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太田原宿:<br />天門14年(1545年)、太田原資清が太田原城を築いた時は、16戸の寒村。次第に旅籠40数軒という宿場に発展した。大田原藩は中世以来の王し所領を幕末まで守り通した大名家。

奥州古道歩き No4.太田原宿(5)へ

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2014/05/22 - 2014/05/22

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ムッシュ

ムッシュさん

太田原宿:
天門14年(1545年)、太田原資清が太田原城を築いた時は、16戸の寒村。次第に旅籠40数軒という宿場に発展した。大田原藩は中世以来の王し所領を幕末まで守り通した大名家。

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  • 与一の里名木選国井宅の赤マツがあります、目通り周囲1.7m、樹高7m、推定樹齢約二百年です。

    与一の里名木選国井宅の赤マツがあります、目通り周囲1.7m、樹高7m、推定樹齢約二百年です。

  • 道中には、かや吹きの農家も有りました。貴重な遺産建築です。

    道中には、かや吹きの農家も有りました。貴重な遺産建築です。

  • 【屋敷門を持つ国井氏宅】<br />蔵が二つ(一つは住居に改造)と立派な屋敷門を持つ国井氏宅があ り、その屋敷門の左内側に小さな祠の様なものが置かれて、中に町初碑が納められている<br /><br />この門の中に、高さ55cmの自然石の「町初碑」があり、「此の町初寛永四卯年」、裏に「国井与左衛門」と記されている。3代将軍家光の寛永年間(1624-1644)に奥州街道筋に八木沢部落が開かれたことを書き示してある。名主役の国井与左衛門が建立したもの。ご覧のように、その子孫の国井家の立派な屋敷である。

    【屋敷門を持つ国井氏宅】
    蔵が二つ(一つは住居に改造)と立派な屋敷門を持つ国井氏宅があ り、その屋敷門の左内側に小さな祠の様なものが置かれて、中に町初碑が納められている

    この門の中に、高さ55cmの自然石の「町初碑」があり、「此の町初寛永四卯年」、裏に「国井与左衛門」と記されている。3代将軍家光の寛永年間(1624-1644)に奥州街道筋に八木沢部落が開かれたことを書き示してある。名主役の国井与左衛門が建立したもの。ご覧のように、その子孫の国井家の立派な屋敷である。

  • 表面に「此の町初寛永四卯年」、裏面に「国井与左衛門」と刻まれている。<br />町として初めての碑との言。<br /><br />【町初碑】 史跡(昭和43年2月15日指定)<br />  碑は、高さ55センチメートル、周囲93センチメートルの自然石で、表面に「此町初寛永四卯(ひのえ)年」、裏面に「国井与左衛門」と刻されている。<br />  この碑は三代徳川将軍家光の寛永年間(1624~1644)に奥州街道筋に八木沢部落が開かれ、それを記念しての建立であろう。国井与左衛門はこの地の名主役をつとめ、代々与左衛門を名乗った。<br />  寛永四年(1627)は「ひのと卯」であることから本碑は後年の建立と思われる。この寛永4年を奥州道中の開通の年とみる向きもあるが、そうではなく、これはあくまで町初めの年である。いずれにしても町初めの年を石に刻し、その起源を明らかにしている点、歴史的価値は高いものである。

    表面に「此の町初寛永四卯年」、裏面に「国井与左衛門」と刻まれている。
    町として初めての碑との言。

    【町初碑】 史跡(昭和43年2月15日指定)
      碑は、高さ55センチメートル、周囲93センチメートルの自然石で、表面に「此町初寛永四卯(ひのえ)年」、裏面に「国井与左衛門」と刻されている。
      この碑は三代徳川将軍家光の寛永年間(1624~1644)に奥州街道筋に八木沢部落が開かれ、それを記念しての建立であろう。国井与左衛門はこの地の名主役をつとめ、代々与左衛門を名乗った。
      寛永四年(1627)は「ひのと卯」であることから本碑は後年の建立と思われる。この寛永4年を奥州道中の開通の年とみる向きもあるが、そうではなく、これはあくまで町初めの年である。いずれにしても町初めの年を石に刻し、その起源を明らかにしている点、歴史的価値は高いものである。

  • 太田原宿に向かって真っすぐのびる街道。<br /><br />大田原宿は大田原藩12,000石の城下町として発展し、日光北街道、黒羽道、塩原道の要衝を控え賑わいました。<br /><br />天保14年(1843年)の頃、奥州道中宿村大概帳によると大田原宿の宿内家数は245軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠42軒で、宿内人口は1,428人でした。

    太田原宿に向かって真っすぐのびる街道。

    大田原宿は大田原藩12,000石の城下町として発展し、日光北街道、黒羽道、塩原道の要衝を控え賑わいました。

    天保14年(1843年)の頃、奥州道中宿村大概帳によると大田原宿の宿内家数は245軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠42軒で、宿内人口は1,428人でした。

  • 【薬師堂】(大田原市中央)<br />寛永年間(1624-44)に太田原資清がここに建立したが、大火で焼失。<br />現在の堂は1793年に再建されたもの。<br /><br />薬師堂があります、寛政5年(1793年)第九代大田原藩主大田原庸清(つねきよ)が大田原城の四方固めとしました、境内の七重塔や元禄七年(1694年)建立の舎利塔は大田原市指定文化財です。<br />*和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、江戸時代中期の寺院建築として特筆されている。<br />*千鳥破風付き入母屋造<br />*寛政5年(1793)再建とされ、堂内には江戸中期の金剛力士像が2体(彫刻)ある。境内には貞享元年(1664)の建立の7重の塔がある。基礎は凝灰石、塔は安山岩で作られている。高さは4.85m。ほかに五重の舎利塔もあり薬師堂の本堂を含めて4件総て市の有形文化財に指定されている。

    【薬師堂】(大田原市中央)
    寛永年間(1624-44)に太田原資清がここに建立したが、大火で焼失。
    現在の堂は1793年に再建されたもの。

    薬師堂があります、寛政5年(1793年)第九代大田原藩主大田原庸清(つねきよ)が大田原城の四方固めとしました、境内の七重塔や元禄七年(1694年)建立の舎利塔は大田原市指定文化財です。
    *和様、唐様の様式が混然一体に融合した江戸時代の自由な手法が現れており、江戸時代中期の寺院建築として特筆されている。
    *千鳥破風付き入母屋造
    *寛政5年(1793)再建とされ、堂内には江戸中期の金剛力士像が2体(彫刻)ある。境内には貞享元年(1664)の建立の7重の塔がある。基礎は凝灰石、塔は安山岩で作られている。高さは4.85m。ほかに五重の舎利塔もあり薬師堂の本堂を含めて4件総て市の有形文化財に指定されている。

  • 薬師堂境内に七重の塔。300年前に建立。ひっそり佇んでいるが江戸以来の歴史が伝わる塔である。<br />貞享元年1684年の建立。順海上人が願い主。<br /><br />【七重塔】 有形文化財(昭和37年9月25日指定) 左の写真<br />  薬師堂境内にある七重塔は、貞享元年(1684)建立で、基礎は凝灰岩、塔は安山岩で造られている。基礎は1辺を1.4メートルの方形のプランの上にもう一段の基礎を加えその上に塔身や屋蓋は方形プラン、塔心は円形プランを積み上げたものである。地上現存の全高4.85メートル(形式からみて建立当時は相輪部を具備したものと考えられるが最上部の九輪を欠失している)あり、当地域附近の古石塔中最大のものであり、また御作も江戸時代中期のものとして優秀である。<br />  塔心には次の銘文が刻されている。<br />  奉建立 二世安楽所  雨薬山医光寺 <br />  干時貞享元年甲子十一月吉日 順海上人祐玄  

    薬師堂境内に七重の塔。300年前に建立。ひっそり佇んでいるが江戸以来の歴史が伝わる塔である。
    貞享元年1684年の建立。順海上人が願い主。

    【七重塔】 有形文化財(昭和37年9月25日指定) 左の写真
      薬師堂境内にある七重塔は、貞享元年(1684)建立で、基礎は凝灰岩、塔は安山岩で造られている。基礎は1辺を1.4メートルの方形のプランの上にもう一段の基礎を加えその上に塔身や屋蓋は方形プラン、塔心は円形プランを積み上げたものである。地上現存の全高4.85メートル(形式からみて建立当時は相輪部を具備したものと考えられるが最上部の九輪を欠失している)あり、当地域附近の古石塔中最大のものであり、また御作も江戸時代中期のものとして優秀である。
      塔心には次の銘文が刻されている。
      奉建立 二世安楽所  雨薬山医光寺 
      干時貞享元年甲子十一月吉日 順海上人祐玄  

  • 薬師堂に旅の無事をお祈り。

    薬師堂に旅の無事をお祈り。

  • 薬師堂の先に、甲州屋という旅館。なんだか由緒有りそう??

    薬師堂の先に、甲州屋という旅館。なんだか由緒有りそう??

  • 街道の道標<br />旧奥州道中 大田原宿

    街道の道標
    旧奥州道中 大田原宿

  • 【那須の与一の像】鎌倉幕府・源氏つながり<br />この地の出身者です。扇の的を見事に射抜いたのは1185年2月。<br />平安時代末期の武将。屋島の戦いでの扇の的伝説が超有名。波に揺れる船上に扇を掲げ、与一が70mも先から射落として見せたというはなし。外せば切腹もんでした。<br />*那須与一は那須一族の出身で、那須家は今の大田原市辺りが本拠地だと言われています。弓が得意で、狩猟のために今の那須町、温泉神社辺りまで、馬を蹴って走り回っていたそうです。源平合戦に出陣するときにも、那須の温泉神社に祈願した話は有名です。平家物語『源平盛衰記』によると、元暦げんりゃく2年(1184-85年)、源頼朝みなもとよりとも方に加わり、源義経よしつねに従軍した“那須与一”は、源義経の命により、四国屋島沖で波に揺られていた平家方の軍船に掲げられていた「日の丸を描いた扇」を、得意の弓で射落とした、と書かれています。<br /><br />那須資隆の子として誕生。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。<br />『平家物語絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」<br />治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ[5]、頼朝より5カ国に荘園を賜った。また、為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。<br /><br />死亡時期は諸説あるが山城国伏見において死去。家督は兄・五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の子・頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である。<br /><br />8月には「与一祭」もある<br />

    【那須の与一の像】鎌倉幕府・源氏つながり
    この地の出身者です。扇の的を見事に射抜いたのは1185年2月。
    平安時代末期の武将。屋島の戦いでの扇の的伝説が超有名。波に揺れる船上に扇を掲げ、与一が70mも先から射落として見せたというはなし。外せば切腹もんでした。
    *那須与一は那須一族の出身で、那須家は今の大田原市辺りが本拠地だと言われています。弓が得意で、狩猟のために今の那須町、温泉神社辺りまで、馬を蹴って走り回っていたそうです。源平合戦に出陣するときにも、那須の温泉神社に祈願した話は有名です。平家物語『源平盛衰記』によると、元暦げんりゃく2年(1184-85年)、源頼朝みなもとよりとも方に加わり、源義経よしつねに従軍した“那須与一”は、源義経の命により、四国屋島沖で波に揺られていた平家方の軍船に掲げられていた「日の丸を描いた扇」を、得意の弓で射落とした、と書かれています。

    那須資隆の子として誕生。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
    『平家物語絵巻』巻十一より屋島の戦い「扇の的」
    治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ[5]、頼朝より5カ国に荘園を賜った。また、為隆を除く9人の兄達が、皆平氏に味方し、為隆も後に罪を得たため、与一が十一男ながら那須氏の家督を継ぐ事となった。与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免し、領土を分け与え、下野国における那須氏発展の基礎を築いたとされる。

    死亡時期は諸説あるが山城国伏見において死去。家督は兄・五郎資之(之隆)が継承したが、まもなく鎌倉幕府の有力御家人宇都宮朝綱の子・頼資が資之の養子となり家督を継ぎ、その頼資の子が、建久4年(1193年)に源頼朝の那須巻狩の際に饗応役を務めた(『吾妻鏡』による)光資である。

    8月には「与一祭」もある

  • 金燈籠ポケット公園があります。金燈籠交差点が大田原宿の起点です<br />【金属製の灯籠、金燈篭(かなとうろう)】<br />珍しい形ですね。<br />初代は1819年、現在のものは昭和54年建立の5代目。<br />台石は往時のもので江戸、白川と刻まれ、金燈籠は塩原道との追分道標でした。<br /><br />文政3年(1820年)に造られ、戦時中に金属供出でつぶされ、旧現在のものは昭和54年に再建されたと案内板に書いてある。但し台座は往時のもので「上町 江戸 白川」と彫られてある。<br /> この交差点は塩原道の追分であり、交差点を左に行く道は、関谷を経由して那須湯本・塩原へ向かう塩原道と呼ばれる。ここを少し行くと、左手に江戸時代から続く<br />*栃木県大田原市の中心部に金灯篭(かなとうろう)といわれる交差点があり、その西南にある米喜商店前に灯篭があり基壇の中ほどに几号が見られます。「不」の字の横棒は8.5センチメートル、縦棒は10センチメートル、地上高60センチメートルです。このあたりは旧奥州道で太田原宿といわれていました。<br /><br />【金燈籠】<br />  町人文化ノ華ガ咲キ誇ッタ文化文政ノ頃 ココ大田原宿ハ江戸ノ文化ヲ奥州ヘ伝エル旅人ト ミチノクノ産物ヲ江戸ヘ送ル商人ノ行キ交ウ宿場トシテ栄エタ<br />  タマタマ文政二年(1819)十月ニ「町内安全」ノ祈リヲコメテ建立サレタノガ金燈籠デアリ モノ堅イ人達ニヨッテ欠カサズ点サレ 旅人ヤ町人ノ目安トナリ心ノ安ラギトナッタ常夜燈デモアッタ<br />  コノ燈籠ハ鹿沼ノ技工ガ鋳タ由デアリ 本体基部ニハ當時ノ町内有志及ビ世話人三十八氏ガ鋳名サレテイル貴重ナ文化財デアッタガ 太平洋戦争末期ニ供出シ ソノ姿ヲ消シタノハ残念ナコトデアッタ<br />  ソノ後 昭和三十年七月 町内有志ニヨリ三斗小屋宿カラ金燈籠ヲ譲リウケ 百人講ノ盡力ニヨリ復元サレタコトハ 先人の意ヲ継グ自然ノ情トシテ高ク評価サレルトコロデアッタ<br /><br /> 然シナガラ時代ノ推移ニ伴ウ車ノ激増ニヨリ 金燈籠ハソノ安住ノ地ヲ失イ 十字路ノ片隅ニ放置状態ニアッタノヲ昭和五十三年八月ニ黒磯市ヘ返還ニナッタモノデアル<br />  折シモ金燈籠建設委員会ガ結成サレ 金燈籠再建ノ計画ヲ発表シタトコロ 上町内有志ヲ中心トスル各位ノ深イ理解ニヨッテ再建デキタノハ何ヨリモ幸イナコトデアル<br />  ココニ「上町 江戸 白川」ト刻マレタ台石ニ往時ヲ偲ビ 祖先ノ息吹キヲ感ジトリナガラ 建設用地提供者並ビニ別記協力者一同ニ感謝スルト共ニ 上町「金燈籠」ガ末永ク伝エラレルコトヲ望ムモノデアル<br />           昭和五十四年八月吉日 金燈籠建設委員会

    金燈籠ポケット公園があります。金燈籠交差点が大田原宿の起点です
    【金属製の灯籠、金燈篭(かなとうろう)】
    珍しい形ですね。
    初代は1819年、現在のものは昭和54年建立の5代目。
    台石は往時のもので江戸、白川と刻まれ、金燈籠は塩原道との追分道標でした。

    文政3年(1820年)に造られ、戦時中に金属供出でつぶされ、旧現在のものは昭和54年に再建されたと案内板に書いてある。但し台座は往時のもので「上町 江戸 白川」と彫られてある。
     この交差点は塩原道の追分であり、交差点を左に行く道は、関谷を経由して那須湯本・塩原へ向かう塩原道と呼ばれる。ここを少し行くと、左手に江戸時代から続く
    *栃木県大田原市の中心部に金灯篭(かなとうろう)といわれる交差点があり、その西南にある米喜商店前に灯篭があり基壇の中ほどに几号が見られます。「不」の字の横棒は8.5センチメートル、縦棒は10センチメートル、地上高60センチメートルです。このあたりは旧奥州道で太田原宿といわれていました。

    【金燈籠】
      町人文化ノ華ガ咲キ誇ッタ文化文政ノ頃 ココ大田原宿ハ江戸ノ文化ヲ奥州ヘ伝エル旅人ト ミチノクノ産物ヲ江戸ヘ送ル商人ノ行キ交ウ宿場トシテ栄エタ
      タマタマ文政二年(1819)十月ニ「町内安全」ノ祈リヲコメテ建立サレタノガ金燈籠デアリ モノ堅イ人達ニヨッテ欠カサズ点サレ 旅人ヤ町人ノ目安トナリ心ノ安ラギトナッタ常夜燈デモアッタ
      コノ燈籠ハ鹿沼ノ技工ガ鋳タ由デアリ 本体基部ニハ當時ノ町内有志及ビ世話人三十八氏ガ鋳名サレテイル貴重ナ文化財デアッタガ 太平洋戦争末期ニ供出シ ソノ姿ヲ消シタノハ残念ナコトデアッタ
      ソノ後 昭和三十年七月 町内有志ニヨリ三斗小屋宿カラ金燈籠ヲ譲リウケ 百人講ノ盡力ニヨリ復元サレタコトハ 先人の意ヲ継グ自然ノ情トシテ高ク評価サレルトコロデアッタ

     然シナガラ時代ノ推移ニ伴ウ車ノ激増ニヨリ 金燈籠ハソノ安住ノ地ヲ失イ 十字路ノ片隅ニ放置状態ニアッタノヲ昭和五十三年八月ニ黒磯市ヘ返還ニナッタモノデアル
      折シモ金燈籠建設委員会ガ結成サレ 金燈籠再建ノ計画ヲ発表シタトコロ 上町内有志ヲ中心トスル各位ノ深イ理解ニヨッテ再建デキタノハ何ヨリモ幸イナコトデアル
      ココニ「上町 江戸 白川」ト刻マレタ台石ニ往時ヲ偲ビ 祖先ノ息吹キヲ感ジトリナガラ 建設用地提供者並ビニ別記協力者一同ニ感謝スルト共ニ 上町「金燈籠」ガ末永ク伝エラレルコトヲ望ムモノデアル
               昭和五十四年八月吉日 金燈籠建設委員会

  • 金灯籠の説明が書いてある石碑

    金灯籠の説明が書いてある石碑

  • 市内で見た街道の標識石碑。<br />金灯篭交差点を左折し、その先を右折。角に道標あり。太田原宿寺町。<br />標石「旧奥州道中 大田原宿 寺町」があります。

    市内で見た街道の標識石碑。
    金灯篭交差点を左折し、その先を右折。角に道標あり。太田原宿寺町。
    標石「旧奥州道中 大田原宿 寺町」があります。

  • 【光真寺】<br />ここに太田原氏墓所がある。13代資清公から28代勝清公が埋葬されてる。<br />龍泉寺の手前を左に入ると曹洞宗大田山光真寺があります、天文14年(1545)第十三代大田原資清(すけきよ)の創建です。<br />大田原資清が両親の菩提を弔うために、この地を霊域と定めて七堂伽藍を建立しました。<br />寺号は父の法号明庵道光から「光」と、母の真芳妙観から「真」の字をとり光真と命名されました。<br />本堂の裏には第十三代資清から第二十八代勝清までの墓所があります。

    【光真寺】
    ここに太田原氏墓所がある。13代資清公から28代勝清公が埋葬されてる。
    龍泉寺の手前を左に入ると曹洞宗大田山光真寺があります、天文14年(1545)第十三代大田原資清(すけきよ)の創建です。
    大田原資清が両親の菩提を弔うために、この地を霊域と定めて七堂伽藍を建立しました。
    寺号は父の法号明庵道光から「光」と、母の真芳妙観から「真」の字をとり光真と命名されました。
    本堂の裏には第十三代資清から第二十八代勝清までの墓所があります。

  • 【郷社大田原神社】の入口<br />大田原神社は創建が大同2年(807年)と古く、藩祖の大田原資清が大田原城築城の際に文明3年(1471年)に遷座している。当初は温泉神社と呼ばれていたという。<br /><br />社は、大同2年(807年)に創建されたといい、もともと、那須郷には上社、中社、下社という3社の温泉神社が鎮座していたという。中でも大田原神社はその下社にあたり、これは大田原資清が大田原城築城に際し、下社を城の鎮守として城郭内に祠を建てて祀ったことによるという。その後、金田村中原の中宮に中田原湯泉大明神と称し奉還。更に該丘上に遷座し、湯泉神社を改めて大田原神社と称した。さらに明治37年に現在地に遷座し大田原の総鎮守として迎えられた。

    【郷社大田原神社】の入口
    大田原神社は創建が大同2年(807年)と古く、藩祖の大田原資清が大田原城築城の際に文明3年(1471年)に遷座している。当初は温泉神社と呼ばれていたという。

    社は、大同2年(807年)に創建されたといい、もともと、那須郷には上社、中社、下社という3社の温泉神社が鎮座していたという。中でも大田原神社はその下社にあたり、これは大田原資清が大田原城築城に際し、下社を城の鎮守として城郭内に祠を建てて祀ったことによるという。その後、金田村中原の中宮に中田原湯泉大明神と称し奉還。更に該丘上に遷座し、湯泉神社を改めて大田原神社と称した。さらに明治37年に現在地に遷座し大田原の総鎮守として迎えられた。

  • 石段を上がり神社境内に到着。<br /><br />【御由緒】<br />  大同二年の創建で、大田原藩祖大田原備前守資清大田原城築営に当り、城郭内に祠を建て、ニ神を奉斎し祭田百石を寄せて、奉賽の典を厚くした。<br />  爾来庶民の参拝の便を図り、金田村中原の中宮に、中田原温泉(ゆせん)大明神と称奉遷し、更に該丘上に移し、温泉神社を改めて大田原神社と称した。<br />  明治三十七年現在地に奉遷すると共に神域の拡張整備をなし、清浄たる別天地を画し、大田原の総鎮守として現在に至る。

    石段を上がり神社境内に到着。

    【御由緒】
      大同二年の創建で、大田原藩祖大田原備前守資清大田原城築営に当り、城郭内に祠を建て、ニ神を奉斎し祭田百石を寄せて、奉賽の典を厚くした。
      爾来庶民の参拝の便を図り、金田村中原の中宮に、中田原温泉(ゆせん)大明神と称奉遷し、更に該丘上に移し、温泉神社を改めて大田原神社と称した。
      明治三十七年現在地に奉遷すると共に神域の拡張整備をなし、清浄たる別天地を画し、大田原の総鎮守として現在に至る。

  • 【大田原神社本殿】です<br />  左手の高台に大田原神社が鎮座しています、大同2年(807年)の創建です、大田原の総鎮守で大田原氏歴代の崇敬をあつめました。<br />境内の永代石燈籠は近江商人中井光武が奉納したものです、中井家は宿内に出店し、陸奥への足掛かりとしました。<br />七福神の恵比寿神です。<br /><br />境内の夫婦杉は推定樹齢三百年です。

    【大田原神社本殿】です
      左手の高台に大田原神社が鎮座しています、大同2年(807年)の創建です、大田原の総鎮守で大田原氏歴代の崇敬をあつめました。
    境内の永代石燈籠は近江商人中井光武が奉納したものです、中井家は宿内に出店し、陸奥への足掛かりとしました。
    七福神の恵比寿神です。

    境内の夫婦杉は推定樹齢三百年です。

  • 太田原神社参道(裏道?)<br />清く荘厳な別天地に鎮まる大田原の総鎮守。<br />緑豊かなパワースポット。

    太田原神社参道(裏道?)
    清く荘厳な別天地に鎮まる大田原の総鎮守。
    緑豊かなパワースポット。

  • 国道461号線旧陸羽街道手前の左手に標石「旧奥州道中 大田原宿 大久保木戸跡」があります、ここが大田原宿の白河(北)口です。<br />

    国道461号線旧陸羽街道手前の左手に標石「旧奥州道中 大田原宿 大久保木戸跡」があります、ここが大田原宿の白河(北)口です。

  • 大田原城跡 天文14年(1545)大田原資清により築城され、明治4年の廃藩置県に至るまで326年間、大田原氏の居城であった。慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視し城の補修を命じ、さらに三代将軍家光は寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。戊辰の役には西軍の軍事拠点となったため、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城は免れた。

    大田原城跡 天文14年(1545)大田原資清により築城され、明治4年の廃藩置県に至るまで326年間、大田原氏の居城であった。慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視し城の補修を命じ、さらに三代将軍家光は寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。戊辰の役には西軍の軍事拠点となったため、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城は免れた。

  • 【大田原城址公園】本丸跡など、掘りなどが残っている。<br />戊辰戦争では、大田原藩は新政府軍に着き、会津攻めの拠点となった。そのため会津軍の攻撃を受けたが、火薬庫の爆発により落城を免れた。明治5年に取り壊しとなった。<br />【大田原城】<br />天文14年(1545年)、大田原資清が本丸等を築き本城とした。以後大田原氏代々の居城となる。幕府は奥州の押えとして重視して、大田原藩は明治まで存続している。今は広い広場となっており、「龍城公園」として整備されている。 本丸跡をぐるっと囲むように、今でも土塁が残されている。<br /><br />【大田原城跡】 史跡(昭和36年12月8日指定)<br />  天文14年(1545)大田原資清によって築城され、町島水口より移り、以来明治4年(1871)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城である。東西210m、南北327m、面積9.1ヘクタール。本丸、二の丸、三の丸に区画され、この外北・西両曲輪・馬場・作業場等築城法にかなった防御を第一とした要塞の地である。明治5年(1872)兵部省に引渡され、取り壊された。<br />  慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原の前、奥羽の情勢からこの地を重視して城の補修を命じ、さらに徳川三代将軍家光は寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。文政8年(1825)には火災によって焼失したが、同元年新たに造営した。戊辰の役には西軍の運事拠点となったために、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬかれた。<br />  明治19年長野県渡辺国武(大蔵大臣)の所有に帰したが、昭和12年嗣子千冬(司法大臣)これを大田原町に寄贈したので、公園として整備し、市民の憩いの場所となっている。

    【大田原城址公園】本丸跡など、掘りなどが残っている。
    戊辰戦争では、大田原藩は新政府軍に着き、会津攻めの拠点となった。そのため会津軍の攻撃を受けたが、火薬庫の爆発により落城を免れた。明治5年に取り壊しとなった。
    【大田原城】
    天文14年(1545年)、大田原資清が本丸等を築き本城とした。以後大田原氏代々の居城となる。幕府は奥州の押えとして重視して、大田原藩は明治まで存続している。今は広い広場となっており、「龍城公園」として整備されている。 本丸跡をぐるっと囲むように、今でも土塁が残されている。

    【大田原城跡】 史跡(昭和36年12月8日指定)
      天文14年(1545)大田原資清によって築城され、町島水口より移り、以来明治4年(1871)の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城である。東西210m、南北327m、面積9.1ヘクタール。本丸、二の丸、三の丸に区画され、この外北・西両曲輪・馬場・作業場等築城法にかなった防御を第一とした要塞の地である。明治5年(1872)兵部省に引渡され、取り壊された。
      慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原の前、奥羽の情勢からこの地を重視して城の補修を命じ、さらに徳川三代将軍家光は寛永4年(1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。文政8年(1825)には火災によって焼失したが、同元年新たに造営した。戊辰の役には西軍の運事拠点となったために、東軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬかれた。
      明治19年長野県渡辺国武(大蔵大臣)の所有に帰したが、昭和12年嗣子千冬(司法大臣)これを大田原町に寄贈したので、公園として整備し、市民の憩いの場所となっている。

  • 城址公園入口から大田原神社のある小山方面を見る。

    城址公園入口から大田原神社のある小山方面を見る。

  • 神社と城址公園は陸橋で繋がっていた。知らずに降りて来たので、上りを繰り返した。

    神社と城址公園は陸橋で繋がっていた。知らずに降りて来たので、上りを繰り返した。

  • 太田原宿をでると、直ぐ”蛇尾川(さび川)”。これから鍋掛宿まで歩きます<br />蛇の尾と書いて「さびがわ」とは。案内板では栃木県の方言で「斎日」のこととか、祭日を決めて、神様に身を清めてもらう行事を行った流域を流れる川の意味とのことであった。

    太田原宿をでると、直ぐ”蛇尾川(さび川)”。これから鍋掛宿まで歩きます
    蛇の尾と書いて「さびがわ」とは。案内板では栃木県の方言で「斎日」のこととか、祭日を決めて、神様に身を清めてもらう行事を行った流域を流れる川の意味とのことであった。

  • 平家の居住跡<br /> 九世紀前半この地に瀬尾家居館があり、鎮座する秋葉神社に天喜五年(1057)源義家が奥羽出征の際に戦勝を祈願し、豊臣秀吉は天正十八年(1590)奥州鎮定の際、この秋葉神社で那須資晴の子藤王丸を引見したと刻まれています。<br /><br />「古来九世紀前半 當地より西に 二〇〇間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる  平成二十一年十月吉日<br />瀬尾家本家 四十一代當主 隆志書」

    平家の居住跡
     九世紀前半この地に瀬尾家居館があり、鎮座する秋葉神社に天喜五年(1057)源義家が奥羽出征の際に戦勝を祈願し、豊臣秀吉は天正十八年(1590)奥州鎮定の際、この秋葉神社で那須資晴の子藤王丸を引見したと刻まれています。

    「古来九世紀前半 當地より西に 二〇〇間の地に 瀬尾家居館跡 瀬尾家宮跡 居館跡の回りに十社の神々の鎮座の跡が見られる  平成二十一年十月吉日
    瀬尾家本家 四十一代當主 隆志書」

  • 東山道 旧奥州街道 右陸奥の国へ出羽の国へ 左奈良の国へ<br />徳川家康が五街道を定めるまでは東山道 奥州に向かう義経も通ったことだろう〉<br /><br />天喜五年(1057)源義家が勅令を蒙り父頼義とともに奥羽領国として下向の途次、 秋葉山瀬尾(せのお)神社(市杵島姫神)當家は平家であるため脇名秋葉神社に滞陣して戦勝を祈り、東山道を通り當地に向う<br />豊臣秀吉、天正十八年八月(1590)奥州鎮定のとき、脇名秋葉神社で那須資晴の子藤王丸が会見し、この道を通り當地に向う<br />

    東山道 旧奥州街道 右陸奥の国へ出羽の国へ 左奈良の国へ
    徳川家康が五街道を定めるまでは東山道 奥州に向かう義経も通ったことだろう〉

    天喜五年(1057)源義家が勅令を蒙り父頼義とともに奥羽領国として下向の途次、 秋葉山瀬尾(せのお)神社(市杵島姫神)當家は平家であるため脇名秋葉神社に滞陣して戦勝を祈り、東山道を通り當地に向う
    豊臣秀吉、天正十八年八月(1590)奥州鎮定のとき、脇名秋葉神社で那須資晴の子藤王丸が会見し、この道を通り當地に向う

  • 瀬尾家の門柱脇に曽良句碑<br />「かさねとは やえなでしこの ななるべし」曽良<br />があります、那須野で詠んだ句です。

    瀬尾家の門柱脇に曽良句碑
    「かさねとは やえなでしこの ななるべし」曽良
    があります、那須野で詠んだ句です。

  • 一里塚

    一里塚

  • 【棚倉道追分】です、棚倉道は磐城(いわき)國棚倉へ至ります。<br />追分に元禄七年(1694年)建立の追分道標があります。<br />正面には「南無阿弥陀仏」、側面には「右たなくら 左しらかわ」と刻まれています。

    【棚倉道追分】です、棚倉道は磐城(いわき)國棚倉へ至ります。
    追分に元禄七年(1694年)建立の追分道標があります。
    正面には「南無阿弥陀仏」、側面には「右たなくら 左しらかわ」と刻まれています。

  • 街道に立つ【樹齢400年の高野槙(こうやまき)】が聳えています。<br />樹高17m、推定樹齢四百年で奥州道中三槙の一つです、与一の里おおたわら名木小滝のコウヤマキで大田原市指定天然記念物です。<br /><br />大きな高野槙(こうやまき)。昭和36年では30mあったということなので途中で折れたか。

    街道に立つ【樹齢400年の高野槙(こうやまき)】が聳えています。
    樹高17m、推定樹齢四百年で奥州道中三槙の一つです、与一の里おおたわら名木小滝のコウヤマキで大田原市指定天然記念物です。

    大きな高野槙(こうやまき)。昭和36年では30mあったということなので途中で折れたか。

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