2015/06/07 - 2015/06/07
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
最終日も気が付けばもう夕方。残された時間はもうわずかです。最後の最後まで充実した1日とすべく、これからブレラ美術館へと向かいます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
サンタ・マリア・プレッソ・サン・サティーロ教会をバックに、、ガエタノ・ジャルディーノ通りを撮った1枚。前方に門のようなものが見えますが、あれは何でしょう? 城門にしては、近代的すぎますねえ・・・
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今日は昨日よりも白さが増したようなドゥオモともお別れ。トラムの架線がちょいと邪魔でした。
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ドゥオモ近くのパン屋さん。ここで食べたピッツァが美味しかったという記憶。名前何だっけ?
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ブレラ美術館へは、スカラ座の角を左に折れ、後はまっすぐ。ほんの1km程度の道のり。相変わらず教会ぶらぶら見て歩きやってます。
こちらは典型的なバロック様式の聖ジュゼッペ教会。17世紀前半の、フランチェスコ・マリア・リキニの設計によるものです。上のペディメントからの弧を描いた線が渦巻(ヴォリュート)になる模様、レッチェでよく見かけました。 -
今度は反対側に動物のブロンズ像がありましたよ。前足上げている馬かしら?
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15分も経たないうちに、本日の最終目的地ブレラ美術館に到着です。「ブレラ」とはもともと「草深い」という意味のある言葉で、建物が最初に建った時代には、ここが耕作に適さない草ぼうぼうの土地だったことに由来します。
ここにあった修道院は1573年にイエスズ会に譲渡され、1627年から8年にかけて大規模な改装が行われました。1773年に教皇クレメンス14世によりイエスズ会が解散させられると、建物はイエスズ会によって作られた天文台、国立図書館をそのまま継続利用する一方、新たに植物園部門、そして絵画、建築、彫刻、その他の芸術のための美術アカデミーの校舎となりました。スカラ座を建てたジュゼッペ・ピエルマリーニはこの学校で20年以上教鞭をとったそうです。
ナポレオン治世の19世紀初頭には、美術品の収集も進み、ラファエッロの「聖母の結婚」を手に入れたのもこの頃のこと。ナポレオンは泥棒しかしていない!と思っていましたが、イタリア国内の美術品の再評価等にも貢献したんですね。そして、1822年には、アカデミーから分離される形で、ブレラ絵画ギャラリーが誕生したのです。 -
なぜ、こんなところにナポレオンの像があるの? と思っていたのですが、美術館設立の立役者ですから、「盗人」でも一応立てておかなくちゃっということでしょうか?
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ナポレオンの像が中心に立つ中庭は、総二階建てのロッジアで囲まれ、1階はドーリア式、2階はトスカーナ風のイオニア式の列柱がセルリアーナ工法で並んでいました。一瞬、パッラーディオの世界に戻ってきたみたいな錯覚を覚えました!
セルリアーナ工法については、こちらを参照くださいね。
http://4travel.jp/travelogue/11176366 -
2階に上がって、早速見学開始です。ここで嬉しいニュースが待っていました。本日は日曜日なので、観覧は無料なのだそうですよ! これで味をしめた私、2016年の旅でも日曜日は遠出を避け、美術館での鑑賞に当てました。スペイン、ポルトガルでも日曜日は殆どの美術館が無料で見学できましたよ! もしかしてせこい???
延々と、本当に延々とブレラは続きますので、絵に興味のある方以外は飛ばしてくださいね。ここから先、街歩きはございません。 -
見学は、ロンバルディア州のセヴェゾという町にあった祈祷所モッキローロ(あるいは聖グラート祈祷所)のフレスコから始まりました。地元の有力貴族ランフランコ・ポッロが、自身の埋葬場所として建てた祈祷所だそう。壁と天井一面のフレスコを描いたのはペチーノ・ダ・ノヴァ、もしくはモッキローロのマスターと言われています。
フレスコはこれ以上の劣化を食い止めるために、1949年にブレラに寄贈されました。礼拝堂を丸ごとブレラに移設したのです。最近になって、モッキローロの祈祷所にも新たな複製をこしらえたそうです。
中央にはジョットを思い起こす磔場面、左壁には大きな椅子に座った聖アンブロージョ、その隣には、アレキサンドリアの聖カタリナの神秘な結婚がありました。右壁には、聖母子に祈祷所を捧げているランフランコ・ポッロ本人の姿を見ることが出来ます。 -
二番目の作品。
作者のシモーネ・ダ・コルベッタに関しては殆ど何も知られていませんが、ヴィスコンティ家が花開かせた芸術文化の中、14世紀末までロンバルディアで活躍した画家の一人です。
このフレスコに描かれているのは、聖母子の他、聖カテリナ、聖ウルスラ、聖ジョルジュ、そして跪いているのが寄進者のテオドリコ・ダ・コイラです。ミラノのサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にあった作品で、1382年という制作年が判明しています。 -
三枚目は金箔を塗った板絵でイコンのようにも見えます。「二人の天使の間にいる聖ヴェラーノと彼の人生からの6つのエピソード」というタイトルでした。作者の名前はMaestro di San Verano、ピサ派の画家ということしかわかっていません。
年代的にも古いもので1270年から75年の間と言われています。ピサの近郊ペッチョーリの町にある聖ヴェラーノ教会の主祭壇を飾っていたと思われますが、それも文書に残っていないそうです。骨董市でこれを手に入れた収集家がブレラに寄贈したものと聞きました。
描写は非常に精密で、聖ピエトロによる聖ヴェラーノの洗礼から始まって、聖ヴェラーノによる奇跡の数々、殉教、そして彼の埋葬で終わっています。しかし、使徒聖ピエトロの生きていた時代には聖ヴェラーノ(590年に殉教)は生まれていないんですがねえ・・・ -
その名前が示す通り、ヴェネツィア出身のロレンツォ・ヴェネツィアーノの祭壇画です。この画家についても、活躍した時期が1356年から72年ということしかわかっていません。
ヴェネツィアにあったサンタ・マリア・チェレステ(天国)教会にあったもので、この教会はナポレオンにより、閉鎖を余儀なくされました。
小さな祭壇画は1356年に描かれたもの。ビザンチンの影響が残る後期ゴシック様式の絵柄で、聖母子を中心に、8人の聖人達がアトリビュートを携えて立っています。
聖母子の足元では音楽天使達が楽器を奏でていました。 -
リベラーレ・ダ・ヴェローナ(1445年-1527年)の「聖セバスティアーノ」。
彼がアンコーナの聖ドメニコ教会のために1490年頃に描いた作品です。面白いのは、彼の背景の町がヴェネツィアで、ゴンドラが行きかっていること! 窓に鈴なりの見物人もいるのには驚いてしまいました。パロディのはしりでしょうか?
彼のそばに倒れている壊れた柱は、何を暗示しているのかな? 豊かな表現力に時間を忘れて見入ってしまった1枚です。
作品は1883年にブレラに移されています。 -
チーマ・ダ・コネリアーノ(1459年-1517年)作「玉座の聖ピエトロと洗礼者聖ヨハネと聖パオロ」。チーマはルネサンス期にヴェネツィアで活躍した画家で、大きな教会用の絵よりも家庭用の小さなものを主に描きました。
聖ピエトロだけが玉座にいて、洗礼者聖ヨハネと聖パオロを従えている構図は初めてでとても新鮮。ピエトロの足元でリュートを弾いている音楽天使の顔がやけに不機嫌そうでした。
詳細は分かっていませんが、コネリアーノにあるフランシスコ会修道院のために作られたものとみられています。1516年。 -
フランチェスコ・ビッソーロ(1492年?‐1554年)の「聖ステファノ、聖アゴスティーノとトレンティーノの聖二コラ」。ビッソーロもルネサンス期のヴェネツィア画壇の一人で、ジョヴァンニ・ベッリーニの弟子でした。1490年代には、ドゥカーレ宮殿の大評議会ホール等の装飾を手掛けています。
聖ステファノは、キリストとほぼ同時代を生きた人で、石を投げつけられて殉教した最初のキリスト教徒と呼ばれています。彼の頭と肩に石が乗っかっていますね。両端に立つ聖アゴスティーノと聖ニコラが共にアウグスティン会の黒い法服をまとっていることから、依頼主はアウグスティン会の教会だった可能性が高いようです。 -
15世紀におけるヴェネツィア派といったらこの人 というほど高名なジョヴァンニ・ベッリーニ(1430年頃-1516年)の「ピエタ」です。パドヴァ派のアンドレア・マンテーニャとは義兄弟で、彼の絵画には常にマンテーニャの影響が見られるという評価がされてきましたが、この絵に関しては、「マンテーニャの呪縛から見事に開放された」というコメントも多く見られます。
「年老いた聖母」がわが子に頬ずりする様子や、聖ヨハネの虚ろで、自分を見失っている表情が真に迫っています。
キリストの硬直しかけた左腕が画面の中央まで長く伸びている見事な構図は、ただただうなるしかありません。
1465年~70年の間、彼が25歳から30歳頃の作品です。1811年、ウジェーヌ・ド・ボアルネ(ナポレオンの最初の妻だったジョセフィーヌの連れ子で、後にナポレオンの養子となった)から1811年にブレラに寄贈されたものだそう。 -
かたや、パドヴァ派の代表格アンドレア・マンティーニャ( 1431年-1506年)の「死せるキリストと3人の会葬者」がすぐそばに展示されていました。
上のヴェッリーニの構図にも驚かされますが、こちらの絵の思い切った、大胆な構成には、ちょっと言葉が出て来ません。彼が亡くなった時に、スタジオで見つかった作品だそうで、彼の息子により、枢機卿でマントヴァ公のシジスモンド・ゴンザガに売却されました。1470~74年頃の作品とされています。
画家は立って、キリストを見下ろしているのでしょうか。左側に描かれた聖母と聖ヨハネ以外会葬者はいないのに、「3人」とタイトルにあるのは、「あなた自身」が加わっているのだと勝手に解釈してしまいました。
キリストの肉体の巧みな描写もさることながら、一番感動したのは「年老いた聖母」です。そこには最愛の息子を失った悲しみに暮れる、あまりにも人間的な一人の母の姿しかありませんでした。 -
この同じ時期に生きた二人の巨匠の作品をもう少し紹介しましょう。こちらは、アンドレア・マンテーニャ作 「聖母子と天使」(La madonna dei Cherubini)。この作品は1885年まで、ジョヴァンニ・ベッリーニ作だと考えられてきましたが、修復を行ったルイジ・カヴェナギにより、マンテーニャであることが判明したものです。
絵が発見されたヴェネツィアのサンタ・マリア・マッジョーレはナポレオンの施策で献堂を解かれた教会の一つです。聖母が身に着けた赤い衣が大変鮮やかですね。原題の「ケルビムといる聖母子」のケルビムは、日本語では智天使と訳されています。本来4つの顔と翼を持つ天使ですが、ルネサンス期の絵画では、翼を持つあどけない幼児の姿で描かれることが多かったようです。 -
イチオシ
そして、こちらはジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子」。やはりナポレオンの施策により、ベネツィアのドゥカーレ宮殿よりブレラに移されたものです。
絵の左右上方にギリシャ語の組み合わせ文字が見えることから、別名「ギリシャのマドンナ」とも呼ばれているそうです。「ピエタ」よりやや遅い1470年代に描かれたもの。マンテーニャからの影響を見事に払拭させた1枚とも言われています。
物思いにふける聖母のややうつむき加減の顔の美しい事! 個人的には、一押しの作品。 -
ミケーレ・ダ・ヴェローナの「磔」は1501年の作品。ヴェローナのあちこちで彼の作品を見たのは、ついこの間だったのに、随分と時が流れたような気がします。
こちらは、サン・ジョルジョの修道院にあった作品で、彼のマスターピースと言われています。残念ながらボケていて、詳細が分からない(泣)・・・ -
これも大ボケで、普通ならオミットするところですが、1枚しか撮っていないので、雰囲気だけ。ジェンティーレとジョヴァンニ・ベッリーニ作「エジプトのアレキサンドリア広場での聖マルコの説教」(1507年以降)
兄のジェンティーレが1507年に亡くなった後、どこまで仕上げられていたのかは分かりませんが、弟ジョヴァンニが完成させた作品です。ジェンティーレはコンスタンティノープルに赴き、スルタンの肖像を描いた経験があるので、背後の風景に関してはジェンティーレによるものではないかとされています。しかし、ヴェネツィアのサン・マルコ広場にもとてもよく似ていますね。
演壇前の白いベールの女性達、そして白いターバン姿の男性達と、聖マルコの後ろに控えているキリスト教徒達の醸し出す雰囲気が対照的なのが興味深いです。 -
ブレブレが続きます(汗)! 珍しい聖人達「聖ヨブと聖ゴッタルドと共にいる聖母子」です。マルチェッロ・フォゴリーノの作品。
ヨブとは「旧約聖書「ヨブ記」の主人公で、豊かで、家族・友人にも恵まれた状況から一転してどん底に突き落とされるという、過酷な運命に翻弄されながらも神への信仰を貫き通した人物です。信仰の鑑のような人物ですね。絵の中で、彼にはひどい発疹が体中に出来ていますが、このことも「ヨブ記」の中に記されています。これも神への忠誠を尽くす男かどうか、神に試されたことの一環だったそうです。
一方、聖ゴッタルドは万年痛風で苦しんでいた聖人。病気を患っても神への信頼を失わず忠誠を保てば、必ずや神のご加護があるという、強烈なメッセージが込められている絵でした。1505年-08年頃。
上の絵は、聖ルイ(9世)と聖フランチェスコがキリストのモノグラムを捧げ持つもので、フランチェスコ・ボンシニョーリによる作品です。1506年頃。 -
ジャコポ・パルマ・イル・ヴェッキオ(1480年頃-1528年)の「聖ヘレナとコンスタンティヌス帝」には、他に聖ロッコ、聖セバスティアーノの姿がありました。
元々この絵はトリプテックとして描かれたもののようです。優れた色彩の豊かさがパルマの作品の特徴で、コンスタンティヌス帝のまとう鮮やかなピンクの衣装には度肝を抜かれました。
聖セバスティアーノは、いつもの彼よりも更に幼い印象ですねえ。1521年。 -
バルトロメオ・モンターニャ(1450年頃-1523年)の「玉座の聖母子と聖人達(聖アンドレア、聖モニカ、聖オルソラ、聖シジスモンド)」1499年。
どの顔にも笑みがなく、沈んだような表情が気になります。特に聖母子の手前にいる音楽天使3人の物憂げな表情は、音楽まで暗いメロディではないかと勘繰りたくなります。
他方、計算され尽くした見事な構図には脱帽。 -
もう1枚、バルトロメオ・モンターニャの「玉座の聖母子と聖フランチェスコ、シエナの聖ベルナルディーノ」1490年-91年です。
1812年、バルトロメオの出身地ヴィチェンツァのフランシスコ会の教会聖ビアージョ教会からブレラに移された作品です。この教会もまた、付設の修道院もろともナポレオンにより閉鎖させられた歴史を持っています。
緻密な遠近法が取り入れられていますね。バルトロメオの特徴かもしれませんが、この作品も背景が非常に無機質に感じられます。 -
ティッツィアーノの「悔悛のヒエロニムス(聖ジローラモ)」1555年頃。
生年月日がはっきりしていませんが、1576年に亡くなっているので、生まれたのは1488年から90年頃ではないかという説が有力です。少なくとも80歳は超えていた、当時としては非常に長寿な画家でした。
こちらは、ヒエロニムスを描いた絵によく登場する、シリアの砂漠での隠遁生活時代の1枚。右手には石が握られていて、彼の目の前にある岩は、上の方が大きく欠けています。彼は時にその石で岩を打ち、時に自らを打って、数々の誘惑に耐え、己の中の悪に立ち向かったんですね。ヒエロニムスの絵を見ると、いつも、人間どもの果てしなき己との闘いの歴史を思い浮かべます。
ヴェネツィアにあったサンタ・マリア・ヌオヴァ教会からブレラに移された作品です。 -
パオロ・カリアリと呼ぶよりは通称の方が有名なヴェロネーゼ(1528年-1588年)の「最後の晩餐」です。「ヴェローナ人」という通称が示す通り、ヴェローナ生まれで、主にヴェネツィアで活躍した、ルネサンス後期の画家です。1581年。
中央を縦に貫く太い柱で画面は二分割されています。いつもの「最後の晩餐」ではなく、立ち上がる人やしゃがみ込む人ありで、大宴会に盛り上がっているように見えます。人数も16人以上いそう。犬までいますよ。どう見ても宗教画には見えませんね。 -
ヴェロネーゼはこの絵を描く8年前にも、「最後の晩餐」を描きましたが、まるでヴェネツィアの祝宴のように見えるとクレームが付き、タイトルを「シモーネの家での饗宴」に変更した経緯があります。これがその問題の1枚。1573年。
上の絵と共通点があって、見ているものをにんまりさせます。ヴェロネーゼはかなり頭が切れる人物だったようです。今まで見て来た「最後の晩餐」とはまるで異なりますねえ・・・ -
もう1枚はヴェロネーゼの「キリストの洗礼と誘惑」The baptism and the temptation of Christです。1582年。
こちらは、かつてヴェネツィアのサン・ニコロ・アイ・フラーリ教会にあった絵です。左側にはキリストの洗礼の様子が描かれていますが、右側のキリストと腰をかがめた老人の姿は何を表わしているのでしょう? ウィキペディアによると、「洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の誘惑を受けた。」とあります。いわゆる「荒野の誘惑」と呼ばれているものです。これは、悪魔がキリストに地球という王国の提供を囁かれている場面だそうですよ。 -
ヴェネツィアの絵画の巨匠たちの中でも、忘れてはならない一人ティントレット(1519年-1594年)作の「聖マルコの遺体の発見」です。
ヴェネツィア サン・マルコにある同信会館(スクオーラ・グランデ)のホールのために描かれた1枚です。福音記者の一人マルコは、初代の司教となったアレキサンドリアで殉教しました。
828年、ヴェネツィアの商人二人がアレキサンドリアで聖マルコの遺体を発見、苦労しながらもヴェネツィアに聖遺物を持ち帰ります。サン・マルコ寺院のファサードにあるモザイクに、その物語が綴られていましたね。
画面では彼の持つ独創性が遺憾なく発揮されています。死者を蘇らせたり、盲人の視力を回復させたり、悪魔を追い払ったり・・・は聖マルコの持つミラクルパワー。左側に立っているのが聖マルコ本人で、その傍で跪いているのが注文主だと言うのは分かりましたが、今墓から引きずり出されているのは一体どなた? 右側の女性は?
もう少し解説が必要でした。私の理解能力を遙かに超えていました。 -
ティントレットの「十字架を崇める聖人たち」。16世紀後半の作品で、ミラノのサンタ・クローチェ教会から移された作品です。
確認できる聖人は、聖エレーナ(ヘレナ)、聖バルバラ、聖アンデレ、そして聖マカリオ。手前で跪いているのは寄進者たちです。320年に聖ヘレナがキリストが磔にされた十字架を発見した時のエピソードを元に描かれていますが、彼女以外の聖人達がどう関わっていたのかがよく理解できませんでした。アンデレ以外は聖エレーナと同一時代に生きていた人達です。 -
上はティントレットの「ピエタ(または十字架降下)」1563年頃。
元々、ヴェネツィアのサン・マルコ広場の三辺を構成する政庁(プロクラキエ)中庭の扉上を飾っていた作品でした。風雨に晒され、ダメージを受け、1590年頃には画家本人が修復を手掛けています。その後は室内へと移され、1808年にブレラへやってきました。
下はヴェロネーゼの「ゲッセマネの祈り」1583年-4年。光が当てられているのはキリストとその体を支える天使のみで、眠っている彼の弟子達(使徒達)は、闇の中。目を凝らさないと見ることが出来ません。 -
ジョヴァンニ・ジローラモ・サヴォルド(1480年-1548年)の「栄光の聖母子と天使、聖人達(ピエトロ、ドメニコ、パオロ、ジローラモ)1524年-26年。
ルネサンス最盛期にフィレンツェやヴェネツィアで活躍した画家です。流行に左右されず、冷静にリアリズムに徹し、専ら宗教画を描いたという、彼の性格がにじみ出ているような1枚です。 -
モレット(1497/98年-1552年)の多翼祭壇画「聖母被昇天と聖マルコ、聖ヒエロニムス、アレッサンドリアの聖カテリーナ、聖キアーラ」そして「聖フランチェスコ」です。1529年-30年。
オリジナルは、上下の並びが逆で、上の聖フランチェスコの左右にも聖人画がありましたが、その2枚は美術館同士の交換(ヴァン・ダイクやルーベンス、レンブラントらの作品)により、現在ルーブルにあります。モレット自身も制作に加わっていたという全体を繋ぐ木枠は今でもロンバルディア州ブレスチア県にあるサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂に保管されているそうです。
メインとなるのは、四人のプット達に支えられてまばゆい光の中、雲に乗る聖母の姿です。10代の娘のように初々しい・・・
今まで見て来た聖母被昇天の場合、使徒たちが空を見上げて聖母を見送る姿が多いのですが、この祭壇画は違いました。左側には、聖パオロと聖ヒエロニムスがいますが、聖ヒエロニムスは読書中。右側の二人、聖キアラは自身が持つ聖体顕示台に目を注ぎ、聖カタリナは明後日の方向を見つめているように見えます。面白い!
上段の聖フランチェスコの場合も左右のパネルがありませんが、全く同じ状況なのだそうですよ。彼は山々が連なる、多分アッシジの風景の中に立っています。そう言えば、上下の作品を入れ替えれば、フランチェスコだけ地上に、後の聖母と聖人たちは空に浮かんでいるようにも見えます。もう少し、配置を考えてもらいたかったなと思いました。 -
どうやら1枚ずつ優雅に鑑賞する時間はなかったらしく、閉館時間を気にして4枚の絵画を一度に撮ったような記憶。ここでは作品名と画家の名前だけを以下に記します。
右上ジローラモ・ロマニーノ(1485年頃?1566年頃)の「聖母子」。1517-18年
右下モレットの「聖母子と天使」。1540年。
左上イル・ポルデノーネ(1483/84年‐1539年)の「キリストの変容」
左下ロレンツォ・ロット(1480年-1556年)の「聖母被昇天」1512年頃。 -
ジョヴァンニ・カリアーニ(1485/90年-1547年)のマスターピースと言われている「玉座の聖母子、天使達と聖人達」です。1516年-17年。ベルガモ郊外ロンノの町にあるアウグスティン会聖ゴッタルド教会で主祭壇を飾っていました。
沢山の聖人達が描かれていて、本家本元のアウグスティヌス(聖アゴスティーノ)、聖アポロニア、聖カテリナ、聖ヨセフ(ジュゼッペ)、聖グラタ、聖フィリッポ・ベネッツィと聖バルバラと盛り沢山。聖母への深い献身が、アウグスティン会の会則の一つだそうで、アウグスティヌスは繰り返し、聖母の神母性と処女性を統合して、慈愛に満ちた母の姿を教会のシンボルとしました。 -
ボニファーツィオ・ディ・ピターティまたの名をボニファーツィオ・ヴェロネーゼ(1487年-1533年)はヴェローナ生まれのルネサンス期の画家。ジョルジオーネやティッツィアーノの影響を受けたと言われています。こちらの「モーゼの発見」は、長い間、ジョルジオーネの作品だとされてきたそうですよ。
籠に入れられ、ナイル川に流された赤ん坊のモーゼを救い上げたのは、皮肉にもヘブライ人の男児を殺すよう命令したファラオの娘でした。前にどこかで書きましたね。
この絵を見る限り、エジプトらしさはまるでありません。ヴェネツィアの上流階級の衣装を身にまとった人々が、狩りの最中のティ・ブレークで集まってきたような場面に小さな赤ん坊の姿があります。 -
もう1枚ボニファーツィオ・ヴェロネーゼの「キリストと姦通女」です。これも有名なお話の一つで、以前書いたような記憶があります。
左から二番目に描かれた、眼鏡を拭いている老人の存在が気になります。キリストを試そうとした律法学者の一人でしょうか? -
続いては、肖像画を多く残しているヴェネツィアの画家ロレンツォ・ロット(1480年-1557年)の2枚です。
ロットはヴェネツィア出身ながら、生まれ故郷より他の北イタリアの町で過ごした期間が長く、町から町へパトロンを求めて渡り歩きました。そのため、多くの町の博物館、美術館に彼の絵が展示されています。生前の彼に対する評価は不当に低く、晩年には生活にも困っていたようです。
左は「ラウーラ・ダ・ポーラの肖像」。1533年-34年。
右「フェーボ・ダ・ブレーシャの肖像」。
どちらの絵にも、初代イタリア王国国王ヴィットリオ・エマニュエーレ2世からの贈り物 1860年と書かれていました。 -
パルマ・イル・ヴェッキオ(1480年-1528年)の「東方三博士の礼拝」。1525年頃の作品。
ベルガモ近郊からヴェネツィアに出てきたパルマはティッツィアーノの影響を強く受けます。同じく彼の弟子だったロレンツォ・ロットと交流があり、好敵手同士だったとも言われています。
分からないのは、聖母子の背後で十字架を抱えている女性。一体誰? この人が一番大きく描かれているような気がします。 -
ここで一旦常設展示が終わっていて、何故か時代を一気に下って20世紀へとやって参りました。特別展が開かれていたのかどうかの記憶はまるでないのですが、ある種の企画展だったのでしょう。私好みのスタイルだったので、迷わず寄り道。
こちらは、アルベルト・サヴィニオ、またの名をアンドレア・デ・キリコ(1881年-1932年)という芸術家の1枚。「約束の都市」La cite des promesses。1928年の作品です。わざわざ芸術家としたのも、この方大変な多才で画家、音楽家、ジャーナリスト、エッセイスト、デザイナー、劇作家、作曲家といくつも肩書を持っているからです。わずか51歳で亡くなっていますが、その間に少なくとも5つのオペラ、47冊の本を仕上げたそうですよ。
この絵は彼がパリに滞在中に描かれたもの。そのため、タイトルはフランス語で付けられていました。この絵が発表される1年前に、彼はパリで初めての個展を開いています。 -
後の3枚は、いずれもウンベルト・ボッチョーニ (1882年-1916年)の作品です。彼はアナーキストで、マルクスに傾倒。イタリア未来派運動の主要なメンバーでした。1902年からパリ、1907年からはミラノを活動の場としていました。
こちらは彼の代表作の一つ「アーケードの戦い」。1910年。
舞台はミラノのガッレリアのようです。この作品を描いたのと同じ年に、彼は「未来派画家宣言」を発表しています。 -
ボッチョーニ2枚目は「自画像」。もうじき30歳になる頃に描かれた1枚。彼は第一次大戦でロンバルディア義勇軍に入隊。訓練中に落馬して、わずか33歳で亡くなっています。
沢山の色を駆使した画法にうっとりです。 -
ウンベルト・ボッチョーニの最高傑作の一つ「起き上がる都市」です。町は燃えているか? 燃えています!
およそ100年前の前衛芸術と呼ばれた作品は、彼の死後も多くの人を導いたと言われています。
ハイ、それでは16世紀に戻るとしましょう。 -
第二部? は、こちらの教会のフレスコ画から始まります。
ミラノのサンタ・マリア・パチェ教会内聖ヨセフ(ジュゼッペ)礼拝堂にあったフレスコの主な部分を剥ぎ取り、移設したものでした。画家は我らがベルナルディーノ・ルイニ! 1520年-21年にかけて制作されました。
壁や天井は、キリストの養父ヨセフとマリア、そしてマリアの両親ホアキムとアンナの物語、シビュラ、預言者、ダヴィデ、ソロモンなどのフレスコで覆われていました。 -
礼拝堂のヴォールト部分です。
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祭壇向かって左壁には意味ありげに指さしているシビュラ、ヨアキムへの受胎告知(マリアを授かるお告げ)、金門でのヨアキムとアンナの再会、そしてマリアの誕生 が描かれていました。
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向かって右側の壁、奥から物語が続きますが、珍しかったのは、「マリアの神殿へのお披露目」の次に「マリアの神殿での子供時代」「神殿からの別れ」という2枚の絵があったこと。このテーマはお初でした。
ルイーニの描く女性像はやはり、額と鼻が独特で、レオナルドとの共通点がありそうですねえ・・・ -
こちらの2枚はいずれもマルコ・ドッジョーノ(1470年頃-1549年頃)とジョヴァンニ・アゴスティーノ・ダ・ローディ(1470年頃-1519年)の共作で、右「キリストの洗礼」、左「東方三博士の礼拝」です。
マルコ・ドッジョーノはレオナルドの工房の筆頭弟子だし、レオナルドと間違えられるほどのスケッチの技量を持ったジョヴァンニ・アゴスティーノ・ダ・ローディのことですから、レオナルドファンとしてはこの2枚は見逃せません。 -
イル・ブラマンティーノことバルトロメオ・スアルディ(1465年頃-1530年)の「磔刑」です。1510年頃。
この絵で注目したいのは、キリストの十字架の両側で向かい合う天使の姿。そして、光が入ってしまって、見にくいのですが、その上で輝く二つの月。そこには画面下部分とは全く異なった世界が広がっていました。 -
レオナルドの影響を受けた画家の中では最年長のヴィンチェンツォ・フォッパ(1427年頃-1515年頃)の「聖セバスティアーノの殉教」です。1489年頃の作品と言われています。
この作品はブレラ宮殿の建築のために一部取り壊されたサンタ・マリア・イン・ブレラ教会にあった祭壇画で、セバスティアーノは立派なコリント式の柱頭のある緑色をした円柱に繋がれています。弓を射る場所としては適切ではない左側のアーチに三人の射手の姿が! 彼らはおそらく15世紀の服装だと思われますが、当時の風俗を知ることが出来てなかなか興味深い1枚でした。 -
続いてもう1枚ヴィンチェンツォ・フォッパの作品から「聖母子と洗礼者聖ヨハネと福音記者聖ヨハネ」別名カーペットの聖母Madonna del Tappeto 。1485年。こちらもサンタ・マリア・イン・ブレラから移されたものです。
聖母がカーペットの上で幼子を遊ばせている? 場面からタイトルが取られたようです。左右の両ヨハネは珍しく跪いていますね。
下の1枚はベルナルディーノ・ブティノーネ(1473年‐1510年)の「聖母子と聖レオナルドとシエナの聖ベルナルディーノ」。1484年。
飛び出るように大きな瞳が特徴的な画家ですね。これはトリプテックで、中央部分には聖母子と印象的な天使の姿がありました。ミラノのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のために作られたものだそうです。 -
続いても、ヴィンチェンツォ・フォッパの多翼祭壇画(ポリッティコ)「聖母子と聖人達」です。1500年-10年。
下段の裾絵(プレデッラ)を入れると三段立てになっていて、大変豪華。中段中央の聖母はややふくよかで無表情。左右の音楽天使達が聖母に王冠を授けています。
中段左側には「聖ヒエロニムス」、「聖アレッサンドロ」、右側には「聖ヴィンチェンツォ」、「パドヴァの聖アントニオ」。三段目の左側には「聖キアラ」、「聖ボナベントゥーラ」、右側には「トゥールーズの聖ルイ」、「シエナの聖ベルナルディーノ」。そして中央には、聖痕を受ける聖フランチェスコ。その上には祝福を送るキリストの姿がありました。
この祭壇画は、ベルガモのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会から20世紀初頭にブレラに移されたもので、ナポレオンの教会抑圧の後、バラバラになっていたものが、ブレラで再会を果たしたのだそうです。
見たところ古典的な描写が多く、レオナルドの影響はさほど感じません。制作時もうすでに一定のスタイルを確立していたフォッパによる完成度の高い作品だと思いました。 -
こちらは、スフォルツァ家の祭壇のマエストロMaestro della Pala Sforzescaによる「スフォルツェスカの祭壇画」です。
この親方(マエストロ)については、1490年から1520年ころにかけて活動した記録が残っていますが、その他については分かっていません。スフォルツァ家二代目のルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ )のために、1494年から5年にかけて制作されました。この祭壇画もヴィンチェンツォ・フォッパやレオナルドの影響が感じられると言われています。
聖母子の左右には教会博士達(聖アンブローズ、聖グレゴリウス、聖アゴスティーノ、聖ヒエロニムス)が並び、画面手前にはイル・モーロと彼の妻エステ家出身のベアトリーチェと子供達が跪いています。聖アンブローゼがイル・モーロの肩にそっと手を触れ、キリストの幼子もそれを祝福しているように見えます。イル・モーロにとっては最高の瞬間が演出されていますね。 -
ピエトロ・グイド(生年月日不詳 1490年から1540年頃にかけて活躍)の「聖母子と天使達、聖人達の祭壇画」です。不吉な前触れと言われるツグミと遊んでいる幼子を抱いた聖母の左右には、洗礼者聖ヨハネと聖ヤコブの姿。上段には福音記者達、そして中央には磔の場面が描かれていました。16世紀初めの作品ということしかわかっていません。
祭壇画の上の絵はジョヴァンニ・マルティーノ・スパンツォッティ(1455年頃-1528年)作で左が聖アンデレ、右がアレキサンドリアの聖カテリナと聖セバスティアーノです。1496年。 -
ベルナルディーノ・ツェナーレ(1460年‐1526年)の「受胎告知」は、夢見るようなマリアの表情が印象的です。1510年-1512年。
ツェナーレは彼の故郷トレヴィーリオの聖マルティノ教会で人生最初の大作の祭壇画をベルナルディーノ・ブティノーネと共に1485年に仕上げています。以来ブティノーネとのコンビで仕事をこなしていきますが、1500年頃を境に作風ががらっと変わり、それ以降はレオナルドの影響が強く感じられるスタイルになっています。
こちらの受胎告知は、奥の壁に描かれたモノクロの画中画? も楽しめますよ。 -
何枚か前にジョヴァンニ・アゴスティーノ・ダ・ローディとの共作があったマルコ・ドッジョーノの「三人のアークエンジェル達」です。こちらもミラノにあったサンタ・マリア・デッラ・パチェに残されていた祭壇画です。1516年頃。
ドッジョーノは繰り返し、レオナルドの「最後の晩餐」のコピーを描いたことでも知られています。贋作画家としてはぴか一の腕前で、その一番出来の良い1枚は現在ハーグのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツに収蔵されています。 -
これからの2枚の写真は、ガウデンツィオ・フェッラーリ(1480年-1546年)の「ヨアキムとアンナの伝説からの場面が描かれた祭壇画」です。フレスコをキャンバスに移したものだそうですよ。1545年。サンタ・マリア・デッラ・パチェ教会から移されたもの。
彼の絵には、レオナルドやレオナルドの直接の弟子ブラマンティーノ等の影響も感じられますが非常に限定的で、豊かな独創性が感じられます。
上段は「受胎告知」と「神殿へのお供え」。下段にはアンナとヨアキムが複数登場しています。中央は天使から「受胎のお告げ」を聞いたアンナと「金門での再会」が一緒に描かれているような気がします。右は「神殿を追い出されたヨアキム」ですね。 -
ガウデンツィオ・フェッラーリの多翼祭壇画の続きです。左側にあるのは、マリアの「神殿へのお披露目」。右側は、「東方三博士の礼拝」「賢者(三博士)達の行進」です。
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イチオシ
ガウデンツィオ・フェッラーリの「聖母子」。1514年-20年。
この聖母子像、かなりお気に入りです。目の覚めるような赤い衣をまとった聖母は気品ある和やかな表情をしています。 -
宗教画からがらりと変わって、ヴィンチェンツォ・カンピ(1530/35年-1591年)の「果物売り」です。1578年-81年。
ヴィンチェンツォ・カンピは後期ルネサンス期に主にクレモナを中心に活躍した、北部イタリアでは初のフランドル風写実画家と言われています。
エプロンに山ほどの桃を抱えた若い果物売りは、宝石のように輝く大地の恵みに囲まれて、なんて生き生きとしているのでしょう!さりげなく置かれたアンティチョーク、アスパラ、緑の豆も美味しそう。豊かな農村の一場面ですねえ。 -
ヴィンチェンツォ・カンピの2枚目「鳥肉売り」です。1590年-91年。
彼の父はルネサンス期の画家ガレアッツォ・ カンピで、一族揃って画家の家系です。マニエリスムの影響を受けた兄弟達と同様の仕事もこなしていますが、ある時期、ヴィンチェンツォはアントワープの画家達の描いた絵を偶然目にして衝撃を受けます。
こちらの絵も呆れるほど写実にこだわっています。一般庶民を対象とした絵にはイタリアではパトロンもつかないのか、これらの絵はアウグスブルグの富豪フガー家の依頼によるものです。 -
ヴィンチェンツォ・カンピの3枚目「台所」。1590年‐91年。これを見ていると、イタリア人の食生活は、今に劣らず、昔からバラエティに富んでいたことが良く分かります。
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ジョヴァン・パオロ・ロマッツォ(1538年-1592年)の「自画像」です。1568年頃。
画家として非常に有能だった彼は1571年に失明し、その後は執筆に転向。マニエリスムを生み出した世代に関する美術理論を展開させた著書を残しています。 -
アルトベッロ・メローネ(1485年頃-1543年)の「ある女性の肖像」。1510年-15年。
ヴィンチェンツォ・カンピと同じクレモナの出身。典型的なロンバルド・マニエリスム・スタイルの画家です。モデルとなった女性については、諸説ありますが、はっきりしていません。絵の背後にある建造物は、クレモナの北東部にあるプレシアの要塞だそうです。 -
ピエトロ・アラマンノ(生年月日不詳 1475年‐1498年頃活動の記録あり)の「モンテルッピアーノの多翼祭壇画」です。1475年-80年。
祭壇画は全て揃った状態でブレラが所蔵していますが、ご覧の通り、歯抜け状態でがっかりしました。何の説明もなかったけれど、修復中だったのでしょうか?
彼はイタリアとオーストリアの血を引いていて、現在のオーストリアで生まれました。アラマンノというのは、ドイツ人という意味でしたっけ?
モンテルッビアーノはマルケ州の小さな町で、1475年頃から彼はその町を中心に活動していました。
中央の「玉座の聖母子」、その上のベゼルには「キリストの復活」を見ることが出来ました。彼の作品の多くが湿気対策が不十分だったために、修復を必要としていると聞きました。 -
フランチェスコ・ツァガネッリ(1484年-1532年)もしくはフランチェスコ・ダ・コティニョーラの「十字架を担ぐキリスト」です。彼は主としてパルマ、およびラヴェンナで活躍しました。1510年-20年。
大胆な構図です。鮮やかな血の色をした服にキリスト自身の血が滴り落ちる様が目に焼き付いて離れません。背景の岩山と空を覆いつくす樹木も鮮烈です。 -
フィリッポ・マッツォーラ(1460年頃-1505年)の「ある男の肖像」1480年-89年。
あまり馴染のない名前の画家ですが、ルネサンス期にパルマとピアチェンツァで主に活躍しました。彼の最も注目すべき作品は、ピアチェンツァ近郊の町コルテマッジョーレの大聖堂の多翼祭壇画です。ペスト流行時に、40代半ばで亡くなっています。 -
モントヴァ出身のロレンツォ・レオンブルーノ(1489年-1535年)の「寓意像」Allegoria della Calunnia(Fortuna)です。1523年頃。
中傷またはフォルトゥーナ(占い)のアレゴリーと言われても、正直言って宗教画以上に難解な分野です。ほぼセピア色一色の画面には、頭の上に名前が付けられた大勢の寓意像達が動き回っています。
お話は古代ギリシャの有名な画家アペレスの絵画を元に2世紀の作家ルチアーノが書いた話を再現しているのだそうですよ。説明が欲しいなあ・・・ -
ロレンツォ・コスタ・イル・ヴェッキオ(1460年頃-1535年)の「東方三博士の礼拝」。1499年。この時期の画家の数はルネサンス期ということもあり、半端でなく多いですね。
この絵は元々は、ボローニャのサンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディア教会内の祭壇画のプレデッラでした。メインの部分はフランチェスコ・フランシアによって描かれた「キリストの聖誕と聖人達」というテーマだったそうです。
三博士の後に続く礼拝の長い行列は、賢者たちの随行者でしょうか? 様々な肌の色の人々やラクダや馬などを見ていると、時間が経つのを忘れてしまいます。 -
フランチェスコ・デル・コッサの「聖ピエトロと洗礼者聖ヨハネ」は修復中でした。
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イチオシ
ルカ・シニョレッリ(1445年頃-1523年)の「キリストの鞭打ち」です。この絵は、ファブリアーノにある教会の祭事パレード用に表裏両面に絵が描かれたうちの片面ですが、1811年、ナポレオンにより教会が廃止となり、ブレラにやってきたときにはすでに分かれていたそうです。制作年は、1480年から83年頃と考えられています。
相変わらず、筋肉の描写力が半端ではありません。何度も何度もデッサンを繰り返し、人の筋肉の動きをつぶさに観察した人でないと表せない迫力があります。特にこちらに背中を向けている二人の男性の背中に釘付けになりました。
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イチオシ
そしてこちらがもう片面の、ルカ・シニョレッリ作「ミルクの聖母」Madonna del Latteです。絵の依頼主は上記教会に属する慈善団体で、一般民衆に対し、いかに聖母が「母性」を尊んだかを見せつける狙いがあったようです。
こちらの絵は、上の1枚とは雰囲気が全く異なり、荒々しさの全くない柔らかで穏やかな空間です。まだ触れていなかったルカ・シニョレッリの世界を垣間見たように感じました。 -
もう1枚ルカ・シニョレッリの「聖母子と聖人達」。1507年。
聖大ヤコブ、聖シモーネ、聖フランチェスコ、聖ボナベントゥーラが聖母子を囲んでいます。元々はアンコーナの教会の祭壇画として描かれた、シニョレッリの個性が存分に発揮された大変魅力的な絵です。
4人の聖人達がいずれも本を手にしているのは何か意図があるのでしょうか? -
イチオシ
カルロ・クリヴェッリ(1430年頃-1494/95年)の作品で、上が「ピエタ」、下が「聖母戴冠」です。1493年。
いや~ たまげました! 初めてクリヴェッリの絵を目にして、失礼な言い方かもしれませんが、その精緻な画法、陶器のように滑らかな肌をした女性達、背景に描かれたビロードのような祭壇飾りに暫し見とれてしまいました。玉座の台座の装飾も素晴らしく精巧なもの。玉座から飛び出ているキリストと聖母の足だけが余計なもののように思えてなりません。ブラヴォー!!
玉座の二人の左右を洗礼者聖ヨハネと聖フランチェスコが固めていました。
「ピエタ」に描かれた4人の人物も、それぞれがそのベスト・ポジションに納まっていて、半月形のキャンバスを見事に使い切っていました。彼の晩年の作のようです。 -
イチオシ
クリヴェリの「蝋燭の聖母子」です。左側の絵は「聖ピエトロと聖パオロ」右側は「聖アンソヴィーノと聖ヒエロニムス」。ともに1488年‐90年。
マルケ州カメリーノ大聖堂のために描かれた多翼祭壇画の一部だそうです。絵の左下に蝋燭が1本置かれているところから、「蝋燭の聖母子」と呼ばれています。
豪華な衣装に身を包んだ聖母は、少し沈みがちな表情で、口を真一文字に結んでいます。玉座の背もたれの一部が果物がたわわに実る生垣のようになっていて、もいだ洋梨を幼子が手に持っています。彼の無造作に投げ出した足が全体の緊張感を和らげてくれているみたい・・・
左側の絵は半分破損していますが、眼鏡を描けて本を覗き込む聖ピエトロの姿がかろうじて確認できました。右端の聖ヒエロニムスは、大聖堂を捧げ持っていますが、この大聖堂1799年の大地震で崩れ、再建されたため、現在この絵の面影はありません。 -
上の「蝋燭の聖母子」の上部にはチマーザ(尖頭部)と呼ばれる部分があり、こちらの「磔刑」がその部分だとされていました。通常この部分の方が小さいのですが、この絵は大きい!!
最近の調査の結果では、この絵は多翼祭壇画の一部ではなく、異なる絵として描かれたという説が有力です。年代も少し早まって1485年頃とされています。
背景の空が分割され、途中から黄金色になっているのが意味深長です。よーく見ると、太陽らしい線が浮かび上がってきます。常緑樹が描かれている一方、白樺のような背の高い木々には1枚の葉もついていません。これも意味深長。
泣きながらキリストを見上げているのは、聖ヨハネとマグダラのマリヤでした。 -
イチオシ
クリヴェッリ最後は「玉座の聖母子」。同じカメリーノの聖ドメニコ教会にあったトリプティックです。「カメリーノのトリプティック」とも呼ばれています。1482年。
このトリプティックは、現在ブレラとフランクフルトのシュテーデル、そしてチューリッヒのAbegg Stocker Collectionに分かれて所蔵されています。
金箔を用いた豪華なパネルには、聖母子の他、聖ピエトロと聖ドメニコ、聖ヴェンナンツィオと聖ピエトロ・マルティ―レが描かれています。右端に立つ聖ヴェンナンツィオというのはカメリーノの守護聖人で、250年頃に15歳で殉教しています。あどけない顔! 彼が捧げ持っているのはカメリーノの町だそうですよ。
もうただただうっとりです。 -
ニッコロ・ディ・リベラトーレ・デット・アルンノ(長ーい! 1430年頃-1502年)の「カーリの多翼祭壇画」です。1465年。
彼はフォリーニョ出身で、ペルジーノやピントゥリッキオらと共に、ウンブリア・ルネサンスにおける数少ない画家の一人と言われています。
天使達に囲まれた玉座の聖母子の左側には、トローサの聖ルドヴィーコと聖フランチェスコ。向かって右側にはシエナの聖ベルナルディーノ、聖セバスティアーノ、余談ですが、このセバスティアーノの格好は、上のクリヴェッリの描いた聖ヴェンナンツィォによく似ていますねえ。
二段目中央には「キリストの聖体」。その左側には聖キアラ(三段目)、その下に洗礼者聖ヨハネと聖ピエトロがいました。
右上には、ヴェローナの聖ピエトロ、その下に聖ヒエロニムスとパドヴァの聖アントニオが描かれていました。三段目の両端だけ絵がない(見つからない?)ようです。
ニッコロは、15世紀前半のフォリーニョ派を確立。後にマルケ州に旅をして、ヴェネツィア派の絵を目にしてからは、作品に異なる文化や芸術の表現要素が加わりました。この絵を描いた以降のことですが、彼はカルロ・クリヴェッリからも大きな影響を受けています。 -
ジョヴァンニ・アンジェロ・ダントニオ・ダ・ボロニョーラ(またまた長い!!1443年-1476年)の「グアルド・タディーノの多翼祭壇画」です。上のものと雰囲気がよく似ていますね。グアルド・タディーノはウンブリア州にある小さな町です。
一段目は中央に聖母子、左から聖アゴスティーノ、アレキサンドリアの聖カテリナ、右側に行って聖アポロニア、そしてトレンティーノの聖ニコラ。
二段目は中央に磔刑、左から聖ピエトロ、聖ロレンツォ、そして右側に聖ヒエロニムス、聖セバスティアーノが描かれています。聖人も上のトリプティックと聖ピエトロ、聖ヒエロニムス、聖セバスティアーノが重複していました。
女性の顔がフィリッポ・リッピ風であると感じたのは私だけ? 彼はマルケ州カメリーノで意欲的に仕事をしており、カメリーノ市立美術館に作品が多く残されています。 -
ジョヴァンニ・バッティスタ・ベンヴェヌーディ 別名オルトラーノ(1487年頃‐1527年頃)の「磔刑と聖人たち」です。1517年‐20年。
フェッラーラ派の彼の作品は長い間、ガロファロのものだと混同されてきました。
オルトラーノ(庭園)というあだ名は、彼の父が庭師だったことによるものだそう。
キリストの十字架の足元には、左から洗礼者聖ヨハネ、マグダラのマリア、聖母、福音記者聖ヨハネ、そして聖ヒエロニムスの姿が描かれています。ここにまで来て本を読みふけっているヒエロニムスには驚いてしまいました。
そして、キリストの流した血を杯で受け止めている天使達にも少々度肝を抜かれました。カルチャーショックっていうものでしょうかねえ・・・ -
ドッソ・ドッシ(1486年頃-1542年)の「聖セバスティアーノ」です。1526年。
制作年を1526年としたのは、文書に残されていたわけではなく、この絵で表現されている聖セバスティアーノの力強いボディ、筋肉の表現などに、ミケランジェロからの影響が如実に表れ始めた時期だからなのだそうですよ。マニエリスム期に特有の手足の協調なども見られますが、古典的な構図ながら、とても新鮮に映りました。 -
エルコーレ・デ・ロベルティ(1451/56年-1496年)の「サンタ・マリア・イン・ポルトの祭壇画」です。1479年-81年。
この絵は、ラヴェンナのサンタ・マリア イン・ポルト教会から1811年にブレラに接収された作品で、ロベルティの最高傑作と言われています。
絵には聖母子の他、聖アンナ、洗礼者聖ヨハネの母エリザベッタが上段に、聖アゴスティーノと福者ピエトロ・デッリ・オネスティが両脇に配置されています。
玉座の台座部分に様々な絵(画中画?)があることに注目! プラデッラ部分には幼児虐殺、東方三博士の礼拝、キリストの初めての神殿へのお披露目が描かれています。
そしてその上には、嵐にけぶる海の彼方にサンタ・マリア・デル・ポルトの町が見え、教会の歴史(十字軍を乗せた船がここで座礁したが、命が助かったため、司令官がこの地に教会を建てることを約束したという話)を伝えています。 -
ニッコロ・ロンディネッリ(生年月日不詳、1490年‐1510年頃に活動の記録あり)の「ガッラ・プラチディアの前に現れた福音記者聖ヨハネ」です。1490年-1510年。
ロンディネッリはルネサンス期に活躍したラヴェンナ出身の画家ですが、彼の経歴についてはその多くが分かっていません。ヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニの弟子であったとされています。
聖母子のイコンの前に跪くガッラの美しいビザンティン風衣装に目が釘付けになりました。 -
ミケランジェロ・アンセルミ(1491/92年-1554/56年)の「聖ヒエロニムスとアレキサンドリアの聖カテリナ」です。
ルッカ出身のアンセルミについても、経歴の詳細は不明なようです。1500年頃ルッカからシエナに移り、画家としてのデビューを果たしています。その後はパルマで多くの仕事を行っています。
この絵はプレシアの聖フランチェスコ教会にあった聖ヒエロニムス礼拝堂の祭壇画で、プレシアのレキ・コレクションの1枚でした。 -
フランチェスコ・フランチャ(1450年頃-1517年)の「受胎告知」は1505年の作品。
画家というよりも、金細工職人、そしてボローニャ造幣局(ミント)の監督官という肩書もある多才な人物です。地元ボローニャの絵画館に沢山の作品が収蔵されていますが、ブレラにあったのはこちらの「受胎告知」です。
同じテーマながら、背景が皆異なるので見飽きません。静かな湖のほとりに小さな町が見えるこの絵の背景もなかなか。ガブリエルの背後の柱のフリーズもボローニャのポルティコを思い出します。聖霊の鳩の顔がいまいちかも?! -
わぉーと思わず叫んでしまったのは、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412年-1492年)の「聖母子とウルビーノ公モンテフェルトロ、聖人達の祭壇画」です。1472年頃。
ウルビーノには1443年~1631年まで、ウルビーノ公国という国があり、モンテフェルトロ家によって支配されました。この絵に描かれているのはウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロで、1444年~1482年まで国を治めました。絵はウルビーノのサン・ベルナルディーノ教会からブレラに移されたものです。
そうそうたる登場人物は聖母子の他、洗礼者聖ヨハネ、聖ベルナルディーノ、聖ヒエロニムス、聖フランチェスコ、ヴェローナの聖ピエトロ、福音記者聖ヨハネ、そして手前で跪いているのがフェデリコ・ダ・モンテフェルトロです。
ピエロ・デッラ・フランチェスカの「クールな」情熱が伝わってきます。 -
ペドロ・ベッルグエテ(1450年-1503年)の「墓の中のキリストと二人の天使」です。1480年。
ベッルグエテはバレンシア出身のスペイン人画家で、ルネサンス期に主としてウルビーノで活躍しました。これは彼が30歳の時の作品。83年以降は本国に戻り、パレンシアやブルゴスなどで多くの作品を残しています。
二人の天使のあどけなさが、逆にちょっと気味悪く感じてしまいそう。 -
もう少し撮り方に配慮すればよかったと、後で後悔した1枚。アレッツォ近郊にある町チッタ・ディ・カステッロのサン・フランチェスコ教会からの依頼により、ラッファエロ(1483年-1520年)が1504年が描いた「マリアの結婚」です。
何とも言えない気品に満ちたマリアと、幸いにも年若く描かれたヨセフが、大きな神殿前で指輪の交換をしています。
ヨセフの持つ細い棒に注目。マリアは神殿に預けられ育ちましたが、彼女が14歳になった時、大祭司は結婚適齢期の男性達に棒を持ってくるよう命じました。イザヤの預言によれば、棒の一つには花が咲き、聖霊が鳩の体を借りて休まれるのだそう。そしてその棒を持っている男性こそ、マリアの伴侶として相応しいとされたのです。
この棒の先に花が咲いているのは分かりましたが、ユリかどうかはちょっと確認が難しい・・・ 確かに周りの他の者達が持っている棒には何も見えませんね。戦いに敗れたことを知って、棒を膝を使って折っている輩もいました。 -
ドナート・ブラマンテ(1444年頃-1514年)の「柱に縛られたキリス」です。画家というよりはルネサンス期最高の建築家の一人と呼ぶ方が彼には似合っていますね。今日はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエのクーポラ、サン・タンブロージョ聖堂のポルティコ、サンタ・マリア・プレッソ・サン・サティーロの後陣等、ブラマンテ巡りをしてまいりました。
しかし、彼は年若いころマンティーニャの弟子となり、画家を目指したのだそうです。「柱に縛られたキリス」は彼の絵の中では一番知られた作品。1480年から90年頃、ミラノ郊外のサンタ・マリア・ディ・ロヴェニアーノ修道院のために描かれました。
落ちくぼんだ頬、眉間の皴等から、キリストの苦悩が痛いほど伝わってきます。背景に描かれているのは、そんな苦悩があることを忘れさせてくれる美しい景色でした。 -
ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ(1492円-1544年)の「アレキサンドリアの聖カテリナ」です。1520年-30年。
ソリアーニはフィレンツェ生まれで、宗教改革に対抗するカトリック・スピリットを扱った作品を多く手掛けています。笑みを浮かべたこちらの聖カテリナは、これまでの彼女のイメージとは若干異なる、柔和な雰囲気に満ちています。 -
ペリン・デル・ヴァーガ( 1501年-1547年)の「紅海を渡る」は1522年-23年にかけての作品。
彼は故郷フィレンツェではリドルフォ・ギルランダイオの弟子で、ローマではラッファエロの協力者でした。ローマで疫病が流行り、フィレンツェに戻ったヴァーガが描いたのが、こちらのモノクロの「紅海を渡る」です。大勢の人物が描かれるのが彼の絵の特徴で、寓話的な雰囲気に満ちています。 -
ペッレグリーノ・ティバルディ(1527年-1596年)の「洗礼者聖ヨハネの斬首」。
1556年。
聖カルロ・ボッロメオのお気に入りだったティバルディの比較的初期の作品。死刑執行人から平然と薄笑いを浮かべて、聖ヨハネの首を受け取るサロメの姿が印象的です。
洗礼者聖ヨハネの斬首ペッレグリーノ・ティバルディ(1527‐1596)の「洗礼者聖ジョヴァンニの斬首」(1556‐58) -
ジローラモ・ジェンガ(1476年頃‐1551年)の「無原罪の御宿りに付いての議論」は1516年‐18年頃にかけての作品。ウルビーノ出身の彼は、マルケ州にマニエリスム期の異なった文化圏からの建築や芸術を伝えた、有能な建築家でもありました。
こちらは聖アゴスティーノ教会の祭壇画として描かれたもので、4人の教会博士と聖人達の間に聖母子が座っています。右側で熱心に討論しているのはアウグスティヌスとヒエロニムス。聖母子の頭上には天の父なる神がいて、大勢の天使達が赤い布を持った大勢の天使達が浮遊しています。 -
もう一人、ウルビーノ出身の画家ティモテオ・ヴィティー(1469年‐1523年)の「受胎告知される聖母と洗礼者聖ヨハネと聖セバスティアーノ」です。大変ユニークな受胎告知ですねえ。1512年-20年。
彼は、同じウルビーノ出身のラッファエロが11歳の時、父親を亡くし、家族の助けを借りながら父親の工房を続ける姿を見て、絵の手ほどきをしたと伝えられています。 -
ガスパーレ・サッキ(生年月日不詳1517年‐1536年に活動)の「マギの礼拝」。1521年。
ボローニャ近郊のイモーラ出身のサッキは、同じイモーラ出身のインチェンツォ・ダ・イモーラと1枚上のジェンガに最も影響を受けたと言われています。同じ主題や構図の繰り返しが多い画家でもあります。 -
アニョーロ・ブロンズィーノ(1503年-1572年)の「ネプチューンに扮したアンドレア・ドーリアの肖像」です。ウフィツィ美術館で彼の絵を何枚か見た記憶。エレオノーラ・ディ・トレドとその息子の肖像画が印象に残っています。1545年-46年。
彼はメディチ家コジモ1世の宮廷画家として活躍しました。こちらの肖像の主人公アンドレア・ドーリアはルネサンス期の軍人、コンドッティエーレで、後に海軍提督となった人物。海の神ネプチューンのシンボル三又の矛(トリアイナ)を持った姿は、荒ぶる海を相手に戦う海軍提督に相応しいものだったのでしょう。 -
フェデリコ・バロッチ(1535年-1612年)の「サン・ヴィターレの殉教」です。1583年。ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂からブレラに移された祭壇画です。
彼もまたウルビーノ出身で、ジローラモ・ジェンガの息子バルトロメオに絵の手ほどきを受けました。後にローマに出向き、マニエリスムの画家タッデオやフェデリコ・ツッカリらと同じ工房で仕事をしています。ピウス4世に請われ、ヴァティカンでも絵画やフレスコを残しています。ライヴァルたちのやっかみから毒殺されかかるという事件の後、彼は故郷に戻り、生涯ウルビーノを中心に活躍しました。マニエリスムと対抗宗教改革芸術の旗手と呼ばれています。
彼の絵は柔らかな光、豊富な色遣いが特徴的。この絵は彼が亡くなった後の、次世代バロック期の画家達に強烈な影響を及ぼした作品と言われました。 -
いよいよ、その次世代の登場です。こちらは、ルドヴィコ・カラッチ(1555年-1619年)の「キリストとカナン人の婦人」です。 1594年-95年。
彼は従兄弟のアゴスティーノ、アンニーバレらと1585年、ボローニャに美術学校を設立。この学校(工房)がボローニャ派と呼ばれる画家たちを輩出する元となりました。
絵はキリストに助けを求めて来たカナン人の婦人の訴えを無視したばかりか、切り捨てた場面です。キリストの一見無慈悲に見える行動は、彼の説教の中でも難解なものの一つとされています。同じ頃、従兄弟のアンニーバレも、同じタイトルの絵を描いています。
上のトンドの絵はアンティヴェドゥート・グラマティカ(1571年-1626年)の「聖ネーレオと聖アキッレオと共にいる聖ドミティッラ」でした。3人とも知らない聖人ですねえ。 -
フランチェスコ・アルバーニ(1578年-1660年)の、銅の上にオイル絵具で描かれた「キューピッド達ののダンス」Danza degli Armoriniです。1622年-23年。
中央の高い木の周りをダンスするキューピッド達が誠に愛らしい! 木の上のキューピッドは楽器を奏でていますよ。
でも微笑ましいものばかりではなく、画面左端では冥府を司る神プルートに誘拐された春の女神プロセルピナの姿がカートの上にあります。画面右上方では、美の女神ヴィーナスがトーチを片手にキューピッドにキスをしています。そのトーチの火は、右側後方に見えるヴェスタ神殿に灯される聖なる火なのです。 -
アンニーバレ・カラッチ(1560年-1609年)の「キリストとサマリアの婦人」1594年-95年。
三人のカラッチの中でも特に秀でた画家として知られるアンニーバレの34歳の時の作品。上のカナン人の婦人、そしてここにはない、アゴスティーノ作の「キリストと姦婦」は、三人のカラッチがボローニャのサンピエリ宮殿のために描いたものです。
キリストがガリラヤに行く途中の町で出会ったサマリア人の婦人と言葉を交わした場面が描かれています。ヨハネによる福音書に登場するお話です。
上のトンドの絵はアンティヴェドゥート・グラマティカ(1571年-1626年)の「弟聖ティブリツィオ、夫ヴァレリアーノと共にいる聖チェチリア」です。1610年-20年。凄く美しい絵ですが、高い場所にあり、よく見ることが出来なかったのが残念。 -
お次はカラブリア州タヴェルナ出身のマッティア・プレティ(1613年-1699年)の2枚です。上が「賛辞金を支払う聖ピエトロ」。1635年-36年。下が「子供たちをキリストに委ねる母」。これも同時期に描かれたものです。
上の絵の舞台はカペナウム。ガリラヤ湖畔にあった町です。賛辞金というのは、神殿に入るためのいわば入場料かお布施のようなもの? で、背中を向けたピエトロが左から2番目の人物=税金徴収師にそのお金を支払っているところです。
下の絵は、タイトル通り、左の白い服を着た夫人が自分の息子達をキリストの方に押しやって、彼に託そうとしています。キリストの表情はよく見えませんが、彼が子供を拒否することはありませんでした。「子供たちが私の所に来るのを止めるな。彼らは天の王国に属しているのだから」と弟子達に伝えたとマタイは福音書に書き記しています。
2枚の絵を見て、誰もが気付くのは、絵全体を包むカラヴァッジョの存在。彼のカラヴァッジョへの強い傾倒は生涯変わることはありませんでした。プレティは聖ヨハネ騎士団の一員で、ローマ、ナポリ、マルタで活躍し、多くの作品を残しています。 -
イチオシ
大御所登場です。カラヴァッジョ(1571年-1610年)の「エマウスの晩餐」です。2016年に上野で開かれたカラヴァッジョ展にも出品されていました。1605年-06年。
この絵が描かれたのは、丁度彼がローマで殺人を犯して逃亡する前後の頃です。絵を買い上げた貴族の屋敷に1939年の段階でまだ残っていたのを、ブレラ財団が購入したのだそうです。彼の絵をどのように言葉で表現しても陳腐に聞こえそうです。この絵においても光と影の扱い方が半端でなく、ただただ圧倒された瞬間でした。 -
オラツィオ・ジェンティレスキ(1565年‐1638年)の「三殉教聖人(聖ヴァレリアーノ、聖ティブルツィオ、聖チェチリア)」。1607年。
ローマのサンタ・チェチリア聖堂からの依頼で書かれたという記録がコモの図書館に残っているそうです。三人の元に天使が舞い降りた瞬間を描いています。純白の衣をまとった天使がチェチリアにリースを手渡そうとしていますね。
ジェンティレスキはカラヴァッジョからの影響を受けた画家の一人。彼と一緒にどんちゃん騒ぎをやらかしたこともあると聞いています。 -
チェチリアが続きます。ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ(1574年-1625年)の「聖チェチリア」です。1620年-25年。
首筋から流れる血で胸元を深紅に染めたチェチリアが、天使達に抱きかかえられている場面。彼女の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいます。
以前はパヴィアのイエスズ会の教会に置かれていた、2枚でペアの祭壇画の一部。もう1枚には聖ヒエロニムスが描かれていました。 -
ジョヴァン・バッティスタ・クレスピ(1576年-1633年)別名 イル・チェラーノの「ロザリオの聖母」です。1620年。ミラノが生んだ対抗宗教改革時代の巨匠ですね。
ローマ門近くにあったドメニコ会修道院の外にあった死者のための礼拝堂の祭壇画として描かれました。画面ではドメニコ会には付き物のロザリオの聖母子がピラミッドの頂点に立ち、周りを聖人達が取り囲んでいます。左側で頭を垂れているのが聖ドメニコ、右側は聖母にユリを捧げている聖カテリナ。そして幼子は彼女の頭に王冠を被せようとしているところです。その仕草がとても可愛らしい・・・ -
こちらの絵は上のクレスピ、ピエル・フランチェスコ・マッツッケッリ(イル・モラッツォーネ)そしてジューリオ・チェザーレ・プロカッキーニという3人の手による1枚で、「聖ルフィーナと聖セコンダの殉教」です。1620年-24年。
ルフィーナとセコンダは共にローマの生まれで、皇帝ウァレリアヌスの迫害により287年に殉教しています。伝説によれば、彼女たちはローマの元老院議員アステリウスの娘で、彼女たちの婚約者は迫害が始まった時に信仰を捨てたとのこと。どうやらテレベ川で首に重りを付けられて溺死させられたらしいですよ。
右下にいるルフィーナはまだ生きていて、暗闇の中にきらりと光る死刑執行人の剣が迫ってくる直前のようです。 -
ダニエーレ・クリスピ(1598年-1630年)の「最後の晩餐」です。1629年-30年。
ダニエーレについてはイル・チェラーノと同じくクレスピ家の一員であること以外、殆ど何もわかっていません。彼は1630年に大流行したペストのため、32歳で亡くなっています。
古典的な配置の最後の晩餐ですね。誰の目にもユダが誰なのかが分かるように描かれています。ヨハネがキリストの胸に抱かれて眠っている姿も伝統的な配置。誰だ?! 右側でナイフを振り上げているのは??? -
タンツィオ・ダ・ヴァラッロ(1582年-1633年)の「長崎における二十六聖人の殉教」。1625年-32年。
長崎での26人の殉教者については、国内より外国でのほうが有名です。スペイン人4人、メキシコ人1人、インド人1人(全てフランシスコ会の宣教師)と3人の日本人イエスズ会会員、3人の少年を含む17人の日本人信徒が十字架に縛り付けられた後、槍で突かれて殉教しました。画家が見たことのない長崎の景色ですが、あまり日本らしさは感じられませんね。
タンツィオ・ダ・ヴァラッロは聖カルロ・ボッロメオの登場と対抗宗教改革の時代の精神的な遺産を受け継ぎ、様々な方法で表現を展開した画家として20世紀後半になってから再評価されています。 -
ピエトロ・ダ・コルトーナ(1596年‐1669年)の「聖母子と聖人たち」です。1629年頃。
ローマでよくお目にかかったピエトロ・ダ・コルトーナにここで再会しました。エキゾティックな聖母子の周りを、洗礼者聖ヨハネ、カンタリーチェの聖フェリーチェ、聖アンデレ、そしてロザの聖カテリナが取り巻いています。聖フェリーチェと聖カテリナについては、全く存じ上げない聖人です。 -
ルカ・カンビアッソ(1527年-1585年)の「羊飼いの礼拝」あるいは「聖誕」です。どちらだったか失念。
変わった構図ですね。幼子そのものが光を発しているかのようです。赤子を覗き込んでいるのは、聖母、ヨセフ、そして羊飼い達でしょうか? 羊の横に見える大きな牛の顔が一番印象的でした。
ルカ・カンビアッソは晩年、スペインのフェリペ2世の宮廷画家として、エル・エスコリアル修道院内のフレスコと絵画の制作に携わりました。大変な重労働だったようで、この仕事で彼は体を壊し、死期を早めたと言われています。 -
ミラノ出身のフェーデ・ガリツィア(1578年‐1630年)の「我に触れるな」は1616年の作品。
ミラノのサンタ・マリア・マッダレーナ教会の主祭壇を飾っていました。1798年に教会が解体され、その後はアッカデミア美術館を経て、サント・ステファノ教会に置かれていました。
キリストの足元に小さな紙(カードゥーシュ)が見えますか? 実はそこに画家の署名と日付が記されているそうですよ。この絵は私の好きなテーマなのですが、復活したキリストが身に着けているのが通常死体を包む白布だけな所に、画家のこだわりを感じます。 -
完全に17世紀に入りました。こちらは、ベルガモ出身のエヴァリスト・バスケニス(1617年-1677年)の「静物」です。英語名を見ると、Kitchen still Lifeとあります。台所の静物で良いのかしら?
彼は楽器を多く描いたことで有名で、人物画はありません。彼自身音楽を奏で、詩や文学、歴史にも造詣が深かったようで、そこには典型的なベルガモの上流階級の紳士象が浮かんできます。この絵には楽器とは程遠いものがたくさん並んでいますね。 -
フェリーチェ・ボゼッリ(1650年-1732年)の「静物」です。何故か私の撮ったのは、「静物」になってしまった「動物達」ばかりですね。
ボゼッリはバロック華やかりし頃のピチェンツァで活躍した画家で、100枚以上の静物画を描いていますが、その殆どが日常見かける鶏、豚、牛の頭、狩猟の獲物、魚等です。描写力が凄まじいので、ちょっと目をそむけたくなります。 -
フランドル(フレミッシュ)・アーチストの部屋に入りました。まずは、ペーテル・パウル・ルーベンス(1577年-1640年)の「最後の晩餐」です。1631年-32年。
最後の晩餐のテーブルの上に乗っているのはワイングラスだけ。キリストはパンを持って何かを話しています。 パンは「キリストの身体」、ワインは「キリストの血」。これがヨハネによる福音書第6章53節に記された、「人のこの肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」と語っている場面でしょうか。 -
フレミッシュ・アーチストのヤン・デ・ビア(1475年-1528年)の「聖誕、東方三博士の礼拝、エジプトへの逃避途中の休息」から成るトリプティックです。1515年頃の作品と言われています。
アントワープ出身のヤン・デ・ビアは画家兼ステンドグラス・デザイナーで大きな工房をアントワープで運営していました。このトリプティックに描かれた夜の闇を照らし出す光の演出は、1520年代のヴェネツィアの画壇に大きな影響を与えました。左側の聖誕の場面、何枚か前のカンビアッソの絵とは異なった効果をもたらしていますね。
トリプティックには裏側(外側)があり、そこには受胎告知が描かれているそうです。 -
ドイツのリューベックのマスター ヘルマン・ロデ(1468年-1504年)による「祈る男の肖像」です。1485年-86年。
リューベックにある工房のマスターとして、祭壇画を多く手掛けた画家という以外には殆ど知られていない人物です。ドイツだけでなく、彼の作品はスウェーデン、エストニアでも見られ、特にタリンにある聖ニコラス教会の祭壇は彼のマスターワークと言われています。現在はエストニアアート・ミュージアムに所蔵されています。 -
バロック期のフレミッシュ・アーチストの中でも著名なアントン・ヴァン・ダイク(1599年-1644年)の「アメリアの肖像」です。1630年-40年。
彼は天才ぶりを早くから発揮し、19歳でルーベンスの弟子となりました。彼は1621年頃にイタリアに渡り、6年間過ごしています。その間、イタリア各地を旅してまわりました。その後はご存知の通り、イギリスに招かれ、チャールズ1世の庇護のもと、大肖像画家としての道を歩みます。
アメリアとは、オレンジ公フレデリック・ヘンリーの妻で現ドイツのBraunfels伯爵家出身。 -
イタリアに戻って、時は更に進みます。ジュゼッペ・マリア・クレスピ(1665年‐1747年)、またの名スパーニョレットの「磔」です。1729年。
彼は宗教画や肖像画以外に風俗画も手掛け、現在では風俗画家として最も知られています。こちらはどう見ても宗教画ですねえ。ニックネームのスパーニョレットは「スペイン人」という意味ですが、これは彼がスペイン人が良く着るタイトな服を好んだからだそうです。出身のボローニャを中心に活躍しました。 -
17世紀以降のヴェネツィア派となると、あまり興味がないようで、何ですか? このおざなりな撮り方は!!
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ヴェネツィア派を5枚まとめて撮った中に、左から2枚目カナレット(1697年-1768年)の「サン・マルコの船だまりから波止場の眺望」(1740年-45年)と右から2枚目同じく「カナル・グランデのサン・ヴィオ広場からの波止場の眺望」1730年を発見!
中央の絵は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ(1682/83年-1754年)の「井戸にいるレベッカとエリエゼル」です。1735年-40年。創世記に出てくるアブラハムの嫁とり物語です。 -
ヴェネツィアの部屋3枚で終わりにしちゃった!
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この1枚だけ心惹かれました。グリエルモ・チアルディ(1842年‐1917年)の「マッツォルボのラグーナ」です。入道雲が湧き上がる暑い夏の日中に、ラグーナから船を出そうとしている二人の男性の後ろ姿にぞっこん!
主としてヴェネツィアの干潟とトレヴィッソの田園風景を描き続けた画家です。 -
ジュゼッペ・ペッリッツァ・ダ・ヴォルペード(1868年‐1907年)の「人間の洪水」。ミラノの1900年代美術館にある「The Fourth State(第四階級)」の原画の一つ。イタリアに於ける急進改革派や社会主義者達のシンボルとされています。1895年‐96年。
ペッリッツァの相続人から1986年になってブレラに寄贈された作品です。今まで見たことのないジャンルの絵で、1880年代後半から1900年代初頭にかけて、ミラノを中心に興った色彩分割画法(ディヴィジョニズモ)で描かれているそうですよ。 -
この作品がブレラで最初に公開された時には、大変な反響を巻き起こしたフランチェスコ・アイエツ(1791年-1882年)の「接吻」です。1859年。
多分アイエツの作品の中では最も知られている1枚。彼は1850年にブレラ美術館の部長に就任しています。それとは関係なく、この作品は依頼主のヴィスコンティ伯爵家子孫により、彼の死の直前の1886年にブレラに寄贈されています。
同じ構図の絵が何枚かあり、それぞれ背景や女性の衣装等に違いが見られます。中には水彩で描かれたものもあるそうです。この絵が最終ヴァージョンで、完成度も高そうです。 -
ジュゼッペ・ボッシ(1777年-1815年)の「3人の友人と自画像」です。1809年。
どれが、彼の自画像なんだろうと思い調べてみたら、どうも一番奥にいる、殆ど陰になっている人物がボッシらしいですよ。この人もブレラと関係があって、1802年から07年まで、ブレラの美術アカデミーの組織作りに関わっています。人生の大半をレオナルド・ダ・ヴィンチ作品の研究に費やしたことでも知られています。 -
イチオシ
こちらはかなり有名な作品、ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858年-1899年)の「春の牧場」。トレンティーノ生まれで、アルプスの風景を多く描いている画家です。彼の抱いている詩的な構想が一般の人々に最も受け入れられたこの作品を、彼自身とても気に入っていたと聞きました。
この絵もまた、色彩分割画法で描かれているそうですよ。作品を傍で眺めてみると、絵具を混ぜることなく、主要な色とその補色を組み合わせることによって生まれる写実的効果がよく確認できます。 -
イチオシ
ようやく最後の作品!! ガエターノ・プレヴィアティ(1852年ー1920年)の「ある乙女の葬式」です。1895年。
プレヴィアティも分割主義の信奉者の一人で、こちらは1895年のヴェネツィア・ビエンナーレに出品された作品。夕映えの中を果てしなく葬送の列が続きます。赤とも黄金色とも区別のつかない光が素晴らしい効果を生み出しています! 行列が正に目の前をゆっくりと通り過ぎていくような、そんな感覚に襲われいました。ちょっとした感動モノのフィナーレでした。 -
きっちり19時15分で美術館は閉められ、追い出されてしまいました。1時間半の滞在では少々急ぎ足となりましたが、旅の最後を飾るにふさわしい、充実した内容の連続で大満足です。
今数えてみたら、ブレラだけで120枚も写真をアップしていました。おバカですねえ・・・ -
名残惜しいけれど、帰らなきゃ・・・素晴らしい1日になりました。盛り沢山、感動の嵐、これだから旅は止められない・・・
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ナポレオンにも別れを告げます。あなたがいなかったら、ブレラはなかったし、もっと多くの作品がイタリアから流出していたかも。気持ちはちょっと複雑ですが、フランスに運ばれた作品もきちんと管理が出来ているという点では、感謝しなければならないのでしょうね。
以前、イギリス人が大英博物館にあるパルテノン神殿のお宝を返そうとしない理由に「彼ら(ギリシャ人)に、地球規模の宝物を管理する能力はない」を挙げていたけれど、ここに来て、少しだけその意味が分かったような気がしました。 -
パラッツォ・ブレラの外側を撮った1枚です。現在の建物は聖カルロ・ボッロメオの従兄弟で、ミラノ司教だったフェデリコ・ボッロメオお抱えの建築家フランチェスコ・マリア・リキニの設計によります。工事は1615年頃から始まりましたが、ペストの流行により、何度も中断を余儀なくされ、いつ完成したのかの記載が見つかりませんでした。
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ブレラ通りをスカラ座方向に戻ると、すぐに右側に現れる建物は、ネオクラシカル様式のパラッツォ・クサーニ。クサーニ家の所有で、18世紀に二度建て直されています。何代か後の不肖の息子がギャンブルの借金で首が回らなくなり、イタリア王国に売却。以降は陸軍の本部やNATOの事務所等として使われています。
華麗な装飾が施されたファサードを見る限りでは、軍隊には全く似つかわしくない建物でした。 -
カルミネ通りを曲がると、程なく見えてきたのが夕日に映えるサンタ・マリア・デル・カルミネ教会。ファサードは、カルロ・マチアキーニにより1880年にネオ・ゴシック様式で建てられています。いかにもロンバルディアといった趣がありますね。
ファサードで目立つのは、恐ろしく手の込んだバラ窓と、その下中央扉のルーネット部分にあるモザイクです。聖母を中心に聖サイモン・ストックと天使が描かれていました。12世紀のカルメル会出身の聖人で、名前からもわかる通り、イギリス人でした! 珍しい! -
程なく、今朝出発したカドルナ駅に戻って参りました。
ここでいつもだったら、この続きは・・・と書くところですが、この後は慌ただしい帰国日の写真しかないので、もう少しだけ付け加えさせてください。 -
翌朝はパラッツォ・ミラネーゼからS4近郊線でBovisa駅を経由して終点カドルナへ。順調に空港へと向かうマルペンサ・エキスプレスに乗り換えることが出来て、「ふぅ、私ってもうミラノの達人ね」とほくそ笑んでいたのですが、最初に停まった駅名を見てびっくり! Bovisaでしたぁ! (´・ω・`)しょぼん・・・
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車内は思ったより混んでいて、ご覧の通り、重い荷物で溢れていました。
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マルペンサ空港に到着すると、絶景かな、白いアルプスの峰々が出迎えてくれました。空港の建物が邪魔だけれど、これ以上高い場所が見当たらない!
ずうずうしく、傍にいた人を捉まえて、中央に見える一番高い山の名前を尋ねると、「モンテ・ローザだよ。4700mあって、アルプスで二番目に高い山なんだよ。」と親切に教えてくれました。後で調べたら4634mでしたが、イタリア人にとっては誤差の範囲かな? -
複数の峰が連なった連峰なんですね。最終日まで晴れてくれてありがとう! 最高の天気でしたよぉ!
しかし150km以上離れているというのに、遮るものがありません。うっとり・・・ -
時間があったので、チェックインして身軽になってから、ラウンジで休憩。
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機上の人となってからは、これしか楽しみがない!
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3時間半ほどでモスクワ到着。後は成田まで9時間余りです。アエロフロート航空安くてサービルもまあまあで、何よりも乗継便の中では最速なので、私としては言うことありません。最初にも書いたと思いますが、2014年のANA特典航空券で支払ったサーチャージ7万余にちょっと足した金額でヨーロッパに来れちゃう。サーチャージが安くなったことが大きく影響していますが、特典航空券意味ないじゃんと思いました。
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モスクワでも乗り継ぎ時間は快適なラウンジで一休み。旧ユーゴ諸国を訪れた時にもここを使ったので、Wifiは直ぐに繋がりました。
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昔ちょっとかじったロシア語のアルファベットを覚えていました。これは、
BURGER KINGのロシア語バージョン。アルファベットが異なるだけです。 -
こちらは、モスクワ-成田間の機内食。サーモンとクスクスのマリネーはなかなかでした。ということで、長ーい長ーいわがままな旅行記に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。私自身もこんなにかかるはずではなかったのですが、1年半近くかかってしまいました。お蔭様で、計画、実行、旅行記と同じ旅を三度たっぷりと味わうことが出来て、この上ない満足感で一杯です。
皆様方の暖かいコメントやお便りに何度励まされたことか。これからもまだまだ書いていない旅行記をアップして参りますので、よろしければまた時々覗いていただければ嬉しいです。Ciao Ciao!!
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この旅行記へのコメント (8)
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- ドロミティさん 2018/08/10 10:08:10
- あっちも!こっちも!行きたいところばかりです^^
- junemayさんへ
お久しぶりです。
毎日暑いですね!
イタリア あっちも!こっちも!と欲張りな旅たび 最終編を拝見させて
いただきました!
半日とは思えない充実した内容にまたまた感服しています♪
junemayさんの旅行記は新しい発見の連続でとても参考になりました。
ブレラ美術館も是非行きたいです。
また楽しみにお邪魔しますのでよろしくお願いいたします☆彡 ドロミティ
- junemayさん からの返信 2018/08/10 22:10:13
- RE: あっちも!こっちも!行きたいところばかりです^^
- ドロミティさん こんばんは
いつも素敵なコメントをありがとうございます。
前にも書いたかもしれませんが、期待して行って期待通りの場所と、期待しないで行って、期待以上だった場所だと、後者の方が印象が強くなります。ミラノ最終日はまさしくそれで、思いがけない出会いに圧倒されっぱなしでした。最後まで楽しんで下さって、本当に光栄です。家族も友人も、あまり旅に興味のない人ばかりで、そういう意味では張り合いないんです。
ドロミティさんは、もちろんドロミティには行かれたんですよね。私は長年あこがれているのですが、なかなかチャンスが参りません。昨年ツアーを申し込んだのですが、体調不良となり、あえなく断念しました。期待度がどんどん増していくので、期待通りだった良いのですが、外れだったらと考えると、怖いです。ドロミティに限ってそんなことはないと思いますが、相手は自然そのものですから、天気次第という条件もあるし・・・。
ということで、しばらくの間、ドロミティをあこがれの地としておいて、勝手な想像を膨らませたいと思います。これからようやく、2016年のスペイン、ポルトガルに取り掛かるつもりですので、またのおいでをお待ちしております。
junemay
> junemayさんへ
>
> お久しぶりです。
> 毎日暑いですね!
>
> イタリア あっちも!こっちも!と欲張りな旅たび 最終編を拝見させて
> いただきました!
> 半日とは思えない充実した内容にまたまた感服しています♪
>
> junemayさんの旅行記は新しい発見の連続でとても参考になりました。
> ブレラ美術館も是非行きたいです。
>
> また楽しみにお邪魔しますのでよろしくお願いいたします☆彡 ドロミティ
>
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- マリアンヌさん 2017/03/10 12:34:06
- お疲れ様でした♪
- junemayさん、お疲れ様でした。
そしてこんな詳細解説の旅行記を執筆いただき、ありがとうございました。
ブレラ美術館もまだ行ったことがなくて・・・
充実の作品群れですね。
それをまた丁寧に解説していただき、いつもながら感謝です。
私がわずかに知ってるルカ・シニョレッリやクリヴェリもあるんですね。
中でもカラヴァッジョは異彩を放っているように感じました。
昨年のスペイン・ポルトガルも楽しみですが、今年の計画も佳境では?
もしかして今は国内旅行とかかしら?
私も5月と9月の旅行を同時進行で調べているところです。
また安易にイタリアの田舎まわりですが。
とりあえず「イタリア あっちも!こっちも!」投了おめでとうございました♪
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2017/03/11 15:45:36
- RE: お疲れ様でした♪
- マリアンヌさん こんにちは!
おかげさまで、大した旅行記でもないですが、無事なんとか作り終えることが出来ました。途中で投げ出さないで済んだのは、マリアンヌさんの温かい声援のおかげです。本当にありがとうございました。
今年の旅にはまだまだ時間があると思っていましたが、もう2か月を切りました。ぐずぐずしていると、また慌てそうです。ドイツについてまだ全く手を付けていません。イタリアに心を残しながらの旅になってしまうかも。まあ、ドイツに最後に行ったのが21歳のときなので、少しばかり空白を埋める旅にしたいと思っています。いつのことになるかわかりませんが、これからも旅行記を書き続けたいと思っておりますので、応援よろしくお願いいたします。
5月も9月もイタリアの田舎周りですか? まだまだいくらでも行く場所がありそうですね。イタリア語が堪能だとローカルな旅ができるのがうらやましいです。私も、ウンブリアの田舎でバスの運転手さんたちのリレーのおかげで無事スポレートに送り届けてもらったことを思い出しました。田舎のバスを使っての旅はイタリア語の時刻表を探し出してからもパズルを解くようで、なかなか大変。
一つご存知ならお教えください。トリエステから行きはCervignano経由でアキレイアに行くつもりですが、帰りGradoからトリエステ方面に帰るバスは、逆ルートのバスしかないのでしょうか?マリアンヌさんの旅行記にはグリニャーノと書いてありましたが、Gradoからどういう経路をたどられたのでしょうか? お暇な時で結構ですよ。よろしくお願いいたします。
junemay
> junemayさん、お疲れ様でした。
>
> そしてこんな詳細解説の旅行記を執筆いただき、ありがとうございました。
> ブレラ美術館もまだ行ったことがなくて・・・
> 充実の作品群れですね。
> それをまた丁寧に解説していただき、いつもながら感謝です。
> 私がわずかに知ってるルカ・シニョレッリやクリヴェリもあるんですね。
> 中でもカラヴァッジョは異彩を放っているように感じました。
>
> 昨年のスペイン・ポルトガルも楽しみですが、今年の計画も佳境では?
> もしかして今は国内旅行とかかしら?
>
> 私も5月と9月の旅行を同時進行で調べているところです。
> また安易にイタリアの田舎まわりですが。
>
> とりあえず「イタリア あっちも!こっちも!」投了おめでとうございました♪
> マリアンヌ
- マリアンヌさん からの返信 2017/03/11 23:28:25
- RE: RE: お疲れ様でした♪
- お役にたちますかどうか…
Cervignano → Aquileia
Aquileia → Grado Austostazione は、SAFというバスで
(こちらは、比較的本数があったような?)
Grado P.zza Carpaccio → Grignano Miramare はAPT というバスで移動しました。
鉄道と違って小さな街や海沿いなどを通っていいルートでした。
バスの本数は少なかったかも?PCを当時と変えたのでバス会社のアドレスが残ってなくて。
私はミラマーレ城を見たくて山の中で下車して海岸沿いに徒歩で降りて行きましたが、そのままtriesteに行っていたと思います。
私はミラマーレ城を見学後、別のバスで海岸沿いからTriesteに帰りました。
(Miramare ⇔ Trieste間のバスは本数多い)
確かSAFのバスは、Trieste鉄道駅の道を挟んだバス会社で切符を買いました。
APTのバスは、グラードの広場にあったバス会社の切符売り場で買い、時刻を確認してから、グラードの教会を見に行きました。
- マリアンヌさん からの返信 2017/03/11 23:42:12
- RE: RE: RE: お疲れ様でした♪
-
http://www.aptgorizia.it/RicercaOrari
本数少ないけど APTで帰れそうですね。
P.S.9月の旅、バジリカ―タ州など調べてて、気付いたらバス停探しに2時間位たってた(笑)
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2017/03/12 21:32:33
- RE: RE: RE: RE: お疲れ様でした♪
- マリアンヌさん こんばんは!
早速お調べいただき、ありがとうございました。色々と調べてみたのですが、LineaE21という路線がTrieste、Grado間を運行していました。これだと帰りが14時台しかないので、Triesteを朝7:50に出るGrado行きに乗り、逆コースで行ってみようかなとも思っています。これだと9:17にGradoに着きます。帰りはAquileia、そしてもし時間が余れば(普段そういうことはめったにないのですが)、Palmanovaの星形要塞を見てこれるかも。強行軍なので、途中でめげるかもしれません。
詳細な予定をたてようとすると、いくら時間が合っても足りませんね。でもこれまた楽しですね。
何度もお手を煩わして済みませんでした。どうかうまく行きますように!
マリアンヌさんは9月はバジリカタ州ですか? マテーラ以外わかりませんが、マテーラの観光案内所には肝心のマテーラの地図がなく、代わりにとほかの名勝の地図をいただいたのを思い出しました。
junemay
-
- とし坊さん 2017/03/06 23:14:32
- お疲れ様
- 長い長い旅行記お疲れ様でした・・
その鋭い描写には参りましたね
次回作もたのしみですヨ 待ってます(^O^)
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