2016/02/27 - 2016/02/28
376位(同エリア842件中)
ひま人さん
今まで関西、中国、九州の100名城を訪ねていたが、今回関東地方の100名城の内、千葉県佐倉城址、茨城県水戸城址と現在皇居になっている江戸城を訪問しました。佐倉城は天文年間に築城されたが、本格的な築城は徳川家康の命を受けた土井利勝により完成させました。水戸城は古く建久年間(1190−1198年)に築城されました。徳川時代に入り、徳川御三家の一つとなり、家康の五男武田信吉を15万石で水戸に入城させたが嫡子なく没したので、十男徳川頼宜を20万石で入城させました。江戸城は長禄元年(1457年)太田道灌によって築かれました。戦国期には扇谷上杉氏の居城で、北条氏の時代には小田原城の支城であった。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの後、徳川家康が居城として本格的な築城を行い、城下町づくりにも着手した。慶長8年、家康が征夷大将軍になると、諸大名を動員した天下普請で城域を拡大。三十六見附といわれる総構まで完成したのは寛永13年(1636年)、三代将軍・家光の時代でした。
写真は江戸城富士見櫓です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
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佐倉城空堀。城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓を天守の代用としていた。明治維新後の廃城令により建物のほとんどが撤去された。その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵57連隊の駐屯地となった。
城の建物はほとんど残っておらず、空堀、土塁等が往時を偲ばせております。 -
空堀。
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一の門跡。
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二の門跡。
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三の門跡。
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土塁。石垣にかわる土手。
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本丸跡。
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礎石類。廃城令後、取り壊した建物の基礎となっていた礎石。
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堀田正睦(まさよし)公像。幕末に老中首座としてハリスとの日米修好通商条約交渉に身命を賭け、鎖国から開国へと導いた9代正睦は、藩の内政においても文武や農業の振興・財政改革・学制改革・赤子間引きの禁止・種痘の率先実施など多くの開明的施策を取り入れました。
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タウンゼントハリス像。堀田正睦と日米修好通商条約を交渉した米国外交官。
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正岡子規句碑。佐倉城址を訪れた際、詠んだ句碑。
「常盤木や 冬されまざる 城の跡」 -
国立民族歴史博物館。佐倉城址公園の敷地内に昭和58年3月にオープウンした歴史民俗資料館です。第1展示室から第6展示室からなり、原始古代・中世・近世・民族・近代・現在にわたって資料が展示されています。
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水戸城三階櫓跡。初代の三階櫓は明和元年(1764年)焼失。明和三年(1766年)再建され実質上天守となった。外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、櫓台はなく地面に敷かれた礎石の上に建っていた。昭和20年(1945年)の水戸空襲で焼失しました。
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大手門跡。水戸城は水戸駅に隣接する丘陵に築城された連郭式山城です。城郭には石垣はなく、全て土塁と空堀で構成されています。
現在の城跡は文教地区となっており、高校、中学、小学校、幼稚園等が建っています。従って城の遺構は少ない。 -
空堀跡。現在はJR水郡線(水戸〜郡山)の線路敷きとして利用されています。
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藥医門。現存している唯一の建物で、旧本丸にある県立水戸第一高等学校に移築されています。
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徳川頼房公像。徳川水戸初代藩主。慶長14年(1609年)家康の末っ子十一男、頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となりました。
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徳川斉昭公像。水戸藩第9代藩主。寛永12年(1800年)第7代藩主治紀の三男として生まれ、30歳で藩主に就任。就任後すぐに藩政の改革に取り組んだ。また、藩校の弘道館の開校や偕楽園を造園しました。
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安積澹泊像(あさかたんぱく)。明暦2年(1656年)水戸に生まれる。江戸時代中期の儒学者。83歳の長寿を保ち、55年の長期にわたって修史事業に精力を傾け、最も顕著な業績を残した。
幕末の講談師の創作であった「水戸黄門漫遊記」の中の光圀のお供役の「格さん」はこの澹泊をモデルにしたものです。 -
大日本史編纂の地石碑。日本の歴史書。水戸徳川家当主徳川光圀により開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇までをくぎりとし百代の帝王の治世を編纂しています。
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弘道館正門(国重文)。水戸藩校。江戸時代の総合大学にあたる。第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)公により天保12年(1841年)8月に創設されました。藩士に文武両道の修練をつませようと武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとりいれた、いわば総合大学というべきものでした。当時の藩校としては国内最大規模のものであり、弘道館建学の方針を示す「弘道館記」の内容や学校教育の特色によって有名になりました。
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弘道館至善堂(国重文)。いわゆる校舎です。
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千波湖。水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が、この千波湖を望む背後の七面山を造園したのが偕楽園です。
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偕楽園(金沢の兼六園、岡山の後楽園ととも日本三名園のひとつです)。天保13年(1842年)開園。園内には100品種、3000本の梅が植えられています。
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偕楽園の梅。
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偕楽園・好文亭。園内の休憩所として建てられたもので、素剛優雅な外観は水戸武士の風格がただよう建築です。この名は梅の異名「好文木」に由来しています。
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江戸城大手門。江戸城の正門。皇居東御苑はいわゆる皇居全体の約3分の1の面積です。皇居造営の一環として、皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備し昭和43年9月に完成したものです。面積21万?の庭園です。一般に公開されています。宮内庁所管です。
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同心番所。大手門から入城した大名が、最初に通る番所が同心番所。与力、同心が詰め警護にあたっていました。
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百人番所。
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大番所。
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富士見櫓。どちらからも同じ形に見えるため「八方正面の櫓」と呼ばれています。
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松の大廊下跡。刀傷事件を起こした有名な松の廊下があった建物跡。
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「桜の島」という一画あり、寒桜が満開でした。
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天守台。天守閣は明暦3年(1657年)の明暦の大火、すなわち「振袖火事」で天守が焼失した後、富士見櫓が天守の代わりを務めたといわれている。4代将軍・家綱は天守を再建したいと考えていたが、家光の異母弟で補佐役にあたっていた保科正之(ほしなまさゆき)の「天守はもう不要」という意見にしたがい、再建されなかった。
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天守台石垣。慶長12年(1607年)に完成した当初、高さ14mもあった天守台。この上に、わが国最大級の天守、そしてその上には金の鯱が載っていたことを想像したら目から鱗です。皇居東御苑の公開に伴う整地などによって、現在の石垣は高さ約10mとなっています。
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桃華楽堂。皇室関係者の音楽堂。
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北詰橋門。
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平川濠。
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二の丸庭園。
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平川門。
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