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周囲を小高い山に囲まれた茂木港に到着。しかし手配してくれたという車はまだ来ておらず、迎えてくれたのは三毛猫一匹。<br /><br />この辺りは戦国時代大村家の所領で、その第12代当主・大村純忠は日本最初のキリシタン大名として知られる。<br /><br />戦国時代の地方の弱小豪族が身の安全を守るに腐心する姿はあちこちで見られるのだが、それに加えて純忠は母方の有馬家から大村家への養子という立場から内憂も抱えていた。<br /><br />純忠が頼ったのは、ポルトガルの宣教師ヴァリニャーノを通してポルトガルやスペインの軍艦であった。<br /><br />純忠は長崎港や茂木港を整備し、開港し、その港をイエズス会に寄進してしまう。<br /><br />純忠はヴァリニャーノの進言により大友宗麟、有馬晴信等周辺のキリシタン大名を募り、10代半ばの少年を中心とする天正遣欧使節団をローマのヴァチカンに派遣する。<br /><br />使節団はその途上ポルトガルの首都リスボン、スペインの首都マドリードで王室の歓待を受け、3年掛かりでイタリアのリヴォルノに到着、ローマで当時のローマ教皇グレゴリュウス13世に謁見する。<br /><br />2010年、ポルトガル周遊の旅でリスボンを訪れた際、天正遣欧使節団が宿泊した教会と公式招待会場シントラ王宮を訪ね、西欧を訪れた最初の日本人であった13〜14歳少年たちにも、その少年たちを国賓並みの遇した西欧の人々にも、驚きと強い感銘を受けたことが思い出される。<br /><br />prt543天正遣欧使節団が訪れたサン・ロケ教会と<br />シアード広場の老舗カフェ「ア・ブラジレイラ」in リスボン<br />http://4travel.jp/travelogue/10579353<br /><br />天正遣欧使節団派遣を進言したポルトガル人宣教師ヴァリニャーノの狙いは、少年たちが帰国後少年たちの言葉で、西欧のキリスト教世界の素晴らしさを語らせ、自分たちの布教に役立たせ、惹いては国王や教皇から布教のための援助を取り付けることにあった。<br /><br />またこの企画に応じた各国の王たちは、ペルーやメキシコやフィリピンで現地の住民支配を成功させた経験から、日本も支配できる条件が整うのに役立つと考えたに違いない。<br /><br />当初はもの珍しくキリシタン宣教師を受け入れていた豊臣秀吉であったが、西欧列強の意図を察したのちは厳しくキリシタンを取り締まる方針に変更し、純忠が寄進した長崎港や茂木港もイエズス会から取り戻し、一帯を直轄領とする。<br /><br />この時の直轄領が現在の長崎市の中心。<br /><br />天正遣欧使節団が帰国した時には、使節団を派遣した当時の領主達は悉くこの世を去っており、秀吉のヴァテレン追放令が発布(1587年)された3年後のことであった。<br /><br />驚いたことに茂木港に車で迎えに来てくれた人の名刺には、船とは無関係な「日本行政書士連盟長崎県支部長」とある。<br /><br />苓北観光汽船との繋がりをお聞きしてみると、事もなげに「手伝ってくれと言われて暇なときお手伝いしてるのです。今朝東京での会合から帰ったところです。」とのこと。<br /><br />「稲佐山展望台に行くのなら、ロープウエイで行くとよい。乗り場近くまで送ってやろう。」と夕闇迫る長崎の中心街へ。<br /><br />しかし残念なことにロープウエイは運転を中止しており、結局路線バスで稲佐山観光ホテルに向かった。<br /><br />傘寿旅行・「海の細道」周遊旅情10,芭蕉が夢見た長崎(目次)へ戻る<br />http://4travel.jp/travelogue/11129855<br />

10,芭蕉が夢見た長崎10,-1天草から長崎への玄関・茂木港

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2016/01/27 - 2016/01/27

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WT信

WT信さん

周囲を小高い山に囲まれた茂木港に到着。しかし手配してくれたという車はまだ来ておらず、迎えてくれたのは三毛猫一匹。

この辺りは戦国時代大村家の所領で、その第12代当主・大村純忠は日本最初のキリシタン大名として知られる。

戦国時代の地方の弱小豪族が身の安全を守るに腐心する姿はあちこちで見られるのだが、それに加えて純忠は母方の有馬家から大村家への養子という立場から内憂も抱えていた。

純忠が頼ったのは、ポルトガルの宣教師ヴァリニャーノを通してポルトガルやスペインの軍艦であった。

純忠は長崎港や茂木港を整備し、開港し、その港をイエズス会に寄進してしまう。

純忠はヴァリニャーノの進言により大友宗麟、有馬晴信等周辺のキリシタン大名を募り、10代半ばの少年を中心とする天正遣欧使節団をローマのヴァチカンに派遣する。

使節団はその途上ポルトガルの首都リスボン、スペインの首都マドリードで王室の歓待を受け、3年掛かりでイタリアのリヴォルノに到着、ローマで当時のローマ教皇グレゴリュウス13世に謁見する。

2010年、ポルトガル周遊の旅でリスボンを訪れた際、天正遣欧使節団が宿泊した教会と公式招待会場シントラ王宮を訪ね、西欧を訪れた最初の日本人であった13〜14歳少年たちにも、その少年たちを国賓並みの遇した西欧の人々にも、驚きと強い感銘を受けたことが思い出される。

prt543天正遣欧使節団が訪れたサン・ロケ教会と
シアード広場の老舗カフェ「ア・ブラジレイラ」in リスボン
http://4travel.jp/travelogue/10579353

天正遣欧使節団派遣を進言したポルトガル人宣教師ヴァリニャーノの狙いは、少年たちが帰国後少年たちの言葉で、西欧のキリスト教世界の素晴らしさを語らせ、自分たちの布教に役立たせ、惹いては国王や教皇から布教のための援助を取り付けることにあった。

またこの企画に応じた各国の王たちは、ペルーやメキシコやフィリピンで現地の住民支配を成功させた経験から、日本も支配できる条件が整うのに役立つと考えたに違いない。

当初はもの珍しくキリシタン宣教師を受け入れていた豊臣秀吉であったが、西欧列強の意図を察したのちは厳しくキリシタンを取り締まる方針に変更し、純忠が寄進した長崎港や茂木港もイエズス会から取り戻し、一帯を直轄領とする。

この時の直轄領が現在の長崎市の中心。

天正遣欧使節団が帰国した時には、使節団を派遣した当時の領主達は悉くこの世を去っており、秀吉のヴァテレン追放令が発布(1587年)された3年後のことであった。

驚いたことに茂木港に車で迎えに来てくれた人の名刺には、船とは無関係な「日本行政書士連盟長崎県支部長」とある。

苓北観光汽船との繋がりをお聞きしてみると、事もなげに「手伝ってくれと言われて暇なときお手伝いしてるのです。今朝東京での会合から帰ったところです。」とのこと。

「稲佐山展望台に行くのなら、ロープウエイで行くとよい。乗り場近くまで送ってやろう。」と夕闇迫る長崎の中心街へ。

しかし残念なことにロープウエイは運転を中止しており、結局路線バスで稲佐山観光ホテルに向かった。

傘寿旅行・「海の細道」周遊旅情10,芭蕉が夢見た長崎(目次)へ戻る
http://4travel.jp/travelogue/11129855

同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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