ城」を暫く見上げていました。 -
それから暫くは、エドモンデ・デ・アミ-チス通りをてくてく歩きます。あまり面白くない大通りでした。こちらは途中にあったサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会。現在の建物は、枢機卿ルイジ・オモデイから資金を得て、1669年にバロック様式で完成しています。現在はルーマニア正教の教会になっているそうです。
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上の教会のすぐそばになったのは人形の壁ですよ! 壁にネットが張られていて、そこにずらりと並んでいるのは、紛れもなくお人形さん。子供たちが手にもって遊ぶあの人形達です。
「Wall Dolls」と英語で書いてある下に、「女性の抹殺は、人間性に対しての犯罪行為」 とイタリア語で書かれていました。なんじゃこれ?
丁度この頃、ナイジェリアで起きたポコ・ハラムによる虐殺などが世間を騒がしていましたね。他にも女性を狙った性犯罪が殺人に至ることも日常茶飯事の世の中です。
帰国してから調べたら、イタリアのアパレルメーカー数十社が共同で開いている、人形を飾ることで、世界で起きている女性の虐殺に対して、沈黙のうちに抗議するイヴェントなのだそうです。飾られてる人形は、虐殺された女性一人一人を表わしているそうですよ。無言で訴えかけていた人形達の顔が忘れられなくなってしまいました。 -
人形の壁から歩くこと30秒で到着したのが、こちらのポルタ・ティチネーゼ。先ほど見た聖アンブロージョの小門同様、中世に造られた城壁の門の一つです。オリジナルは中央のアーチ一つだけだったのですが、1861年カミッロ・ボイトにより左右にもアーチが造られました。
中世の城壁の主要門のうち、現存しているのは昨日マンツォーニ通りで見たポルタ・ヌオヴォとこちらのティチネーゼの2つだけです。 -
城門を行き来できるのはトラムだけです。車両は通行止め。左右のアーチは歩行者専用になっていました。
アーチ上には、聖母に聖堂を捧げる聖人達のレリーフが飾られていました。左から聖ロレンツォ、アウグスティヌス、聖母子、聖アンブロージョ、ヴェローナの聖ピエトロです。ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョの工房による作品だそう。 -
門の内側です。こちらはカミッロによって、完全に元の姿を失ってしまいました。
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以前、テレビの「ふれあい〇歩き」でここの映像を見て、是非ともこの目で見たいと思っていた場所です。ちょうど良いタイミングでトラムがやってきましよ! 旧式の車両が来ないかなと思っていましたが、残念ながら最新式でした。
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トラムの来ない間に門から覗いてみたら、ずっと遠くにも神殿のような建造物が見えましたよ。後で行って確かめねば。
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そしてティチネーゼの門から30m位離れた場所には、ローマ時代の建物の名残であるサン・ロレンツォの列柱が!
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イチオシ
おおー凄い! 7.5mの高さのあるコリント式の大理石列柱が16本、一直線に並んで立っています。これらの列柱は、どこか別の場所にあった2世紀ないしは3世紀のローマ神殿か公衆浴場からここに移されたものだそうです。
レンガの部分は、左端の祭壇を除いてはオリジナルなのかしら?? 綺麗すぎますよね?? -
南側の門からアーチの中を覗きこみます。列柱は8本ずつに分けられて、中央部分はエンタブラチュアが途切れて、アーチ状の屋根がついていました。
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広場を挟んで、列柱の名前の元となった聖ロレンツォ聖堂が鎮座していました。手前の白い建物はケルキスというラテン語や古代ギリシャ語で劇を演じる古代劇場です。
列柱と聖堂の間には古い大きな長屋がありましたが、1935年に都市計画に基づいて解体されました。新しく作られた広場には最初トラムの線路が敷かれていましたが、これも90年代に列柱の外側に移動させたそうです。
長屋があった時代の貴重な写真がありましたので、興味ある方はご覧くださいね。
https://it.wikipedia.org/wiki/File:Milano,_Colonne_di_San_Lorenzo.jpg -
劇場の奥には、聖ロレンツォ聖堂で一番有名なアキリーノ礼拝堂が見えました。ロマネスク時代の典型的な洗礼堂のように見えます。
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次なる目的は、こちらの聖ロレンツォ聖堂ですが、おやっ 聖堂前にどなたかいらっしゃいますよ。
1937年、新しい広場の完成後に建てられたコンスタンティヌス帝の彫像です。313年、市民の信教の自由を保障したミラノ勅令を公布した皇帝なので、この広場にはうってつけの人物ですね。 -
ティチネーゼ門を振り返ります。
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聖ロレンツォ聖堂ファサード前から見た列柱とコンスタンティヌス帝の後ろ姿です。皇帝は意外と小柄?
16本の列柱、古きはゴート族の侵入、バルバロッサこと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の攻撃、そして二度の大戦にも耐え、1800年以上よくぞ持ちこたえてくれましたね。 -
聖ロレンツォ聖堂は、市内でも最も古い教会の一つで、文書は失われていますが、4世紀末から5世紀初頭頃の創建とされています。前身は皇帝マキシミアヌスが建てたヘラクレスを祀る神殿だった、霊廟だったと諸説あるようです。何度も作り直されていますが、ポルティコが続くファサードの奥にギリシャ十字形をした本体があるという基本構造は変わっていません。ちょうど今見えている八角形のクーポラの下がメインの聖堂となっています。現在のクーポラはマルティーノ・バッシが設計した16世紀のものです。
ここからは1つしか見えませんが、なんとこの聖堂鐘楼が4つあるそうですよ。 -
堂内に入りました。完全な円形ではありませんが、ギリシャ十字と言うよりは円に近い。ローマのパンテオンにも似た雰囲気を持っていますが、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂を引き合いに出す人もいるそうです。四方に後陣が1つずつあり、アーチの奥は堂内を一周可能な通路になっていました。
今見えているのは主祭壇。聖ロレンツォに捧げた祭壇の割には地味な雰囲気です。聖アンブロージョ聖堂と比べると大変静かで、観光客も殆どいませんでした。 -
お目当てのアキリーノ礼拝堂に行く途中に見かけたフレスコです。
これはキリストの十字架降下の場面ですね。下で薬壺を差し出しているのはマグダラのマリアでしょうか? -
入場料を払って、アキリーノ礼拝堂へと向かいます。こちらがその入口です。
アキリーノ礼拝堂は、先ほど外から見えた八角形の礼拝堂で、4世紀から5世紀にかけてのテオドシアス1世時代の霊廟だったと思われる建物を利用しています聖ロレンツォ聖堂からはアトリウムと呼ばれる部屋を経由して行くことが出来ます。
扉上に見えるフレスコは14世紀のものです。左側は磔場面ですね。 -
斜めになってしまいましたが、ローマ時代の作とされる扉の装飾です。年代の測定結果では1世紀のカラッラ大理石製だそうですよ。外側は大変細かい唐草模様、内側には人や鳥、イルカ、動物、果物、草木を象ったモティーフを見ることが出来ました。ユピテル(ジュピター)やネプチューンの姿もあったそうですが、あまりにも細かくて確認不能。
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八角形の元霊廟の礼拝堂に入りました。1600年前の建物ですよ! 写真にはありませんが、屋根は傘を下から覗いたような形をしていました。
かつてはこの霊廟全体が、ラヴェンナ同様モザイクで覆われていたそうです。今は見る影もありませんが、目覚ましく発展を続ける町と、歴史から取り残された町の違いなのでしょうか? -
中央にあった祭壇の左側から順に反時計回りで見て歩きました。
最初外からこの建物を見た時、洗礼堂かと思いましたが、霊廟でした。それもテオドシアス1世の娘で、ホノリウス帝の異母妹であるガッラ・プラキディアの霊廟として作られたという説が有力です。彼女の廟はラヴェンナにありましたが、彼女はそこには葬られていません。そしてここにも葬られていないのは確か・・・すると???
こちらは3世紀のものとされる石棺です。確かにラヴェンナのガーラ・プラキディア廟を思い起こさせますねえ。 -
石棺に上にあったフレスコです。同じような半円形のエゼドラが4つあったうちの1番目です。
中央の人物は手に薪を抱えていて、目の前に置かれた本を燃やそうとしているように見えますが、フレスコの解説がどこにも見当たらず、いつの時代に何を描いたのか詳細不明です。 -
これはエゼドラとエゼドラの間にあるニッチェのアーチ部分。バロック時代のもののように見えます。
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イチオシ
モザイク発見! こちらは、6世紀のモザイクで、玉座のキリストが使徒たちに説教をしている場面。タイトルは「トラディティオ・レギス」=法の伝達というような意味だそうですよ。背景に金を使用する技術は5世紀以降に広まったようです。
元々ここが霊廟として使われていた時代の遺物です。使徒たちの衣服等から、ラヴェンナのモザイクと同じ時代のものだということが良く分かりますね。素晴らしい! -
使徒たちは半円形にキリストを囲み、彼の話に聞き入っています。キリストの足元に置かれているのは聖書の巻物が入ったコンテナー。彼はその中の一つを左手に持っていますね。
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ラヴェンナで見たキリストのモザイクを思い出しました。大変若い髭のないキリストです。キリストの左の聖ピエトロ、右の聖パオロだけは見分けがつきましたよ!
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もう1枚のモザイクはかなり傷みがありますが、ソル・インヴィクトゥス(征服されない太陽)というタイトルがついていました。
欠落した部分には天を駆ける白馬達に引かれた太陽の戦車を操る預言者エリヤが描かれているそうです。聖書の列王記に、エリヤが火の馬が曳く火の戦車に乗って天に上るのを見た という記述があります。先頭の白馬の頭の部分だけかろうじて残っていますね。 -
地上には羊飼い達の姿がありました。一見平和そうですが、でもこの羊飼い、天を見上げずに恐怖のあまり体を伏せるような仕草をしているようにも見えます。
ごつごつした岩山が背後に広がっていますね。 -
ローマ時代の神話にも影響を受けている、初期キリスト教時代のモザイク。今までに見たことのないテーマが大変珍しかったです。
しかし、全体の半分が失われていると、これだけではなかなかモザイクの全体像が浮かんできませんね。
モザイクの下のフレスコも痛みが激しくて特に中央部分はボロボロ。 -
ボケていますが望遠にしてみると、キリストの受難をテーマにしていて、左側はユダの接吻、右側は十字架を背負ってゴルゴダの丘へと歩くキリストのようでした。
15世紀のフレスコだそうです。 -
別の祭壇のアーチ部分。なかなか迫力のある面白い構図なんですがねえ・・・
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中央部分のアップです。
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4つ目の半円形部分にあったフレスコは、聖ヒエロニムスの姿がありました。性的衝動に駆られた己を恥じ、石で自分の胸を叩いている場面です。
アキリーノ礼拝堂には、モザイクの解説はあっても、フレスコについては触れていませんので、こちらもいつごろのものなのか、詳細については分かりません。 -
主祭壇前の「キリストの復活」のフレスコです。
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聖アキリーノの主祭壇に入ってきました。元々はここは聖ジェネシオに捧げられた祭壇でしたが、大司教カルロ・バッロメオの主導により、1581年に聖アキリーノの遺物を収める祭壇となったそうです。
聖アキリーノもミラノの守護聖人の一人です。皆聖カルロが関係していますね。聖カルロ以前の文書が残っていないため、聖ジェネシオについても、どういう経緯でここに捧げられたのか不明なのが現状です。 -
聖遺物箱は、17世紀の彫刻家カルロ・ガラヴァリアの傑作です。特に上部の繊細な天使像が見事! とても美しいです! ドゥオモにあった聖カルロの聖遺物棺に影響を受けたと思われます。
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背面のフレスコは、「聖アキリーノの聖遺物の再発見」で、カルロ・ウルビーノによるものでした。
聖アキリーノはミラノ、あるいはケルン(ドイツ)の聖アキリーノと呼ばれています。ヴュルツブルグの裕福な家庭出身で、異端とされたカタリ派を攻撃する説教をして歩き、1015年頃、そのカタリ派によって殺された方のようです。 -
ヴォールトのフレスコとスタッコは、ガブリエーレ・ボッシとジュゼッペ・ガルベリオが手掛けました。これもバロック時代の特徴が出ていますね。
ヴォールトのフレスコには教会博士達が描かれていました。 -
ヴォールトのアップです。こちらのフレスコは大変良好な状態でした。
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祭壇の後ろを見ると、そこには階段が地下へと通じていました。地下には小部屋があり、礼拝堂の土台を見学することができます。
土台にも装飾があるのが見て取れます。 -
少々危なっかしいように思われますが、これで大丈夫なのでしょうか?
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天使のスタッコ装飾も心なしか寂しそう。
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帰り際、アトリウムにほんの少しだけ残っていたモザイクを写しました。描かれているのは、イスラエルの祖ヤコブの12人の息子達です。後に12部族の族長達と呼ばれるようになりました。左からユダ(四子)、シメオン(二子)、そしてゼブルン(十子)だそうです。
かつては、この部屋もモザイクで埋め尽くされ、12人全員集合していたのでしょうね。 -
聖ロレンツォ聖堂に戻って参りました。またしても変なもの発見!
これって、どう見ても逆に置かれていませんか? 柱頭が下になっていますよ!
例によって例のごとく、4世紀末から5世紀初頭にかけて、最初の聖堂が造られた際には、ローマ時代の神殿や寺院、公共浴場で使われていた柱の再利用がありました。逆に置いた方が良かった理由があったのかしら? -
次に発見したのはマトロネア。中世の時代、女性はミサに参加することを許されず、殆どの教会には二階部分にマトロネア(マトロネウム)と言う、女性用の回廊(ギャラリー)がありました。
聖ロレンツォの聖堂内を一周できる回廊は上下二重構造になっていたようです。 -
その外側の回廊をもう少し歩いてみましょう。
途中にあった聖母子とコンスタンティノープルの聖ヘレナのフレスコは12世紀のものと判定されています。シミが沢山ついていて、上の聖母子は半分以上剥げ落ちてしまっています。 -
こちらは、ロビアーニのアーチと呼ばれている14世紀の祭壇です。ロビアーニ家はミラノの伯爵家でしたが、1500年代にブリュッセルに移住しています。
面白かったのは、1811年にこの家の墓を開けたという趣旨の碑文が書かれた石板が飾られていたことです。この中に、同家が300年前にベルギーに移住した旨が書き記されていました。現在でもベルギーのテルヴュレンに同家の城が残されています。 -
ここまで来ると目をそむけたくなる、悲惨なフレスコが蘇っていたのはチッタディニ礼拝堂です。チッタディニ家はミラノの名門ですが、16世紀の改修工事の際に行った装飾を20世紀に入ってから剥がしたところ、現れたのが13世紀に描かれたこのフレスコだったそうです。中央に描かれているのは栄光のキリストだそうですよ!! 左壁のフレスコ 端にある聖母士は見られる状態ですね。
この礼拝堂三角形に近い特殊な形状をしていたのが印象的でした。 -
同じチッタディニ家の礼拝堂の中にあった三連のレリーフです。左側には自らがその上で焼かれた鉄格子を携えた聖ロレンツォ。中央はピエタ(少々太め?)、そして右側は聖ステファノという変わった組み合わせでした。15世紀の作品。
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全く存じ上げない聖人、ヒッポリュトスに捧げられた礼拝堂です。外側に突き出した格好の、後から付け加えられた礼拝堂の一つです。
こちらは、ミラノ貴族ジョヴァンニ・デル・コンテの葬送記念碑。貴族の服装をまとったデル・コンテの寝姿の背後には、円形の窪みの中に聖母子が刻まれていました。マルコ・ダグラテとヴィンチェンツォ・セレーニによる制作。1568年。 -
このキリスト像人気が高いようで、沢山の蝋燭が灯されていました。像の背後には感謝の「ハート」が飾られています。
半円形のエゼドラ部分のフレスコを撮ったのですが、不明瞭ですね。 -
15世紀末の画家、アントニオ・デッラ・コルナによる「最後の晩餐」です。デッラ・コルナは、レオナルド・ダ・ヴィンチに強く影響を受けた画家の一人ですが、勿論、レオナルドと比べるのは彼にとって酷な話。作品の出来はイマイチで、その上フレスコの状態も非常に悪いです。
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手前のピエタは、テラコッタ製で1775年の制作。元々は聖アキリーノ礼拝堂手前にあった哀しみの聖母に捧げる礼拝堂に置かれていたものだそうです。
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こちらは、どこの礼拝堂だったかしら? 額装されたフレスコで、ピエタとトゥールの聖マルティーノ(マルティヌス)が両方描かれている面白い構図だったので紹介しましょう。
左隅には、跪いているパトロンの姿もありますよ。教会のイタリア語の説明書きを苦心して訳したら、こんなことが書かれていました。
作者はロンバルディアのマスター(親方)としかわかっていないが、二つの異なった主題を組み合わせるのを得意とする画家としてはアウレリオ・ルイニが挙げられる。 ですって! アウレリオだと思いたいのかな? -
アキリーノ礼拝堂以外は急ぎ足になってしまいました。もう一度主祭壇を眺めてから帰ることにしましょう。
1600年の歴史の重みを感じさせる堂々とした石造りのクーポラは、今でこそ簡素ですが、創建当時はやはりモザイクに覆われていたはず。ラヴェンナの聖ヴィターレ聖堂を思い出しながら、一時そんな空想に耽りました。
長くなりましたので、この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その97 ミラノ6で!
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この旅行記へのコメント (2)
-
- マリアンヌさん 2017/03/01 12:06:03
- 聖アンブロージョ聖堂☆
- junemayさん、Buon giorno!
待ってました、聖アンブロージョ聖堂。
私が行ってみたい教会です、きっと行かれたんだろうなと思ってましたが、期待どおりです。
やっぱりロマネスクが端々に見られて、いいなあ・・・
美しいアーチに囲まれたアトリウム、行ってみたいです。
聖レレンツォ聖堂もいいですねぇ。
扉の装飾、ぐっときます。
6Cのモザイクもあるのですね。
美しいです♪
ミラノはドゥーモと最後の晩餐だけしか見たことがなく、村好きの私は都会を敬遠しがちなんんですが、junemayさんの旅行記でやはり都市は昔から栄えた場所で当然素晴らしい教会も残っているということを実感しました。
機会があったらミラノもヴェローナも・・・etc.再訪したいです。
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2017/03/01 17:00:36
- RE: 聖アンブロージョ聖堂☆
- マリアンヌさん こんにちは
旅行記の中でも書きましたが、ミラノにはあまり期待を持っておらず、飛行機に乗る場所なので、ここを起点にパルマとか行こうかな位の気持ちで考えていたので、むむ、ここはなかなかディープな場所だぞと実感したのは最終日のこと。サン・フェデーレ教会が引き金となりました。
聖アンブロージョも、聖カルロが司教を務めた教会という事しか知らずに訪れたので、期待以上の内容にうれしい驚きの連続でした。
聖ロレンツォは裏に回ると、芝生が広がっていて、古い教会の周りにくっついたたくさんの礼拝堂の光景がとても面白いのだそうですよ。
このたびで知ったパヴィアという町にもぜひ行ってみたいなと思いました。ローマの古い港町オスティア・アンティカとかも良さそう。イタリアってきりがないですね。行くたびにまた行きたくなる場所。
マリアンヌさんは仕事帰りにイタリア語を勉強されているのですか? お忙しいのに大変。でもイタリアンマジックに魅せられた方だから、しゃべれないと田舎は大変ですよね。今年はイタリア語とドイツ語、どうしよう???
junemay
> junemayさん、Buon giorno!
>
> 待ってました、聖アンブロージョ聖堂。
> 私が行ってみたい教会です、きっと行かれたんだろうなと思ってましたが、期待どおりです。
> やっぱりロマネスクが端々に見られて、いいなあ・・・
> 美しいアーチに囲まれたアトリウム、行ってみたいです。
>
> 聖レレンツォ聖堂もいいですねぇ。
> 扉の装飾、ぐっときます。
> 6Cのモザイクもあるのですね。
> 美しいです♪
>
> ミラノはドゥーモと最後の晩餐だけしか見たことがなく、村好きの私は都会を敬遠しがちなんんですが、junemayさんの旅行記でやはり都市は昔から栄えた場所で当然素晴らしい教会も残っているということを実感しました。
>
> 機会があったらミラノもヴェローナも・・・etc.再訪したいです。
>
> マリアンヌ
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