2015/06/07 - 2015/06/07
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
朝からミラノの古い教会を巡っている間に、この巨大都市の魅力に段々はまってきている自分を感じました。EXPOより断然楽しい古い時代の記憶。あと半日しかないけれど、最後まであっちも! こっちも!と欲張ってみましょう。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂を出て、ポルタ・ティチネーゼをくぐり、更に南に向かいます。ここに来るときに見たマリア・デッラ・ヴィットリア教会を横目に見ながら更に南へ。
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途中のカフェで懐かしいシチリアの味カンノーロを見つけたので、迷わずティータイムとしました。リコッタチーズが滑らかでした!
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前方に門が見えています。名前はというと、ポルタ・ティチネーゼ!
あれー、さっきのは? と一瞬戸惑いましたが、実はこちらが現在のポルタ・ティチネーゼ。先ほどの聖ロレンツォ聖堂傍にあった門はポルタ・ティチネーゼ・アンティカ。つまり古いティチネーゼ門なのだそうです。
この門から出た道は、東ゴート王国やランゴバルド王国が首都を築いていたパヴィアの町に向かいます。 -
ミラノの城壁はローマ時代、中世(12世紀)、そしてスペイン統治時代(16世紀)と三度にわたって築かれ、町は拡大していきます。沢山の運河が城壁の外側に沿って流れていたこの界隈には、水を大量に必要とする職人、鍛冶屋や皮なめし職人らが多く住んでいました。
スペイン城壁にもこの場所に門が作られていましたが、1802年から14年にかけて、ナポレオンがマレンゴの戦いに勝利したのを記念して現在の門に建て替えられたのだそうです。
建築家ルイジ・カニョーラが設計したネオクラシカル様式の門は、イオニア式の列柱が巨大なティンパヌムを支える堂々とした造りです。ナポレオン敗退後、門には「それは人々を平和に開放する」という碑文が掲げられました。 -
私は、門から少し北に戻って、この鐘楼のある教会へと誘われます。尖った塔の先には、十字架ではなく、東方三博士をベツレヘムへと導いた八芒星が付けられていました。
これには深い意味があります。この教会は、344年、あの東方三博士の亡骸をコンスタンティノープルからミラノまで運んできたミラノの司教聖エウストルジョが、この辺りで馬車がぬかるみにはまり、動けなくなった場所に建てられたという伝説が残されているのです。
聖エウストルジョはドゥオモの前身である聖テクラ聖堂まで運ぶのを諦め、ここに亡骸を隠すための小さな教会を建てましたが、1162年、ミラノの町を襲撃したバルバロッサこと神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって、亡骸は盗まれ、ケルン大聖堂へと運ばれ、戻ってきたのはなんと! 1906年のことだそうです。 -
そんな伝説がある聖エウストルジョに捧げられた聖堂がこちらです。344年当時、勿論ここはミラノの城門の外でした。教会は12世紀にロンバルディア風のロマネスク様式で再建され、13世紀以降はドメニコ会の教会となっています。
現在のファサードはオリジナルではなく1864年から翌年にかけて、ジョヴァンニ・ブロッカにより12世紀当時の姿に復元工事を行った結果だそうですよ。 -
緩やかな傾斜の切妻屋根の下には、フレスコの描かれたティンパヌムを持つ3つの扉。中央扉のティンパヌムには聖母子と東方三博士が描かれていました。
上方には、方立のあるものも含め窓が5つ並んでいて、それぞれ白い石がアクセントになったアーチ状の装飾が施されています。
左端に見えるクリーム色の突き出たベランダのようなものは、後述するヴェローナの聖ピエトロ(殉教者聖ピエトロ)がしばしば説教を行ったという説教壇だそうです。 -
一番左側の扉が先ほどまで開いていたので、ラッキーとばかりに駆けよったら、閉められてしまいました。えっ どうして?
こちらのティンパヌムに描かれた聖人が聖エウストルジョだそうですよ。初めまして! -
入口は開いていた扉とは異なり、裏側に回るようになっていました。本日5つ目の教会に突入しますよ。
矢印の方向に沿って向かうと、まずはクリプトから見学をするようになっていました。 -
ここにあるのはクリプトというよりは、初期キリスト教時代の建物の遺跡です。レンガを積み重ねた半月形をした建物の基礎部分をはっきりと見ることが出来ました。教会の説明板によると、この辺りにはキリスト教徒の墓地があり、ここにはローマ時代の神殿で、後にキリスト教の祈祷所になった建物があったようです。
前述した聖エウストルジョの話がフィクションの域を出ないとしても、ここに古くから教会のような建物があったことだけは確かなようです。
何故か、コインが沢山投げ込まれていました。この習慣って世界共通なのかも・・・ -
周りの壁のフレスコは、初期キリスト教時代・・・ではなく、1575年にクレマ出身の画家カルロ・ウルビーノによって描かれたものです。だいぶ色あせてはいましたが、保存状態は悪くはありません。
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司教と聖人達です。司教の右側は女性、左側は男性。男性陣は顔がはっきりしませんね。
ちなみにエウストルジョという人は2人いて、東方三博士の亡骸を運んだのが344年から349年までミラノの司教を務めた方がエウストルジョ1世。そして、512年から518年まで司教を務めた方はエウストルジョ2世と呼ばれています。このクリプトを整備したのは2世の時代だと言う説が有力です。 -
女性聖人は右から聖アポロニア、聖ルチア、聖ヴェロニカで、中央にいる司教は聖アントニウスと書かれていました。
聖アポロニアは、アレキサンドリアで殉教した3世紀の女性で、歯を全て抜かれるという拷問を受けたため、歯を抜く道具が彼女のシンボルになっています。古代の女性聖人は皆拷問の末に殉教した人ばかり。ぞっとしない話です。 -
皆眠りこけていますが、何の場面でしょう? ゲツセマネの祈り?? フレスコの題材は旧約聖書と新約聖書からとられています。
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この方が、エウストルジョ1世です。伝説によると、彼はギリシャの貴族出身だそう。
そして右側に小さく写っているのは聖マーニョ。聖Magnoと呼ばれている人は複数名いますが、おそらくオデルツォの聖マーニョだと思われます。6世紀から7世紀の司教で、アリウス派と徹底抗戦を交えた人です。 -
クリプトから地上に上がってくると、お待ちかね? の礼拝堂巡りです。この教会には、右側廊部分にしか礼拝堂がありません。それを主祭壇側から順番に巡ることにしました。
すぐに目についたのが、東方三博士の祭壇です。
1347年、当時ミラノを治めていたジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命により、ジャコピーノ・ダ・トラダーテが制作したトリプテックがありました。トリプテックには、中央のお馴染みの三博士の礼拝場面の他、彼らに纏わるエピソード 左は、天使によるお告げと出発の場面、右にはヘロデ王に迎えられる場面が彫られていました。
思っていたよりずっと小さなものでしたが、とても精巧なものでした。 -
祭壇の傍にあった、ものすごく大きな、通常の2倍の高さはありそうなローマ時代の石棺(ちょっとした小屋ほどの大きさ! )です。この中に東方三博士の亡骸が収められているのだそう。SEPULCRUM TRIUM MAGORUM(三人の賢者の墓)という碑文が刻まれていました。
壁に飾られた古そうな八芒星のレリーフのスラブもとても印象的でしたよ。 -
確か三博士の祭壇のある窓のあるアーチ部分だったような記憶。ここだけフレスコで彩られていました。
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礼拝堂のヴォールト自体は簡素でしたが、東方三博士らが聖母子に礼拝した場面が描かれたフレスコがありました。14世紀のもので、妙に味わい深い作品でした。
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お次はトッリアーニ家の礼拝堂です。わぁー今度は豪華なヴォールトですよ!
1440年頃にミケリーノ・ダ・ベゾッツォによって描かれた4人の福音記者達のシンボルが目に飛び込んできました。今正面に見えているのは、牛だから聖ルカですね。
ミケリーノ・ダ・ベゾッツォ(1370年頃-1455年頃)はゴシック時代の代表的な画家の一人で、主にロンバルディア地方で活躍しました。シンボルの下に書かれているのはドメニコ会出身の聖人達だそうです。
この礼拝堂には、他にも見る物があったのに、写真はこれ1枚しか撮っていません。 -
ヴォールトが続きます。こちらは、上の写真のお隣にあるヴィスコンティ家の礼拝堂です。この教会はヴィスコンティ家ご用達だったらしく、ヴィスコンティ家及びその親戚筋の礼拝堂が4つもありました。
こちらのヴォールトにもやはり福音記者達が描かれていますが、上のものより100年以上早い時期(13世紀末~14世紀初頭)の作品です。作者はわかっていません。
礼拝堂はマッテオ・ヴィスコンティ(1250年-1322年)の命により作られています。 -
この礼拝堂で見るべきものの一つ、13世紀の十字架がなぜか見つかりませんでした。どこかに貸し出し中だったのでしょうか?
下に書いてあるイタリア語を訳してみたら、「13世紀の木製の十字架は、歴史的文献に書いてある、身廊の元々あった場所に戻されました」とありました。主祭壇の前ですね。 -
大変こざっぱりしたヴィスコンティ家の祭壇です。オリジナルの雰囲気はまるでありません。壁も多くの部分が無味乾燥な塗り壁でした。ここも第二次大戦の空爆を受けていますので、壁の装飾などは失われた可能性があります。
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右壁にあった、ステファノとヴァレンティーナ(夫妻)・ヴィスコンティの墓です。ステファノは、三代目領主ガレアッツォ・ヴィスコンティ1世の弟で、歴史には殆ど登場しませんが、他の兄弟が子孫を残さなかったため、彼の息子マッテオとガレアッツォ2世が後にミラノ領主を引き継ぎます。
こちらは1359年に、カンピオーネのマスター ボニーノによって製作されたものです。前面のレリーフには、聖母子を始め、ステファノの守護聖人聖ステファノ、ヴェローナの聖ピエトロ、(ローマの)聖ピエトロなどと共に、跪いているステファノ夫妻の姿がありました。
墓を支える印象的なねじれた柱はジョヴァンニ・ディ・バルドゥッキによる制作だそう。基盤部分にはスレンダーなライオン君達。 -
またまたヴォールトですよ。こちらは、ドメニコ会出身の聖人聖ヴィチェンツォ・フェレールに捧げられた礼拝堂のフレスコです。
前の2枚のヴォールトが15世紀、14世紀と続きましたが、こちらは16世紀 1585年頃の作品で、フレスコの歴史を紐解いているようで大変興味深く拝見しました。先ほど訪問したばかりのクリプトや聖ロレンツォ聖堂のアキリーノ礼拝堂のフレスコを手掛けているカルロ・ウルビーノの作品でした。 -
もう一つあったヴィスコンティ家の礼拝堂を私はすっ飛ばしたようで、次なるはロザリー礼拝堂です。この礼拝堂からファサード寄りはいずれも中世の時代に増築を重ね、教会の建物からこぶのように突き出した格好になっています。
ロザリーの礼拝堂は1443年のオリジナル(ガレアッツォ・クロッタ家の礼拝堂)を18世紀(1732年)になってフランチェスコ・クローチェ(再々登場! ロンバルディアの政治的な行事の集会所だったブロレット、マドンニーナが立つドゥオモの一番高い尖塔を設計した人です)がバロック様式で改装しています。 -
ドメニコ会の教会ではおなじみのロザリオを携えた聖母子ですね。ピエトロ・ヴィガーノの作品です。
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カウンターファサードから数えて2番目にあるトレッリ家の礼拝堂は、一面フレスコで覆われています。途端に目がらんらんと輝きだしましたよ。素敵!
1422年から39年にかけての建造で、典型的なゴシック様式。但しフレスコは17世紀の作品だそうです。 -
礼拝堂の目玉は、なんといってもこの優雅な形状をしたピエトロ・トレッリの墓です。若くして亡くなった息子に母が深い愛情を捧げました。こちらはジャコピーノ・ダ・トラダテによる1420年頃の作品。
こちらの墓は、ご覧の通り6本のねじれた柱に支えられています。 -
そしてその柱の土台には、ここにも様々な方向を向いたライオン達がうずくまっていました。絶妙なバランス!
墓の表面には、聖母子とピエトロ・トレッリ、その両側には、ここから見えない両脇を含めて全部で6人の聖人が彫られていました。聖母は傍に跪く故人の頭に優しく手を置いています。聖母子や聖人達のいるニッチェの後陣が尖がっているのは後期ゴシックヴェネツィアン様式の特徴だそうです。 -
レリーフの上には故人が横たわり、その寝台を包むキャノピーの上には天の父なる神が審判のポーズで座っていました。
見事に調和のとれた美しいシルエットを見せていますね。もはや、墓というよりは芸術作品の部類です。 -
墓の反対側の壁です。絵に関する説明が全くないのが残念。どなたかの殉教の場面が描かれていて、背後の建築中の教会の存在も気になりましたが、知るすべもなし。
この礼拝堂は聖ドメニコに捧げられているということなので、彼の生涯からのエピソードである可能性が高いのですが・・・ -
フレスコの詳細をアップで。
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礼拝堂の後陣ヴォールトのフレスコを再掲。沢山登場しているドメニコ会の法衣を着た方は聖ドメニコなのかしら? 右側にいる聖人は聖ヴィンチェンツォ・フェレールかヴェローナの聖ピエトロのようにも見えます。
聖ドメニコ像が置かれた祭壇をまだ写していませんね。18世紀に造られたといういかにもバロックバロックしている祭壇があまり気にいらなかったのですが・・・ -
取りあえずアップしておきますか・・・不鮮明なへぼ写真ですみません。
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入口に一番近いブリヴィオ礼拝堂は構成美の美しさで群を抜いていました。ブリヴィオ家はスフォルツァ家の相談役を務めた名門。
設計はラッザロ・パラッツィによるもので、彼はこの礼拝堂を造るに当たって、教会最深部にあるポルティナーリ礼拝堂に触発されたとのこと。後でその礼拝堂にも行くので、よく見ておきましょう。
施工は1483年から89年にかけて行われました。後にブリヴィオ家の子孫により、1836年に規模の小さな改装が実施されています。 -
祭壇には中央に聖母子、左に聖大ヤコブ、右に聖エリコ(神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世)が描かれたトリプテックがありました。ルネサンス華やかなりし頃の作品で、ベルゴニョーネことアンブロージョ・ダ・フォッサーノの筆によるものです。はっとするほど美しい聖母でした!
トリプテックは以前は一体になっていたのでしょうが、今では木枠がなくなり、バラバラに展示されていたのが少々寂しい気がしました。中でもプラデッラがぶら下がっているのが悲しい・・・ -
イチオシ
16本のリブが使われている、見事なクーポラです。クーポラの内周、そしてクーポラの外側にも、トンドの中に聖人達の胸像が埋め込まれています。
四方のアーチの縁のフリーズがまた重厚感の中にも気品が漂うよう仕上げられていて素晴らしいですねえ。華美な装飾に陥らない、成熟したルネサンス仕様を見せてもらった気がしました。 -
祭壇に向かって左側にあったのは、ジャコモ・ステファノ・ブリヴィオの墓です。こちらも完ぺきなルネサンス様式。彫刻家のフランチェスコとトマゾのカッツァニーガ兄弟とベネデット・ブリオスコの共作です。
墓は4本の黒い蝋燭型の柱で支えられていて、その台座にはカラッラ大理石で作られたレリーフのあるトンドがはめ込まれています。詳細まで見ませんでしたが、歴代皇帝の顔や寓意像のレリーフだそうです。
墓には正面に3つ、側面に1つずつのレリーフがあり、今見えている正面には、左からキリストの誕生、東方三博士の礼拝、幼児キリストの割礼の場面が彫られていました。
教会の説明書きには、墓の上にキリストが祝福を送っていると書かれていましたが、私には天の父なる神に見えるんですが・・・まっいいか! 最上部には聖母子。こちらも完璧です。 -
ここまで来て、ようやく身廊の全体像を撮ることが出来ました。どこと言って特徴のない、簡素な身廊に好感が持てました。ヴォールトはクロスヴォールトで仕切られています。
左右の列柱には所々に古いフレスコの断片を見ることが出来ます。多分、身廊内にあるフレスコが一番古い時代のものではないかと思います。
遠くに探していたヴィスコンティ家の十字架がようやくと見えました。安心したのか、この後撮るのを忘れました。
特徴的な主祭壇は、左側廊を見終わるまで我慢我慢。 -
教会の説明書きは右側廊にある礼拝堂に関してしか触れていません。資料も右側廊のみ。あまりに盛り沢山の教会なので、左側廊の祭壇に関してはオミットされたようです。
目についたものだけ撮ってみました。こちらは、捕らえられたキリスト像「この人を見よ」。カルロ・ナヴァの作品と言われていますが、? がついていました。祭壇の下には透明な箱に聖遺物らしきものが入っていましたが、何度見てもそれが何であるかわからず! -
こちらの祭壇についても、名前すらついていないようでしたよ。バロック様式のなかなか凝った祭壇です。祭壇画には中央に両手を胸の前で組んだ男性聖人。今にも天に召されようとしているように見えます。左右には女性の聖人達。男性の足元には百合を携えたプットの姿がありました。
祭壇の右側に聖アントニオ像が立っていました。ここはドメニコ会なのに、フランシスコ会の聖人アントニオをよく見かけます。人気のある証拠ですね。 -
寄せ集めのような空間。フレスコ、スラブ、石棺、ライオン、どれもかなりの年代物と思われます。これで祭壇に必要な5点セットの出来上がりというわけでしょうか?
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というわけで、左側廊は殆どすっ飛ばして主祭壇へと向かいました。
ずらりと並んだ聖人達の胸像を象った聖遺物箱の背後にある大理石製の大きなレリーフが「受難のアンコーナ」と呼ばれる祭壇画です。厳密には「画」ではありませんね。本来は背景にあって、メインの引き立て役を司るものですが、ここでは主客転倒しています。
まずは聖遺物箱からみていきましょう。一段目は聖人、二段目は司教の面々で、19世紀に造られたもの。司教は歴代のミラノ司教で、聖マルティニアーノ、聖マンスエト、聖アウサーノ等々の名前が挙げられていましたが、どなたがどなたなんだかさっぱり・・・これだけ数が揃うと壮観だとしか言えません。実は主祭壇の前に、聖エウストルジョ、聖マーニョ、聖オノラートの聖遺物が収められた石棺があったようですが、気が付きませんでした。とほほ・・・ -
祭壇飾り(ドッサーレという)は15世紀初頭、当時の領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命で制作されました。これには、沢山の人達が関わっていますが、少なくともそのうち2枚はジャコピーノ・ダ・トラダテの作だとされています。他にもジョヴァンニ・ダ・グラッシやマッテオ・ダ・カンピオーネ等が制作に参加しています。カンピオーネのマスターの作品にまたお目にかかりましたね。15世紀初期としてはかなり質の高い仕上がりです。
写真が小さすぎて詳細がわかりにくいですが、左下から順に、ゲツセマネの祈り(ジャコピーノの作品)、ユダの接吻、中央に磔像(ジャコピーノの作品)、リンボへの降下、キリストの嘆き、そしてゴルゴダへの道と続いています。他と比べてジャコピーノの作品が際立っていると説明文にはありましたが、この大きさでは見比べるのは不可能。
上部には、左から聖エウジェニオ、ヴェローナの聖ピエトロ、聖エウストルジョ、聖マーニョ、聖ドメニコの順に彫像が並んでいました。 -
この教会の特異なところは、後陣の背後に古い初期キリスト教時代の建物が続いているところです。大変複雑。背後にある元修道院のチャプターハウスや聖具室は博物館になっていました。
展示されているのは、1663年、ジョヴァンニ・バッティスタ・マローネから修道院へと寄贈された、いわゆる「マローネ・コレクション」が中心です。 -
突然出現した教会のお宝の数々です。
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聖エウゲニウスと書かれた素朴な石像。彼は9世紀に生きた司教ですが、あまり知られていませんね。驚くべきは、この彫像13世紀に造られた際のオリジナルの色がまだ鮮やかに残っていることです。
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何枚かの絵がありましたが、目に留まったのはこちら。複製ですが、ガウデンツィオ・フェッラーリの「アレキサンドリアの聖カタリナ」です。フェッラーリ(1471年-1546年)はルネサンス期の画家兼彫刻家ですが、こちらは1610年頃の作品。
ガウデンツィオはミラノで絵を学んでいる時に、ベルナルディーノ・ルイニと知り合ったと言われています。筋肉が付きすぎているカタリナですが、オリジナルの方も見てみたいなと思わせる作品でした。 -
もう1枚。こちらは、ジュゼッペ・ヴェルミーリオ(1585年-1635年)の「アポストラード」。1620年頃の作品です。カラヴァッジョ、アンニバーレ・カラッチ、グイド・レーニらの影響を受けたとされる彼の絵は、評論家によって評価がマチマチで、「取りに足らない職人」というものから、「その時代のイタリアの最高の芸術家の一人」までバラエティに富んでいます!
2枚とも、マローネ・コレクションからのものでした。 -
続いてやってきたのは、教会の歴史が刻まれた大きな聖具室です。ここには、14世紀から18世紀にかけての重要な聖遺物、聖遺物箱、銀や金で出来た奉納品、燭台、聖杯などが、木製のキャビネットに整然と収蔵されています。
きちんと分類された戸棚ごとの内訳表もあったのでちょっとびっくり! -
右側の戸棚上段には燭台が並んでいます。その下のプレートは信者からの奉納品銀製のプレートです。
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聖遺物箱と言っても色々とあるんだなあと見ながら実感。上から2段目、聖体顕示台というのもありました。
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聖遺物箱で一番多いタイプが、左側の戸棚の胸像型。上段の両脇にあるのは、吊り下げ型のランプですって! 勉強になりました。
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聖具室から入ってきたのは聖パオロの礼拝堂です。祭壇向かって左側の壁にあった、「マリアのエリザベート訪問」のフレスコが印象に残りました。画家ダニエーレ・クレスピが1620年頃に手掛けたものです。
クレスピは天才肌の画家で、当時まだ20を少し超えたばかりでした。1630年、ミラノを襲ったペストで32歳の若さで亡くなりましたが、17世紀の偉大なる画家の一人に挙げられています。 -
祭壇側のフレスコはかなり傷みが生じていました。
少々不明瞭な祭壇画については、説明が見当たりませんでした。聖パオロに捧げられているので、パオロが描かれていそうですが・・・ -
ヴォールトには、天使達に抱きかかえられて天に到達した聖パオロの姿がありました。天使達、さぞ重たかったでしょうねえ。ダニエーレ・クレスピの優しい筆遣いを見ていると、知らず知らずのうちに、顔に笑みが浮かんできます。
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礼拝堂の正面には、ジョキ・ボッロメオのマスターによって描かれた「マドンナ・デル・ラッテ」。15世紀の作品。授乳中にもかかわらず、凛とした気品ある聖母の姿は実にインパクトがありました。
聖パオロの礼拝堂の続きは、聖フランチェスコの礼拝堂になっていましたが、写真は撮らなかったみたい。 -
イチオシ
そしていよいよ教会の最深部、ハイライトであるポルティナーリ礼拝堂へと入ってきました。じゃーん! 息を呑む美しさとはこのこと。暫し足が動きませんでした。
メディチ家の稼ぎ頭メディチ銀行のミラノにおける代理人だったピジェッロ・ポルティナーリは有り余る資金を投じて、自身の埋葬場所としてこの壮大な礼拝堂を1462年から6年間かけて建造させました。フィレンツェ様式を取り入れた、スフォルツァ家初代フランチェスコ時代(15世紀)におけるロンバルディア・ロマネスクの傑作とされています。
礼拝堂はヴェローナの聖ピエトロに捧げられています。彼は異端、特にカタリ派を激しく糾弾した説教師として知られています。それがゆえに怒りを買い、1262年にカタリ派によって殺されました。そう、中央にある壮麗なモニュメントは、聖ピエトロの葬送モニュメントなのです。ここには聖ピエトロの頭が収められています。そして、礼拝堂が完成した1468年に亡くなったポルティナーリ自身の墓も。 -
イチオシ
このアークは「ヴェローナの聖ピエトロのノアの方舟」と呼ばれています。署名があり、1339年に白のカラッラ大理石を用いてジョヴァンニ・バルダッキが制作したことが判明しています。この「アーク=方舟」は、当時から聖ピエトロの聖遺物を保管していたドメニコ会によって発注されました。
高さはなんと5mもあります。 -
方舟は、ご覧の通り、8本のヴェローナ産の赤大理石の柱によって支えられていました。柱の前には、8人の寓意像が並んでいます。
柱の上には、カラッラ産の白大理石で作られた石棺。表面は細かいレリーフで覆われています。 -
石棺の上はプラミッド状になっていて、中央には聖母子の座る玉座、両脇に聖ドメニコとヴェローナの聖ピエトロが立つ祠が乗っかっています。
最上部には、二人の天使を従えた祝福を与えるキリスト像がありました。 -
この写真が比較的うまく撮れていましたよ。赤大理石の柱には、1本1本異なった幾何学模様のモチーフが刻まれています。
今こちらを向いているレリーフには、聖ピエトロと彼の仲間達の殉教(つまり暗殺)の場面が描かれていました。石棺の周りをぐるりと取り囲むように、8体の彫像(エウストルジョ、アンブロージョ、使徒の聖ピエトロ、グレゴリウス等)が置かれ。四隅には教会博士達が立っていました。 -
入り口側を向いた寓意像です。彼女たちの足元には、ライオン、羊、その他架空の動物達がペアで狛犬のように置かれていました。ノアの方舟にも動物たちがペアで乗り込みましたね。これがまた楽しい!!
寓意像は左から「正義」、「節制」、「勇気」、「知的・思考・知恵(思慮分別)」を表わしています。所謂、枢要徳(四元徳)ですね。 -
「節制」は、自己制御が可能で、潔白をも意味します。
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「勇気」は、不屈の精神、忍耐力、強さ、脅迫に屈しない心を持っています。彼女が大事に抱えているのは何でしょう?
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右端の「知的・思考・知恵(思慮分別」は背後に別の2つの顔を持っていました。ペルージャで見た「トリプルディーティ」(3つの顔)と似ています。それぞれの顔が知的、思考、知恵を表わすのでしょうか?
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背後の顔の一つです。やはり、この人が一番気になったみたい。
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こちらは、入り口と反対側。左から「従順」、「希望」、「信仰」、「慈愛」の4人です。枢要徳に加えて、信仰、希望、慈愛が七元徳と呼ばれるものですが、ここでは「従順」が加えられていました。
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「従順」は古典的な装い。肩に何か背負っていますね。
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彼女が見上げる空の彼方に「希望」が見える?
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「信仰」はそのものずばり、十字架と聖杯を手に持っています。
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「慈愛」は子供たちを愛しんでいますね。
すっかり美徳の寓意像に魅せられてしまいました。 -
次にレリーフを見ていきます。こちらは入口を向いた方です。3枚のレリーフは、左側が「ヴェローナの聖ピエトロの葬儀」。人々が彼との別れを嘆いている場面が巧みに表されています。背伸びしている子供の姿が実に印象的でした。
中央は「聖ピエトロの列聖式」、そして右側は「船の奇跡」です。どういうお話かは存じませんが、北イタリアでは誰でも知っている「奇跡」だそうです。船のマストに上る男たちの描写が真に迫っています。 -
反対側には、聖人の生涯からのエピソード(といってももっぱら奇跡の場面)が刻まれていました。
左側は聖ピエトロの奇跡の一つで、口のきけなかった若者が聖人によって治癒した場面。中央は「雲の奇跡」。彼が説教をしている間、聴衆を暑すぎる太陽から守るために、雲が出現・・・えっ これって奇跡なの? 確かに雲が描写されていますねえ。
右側はてんかんを患っていた人が奇跡的に治癒した場面だそうです。こういう「奇跡」の積み重ねで彼は聖人と認定されたのです。 -
奇跡はともあれ、ノアの方舟は、本当に見事なモニュメントでした。奥に祭壇があったのをたった今発見! 見向きもしませんでした。
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次にフレスコに参りましょう。礼拝堂は、中央にクーポラがある二つの四角形の部屋から成り立っています。こちらは、「方舟」のある方の部屋です。
聖母とヴェローナの聖ピエトロの生涯の物語が描かれたフレスコは、ヴィチェンツォ・フォッパ(1427年-1515年頃)の傑作です。彼はレオナルドがミラノに来る前のロンバルディア・ルネサンスの第一人者でした。彼はフランチェスコ・スフォルツァに呼ばれ、パヴィアのチェルトーサの回廊やミラノのメディチ銀行の中庭などにフレスコを残しています。
まず目についたのはこちらの受胎告知です。穏やかで冷静、客観的な描写を本領としていて、大変分かりやすい絵になっています。ガブリエルとマリアのいる場所を繋ぐ、アーチ上を横切るロッジアの描写が印象に残っています。 -
受胎告知と反対側のカウンターファサードのフレスコは、聖母被昇天でした。
クーポラの付け根部分(スパンドレル)には、教会博士達が3Dっぽく描かれていました。 -
残る2つの壁には、ヴェローナの聖ピエトロの生涯の物語・・・ということは奇跡の場面でしょう!
逆光なので、こちらは左右に分けて写真を撮りました。 -
こちらは、ノアの方舟のレリーフにも登場した「雲の奇跡」の場面です。聖ピエトロが説教をしている間だけ、雲が太陽を隠して涼しくしたという「奇跡」ですね。
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こちらは、絵が小さすぎて良く分からないでしょうがが、悪魔が化けた偽の聖母子に対し、聖ピエトロが説教により、化けの皮を剥がしたという場面です。
よくよく見ると、高い場所にいる聖母子の頭には、角が生えているのです。 -
無理して引き延ばしてみましたが、角が生えているのわかるかな? 偽のキリストは、オルヴィエート大聖堂のルカ・シニョレッリの絵で見たけれど、聖母子の偽物は初めてです。
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祭壇に向かって右側のアーチには、ナルニの奇跡と彼の殉教場面が登場します。こちらも小さいので、別々に写しました。
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ナルニの奇跡というのは、足を切断した若い男性の足がくっついた=治癒したという奇跡だそうです。彼の足をよく見て下さい。片方の足が真っ黒になっているというのは、もう血が通っていないという意味ではないですよね。単にタイツを穿いているのかなあ?
そして持ち上げている方の足には途中に大きな筋(切断面)があり、聖ピエトロが触っている、いや治療を行っているので、切断したのはこちらの足のようですね。 -
反対側には、聖人の殉教の場面。こちらも、「方舟」のレリーフの中にありましたね。キリスト教の排他性が仇になったかと思われますが、それは置いといてと・・・
ここでもフラッパのフレスコは、淡々と、あまり感情を交えずに、正確な描写のみに集中したよとでも言わんばかりに悲劇の現場を捉えています。 -
最後にクーポラの写真。一体何を考えて撮っているんだ! 撮りゃ良いというものではない!と怒られそうなアングルですが、おっしゃる通りです。はい。
クーポラ内部に描かれているのはグラデーション化された太陽光線。中央になるにつれて、青色に近くなっていきます。うろこのような模様が日の光を受けて波打っています。
16本の力強いリブと16個の窓。その半分だけ光が差し込むようになっています。クーポラの外周にも不思議なフレスコが描かれていました。口あんぐり。 -
これはポルティナーリ礼拝堂への通路途中にあった、聖ドメニコと寄進者の前に現れたキリストを描いたフレスコです。14世紀のものだそうです。
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見学の最後は、また地下ですよ! この辺りはキリスト教徒の墓地だったと最初の方で書きましたが、初期キリスト教時代の墓が整備された形で残っていました。なんと盛り沢山の教会なのでしょう。
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内部は博物館さながらで、壁には出土した墓碑銘の描かれた石板の断片が展示されていました。
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壁にあった初期キリスト教徒墓地における墓の分類によると、こちらは再利用レンガで壁を築く形状の墓です。斜めに置かれたレンガの中に遺体を入れ、後からレンガで入り口を塞いだようです。
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様々な墓の形状を説明した案内図です。
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こうした花崗岩のスラブで作られた箱型や、内部に漆喰が塗られたタイプの墓もありました。いずれも質素なものばかり。
石棺と言えば大理石のスラブで作られた豪華なものばかり目にして来ましたが、庶民とは無縁の存在だったことを改めて思い知りました。 -
長くいたいと思う場所ではなかったので、さっくりと眺めたあと、そそくさと地上へと戻りました。
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教会内部の地図です。今どこにいるのかを知るのに大変役に立ちました。
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はい。晴れ渡るミラノの午後の町に戻って参りました。鐘楼のてっぺんの八芒星に別れを告げます。聖エウストルジョ聖堂。古い歴史ある教会の一つだということ以外には殆ど知識もなく訪れたのですが、中身のすこぶる濃い教会で、大満足の充実した時間が過ごせました。本日訪れた教会は全て〇、それも◎ばかりです。
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外から見たブリヴィオ礼拝堂とトレッリ礼拝堂です。手前のブリヴィオ家の礼拝堂は、外から見ても特徴あるルネサンス様式でした。前述したように、14世紀から15世紀にかけての建造でしたが、19世紀に改修工事が行われています。
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再度、ティチネーゼ門に吸い寄せられます。この門を背景にして走るトラムの姿がまた良いですねぇ。1815年と大きく落成の年が書かれていました。
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ティチネーゼ門のある5月24日広場を左折して、今度はジャン・ガレアッツォ大通りを歩きます。
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暫く大通りを進みましたが、新しい建物ばかりで無味乾燥。
しかし、コルソ・イタリア大通りを左折するとすぐ、こういうテラモン達が2階のバルコニーを支えている建物に出会うんですね。ミラノ、おそるべし。 -
この通りを走っていたのは、カンパリのラッピング車両のトラムでした。
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右手に見えてきたのは、聖チェルソの奇跡のサンタ・マリア教会。ここも聖アンブロージョ聖堂同様、ファサードの前がポルティコで囲まれていました。右手にもレンガ造りの教会が見えますが、こちらが聖チェルソ聖堂。5世紀に遡れる古い教会の一つです。
工事は1493年に、聖母の奇跡のイコンを祀るための八角形のクーポラから始まり、外回りのポルティコやファサードが完成したのは16世紀末のこと。ミラノにおける初期のルネサンス建築と言われています、 -
とても華やかなファサードです。鍵がかかっていて、入れなかったので、道の反対側から最上部だけを写しました。カラッラ大理石製で、ガレアッツォ・アレッシの設計によるものです。中央の聖母の他、沢山の天使像が立っていて、人目を惹きます。
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通りに面した側の壁部分は、コリント式の半柱の上をエンタブラチュアが乗っかる堂々たる造りで、ローマ時代の建築を思い起こします。1505年、コンテストで優勝したクリストフォーロ・スラーリが手掛けました。
ここは教会と至聖所を兼ねた建物ですが、日曜日はお休み? 中を覗きたかったのに残念。 -
お次は、雰囲気が全く異なるバロック様式の聖パオロ・コンヴェルソ元教会。現在のファサードは1619年にイル・セラーノことジョヴァン・バッティスタ・クレスピの設計によるものです。教会というより個人の邸宅と言った雰囲気のお洒落な外観でした。
ナポレオン時代に付設の修道院ともども廃止に追い込まれ、1932年まで倉庫として使われてきました。戦後はレコーディング・スタジオ、コンサートホールなどにも利用されています。現在は個人の所有になっているそうです。 -
聖パオロ・コンヴェルソ元教会と道を挟んだ向かい側、小さな同名の広場の奥にあったのが、聖エウフェミア聖堂。オリジナルは451年、キリスト教の公式会議であるカルケドン公会議(現トルコのイスタンブール近郊)に出席した司教聖セナトーレ・セッターラが、かの地より持ち帰った聖エウフェミアの聖遺物を収めるために建てた教会と言われています。
教会は15世紀に再建され、その後も何度か改修されています。聖カルロ・ボッロメオの甥でミラノ司教になったフェデリーゴ・ボッロメオはこの教会で洗礼を受けたそうです。 -
1870年、建築家エンリコ・コテルツァーギが奥に見える身廊部分を大改装したため、構造上の理由からファサードも作り直しを余儀なくされています。どおりで、新しい教会というイメージ。奥の鐘楼ともしっくり合ってはいません。ネオロマネスク様式と呼ばれているんですって。
ここも閉まっている様子だけれど、ファサードだけ覗いて行きましょう。 -
小さなポルティコのあるポーチにあった扉は閉まっていましたが、3つありティンパヌムのモザイクが綺麗でした。150年近くたっているようには見えません。
こちらは中央扉の上のモザイク。キリストの幼子のキュートなこと! -
こちらは、向かって右側の天使。背景の金色の部分には、十字架とユリの花を象ったモチーフが連続していて、大変美しいです。
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左側の天使。二人とも雲に乗り、巻紙を手にしています。ポーチのクロス・ヴォールトは、わずかに見えていますが、吸い込まれそうに深い青色でした。
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相変わらずコルソ・イタリアを北上しています。ちょっと面白い建物を見ると直ぐに立ち止まってしまうので、時間がかかる割に距離が稼げません。
この建物はコルソ・イタリアとルガヴェッラ通りの鋭角の角に建っていました。今見えているのは一番建物の細い部分です。バルコニーを支えるドットのついた柱がオシャレ! -
こちらは、上の建物の一つ先のマッダレーナ通りとの角にあったもので、建物を取り巻くバルコニーを大好きなカリアテッド達が支えていました。壁が落書きで汚されているのが許せないわぁ・・・
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カリアテッド達のアップです。
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少し迷いましたが、ついに見つけましたよ。サン・ジョヴァンニ・イン・コンカ教会のクリプトです。コンカとは水盤のことなので、聖水盤の聖ヨハネ教会という訳し方でいいのかしら・・・
地上に残っているのはかつての後陣の一部のみ。11世紀に遡ることが出来るそうです。
こちらもツーリストクラブのヴォランティア・ガイドさんに教えていただきました。 -
交通の激しいコルソ・イタリアとアルベリコ・アルブリッチ通りがぶつかるミッソーリ広場にそれはひっそりと残っていました。初期キリスト教時代に最初の教会が建てられたのは5世紀から6世紀の間のこと。奥行き53m、幅7mの一廊式の教会で、上の写真のような半円形の後陣がありました。
後陣の裏に回ると、階段が現れたので、それで下に下りて行きます。 -
教会は、11世紀に再建されたのち、1162年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサによって破壊されたため、13世紀に再度建て直され、ヴィスコンティ家の霊廟の一つになっています。
教会が取り壊されたのは1948年から52年にかけてのこと。何か特別の事情があるのかなと思ったのですが、そうではなく、戦後の交通需要の増加により、新しい道路建設が必要となり、教会は市から別の土地を譲渡され、立ち退きを求められたのです。ファサードは解体して新しい教会へと運ばれたため、現在後陣の一部とクリプトだけが残されています。 -
ロマネスクの香り漂うクリプトに入って参りました。どこと言って特徴があるわけではありませんが、こちらのクリプトはオリジナルで、ミラノではサン・ヴィチェンツォ・イン・プラート教会のクリプトと同じ位歴史のあるものだいう説明がありました。
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ヴォールトを支える列柱は、1本1本長さも材質も柱頭のデザインも異なります。まあ、いつもの再利用ですね。
目ぼしいものは全て、聖マウリツィオ教会隣にあるミラノ市立考古学博物館に行ってしまっているので、正直あまり見るべきものはありませんでした。 -
11-12世紀のものとされる柱頭です。石灰岩製で、聖アンブロージョ聖堂でも見ることの出来る、ロンバルディア・ロマネスクの特徴を備えています。
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こちらも11-12世紀の柱頭。上のものと同じ人による作品だと思われます。
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教会の土台部分。更に深く掘れば、また何か出て来そう。古代の水道もこの地下を流れているそうです。
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1745年当時の教会とその前のサン・ジョヴァンニ・イン・コンカ広場です。絵に見える広場は現在ミッソーリ広場の一部となっています。
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わざわざ行く程の価値はないけれど、こんな広場の真っただ中に地下聖堂だけが残っているというのが珍しかったので、通りがかりにちょっと寄ってみるのには面白いと思います。
ミッソーリ広場の東側、アルブリッチ通りの中央分離帯のような場所にあります。 -
ツーリングクラブの方に教えていただいたもう一つの教会は、ドゥオモから目と鼻の先にありました。
まずはそれと知らずにお尻から、じゃあなかった後陣から近づきます。
ううーん、なんて素敵な、食欲を誘うお尻・・・じゃあなかった後陣でしょう! 複雑怪奇な建てられ方で、道路の制限がなければもっと大胆にはみ出していたに違いありません。 -
どこから入るのかなあと、左側の道を暫く進んでみたりしたのですが、入口が分かりませんでした。古い鐘楼を入れてみたら、更に重厚感が加わりました。
これはどうしても入らねば・・・ -
と思い、表通りを暫く歩いたら、ありましたよ。なんと、探していた教会 聖サティーロのサンタ・マリア聖堂でした。
聖サティーロというのは、聖アンブロージョ聖堂の項でも触れた聖アンブロージョの兄弟で、ここには879年以前に建てられたという祈祷所がありました。現在の建物は、1476年から82年の間に奇跡のイコンを収めるために造られましたが、教会を有名にしたのは、ドナト・ブラマンテによる97cmしか余力のない後陣の「偽の奥行き」です。いわゆる、トランプイユのはしりでしょうか。
2枚前の写真をもう一度ご覧ください。教会の後陣は、左端に見える三角形のペディメントがある辺り。まっ平ですねえ。後陣だと思わないわけだ! -
ブラマンテが教会の総ての建築に関わったのかと思ったら、そうではなく、メインの建築家はジョヴァンニ・アントニオ・アマデオ。ドゥオモの装飾でも何度も名前が出てきた建築家兼彫刻家です。
こちらのファサードもアマデオの手によるものです。実のところファサードは19世紀まで未完成のままでした。現在は空となっているニッチェには旧約聖書の物語に登場する聖人達の像が置かれていましたが、19世紀の改修の際に、スフォルツァ城の博物館へ移されたそうです。 -
聖堂全体の写真は、例によって例のごとく、こちら1枚だけ。
黄金色をしたヴァレルヴォールトの天井の彼方には、祭壇の奥に十分な奥行きのある後陣があるように見えています。しかし、実際は遠近法を用いて目の錯覚を利用したブラマンテによるイリュージョンなのです。最初から、奥行きが足りず、教会を建てるには不向きの土地に創意工夫して建てたというわけですね。 -
他の方のブログを読むと、堂内撮影禁止だったという記述が多いのですが、私が訪れた際には、それを言われることはありませんでした。ここにもツーリングクラブのヴォランティアのガイドさんがいらっしゃったので、色々説明していただきながら見学しました。
そうそう、上の写真の後陣。近づくと、こんな具合に変化するのです。 -
奥行きは、ブラマンテの設計図によると9m70cmあるように見えますのですが、実際には97cmしかありません。わずか1/10の長さ!
偽の後陣のヴォールトや列柱は、ブラマンテがレリーフやスタッコの型等を用いて、シミュレーションを繰り返しながら、錯覚によって架空の9m分を生み出したのです。
但し、先ほど立っていたカウンターファサードからでないと、きちんと彼の狙い通りに見えないところが弱点ですかねえ。
そうそう、忘れていました。主祭壇に飾られた聖母子のイコンです。このイコンのために教会は再建されたのでした。絵は元々堂内の壁に飾られていましたが、1242年、こともあろうに、この絵の幼子に短剣を突き刺した男がいました。すると直後に、イコンから血が流れ始めたのです。奇跡!! というわけで、その後ここは巡礼地として有名になりました。イコンを崇めるために、新たな建物まで建ててしまったんですね。教会は今でもその短剣を保管しているそうですよ。 -
入ってきたのは、聖サティーロに捧げられた礼拝堂です。ピエタの像があることから別名ピエタ礼拝堂とも呼ばれています。大小いろいろな太さの列柱が目につきます。短い石の柱は、ローマ帝国時代の末期にこの教会に運ばれたもの、煉瓦製のものと、赤のヴェローナ製の大理石、墨絵のような模様のあるチポリーノ大理石の柱はブラマンテの時代に調達されたものだそうです。
壁には所々に、9世紀から13世紀にかけて描かれたフレスコの断片が残っていました。元々は壁を全て覆いつくしていたはずだったのですが・・・ -
祭壇の上に置かれたピエタと、哀しみの祈りを捧げている人々の彫像群は、アゴスティーノ・デ・フォンドゥリス(1483年-1522年)の作品。テラコッタ製で全部で14体から成っています。
良く分からないのは、横たえられたキリストの白い肉体の背後で聖母が別の男性を膝に抱えているように見えること。撮った時にはまるで気が付きませんでした。私の目って節穴かも! -
今、左翼廊の突端にある聖サティーロ礼拝堂の入口に立っています。寸足らずの後陣、主祭壇の手前にはクーポラがあり、その向こう側に右翼廊が見えています。
今背中を向けた側と同じ形の、半円と〇が5つ並んだ窓は、先ほど外から見た記憶がありました。なるほど。こういう構造になっていたんだ・・・とようやく納得しました。先ほど外で「美しいお尻」と表現した「後陣」は、実は聖サティーロ礼拝堂だったのだと。 -
ここは、右側廊にあるブラマンテが設計した洗礼堂です。聖具室と書かれた資料もありましたが、どう見ても洗礼堂ですよね。と思い、購入した資料を見たら、ブラマンテは聖具室として作ったようですが、のちに洗礼堂に改修されたと書かれていました。そのため、「ブラマンテの聖具室」という書き方だったんですね。
堂内は二層に分かれていて、第一層は、半円形のエゼドラ付きのニッチェが並んでいました。ニッチェとニッチェの間には、草木がモティーフになっている美しいフリーズを見ることが出来ました。 -
フリーズのある柱の柱頭は、架空の動物達の頭のレリーフで飾られていました。ニッチェに置かれているものは、聖水盤や燭台、水がめ等。
第二層には、黒っぽいテラコッタで作られた様々な顔、そしてプット達がぐるりと一周していました。こちらもフォンドリスの作品だそうです。
洗礼堂の中央には、黒い洗礼盤が置かれていました。 -
装飾は控えめですが、味わい深いものがありました。ニッチェはへこみのあるのと、そうでないものがあるようです。
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トンドの中のレリーフ頭像は、ローマ、フィレンツェを始め様々な場所で見て来ましたが、一番イタリアらしさを感じます。右側のニッチェの天井の花も古典的な装飾の一つですね。
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第三層は、アンブラトリー、女性たちのギャラリーになっているようでした。二連窓の間もフリーズで飾られていて、大層美しい・・・
そしてクーポラの天井は、丸い窓のついた8枚のパネルで構成されていました。この洗礼堂は、ブラマンテが1482年、彼が38歳の時の作品で、この教会を皮切りに、彼はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエの設計に参加、フランス軍の侵攻を受けミラノを追われた後はローマに移り、1503年にはサン・ピエトロの建築に携わることになるのです。 -
最後にもう一度外に回ってみて、聖サティーロ礼拝堂だったことを確認し、教会を後にしました。
1日で6つの教会(と1つのクリプト)を回りましたが、どこも大変充実していて、ロンバルディア・ロマネスクを堪能することが出来ましたよ。
長くなりましたので、この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その98 ミラノ7で。さあ、いよいよ最終回となるかな???
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この旅行記へのコメント (3)
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- マリアンヌさん 2017/03/01 12:38:49
- 充実の教会めぐり
- junemayさん、続いてお昼休みに伺ってます。
聖エウストルジョに捧げられた聖堂、先日、東方三博士のお話をしたので大変興味深く拝見しました。
こんな伝説や教会も残っているんですねぇ。
それから教会内が続いているのでしょうか・・・
ピエトロ・トレッリの墓やポルティナーリ礼拝堂も素晴らしい彫刻ですね。
そして地元情報からのコンカ教会のクリプト、ロンバルディアロマネスクが垣間見れていいですね♪
最後の教会まですっごく充実の教会めぐりでしたね。ってまだ続きがあるんですよね。
ポルタ・ティチネロは東ゴートやランゴバルトの都、パヴィアに続く、僧院しか行ってない私、パヴィアにも想いを馳せています。
続き楽しみにしています。
マリアンヌ
-
- とし坊さん 2017/02/28 16:38:27
- 驚きの描写
- いつもながらの旅行記の域を超えた、専門書のような詳しい解説お見事ですね・・
この内容を束ねれたならば、専門書になりますよね 素晴らしいです
引き続き楽しみにしております ハイ
- junemayさん からの返信 2017/02/28 22:01:06
- RE: 驚きの描写
- とし坊さま こんばんは!
自分の蒔いた種とは言いながら、時間かかり過ぎの旅行記ようやく終了間近となりました。お読みになる方の苦労も知らずにいい気なもんですね。
専門書だなんてとんでもない! 薄く、浅く、平べったく、そしていいなあ、見事だなあ、美しいなあ、素晴らしいなあ の連発です。語彙のない事、日本語の素養のない事、全部バレバレだと思います。
忘れえぬ旅が沢山控えているので、今後の旅行記をどのように「速く」仕上げたらよいか思案中です。引き続きご訪問いただけましたら、嬉しいです。
ありがとうございました。
junemay
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