2016/03/20 - 2016/03/21
444位(同エリア942件中)
ひま人さん
百名城巡りも今回は、中国地方の最後の2城(萩城、津和野城)を訪ねました。又、九州は福岡県の2城(大野城、福岡城)を訪ねました。萩城(山口県)は関ヶ原合戦後、毛利氏が築城した城です。津和野城(島根県)は歴史が古く、鎌倉時代に遡ります。津和野盆地の標高367mの霊亀山に築かれた山城です。大野城は、福岡県太宰府の北、四王寺山(標高410m)の尾根を伝って築かれた古代朝鮮式山城です。福岡城は、黒田官兵衛の長子長政が関ケ原の戦功により、与えられた地に築城したものです。
写真は福岡城南の丸多聞櫓です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
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史蹟 萩城趾石碑。関ケ原の戦いに西軍の総大将についたことにより、周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城です。完工は慶長13年(1608年)ですが、築城者である毛利輝元は慶長9年12月に未完成のまま入城しました。
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天守台石垣。
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石垣の後方の指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されています。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点でした。明治7年(1874年)の廃城令により櫓など他の建物と共に破却されました。
指月山は松本川と橋本川に囲まれた三角州の北西端にある標高143mの山で花崗岩で、萩城の石垣にも用いられた。城内の山として長く人手が入らなかったため、シイノキ、タブノキ、クロガネモチ、カゴノキ、クスノキ等が混生する暖地性原生林となっており、昭和46年(1971年)国の天然記念物に指定されました。 -
石垣。かつてはこの石垣に銃眼土塀が巡らされていました。
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三代藩主・毛利輝元公像。
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天守台石垣と内堀。
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天守台石垣。
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天守閣跡。
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天守台からの内堀。
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復元された銃眼(じゅうがん)土塀。鉄砲を撃つための四角い穴を開けた土塀です。これが周囲の石垣上に巡らされていました。
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花江茶亭(はなえちゃてい)。藩主の別邸にあった茶室を明治20年頃移築したものです。幕末の頃、13代藩主毛利敬親(たかちか)が家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、国事をが画策したといわれています。
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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国重文)。厚狭(あさ)毛利家は、毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利家一門です。主に厚狭(現、山口県山陽小野田市)に知行地を持ち、ここに居館を構えていたので、厚狭毛利と呼ばれました。厚狭毛利家萩上屋敷は、萩城の二の丸南門の南100mの要地にあり、面積約4700坪の広大なものでした。屋敷地の中にあった主屋や庭園などは、明治維新後に解体されてこの長屋のみ残っています。
規模は桁行51.4m、梁間5mと長大な構造で、武家屋敷長屋の中で最も大きく、屋根は入母屋造り本瓦葺で出格子5か所、格子窓6か所を設けています。内部は座敷、物置、板の間等があり、厚狭毛利家の家臣たちの詰所になっていたものと思われています。 -
津和野城石垣。津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367mの霊亀山に築かれた全国第2位の高さを誇る山城です。城主は吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間、亀井氏11代255年間の居城でした。築城は吉見氏に始まる。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏が防長2か国に押し込まれると、吉見氏も津和野を退去し萩に移住した。代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石で入城し、石垣を多用した近世城郭へと大改修を行った。直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害し、坂崎氏は改易となった。
元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井氏が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となりました。
明治4年(1871年)廃城となり、山上の城は解体されました。 -
西櫓門跡。
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天守台石垣。
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天守台石垣。
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三十間台跡。
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三十間台石垣。
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太鼓丸跡。
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史蹟 大野城・四王寺阯石碑。大野城は天地天皇4年(665年)に築城された古代山城(朝鮮式山城)で、国の特別史跡に指定されています。
太宰府の北、標高410mの四王寺山一帯に築城されています。四王寺山の尾根をつたって延々8200mに及ぶ土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にかかるところでは、石垣が築かれている。城内の高く平たい所には礎石群が残っています。太宰府北方という立地から、太宰府防衛を目的とした城であると考えられています。 -
増長天礎石土塁。
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増長天礎石群。高く平たい所に数棟ずつ7か所ほどに、70棟ほど礎石群が残っています。
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土塁
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焼米ヶ原。高床式の倉庫があり、武具のほか、炭化した米粒などが検出されていることから穀物なども貯蔵していたことが分かる。
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土塁。
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土塁の内部。土塁の構造が分かる。
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小石垣。
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鴻臚(こうろ)館跡展示館。福岡城本丸跡に立地。
鴻臚館は古代(飛鳥・奈良・平安時代)の迎賓館に相当する施設で、中国・唐や朝鮮・新羅の外交使節や商人をもてなすとともに、日本の外交使節である遣唐使や遣新羅使の送迎にも使用されました。 -
展示館内部にある鴻臚館跡。昭和62年(1987年)発掘調査で出土した遺跡。現在も福岡市では全容解明のため発掘調査を続けています。
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福岡城本丸跡。福岡城(国史跡)は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、黒田長政(黒田官兵衛長子)が筑前52万石を徳川氏から与えられ、福岡藩初代藩主となりました。長政は初め名島城に入りますが、翌年に那珂郡警固村福崎に新城を築くこととし、長政自ら設計し、野口一成を普請奉行に命じました。城名は黒田氏の故地である備前邑久郡福岡に由来します。
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東御門跡。城の構えは天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓、花見櫓をはじめとする47の櫓が設置されました。本丸には本丸御殿、二の丸には二の丸館と南丸を配し、三の丸の北面には家老屋敷、北西部には黒田如水(官兵衛)の隠居所である御高屋敷が構えられました。
天守閣についてはいまだ存否が確定せず、不明です。 -
祈念櫓。鯱が上げられ、丸瓦に黒田家の家紋藤巴(ふじどもえ)が刻まれいる。
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天守台石垣。
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天守台石垣。
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多聞櫓。
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