2015/03/31 - 2015/03/31
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montsaintmichelさん
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真言密教の世界を色濃く残す笠取山上の上醍醐と煌びやかな伽藍が建ち並ぶ山麓の下醍醐からなる山寺が深雪山醍醐寺です。両者を往来すると徒歩で2時間程かかるそうです。総面積200万坪もあり、京都の世界遺産の中でも重鎮的存在です。醍醐寺は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録され、比叡山や高野山に次ぐ規模で、洛南随一の巨刹です。
醍醐寺は、874年に空海の孫弟子の理源大師 聖宝が霊泉 醍醐水の湧き出す笠取山を譲り受け、柏の木を刻んで造った准胝(じゅんてい)・如意輪の両観音像を安置する堂宇を創建したのが始まりです。
真言密教を学んだ聖宝が修行に相応しい山地を求めて祈祷を行うと、早朝に笠取山に五色の雲がたなびきました。山頂近くに至ると老翁が忽然と現れ、落ち葉の下に湧く水を飲んで「醍醐味なるかな」と褒め讃えました。その翁に「この地に修行のための寺を建てたい」と伝えると、翁は自分がこの山の横尾明神と告げ、この地を聖宝に献上し、自分は寺の守護神になると約束して姿を消しました。この託宣により営んだ草庵が醍醐寺の起源です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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醍醐寺 桜の馬場
総門から伽藍の正門となる西大門までの参道は、ソメイヨシノや山桜のメッカとなる「桜の馬場」と呼ばれ、この世の仙境とも称すべき佳景を呈しています。
醍醐寺は、聖宝の開創後、醍醐、朱雀、村上の3代天皇の帰依により上醍醐に薬師堂や五大堂、下醍醐に五重塔などが建立されました。幾度も火災に遭い、応仁の乱では下醍醐は五重塔以外は全て焼失し、上醍醐も荒廃しました。その後、秀吉や秀頼により「醍醐の花見」を機に再建が行われ、江戸時代には皇室や貴族の支援を受けて真言密教の核として信仰を集めました。 -
醍醐寺 桜の馬場
桜の馬場を伽藍への玄関口となる西大門目指して進みます。
参道はご覧のように人が溢れています。
人の流れは緩やかで、桜の彩りを味わいながら、あるいは銘桜の余韻を愉しみながらゆっくりと歩いて行きます。 -
醍醐寺 桜の馬場
『源氏物語』の時代設定は、紫式部が活躍していた一条天皇の時代を遡ること100年前というのが定説です。100年前と言えば、西暦900年頃、平安時代前期の醍醐天皇の御世と考えられます。冒頭の「いづれの御時にか」の「御時」とは、醍醐天皇の御時と比定できそうです。物語の登場人物は、醍醐天皇=桐壺帝ということになります。とすれば、2代後の村上天皇=冷泉帝ということです。この2人の天皇は、親政を行ったことや様々な施策を行ったことで「延喜・天暦の治」として後世に治世が高く評価された天皇です。ところで物語中の桐壺帝と冷泉帝は、さしたる功績は残していません。これには作者の意図があるのかないのか…。実際、天皇親政の理想の時代とするのは、11世紀以降に摂関政治で不遇をかこった中下流の文人貴族による意識的な喧伝だったと考えられています。つまり、紫式部は「延喜・天暦の治」を評価していなかったと言うことなのでしょう。
『源氏物語』の皇位継承をまとめると、桐壺帝−朱雀帝−冷泉帝−今上帝と連なりますが、それは醍醐−朱雀−村上−冷泉天皇の系譜に重ね合わせることができます。 -
醍醐寺 西大門
表参道の先では立派な山門が参拝者を出迎えます。
1605年、桃山期の再興の際に秀吉の子 秀頼が建立した仁王門です。
正式名称は「西大門」と言い、京都府の指定文化財に登録されています。
入母屋造、本瓦葺。 -
醍醐寺 西大門
歴史ある山門ですが、両脇で威容をなす木造金剛力士像(重文)は更に古い時代の作品です。像は、西大寺再建の際、醍醐寺南大門にあったものを移設したもので、1134年に大仏師 勢増・仁僧によって制作されたとの記録があります。数少ない平安時代に遡る金剛力士像です。
体内には仏像の由緒が認められた書が納められているそうです。 -
醍醐寺 西大門
2011年に賽銭ドロボーによって、天衣(てんね)の先端部分が壊されたことが話題に上りました。どこの金剛力士像も忿怒形像(ふんぬぎようぞう)なので厳つい顔付きですが、こちらの像は頭でっかちの童顔で隠健な作風が特徴です。 -
醍醐寺 西大門
檜材の寄木造り、大きめの頭部に比べて体部はやや細身で小柄にまとめられ、マッチョ感も控え目ですが、繊細な彫刻です。
数少ない平安後期の金剛力士像中、造像年次の判明しているものは、本像と京都峰定寺像だけです。 -
醍醐寺 西大門
西大門から振り返って見た桜の馬場です。
醍醐寺の創建者 聖宝は讃岐国の本島に生まれ、やがて空海の弟 真雅の元で出家しました。空海や真雅も讃岐国出身であり、同郷のよしみを感じたのかもしれません。やがて東大寺で修業を積みますが、往時の東大寺は荒れ果て、聖宝が入れられた部屋は鬼がいると噂されていました。しかし、聖宝は、この鬼を見事に退散し、修行に励んだと伝えられます。 -
醍醐寺 西大門
門を潜ると、景色は一転します。このように伽藍へ導く参道を鬱蒼とした青モミジと杉木並木が視界を遮ります。初夏には緑のトンネル、秋の紅葉の季節にはまた別の顔をして参拝者を温かく迎え入れることでしょう。
聖宝を象徴する面白い逸話があります。
聖宝は、修行僧たちの食事があまりにも粗末だったため、吝嗇が過ぎる東大寺の上座僧に「どうすれば食事を配って頂けるか」と問います。その答えは、「賀茂祭りの日に褌一丁で干鮭を腰にさし、痩せた女牛に跨り「我こそは東大寺の聖宝なり」と大声で告げながら一条大路を大宮から河原まで進め」というとんでもないものでした。しかし、聖宝はこれをやってのけ、東大寺の僧からしもべに至るまで食事の内容が改善されたそうです。それほどの豪傑だったことが窺えます。 -
醍醐寺 西大門
いきなり緑一色に切り替わった目の前の風景に惑わされることなく、冷静になって後ろを振り返ってみましょう。
そこにあるのは、定番の「桜の馬場」の額縁です。
もし見逃したとしても、帰途で見られますが…。 -
醍醐寺 五重塔(国宝)
参道の両脇に張られた朱と白色の五七の桐紋の幔幕が、秀吉の「醍醐の花見」を偲ばせます。
屹立する五重塔は、朱雀天皇の発願で父 醍醐天皇の冥福を祈るために建立され、935年に起工して弟の村上天皇の時代の951年に完成したものです。 -
醍醐寺 清瀧宮拝殿横 枝垂桜
拝殿の横には立派な枝垂桜が満開でした。
もう少し花が少ない時期なら、五重塔を透かして撮影できたことでしょう。 -
醍醐寺 五重塔
興隆を極めた醍醐寺も度重なる火災に加え、応仁・文明の乱の兵火により焼失し、下伽藍堂宇は灰燼に帰しましたが、奇跡的に五重塔だけが難を逃れ、創建当時の天歴盛時の姿を今に留めています。
また、落雷に遭い易い背丈のある塔が創建時の姿を今も遺していることも奇跡と言え、京都府下現存最古の木造建築物となっています。また、この塔は法隆寺や瑠璃光寺と並ぶ「日本三名塔」のひとつに数えられています。
余談ですが、五重塔とは、仏塔の形式の一つで層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、五重の屋根を持つものを指します。下から地、水、火、風、空、それぞれが5つの世界を示し、仏教的な宇宙観を表しているそうです。 -
醍醐寺 五重塔
塔高は38m。そのうち上部の相輪部は13mもあって全体の1/3を占め、平安期の優美な姿を今に留めています。この塔の初重に対する五重目の逓減率(下層から上層になるに従い、塔の幅が狭まる率)は0.61であり、下層が大きく作られているために遠近法も手伝って安定感のあるどっしりとした佇まいを見せています。この数値は時代が下がるに従って大きくなります。つまり逓減の割合が減り、いわゆるズンドウに近くなります。因みに、法隆寺の五重塔は逓減率が0.5ですので、更に安定感が感じられる造りになっています。
因みに、相輪の九輪に風鐸が付いている五重塔は、醍醐寺・法隆寺・海住山寺・室生寺と瑠璃光寺のみです。
与謝野晶子は、この相輪を「われあわれ 古りし醍醐の塔にさへ 丹朱の色の残れるものを」と詠んでいます。 -
醍醐寺 五重塔
基壇の上に塔を建てるのは平安期までの古式に則った形式であり、鎌倉時代以降は基壇がなくなり、初重周りに縁が付くようになります。
軒は深く、組物は古式の三手先組で中備には間斗束(けんとづか)が入っています。垂木は二軒の平行垂木で、地垂木(じだるき)、飛檐垂木(ひえんだるき)共に角型。
1585年には地震によって甚大な被害を受けましたが、秀吉によって修理がなされています。秀吉も醍醐の花見の時は、おそらくこの辺りを逍遥したことでありましょう。
内部を見ることはできませんが、初層内部の密教壁画は18面あり、胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅、心柱に大日如来像、空海を初め、腰羽目板に真言八祖像などが描かれ、日本の密教絵画の源流をなすと伝えられています。色彩の残存状況も良く素晴らしいそうですが、非公開になっており拝観は叶いません。 -
醍醐寺 五重塔
諡号(おくりな)を御願寺「醍醐寺」から採った醍醐天皇は、皇子に恵まれなかったため上醍醐の准胝観音に祈願し、後に朱雀と村上両天皇を授かりました。それ故に、皇子である両天皇も、醍醐寺にはひとかたならぬ思い入れがあり、930年に亡くなった父 醍醐天皇の菩提を弔うために建立を発願し、951年に五重塔の落慶法要が行われました。後には、穏子皇后も一緒に弔われています。この五重塔は、両親を弔うために2人の子供が想いを寄せ、足掛け20年の歳月を要して造られたものだったのです。天皇家継承を願う親から授かった命の尊さと両親への感謝の気持ちをこのような形で残したのでしょう。
因みに、空海に「弘法大師」の諡号を与えたのが醍醐天皇です。 -
醍醐寺 五重塔
降り棟の突き出した鳥衾瓦(とりぶすまがわら)の重圧感を、軒下の風鐸が和らげるという相乗効果の賜物です。 -
醍醐寺 清瀧宮本殿(重文)
五重塔の手前に「清瀧宮拝殿」と「清瀧宮本殿」が建てられています。
醍醐寺を開いた聖宝 理源大師が勧請し、真言密教法流伝承の守護女神とした清瀧権現を拝む建物で、1097年に上醍醐から分身を移して祀った社殿です。
現在の本殿は1517年に再建され、1599年に座主 義演により拝殿の整備が施され、重要文化財に指定されています。
三間社流造、檜皮葺。 -
醍醐寺 清瀧宮本殿
本殿左脇にある枝垂桜です。
唐に渡った空海は、長安の青龍寺で密教を学び、帰国の際には寺の守護神 龍女が空海守護のために共に来日したと伝えられています。龍女が海をはるばる渡ったことから、「青龍」にそれぞれサンズイを付けて「清瀧」と命名されたそうです。 -
醍醐寺 清瀧宮本殿
午後ともなると皆さん疲れが見え始め、石段は格好の腰掛けとして占拠された状態です。
因みに、この日は京都の最高気温が24.5℃になったそうです。
花見や紅葉のシーズンにはレジャーシートが必要かもしれません。 -
醍醐寺 清瀧宮本殿
蛙股などが極彩色に塗られ、龍と五色の彩雲をあしらっているようです。
かつては、拝殿と本殿の間には清瀧宮舞台があったそうです。
因みに、清瀧宮舞台は室町時代に能の祖となる観阿弥の子 世阿弥がわずか9歳で7日間連続で初舞台を踏んだ場所として知られ、世阿弥が世に名を知らしめるきっかけとなったそうです。
そんな能舞台も儚く焼失してしまったとは…。 -
醍醐寺 金堂(国宝)
金堂は、醍醐天皇の勅願により904年に創建され、往時は釈迦堂と呼ばれていましたが、鎌倉時代の1295年に放火され、再建後も応仁・文明の乱で焼失しました。
現在の金堂は、秀吉が権力にものを言わせて紀州湯浅の満願寺から本堂を無理やり取り上げて移築を命じ、秀頼時代の1600年に完成させたものです。密教寺院の本堂で現存するものとしては、最古のもののひとつです。
移築の理由は、一説には秀吉が花見をするためだったとか…。
余談ですが、和歌山県湯浅町では5月3日を「移築記念日」に制定し、金堂が湯浅から移された歴史を継承しています。金堂が湯浅から移築されたことはあまり世に知られておらず「知る人ぞ知る歴史」だそうです。今後は醍醐寺や寺周辺の住民と積極的に交流したいとの旨。総本山醍醐寺執行 仲田順英師も「醍醐寺としても地元に呼びかけて、湯浅町の方々と街ぐるみで付き合っていければ」と語っています。
沖縄と政府の関係もこのようであって欲しいと思うのは当方だけではないように思います。 -
醍醐寺 金堂
国宝指定された平安末期の雄大かつ優美な密教式本堂で、人が仏堂内に入り始めた初期の段階の本堂形式を今に遺しています。
正面七間のうち、中寄り五間には板戸がはめられ、脇間は連子窓となっています。組物は正面が出三斗、側面と背面が簡素な平三斗、中備は間斗束としています。一重入母屋造、本瓦葺。
元々は檜皮葺でしたが、紀州国湯浅からの移築の際、本瓦葺に改められたそうです。 -
醍醐寺 金堂
枝垂桜が金堂に寄り添うようにひっそりと咲いています。
毎年4月の第2日曜日に行われるのが、秀吉の豪華絢爛な花見を再現した「豊太閤花見行列」です。秀吉や側室の女性たち、大名などに扮した者たちが、金堂前のこの特設舞台で雅楽・今様・狂言・地元少女による踊りなどを披露します。 -
醍醐寺 金堂 枝垂桜
元々醍醐寺は聖宝が修験道の山房として開山した寺で、ここまで繁栄できたのは醍醐天皇の庇護の賜物です。一方、奈良時代には寺院が政治を動かすまでの権威を持つに至り、寺院を京中から隔絶するために遷都したのが平安京でした。最低限の守護寺院以外は京中に建てないのが政治方針でしたが、醍醐天皇はこの方針に逆らい、寺院勢力に加担する政治に舵を切りました。何故、これほどまでに醍醐寺を庇護したのでしょうか?
実は、醍醐天皇治政には、平安時代最大の事件が起きています。菅原道真左遷事件の「昌泰の変」です。左遷を命じたのが、醍醐天皇。天皇は左大臣に藤原時平を右大臣に菅原道真を任じますが、901年に道真が天皇排除を謀っているとの誣告があり、道真は大宰府に左遷され、その2年半後に失意のうちに憤死しました。道真の死後、彼を陥れた張本人の藤原時平が若死にすると、続いて醍醐天皇の子 保明親王、更に親王の子 慶康王が4歳で病卒しました。相次ぐ不幸に「道真の祟り」との噂が巷に蔓延し、事態を重んじた天皇は宮中で朝議を開くのですが、そ の最中に清涼殿に落雷があり、朝廷要人を含む多くの死傷者が出ました。こうして京中が、「道真の怨霊」の凄まじさに震え上がったのです。下醍醐の造営がなされたのには、こうした背景がありました。醍醐天皇が聖宝の法力にすがったのは、道真の怨念封じに明け暮れた末のことでした。天皇の勅願によって鎮魂のために醍醐寺(長尾天満宮)に道真を祀ります。天満宮と道真との関係は広く知られるところですが、醍醐寺繁栄の陰にも道真の怨念が影響していることはあまり知られていないことです。何故醍醐寺かと言うと、道真が天皇遊覧の供をして醍醐寺を訪れた際、死んだらここに墓を築きたいと聖宝に願った経緯があったからです。
因みに、醍醐天皇の最期はどうだったかと言うと、精神的なショックで倒れ、往時流行していたインフルエンザに感染し、回復の見込みがないことを悟って譲位を決めました。そして病床に臥せたまま出家したのですが、その日のうちに46歳で崩御しています。後継の朱雀天皇は幼少ゆえ藤原忠平が摂政となり、40年間途絶えていた摂関制が復活しました。朱雀天皇は同母兄保明親王が急逝した直後に生まれたため、3歳になるまで蔀(しとみ=雨戸)を下ろしたまま密閉空間の中で育てられたそうです。「道真の祟り」恐るべしです。 -
醍醐寺 金堂 枝垂桜
時折吹く風に、か細い枝がゆらゆらとたなびき、その度にはらはらと花びらが散る様が艶めかしくもあります。
道真は、後に「学問の神」として祀られ、絶大な信仰を集めました。怨霊の記憶の風化と共に、生前の道真が優れた詩人であり学者であったため、「学問の神」へと遷移したそうです。
学問の神の候補には他にも儒祖の孔子が挙げられたのですが、日本人に拘り道真を選んだようです。また、最強の怨霊を味方にすれば怖いものなしとする考え方も見え隠れしています。 -
醍醐寺 金堂 枝垂桜
接近して全体を写したい場合は、広角レンズを使います。枝垂桜などの桜のシャワーは、広角レンズでできるだけ近づき、ローアングルで煽るように撮るとパースペクティブ(遠近感)を活かせます。場合によっては幹や枝が強調されることもありますが、そんな時はなるべく遠景でかつ絞りを多くしてエッジをきかせてみるのもひとつの方法です。 -
醍醐寺 金堂
妻飾は、平安期の古式「豕叉首(いのこさす)」。
懸魚は、「猪の目」懸魚です。 -
醍醐寺 金堂
今回は桜がメインなため下醍醐の散策だけに絞っていますが、修験道 上醍醐参拝者へのご利益のひとつが、山上にある堂宇で飲める「醍醐水」です。
かつて聖宝が笠取山に登ると謎の老人 横尾明神が現れ、この湧き水を飲み「醍醐味なるかな」と言って姿を消したというスピリチュアルな逸話が残されています。
因みに、「醍醐」とは牛乳を煮詰めて熟成させて作られるチーズ様の最高級食品です。『涅槃経』では「醍醐を服すれば衆病皆除かれる」とあり、聖宝がこの泉の味わいを酥(そ=牛や羊の乳を煮詰めて濃くしたもの)に喩えたことが寺名の由来だそうです。 -
醍醐寺 金堂
「醍醐」と言えば、これをメタファーに「日本の技術」の衰退を憂慮された故 豊田英二氏の言葉を思いだします。
「平安期の日本ではチーズを醍醐と呼び、手作りしていた。しかし、何時の間にか製造技術を失い、明治時代に西洋から輸入されるまでチーズは日本史から消えた。原料が入手できなかった訳ではなく、製造技術が失われたことが原因だった。モノづくりも同じで、技術を絶やさないことが肝心である。一度、空洞化してしまうと失ったノウハウを取り戻すのに大変な労力がかかる。昔取った杵塚で何とかなると思ったら大間違いだ」。こんな要旨だったと記憶しています。
ひと頃、「技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか」と事業戦略の脆弱さを憂いたのですが、昨今ではそれよりも技術伝承の欠落がクローズアップされています。俗に言う「コピペ設計」の類が蔓延した結果で、設計意図を知らずに先輩が行った設計を流用することを言います。ルーツを知らずにコピペで安直に済ませてしまう無責任な技術者が増えているのは、技術伝承に時間を割いてこなかった企業や組織にも責任の一端があります。老舗で言う一子相伝のコアコンピタンス「秘伝のタレ」を、複数の後継者に受け継ぐことがベテラン技術者に課された役割であり責務であると思います。 -
醍醐寺 金堂 内陣
須弥壇上には、堂宇と共に満願寺から移された本尊 薬師如来坐像(鎌倉時代:重文)、脇侍には日光・月光菩薩像(鎌倉初期:重文)が安置され、平安初期の檀象彫刻を模した鎌倉初期の復古調の秀作と称されています。制作者は、鎌倉時代の前半に活躍した仏師 善円の後期の作と作風が近いとされ、善円を想定する説があります。
本尊は、檜の寄木造で、丸味を帯びた安堵感を覚えさせる顔をし、玉眼を持つ切れ長の目が涼しげです。また、見事な透かし彫りの舟形光背を背にしています。光背は桃山時代の補作ですが、脇侍像の頭光のみ当初のものだそうです。脇侍像は、この時代には珍しい檜の一木造で、内ぐりもない珍しい構造だそうです。
三尊の左右には、四方を守護する四天王立像(平安時代)が配されています。
因みに、国宝の薬師三尊像(霊宝館所蔵)は、上醍醐にある薬師堂の本尊です。 -
醍醐寺 不動堂
堂宇の前に不動明王の石像が立ち、仏敵排除と修行者保護を担っています。また、堂前の護摩道場では、当山派修験道の柴燈護摩が焚かれ、世界平和など様々な祈願を行っています。
簡素な佇まいの堂内には、左脚を踏み下げる半跏像の不動明王を中心に五体の明王が奉安されています。 -
醍醐寺 日月門
祖師堂の前を通る参道をさらに東へ進むと、上醍醐登山口ともなる鄙びた趣のある山門が構えています。
「日月門」と呼ばれる門のその先に広がるのは「大伝法院」と名付けられたエリアであり、この門の先はかつての修験道となります。 -
醍醐寺 日月門
ここにも極彩色に彩られた鮮やかな蟇股があります。
蓮の花でしょうか、波を象ったようなデフォルメした葉に特徴が見られます。
蓮は、不浄とされる泥から芽を出して花を咲かせることから、仏教の理想のあり方を諭していると言われています。ですから仏像は蓮の花の中に坐しています。 -
醍醐寺 日月門
さすがに修験道への玄関口です。
極彩色の獅子噛みの「鬼バージョン」が潜る者に睨みを利かせています。 -
醍醐寺 観音堂(旧大講堂) 西国十一番札所
この観音堂を中心に広がる、庭園「林泉」や弁天堂、地蔵堂、鐘楼、伝法学院等を総称して大伝法院と呼んでいます。これらの諸堂は、醍醐天皇千年御忌を記念し、1930年に山口玄洞居士の寄進により造築されたものです。
比較的大きな堂宇となる観音堂には、平安末期に制作された醍醐寺最大の丈六の木造 阿弥陀如来坐像が祀られています。その他、大日如来坐像や深沙大将、大黒天や、蔵菩薩が安置されています。宝形造、本瓦葺。 -
醍醐寺 観音堂
桜の撮影で失敗が多いのは、綺麗な桜を納めたつもりが、意外に暗くなってしまったというものです。デジカメのオートモードは、適正な露出をシャッタースピードと絞り、ISO感度によって決定しますが、白いものなど光を反射する被写体の場合、光量が多いと判断して自動的に暗くしてしまいます。
桜は白っぽい被写体ですので、暗くならないように露出をプラス側に補正(+1〜3)してあげます。逆に桜の色を濃く出したい場合は、多少暗くなるのを覚悟してマイナス側に補正するか、ホワイトバランスの設定を曇天あるいは日陰の設定にするとイメージに近づきます。 -
醍醐寺 鐘楼堂
上と同じ枝垂桜を鐘楼堂を借景に撮影したものです。
鐘楼堂は、取り残されたような感じでひっそりと佇んでいます。
しかし、造りのしっかりした趣のある鐘楼堂です。 -
醍醐寺 鐘楼堂
境内の鐘楼堂はここと金堂近くの2箇所にありますが、こちらの方が立派です。
鐘楼堂の周りをモミジが囲んでいますので、紅葉の季節には賑わうことでしょう。 -
醍醐寺 鐘楼堂
小ぶりな枝垂桜ですが、こじんまりとまとまった端正な姿をし、人を惹き付ける魅力ある樹です。
故に、なかなか人を入れずに撮影することが叶いません。 -
醍醐寺 観音堂
大伝法院の中で一番人気があるのが、その隣の庭園「林泉」の方丈池とその畔に建つ観音堂や弁天堂です。
苑池として整備された絶景です。 -
醍醐寺 林泉
伽藍の一番奥まで歩を進めると、方丈池の向うに醍醐天皇の千年忌を記念して1930年に建立された弁天堂が佇んでいます。
池や滝をあしらえた庭園「林泉」では、池に架けられた朱色の輪橋や弁天堂がアクセントになり、池の脇の桜が春の風情を醸しています。 -
醍醐寺 林泉
モミジやイチョウの葉が色づく晩秋には、水面に映る紅葉と朱色の橋が幻想的な景色を演出します。
因みに、醍醐寺は秀吉が「醍醐の花見」を開いた桜の名所として有名ですが、「秋の紅葉狩り」としてちゃっかり計画していた場所でもあるそうです。モミジは、秀吉の遺産でもあったのですね!
秋を待たずに夏に没するとは、さぞ心残りだったことでしょう。 -
醍醐寺 林泉
観音堂方向の景観です。 -
醍醐寺 阿闍梨寮「寿庵」
方丈池の畔で遅目のランチを摂りました。
醍醐寺では、弁当などを持ち込むこともできず、境内での飲食は禁じられているので休憩所を使うことになります。伽藍エリアにはここ1箇所しか食事処がなく、混雑を覚悟していたのですが、伽藍への拝観料が必要なこと、また立地が伽藍の一番奥にあることから杞憂に終わりました。
ここは、かつて伝法院の指導僧が止宿したという落ち着いた趣のあるお休み処です。
因みに、入ったのは13時半頃でしたが30分弱の待ち時間ですみました。オーダー後、5分ほどで給仕されました。席数が少ないこともあり、厨房は余裕があると言うことだと思います。
オーダーしたのは、ざるそば&ミニ湯葉丼というセットメニュー(1200円)。+300円で黒糖わらび餅が付けられます(中央上)。
湯葉丼は想像もつかなかったのですが、新生姜の甘酢漬けを効かせた甘めの葛餡と湯葉のコラボになっていて美味しくいただきました。
ラストオーダーが15時で、15時半に閉店となりますのでご注意ください。 -
醍醐寺 阿闍梨寮「寿庵」
案内されたのは、4席限定の特等の間でした。単なる偶然の産物なのですが、ラッキーです。
こうして純和風家屋から桜や弁天堂を眺めながら食事や喫茶で一息つけば、新たな醍醐寺の魅力に触れられます。 -
醍醐寺 弁天堂
弁天堂には弁財天が祀られ、音楽や芸事の上達、さらには学芸、知識にご利益があります。
弁天堂へは朱塗りの輪橋を渡って参詣することができます。 -
醍醐寺 方丈池
弁天堂へと架けられた輪橋から見た、「無量寿苑」方向の景色です。
苔生した岩の間を縫い、清らかな水がサラサラと流れ落ちる情景です。 -
醍醐寺 無量寿苑
弁天堂の先に小路が伸びており、一帯は「無量寿苑」と言う庭園になっています。
無量寿苑へ注ぐ小瀧。「暫し浮世のことを忘るることを得たり」の心境です。
ここは苔と紅葉が競演する殿堂ですので、紅葉の季節には大勢のカメラマンで賑わうことでしょう。 -
醍醐寺 無量寿苑
静けさの中、時折鳥の囀りが響き渡り、気持ちよく散策ができます。
さすがにここまで来られる方は、ほんの一握りです。 -
醍醐寺 五重塔
満ち足りた想いを背負って帰途につきます。
何故か、五重塔だけは名残を惜しんで振り返ってしまいます。 -
醍醐寺 西大門
西大門を正面に見る参道に出ると、周りの暗さが桜の馬場の一角をクローズアップしています。 -
醍醐寺 西大門
ピンク色の桜と青モミジのコラボレーションをズームアップで狙ってみました。 -
醍醐寺 西大門
人の波のシルエットとピンクに彩られた桜のハーモニーを、額縁効果が感性を研ぎ澄ませてくれています。
一面を桜で埋め尽くしたい場合は、焦点距離が標準域より望遠寄りのレンズを使って密度を濃くすることをお勧めします。望遠レンズの圧縮効果を活用した撮り方です。圧縮効果とは、遠くにある被写体をズームアップすることで手前のものと遠くのものが接近して重なり合った感じに撮れる効果を言います。 -
醍醐寺 西大門
ふと仰ぎ見れば、木漏れ日を浴びた小さな青モミジがキラキラと煌めいています。
桜の次の主役を虎視眈々と狙っているかのようです。 -
醍醐寺 桜の馬場
西大門を抜けた先にある桜の巨木は、幹や枝がすっかり苔生した重鎮です。
その太い枝の陰から、か細く今にも折れそうな枝を逞しく伸ばし、咲き初めたばかりの桃色の桜花の姿が健気に映ります。
エールを送りたい気持ちになってしまいます。
新たに社会人となられた方々にも! -
住宅街を縦断する歩行者用通路です。
道の両脇には桜の木が植えられ、数十年後には桜並木として行きかう人たちの目を愉しませてくれることでしょう。 -
祇園白川
再び祇園白川へ戻ってまいりました。
大路通三条にある焼肉ホルモン「Meet Bowl」の店先にある、舞妓さんの衣装を着けた「黒毛和牛」です。
京都のチェーン店のようで、近江牛の肉やホルモンが楽しめるようです。近江牛の特徴は、脂の溶ける温度が低いため口の中で程よく溶けることです。また、 近江牛のホルモンは、市場に出回る数が少なく、希少性が高いそうです。 -
祇園白川
草木瓜 (クサボケ)の花でしょうか、ピンクと白色が混ざって華やかに咲いています。
梅のように素朴で東洋的な雰囲気を持っていますが、枝の所々に1cmほどの棘がありますので注意してください。
バラ科ボケ属の落葉低木で、日本固有種のボケはこの「クサボケ」だけです。別名「ヂナシ(地梨)」とも呼ばれ、実は果実酒に利用されます。
盆栽で知られる長寿梅は、本種から生まれた園芸品種だそうです。自生の「クサボケ」を見るのは初めてなのに、どこかで出会ったような気がしたのはこのせいだったのですね!
花言葉は、「一目惚れ」「平凡」。 -
祇園白川
朝よりも開花が進んでいるように思えます。
人の数も増えていますね!
和服姿でお花見とは風情のあることです。 -
祇園白川
ピンクの彩に赤い屋根の東屋がアクセントを添えてくれています。 -
四条大橋 鴨川
鴨川の風物詩のひとつに「鴨川カップル」があります。
まだ夕刻には時間があるので、法則ができつつある状況です。
「鴨川等間隔の法則」とも言い、鴨川の川岸に座るカップルやグループの間隔が自然に等間隔になる様を表します。特に、三条大橋〜四条大橋の間は、多くのカップルが等間隔に仲睦まじく座ってなごむ舞台となり、実に微笑ましいものです。
好奇心旺盛な方が調べた結果、鴨川でカップルが等間隔に座る理由は、「慣れない環境では、周囲のルールに合わせようとする心理、同調効果による」ということが判ったそうです。 -
四条河原町 nikiniki
鴨川の手前の高瀬川と四条通が交差する一角に、一見クレープ屋といった趣の白亜のショップがあります。そこが創作生八つ橋「nikiniki」です。
生八つ橋と言えば餡子が包まれた三角状が定番ですが、イートインの「カレ・ド・カネール」なら花びら状に、持ち帰りの「季節の生菓子」ならガラス細工のように、その場で季節に即した立体のヴィジュアル系アートに仕立てて提供してもらえます。
「nikiniki」は、創業300年を超える老舗中の老舗「聖護院八ッ橋」が発信した新しい八ッ橋の形です。老舗と言えども、伝統に奢ることなく、常に新しいことにチャレンジしないと徐々にシュリンクしてしまう危機感があるのかもしれません。若者やファミリーを魅了するにはグッド・アイデアと思います。 -
四条河原町
ジュエリーショップを彷彿とさせるショーケースには、色とりどりの生八つ橋の餡がディスプレイされています。
こちらの餡は、イートインの「カレ・ド・カネール」専用です。
どのようなものか興味のある方は、次のサイトを参照ください。
http://re-colle.com/article/66530275171036620
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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この旅行記へのコメント (2)
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- エンジュさん 2016/03/23 09:27:23
- 桜 さくら sakura
- とてもよい旅行記ですね。自分のつたない文章や写真の旅行記が恥ずかしくなります。
他の旅行記も、ぼちぼち見せてもらいます。勉強になります。
ありがとうございました。
- montsaintmichelさん からの返信 2016/03/23 19:05:33
- RE: 桜 さくら sakura
- エンジュさん、こんばんは。
旅行記にアクセスいただきありがとうございました。
エンジュさんのようなコメントをいただけるととても励みになります。
備忘録を兼ねた旅行記ですので少しくどいと思いますが、読み飛ばしてくださいネ!
ガイドブック代わりになるよう、これからもがんばらせていただきます。
montsaintmichel
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