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氏家宿を経て、喜連川宿へ。そして更に佐久山宿へと向かいます。

奥州古道歩き No3.栃木県の氏家宿→喜連川宿(3)・佐久山宿(4)へ

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2014/04/24 - 2014/04/24

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ムッシュ

ムッシュさん

氏家宿を経て、喜連川宿へ。そして更に佐久山宿へと向かいます。

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  • 交差点に”さくら市”の名前が入った花壇。おしゃれな町氏家町と喜連川町が合併してさくら市になった。<br />さくら市綜合公園入口交差点を越すと旧並木村に入ります、往時は百三十五本の松並木でしたが、戦時中に松根油の搾取のために全て伐採されました。

    交差点に”さくら市”の名前が入った花壇。おしゃれな町氏家町と喜連川町が合併してさくら市になった。
    さくら市綜合公園入口交差点を越すと旧並木村に入ります、往時は百三十五本の松並木でしたが、戦時中に松根油の搾取のために全て伐採されました。

  • 田中橋を渡ると右手の大谷石塀の坂本宅内に【狹間田の一里塚】の南塚が現存しています。日本橋から32里目。<br /><br />【奥州街道一里塚(史跡)】<br />近世になると江戸を中心にして諸街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、複や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河、までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。<br />氏家地内には受原地蔵堂南側と狭間田の二か所あったが、学原一里塚は明治以降消滅した。狭間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになっ<br />った。<br />延宝六年(1678)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として三十二里目にあたる一里塚である。奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。<br />                          氏家町教育委員会<br /><br />

    田中橋を渡ると右手の大谷石塀の坂本宅内に【狹間田の一里塚】の南塚が現存しています。日本橋から32里目。

    【奥州街道一里塚(史跡)】
    近世になると江戸を中心にして諸街道が整備され、宿場や一里塚などが設けられた。一里塚は主要街道の一里ごとに目印として両側に塚を築き、複や松などを植えた。奥州街道は日光街道と宇都宮で分岐して白河、までを指し、これらの街道にも一里塚が設けられた。
    氏家地内には受原地蔵堂南側と狭間田の二か所あったが、学原一里塚は明治以降消滅した。狭間田の一里塚も北側は破壊され、南側に一基が現存するだけになっ
    った。
    延宝六年(1678)の宿並絵図によると、この地点は、奥州街道の北側は下松山村、南側は狭間田新田村で、一里塚は両村の宿並中央部に一基ずつ明記されている。江戸日本橋を起点として三十二里目にあたる一里塚である。奥州街道の一里塚は現存例が少なく、氏家地内唯一の一里塚として確認できるものである。
                              氏家町教育委員会

  • 【明治時代の水準点】<br />大黒天が二体祀られています。<br />明治9年(1876)内務省地理寮(国土地理院の前身)が東京-塩釜間の高低測量を実施した時の水準点として利用したもの。当時、狭間田近辺は一帯が水田で不朽物が大黒天以外に見当たらなかったためこれを高低標として記号を刻んだものと思われる。<br />左手の古い大黒天の台石には明治時代の水準点の記号が刻まれています(標高158m)。<br /><br />ウォーキングはスグ正面のY字路を左に進みます、国道は右に反れて行きます、この分岐点には案内標識「←早乙女温泉」「←セブンハンドレッドクラブ」があります。<br />

    【明治時代の水準点】
    大黒天が二体祀られています。
    明治9年(1876)内務省地理寮(国土地理院の前身)が東京-塩釜間の高低測量を実施した時の水準点として利用したもの。当時、狭間田近辺は一帯が水田で不朽物が大黒天以外に見当たらなかったためこれを高低標として記号を刻んだものと思われる。
    左手の古い大黒天の台石には明治時代の水準点の記号が刻まれています(標高158m)。

    ウォーキングはスグ正面のY字路を左に進みます、国道は右に反れて行きます、この分岐点には案内標識「←早乙女温泉」「←セブンハンドレッドクラブ」があります。

  • 弥五郎坂の手前の、旧道と国道293号が分岐する所にあった明治時代の水準点。

    弥五郎坂の手前の、旧道と国道293号が分岐する所にあった明治時代の水準点。

  • 路傍の石仏、馬頭観音像と寛政五年(1793)建立の二十三夜供養塔が祀られています。<br />喜連川に向けて早乙女坂、弥五郎坂を上って行く。

    路傍の石仏、馬頭観音像と寛政五年(1793)建立の二十三夜供養塔が祀られています。
    喜連川に向けて早乙女坂、弥五郎坂を上って行く。

  • 弥五郎坂を登り始めた。<br />次第に弥五郎坂の上りが強くなってきます、「江戸よりここまで平地也、これより山路に成る」といわれました。<br /><br />【弥五郎坂(早乙女坂)】 <br />少し先の右の石段上に、天文18年(1549)の早乙女坂の合戦で、鮎ケ瀬弥五郎に討ち取られた宇都宮尚綱を供養する弥五郎殿がある。<br />別伝では、「弥五郎は宇都宮尚綱の家臣で、主人が討たれた後、敵陣に切り込み死んだのを、主人の子孫が供養した」とも。

    弥五郎坂を登り始めた。
    次第に弥五郎坂の上りが強くなってきます、「江戸よりここまで平地也、これより山路に成る」といわれました。

    【弥五郎坂(早乙女坂)】 
    少し先の右の石段上に、天文18年(1549)の早乙女坂の合戦で、鮎ケ瀬弥五郎に討ち取られた宇都宮尚綱を供養する弥五郎殿がある。
    別伝では、「弥五郎は宇都宮尚綱の家臣で、主人が討たれた後、敵陣に切り込み死んだのを、主人の子孫が供養した」とも。

  • 弥五郎坂の途中にある古戦場<br />【早乙女坂古戦場標識】と【松尾弥五郎博恒墳墓碑】があります、石段を上ると五輪塔を納めた弥五郎殿があります。<br /><br />天文十八年(1549年)宇都宮尚綱軍と那須氏喜連川塩谷軍がこの早乙女坂で激戦を繰りひろげました。那須氏方の鮎瀬弥五郎実光が宇都宮尚綱を討取り勝利を収めました。後に弥五郎はここに祠を建て、尚綱を供養する五輪塔を安置しました、以来、祠は弥五郎殿、早乙女坂は弥五郎坂とも呼ばれるようになりました。<br /><br />【古戦場】 (石段下の説明文)<br />  天文十八年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。<br />【早乙女坂古戦場の跡】<br />早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(保)を確保する上で最も重要な課題であった。<br />   このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文十八年(1549)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。<br />  弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。<br />  今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示している。

    弥五郎坂の途中にある古戦場
    【早乙女坂古戦場標識】と【松尾弥五郎博恒墳墓碑】があります、石段を上ると五輪塔を納めた弥五郎殿があります。

    天文十八年(1549年)宇都宮尚綱軍と那須氏喜連川塩谷軍がこの早乙女坂で激戦を繰りひろげました。那須氏方の鮎瀬弥五郎実光が宇都宮尚綱を討取り勝利を収めました。後に弥五郎はここに祠を建て、尚綱を供養する五輪塔を安置しました、以来、祠は弥五郎殿、早乙女坂は弥五郎坂とも呼ばれるようになりました。

    【古戦場】 (石段下の説明文)
      天文十八年(1549)、那須氏、喜連川塩谷500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。
    【早乙女坂古戦場の跡】
    早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(保)を確保する上で最も重要な課題であった。
       このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文十八年(1549)の戦は、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。
      弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。
      今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示している。

  • 【松尾弥五郎博恒墳墓碑】<br />この坂は元は早乙女坂と呼ばれ、天文18年(1549年)宇都宮尚綱が喜連川方の助っ人鮎瀬弥五郎に射殺され、喜連川方のピンチが救われたため弥五郎坂と呼ばれるようになった。弥五郎はここに敵将の供養のための大五輪塔を建立した。また一説では、弥五郎は尚綱の家臣で、主の討たれたのを見て敵陣に斬り込み討死、尚綱の子孫がこれを哀れんで建てた墓ともいう。<br /><br />弥五郎坂 天分8年(1549)この付近一帯は南の宇都宮氏と北の喜連川城主・塩谷氏との合戦場となり、喜連川軍に加わった鮎瀬弥五郎が敵将を弓で討ち取った。戦後、弥五郎は敵将を供養する五輪塔を建立したと伝えられる。一方、弥五郎は松尾弥五郎なる宇都宮氏の家臣で、主人が討たれた後、敵陣に切り込んで死んだのを、主人の子孫が供養したのだという説もあるとか。

    【松尾弥五郎博恒墳墓碑】
    この坂は元は早乙女坂と呼ばれ、天文18年(1549年)宇都宮尚綱が喜連川方の助っ人鮎瀬弥五郎に射殺され、喜連川方のピンチが救われたため弥五郎坂と呼ばれるようになった。弥五郎はここに敵将の供養のための大五輪塔を建立した。また一説では、弥五郎は尚綱の家臣で、主の討たれたのを見て敵陣に斬り込み討死、尚綱の子孫がこれを哀れんで建てた墓ともいう。

    弥五郎坂 天分8年(1549)この付近一帯は南の宇都宮氏と北の喜連川城主・塩谷氏との合戦場となり、喜連川軍に加わった鮎瀬弥五郎が敵将を弓で討ち取った。戦後、弥五郎は敵将を供養する五輪塔を建立したと伝えられる。一方、弥五郎は松尾弥五郎なる宇都宮氏の家臣で、主人が討たれた後、敵陣に切り込んで死んだのを、主人の子孫が供養したのだという説もあるとか。

  • この古戦場跡より振り返って、さくら市内を望む。<br /><br />「弥五郎坂」にさしかかる。ここは昔早乙女坂といわれたところで、天文18年(1549年)2000余騎の宇都宮尚網の軍と500余騎の喜連川城主塩谷氏とが戦い、宇都宮尚綱が鮎瀬弥五郎の矢で戦死、大将を討たれた宇都宮軍は敗退した。早乙女坂古戦場の表示板が立っている。四倍の軍勢を擁しながら大将が討ち死にすると戦いに敗れてしまう、大将というものの重要さを感じさせる話である。<br />

    この古戦場跡より振り返って、さくら市内を望む。

    「弥五郎坂」にさしかかる。ここは昔早乙女坂といわれたところで、天文18年(1549年)2000余騎の宇都宮尚網の軍と500余騎の喜連川城主塩谷氏とが戦い、宇都宮尚綱が鮎瀬弥五郎の矢で戦死、大将を討たれた宇都宮軍は敗退した。早乙女坂古戦場の表示板が立っている。四倍の軍勢を擁しながら大将が討ち死にすると戦いに敗れてしまう、大将というものの重要さを感じさせる話である。

  • 早乙女温泉やセブンハンドレッドカントリークラブを過ぎしばらく行くと旧道の標識があった。<br />旧道は右に上がっていく。奥州古道の案内標識もある。 <br />ここから500m程、江戸時代のまま古道が残っています。<br /><br />【史跡 奥州街道(古道)】 <br />さくら市指定(平成17年2月9日指定)  延長612m。 最大道幅4m。<br />  慶長6(1601)年徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向う。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所のひとつであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。

    早乙女温泉やセブンハンドレッドカントリークラブを過ぎしばらく行くと旧道の標識があった。
    旧道は右に上がっていく。奥州古道の案内標識もある。
    ここから500m程、江戸時代のまま古道が残っています。

    【史跡 奥州街道(古道)】 
    さくら市指定(平成17年2月9日指定)  延長612m。 最大道幅4m。
      慶長6(1601)年徳川幕府は全国支配のため、江戸と各地を結ぶ五街道の整備を始めた。奥州街道は、慶長9(1604)年、東山道(関街道)に代わり正街道となり、奥州の諸大名の参勤交代や、奥州と江戸を結ぶ、文物交流の中心的役割を果たした。奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮宿から分岐して白河へ向う。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要衝地として栄えた氏家宿と、喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど、難所のひとつであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。

  • 古道はこんな雰囲気。車もアスファルトなくて心地良い。

    古道はこんな雰囲気。車もアスファルトなくて心地良い。

  • 古道を下り、喜連川方面を眺める

    古道を下り、喜連川方面を眺める

  • 喜連川を渡ります。<br />荒川を渡ると喜連川宿に到着です!<br />【喜連川宿】は喜連川藩の陣屋町として発展し、藩主の喜連川氏は足利尊氏の流れを汲む古河公方の為、幕府はその格式を認め参勤を免除しました。<br /><br />喜連川宿は、江戸時代、喜連川城の城下に奥州街道(奥州道中)氏家宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国塩谷郡にあった。1843年(天保14年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、喜連川宿は家数290軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、人口1,198人であった。氏家宿本陣は上野家、脇本陣は永井家が担っていた。

    喜連川を渡ります。
    荒川を渡ると喜連川宿に到着です!
    【喜連川宿】は喜連川藩の陣屋町として発展し、藩主の喜連川氏は足利尊氏の流れを汲む古河公方の為、幕府はその格式を認め参勤を免除しました。

    喜連川宿は、江戸時代、喜連川城の城下に奥州街道(奥州道中)氏家宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国塩谷郡にあった。1843年(天保14年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、喜連川宿は家数290軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、人口1,198人であった。氏家宿本陣は上野家、脇本陣は永井家が担っていた。

  • 【御用堀】<br />こんな雰囲気。喜連川藩主が作った用水御用堀が走っています。<br />第十代藩主喜連川煕氏(ひろうじ)は天保13年(1842年)陣屋町を挟む荒川と内川から取水する用水を開削し、生活用水、灌漑用水、防火用水として利用しました、今は鯉が放流されやすらぎの散歩道として整備されています。<br /><br />【御用堀】 (鳥居西側の説明文)<br />  喜連川藩十代藩主喜連川煕氏(ひろうじ)は領民思いの名君として知られ、藩の財政建て直しや領民の暮らしや教育に熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や藩校「翰林館」などを開きました。<br />  特に飢饉や大火から領民を守るため町中どこでも用水が使えるように生活用水の確保に気を配り、1842年(天保十三年)、町を挟む両河川(内川・荒川)から町内に水を引き入れる用水堀を開削し生活用水・灌漑用水・防火用水として利用したほか、数十町歩の新田を開拓するなど藩財政にも潤いをもたらしました。<br /> 「御用堀」には内川筋の西河原堰から取水し殿町・本町を貫流するものと、荒川筋野辺山堰から取水し西町・下町を貫流するもの、そして横町・本町・日野町を貫流するものがあります。<br />  この「御用堀」は通称「横町堀」と呼ばれ、町民の生活用水に使われておりますが、平成二年度誇れるまちづくり事業で一部修景工事を施工し、鯉を放流し、「やすらぎの散歩道」として整備したものです。<br />            平成三年三月 さくら市 誇れるまちづくり委員会<br /><br />天保14年(1843年)の頃、喜連川宿の宿内家数は290軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で、宿内人口は1,198人でした。

    【御用堀】
    こんな雰囲気。喜連川藩主が作った用水御用堀が走っています。
    第十代藩主喜連川煕氏(ひろうじ)は天保13年(1842年)陣屋町を挟む荒川と内川から取水する用水を開削し、生活用水、灌漑用水、防火用水として利用しました、今は鯉が放流されやすらぎの散歩道として整備されています。

    【御用堀】 (鳥居西側の説明文)
      喜連川藩十代藩主喜連川煕氏(ひろうじ)は領民思いの名君として知られ、藩の財政建て直しや領民の暮らしや教育に熱心に取り組み、鍛冶ケ沢の開墾や藩校「翰林館」などを開きました。
      特に飢饉や大火から領民を守るため町中どこでも用水が使えるように生活用水の確保に気を配り、1842年(天保十三年)、町を挟む両河川(内川・荒川)から町内に水を引き入れる用水堀を開削し生活用水・灌漑用水・防火用水として利用したほか、数十町歩の新田を開拓するなど藩財政にも潤いをもたらしました。
     「御用堀」には内川筋の西河原堰から取水し殿町・本町を貫流するものと、荒川筋野辺山堰から取水し西町・下町を貫流するもの、そして横町・本町・日野町を貫流するものがあります。
      この「御用堀」は通称「横町堀」と呼ばれ、町民の生活用水に使われておりますが、平成二年度誇れるまちづくり事業で一部修景工事を施工し、鯉を放流し、「やすらぎの散歩道」として整備したものです。
                平成三年三月 さくら市 誇れるまちづくり委員会

    天保14年(1843年)の頃、喜連川宿の宿内家数は290軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で、宿内人口は1,198人でした。

  • 【寒竹囲の家】が連なっています。<br />第六代藩主喜連川茂氏は傷みやすい板塀から、周辺に自生する寒竹(かんちく)の垣根を奨励しました。寒竹囲(かんちくがこい)という竹を使用した生垣に出会う。喜連川氏六代の茂氏が板塀では製作保繕が大変なので藩士の家に笹の生垣を奨励したという。この生垣を鼈甲(べっこう)垣ともいいます。

    【寒竹囲の家】が連なっています。
    第六代藩主喜連川茂氏は傷みやすい板塀から、周辺に自生する寒竹(かんちく)の垣根を奨励しました。寒竹囲(かんちくがこい)という竹を使用した生垣に出会う。喜連川氏六代の茂氏が板塀では製作保繕が大変なので藩士の家に笹の生垣を奨励したという。この生垣を鼈甲(べっこう)垣ともいいます。

  • 喜連川神社への裏?参道。この石段を登ると神社本殿に出る。<br />御用堀の左手に喜連川神社の裏参道があります、参道階段口の社務所前に酒と旅をこよなく愛した若山牧水と代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれた高塩背山の歌碑が並んでいます。

    喜連川神社への裏?参道。この石段を登ると神社本殿に出る。
    御用堀の左手に喜連川神社の裏参道があります、参道階段口の社務所前に酒と旅をこよなく愛した若山牧水と代々喜連川神社の神職を勤める家に生まれた高塩背山の歌碑が並んでいます。

  • (喜連川神社の裏参道にて)<br />若山牧水歌碑(右)<br />「時をおき 老樹(おいき)の雫(しずく) おつるごと しづけき酒は 朝にこそあれ」 <br />高塩背山歌碑(左)<br />「かぜとよむ 桜若葉の あひだより 残れる花の ちるはさびしき」

    (喜連川神社の裏参道にて)
    若山牧水歌碑(右)
    「時をおき 老樹(おいき)の雫(しずく) おつるごと しづけき酒は 朝にこそあれ」 
    高塩背山歌碑(左)
    「かぜとよむ 桜若葉の あひだより 残れる花の ちるはさびしき」

  • 【喜連川神社】<br />参道階段を上ると喜連川神社が鎮座しています、永禄6年(1563年)塩谷第十五代兵部大輔源惟朝(これとも)が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請し創建したと伝えられています。<br />塩谷氏喜連川氏代々崇敬の社で喜連川ほか十五郷の総鎮守でした。<br /><br />速須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)の二柱を祭神とし、永禄6年(1563年)に創建された。<br />時の城主塩谷惟広が命じて、尾張の国、津嶋神社の分霊を城山の南面山腹にお祀りしたのが本社の始まりである。<br />例大祭は天王祭といい、その神輿渡御は暴れ神輿として近郷近在で有名である。

    【喜連川神社】
    参道階段を上ると喜連川神社が鎮座しています、永禄6年(1563年)塩谷第十五代兵部大輔源惟朝(これとも)が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請し創建したと伝えられています。
    塩谷氏喜連川氏代々崇敬の社で喜連川ほか十五郷の総鎮守でした。

    速須佐之男命(スサノオノミコト)と櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)の二柱を祭神とし、永禄6年(1563年)に創建された。
    時の城主塩谷惟広が命じて、尾張の国、津嶋神社の分霊を城山の南面山腹にお祀りしたのが本社の始まりである。
    例大祭は天王祭といい、その神輿渡御は暴れ神輿として近郷近在で有名である。

  • こちらが喜連川神社の表参道。神社からの下りの眺め。

    こちらが喜連川神社の表参道。神社からの下りの眺め。

  • 京呉服の「ささや」(笹屋)<br />江戸時代から呉服を含む「ヨロズ屋」をやっていたという。蔵が後ろの喜連川小学校前の通りまで続いている。

    京呉服の「ささや」(笹屋)
    江戸時代から呉服を含む「ヨロズ屋」をやっていたという。蔵が後ろの喜連川小学校前の通りまで続いている。

  • 【喜連川城大手門(復元)】です。<br />背後のお丸山公園が喜連川城址です。<br />壇ノ浦の戦いに功があった塩谷五郎惟広(これひろ)は源頼朝からこの地を与えられ、文治二年(1186年)大蔵ケ崎城(喜連川城)を築き居城としました、以来400年間この地を支配しました。<br />第十七代城主塩谷惟久(これひさ)は豊臣秀吉の小田原征伐の参陣に遅参したとして改易されました。<br />新たに入封した足利国朝(くにとも)が城主となりました、徳川の世になると旗本寄合格となったため、喜連川城は喜連川藩陣屋となりました。

    【喜連川城大手門(復元)】です。
    背後のお丸山公園が喜連川城址です。
    壇ノ浦の戦いに功があった塩谷五郎惟広(これひろ)は源頼朝からこの地を与えられ、文治二年(1186年)大蔵ケ崎城(喜連川城)を築き居城としました、以来400年間この地を支配しました。
    第十七代城主塩谷惟久(これひさ)は豊臣秀吉の小田原征伐の参陣に遅参したとして改易されました。
    新たに入封した足利国朝(くにとも)が城主となりました、徳川の世になると旗本寄合格となったため、喜連川城は喜連川藩陣屋となりました。

  • 街の駅本陣。もと本陣の跡地らしい。<br />街の駅本陣カフェレストラン蔵ケ崎があります。<br />ここが【喜連川宿本陣跡】です。<br />江戸中期には郡司十左衛門、斎藤仁右衛門等が本陣を勤めましたが、後期は上野太郎平が本陣を勤め問屋を兼ねました、奥羽、越後、下野の三十七大名が参勤の際に投宿しました。<br />大正15年に建築された元喜連川警察署の建物。全国に数カ所しかないという貴重なもの。

    街の駅本陣。もと本陣の跡地らしい。
    街の駅本陣カフェレストラン蔵ケ崎があります。
    ここが【喜連川宿本陣跡】です。
    江戸中期には郡司十左衛門、斎藤仁右衛門等が本陣を勤めましたが、後期は上野太郎平が本陣を勤め問屋を兼ねました、奥羽、越後、下野の三十七大名が参勤の際に投宿しました。
    大正15年に建築された元喜連川警察署の建物。全国に数カ所しかないという貴重なもの。

  • 【喜連川宿本陣の説明】<br />喜連川宿は奥州街道十宿の?①白沢宿②氏家宿 に次ぐ第三の宿で、本陣・脇本陣・旅籠茶屋が軒を連ね、喜連川足利氏〔格式十万石実高壱万石〕の城 下町も兼ね殷賑を極めた。<br />本陣とは、参勤交代の大名や公用の幕府の役人が 定宿とした高級旅籠で問屋を兼ねる所が多かった。<br />当宿には、奥羽・越後・下野の三十七大名が三月か ー ら六月にかけて投宿している。 <br />当宿の本陣は、江戸中期には郡司十左衛門斎藤仁右衛門等が経営したが、後期には当街の駅所在地で上野太郎平が経営に当たった。 <br />明治になり本陣跡には警察署、郵便局、銀行が開設された。 当「街の駅」舎は大正十五年に建築された喜連川警察署の建物で、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数か所しかないという貴重な建造物である。

    【喜連川宿本陣の説明】
    喜連川宿は奥州街道十宿の?①白沢宿②氏家宿 に次ぐ第三の宿で、本陣・脇本陣・旅籠茶屋が軒を連ね、喜連川足利氏〔格式十万石実高壱万石〕の城 下町も兼ね殷賑を極めた。
    本陣とは、参勤交代の大名や公用の幕府の役人が 定宿とした高級旅籠で問屋を兼ねる所が多かった。
    当宿には、奥羽・越後・下野の三十七大名が三月か ー ら六月にかけて投宿している。
    当宿の本陣は、江戸中期には郡司十左衛門斎藤仁右衛門等が経営したが、後期には当街の駅所在地で上野太郎平が経営に当たった。
    明治になり本陣跡には警察署、郵便局、銀行が開設された。 当「街の駅」舎は大正十五年に建築された喜連川警察署の建物で、大正期の警察庁舎で現存するものは全国に数か所しかないという貴重な建造物である。

  • 【金鶏山神社】が鎮座しています、祭神は猿田彦命で鶏権現ともいいます、喜連川神社に合祀されていますが、社殿を残しています。

    【金鶏山神社】が鎮座しています、祭神は猿田彦命で鶏権現ともいいます、喜連川神社に合祀されていますが、社殿を残しています。

  • 昭和63年(1988年)建立の男女双体祝言道祖神があります。

    昭和63年(1988年)建立の男女双体祝言道祖神があります。

  • 可愛い男女双体道祖神。後ろの石柱は、天皇御小休之際御膳水碑

    可愛い男女双体道祖神。後ろの石柱は、天皇御小休之際御膳水碑

  • 田園風景の中を進み、きつれがわ幼稚園を過ぎると右手の公園口に【史蹟明治天皇引田原御小休所阯碑】があります。<br /><br />公園の奥には明治天皇御休輦之處碑があります、明治九年(1876)巡幸の際ここで休息しました、その際に供されたのが先程の御膳水です。

    田園風景の中を進み、きつれがわ幼稚園を過ぎると右手の公園口に【史蹟明治天皇引田原御小休所阯碑】があります。

    公園の奥には明治天皇御休輦之處碑があります、明治九年(1876)巡幸の際ここで休息しました、その際に供されたのが先程の御膳水です。

  • 【ほほえみ仏】<br />一番右の可愛いのが次の写真です。

    【ほほえみ仏】
    一番右の可愛いのが次の写真です。

  • ほほえみ仏。<br />微笑んだ仏さんは心和む。喜連川は戦国時代までは塩谷氏の支配下、その15代惟久は豊臣秀吉から命じされた小田原攻めに加わらず、秀吉の怒りを受けることを恐れて家を捨てた。その妻であった嶋子は名門足利家の末裔で、その血筋が絶えることを惜しんだ秀吉は嶋子に3千8百石を与え、弟国明を喜連川の城主に据えた。このとき、狐川と呼ばれた地名を喜連川と改名した。

    ほほえみ仏。
    微笑んだ仏さんは心和む。喜連川は戦国時代までは塩谷氏の支配下、その15代惟久は豊臣秀吉から命じされた小田原攻めに加わらず、秀吉の怒りを受けることを恐れて家を捨てた。その妻であった嶋子は名門足利家の末裔で、その血筋が絶えることを惜しんだ秀吉は嶋子に3千8百石を与え、弟国明を喜連川の城主に据えた。このとき、狐川と呼ばれた地名を喜連川と改名した。

  • ランチ風景

    ランチ風景

  • 宿並を進むと左手に【豊道春海(ぶんどうしゅんかい)翁生誕之地碑】があります、翁は佐久山出身で明治から昭和にかけての書家で文化功労者に選ばれました、日本書道界の大家で大田原名誉市民第1号です。<br /><br />【豊道春海翁顕彰事業】<br />  大田原市では、市出身の偉人の顕彰事業を実施しております。<br />  豊道春海翁は、この地佐久山出身で、明治から昭和にかけての日本を代表する書家であります。大田原名誉市民第1号であり、文化功労者にも選ばれた春海翁の功績を称え、これを後世に伝えるため、没後40年の節目の年に顕彰碑を建立しました。<br />                平成22年2月24日 大田原市

    宿並を進むと左手に【豊道春海(ぶんどうしゅんかい)翁生誕之地碑】があります、翁は佐久山出身で明治から昭和にかけての書家で文化功労者に選ばれました、日本書道界の大家で大田原名誉市民第1号です。

    【豊道春海翁顕彰事業】
      大田原市では、市出身の偉人の顕彰事業を実施しております。
      豊道春海翁は、この地佐久山出身で、明治から昭和にかけての日本を代表する書家であります。大田原名誉市民第1号であり、文化功労者にも選ばれた春海翁の功績を称え、これを後世に伝えるため、没後40年の節目の年に顕彰碑を建立しました。
                    平成22年2月24日 大田原市

  • 佐久山宿は旗本福原(ふくわら)氏五千石の陣屋町として発展しました。<br />天保14年(1843年)の頃、佐久山宿の宿内家数は121軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠27軒で、宿内人口は473人でした。

    佐久山宿は旗本福原(ふくわら)氏五千石の陣屋町として発展しました。
    天保14年(1843年)の頃、佐久山宿の宿内家数は121軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠27軒で、宿内人口は473人でした。

  • 枡形に戻って進むと左手に【浄土真宗本願寺派「正浄寺」】があります、<br />(大田原市佐久山)<br />鎌倉時代の建保二年(1214年)宗祖親鸞聖人が東北巡錫の折、箒川端の岩井孫八宅に一宿し、 礼に阿弥陀如来の尊像を与えました。その尊像を安置するため御堂を建立したのが起源。境内には蓮如上人の銅像がある。<br />無形文化財に雅楽が有名です

    枡形に戻って進むと左手に【浄土真宗本願寺派「正浄寺」】があります、
    (大田原市佐久山)
    鎌倉時代の建保二年(1214年)宗祖親鸞聖人が東北巡錫の折、箒川端の岩井孫八宅に一宿し、 礼に阿弥陀如来の尊像を与えました。その尊像を安置するため御堂を建立したのが起源。境内には蓮如上人の銅像がある。
    無形文化財に雅楽が有名です

  • 親鸞聖人御像

    親鸞聖人御像

  • 蓮如上人像

    蓮如上人像

  • 那珂川。(箒川)

    那珂川。(箒川)

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