伏見 旅行記(ブログ) 一覧に戻る
平安京の昔から、春になると貴族たちは酒や肴を携えて花を愛でながら歌を詠みました。往時の花見の定番は桜ではなく桃や梅でしたが、いずれにせよ庶民には縁も所縁もないものでした。そんな花見を庶民が知る所とし、大衆化するきっかけとなったのが、天下人 豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」でした。そしてその「醍醐の桜」の子孫が今を盛りにと咲き誇るのが、真言宗醍醐派の総本山となる笠取山(醍醐山)一帯に広がる「深雪山醍醐寺」です。<br />しかし、醍醐寺は元々桜の名所だったわけではありません。秀吉が気まぐれにこの地で花見がしたいと言い出し、わずか1ヶ月の突貫工事で約700本の桜を近江や山城、河内、大和から移植し、花見に間に合わせたのです。まさしく天下人らしい発想と荒技で花見を完遂させたこの醍醐寺は、現在も1000本もの桜が咲き乱れる名所と称えられています。<br />1598年3月15日、秀吉は、醍醐寺に嫡子 秀頼や正室の北政所「ねね」、側室「淀」、配下の武将とその家族など総勢1300人を招き、日本史上に残る空前の宴を催しました。その際、花見に合わせて建造されたのが、三宝院唐門と表書院の2棟の国宝です。三宝院は、再建の際に公家の寝殿造と武家の書院造とを折衷した桃山時代の住宅建築として名を馳せています。<br />そして秀吉は花見の宴の5ヶ月後に世を去りました。死期が近いことを悟っての最期の我が儘だったのか、あるいは極楽浄土へ行くための善意の証としたかったのか…。<br />こうして秀吉への思いを馳せながら桜花の下をのんびりと散策するのも趣があるものです。昔々の「醍醐の花見」の雰囲気を肌で感じられるのは、文字通り「醍醐味」です。 <br />下醍醐と言っても広いので、3編に分けてレポさせていただきます。今回は、アクセスの途中で立ち寄った「祇園白川」界隈と醍醐寺 三宝院の「大紅しだれ桜」や「憲深林苑」の桜にスポットを当ててお届けいたします。

芳葩爛漫 桜紀行 醍醐寺①三宝院

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2015/03/31 - 2015/03/31

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

平安京の昔から、春になると貴族たちは酒や肴を携えて花を愛でながら歌を詠みました。往時の花見の定番は桜ではなく桃や梅でしたが、いずれにせよ庶民には縁も所縁もないものでした。そんな花見を庶民が知る所とし、大衆化するきっかけとなったのが、天下人 豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」でした。そしてその「醍醐の桜」の子孫が今を盛りにと咲き誇るのが、真言宗醍醐派の総本山となる笠取山(醍醐山)一帯に広がる「深雪山醍醐寺」です。
しかし、醍醐寺は元々桜の名所だったわけではありません。秀吉が気まぐれにこの地で花見がしたいと言い出し、わずか1ヶ月の突貫工事で約700本の桜を近江や山城、河内、大和から移植し、花見に間に合わせたのです。まさしく天下人らしい発想と荒技で花見を完遂させたこの醍醐寺は、現在も1000本もの桜が咲き乱れる名所と称えられています。
1598年3月15日、秀吉は、醍醐寺に嫡子 秀頼や正室の北政所「ねね」、側室「淀」、配下の武将とその家族など総勢1300人を招き、日本史上に残る空前の宴を催しました。その際、花見に合わせて建造されたのが、三宝院唐門と表書院の2棟の国宝です。三宝院は、再建の際に公家の寝殿造と武家の書院造とを折衷した桃山時代の住宅建築として名を馳せています。
そして秀吉は花見の宴の5ヶ月後に世を去りました。死期が近いことを悟っての最期の我が儘だったのか、あるいは極楽浄土へ行くための善意の証としたかったのか…。
こうして秀吉への思いを馳せながら桜花の下をのんびりと散策するのも趣があるものです。昔々の「醍醐の花見」の雰囲気を肌で感じられるのは、文字通り「醍醐味」です。
下醍醐と言っても広いので、3編に分けてレポさせていただきます。今回は、アクセスの途中で立ち寄った「祇園白川」界隈と醍醐寺 三宝院の「大紅しだれ桜」や「憲深林苑」の桜にスポットを当ててお届けいたします。

同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄
旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 四条大橋<br />四条大橋から鴨川河川敷を見渡すと、咲き誇る「枝垂桜」や「ソメイヨシノ」などの桜並木が春爛漫を演出しています。淡い紅色の桜花のグラデーションが、上品な京情緒に彩りを添えています。<br />鴨川河川敷には、一味違った風物詩があります。この様子は、帰途のエピローグで紹介いたします。

    四条大橋
    四条大橋から鴨川河川敷を見渡すと、咲き誇る「枝垂桜」や「ソメイヨシノ」などの桜並木が春爛漫を演出しています。淡い紅色の桜花のグラデーションが、上品な京情緒に彩りを添えています。
    鴨川河川敷には、一味違った風物詩があります。この様子は、帰途のエピローグで紹介いたします。

  • 祇園白川<br />白川沿いに格子戸のあるお茶屋が連なり、白い石畳の道が伸びています。時には舞妓さんの姿を見ることもあり、京都情緒を愉しむには絶好のスポットです。<br />夜桜のライトアップも素晴らしく、桜の本数は40本程で決して多くはないのですが、清い白川の流れや町屋の佇まい、辰巳大明神、巽橋と変化に富み、京都の春を存分に愉しめるスポットです。<br />

    祇園白川
    白川沿いに格子戸のあるお茶屋が連なり、白い石畳の道が伸びています。時には舞妓さんの姿を見ることもあり、京都情緒を愉しむには絶好のスポットです。
    夜桜のライトアップも素晴らしく、桜の本数は40本程で決して多くはないのですが、清い白川の流れや町屋の佇まい、辰巳大明神、巽橋と変化に富み、京都の春を存分に愉しめるスポットです。

  • 祇園白川<br />祇園白川はクランク状に流れているため、東大路通と花見小路通間を東西に流れる白川沿いの通りが白川北通、巽橋から縄手通までを白川南通と称しています。特に白川南通の巽橋から大和大路通(縄手通)までの区間の大部分は、北側の新橋通と共に、町並保存地区に指定されており、昔ながらの祇園がそのまま残されています。

    祇園白川
    祇園白川はクランク状に流れているため、東大路通と花見小路通間を東西に流れる白川沿いの通りが白川北通、巽橋から縄手通までを白川南通と称しています。特に白川南通の巽橋から大和大路通(縄手通)までの区間の大部分は、北側の新橋通と共に、町並保存地区に指定されており、昔ながらの祇園がそのまま残されています。

  • 祇園白川<br />祇園を愛した歌人 吉井勇の「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」の歌碑が建てられています。<br />清涼な白川のせせらぎに沿って立ち並ぶ桜と柳の絶妙なコントラストが目に鮮やかな、200mほどの情緒豊かな石畳の道を散策します。<br />平安時代には桜と柳を混ぜて植えるのが主流だったそうです。<br />ここは夜桜もいいですが、誰もいない早朝の景観は絶品だそうです。

    祇園白川
    祇園を愛した歌人 吉井勇の「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる」の歌碑が建てられています。
    清涼な白川のせせらぎに沿って立ち並ぶ桜と柳の絶妙なコントラストが目に鮮やかな、200mほどの情緒豊かな石畳の道を散策します。
    平安時代には桜と柳を混ぜて植えるのが主流だったそうです。
    ここは夜桜もいいですが、誰もいない早朝の景観は絶品だそうです。

  • 祇園白川<br />道を挟んで左に柳、右に桜が立ち並んでいます。<br />結婚写真の前撮りでしょうか、数組のカップルがカラフルな蛇の目傘を差して写真に納まっていました。<br />

    祇園白川
    道を挟んで左に柳、右に桜が立ち並んでいます。
    結婚写真の前撮りでしょうか、数組のカップルがカラフルな蛇の目傘を差して写真に納まっていました。

  • 醍醐駅<br />地下鉄東西線「三条京阪」駅から「醍醐」駅までの所要時間は20分ほどです。醍醐寺方面へ向かうには2番出口を目指します。<br />「醍醐」と言う耳に優しい響きから、漠然と桃山時代の歴史と自然に恵まれた清閑な街をイメージしていたのですが、あえなく崩れ去りました。<br />駅の上部はこのような「パセオダイゴロー」と呼ばれるターミナルビルになっており、公共施設とショッピングセンターを併せ持つ街のキーステーションとなっています。

    醍醐駅
    地下鉄東西線「三条京阪」駅から「醍醐」駅までの所要時間は20分ほどです。醍醐寺方面へ向かうには2番出口を目指します。
    「醍醐」と言う耳に優しい響きから、漠然と桃山時代の歴史と自然に恵まれた清閑な街をイメージしていたのですが、あえなく崩れ去りました。
    駅の上部はこのような「パセオダイゴロー」と呼ばれるターミナルビルになっており、公共施設とショッピングセンターを併せ持つ街のキーステーションとなっています。

  • 醍醐駅<br />2番出口の所に「アルプラザ」と言うショッピングセンターがあります。そこに入って直ぐの所にあるエスカレータで2階まで上がり、その先から戸外に出ると「パセオダイゴロー」の中央を東西に伸びる立派な歩行者用通路が延々と伸びています。<br />左手は緩やかな上り坂となり、その先には柔らかな稜線を見せる醍醐山が聳えますので、方向を間違えることはほぼ皆無と思います。

    醍醐駅
    2番出口の所に「アルプラザ」と言うショッピングセンターがあります。そこに入って直ぐの所にあるエスカレータで2階まで上がり、その先から戸外に出ると「パセオダイゴロー」の中央を東西に伸びる立派な歩行者用通路が延々と伸びています。
    左手は緩やかな上り坂となり、その先には柔らかな稜線を見せる醍醐山が聳えますので、方向を間違えることはほぼ皆無と思います。

  • 醍醐寺 総門<br />醍醐駅から徒歩10分ほどで総門に到着します。因みに、コミュニティーバスも出ています。<br />総門の回りは黒山の人だかりで進むのが憚られますが、左側にできている長蛇の列が三宝院で拝観チケットを購入するためのものです。総門まで列の最後尾が伸びているので、ほぼ50mほどと思われます。それでもチケット購入の待ち時間は、20分ほどでした。テーマパークに比べれば微々たるものです。<br />後から知ったことですが、三宝院と伽藍へ入られる方が多いため、霊宝館のチケット売り場は比較的すいているそうです。三宝院と霊宝館との間の距離は50mほどですので臨機応変に対応すれば時間の節約になります。<br />尚、チケット購入後、三宝院へ入るためにまた並ぶことになりますので、相方がいれば適当なところで列に並んでもらうことをお勧めします。また、チケットは、三宝院、伽藍、霊宝館のうちの2箇所、3箇所の共通券もありますので、共通券を購入すれば時間とお金の節約になります。<br />詳しくは、醍醐寺のHPでご確認ください。<br />https://www.daigoji.or.jp/guide_fee.html

    醍醐寺 総門
    醍醐駅から徒歩10分ほどで総門に到着します。因みに、コミュニティーバスも出ています。
    総門の回りは黒山の人だかりで進むのが憚られますが、左側にできている長蛇の列が三宝院で拝観チケットを購入するためのものです。総門まで列の最後尾が伸びているので、ほぼ50mほどと思われます。それでもチケット購入の待ち時間は、20分ほどでした。テーマパークに比べれば微々たるものです。
    後から知ったことですが、三宝院と伽藍へ入られる方が多いため、霊宝館のチケット売り場は比較的すいているそうです。三宝院と霊宝館との間の距離は50mほどですので臨機応変に対応すれば時間の節約になります。
    尚、チケット購入後、三宝院へ入るためにまた並ぶことになりますので、相方がいれば適当なところで列に並んでもらうことをお勧めします。また、チケットは、三宝院、伽藍、霊宝館のうちの2箇所、3箇所の共通券もありますので、共通券を購入すれば時間とお金の節約になります。
    詳しくは、醍醐寺のHPでご確認ください。
    https://www.daigoji.or.jp/guide_fee.html

  • 醍醐寺 総門<br />総門の前ではプロローグ的存在となる早咲きの枝垂桜が見頃を迎えています。<br />醍醐寺の枝垂桜は京都屈指の巨木揃いですので、初めて訪れる方はそのスケールに圧倒されること間違いなしです。

    醍醐寺 総門
    総門の前ではプロローグ的存在となる早咲きの枝垂桜が見頃を迎えています。
    醍醐寺の枝垂桜は京都屈指の巨木揃いですので、初めて訪れる方はそのスケールに圧倒されること間違いなしです。

  • 醍醐寺 総門<br />上醍醐も含め、醍醐寺の境内入口となるのがこの総門です。<br />それなりの風格はあるものの、寺の規模から察するに小ぶりで控え目な感じのする門です。

    醍醐寺 総門
    上醍醐も含め、醍醐寺の境内入口となるのがこの総門です。
    それなりの風格はあるものの、寺の規模から察するに小ぶりで控え目な感じのする門です。

  • 醍醐寺 総門<br />総門を潜って振り返ると、絵に描いたような枝垂桜が見送ってくれています。<br /><br />醍醐寺のHPでは、3月下旬から桜の開花情報を提供されています。枝垂桜は、京都の中では早咲きで有名です。三宝院の「太閤しだれ桜」や霊宝館の「醍醐深雪桜」、伽藍の代表的な桜の写真がディーリーで更新されますので要チェックです。<br />見頃を見極めて訪問されることをお勧めします。<br />醍醐寺のHPです。境内の案内図もあります。<br />https://www.daigoji.or.jp/

    醍醐寺 総門
    総門を潜って振り返ると、絵に描いたような枝垂桜が見送ってくれています。

    醍醐寺のHPでは、3月下旬から桜の開花情報を提供されています。枝垂桜は、京都の中では早咲きで有名です。三宝院の「太閤しだれ桜」や霊宝館の「醍醐深雪桜」、伽藍の代表的な桜の写真がディーリーで更新されますので要チェックです。
    見頃を見極めて訪問されることをお勧めします。
    醍醐寺のHPです。境内の案内図もあります。
    https://www.daigoji.or.jp/

  • 醍醐寺 桜の馬場<br />総門から西大門(仁王門)までの間を「桜の馬場」と言い、春には参道の両脇に植えられた桜並木が行きかう人に迫るように咲き誇ります。<br />桜並木の本数も別格ですが、人の頭の数の多さも半端ではありません。

    醍醐寺 桜の馬場
    総門から西大門(仁王門)までの間を「桜の馬場」と言い、春には参道の両脇に植えられた桜並木が行きかう人に迫るように咲き誇ります。
    桜並木の本数も別格ですが、人の頭の数の多さも半端ではありません。

  • 醍醐寺 <br />白い築地塀に映える薄紅色の桜花。<br />目線を落とせば、そこに広がるのは碧の苔の海。<br />これぞコントラストの妙!<br />因みに、築地塀には門跡を示す5本の横線「定規筋」が施されています。

    醍醐寺
    白い築地塀に映える薄紅色の桜花。
    目線を落とせば、そこに広がるのは碧の苔の海。
    これぞコントラストの妙!
    因みに、築地塀には門跡を示す5本の横線「定規筋」が施されています。

  • 醍醐寺 三宝院(さんぼういん)<br />三宝院は、1115年に醍醐寺第14世座主 勝覚僧正が創建し、当初は密教儀式殿院「灌頂院(かんじょういん)」と呼ばれましたが、後に仏教の三宝に因んで「三宝院」に改名されました。歴代の座主を輩出する五門跡のひとつとして栄え、1428年以降は座主の職を独占して一山を支配していました。しかし、応仁の乱で焼失し、廃寺同然となりました。この荒廃した醍醐寺を立て直したのが、義演准后(ぎえんじゅご う)です。往時、義演は「金剛輪院」を改修し、そこに居住していました。秀吉の庇護を受けて醍醐寺を再興し、金剛輪院の建 物や庭を座主の居住するに相応しい風格のものに造り替えました。その結果、金剛輪院は「三宝院」の名を受け継ぎ、今に至っています。

    醍醐寺 三宝院(さんぼういん)
    三宝院は、1115年に醍醐寺第14世座主 勝覚僧正が創建し、当初は密教儀式殿院「灌頂院(かんじょういん)」と呼ばれましたが、後に仏教の三宝に因んで「三宝院」に改名されました。歴代の座主を輩出する五門跡のひとつとして栄え、1428年以降は座主の職を独占して一山を支配していました。しかし、応仁の乱で焼失し、廃寺同然となりました。この荒廃した醍醐寺を立て直したのが、義演准后(ぎえんじゅご う)です。往時、義演は「金剛輪院」を改修し、そこに居住していました。秀吉の庇護を受けて醍醐寺を再興し、金剛輪院の建 物や庭を座主の居住するに相応しい風格のものに造り替えました。その結果、金剛輪院は「三宝院」の名を受け継ぎ、今に至っています。

  • 醍醐寺 三宝院 正門<br />正門の先には樹齢160年の「大紅しだれ桜」とその子孫に当たるクローン桜「太閤千代しだれ桜」が対峙し、互いの美しさを讃えあっているようで微笑ましく思えます。<br />そして正面には、大玄関前の立派な松の植込みが桜とのコントラストを強調し見事です。<br /><br />衰退しつつある醍醐寺の復興に我が身を捧げ、秀吉と共に「醍醐の花見」を実現させたのが三宝院門跡義演准后です。義演は、次々と伽藍を復興していきました。では何故、義演がこのような復興を遂げられたのでしょうか?<br />秀吉は関白職の座を手にしましたが、実はその地位は前任の関白 二条昭実から譲られたものでした。そして二条昭実こそ義演の兄だったのです。つまり二条家は関白の座を譲って秀吉に恩を売ったわけです。こうして秀吉からの潤沢な援助を受け、伽藍をあっという間に復興させました。またそれだけではなく、太閤検地の折りには、醍醐寺の困窮を訴えて替地を獲得したのでした。

    醍醐寺 三宝院 正門
    正門の先には樹齢160年の「大紅しだれ桜」とその子孫に当たるクローン桜「太閤千代しだれ桜」が対峙し、互いの美しさを讃えあっているようで微笑ましく思えます。
    そして正面には、大玄関前の立派な松の植込みが桜とのコントラストを強調し見事です。

    衰退しつつある醍醐寺の復興に我が身を捧げ、秀吉と共に「醍醐の花見」を実現させたのが三宝院門跡義演准后です。義演は、次々と伽藍を復興していきました。では何故、義演がこのような復興を遂げられたのでしょうか?
    秀吉は関白職の座を手にしましたが、実はその地位は前任の関白 二条昭実から譲られたものでした。そして二条昭実こそ義演の兄だったのです。つまり二条家は関白の座を譲って秀吉に恩を売ったわけです。こうして秀吉からの潤沢な援助を受け、伽藍をあっという間に復興させました。またそれだけではなく、太閤検地の折りには、醍醐寺の困窮を訴えて替地を獲得したのでした。

  • 醍醐寺 三宝院 太閤しだれ桜<br />「三宝院門跡」と書かれた門を潜ると、目の前には「太閤しだれ桜」の大樹群、その先には三宝院表書院への拝観入口となる、三宝院大玄関(重文)の唐破風の車寄が桃山様式の構えを惜しみなく見せています。<br />いつか満開の桜花が彩る季節にここを訪れ、太閤秀吉の栄華を偲んでみたいと思っていましたが、その夢を漸く果すことが叶いました。<br />

    醍醐寺 三宝院 太閤しだれ桜
    「三宝院門跡」と書かれた門を潜ると、目の前には「太閤しだれ桜」の大樹群、その先には三宝院表書院への拝観入口となる、三宝院大玄関(重文)の唐破風の車寄が桃山様式の構えを惜しみなく見せています。
    いつか満開の桜花が彩る季節にここを訪れ、太閤秀吉の栄華を偲んでみたいと思っていましたが、その夢を漸く果すことが叶いました。

  • 醍醐寺 三宝院 太閤しだれ桜<br />三宝院に入って直ぐの左手にある桜の群れ(3本)は「太閤しだれ桜」と呼ばれています。その中でも日本画家 奥村土牛が1972年に描いた代表作『醍醐』のモチーフとなった幹が2本に分かれた特徴的な「大紅しだれ桜」は、通称「土牛の桜」と称されて親しまれています。大きさもさることながら、形や枝ぶりも美しく、画家が筆を取りたくなるのも頷ける魅力的な桜です。<br />土牛の『醍醐』はどちらかと言うと、幹部を主体とした構図で力強く描かれた作品ですが、この太く力強い幹が透明感のある艶やかな桜の花びらをより強調しています。<br />『醍醐』は渋谷区にある山種美術館に所蔵されています。この絵は切手にもなりました。<br />切手についてはこのサイトをご覧ください。<br />http://kininaruart.com/artist/nihonga/stamp/togyu_st.html<br />山種美術館にある『醍醐』の絵はこちらを参照ください。<br />http://www.yamatane-museum.jp/collection/collection.html

    醍醐寺 三宝院 太閤しだれ桜
    三宝院に入って直ぐの左手にある桜の群れ(3本)は「太閤しだれ桜」と呼ばれています。その中でも日本画家 奥村土牛が1972年に描いた代表作『醍醐』のモチーフとなった幹が2本に分かれた特徴的な「大紅しだれ桜」は、通称「土牛の桜」と称されて親しまれています。大きさもさることながら、形や枝ぶりも美しく、画家が筆を取りたくなるのも頷ける魅力的な桜です。
    土牛の『醍醐』はどちらかと言うと、幹部を主体とした構図で力強く描かれた作品ですが、この太く力強い幹が透明感のある艶やかな桜の花びらをより強調しています。
    『醍醐』は渋谷区にある山種美術館に所蔵されています。この絵は切手にもなりました。
    切手についてはこのサイトをご覧ください。
    http://kininaruart.com/artist/nihonga/stamp/togyu_st.html
    山種美術館にある『醍醐』の絵はこちらを参照ください。
    http://www.yamatane-museum.jp/collection/collection.html

  • 醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜<br />豊臣秀吉が醍醐の地へ移植させた桜の子孫とされる推定樹齢160年の「大紅しだれ桜」です。JR東海のCMに使われた桜で、通称「土牛の桜」と呼ばれ、まるで流れ落ちる滝のように枝垂れて淡いピンク色の花を付け、春爛漫の様相を浮かべています。<br />枝を支える添え木の数の多さが桜の巨大さを黙して語りかけてくれます。

    醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜
    豊臣秀吉が醍醐の地へ移植させた桜の子孫とされる推定樹齢160年の「大紅しだれ桜」です。JR東海のCMに使われた桜で、通称「土牛の桜」と呼ばれ、まるで流れ落ちる滝のように枝垂れて淡いピンク色の花を付け、春爛漫の様相を浮かべています。
    枝を支える添え木の数の多さが桜の巨大さを黙して語りかけてくれます。

  • 醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜と大玄関<br />醍醐の花見の表向きの目的は「北政所のストレス解消」でしたが、実際は慶長の役で朝鮮出兵の失策が豊臣家にもたらした暗澹たるムードを払拭したいと秀吉自ら望んだイベントでした。他に類を見ない盛大な花見だった一方、秀吉一行が夢見心地なひと時を楽しんでいた最中、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていました。<br />死期を悟った秀吉が、最愛の嫡子 秀頼や北政所、淀などの妻妾を喜ばせたいという側面もあったことでしょう。秀吉最期のビックイベントとしてこの花見が後世に語り継がれ、庶民の間に花見が定着する契機となったそうです。なにはともあれ、こうして花見ができることの喜びを秀吉に感謝しなくてはなりませんね!<br />そして醍醐の花見から5ヶ月後に秀吉は没します。最期の栄華を見せつけた醍醐の花見は、一見貴族趣味の花見にも映りますが、桜を肴に酒宴に興じた点では庶民的な花見の原点と言えます。恐らく、秀吉でなければ花見を空前のイベントにするなどのアイデアは生まれなかったでしょう。現在の花見が騒々しいのは、「そこに秀吉のDNAが埋め込まれているから」と言ったら充分な言い訳になりそうです。

    醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜と大玄関
    醍醐の花見の表向きの目的は「北政所のストレス解消」でしたが、実際は慶長の役で朝鮮出兵の失策が豊臣家にもたらした暗澹たるムードを払拭したいと秀吉自ら望んだイベントでした。他に類を見ない盛大な花見だった一方、秀吉一行が夢見心地なひと時を楽しんでいた最中、朝鮮半島では激しい戦闘が続いていました。
    死期を悟った秀吉が、最愛の嫡子 秀頼や北政所、淀などの妻妾を喜ばせたいという側面もあったことでしょう。秀吉最期のビックイベントとしてこの花見が後世に語り継がれ、庶民の間に花見が定着する契機となったそうです。なにはともあれ、こうして花見ができることの喜びを秀吉に感謝しなくてはなりませんね!
    そして醍醐の花見から5ヶ月後に秀吉は没します。最期の栄華を見せつけた醍醐の花見は、一見貴族趣味の花見にも映りますが、桜を肴に酒宴に興じた点では庶民的な花見の原点と言えます。恐らく、秀吉でなければ花見を空前のイベントにするなどのアイデアは生まれなかったでしょう。現在の花見が騒々しいのは、「そこに秀吉のDNAが埋め込まれているから」と言ったら充分な言い訳になりそうです。

  • 醍醐寺 三宝院 <br />大紅しだれ桜と青空を借景にした純白のモクレンです。<br /><br />秀吉時世の句「露と落ち 露と消えにしわが身かな なにわのことは夢のまた夢」。<br />「早朝、葉の上につく露は、太陽が昇れば瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか跡形も残らない。天下を統一し、関白にもなった。大坂城を造り、栄華を極める聚楽第も築いた。今から思えば、朝露が消えるような、アッという間の一生だった。夢の中で夢を見ているような、儚いものであったことよ」と心境を詠んでいます。この秀吉の辞世の句は、はからずも自分の死の17年後に滅びゆく豊臣家の運命を見透かしているようにも思えます。

    醍醐寺 三宝院
    大紅しだれ桜と青空を借景にした純白のモクレンです。

    秀吉時世の句「露と落ち 露と消えにしわが身かな なにわのことは夢のまた夢」。
    「早朝、葉の上につく露は、太陽が昇れば瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか跡形も残らない。天下を統一し、関白にもなった。大坂城を造り、栄華を極める聚楽第も築いた。今から思えば、朝露が消えるような、アッという間の一生だった。夢の中で夢を見ているような、儚いものであったことよ」と心境を詠んでいます。この秀吉の辞世の句は、はからずも自分の死の17年後に滅びゆく豊臣家の運命を見透かしているようにも思えます。

  • 醍醐寺 三宝院 太閤しだれ桜<br />桜の直下に潜り込むと桜花のシャワーを浴びているような幻想的な気分に浸れ、昼間でもほの暗い異空間を味わうことができます。<br /><br />秀吉が「醍醐の花見」にかける思いには並々ならぬものがあったようです。責任者に奉行 前田玄以を抜擢し、早くから寺観の整備を務めさせました。自らも足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を陣頭指揮しました。因みに、往時の花見は、山の中腹から下界の桜を俯瞰すると言うスケールの大きなものだったそうです。「醍醐の花見」の日は、前日までの暴風雨が嘘のようにピタリとやみ、絶好の花見日和になったそうです。これも秀吉の強運の現れと言えるでしょう。茶屋を8か所設け、各地の銘柄を用意して茶も点てられました。前田玄以の茶屋には湯殿まで設えられ、秀吉はそこで汗を流してから御膳についたそうです。<br />また、女性には2回の衣装替えが命じられ、その煌びやかな衣装は桜花以上に秀吉の目を喜ばせたそうです。歌会も開かれ、秀吉や秀頼らの自筆の和歌の短冊は今も醍醐寺に遺されています。秀吉はこの日、始終上機嫌だったそうです。桜の花びらが散り積もった野山の小径を、秀頼や女官たちに手を引かれながらはしゃぎ歩く秀吉の姿が目に浮かぶようです。

    醍醐寺 三宝院 太閤しだれ桜
    桜の直下に潜り込むと桜花のシャワーを浴びているような幻想的な気分に浸れ、昼間でもほの暗い異空間を味わうことができます。

    秀吉が「醍醐の花見」にかける思いには並々ならぬものがあったようです。責任者に奉行 前田玄以を抜擢し、早くから寺観の整備を務めさせました。自らも足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を陣頭指揮しました。因みに、往時の花見は、山の中腹から下界の桜を俯瞰すると言うスケールの大きなものだったそうです。 「醍醐の花見」の日は、前日までの暴風雨が嘘のようにピタリとやみ、絶好の花見日和になったそうです。これも秀吉の強運の現れと言えるでしょう。 茶屋を8か所設け、各地の銘柄を用意して茶も点てられました。前田玄以の茶屋には湯殿まで設えられ、秀吉はそこで汗を流してから御膳についたそうです。
    また、女性には2回の衣装替えが命じられ、その煌びやかな衣装は桜花以上に秀吉の目を喜ばせたそうです。歌会も開かれ、秀吉や秀頼らの自筆の和歌の短冊は今も醍醐寺に遺されています。秀吉はこの日、始終上機嫌だったそうです。桜の花びらが散り積もった野山の小径を、秀頼や女官たちに手を引かれながらはしゃぎ歩く秀吉の姿が目に浮かぶようです。

  • 醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜<br />艶やかな花見の宴席でしたが、女同士のドロドロした醜い修羅場になりかけたとの記録が残されています。<br />正室 北政所の次に誰が杯を受けるかで、淀殿と松の丸殿が杯を奪い合ったのです。淀殿が受けようとすると、松の丸殿が待ったをかけて割り込んだのです。一触即発の状態でしたが、すかさず前田利家の妻まつが「それでは私が…」とあっさり受け流して丸く治めたというエピソードです。<br />松の丸殿の嫉妬が原因だったのでしょうか?<br />実は、一般的には、松の丸殿の方が格上と見るそうです。ですから、順番は松の丸殿の方が先が正しいようです。何故なら、淀殿の出身が近江の豪族 浅井家なのに対し、松の丸殿は近江守護職 京極家であり、往時の常識ではその差は隔絶だったようです。淀殿が秀頼の生母という箔がついても、同じ側室ですので格が逆転することはなかったようです。<br />それまでも淀殿は秀頼の母ということを鼻に掛けて態度が大きく、松の丸殿も輿の順を譲るなどして気を遣っていましたが、再三の傲慢な態度に堪忍袋の緒が切れたと言うことでしょう。<br />それにつけてもだらしないのは男連中です。張本人の秀吉は、あっけにとられて何もできなかったようです。まつの機転が利かなければどうなっていたことやら…。

    醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜
    艶やかな花見の宴席でしたが、女同士のドロドロした醜い修羅場になりかけたとの記録が残されています。
    正室 北政所の次に誰が杯を受けるかで、淀殿と松の丸殿が杯を奪い合ったのです。淀殿が受けようとすると、松の丸殿が待ったをかけて割り込んだのです。一触即発の状態でしたが、すかさず前田利家の妻まつが「それでは私が…」とあっさり受け流して丸く治めたというエピソードです。
    松の丸殿の嫉妬が原因だったのでしょうか?
    実は、一般的には、松の丸殿の方が格上と見るそうです。ですから、順番は松の丸殿の方が先が正しいようです。何故なら、淀殿の出身が近江の豪族 浅井家なのに対し、松の丸殿は近江守護職 京極家であり、往時の常識ではその差は隔絶だったようです。淀殿が秀頼の生母という箔がついても、同じ側室ですので格が逆転することはなかったようです。
    それまでも淀殿は秀頼の母ということを鼻に掛けて態度が大きく、松の丸殿も輿の順を譲るなどして気を遣っていましたが、再三の傲慢な態度に堪忍袋の緒が切れたと言うことでしょう。
    それにつけてもだらしないのは男連中です。張本人の秀吉は、あっけにとられて何もできなかったようです。まつの機転が利かなければどうなっていたことやら…。

  • 醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜<br />1598年8月、秀吉は徳川家康や前田利家に後を託し、病のため伏見城で62年間の生涯に幕を閉じました。一説には胃がんと伝えられています。本来なら平和で安らかな臨終を迎えられたはずですが、無数の武将たちを戦場で無念の死に追いやった天下人は、人を信じられず、我が子の行く末を案じて半狂乱であったとも伝えられています。志半ばで戦場の華と散った英霊たちと、財力も地位も権力も頂点を極めた秀吉の最期。どちらが幸せな死に様と言えるでしょうか…。改めて人生の無情を感じずにはいられません。<br />死期間際の秀吉の悪い予感が見事に的中し、皮肉にも露と消えたのは我が身だけでなく、死後17年で「豊臣家は永遠に不滅!」という夢も泡沫の如く儚く消え失せたのでした。

    醍醐寺 三宝院 大紅しだれ桜
    1598年8月、秀吉は徳川家康や前田利家に後を託し、病のため伏見城で62年間の生涯に幕を閉じました。一説には胃がんと伝えられています。本来なら平和で安らかな臨終を迎えられたはずですが、無数の武将たちを戦場で無念の死に追いやった天下人は、人を信じられず、我が子の行く末を案じて半狂乱であったとも伝えられています。志半ばで戦場の華と散った英霊たちと、財力も地位も権力も頂点を極めた秀吉の最期。どちらが幸せな死に様と言えるでしょうか…。改めて人生の無情を感じずにはいられません。
    死期間際の秀吉の悪い予感が見事に的中し、皮肉にも露と消えたのは我が身だけでなく、死後17年で「豊臣家は永遠に不滅!」という夢も泡沫の如く儚く消え失せたのでした。

  • 醍醐寺 三宝院 太閤千代しだれ桜<br />大紅しだれ桜は、老齢化で挿し木や接ぎ木、株分けもできず、どのように子孫を残すか悩みの種だったようです。そこで白羽の矢が立てられたのが細胞培養によるクローニング。住友林業筑波研究所が請負いました。こうした最新バイオ技術のおかげで、秀吉ゆかりの桜20本ほどが子孫を残しており、50年、100年後にも愛でられることでしょう。クローン桜は「太閤千代しだれ桜」と命名され、三宝院の一角で親子が対面しながら美の競演を魅せてくれます。

    醍醐寺 三宝院 太閤千代しだれ桜
    大紅しだれ桜は、老齢化で挿し木や接ぎ木、株分けもできず、どのように子孫を残すか悩みの種だったようです。そこで白羽の矢が立てられたのが細胞培養によるクローニング。住友林業筑波研究所が請負いました。こうした最新バイオ技術のおかげで、秀吉ゆかりの桜20本ほどが子孫を残しており、50年、100年後にも愛でられることでしょう。クローン桜は「太閤千代しだれ桜」と命名され、三宝院の一角で親子が対面しながら美の競演を魅せてくれます。

  • 醍醐寺 三宝院 表書院大玄関<br />太閤しだれ桜の観賞後、表書院へ上がって庭園を鑑賞します。表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝です。<br />三宝院庭園は1598年、秀吉が「醍醐の花見」を開催した時に作庭が開始されました。庭園は秀吉が自ら設計をし、庭奉行竹田梅松軒に命じ造らせたとされ、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。国の特別史跡・特別名勝に指定され、京都で3か所、全国でも9か所しかない庭園の最高峰のひとつに数えられています。<br />表書院は縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が造りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建て方をしています。下段、中断、上段の間に分かれ、下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間(18畳)、上段の間(15畳)は下段(26畳)の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。上段を少し高くすることで逆遠近法が駆使されています。これによって遠くから見ても能舞台が大きく見えるようにしています。<br />また、建築技法については、新しもの好きだった秀吉は、三の間、上段二の間、上段一の間と、奥へ向かうにつれて 一間  ずつ奥行きが減じる典型的な遠近法工法を採らせています。<br /><br />藤戸石<br />三宝院庭園に安置された「藤戸石」は、源平藤戸合戦に題材をとった能「藤戸」に由来す る高さ1.8m、幅1.1mの名石です。 両脇に置かれた石は、阿弥陀三尊を表します。<br />源平合戦の最中、平氏の軍勢を源範頼 が攻めた際、波が高くて渡れず困惑していると御家人の佐々木盛綱が手勢を率い、馬に乗 ったまま浅瀬を渡りました。それに続いた源氏勢は一気に平氏を追い落としました。 盛綱は浅瀬の場所を地元の漁夫から聞き出し、口封じのためその場で漁夫 を切り殺しました。その殺害現場にあったとされる悲劇の石です。しかし、源氏を勝利に導いた象徴だからか、藤戸石は「天下の名石」として語り継がれました。 その石は、室町後期に実権を握っていた細川管領邸に現れ、それを織田信長が奪って二条邸まで運びました。次なる天下人 秀吉は、その石を聚楽第の庭に移し、その後三宝院庭園の主人石としたのです。<br />ひときわ存在感をアピールする藤戸石は、天下人の自負を体現したような堂々たる石です。

    醍醐寺 三宝院 表書院大玄関
    太閤しだれ桜の観賞後、表書院へ上がって庭園を鑑賞します。表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝です。
    三宝院庭園は1598年、秀吉が「醍醐の花見」を開催した時に作庭が開始されました。庭園は秀吉が自ら設計をし、庭奉行竹田梅松軒に命じ造らせたとされ、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。国の特別史跡・特別名勝に指定され、京都で3か所、全国でも9か所しかない庭園の最高峰のひとつに数えられています。
    表書院は縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が造りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建て方をしています。下段、中断、上段の間に分かれ、下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間(18畳)、上段の間(15畳)は下段(26畳)の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。上段を少し高くすることで逆遠近法が駆使されています。これによって遠くから見ても能舞台が大きく見えるようにしています。
    また、建築技法については、新しもの好きだった秀吉は、三の間、上段二の間、上段一の間と、奥へ向かうにつれて 一間 ずつ奥行きが減じる典型的な遠近法工法を採らせています。

    藤戸石
    三宝院庭園に安置された「藤戸石」は、源平藤戸合戦に題材をとった能「藤戸」に由来す る高さ1.8m、幅1.1mの名石です。 両脇に置かれた石は、阿弥陀三尊を表します。
    源平合戦の最中、平氏の軍勢を源範頼 が攻めた際、波が高くて渡れず困惑していると御家人の佐々木盛綱が手勢を率い、馬に乗 ったまま浅瀬を渡りました。それに続いた源氏勢は一気に平氏を追い落としました。 盛綱は浅瀬の場所を地元の漁夫から聞き出し、口封じのためその場で漁夫 を切り殺しました。その殺害現場にあったとされる悲劇の石です。しかし、源氏を勝利に導いた象徴だからか、藤戸石は「天下の名石」として語り継がれました。 その石は、室町後期に実権を握っていた細川管領邸に現れ、それを織田信長が奪って二条邸まで運びました。次なる天下人 秀吉は、その石を聚楽第の庭に移し、その後三宝院庭園の主人石としたのです。
    ひときわ存在感をアピールする藤戸石は、天下人の自負を体現したような堂々たる石です。

  • 醍醐寺 三宝院 庫裏(くり)<br />大玄関を出て裏手へ進むと右手にあるのが庫裏。醍醐山を借景に、一重、入母屋造、桟瓦葺の威風堂々たる姿で聳え建っています。1598年の造立で、重要文化財に指定されています。<br />庫裏は、禅宗寺院の庫院から起ったもので、寺院の僧侶が居住する社務所であり、また寺内の台所も兼ねる場所です。現代では、その多くは僧侶の居住する場所を指すことが多いようです。<br /><br />三宝院の大玄関を上がった先は、部屋も庭園も一切撮影禁止です。拝観料まで取って、何故庭園までも撮影禁止なのかと疑問に思いますが、施設管理権によるものだそうです。<br />施設や敷地を管理するという権限の下、基本的人権を侵害しない限り、施設内の人の行為や言動を制限できてしまいます。つまり、施設管理者のさじ加減でどうにでもなるということです。<br />混同し易いものに著作権があります。あらゆる著作物には著作権が生じますが、著作権で保護できないものも存在します。写真撮影に限定すれば、屋外展示作品や歴史的建造物は著作権で保護されないため、撮影しても構わないことになります。しかし、ここに施設管理権を適用すると判定が覆えります。「No!」と言われたら、敷地内であれば例え窓から見える風景だろうと建物だろうと、どんなものでも撮影が許されません。<br />どのレベルまでこの権利を適用するかのボーダーラインは、海外でも施設管理者に委ねられており曖昧です。ルーヴルやバチカン美術館では撮影OKですが、ウフィツィやボルゲーゼ美術館などはNGです。日本ではアートと市民の距離が遠く、撮影OKの美術館は限定的ですが、「観光大国」になるには柔軟な対応が迫られるかもしれせん。海外からの出張絵画で儲けようとしている現状では、日本は外国に比べて文化レベルが低いと言われても、残念ながら肯くしかありませんね!<br />翻って、撮影マナーの悪さがこうした事態を引き起こしたとも考えられます。近年は若者よりも年配(特に団塊世代)の方々のマナーの悪さに目を覆いたくなることが少なくありません。高度経済成長を牽引された世代ですので、何時までもその時の矜持を忘れない紳士淑女として、燦然と輝く人生の縮図のロールモデルであって欲しいと思います。

    醍醐寺 三宝院 庫裏(くり)
    大玄関を出て裏手へ進むと右手にあるのが庫裏。醍醐山を借景に、一重、入母屋造、桟瓦葺の威風堂々たる姿で聳え建っています。1598年の造立で、重要文化財に指定されています。
    庫裏は、禅宗寺院の庫院から起ったもので、寺院の僧侶が居住する社務所であり、また寺内の台所も兼ねる場所です。現代では、その多くは僧侶の居住する場所を指すことが多いようです。

    三宝院の大玄関を上がった先は、部屋も庭園も一切撮影禁止です。拝観料まで取って、何故庭園までも撮影禁止なのかと疑問に思いますが、施設管理権によるものだそうです。
    施設や敷地を管理するという権限の下、基本的人権を侵害しない限り、施設内の人の行為や言動を制限できてしまいます。つまり、施設管理者のさじ加減でどうにでもなるということです。
    混同し易いものに著作権があります。あらゆる著作物には著作権が生じますが、著作権で保護できないものも存在します。写真撮影に限定すれば、屋外展示作品や歴史的建造物は著作権で保護されないため、撮影しても構わないことになります。しかし、ここに施設管理権を適用すると判定が覆えります。「No!」と言われたら、敷地内であれば例え窓から見える風景だろうと建物だろうと、どんなものでも撮影が許されません。
    どのレベルまでこの権利を適用するかのボーダーラインは、海外でも施設管理者に委ねられており曖昧です。ルーヴルやバチカン美術館では撮影OKですが、ウフィツィやボルゲーゼ美術館などはNGです。日本ではアートと市民の距離が遠く、撮影OKの美術館は限定的ですが、「観光大国」になるには柔軟な対応が迫られるかもしれせん。海外からの出張絵画で儲けようとしている現状では、日本は外国に比べて文化レベルが低いと言われても、残念ながら肯くしかありませんね!
    翻って、撮影マナーの悪さがこうした事態を引き起こしたとも考えられます。近年は若者よりも年配(特に団塊世代)の方々のマナーの悪さに目を覆いたくなることが少なくありません。高度経済成長を牽引された世代ですので、何時までもその時の矜持を忘れない紳士淑女として、燦然と輝く人生の縮図のロールモデルであって欲しいと思います。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑(けんじんりんえん)<br />三宝院裏手にある庫裏の先を左へ折れると池泉回遊式の庭園「憲深林苑」に至ります。<br />「醍醐の花見」を彷彿とさせる五七の桐紋入りの紅白幕に囲われた枝垂桜が華やかな雰囲気で迎え入れてくれます。<br />表の喧騒をよそに、ツアー客があまり訪れないエリアでもあり、静かな穴場スポットになっています。<br />うららかな春の陽射しの下、どこかのんびりとした春の空気が流れています。

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑(けんじんりんえん)
    三宝院裏手にある庫裏の先を左へ折れると池泉回遊式の庭園「憲深林苑」に至ります。
    「醍醐の花見」を彷彿とさせる五七の桐紋入りの紅白幕に囲われた枝垂桜が華やかな雰囲気で迎え入れてくれます。
    表の喧騒をよそに、ツアー客があまり訪れないエリアでもあり、静かな穴場スポットになっています。
    うららかな春の陽射しの下、どこかのんびりとした春の空気が流れています。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑<br />樹下から透かし見ると桜花の色彩の濃淡が重なり合い、目を瞠る美しさです。<br />ピンク系の桜は、醍醐寺境内で真っ先に開花する河津桜です。<br /><br />

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑
    樹下から透かし見ると桜花の色彩の濃淡が重なり合い、目を瞠る美しさです。
    ピンク系の桜は、醍醐寺境内で真っ先に開花する河津桜です。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑<br />枝垂桜を表から撮る者と裏から撮る者の思惑は、できればそこに立っていて欲しくないという共通願望です。このようにレンズ同士がお見合いするとドキッとしてしまいます。<br />こちらは望遠で撮っており、木陰ですのでそれほど邪魔にはならないと思いますが、撮影後は速やかに退散するに限ります。

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑
    枝垂桜を表から撮る者と裏から撮る者の思惑は、できればそこに立っていて欲しくないという共通願望です。このようにレンズ同士がお見合いするとドキッとしてしまいます。
    こちらは望遠で撮っており、木陰ですのでそれほど邪魔にはならないと思いますが、撮影後は速やかに退散するに限ります。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑<br />薄暗い庭園の奥まで立ち入られる方は更に少ないのですが、このように杉木立が生えるバックヤードから、黒山の人だかりだった「太閤しだれ桜」を仰ぎ見ることができる穴場スポットでもあります。<br />シルエットになった分、しなった枝に力強さが漲り、エネルギーをお裾分けしてもらったような気分になれます。

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑
    薄暗い庭園の奥まで立ち入られる方は更に少ないのですが、このように杉木立が生えるバックヤードから、黒山の人だかりだった「太閤しだれ桜」を仰ぎ見ることができる穴場スポットでもあります。
    シルエットになった分、しなった枝に力強さが漲り、エネルギーをお裾分けしてもらったような気分になれます。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑<br />枝垂桜は「糸桜」とも呼ばれ、鎌倉時代の文献にもその名前が見え、古来より多くの人々に親しまれてきました。<br /><br />秀吉の時代は、後世に「桃山時代」と呼ばれるようになりました。その特徴は豪華絢爛の一言に尽きますが、いったい「桃山」とは何を意味するのでしょうか?<br />秀吉は終の棲家として豪華端麗な伏見城を築きましたが、その死後、徳川幕府は秀吉の影が残るのを極端に嫌って徹底的に破壊し尽くしました。城崩壊後の荒廃たる城山に里の人たちが桃の木を植えたため、この辺りを「桃山」と呼ぶようになり、以後秀吉の時代を桃山時代と言うようになったそうです。<br />しかし、幕府もさすがに天下人の遺構を無闇に廃棄したりはできませんでした。目立たないように各地に分散させ、現世に遺構を遺しています。代表的な遺構は豊国神社や西本願寺内に移された唐門等で、いずれも国宝に指定される歴史的建造物となっています。 <br />因みに、伏見城跡には往時の建物は残っておらず、中心部には明治天皇陵や昭憲皇太后陵が築かれ、宮内庁が管理しています。現在、丘に見える城のような建物は、2003年に閉園した遊園地の模擬天守です。本物とは場所も形も異なるそうです。遊園地跡は公園になっていますが、模擬天守は安全上の理由で閉鎖されているようです。

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑
    枝垂桜は「糸桜」とも呼ばれ、鎌倉時代の文献にもその名前が見え、古来より多くの人々に親しまれてきました。

    秀吉の時代は、後世に「桃山時代」と呼ばれるようになりました。その特徴は豪華絢爛の一言に尽きますが、いったい「桃山」とは何を意味するのでしょうか?
    秀吉は終の棲家として豪華端麗な伏見城を築きましたが、その死後、徳川幕府は秀吉の影が残るのを極端に嫌って徹底的に破壊し尽くしました。城崩壊後の荒廃たる城山に里の人たちが桃の木を植えたため、この辺りを「桃山」と呼ぶようになり、以後秀吉の時代を桃山時代と言うようになったそうです。
    しかし、幕府もさすがに天下人の遺構を無闇に廃棄したりはできませんでした。目立たないように各地に分散させ、現世に遺構を遺しています。代表的な遺構は豊国神社や西本願寺内に移された唐門等で、いずれも国宝に指定される歴史的建造物となっています。 
    因みに、伏見城跡には往時の建物は残っておらず、中心部には明治天皇陵や昭憲皇太后陵が築かれ、宮内庁が管理しています。現在、丘に見える城のような建物は、2003年に閉園した遊園地の模擬天守です。本物とは場所も形も異なるそうです。遊園地跡は公園になっていますが、模擬天守は安全上の理由で閉鎖されているようです。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑<br />日本人がこよなく愛してやまない桜。春の到来を告げる桜がこの季節の風物詩であることは、今も昔も同じです。それは、日本人が満開の桜が見せる華麗さや僅か数日で散りゆく儚さや潔さに美の本質を見いだしてきたからに他なりません。春の訪れを告げ、一時限りの耽美な世界を披露するその咲き様は、ことさら四季の移ろいを身近に感じてきた日本人の心情、さらには死生観をも体現することから、日本人の琴線に触れる存在だと言えます。

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑
    日本人がこよなく愛してやまない桜。春の到来を告げる桜がこの季節の風物詩であることは、今も昔も同じです。それは、日本人が満開の桜が見せる華麗さや僅か数日で散りゆく儚さや潔さに美の本質を見いだしてきたからに他なりません。春の訪れを告げ、一時限りの耽美な世界を披露するその咲き様は、ことさら四季の移ろいを身近に感じてきた日本人の心情、さらには死生観をも体現することから、日本人の琴線に触れる存在だと言えます。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑<br />土塀の屋根に降り注ぐかのような大紅しだれ桜の艶姿です。<br /><br />トイレは大玄関の左奥にありますが、仮説トイレです。<br />拝観料まで取ってこんなトイレかと嘆きたくなりますが、我慢できるのであれば霊宝館のトイレ(館の外にあります)を利用されるのがベターと思います。海外からの観光客は、どんな感想をお持ちなのか伺ってみたい気がします。きっと、我々が中国旅行では諦めの境地にあるように、同類のトイレ事情と考えているのかもしれません。であれば、日本が「観光大国」を目指すには大きな障害となることでしょう。

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑
    土塀の屋根に降り注ぐかのような大紅しだれ桜の艶姿です。

    トイレは大玄関の左奥にありますが、仮説トイレです。
    拝観料まで取ってこんなトイレかと嘆きたくなりますが、我慢できるのであれば霊宝館のトイレ(館の外にあります)を利用されるのがベターと思います。海外からの観光客は、どんな感想をお持ちなのか伺ってみたい気がします。きっと、我々が中国旅行では諦めの境地にあるように、同類のトイレ事情と考えているのかもしれません。であれば、日本が「観光大国」を目指すには大きな障害となることでしょう。

  • 醍醐寺 三宝院 憲深林苑<br />緋毛氈の掛けられた床几台と桜花のコントラストがよく似合います。<br /><br />花見の歴史を辿ると、『日本書紀』に嵯峨天皇が812年に神泉苑で「花宴」を催したという記述があります。平安時代中頃には、宮中や貴族の間で定例行事となり、鎌倉、室町時代にはその風習が武士階級にも広がりました。ただし、この頃の花見は一部の特権的な人々だけが楽しむ伝統行事としての意味合いが強く、現在の行楽としての花見とは趣が異なっていたそうです。<br />花見と聞いてイメージするのは、酒宴を楽しみ、重箱料理などに舌鼓を打つ光景。こうした「物見遊山」的な花見が始まったのは、京では桃山時代のことでした。花見文化が変化点を迎える契機になったビックイベントが、秀吉の「醍醐の花見」でした。その後、花見団子が登場し、花見が大衆文化として広まるのは江戸時代中頃になります。<br />つまり我々は、秀吉の恩恵に与っていると言っても過言ではありません。

    醍醐寺 三宝院 憲深林苑
    緋毛氈の掛けられた床几台と桜花のコントラストがよく似合います。

    花見の歴史を辿ると、『日本書紀』に嵯峨天皇が812年に神泉苑で「花宴」を催したという記述があります。平安時代中頃には、宮中や貴族の間で定例行事となり、鎌倉、室町時代にはその風習が武士階級にも広がりました。ただし、この頃の花見は一部の特権的な人々だけが楽しむ伝統行事としての意味合いが強く、現在の行楽としての花見とは趣が異なっていたそうです。
    花見と聞いてイメージするのは、酒宴を楽しみ、重箱料理などに舌鼓を打つ光景。こうした「物見遊山」的な花見が始まったのは、京では桃山時代のことでした。花見文化が変化点を迎える契機になったビックイベントが、秀吉の「醍醐の花見」でした。その後、花見団子が登場し、花見が大衆文化として広まるのは江戸時代中頃になります。
    つまり我々は、秀吉の恩恵に与っていると言っても過言ではありません。

  • 醍醐寺 三宝院 <br />秀吉は関白職には就いたものの、武士の頂点を極める征夷大将軍となり幕府を開くことはありませんでした。「将軍は清和源氏の血筋の者だけが就ける決まり」など、その理由には諸説あり一致を見ません。しかし、戦国時代の征夷大将軍の地位や権威は、関白より低かったことを考えると腑に落ちます。事実、室町時代には将軍ですら容易に殺されたり朝廷の傀儡と化していました。諜報に通じていた秀吉は、世の中をつぶさに観察して「関白宣言」したのでしょう。天下人になれるなら、関白か将軍かは取るに足らないことだったのです。強いて挙げれば、秀吉は諸大名に天皇への忠誠を誓わせることを大義名分に天下統一を果たしました。ですから、将軍よりも関白の方がやり易かったのかもしれません。<br />因みに、江戸幕府は、征夷大将軍政権だったから天下泰平が270年間続いたのではなく、知恵者 家康がそれまでの鎌倉政権から室町、織田、豊臣政権へと連綿と続く歴史観を読み解き、それらを反面教師に時代に即した政権を作り上げたから成功したとするのが正論です。

    醍醐寺 三宝院
    秀吉は関白職には就いたものの、武士の頂点を極める征夷大将軍となり幕府を開くことはありませんでした。「将軍は清和源氏の血筋の者だけが就ける決まり」など、その理由には諸説あり一致を見ません。しかし、戦国時代の征夷大将軍の地位や権威は、関白より低かったことを考えると腑に落ちます。事実、室町時代には将軍ですら容易に殺されたり朝廷の傀儡と化していました。諜報に通じていた秀吉は、世の中をつぶさに観察して「関白宣言」したのでしょう。天下人になれるなら、関白か将軍かは取るに足らないことだったのです。強いて挙げれば、秀吉は諸大名に天皇への忠誠を誓わせることを大義名分に天下統一を果たしました。ですから、将軍よりも関白の方がやり易かったのかもしれません。
    因みに、江戸幕府は、征夷大将軍政権だったから天下泰平が270年間続いたのではなく、知恵者 家康がそれまでの鎌倉政権から室町、織田、豊臣政権へと連綿と続く歴史観を読み解き、それらを反面教師に時代に即した政権を作り上げたから成功したとするのが正論です。

  • 醍醐寺 三宝院 唐門(国宝)<br />側面に唐破風のある平唐門の中で、国宝指定されている門は唯一この三宝院の唐門だけです。内側の表書院からは撮影できませんが、外側の「桜の馬場」からは撮り放題です。 <br />唐門とは、朝廷からの使者を迎える時にだけに扉が開けられた勅使門を指します。秀吉好みに造られたこの唐門は、黒漆地に金色の紋をに施した豪快な色彩のコントラストが見る者の度肝を抜いたそうです。大胆不敵かつビッグサイズの意匠は、秀吉の気質を今に伝える貴重な遺構と言えます。<br />扉の内側で対になっている家紋は、織田信長や朝廷から秀吉へ二重に下賜された五七の桐紋。この桐紋は、菊紋に次ぐ権威ある皇室の紋章で、信長もこの桐紋を拝領していました。桐の葉と花とに形作られたこの紋は、「鳳凰が唯一止まる神聖な木、聖なる王の出現のめでたい木である」という中国の伝説になぞらえた王者の紋とされています。<br />また、朝廷を象徴する複弁12葉の菊花紋を家紋の桐紋の外側に配したのは、秀吉の気概を如実に現していると言えます。

    醍醐寺 三宝院 唐門(国宝)
    側面に唐破風のある平唐門の中で、国宝指定されている門は唯一この三宝院の唐門だけです。内側の表書院からは撮影できませんが、外側の「桜の馬場」からは撮り放題です。
    唐門とは、朝廷からの使者を迎える時にだけに扉が開けられた勅使門を指します。秀吉好みに造られたこの唐門は、黒漆地に金色の紋をに施した豪快な色彩のコントラストが見る者の度肝を抜いたそうです。大胆不敵かつビッグサイズの意匠は、秀吉の気質を今に伝える貴重な遺構と言えます。
    扉の内側で対になっている家紋は、織田信長や朝廷から秀吉へ二重に下賜された五七の桐紋。この桐紋は、菊紋に次ぐ権威ある皇室の紋章で、信長もこの桐紋を拝領していました。桐の葉と花とに形作られたこの紋は、「鳳凰が唯一止まる神聖な木、聖なる王の出現のめでたい木である」という中国の伝説になぞらえた王者の紋とされています。
    また、朝廷を象徴する複弁12葉の菊花紋を家紋の桐紋の外側に配したのは、秀吉の気概を如実に現していると言えます。

  • 醍醐寺 三宝院 唐門<br />唐門の手前には「下乗」の石標が建てられています。<br />「wikipedia」によると、下乗の上にある梵字は「ヤ」と読み、「乗」の字義です。<br />つまり、これより先は馬や駕籠から降りて徒歩で入れの意味を表しています。 <br />唐門は2008年の落雷が原因で損傷したため修復工事がなされ、2010年に終了しています。<br />金ピカの唐門を見ながら大はしゃぎしている秀吉の姿が目に浮かんでくるようです。<br /><br />梵字に関するwikipediaは、次のサイトを参照ください。<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E5%AD%97

    醍醐寺 三宝院 唐門
    唐門の手前には「下乗」の石標が建てられています。
    「wikipedia」によると、下乗の上にある梵字は「ヤ」と読み、「乗」の字義です。
    つまり、これより先は馬や駕籠から降りて徒歩で入れの意味を表しています。
    唐門は2008年の落雷が原因で損傷したため修復工事がなされ、2010年に終了しています。
    金ピカの唐門を見ながら大はしゃぎしている秀吉の姿が目に浮かんでくるようです。

    梵字に関するwikipediaは、次のサイトを参照ください。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E5%AD%97

  • 醍醐寺 三宝院 唐門<br />側面の唐破風には、内側に束を立て、女梁や男梁、冠木を型通りに組み、一間奥まった所に板蟇股を置いています。 冠木の先にも五七の桐紋が施され、懸魚も桃山時代の代表的なものです。<br /><br />当方もこれからワクワクした気持ちを抑えながら、霊宝館へと駒を進め、京都一の枝垂桜とも称される「醍醐深雪桜」を堪能してまいります。<br /><br />この続きは、芳葩爛漫 桜紀行 醍醐寺②霊宝館・報恩院でお届けします。

    醍醐寺 三宝院 唐門
    側面の唐破風には、内側に束を立て、女梁や男梁、冠木を型通りに組み、一間奥まった所に板蟇股を置いています。 冠木の先にも五七の桐紋が施され、懸魚も桃山時代の代表的なものです。

    当方もこれからワクワクした気持ちを抑えながら、霊宝館へと駒を進め、京都一の枝垂桜とも称される「醍醐深雪桜」を堪能してまいります。

    この続きは、芳葩爛漫 桜紀行 醍醐寺②霊宝館・報恩院でお届けします。

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